私たちはこれから受験生になって、各々それなりに勉強して、滑り止めをどこにするだとか散々悩んだりして、進路を決めていかなきゃならない。落ち着いて、慎重に次の一歩を選び、踏み外さないようにしなければならない。
奇妙な錯覚だけど、私たちにとって天原を守ることよりも、落ちこぼれないように高校へ進むことの方が、何倍も大事なことになってしまっているのだ。
でも、美景ちゃんに「力を貸して欲しい」と言われたとき、思ったのだ。
私はここまでずっと守られてきた。生まれた時から、特別不自由を感じることもなく、ただ守られて暮らしてきたのだ。お父さんとお母さんに、今まで関わってきた大人たちに、守られてきた。この町に、そしてもろの木さまに、守られて育ってきた。
もし本当に、天原町がとてつもない危機に直面しているのなら、私はもちろん守りたいと思う。もし「銭湯ゆずりは」が「銭湯ゆずりは」でなくなってしまうなら、私は何とかして防ぎたいと思う。
決心の付かなかった気持ちも、冷やされて凝固していく蝋みたいに、硬くなった。そう、熱くなったというよりも、冷やされたという表現がしっくりくる。ゆっくりゆっくり、そして静かに静かに「守る」ということを考えている自分が、ちゃんといる。それはたぶん、柿倉の病院で、小さくなってしまったユズちゃんのおばあちゃんを見たからだと思う。
美景ちゃんとは、また次の土曜日に合う約束をした。ユズちゃんが持っている可能性のあるという「火行」の気の引き出し方については、コノに心当たりがあるという。美景ちゃんはこれからの策について、神子の名のもとに、獣(しし)たちに根回しを行うらしい。職権乱用にも近いと、コノはぼやいた。ユズちゃんは来週までに父親を「ツメてやる」のだそうだ。
私は結局、前にもろの木さまの「御言葉」を聞いたことも、黒く染まってしまっていた美景ちゃんのことも、言うことができなかった。あの世界のことは、ユズちゃんにも話していない。
そして、もろの木さまが、美景ちゃんを「助けたい」と言っていたことも、私はまだ一人心の中に留めてある。
少し時間がかかりそう。私はその日の夜、布団に潜って天井を見上げながら思う。
でも、その方法は必ず見つける。それを私の宿題にした。
木枯らしは、もう冬の匂いだった。
十一月に入り、天原の空気も一層冷え込んできた。もともと朝起きるのはすごく苦手だったけど、日を追うごとに私の身体は布団から引き剥がされるのを嫌がっていった。
そして月曜の朝、私はついに寝坊をしてしまった。
朝ごはんも食べずに、寝癖を爆発させたまま、朝もやのかかる畑の畔道を全力疾走する羽目になった。収穫の終わった畑には、ところどころ霜が降りている。呼吸するたび、凍りそうなほど冷たい空気が肺に入り込んできて、胸の辺りがひりひりと痛む。それを我慢して、風で飛ばされそうになるマフラーを押さえながら、私は畦道から舗装された道路に出ようとした。
そのとき、誰かに名前を呼ばれた。私は急ブレーキをかけて立ち止まった。
何か忘れものをして、お母さんに呼びとめられたのかと思ったけど、振り返っても誰もいない。周りには裸になった津々楽農場と、葉を落として冬に備え始めている木々だけ。
(もののけさん?)
一瞬そう思った。天原にはコノ意外のもののけさんも住んでいるはずだ。もうどんな生き物が出てきても、私は驚かないつもりだった。むしろこっちは急いでいるわけで、何か用があるならさっさと出てきてほしい。
「――ごめん! 誰かは知らないけど、後にして!」
うん、今は困る。一刻の猶予を争う状況だ。テストで内申点を稼げない私にとって「遅刻1」は痛い。しかも厄介なことに、三橋先生はときどき時間より少し早く教室に来るのだ。
私は地面を蹴って、学校へ急いだ。
「あ、茉里おはよー。今日ぎりぎりだったね。珍しいじゃん」
チャイムの鳴る二分前に教室に滑り込んだ私の机には、ユズちゃんが座っていた。まだ先生は来ていない。間に合った。
ユズちゃんは後ろの席の千夏(ちなつ)とおしゃべりしてたみたいだった。後ろ向きに座っている――ユズちゃん脚、開きすぎ。
「おはよー。はぁやらかしたよ。布団からなかなか出れなくて。もうなんで冬って来るの?」
「それはね、まず地球の地軸が二十三・四三度傾いていることから」
千夏がかけている眼鏡を直して、説明をし始める。
「あ、千夏センセイ。大丈夫ですので」ユズちゃんが千夏のおでこ目がけて、軽くチョップした。千夏は舌を出して笑っている。
川崎千夏。二年一組の学級委員長だ。時々あだ名で“センセイ”とか“キョウジュ”なんて呼ばれている。あだ名が表している通り、とっても物知りな女の子だ。定期テストではいつも学年トップを争っているし、先日結果が返ってきた実力テストでも軒並みA判定を叩きだしたらしく、その力が揺るぎないものだということが証明された。最初の頃は彼女自身「優等生」として扱われるのが苦手だったみたいだけど、二年生に上がってからは、ちょうど今みたいに自分のキャラクターをネタにして本人が遊んでいた。「センセイネタ」は、本当にどんな話題でも返ってくるし、ハマるとめちゃくちゃ面白い。クラスでも人気を博している。最近では、古川君がライバル視しているとか、していないとか。
「センセイ! 朝起きれるようになるには、どうすればいいんですか?」
「気合い」
私の質問はユズちゃんによって雑に跳ね返され、センセイに届かなかった。
チャイムの音が、朝のホームルームの時間を知らせる。お行儀悪く椅子にまたがっているユズちゃんを追っ払って、私は自分の席に座った。ユズちゃんはあくびをしながら、ぺたぺたと自分の席へ戻っていった。
「ねえ茉里?」千夏が後ろから私の背中を突っつく。
「ん?」
「ユズちゃんち、もう落ち着いたの? 銭湯のおばあちゃん倒れたって、うちのお母さんが言ってて」
振り返った千夏の表情は、彼女が唯一苦手にしている国語(苦手といっても、私よりは断然良い)のテストが返されるときみたいだった。
「ユズちゃんには聞いてない?」
「聞けないよ。さすがに」
千夏は、自分の席で頬杖をついているユズちゃんをちらりと見た。
「大丈夫、心配しないで」私は口元で笑顔を作る。「ユズちゃんには普段通り接してくれていいから」
先週ずっとユズちゃんは学校を休んでいたから、今クラスの関心は彼女に向けられていた。窓側の一番前に座っているユズちゃんの背中に、ちらちらと視線が浴びせられている。
「うん。なんかごめんね。たぶん、もうクラスにも結構広まっちゃってると思うんだ」
「噂好きだからね、うちの中学」
「ほんと、困るよね。でももしユズちゃんにちょっかいかけるやつとかいたら、私、委員長権限発動するから」
千夏は両手を握りしめ、なぜかファイティングポーズをとった。
「ありがと。千夏にそう言ってもらえると心強いーーあれ?」
ペンケースをだそうてして鞄を漁っていた私は、内容物の妙な物足りなさに気が付く。そして、改めて寝坊したことを後悔した。
「どうしたの茉里?」
「ーー最悪。お弁当忘れた」
天原中の二年生は全四クラス。一クラス三十五人前後でまとめられている。ランダムに振り分けられた三十五人のはずなのに、四つのクラスそれぞれ、ある程度の色があるのが面白い。スポーツに強い子が集まっていたり、可愛い女子がかたまっていたり。
我が二年一組については、才能が多彩な子たちが集まったと言われている。博識な千夏、運動神経の良いユズちゃん、絵が上手な佐渡原君に、ギャグセンスのある古川君。吹奏楽部で一緒のみなっちも一組だけど、彼女はトランペットの傍ら、ダンススクールに通っているのだ。
横笛が吹けて良かった。そんなふうに、こっそりと思うときがあった。
朝のホームルームに来た三橋先生は、いつも通りだった。いつも通り日直の号令で挨拶をし、いつも通り出席を取り、いつも通り短めに、あっさりとホームルームを終えた。こういうところが、お父さんの言う「分かってる人」なところなんだと思った。ユズちゃんはホームルーム中、ずっとぼんやり窓の外を見ていた。
一時間目から体育だ。どうせならお弁当じゃなくてジャージを忘れればよかったのに。ダサい青色のバッグのファスナーを開けると、ティーシャツと一緒にちゃんと上下セットで入っていた。
「あたしのミートボールあげるって。だからそんな不細工な顔するんじゃない」
更衣室に向かう途中、お弁当のことをユズちゃんに話すと、そう言われてつむじにチョップをもらった。
体育館へと続く渡り廊下は、冷たい風に吹き曝されていた。トタンでできた雨よけの屋根が付けられているだけなので、冬場はみんな駆け足でその廊下を通り過ぎていく。その度に、太い釘で打ち付けられた木製の板がばたんばたんと大きな音を立てた。
天原中学校は、大正時代の初期に建築された木造和風校舎だったが、改装を何度か繰り返して今の姿に至る。改装といっても、立派なエントランスがあったりとか、快適な空調設備が整ったりしている訳ではない。最低限必要なところを修繕してきただけといった感じで、年季の入った木材が、今でもところどころむき出しになっていた。
廊下に使われている木材は黒くくすんでいて、特にてかてかと光を反射しているところは滑りやすくなっている。柱という柱には、大先輩たちの下品な落書きがこっそりと生き残っていて、ときどき面白いのを見つけてはユズちゃんと大笑いしていた。掃除用具もかなり年代物だ。箒の穂先がまっすぐに保たれているものを、私はこの中学校で見たことがない。用具入れの中は軒並みひどいカビの臭いがした。
教室に冷房はもちろんない。でも、今年の夏は特に真夏日が続いたので、授業中には取り出さないという条件付きで、うちわの持参が許可された。冬は灯油ストーブがクラスに一台置かれ、休み時間にはみんなの人気者になる。
建設された当時は子供の数も多かったのか、空き教室が目立つ。そこには使っていない椅子や机だったり、昔の文化祭で作ったらしい看板や木の骨組みだったり、その余りのベニヤ板だったり、赤と白のストライプのコーンだったりが整然と置かれていた。誰かと秘密の話をするにはぴったりの場所だ。
二時間続きの体育は「マット運動」という死ぬほど退屈な内容だった。開脚前転で既にギブアップの私には、体育の小西先生から出来るだけ死角になるように行動するだけの二時間になる。躍起になってバク転を成功させようとしている運動部の男子を横目に、私はユズちゃんを盾にして身を隠していた。
「茉里、中間の勉強してる?」
ユズちゃんがジャージのファスナーをいじりながら訊いてきた。
「ううん、手付かず」
来週の火曜に迫った中間テストのことなんて、正直ほとんど頭から抜けていた。範囲表は先週配られたと思ったけど、全然目を通していない。
「ヤバいよね。今回全然やる気起きないし、歴史とかもう爆発しそう。なんとか大名って多すぎ」
「私英語。全然単語が頭に入ってこない。不定詞もよくわかんないし」
「勉強会開いてさ、千夏に教えてもらおうよ」
「賛成」
ふと機会運動用のマットを見ると、ちょうど千夏が伸膝後転を成功させたところだった。千夏はあんなに勉強ができるのに、運動だってそつなくこなせてしまう。歌も上手だし、笑ったときのえくぼも可愛いし、学級委員でみんなから頼られる。広い知識を生かして、面白いことも言える。
みんなが羨ましがるようなものを、彼女は大抵持っているのだ。そう千夏に言うと、いつも穏やかな笑顔で返される。「私は茉里みたいにフルート上手に吹けないし、目も大きくないし、色白でもないから。茉里は私の羨ましいって思うもの、たくさん持ってるよ」という具合に。
そういうオトナなコメントができるところも、やっぱり羨ましい。そして、羨ましいと思ってばかりいる自分に気がつく。そういう自分はすごく子供っぽいということに、気がつく。
「センセイ! ちょっと折り入ってご相談が!」
ユズちゃんは列から抜けて、乱れた髪を直している千夏に駆け寄っていった。
ほとんど体を動かしていないくせに、体育の授業を終えた頃には、なんだかひどく疲れた感じがした。ユズちゃんと千夏とは放課後に図書室に寄る約束をした。部活はテスト期間で、今週から休みになっている。
「完全下校までねばるからね。あなたたちには覚悟はあるのかしら?」と、ユズちゃんは台詞を読み上げるように言った。けど、大抵勉強会でいち早く音を上げるのはユズちゃんだ。
教室に戻ると、私の机の上にあるものが置かれていた。
見慣れた赤色の包みに、猫のイラストが描かれた箸入れが添えてある。
「嘘。私のお弁当だ」
寝坊したせいで忘れてきたお弁当箱が、まるで当たり前みたいに、そこにあった。
「お母さん、届けてくれたんじゃない?」と千夏。
「よかったじゃん。今日飯抜きにならなくて」とユズちゃん。
「うん」
ひっくり返したり、包みを開いたりしてみたけど、ちゃんと私のだ。
「お礼、言わなくちゃ」
さて、あれは確か、ちょうど九月の始まる頃だった。
この学校を賑わせた「座敷童」の噂は、もうほとんど過ぎ去りつつあった。一番盛り上がっていた時期には、各クラスに「デスク」がいて、廊下を走り回る「リポーター」が情報を流して、みんなその「即席マスメディア」にかじり付いていた。今ではまた新しく、十一月にある合唱コンクールのこととか、間髪いれず無慈悲にそびえる「二学期期末試験」のこととか、気の早い子たちはもうクリスマスまで話題が及び、「座敷童」のことなんてもう随分昔のことのように扱われていた。
だから、昼休みに古川君に声をかけられたとき、どきりとした。
「なあおまえらさ――」
机を向い合せにして、いつものようにお昼ご飯を食べていた私とユズちゃんに、古川君はちょっと遠慮がちに言った。
「この前、座敷童と話してなかった?」
私はちょうど口に入れようとしていたウインナーを、ぽとりと落とした。ユズちゃんと目が合い、丸々五秒、ぱちくりさせた。