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  [No.3239] ラブゲーム 投稿者:   《URL》   投稿日:2014/04/01(Tue) 01:05:29   94clap [■この記事に拍手する] [Tweet]


 シャンデリア。
 天井の低い和様家屋に明らかに不釣合いなそれは、彼の趣味で買ったもの。
 チラチラチラチラ瞬いて、子どもの頃は星がすぐそばにあるように輝いて見えたそれは、

 ===

 夜中に目が覚めた。耳を澄ませば、台所で母が立ち働いている音が聞こえてきた。面倒くさいなあ、とは思ったけれど、起きた。
 制服のままだった。うっかりしていた。
「おかえり、お母さん」
「ただいま」
 スーパーの袋から、見慣れた食品のパッケージが見えていた。それを見るだけで、頭がズキズキと傷んだ。私は何も言わない。だから、母は何も気付かない。
 買ってきた野菜を冷蔵庫に入れ終えて、椅子に腰を下ろした母は、休む間もなく私に話しかける。
「おじいちゃん、今日もご飯、ちゃんと食べてくれた?」
「食べたよ」
 私は嘘をつく。
「そう」
 母はホッとしたように目を閉じる。間もなく、「お風呂に入るわ」と言って立ち上がる。
 私は何も言わない。だから、母は何も気付かない。

 いいじゃん。私が彼の食事を抜くのは、二日に一度の、それも夕食だけのことなのだから。それの何が悪い?

 ===

 昔はそうでもなかったんだけどなあ。

 私は寝ていたらしい。現国の、気弱な新任の先生に突かれて起こされた。疲れてるんだねえ、と気弱な先生は気弱に言って、教壇へ戻っていった。
 疲れてると思うなら、寝かせてくれとけばいいのに。
 閉じていた教科書を開き直した。クセがついてなくて、ほっとくとすぐ戻る教科書。私はページの付け根を手の平で擦ってクセをつける。やっと開いた。
 教鞭が物憂げに黒板を叩く。「この当時は胃潰瘍を患っていて……」気弱は先生は教科書と黒板を行きつ戻りつ、気弱に授業をする。
 いいじゃん、そんなの。胃潰瘍ぐらい。私は思う。昔の文豪サマはじいさんの介護なんてしてないんでしょ? なら、いいじゃない。

 昔はそうでもなかったのに、今は、学校でも荒れている。

 ===

 彼はいつもリビングにいる。だから、私は台所で用意したご飯を、リビングまで持ってかねばならない。そんなことさえ、今は苛々した。
 リビングに入る。カーテンを最後に開けたのはいつだろうか。日の光の入らないリビングは薄暗い。
 照明のシャンデリアは、沈黙している。私は明かりを点ける。
「電気代がかかるから消しといてくれ!」
 彼が叫ぶ。私は明かりを消す。暗くても、私は若いからなんのかんので見える。盛り付けもろくにしない皿を、私は彼の目の前に叩きつけるように置く。
 目の前に出されたお皿に、彼はいただきますも言わず、食べている。
 食事の前はいただきますって言いなさい、って、学校で教わらなかった? 嫌味も大声でなければ耳にも入らない。面倒。私は自分の分の晩ご飯をかきこんだ。
 沈黙が続く。
 沈黙に耐えかねたのか、彼が口を開く。
「じいちゃんがお前ん頃くらいの時なあ」
 無視。
「ポケモン持って旅に出たけどなあ」
 無視。
「じいちゃん、バトルからきしでなあ」
 無視。
 無視。無視。無視。

 彼は私の機嫌を取らなければならないとでも思っているのか、必死に喋り続けている。
 はいはい、知ってますよ。バトルがダメで故郷に戻って勉強していい企業入って自分は成功したから、そのルートを母にも私にも押し付けたんでしょ。だからポケモン持つなって言ったんでしょ。キリエを家から追い出したんでしょ。何回も聞いたわよ、その話。私は何も言わず、彼は必死に喋り続けている。

 そんなつまらない昔話するくらいなら、ちょっとは母に感謝の言葉の一つでも口にしたらどう? あんたが飯がまずい、固くて食えないって言うから、高いのに、柔らかく仕立てた出来合い物を、わざわざ母が買ってきてくれるというのに。どうせ味覚も老化して、味なんか分からないくせに。そんな嫌味も忠告も、大声でなければ耳にすら届かないのだ。
「お前、母ちゃんに似てきたなあ」
 彼は話題がなくなると、必ずそう言う。私は無視し続ける。無視、無視、無視。

 ===

 今日も母は夜遅くに帰ってきた。
「おかえり」
「ただいま」
「おじいちゃん、ご飯ちゃんと食べてくれた?」
「食べたよ」
 今日も嘘をつく。いや、今日は食べさせたっけ。今日も昨日も一昨日も一昨昨日も変わりない日々が続くものだから、私まで脳にヤキが回ってきたらしい。
「そう。疲れたから、お母さんお風呂入って寝るね」
「うん、おやすみ」
 よっこいしょ、と腰を上げる母を、私は見送る。
 それから、私は寝る。
 ベッドに寝っ転がる。ぬいぐるみを一つ、引き寄せる。締め忘れたクローゼットから、制服が私を見つめている。

 最後に学校に行ったのは、いつだったっけか。
 ああ、もう一学期、丸々休んだんだなあ。
 いつの間にか、欠席の連絡をしなくても、「今日どうしたの」と学校から電話がくることはなくなってしまった。

 ===

 シャンシャン、シャンシャン、シャンデリア。
 天井の低い和様家屋に明らかに不釣合いなシャンデリア。
 手入れも行き届かず埃の積もるままに放置されたそれは、今はただ、汚らしい。

 彼は昔から、変な所で頑固だった。家にシャンデリアをつける、と言った時もそうだった。ポケモンを持つことも彼の所為で許されなかった。
 両親が、別居したい、と言い出した時も、そうだった。
「別居は認めん。同居じゃ、同居」
 らしい。
 その同居縛りは今も続いて、母を縛っている。お人好しな母は、律儀に彼の世話を続けていた。
 でも、仕事をしながら介護というのは、限界がある。
「ごめんね、でも、おじいちゃんの世話、今日だけしてちょうだい」
 高校に上がってすぐ、そう言い渡された。母に似てお人好しな私は、彼の世話をした。
「ごめんね。今日もおじいちゃんの世話、してくれる?」
 いいよ。分かったよ。
「ごめんね。今日もお願いしていい?」
 いいよ。お母さん、疲れてるもんね。
「ごめんね。お母さん、忙しくて」
 いいよ、いいよ、そんなこと。じいさん頑固で、ケアマネとか頼めないもんね。デイサービスも、行けないもんね。老人ホームなんて、どこもいっぱいだしね。仕方ないよ、お母さんは悪くないよ。じいさんに晩ご飯を食わせる為だけに、私がクラブに入れなかったとしても。じいさんが飯がまずいと朝から癇癪を起こした日は、私が遅刻して宥めなければいけないとしても。じいさんが風呂に入るのも一人で出来なくて、私が宿題をやる時間を睡眠時間を削って介助しなければいけないとしても。じいさんが未だにポケモンを持つなとうるさいから、キリエを部屋に入れられないことも。お母さんは悪くないよ。

 二日に一度、晩ご飯を抜く。
 悪いのは、いつまでも汚らしく生きてる、彼でしょう?

 ===

 彼の状態は悪くなる一方だった。
 元から短気だったが、癇癪を起こすことが増えてきた。
 私は学校で母は仕事でいない時でも、「飯!」と叫んで悪い足で動き回って、私が帰ってきた時には、不貞腐れて寝ている。昼ご飯に母が弁当を置いて出るけれど、もうそれも分からないようだった。「飯!」と叫んで悪い足で歩き回って不貞腐れて寝る。だけならまだしも、夜も昼もなく起き出すことが多くなった。
 目が離せなくなった。
 母が倒れた。
 彼の世話を見る人がいなくなった。
 私が学校を休むことになった。
「飯!」
 彼がそう叫んでも、無視する。ご飯の時間になったら、一応、ちゃんと食べさせる。
「飯! まだか!」
 買ったきり使わない七味唐辛子を入れて出す。いいじゃん、二回に一回だ。
 リビングは暗い。電気を点けると、電気代がかかると言って怒り出す。バカみたい。ポケモンもエサ代がかかると言って怒っていた。バカみたい。私がポケモンの代わりにぬいぐるみを買うのも、金がかかると言って怒っていた。バカだ。
「風呂」
 うるさいよ。
「風呂」
 そう言って私を探し回る。
 ぞっとする。
 一人じゃ風呂にも入れないじいさん。前は母がやっていたけれど、それもいつか私の仕事になった。自分で着替えの服を見つけることも選ぶことも出来ず、じいさんに服を選ぶのも洗濯するのも全部私。
「風呂」
 そう言って私を探し回る彼は、ストーカーみたいだ。
 私は聞こえないふりをして、ベッドの上で膝を抱えていることが多くなった。

 高校は留年した。
 彼がうるさいから、キリエと一緒に旅に出るのもキリエと一緒に暮らすのも我慢して言われた通り全日制の高校へ行って大学を目指していたのに。
 なにこれ。
 無茶苦茶じゃない。
「死ねよじじい」
 声が出た。
 今はいつだっけ。
 昨日と一昨日一昨昨日と同じ今日が続くから、学校に行ってないと、曜日感覚が掴めない。
 私は手元のお皿を見下ろした。今日はご飯抜きの日だっけ、それとも、唐辛子を入れる日だっけ。そのくらいしか楽しみがない。
 リビングが暗すぎて、手元の白いはずのお皿さえ、満足に見えなかった。カーテンの向こうは真っ暗で、窓が汚れているのだな、と思った。昼間のはずなのに、道理で夜みたいなはずだ。
「あ」
 彼は聞き返す。
 そして、聞き返したことも忘れて、彼は「飯」と言い出した。
「うるさい」
「あ?」
「うるさい!」
 私は喉が破れるくらい、叫んだ。
「うざいよ。自分じゃ何も出来ないくせに、当たり前みたいに飯食って風呂入って口だけ出して。飯用意できないなら飢え死にしろよ。洗濯できないなら大人しく垢にまみれて死ねよ。なんで私が汚いじじいの世話なんかしなきゃならないの。しわくちゃで血の巡りも悪くて髪は抜けて目は変色して歯は黄ばんで皮膚は染みだらけで爪だけ伸びて記憶力も悪くて思考力もなくてこれから未来もなくて死ぬだけで本当に汚い! 私が将来こんな風になるんだって思うと嫌だ。お前なんか消えればいい。そしたら私もそんな先のことなんか気にせず学校行って勉強してクラブしてキリエと一緒にいられるのに。もうお前がいる所為で何もかも滅茶苦茶だ、早く死ねよ老害!」
 叫び過ぎて、喉が痛かった。

 暗くて見えないが、彼は、ポカンとして私を見ているのかもしれない。
 彼が口を開いた。
「飯は?」
 私はお皿を置いた。

 そうだ、今夜、風呂場で、

 ===

 救急車が着くまで、現国の教科書を読んで待っていた。ただ久しぶりだからという理由で、それを手に取った。来し方の文豪の苦悩を描いた小説は、目を滑るようで、ちっとも内容が頭に入ってこなかった。
 けど、並んだ。
 夜闇を削って、悲鳴のようなサイレンの音が聞こえてきた。私は教科書を閉じた。

 ===

 母はどこまでもお人好しで、始終ハンカチを湿らせていた。
 久しぶりに、制服に袖を通した。忌引が終われば、留年したけれど、また学校へ通える。どこか緩い感じのクラブを見つけて、入るのもいいな。
 読経の間、私は笑えて仕方がなかった。嬉しさが表に出そうになるたび、下を向いてやり過ごした。

 骨になった彼を、お人好しな母は大事に抱いていた。これで彼に脅かされることはない。どこまでも続く曇り空が気温を調節して、いい心地だった。

 私は自由だ。

 ポケモンだって、持てる。
「あら、あれ、何かしら」
 母が立ち止まる。
「カゲボウズと、ジュペッタかしら」
 私は歩き続ける。
「あんなにたくさん。何だか怖いわ」
 母は後ずさる。
 私は前へ進む。
 怖くないよ、お母さん。あれはキリエなのだから。私には分かる。あれはキリエと、キリエの子どもたちだ。
 久しぶり、キリエ。キリエがジュペッタになって家を追い出されてから、ここに戻ってくるまで、ずいぶん長い時間が過ぎたね。その間にたくさん子どもも出来たんだね。邪魔者はいない。これからみんなで一緒に過ごそう。みんなで、
「イヤ、やめて! 娘から離れて!」
 どうしたの、お母さん。
 どうしたの、キリエ。何故自分の体を滅茶苦茶に引っ掻いているの? 何故自分を覆う布を撓ませ、歪ませ、溝の水で染みさせて、ボロボロにしているの? 自分の綿を掻き出し、自分を痩せこけさせているの?
 何故私の足がふらつきだしたの?
 前傾した体を支える為、地面についた手が、ポキリと折れる。若い張りのある肌は、茶色い枯枝のように萎びはじめた。キリエがキリエを刺す。世界が歪む。やめてやめて。母の金切り声が、遠くに聞こえる。記憶が飛ぶ。思考が立ちゆかなくなる。
 悲鳴のようなサイレンが聞こえてきた。

 ===

 ねえお母さん、ご飯は?
 ねえお母さん、お風呂は?
 ねえお母さん、着替えは? ご飯は? さっき食べたなんて嘘つかないで。ねえ、学校はどうなったの? キリエはどこにいるの? キリエと一緒に暮らすんじゃないの? ねえお母さん、ご飯は? ねえお母さん、お風呂は? さっき食べたなんて嘘つかないで。ねえお母さん、

 ===

 真っ黒いボロ布が、気ままな風に吹かれて飛んでいった。

 ===

 低きに下がるシャンデリアは、窓から注ぐ陽の光を弾いている。電気を点けなくとも、十分に明るかった。

「おじいちゃん、ご飯」
 彼はご飯というものさえ、ハッキリ分かってないみたいだ。それでもご飯と大声で言えば、必死に頷き、口に運ぶ。
 そして、同じ部屋で食事を摂る私に、拙いながら昔話を披露する。
「じいちゃんがお前くらいの時、ポケモン持って旅に出たけど、バトルがからきしでなあ」
 私は食事を口に運びながら、相槌を打つ。大きな声で、彼に聞こえるように。何度もされた話に、笑い声を立てる。
 彼が死ぬまでの短い間のことだ。大丈夫。私が少し気を遣って、彼の最期が少し華やげばいい。
 ただそれだけの、簡単なことなのだから。

 ただそれだけの、簡単なことなのだから。

 カゲボウズ、一つ。