某月某日。
前の月に女性からチョコを貰った男性が、今度は女性へ愛の籠もったお菓子を送り返す、そんな日。
……だとキランは思っていたのだが、どうやらイッシュ地方にその風習はないらしい。
遥か東の島国出身の両親が毎年お菓子を送り合っているから、てっきり大人になったらやるものとばかり思い込んでいた。子どもの内はそもそも渡す相手がいなかった。
という回想はさておき、今年めでたくキランはホワイトデーにお菓子を渡す相手を得たのである。今年の今日彼女にお菓子を渡さずして、いつ渡すのか。というか、このタイミングを逃したら自分はこれから先の人生を甲斐性なしとして生きていきそうな気がする。お菓子は貰って当たり前、お礼なんてどの辞書にもない、結婚しても家にお給料を入れないレベルの甲斐性なしになりそうな気がする。なんとしてもホワイトデーにお返しを渡さなくては、バレンタインデーにチョコを贈ってくれた彼女に――たとえそれが唐辛子入りの爆弾チョコだったとしても!
というある種の強迫観念に近いこの考えは母親によって作付けされたものなのだが、とにかくそんなわけで、キランはお菓子のお返しを持って、職場へと出勤した。チョコをくれた彼女は、職場の上司である。
「おはようございます」
息巻いてドアを開けたら、彼女がいなかった。
そりゃそうだ。当たり前だ。彼女だって急に休暇を取ることぐらいある。彼女にしては珍しいが、ないことはない。
キランは落胆した。
が、こんなことで諦めてしまうタマではない。
持ってきたお菓子を冷蔵庫に入れて、半日仕事に励み。
そして午後、一つメールを送ってから、彼女の家へと向かった。確か、ライモンシティの西、俗に居住区と呼ばれる区域の中でも更に西のほうに住んでいると言っていたはずだ。お菓子に保冷剤を入れて、いざ出発だ。
結果としては徒労だった。
やっぱりどこら辺に住んでいる、という情報だけで住家を見つけるのは無理だった。先に住所を聞いておくべきだった、とごくごく当たり前のことを後悔しながら迷うこと十数分。レンリから返信が届いた。
『家じゃなくて公園に持っていって』
気の利いたことに、公園の地図も添付してあった。
今度こそ意気揚々と目的地へ向かう。着いたのは住宅地に三方を囲まれて、標準サイズのバトルフィールドを一つだけ抱えた、小さな公園。
その中央で蠢く、黒い塊。
「レンリさん?」
声をかけると、黒い塊がばっと崩壊した。そして中から現れたレンリ。
……何事?
近付いてみると、黒いのはゾロアの群れだと分かった。
少なくとも両手に余る数のゾロアたちが、レンリの肩や頭や背中に乗っかって、うにゃんうにゃん、と鳴いていた。
「ちょっとうるさいよお前たち……ああ、キラン」
ゾロアを膝に乗せて撫でていた彼女が、振り向き、微笑む。直前までポケモンの相手をしていた所為か、素の笑みもさることながら。レンリが地べたにペタリと座っているから、レンリがキランを見上げる形になっていて、いつもと違う目線で、緊張で、お菓子の箱を持つ手がビリビリした。
いや、これは緊張ではないような気もする。
レンリの紅色の目がキランの手元に動く。そして、口を丸い形に開けた。
「ケーキ?」
膝の上のゾロアがぎょん! と鳴いた。そして続けて、「さっき言ったじゃん」とゾロアが喋った――気がした。キランの目は、丸くなったと思う。レンリは目を伏せ、宥めるようにゾロアの鼻に手を置いた後、「そうか、じゃあ、それは貰って帰ってもいいのか?」と静かに問いかける。
さっきゾロアが喋ったのは気の所為だ。キランはそう思うことにした。彼女の言葉にキランは頷き、ケーキの箱を渡しかけて――手を引いた。
「どうせなので、家まで僕が持っていきますよ」
重くもない物だけれど、どうせなら、とキランは思った。
キランの反応に、レンリは首を振った。慌てたのか、短く切り揃えた髪が首の動きに合わせて翻るのが、目新しい。
「それは」レンリの声が喉に詰まったように、縮こまる。「ちょっと、ほら。散らかってるから」
キランはそんなレンリの姿に、思わず笑みを零した。クールアンドビューティーで通っている彼女だけれど、こういう、人並みに抜けたところもあるのだなあ、と思って。
「構いませんよ」
「いや、私が構うんだ」
「部屋が散らかってるくらい」
「私が怒られるから」
これ以上押しても引きそうになかったので、「じゃあ家の近くまで」と折衷案を出す。それで納得してくれたようで、レンリは笑顔で頷いた。その飾り気のない笑みに、キランの手がまたビリビリした。
「じゃあ、行こうか」
「いいんですか?」
「ああ。今日の訓練もそろそろ切り上げるから」
立ち上がって砂を払うレンリにキランは質問をして、直後、その質問の内容が頭からぶっ飛んだ。質問は会話の流れで出たものだろう。そんなのはどうでもいいのだ。
だって、彼女が。いつも白無地のカッターシャツに黒のパンツスーツという格好のレンリが、である。裾に飾りのあるブラウスに、スカートを着用していたのだ。キランは軽く裏切られた気分になった。勿論、いい方の意味で。残念ながらストッキングを履いているから肌の色は見えないが、と、ここいらでキランは意志の力をフル稼働させて、レンリから目を離した。レンリがイリュージョンの鳴き声を化かすやつの応用でどうこう、言っていた気がするが、全然頭に入っていなかった。
「じゃ、家、こっち」
そう言って差し出された右手を疑いもなく手に取って。ボーッとなったキランの頭では、ケーキを水平に保つので、精一杯だった。
右手にケーキの箱、左手にレンリの手。これは通行人から見ると恋人同士に見えますかね、なんて夢想するのが定石だが。レンリの後ろには、ゾロアが列を作ってぞろぞろあ。定石を使うには、ちょっとこいつらが邪魔。キランの顔に出ていたのだろうか。目が合ったゾロアに唸られてしまった。
そんなゾロアより、レンリの横顔を見ることに専念する。これはこれで不服らしく、さっき目が合ったゾロアに、先程よりも大きな声で唸られる。
レンリがその子を、「行儀が悪い」とごく穏やかに叱った。それでゾロアの唸り声はピタリと止んだ。
「悪いな」レンリが謝った。ただそれだけの言葉なのに、キランの心臓あたりで何かが熱くなった、ような気がした。
「休日までゾロアの訓練って大変ですよね」
労い半分で、キランは言った。残りの半分は、浮かれ気分だろう。
「いつもやってることだから」
そんなキランに、レンリはいつも通りの素っ気ない返答――ではなく、少しはにかみながらの返答を寄越した。ように見えたのは気の所為だろうか。
自分は思った以上に浮かれているのかもしれない。浮かれた足を地につけようと、キランは、ボーッとした頭で当たり障りのない質問をチョイスした。
「そういえば、今日休みって、急でしたね」
レンリがチラリとこちらを見て、正面に目を戻した。
「そういうものじゃないのか?」
「え?」
「えっと?」
疑問符を出したキランに、レンリも疑問符を突き返し。キランは疑問符を解消しようと、さらに質問を重ねた。
「レンリさん、いつも前もって休みの申請するから、珍しいと思って」
「でも今日のは……ああ、それで」
ふふ、とレンリが口の端を上げて笑う。
キランが何か聞き返す前に、レンリの白い手がするりと抜けて、道の向こうを指し示した。
「あそこに寄ってもいい?」
指された先を見た途端、キランの心臓が数センチ跳ね上がった。
ショッピングセンター。これはもしかすると、デートの範囲内に入れてもいいんじゃなかろうか?
「上手に化けられるやつだけ、入っていいぞ」
レンリの号令に、今まで後ろについてきていたゾロアたちが、わっと散開した。上手に化けられるやつだけ、とは言ったが、人間の子どもと見分けのつかない者もいれば、耳も尻尾も付いたままのやつもいる。いいのかな、とキランはレンリを窺うが、レンリはそんなことは気にしない様子で、「行こう」とだけ言った。
「あ、そうだ」
大股で一歩踏み出した直後、レンリがこちらを振り返った。
「この服、どうだろうか」
「似合ってますよ」
反射で答えて後、もっと気の利いたことを言えばよかったと後悔する。
「そう」
淡白に相槌を打つレンリの表情は、背を向けているから、見えない。
迷いなく店の中を進むレンリの背を、キランは早足で追っていく。彼女は脇目もふらず、ファッションブランドの一つへと吸い込まれるように入っていった。キランも続けて入ろうとして、半ば儀礼的に、通路向けにいくつかディスプレイされているマネキンに目をやった。そしてあることに気付き、ひとり笑みを零す。このマネキンとレンリさんのコーディネート、一緒じゃないか。
服選び、慣れてないんだなあ。上司の知られざる一面に、またキランの頬が緩む。その上司は、ハンガーに掛かっている上衣を一つ一つ、繊維まで検分するような真剣な眼差しで見ていた。
「何かお探しですか?」
店員が近付くのにも気付いていなかったらしい。レンリは驚いたのを取り繕うように背を伸ばすと、「えっと」と言い淀んで目を泳がせた。
その目がキランの上で止まった。
彼女の視線を辿った店員は、察したように身を引いた。
「えっと」
なおも戸惑っているレンリに近付いていく。
「僕も見てみて、いいですか?」
コクリ、と頷いた彼女の左側に堂々と立って、右手に持っていたケーキの箱を、左手に持ち替えた。持ち直したケーキの箱の重みを感じて、キランはちょっと申し訳なく思った。
キランは服を眺めるふりをして、密に並んでいるハンガーをランダムに動かした。女性の服のことは分からないのだが……服を吟味しているように見えるキランの右手に、レンリの視線がじっと降り注いでいるのを感じる。
「あ、こんなのはどうですかね」
いくつも並んだ色違い、ディティール違いの服の中からキランが直感で選んだのは、薄紅色のフリルタンクトップに、白のカーディガンの組み合わせ。さり気なく選んだつもりだが、声がちょっと上擦った。気付かれませんように。
レンリが体を回して、キランの手からワンピースを奪い取った。
「じゃ、これにする」
「試着しなくていいんですか?」
「多分、入るから」
そういう感覚はレンリらしい。彼女は服を両手で持ってレジに直行して、会計を始めた。
「では一点、お会計で」と店員が言うと、それを手を振って遮って、店の外側を眺めているマネキンの一つを指差した。
「あれ、全部ください」
全部ですか、と店員が目を剥く。そして、剥いたままの目で上から下までレンリをジロジロと見た。失礼ではあるが、キランも、この反応は仕方ないと思った。誰だって、今着ている服と全く同じ服を買う人がいたら、奇妙に思うだろう。後でどうしても必要になるから、とレンリは口ごもっていた。
「少々お待ちください」
店員はそう言って、バックヤードに引っ込んだ。変な注文でも、売らない理由もないらしい。レンリはというと、キランを振り返って、困ったように笑っていた。
本当に少々の時間で店員が戻ってきて、精算を済ませた。ブランドのロゴが入った大きな紙袋を片腕に掛けると、レンリの口元にいつものいたずらっ子のような笑みが浮かんだ。そして、その笑みのまま振り向いて、キランの訝しげな目に気付いて、さっとその笑みを消した。それから、重たい紙袋に伸ばしたキランの手を、そっと断った。
「もう後は家に戻るだけだから。ゾロアたちを探さないとな」
「場所、分かるんですか?」
キランが尋ねると、レンリが破顔した。
「あいつらの行く場所って、だいたい決まってるから」
彼女の言う通りだった。食料品売り場のポケモンフーズコーナーで半分、家電売り場のゲーム機の試遊台で残り半分を捕まえると、来た時と同じく、真っ直ぐショッピングセンターの出口へ向かった。
外に出てすぐ、風がキランの顔にぶつかってきた。しかし、真冬の肌を切るような冷たさは感じない。もう生温い、春の日和だった。
「行こうか」
今度は手を繋がない。二人、並んで、後ろにゾロアを並ばせて、太陽の下を歩幅を合わせて歩き始めた。ふと思い出して、キランはケーキの箱に手を当てた。保冷剤は、まだギリギリ大丈夫だ。後は、渡すかどうかだけが問題だ。ケーキの温度の心配が消えると、次は会話がないのが寂しくなった。
「暖かくなってきましたね」
「そうだな」
次の台詞を考えている内に、それらしいアパートが見えてきた。二階建ての、こじんまりしたアパートだ。白く飾り気のない外壁の隅の方にに、薄いヒビが入っていた。
「じゃあ、ここで」
レンリが右手を差し出した。
それで、キランの迷いが消えた。キランはケーキの箱を、彼女に渡した。
「では、また明日」
「ああ、また明日」
当たり障りのない紋切り型の挨拶だけ交わして、キランはその場を去った。自分は、当たり障りのないことを言うのは得意なのだ。そんなことを思いながら。
○
「ただいま」
その声に、レンリは「遅い」と怒った。それを笑って躱して、声の主はサイドボードにケーキを置いた。
「言われた通り、ケーキ、貰ってきましたよ」
「どこ寄り道して」
レンリの小言は咳の音で中断した。彼女はこうなることを予想していたのだろう、先回りして、何もかも白状した。
「ショッピングセンターです」
そして、紙袋をベッドの脇に置いた。ベッドから首を出して、袋の中身を確認して、レンリは盛大に顔をしかめた。
「お前、勝手に何買っ」咳。
布団の中に手を入れて背を擦りながら、“レンリ”は明るい笑い声を立てた。
「だってレンリさん、こういうの全然買わないじゃないですか。大丈夫、似合いますよ。キラン君の見立てですから」
ベッドの中で立て続けに咳をしながら、レンリが“レンリ”を睨んだ。“レンリ”はそれも笑って躱して、そして、イリュージョンを解いた。ゾロアの進化形、ゾロアーク。
「あ、それから」ゾロアークは事も無げに喋り出した。しかし、口は動いていない。イリュージョンの応用でそう“聞こえさせている”だけなのだ。
ゾロアークはニヤリと笑う。
「今度から普通に、病気休暇を取ったら如何です?」
「サクラ、うるさい」
「どういう趣向かは聞きませんけど」
「うるさいってば。あんまり言うと追い出すぞ」
口ではそう言いつつ、実際にはやらないと分かっているからか、サクラは余裕の笑みを浮かべている。
レンリはベッドから抜け出した。そして、サイドボードに置かれた箱を開く。
中から現れたのは、溶けた保冷剤に囲まれた、一口サイズのケーキ。サイコロ型のかわいいサイズ。層ごとに明るさの違う緑色は抹茶を思わせる。
「美味しそうだなあ。こんなのが貰えるんだったら、バレンタインは唐辛子チョコにしなきゃよかったなあ」
レンリの軽い懺悔に、サクラはノーコメント。レンリもレンリでケーキで意識がいっぱいなので、彼女の反応を気にせずにいる。
眼前のケーキにお皿を出すのも待ちきれず、付いていたプラスチック製のフォークを手に取って、サイドボードに置いたまま、ケーキに突き刺した。その様子を、サクラがじっと見つめていた。
一口サイズのケーキは、一口でレンリの口の中に消えた。甘い抹茶クリームを味わうように目を閉じて、刺激に不意を打たれて慌ててケーキを飲み込んだ。
レンリは黙ってベッドに戻り、布団を被った。それでもなお、鼻を突くような刺激は続いている。
「わさびケーキだった」
「そりゃあ、そうでしょうね」
一部始終を見ていたサクラは、したり顔で頷いた。
「バレンタインのお返しですものね」
レンリは手を伸ばして、箱に入った保冷剤を掻き分けた。そして、何もないことを知ると、諦めて布団の中に戻るのだった。
(あとがき)
大遅刻。