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  [No.3236] 天原フォークテイル〈2〉 投稿者:リナ   投稿日:2014/03/21(Fri) 00:32:11   48clap [■この記事に拍手する] [Tweet]

スレが長くなってしまうのも邪魔くさいので、分裂。
「天原フォークテイル」スレットの8の続きです。


  [No.3237] 投稿者:リナ   投稿日:2014/03/21(Fri) 00:33:56   54clap [■この記事に拍手する] [Tweet]


 私たちはこれから受験生になって、各々それなりに勉強して、滑り止めをどこにするだとか散々悩んだりして、進路を決めていかなきゃならない。落ち着いて、慎重に次の一歩を選び、踏み外さないようにしなければならない。
 奇妙な錯覚だけど、私たちにとって天原を守ることよりも、落ちこぼれないように高校へ進むことの方が、何倍も大事なことになってしまっているのだ。
 でも、美景ちゃんに「力を貸して欲しい」と言われたとき、思ったのだ。
 私はここまでずっと守られてきた。生まれた時から、特別不自由を感じることもなく、ただ守られて暮らしてきたのだ。お父さんとお母さんに、今まで関わってきた大人たちに、守られてきた。この町に、そしてもろの木さまに、守られて育ってきた。
 もし本当に、天原町がとてつもない危機に直面しているのなら、私はもちろん守りたいと思う。もし「銭湯ゆずりは」が「銭湯ゆずりは」でなくなってしまうなら、私は何とかして防ぎたいと思う。
 決心の付かなかった気持ちも、冷やされて凝固していく蝋みたいに、硬くなった。そう、熱くなったというよりも、冷やされたという表現がしっくりくる。ゆっくりゆっくり、そして静かに静かに「守る」ということを考えている自分が、ちゃんといる。それはたぶん、柿倉の病院で、小さくなってしまったユズちゃんのおばあちゃんを見たからだと思う。
 美景ちゃんとは、また次の土曜日に合う約束をした。ユズちゃんが持っている可能性のあるという「火行」の気の引き出し方については、コノに心当たりがあるという。美景ちゃんはこれからの策について、神子の名のもとに、獣(しし)たちに根回しを行うらしい。職権乱用にも近いと、コノはぼやいた。ユズちゃんは来週までに父親を「ツメてやる」のだそうだ。
 私は結局、前にもろの木さまの「御言葉」を聞いたことも、黒く染まってしまっていた美景ちゃんのことも、言うことができなかった。あの世界のことは、ユズちゃんにも話していない。
 そして、もろの木さまが、美景ちゃんを「助けたい」と言っていたことも、私はまだ一人心の中に留めてある。
 少し時間がかかりそう。私はその日の夜、布団に潜って天井を見上げながら思う。
 でも、その方法は必ず見つける。それを私の宿題にした。

 木枯らしは、もう冬の匂いだった。
 十一月に入り、天原の空気も一層冷え込んできた。もともと朝起きるのはすごく苦手だったけど、日を追うごとに私の身体は布団から引き剥がされるのを嫌がっていった。
 そして月曜の朝、私はついに寝坊をしてしまった。
 朝ごはんも食べずに、寝癖を爆発させたまま、朝もやのかかる畑の畔道を全力疾走する羽目になった。収穫の終わった畑には、ところどころ霜が降りている。呼吸するたび、凍りそうなほど冷たい空気が肺に入り込んできて、胸の辺りがひりひりと痛む。それを我慢して、風で飛ばされそうになるマフラーを押さえながら、私は畦道から舗装された道路に出ようとした。
 そのとき、誰かに名前を呼ばれた。私は急ブレーキをかけて立ち止まった。
 何か忘れものをして、お母さんに呼びとめられたのかと思ったけど、振り返っても誰もいない。周りには裸になった津々楽農場と、葉を落として冬に備え始めている木々だけ。
(もののけさん?)
 一瞬そう思った。天原にはコノ意外のもののけさんも住んでいるはずだ。もうどんな生き物が出てきても、私は驚かないつもりだった。むしろこっちは急いでいるわけで、何か用があるならさっさと出てきてほしい。
「――ごめん! 誰かは知らないけど、後にして!」
 うん、今は困る。一刻の猶予を争う状況だ。テストで内申点を稼げない私にとって「遅刻1」は痛い。しかも厄介なことに、三橋先生はときどき時間より少し早く教室に来るのだ。
 私は地面を蹴って、学校へ急いだ。

「あ、茉里おはよー。今日ぎりぎりだったね。珍しいじゃん」
 チャイムの鳴る二分前に教室に滑り込んだ私の机には、ユズちゃんが座っていた。まだ先生は来ていない。間に合った。
 ユズちゃんは後ろの席の千夏(ちなつ)とおしゃべりしてたみたいだった。後ろ向きに座っている――ユズちゃん脚、開きすぎ。
「おはよー。はぁやらかしたよ。布団からなかなか出れなくて。もうなんで冬って来るの?」
「それはね、まず地球の地軸が二十三・四三度傾いていることから」
 千夏がかけている眼鏡を直して、説明をし始める。
「あ、千夏センセイ。大丈夫ですので」ユズちゃんが千夏のおでこ目がけて、軽くチョップした。千夏は舌を出して笑っている。
 川崎千夏。二年一組の学級委員長だ。時々あだ名で“センセイ”とか“キョウジュ”なんて呼ばれている。あだ名が表している通り、とっても物知りな女の子だ。定期テストではいつも学年トップを争っているし、先日結果が返ってきた実力テストでも軒並みA判定を叩きだしたらしく、その力が揺るぎないものだということが証明された。最初の頃は彼女自身「優等生」として扱われるのが苦手だったみたいだけど、二年生に上がってからは、ちょうど今みたいに自分のキャラクターをネタにして本人が遊んでいた。「センセイネタ」は、本当にどんな話題でも返ってくるし、ハマるとめちゃくちゃ面白い。クラスでも人気を博している。最近では、古川君がライバル視しているとか、していないとか。
「センセイ! 朝起きれるようになるには、どうすればいいんですか?」
「気合い」
 私の質問はユズちゃんによって雑に跳ね返され、センセイに届かなかった。
 チャイムの音が、朝のホームルームの時間を知らせる。お行儀悪く椅子にまたがっているユズちゃんを追っ払って、私は自分の席に座った。ユズちゃんはあくびをしながら、ぺたぺたと自分の席へ戻っていった。
「ねえ茉里?」千夏が後ろから私の背中を突っつく。
「ん?」
「ユズちゃんち、もう落ち着いたの? 銭湯のおばあちゃん倒れたって、うちのお母さんが言ってて」
 振り返った千夏の表情は、彼女が唯一苦手にしている国語(苦手といっても、私よりは断然良い)のテストが返されるときみたいだった。
「ユズちゃんには聞いてない?」
「聞けないよ。さすがに」
 千夏は、自分の席で頬杖をついているユズちゃんをちらりと見た。
「大丈夫、心配しないで」私は口元で笑顔を作る。「ユズちゃんには普段通り接してくれていいから」
 先週ずっとユズちゃんは学校を休んでいたから、今クラスの関心は彼女に向けられていた。窓側の一番前に座っているユズちゃんの背中に、ちらちらと視線が浴びせられている。
「うん。なんかごめんね。たぶん、もうクラスにも結構広まっちゃってると思うんだ」
「噂好きだからね、うちの中学」
「ほんと、困るよね。でももしユズちゃんにちょっかいかけるやつとかいたら、私、委員長権限発動するから」
 千夏は両手を握りしめ、なぜかファイティングポーズをとった。
「ありがと。千夏にそう言ってもらえると心強いーーあれ?」
 ペンケースをだそうてして鞄を漁っていた私は、内容物の妙な物足りなさに気が付く。そして、改めて寝坊したことを後悔した。
「どうしたの茉里?」
「ーー最悪。お弁当忘れた」

 天原中の二年生は全四クラス。一クラス三十五人前後でまとめられている。ランダムに振り分けられた三十五人のはずなのに、四つのクラスそれぞれ、ある程度の色があるのが面白い。スポーツに強い子が集まっていたり、可愛い女子がかたまっていたり。
 我が二年一組については、才能が多彩な子たちが集まったと言われている。博識な千夏、運動神経の良いユズちゃん、絵が上手な佐渡原君に、ギャグセンスのある古川君。吹奏楽部で一緒のみなっちも一組だけど、彼女はトランペットの傍ら、ダンススクールに通っているのだ。
 横笛が吹けて良かった。そんなふうに、こっそりと思うときがあった。
 朝のホームルームに来た三橋先生は、いつも通りだった。いつも通り日直の号令で挨拶をし、いつも通り出席を取り、いつも通り短めに、あっさりとホームルームを終えた。こういうところが、お父さんの言う「分かってる人」なところなんだと思った。ユズちゃんはホームルーム中、ずっとぼんやり窓の外を見ていた。
 一時間目から体育だ。どうせならお弁当じゃなくてジャージを忘れればよかったのに。ダサい青色のバッグのファスナーを開けると、ティーシャツと一緒にちゃんと上下セットで入っていた。
「あたしのミートボールあげるって。だからそんな不細工な顔するんじゃない」
 更衣室に向かう途中、お弁当のことをユズちゃんに話すと、そう言われてつむじにチョップをもらった。
 体育館へと続く渡り廊下は、冷たい風に吹き曝されていた。トタンでできた雨よけの屋根が付けられているだけなので、冬場はみんな駆け足でその廊下を通り過ぎていく。その度に、太い釘で打ち付けられた木製の板がばたんばたんと大きな音を立てた。
 天原中学校は、大正時代の初期に建築された木造和風校舎だったが、改装を何度か繰り返して今の姿に至る。改装といっても、立派なエントランスがあったりとか、快適な空調設備が整ったりしている訳ではない。最低限必要なところを修繕してきただけといった感じで、年季の入った木材が、今でもところどころむき出しになっていた。
 廊下に使われている木材は黒くくすんでいて、特にてかてかと光を反射しているところは滑りやすくなっている。柱という柱には、大先輩たちの下品な落書きがこっそりと生き残っていて、ときどき面白いのを見つけてはユズちゃんと大笑いしていた。掃除用具もかなり年代物だ。箒の穂先がまっすぐに保たれているものを、私はこの中学校で見たことがない。用具入れの中は軒並みひどいカビの臭いがした。
 教室に冷房はもちろんない。でも、今年の夏は特に真夏日が続いたので、授業中には取り出さないという条件付きで、うちわの持参が許可された。冬は灯油ストーブがクラスに一台置かれ、休み時間にはみんなの人気者になる。
 建設された当時は子供の数も多かったのか、空き教室が目立つ。そこには使っていない椅子や机だったり、昔の文化祭で作ったらしい看板や木の骨組みだったり、その余りのベニヤ板だったり、赤と白のストライプのコーンだったりが整然と置かれていた。誰かと秘密の話をするにはぴったりの場所だ。
 二時間続きの体育は「マット運動」という死ぬほど退屈な内容だった。開脚前転で既にギブアップの私には、体育の小西先生から出来るだけ死角になるように行動するだけの二時間になる。躍起になってバク転を成功させようとしている運動部の男子を横目に、私はユズちゃんを盾にして身を隠していた。
「茉里、中間の勉強してる?」
 ユズちゃんがジャージのファスナーをいじりながら訊いてきた。
「ううん、手付かず」
 来週の火曜に迫った中間テストのことなんて、正直ほとんど頭から抜けていた。範囲表は先週配られたと思ったけど、全然目を通していない。
「ヤバいよね。今回全然やる気起きないし、歴史とかもう爆発しそう。なんとか大名って多すぎ」
「私英語。全然単語が頭に入ってこない。不定詞もよくわかんないし」
「勉強会開いてさ、千夏に教えてもらおうよ」
「賛成」
 ふと機会運動用のマットを見ると、ちょうど千夏が伸膝後転を成功させたところだった。千夏はあんなに勉強ができるのに、運動だってそつなくこなせてしまう。歌も上手だし、笑ったときのえくぼも可愛いし、学級委員でみんなから頼られる。広い知識を生かして、面白いことも言える。
 みんなが羨ましがるようなものを、彼女は大抵持っているのだ。そう千夏に言うと、いつも穏やかな笑顔で返される。「私は茉里みたいにフルート上手に吹けないし、目も大きくないし、色白でもないから。茉里は私の羨ましいって思うもの、たくさん持ってるよ」という具合に。
 そういうオトナなコメントができるところも、やっぱり羨ましい。そして、羨ましいと思ってばかりいる自分に気がつく。そういう自分はすごく子供っぽいということに、気がつく。
「センセイ! ちょっと折り入ってご相談が!」
 ユズちゃんは列から抜けて、乱れた髪を直している千夏に駆け寄っていった。
 ほとんど体を動かしていないくせに、体育の授業を終えた頃には、なんだかひどく疲れた感じがした。ユズちゃんと千夏とは放課後に図書室に寄る約束をした。部活はテスト期間で、今週から休みになっている。
「完全下校までねばるからね。あなたたちには覚悟はあるのかしら?」と、ユズちゃんは台詞を読み上げるように言った。けど、大抵勉強会でいち早く音を上げるのはユズちゃんだ。
 教室に戻ると、私の机の上にあるものが置かれていた。
 見慣れた赤色の包みに、猫のイラストが描かれた箸入れが添えてある。
「嘘。私のお弁当だ」
 寝坊したせいで忘れてきたお弁当箱が、まるで当たり前みたいに、そこにあった。
「お母さん、届けてくれたんじゃない?」と千夏。
「よかったじゃん。今日飯抜きにならなくて」とユズちゃん。
「うん」
 ひっくり返したり、包みを開いたりしてみたけど、ちゃんと私のだ。
「お礼、言わなくちゃ」

 さて、あれは確か、ちょうど九月の始まる頃だった。
 この学校を賑わせた「座敷童」の噂は、もうほとんど過ぎ去りつつあった。一番盛り上がっていた時期には、各クラスに「デスク」がいて、廊下を走り回る「リポーター」が情報を流して、みんなその「即席マスメディア」にかじり付いていた。今ではまた新しく、十一月にある合唱コンクールのこととか、間髪いれず無慈悲にそびえる「二学期期末試験」のこととか、気の早い子たちはもうクリスマスまで話題が及び、「座敷童」のことなんてもう随分昔のことのように扱われていた。
 だから、昼休みに古川君に声をかけられたとき、どきりとした。
「なあおまえらさ――」
 机を向い合せにして、いつものようにお昼ご飯を食べていた私とユズちゃんに、古川君はちょっと遠慮がちに言った。
「この前、座敷童と話してなかった?」
 私はちょうど口に入れようとしていたウインナーを、ぽとりと落とした。ユズちゃんと目が合い、丸々五秒、ぱちくりさせた。


  [No.3295] 10 投稿者:リナ   投稿日:2014/06/15(Sun) 22:00:46   61clap [■この記事に拍手する] [Tweet]


 確かな設計力と、きめ細かいアフターケアが売りの「古川工務店」は、商店街の一角に事務所を構えている。繁忙期は職人さんが絶えず出入りしていて、棟梁が下っ端の若い職人さんにやたらめったら檄を飛ばしているのをよく見かける。小さい頃はそれが怖くて、そばを通らなければならないときは両耳を塞いで一気に走り抜けていた。ただ、休憩中にはみんな缶コーヒーを片手に笑い合っているから、きっと大工さんって、怒鳴るのも仕事なんだなと思っていた。
 さて、そこの長男坊が、今私たちの目の前にいる男の子。
 古川颯太郎(ふるかわそうたろう)。実際彼が真顔で話しかけてくることは、群れを率いる雄ライオンがわざわざ狩りに参戦するときくらい珍しいことだった。だっていつもの彼は、この教室が落語の寄席か何かだと思い込んでいて、勝手に人だかりを作って、休み時間をめいいっぱい使って、よく回る口でたくさん笑いを取って、そして授業中は死んだように寝ている。古川くんは、そういう星に生まれた人間なのだ。
 私とユズちゃんはお互いの目だけで、大量の情報をやり取りした。どこから話す? 最初から? 途中から? いや、話さない? 隠しておく? 嘘ついとく? しらばっくれる? それとも……モールス信号みたいにユズちゃんのまぶたが瞬く。
「おいシカトかよー。話してたろ? 駅前のベンチで」
「いや、その」
 作り笑いで古川くんを見上げたら、まともに目が合ってしまった。何か取り繕おうとしても、言葉は喉のところで渋滞していた。お盆にテレビでよく見る、帰省ラッシュの高速道路みたいになっている。
「友達だよ。私立の中学校に行ってるの」
 ユズちゃんが渋滞してる車の隙間を走り抜けた。小回りの効くバイクで、颯爽と。
「友達? お前ら座敷童と友達なのかよ!」
 本当に古川くんは、無駄に声が大きい。
「だから! 座敷童からは離れてよ! 人間だから! ホモサピエンス! オーケー?」
「紹介してくんない? おれ一回話したかったんだよな、座敷童と」
 ユズちゃんは頭をがりがりと掻きむしった。ショートを守っている古川くんは、野球部でも随一の守備範囲を誇るくせに、人の言葉を捕球する気はさらさらないらしい。
「……ってことはさ、あいつのことも?」
 古川くんが声を潜めた。彼がこうやって真面目な顔をするのは、やっぱり慣れない。
「あいつ?」ユズちゃんが首を傾げる。
 この後彼が言い放った言葉で、私たちは思い出す。古川くんは、噂を広めるのに一役も二役も買っていて、色んな尾ひれはひれをくっ付けた張本人で、目撃者の一人でもあった。
 そして実際に“見た”と言っているのは、私は今のところ古川くんしか知らなかった。
「いっつももろの木さまの近くにいる、緑の獣。あれのことも、なんか知ってんのか?」
 瞬間、私はほとんど無意識に立ち上がった。勢いよく床を擦った椅子が、大きな音で呻いた。
「コノが……古川くんもコノが見えるの?」
「それって、あの生き物の名前?」
「本当はもっと長い、神様みたいな名前だけど」
 コノハナノトキツミノミコト。ちゃんと覚えている。普段は端境(はざかい)というバリアのようなものを張っていて、普通の人には見えない。見えるのは、コノと同じ「木行」が開いているか、他の五行のうちどれか一つを二段階開いている人だけ。それは「神子」と呼ばれる存在で、神子は八百万の獣たちの話す言葉も聞くことが出来る。
「古川くんは、“気質”の持ち主なの?」
「キシツ? まあそんなに荒っぽい方ではないけどなあ。どちらかというと人に優しく自分に厳しく、一途に人を想うタイプで」
「違くて、五行のこと」
「ん? 何のこと?」
 話が通じない。
「ちょっとここじゃあさ」ユズちゃんが箸を置いて、辺りを見回しながら言った。「古川、野球部も今週から休みでしょ? 放課後、ちょっといい?」
「ああいいよ。場所は? 体育館裏とか? 告白だったらおれいつでも受け付けてっからさ」
 親指を立てる古川くんを、ユズちゃんは睨みつけた。
「うるさいっ。とりあえず、『サンノゴ』に来てくれる? 愛の告白よりも真剣な話」
「なあ杠、愛の告白だって、一般的には誰しも真剣だぞ」
「ああもう、面倒くさいからいちいち拾うな!」
 素早く放たれたユズちゃんの脚を、古川くんはぎりぎりで避けた。
「わ、悪いって! 一応、おれもマジだよ――夏くらいからさ、よく分かんないものが見え始めて、ちょっとどうしようかと思ってたんだ」
 古川くんのその口ぶりは、実際それほど不安そうなものではなかった。テスト前日の古川くんの方が、この何倍も狼狽していた気がする。
「あ! ユズちゃん今日はだめだよ。放課後は千夏と勉強会するって」
 図書館でセンセイにご指南いただく約束を、危なくすっぽかすところだった。
「そっか、でも……」
 ちょっとだけユズちゃんは口に手を当てて考えた。教室の前の方で友達とお弁当を広げている千夏を見る。
「ねえ茉里」
「ん?」
 ユズちゃんの顔は、あの十月の半ば頃の「座敷童に会いに行こう」と言い出したときと同じだった。
「千夏も巻き込んじゃおうか?」
 何も知らずに笑っている千夏が、気の毒になった。ごめん、センセイ。

 誰にも聞かれたくない秘密の話をするのには、スペースの半分以上が物置になっているこの空き教室が最適である。特に、私たちが今忍び込んだ三階の三の四横の空き教室、通称「サンノゴ」は、校舎の隅っこで廊下は人通りが少ない。めいいっぱい備品が詰め込まれているので、隙間から奥の方に入れば完全に外から死角になる。しかもサンノゴの奥には畳二つ分ほどの空間があり、都合良くパイプ椅子まで置いてあるのだ。
「良かった。今日は“空席有”みたいね。まあテスト前だし」
 誰が決めた訳でもなく、この部屋にはルールが出来ていた。サンノゴを使うときは、でかでかと立てかけてある「第十三回天原中学校祭」の古い看板を裏返しておく。使いおわったら、元通り表にしておく。そうすることで「偶発性社会的不快感」を未然に防いでいる。
「中間テストの勉強には、あんまり向かない場所だよね――それに、なんで古川くんがいるの?」
 千夏は連れてこられたサンノゴの埃をかぶった机を見て、目を細めた。
「いやー参っちゃうよね! 人生がモテ期のおれもさ、さすがに一度に三人の女の子から攻め寄られると――痛っ!」
「古川うるさい! でかい声出さないで!」
 古川くんの脇腹を、ユズちゃんが肘でえぐった。
「出そう、昼食った生姜焼き、出そう」
 体を大きくくの字に曲げている古川くんを後目に、ユズちゃんは学校祭の看板を裏返した。
  奥のスペースにあるパイプ椅子に、埃は被っていなかった。三年生中心に、頻繁に利用されているのだろう。
「どっから話せばいいのかね。ホントかウソかも分かんないくらい、突拍子もないな内容だし」
 腕を組んで、ユズちゃんが窓の外を仰いだ。秋らしい、高い青空が広がっている。
 私とユズちゃんで、行ったり来たりしながらも、これまで怒ったことを二人に話した。座敷童の正体は、麗徳学園に通うエリート女子中学生だったこと。この天原が、何らかの危機的な状況にあるらしいということ。それを美景ちゃんは「毒が入り込んでいる」と表現したこと。今それを辛くも食い止めているのが、他でもないもろの木さまだということ。もろの木さまにはお付きのもののけさんがいて、名前を「コノ」ということ。美景ちゃんは、直接もろの木さまの「御言葉」を聞いて、天原を救う手だてを知ろうとしていること。そして、私とユズちゃんもそれに協力しようとしていること。
 ユズちゃんは、自分の家のことも、二人に伝えた。人に話したりしたくなるような出来事は何一つないのに、まるで最近見た映画のストーリーを話すみたいに、ユズちゃんは朗々と語った。おばあちゃんの容態のことや、お父さんとの関係のことを話すユズちゃんは、時々ひどい悪態までついた。千夏が困った笑顔で、私のことをちらりと見る。
 ユズちゃんのおばあちゃんは、私のことはもちろん、実の孫の記憶もなくしてしまっていた。それを目の当たりにしたユズちゃんは、一体どんな顔をしたのだろう? 
 想像したくなかった。
「つまりだ。このちんけな田舎町で、なにやらごちゃごちゃ色んなことが起こっている。そういうことだな」
 古川くんが、ふんぞり返って腕を組む。
「格好付けて言ってるけど、全くまとまってないよ」
 私がそう突っ込んでも、古川くんはまるで決断を迫られている大企業の重役みたいな言動を続けた。
「この危機的状況を打開する。まずはこの会議室に対策本部を設置だ」
「はいはい。もういいから黙って」ユズちゃんが突き刺すように言う。
「でもさ、その美景って子が言うには、杠んとこの銭湯が守られるってのが最優先なわけだろ? その銭湯の神様がそこにいれるようにさ」
「そうね。でもそのためにはうちのお父さんが何を企んでるのか掴む必要がある。ただあの人全然うちに帰ってこないもんだからさ。何も追求出来てないんだけど」
 職場に電話してみるとか、単身赴任先の住所に乗り込んでみるとか、いくつか案が出たけど、実際どれも憚られた。もしそこまで行動を起こすとなっても、平日は難しい。少年少女たちが大活躍する探偵ものの漫画やアニメがあるけど、あの世界はどうしてあんなに自由に使える時間が多いのだろう。
「――ちょっと思ったんだけど」
 千夏が口を開いた。古川くんが「対策本部」を設置してから、初めてのことだ。
「銭湯が守られるって、どういう状態を言うのかな? 例えばちゃんと営業してなきゃ駄目とか、営業してなくても湯船にお湯が張ってあれば大丈夫とか、建物が残っていればいい、とか。『守られている』って、何を基準に決まるのかなって」
 他の三人の「あー」が、きれいにハモった。
「まあ、そう言われると、よく分かんないよなそこんとこ。よし川崎クン、君は今日から対策本部長だ。上には私から推薦しておく」
 古川くんが千夏のおでこ目がけて指を指す。
「うーん、『守られている』かぁ」ユズちゃんが天井を仰ぐ。「なんだか哲学っぽくて、図書館なんか調べたって分からなそうね。美景さんは“社”としての機能がなきゃって言ってたけど、そこ突っ込んで訊いてなかった。失敗」
 ユズちゃんの言う通り、早速情報収集で後手を踏んだ。あのときちゃんと説明をお願いすれば、美景ちゃんは生き生きと語ってくれたことだろう。こういう凡ミスで調査が滞るなんて、フィクションではあっちゃいけないことだ。
「いや、その美景さんも、その定義については疎いんじゃないかな」千夏センセイが手を膝の上に置いたまま、ゆっくりと話す。「その人が天原を守りたいと思っている。守るためにはユズちゃんの銭湯が“社”として機能しなきゃいけない。なら、一番大事なところを説明しないのは、ちょっと考えにくい。協力してほしいって二人に持ちかけた本人が、その“社”について詳しく話さないなんて。何か儀式みたいなのが必要だったり、こういう状態にしておくっていうのが分かっているなら、真っ先にそうしようとするはずだし」
「お前、シャーロック・ホームズか」古川くんが素に戻って感嘆した。
「私はモリアーティの方が好きかな」千夏が返答する。「――まあだから、まずはその“社”っていうのが一体何なのかを調べる。それが第一歩な気がする」
「やっぱり千夏を巻き込んで正解だった。ね? 茉里」
 ユズちゃんに振られて、私は口元だけで曖昧に笑った。
「――でも千夏、ホントにごめんね。テストあるのに付き合ってもらっちゃって」
「ううん。私のことは別にいいけど、中間テストはみんなに平等に訪れるよ?」
 ユズちゃんと古川くんが同じタイミングで頭を抱えた。

 とにかく、“社”とは何なのか? どんな意味を持って、どんな効力があるのか? おのおの宿題として持ち帰ることになって、私たち四人は解散した。中間テストが近づいてる中、なんだか課題だけが増えていく気がする。
 以前コノが言っていた。「銭湯ゆずりは」が潰れると、湯の神さまは「ホームレス」になってしまう。「ホームレス」っていう言葉が的確なのかは分からないけど、神様の居場所を奪ってしまうというのは、たぶんそれだけですごく罰当たりなことなのだろう。
 帰り道、ユズちゃんと途中まで一緒に歩いて、私はいつもの畑の畦道まで辿り着いた。すっかり辺りは暗くなり、遠くの山の稜線だけがほんのりと白んでいる。等間隔に並ぶ防風林がときどきざわりと揺れる。私のこもったような足音が、のろのろとリズムをとる。
 足を止めて、夜空を見上げた。秋は明るい星が少なくて、夏の空に比べて控えめな印象だけど、私はこの畑から見上げる秋の夜空が好きだった。分かる星座と言ったらペガスス座くらいだけど、あの四つの二等星を見つけると、なぜか私はほっとするのだ。ちゃんと今日も、あそこにある。なくなってしまったりしていない。それを確認するのが、この季節のちょっとした日課だった。
 防風林がさっきより大きく揺れた。二等星が作る四辺形がいつもの場所にちゃんとあることを見届けて、私はそっと声に出した。
「朝、私を呼んだよね? 出てきてくれませんか?」
 また、防風林が大きく揺れる。風だけのせいではない。何かが木々の間を、まるでムササビのようにすり抜けているのだ。
 分かる。あれは「木行」だ。
「あなたが『端境』意外の何かで身を隠しているなら、解いてもらえませんか? 私にはそれだけで、あなたを見ることができます。あなたと話すことが出来ます」
 その気配は、こちらを見た。注意を向けているだけでなく、ちゃんとその目で私を見たのが分かった。ひときわ大きく、防風林がざわめく。
 その時だ。
「しょ、しょ、小生は……」
 ひゅるひゅると鳴る風のような声が、かすかに聞こえた。
「い、いえ! その……本当、本当なのですか? 茉里様。小生のこの声が、き、き、聞こえるのですか?」
「――うん。ちゃんと聞こえる。でも、どうして私の名前――」
 私がその声に答えると、今度は本物の風の音がびゅうびゅう唸った。大きく捻るように、かと思ったら小刻みに震えるように。まるで過呼吸でも起こしているみたいだ。
「コノハナノトキツミノミコト殿がおっしゃっていたことは、誠だったのですね! 小生は、もう幾年もこの日を、この瞬間を夢に見ておりました! 正直に申しまして、半ば諦めておりました故に、茉里様。ああ茉里様。本当に、本当に小生は嬉しゅうございます!」
 四方八方に風が渦巻いて、気づけばそれは小さな竜巻ほどの大きさになった。風で吹き飛ばされそうになったマフラーをぎゅっと巻き直す。状況は全く掴めないけど、とにかくその声の主は、ひどく感激しているようだった。
「あの――あなたは、『八百万の獣』ですか?」
「左様でございます。茉里様」
「その、どうして私の名前を?」
「ああ茉里様。小生は、ずっとずっと茉里様のそばにおりました。さらに申し上げれば、茉里様のおばあ様のひいおばあ様が幼少の頃から、小生は津々楽家に身を寄せ、仕えておりました。茉里様のおばあ様は小生の姿を見ることが出来ましたが、こうして言葉を交わすほどのお力は、残念ながら持ち合わせておりませんでした。故に、今小生はもう言葉にすることが叶わないくらい、嬉しいのでございます!」
 その声は弾むような音程で、畑の闇に鳴り響いた。声はとても不思議な聴こえ方で、辺り一面に響いているようでもあるし、耳の奥だけで小さく振動しているようにも聴こえる。
 この声の主であるもののけさんは、どうやらうちの家にすごく縁があるらしい。コノのように、神様に仕えるのが「八百万の獣」だと思っていたけど。
「私のおばあちゃんは、確かに子供の頃『八百万の獣』を見たって言ってた。あなたのことだったんですか?」
「恐らく、そうでございましょう。おばあ様は小生と同じ、木行でした」
「私にはまだ、あなたのことが見えていない。姿を、現してくれませんか?」
 そう言った途端に、渦巻いていた風がぴたりと止んだ。
「しょ、しょ、小生の――す、姿、ですか?」
「――駄目なの?」
「いえ! そんなことはございません! そんなことは、ご、ございませんけれども、なんと申しましょうか、小生なにぶん獣でございまして、茉里様のお気に召す容姿とは恐らく相当かけ離れています故――」
 この声、本当によくしゃべる。
「おばあちゃんに見せて、私には見せられない?」
 また防風林がばさばさと揺れた。さっきから様子を窺うと、恐らく感情の起伏がそのまま風に現れるのだろう。
「そ、そのようなことは――」
「あなた、いつもそんなに恥ずかしがり屋さんなの?」
「いえ、そうではございません。確かに小生の『端境』は、他のどんな獣共にも負けることはないと自負しています。ただ本当に、なんと申しますか――」
 私の立っている畦道から、ほんの五メートルほどのところまで、その声の気配が近づくのを感じだ。でもそれ以上は距離を縮めようとしない。
「茉里様は、特別です。特別な存在なのでございます。小生は、恥ずかしながら臆してしまっているのでございます」
「特別? それって、どういう意味なんですか? 木行だから、ですか?」
「先ほど申し上げました通り、茉里様のおばあ様がまず木行でございました。『気質』を持って生まれたこと自体、非常に稀なことでございましたが、残念ながらそれは極めて微細でございました。しかし茉里様の『気質』は、おばあ様のものを遥かに上回る。最大で五段階まで、その木行の力を発現することができると、小生は推測します」
 とても恐ろしいものを語るかのような声色で、彼は言った。
 美景ちゃんは以前、私は木行が一段階開いていると言っていた。それが最終的に五段階目まで開くことが出来る、ということなのか。それは、才能があるということで素直に喜ぶべきことなのだろうか? 全然ピンとこない。
「そんな風に言われても、私には正直そこまでできるとは思えないし、全然特別なんかじゃないです。その――まだ中学生で、何の取り柄もないし」
 その声の主は、しばらくの間押し黙った。彼が感情を動かさない限り、風はとても穏やかだった。丸裸になった畑の上の空気は、気難しそうに張りつめている。
「ご、ごめんなさい。あなたはコノとも知り合いなんですよね? もし、私の能力とかそういうものを期待しているとしたら、当の本人にはまだまだ自信がないんです。社美景という人から、今の天原のことを聞いて、なんとかしなきゃって思ってるけど、何か私に出来ることはないかなって思ってるけど、まだ何にも力になれそうにないんです」
「――茉里様が気に病むようなことではございません」か細く、夜の闇に消えてしまいそうな声だ。「美景様とは、お会いしたのでしたね。小生から茉里様にお伝えしたいことが、山ほどございます。まずは、それだけなのです。そして全てお伝えした後、一つだけお頼み申し上げたいことがございます。そのために、小生は参ったのです」
 五メートル先の景色が揺らめいた。コノが隠れていたものと同じような、周りの景色と同じ絵の描かれたカーテンのようなものがめくれたのだ。
 そこに姿を現した「八百万の獣」は、最初見た瞬間、雲かと思った。一メートルに満たないくらいの大きさの、白い綿雲だ。てっぺんにオクラみたいなへたがついていて、顔も身体も見当たらない。数秒して、やっと彼は後ろを向いているのだと分かった。
「――やっぱり恥ずかしがり屋なんですか?」
「ま、待ってください茉里様! 今、今そちらを向きますから!」
 学芸会で、ステージに立つのを渋っている小学生みたいだ。
 恐る恐るこちらに身体を向けた彼は、動物で言うと「羊」だ。子羊をぎゅっと丸めたみたいな姿だった。頭から背中にかけて綿雲が生えていて、茶色い身体をほとんど覆い隠す勢いだった。
「わあ――」
「す、すみません! 茉里様! こんな、こんな威厳も欠片もない姿で――」
 彼の言う通り、確かに威厳とか神々しさとか、そういう種類のものとはかけ離れていた。手足と言えばいいのか、前足と後足と言えばいいのかすごく微妙だけど、とにかくその四足はほとんど使い物にならないんじゃないかと思うくらい小さい。申し訳なさ程度に、こぢんまりとくっついている。頭には左右に二本の緑色の角が生えているけど、くるりと内側に丸まっていて全然攻撃性がない。
 そう。彼の容姿を一言で形容するなら――
「可愛いもののけさんですね」
 私がそう言った瞬間、彼は相当ショックを受けたような顔をした。
「しょ、小生は男でございます! そんな、可愛いなどと――」
「だって――」
「小生は以前――もうかれこれ百年も前のことではございますが――今の姿よりもさらに貧相で、手も足も生えていなかったのでございます。あの頃は、きっと年月を経て力を得れば、名のある神の伴獣のように、威厳に満ちた姿になれると信じていたのです。それが、未だに小生はこのような――」
 彼はそこまで一息に言うと、途端にわんわん泣き始めた。同時に彼の周りにはまたもや風が渦巻き、唸り声を上げる。
「ご、ごめん! あなたはすごく男らしいと思う! その、角も大きくてかっこいいし。ほら、こうやって風を起こすことが出来るのもすごいと思うよ! だからさ、落ち着いて。ね?」
 巻き起こる風に飛ばされそうになりながら、やっとの思いで近づいて彼の頭に手を乗せる。およそ期待した通りの、もふりとした感触だった。
 こうやってたかが人間の女の子になだめられている時点で、彼はもう「威厳」なんてものは諦めるべきだと思った。


  [No.3298] 11 投稿者:リナ   投稿日:2014/06/21(Sat) 00:22:11   68clap [■この記事に拍手する] [Tweet]


「“社”とは、もちろん『神を祭る場所』という意味でございますが、この『祭る』というのが、非常に大事な意味を持つのでございます」
 綿毛のもののけさんは得意気にそう語った。私のベッドの上に二本足で立ち、腕を組んで――ついさっきまで、彼はまるで、風船を空に飛ばしてしまった子供みたいに泣きじゃくっていた。それをやっとの思いでなだめすかし、うちまで連れてきたのである。

「ちょっと随分遅かったわね! 急に風強くなってきたから心配したのよ」
 そう言って玄関口まで出迎えてくれたお母さんは、私の傍らに寄り添う綿雲には全く見向きもしなかった。やっぱり、普通の人には見えていないのだ。
「ごめん、ちょっと友達と勉強してて――」
 お母さんの顔を見て、私は思い出した。
「あ、そう言えばお母さん、お弁当ありがとう」
 今日の朝忘れていったはずのお弁当を、お母さんはわざわざ天原中の二年一組の私の机まで届けてくれた。
 ところが、お母さんはぽかんとして、エプロンを外しながら首を傾げたのだ。
「お弁当? 何どうしたの急に? いつも作ってるじゃない」
「え? だって私、今日の朝お弁当忘れて――」
 そこまで言いかけて、私はハッとした。
「ううん! 何でもない! い、いつも作ってくれてるからさ、ありがとうってことだよ! うん、そう――あ、すぐお弁当箱出すから!」
 きょとんとしているお母さんを出来るだけ見ないようにして、私は自分の部屋がある二階へ駆け上がった。顔から火が出そうだ。
 部屋に入って両手でドア閉めてから、私は綿雲を見た。
「ねえ、もしかして今日――」
「――ご迷惑でしたでしょうか?」
「ううん、そんなことはないの。そしたら、朝私を呼び止めようとしたのも?」
「はい、茉里様。ただ、今朝はとてもお急ぎのようでしたので。あの後少しばかり迷ったのですが、ご昼食がないと大変お困りになると思いまして、学校までお届けした次第でございます」
「そうだったんだ。ありがとう――あーもう! 超恥ずかしい!」
 綿毛のもののけさんは怯えた顔で後ずさった。
「茉里様?」
「やだもう!」
「そ、そんなことを言っては。経過はどうであれ、お母様に感謝の言葉を伝えられたのは、とても素敵なことかと――」
「かもしれないけど! でも、すっごくむずむずするのこういうの!」
 そのとき、私の名前が隣の部屋から壁伝いに呼ばれた。
「茉里ー。なーに帰ってきて早々一人で騒いでるんかぁ?」
 おばあちゃんだ。そうだ。周りからしたら、私は一人で帰ってきたのだった。帰宅直後に自室で絶叫なんて、すっごく痛い子だ。
「ご、ごめんおばあちゃん! なんでもない!」
 私はドアに寄りかかったまま、しなしなと座り込んだ。
「――疲れる」

 お弁当箱を流しに戻すとき、お母さんは珍しく鼻歌を歌っていた。顔を合わせないようにして、私はまた二階に駆け上がったのだった。
「その地に住む人々の『信仰心』で、『祭る』という行為は成り立っていると言えるのです。ただですね、茉里様。『信仰心』と聞いて、茉里様はどんな心を思い浮かべますか?」
 今日学校で話した「社」のことを訊いてみたら、綿毛の彼は待ってましたと言わんばかりに、饒舌に語り始めた。
「信仰心? うーん、何だろう?」学習机の椅子に座り直し、私は教会やらお寺やらを想像した。「なんか、神様の言うことを聞いて、それを守ってさえいれば幸せになれるんだーみたいな感じかな」
 彼は大層満足そうに頷いた。
「一般的な感覚では、おおよそそうでしょう。しかし、『信仰心』の根本は、先ほど茉里様がお母様に示したのと同じ、『感謝』なのです」
 神様の存在は、人から人へ代々伝えられる。それによって「神」という言葉に、特別な意味や感情が宿るという。言葉が単なる「記号」から、「言霊」になるということだ。そうした細やかな伝達が日々の暮らしで行われることで、神様に限らず、大切にしなければならないものがだんだんと分かってくる。その理解が、その人の人格を形作る。
「しかし、いくら大切に伝えられても『言霊』が『記号』に逆戻りしてしまうことがあるのです」
 例えば、科学。科学の力では、神を証明出来ない。いや、現代の社会に即した言い方をすると「科学の力をもってしても」という言い方になる。科学は絶対的に「正しい」のだ。
 その科学が神の存在を証明出来ず、神を否定することになれば、「神を信じる」という行為は非科学的というレッテルを貼られる。神への信仰などというものは「間違っている」ということになってしまう。「神」という言葉に宿っていた言霊は色褪せて、単なる記号と化してしまう。
「“社”は、人々が神様に感謝する場所、ということ?」
「その通りでございます」綿毛のもののけさんは、再び大きく頷いた。「その機能が働いてこそ、“社”は成り立つのです。ただ、元々それは当たり前のことだったのです。作物がたくさん穫れたり、商売がうまくいったり、子宝に恵まれたり。人々は、良いことがあったときは必ず神様に感謝をしてきました。近しい人が病で亡くなった時でさえ、天国へ行くことが出来たのだと、人々は神様に感謝を表すのです」
「うん」
「――恐らくですが、美景様はそんな当たり前のことを説明するのは野暮だと思われたのかもしれません」
 それはあり得るかもと、私は思った。
 考えた。湯の神さまに感謝している人は、この天原に、どのくらいいるんだろう?
 そして、「銭湯ゆずりは」に感謝している人は、どのくらいいるんだろう?
 いつでも熱いお湯に浸かって、疲れを癒せることに感謝している人は、どのくらいいるんだろう?
 ユズちゃんのおばあちゃんに「ありがとう。また来るね」って言っていた人は、どのくらいいるんだろう?
 そんな人たちが大勢いたら、嬉しい。そしたらきっと――
「――なんとかできるかもしれない」
「茉里様?」
「湯の神さまは、きっと優しい神様だよね?」
 彼はこくこくと頷く。
「小生、直接言葉を交わしたことはございませんが、大昔に天原を温め、冷害から救ったお方です」
「うん、そうだよね。今度はさ、天原の人たちが、湯の神さまを助けないとね」
「――と、言いますと?」
「考えがあるの。成功するかまだ分からないけど、私もユズちゃんのおばあちゃんに、感謝の気持ちを伝えなきゃって思うから」
 綿毛の彼は、とても優しい目で私を見つめ返した。いつもは幼稚園児くらいの、小さな男の子みたいな表情なのに、その瞬間の瞳だけは、何年も時を経てきた深みというべきものを感じさせた。
「茉里様。茉里様なら、必ず成功します。小生、ずっと津々楽家にお仕えしてきましたが、先祖代々――そしてもちろん茉里様も、『ありがとう』を言える方々でした」
「えへへ、ありがとう。あっ」
 褒められたそばから口に出てきて、なんだかこそばゆくなった。
 ちょっと、視界が開けてきたような気がする。大事なことが、分かってきた気がする。天原を守る、というのは、言い換えればこの天原に住んでいる人々を、その一人一人を信じるということなんだと思う。
 もろの木さまも湯の神さまも「信仰心」を集めているわけだけど、それは一側面にすぎない。むしろ神様たちが、私たちを信じてくれているのだ。強く強く信じてくれていて、それによって、天原を堅く堅く守ってくれているのだ。
「――そういえば、まだ訊いてなかったね。あなた、名前は何て言うの?」
 ずっと「綿毛のもののけさん」と呼ぶわけにはいかない。私は尋ねてみた。コノのときみたいに、きっと彼も神様みたいな長い名前を持っているのだろう。私はそう覚悟していた。
 しかし、その予想は百八十度はずれてしまった。
「小生、名はありません」
 きっぱりと、彼は答えた。
「――えっ?」
「八百万の獣や八百万の神々には、名前を持つものと、持たないものがおります。人間は一人に必ずひとつ名前を与えられるかと思いますが、獣たちや神々は、人に名付けてもらわなければ名を得ることが出来ません。小生のように無名の者もいれば、例えば天照大神(あまてらすおおみかみ)様のように、複数の名を持つ方も、いらっしゃいます」
 名前がない。まるで当たり前のことのように彼は説明してくれたけど、私は正直、納得出来なかった。
「あなたが生まれたときに、誰も名付けてくれなかったの?」
 綿毛のもののけさんは、寂しそうに笑って頷いた。
「小生が生まれた瞬間など、誰一人知るところではありません。正確に言うと、ある日、ある時から小生が存在していたわけではなく、人々から存在を信じられるようになって、“少しずつ”存在が固まっていったのです。そして顕現を確かなものにして下さったのが、津々楽家だったというわけでございます」
「でも、私のご先祖様は、あなたに名前を付けなかったんだね」
「それが通例です。むしろ、ご自分の家系に仕える獣などに名を付けようと言う方が、珍しいことなのです」
 誰からも名前を呼ばれず、彼はずっと生きてきた。それが彼にとって当たり前だった。
「うーん、なんだかなぁ」
「ですので、小生のことは『綿毛』とか『羊』とか、好きに呼んでいただければ――」
「ねえねえ、私が名前を付けるって言ったら、やっぱりちょっと問題あったりするの?」
 何気なく、私は訊いてみた。訊いてみてから、「間違った」と思った。
 綿毛のもののけさんは、突然ゴムボールのように天井まで弾んだ。同時にまたもや風が巻き起こる。ライトが揺れ、壁にかけてあったカレンダーが画鋲ごと剥がれた。
「ちょ、ちょっとストップ! 部屋では止めて!」
 私は椅子から立ち上がり、弾むゴムボールを取り押さようとして、そのままベッドに突っ込んだ。もつれ合ったまま何とか彼を抱え込む。
「さっきからどうしたってんだぁ?」
 隣の部屋から、おばあちゃんの怪訝そうな声が聞こえる。
「ご、ごめん! 本当に何でもないから!」
 私は平静を装って返答した。お願い、覗きにこないでよおばあちゃん――
 数秒後、何とか風は治まり、私の部屋の被害はカレンダーのみにとどめることが出来た。
「はあ――はあ、す、すみません茉里様! 小生、あまりのことに気が動転してしまいまして――」
 今にも泣きそうな声で、彼は弁明した。勢いでベッド突っ込んだにせいで、ちょうど私が仰向けになり、この綿雲を「高い高い」しているような格好になった――この綿毛、めちゃくちゃ軽い。
「名を頂くということは、八百万の獣にとって大変な名誉でございます。小生は、もう自らの名など、ほとんど諦めておりました故――」
「分かった。でもね、家の中では風を起こすの禁止。これは守って」
「――承知、致しました」
 そっとベッドに彼を着地させて、乱れてしまった髪を撫で付けながら身を起こす。
「決めた。あなたの名前、私が付ける」
 困惑している彼をよそに、私は既に考えを巡らせていた。
 後から考えても、このときは本当に不思議な感覚だった。
 記憶の奥底から、何かがふっと頭に浮かんだ。私がまだ幼稚園に通っていた頃、おばあちゃんから聞かせてもらったほんの数分の話を思い出したのだ。
 それは、ずっとずっと忘れていた記憶だった。それがまるで、水面に浮き上がってくる泡のように、蘇ってきたのだ。
 タンポポ。どこにでも咲いている、小さな黄色の花。おばあちゃんは、タンポポのことを「つづみぐさ」って呼んでいた。
 ――タンポポはねぇ、おばあちゃんが生まれるよりもぉっと前の江戸時代にはねぇ、鼓草(つづみぐさ)って呼ばれてたんよぉ。おばあちゃんが子供んときはねぇ、鼓草の綿毛みたいな獣がよーく家に来てて、一緒に遊んだもんさぁ。
 そうだ。私はおばあちゃんからちゃんと伝えられていたじゃないか。八百万の獣のことを。鼓草の綿毛によく似た、彼のことを。
 もしかしたら、おばあちゃんは彼のことをそう呼んでいたのかもしれない。名付けた気は全くなくとも、遊びながら何度も何度も、親しみを込めて、そう呼んだのかもしれない。
「ツヅミ」
 私はその三文字をそっと呟いてみた。
「タンポポの別名、『鼓草』から取ったんだけど、どうかな?」
 ベッドの上に突っ立ったまま、彼は震えていた。
「小生は――小生は、本当に名前を頂いてもよろしいのでしょうか?」
「良いに決まってるじゃない。気に入らなかったら、また考え直すけど」
 彼は顔を真っ赤にして、ぶんぶん顔を横に振る。綿毛が千切れてしまいそうなほどの勢いで。
「素敵な、本当に素敵な名でございます。小生には勿体ないくらいです――ツヅミ。風に乗ってどこまでも種子を運ぶ、タンポポの別称」
「そう。おばあちゃんがね、私が子供の頃に教えてくれたの」
「おばあ様――恒子様が。左様で、左様でございましたか。恒子、様――」
 とうとう彼は、本格的に泣き始めてしまった。「恒子様」という彼の声は、とても暖かく響いていた。
「もう、ホントに忙しいもののけさんだね」
「申し訳ございません――茉里様! 茉里様に頂いたこの名前、小生は身が滅ぶまで、大切に致します!」
「そんな、大袈裟な」
 綿毛のもののけさん――改め、ツヅミ。
「よろしくね、ツヅミ」
 初めて名を呼ばれた彼はぎくりとしていたけど、すぐに涙を拭いて、笑顔を作った。
「はい、茉里様」
 津々楽家の「守護霊」と言ったところだろうか。私はこのとき、妙な充実感を感じていた。
 ツヅミに出会い、彼がずっと津々楽家を見守ってくれてたと知り、私が彼に「ツヅミ」と名付けて。
 彼との距離をひとつひとつ縮める過程で、何かたくさんの、ぱらぱらと散らばったものが繋がった―――そんな気がしたのだ。
 ふと、私はあの白黒の世界を思い出した。もろの木さまが私に見せてくれた、色のない人々の世界。あの世界では、人々は純白に近い白から暗闇のような黒まで、「切り離された」量によって、染められていた。
 社美景――彼女の「黒」を見たとき、私は動悸がして、少し吐き気まで催して、もうあの「黒」は見たくないと思った。
 そして私の両手も、わずかに濁っていた。完全な白ではないことは、肉眼で分かった。ほんの少しの「黒」なのに、それがすごくショックで、あの世界の自分の身体を見るのはもう嫌だと思った。私が少しでも「切り離された」ことがあると、認めたくなかった。
 しかし驚いたことに、今私は、あの世界でもう一度自分を見たいと思ったのだ。
「茉里! お父さんお風呂から上がったから、先に入っちゃいなさい!」
 お母さんの呼ぶ声が聞こえる。
「ええっ! ちょっとお父さん先入ったの? 私の後にしてって言ってるじゃん!」
 ホント、子供っぽい台詞だよなと思いながらも、私は少しほっとする。