鳥肌が立った。
そこにいるのは着飾らない一匹のポケモン。
ステージの上には、他に三匹もポケモンがいるはずなのに、僕にはその一匹のポケモンに、スポットライトが当たっているように見えた。
そのポケモンは歌ったのだ。
それが当たり前であるかのように……
ステージの幕が降りてしばらく、ホールの中はしーんとしていた。あのポケモンの歌声の素晴らしさに、みんな言葉を失ってしまったのだ。
ライモンシティの特番を見て、ずっと憧れてきたミュージカル。いつか絶対この目で見てやる……と、毎日お母さんの手伝いをしてお金を貯めた。1年かかってやっと買うことのできたミュージカルのチケット。一番後ろの安い席だったけど、これが僕の一番の宝物だった。とても大切なものだったから、毎日枕元に置いて寝たし、どこにでも持ち歩いた。ミュージカルの日が待ち遠しかった。ここまでカレンダーを気にしたのは、生まれて初めてだと思う。
そして今日、僕はこのチケットを持ってミュージカルホールへ向かった。嬉しくて、嬉しくて、ドキドキが止まらなかった。人生初のミュージカルホール。大きなステージ。たくさんの観客。見るもの全てが新しくて、ミュージカルが始まってもいないのに、僕は胸がいっぱいになってしまった。ホールが暗くなって、ステージにライトが当たる。やっと、やっとこの目でミュージカルが見られる。着飾ったポケモンが楽しそうに踊る姿が、やっと見られる。
でも、僕が心を奪われたのは、あの、歌うポケモンだったのだ。
ホールがざわついてきた。僕は急いで席を立った。あのポケモンのトレーナーを見てみたいと思ったのだ。
でも、他の観客も考えることは同じだった。ミュージカルを見に来る客のほとんどが大人だったので、背の低い僕はすぐに押し退けられてしまった。気づいたときには、僕はホールの外にいた。ホールのエントランスでは、さっきのポケモンのトレーナーを見るために、さらに多くの人が集まっていた。
僕はもう一度ホールに入って、何とかして前の方へ行けないか試してみた。でも、全然だめ。周りの人たちが、我こそがと前へ押してくる。結局僕はまた弾かれて、ホールの外まで出されてしまった。
それでも僕は諦めきれなくて、ホールの外でそのトレーナーを待った。どうしても、あのポケモンのトレーナーに会ってみたかった。でも、なかなか出てこない。もうずっと、ずっと待った。人だかりだけが増え、トレーナーは一向に出てこない。ライモンシティの空は、いつの間にか赤く広がっていた。
ずっと立っていたせいか、僕の足はもうくたくただった。仕方がないので、ホールの裏にあるベンチの方へ行くことにした。トレーナーが出てきたら、きっと歓声があがるはずだ。僕はよろよろとベンチへ向かった。
すると、そこにはもう先客がいた。目を疑った。そこにいたのは僕と同い年くらいの女の子と、ミュージカルに出ていた、あの歌うポケモンだったのだ。
「そのポケモン……君の?」
自然と声が出た。そんなわけない。僕と同い年くらいの子どもに、あんな素晴らしい歌を歌うポケモンなんて、育てられっこない。そんなの絶対にあり得ない。でも、彼女は笑顔でこう言った。
「そうよ。この前ね、家の近くの川に迷いこんで来たの。それからね、仲良しなのよ!」
僕は、開いた口がふさがらなかった。
「ここのミュージカルにね、ずっと憧れてたの。絶対出たいって思ってたんだ! でも、ミュージカルって、本当は、歌とダンスと演技が合わさったものでしょう? ここのミュージカルには歌がないから……」
僕は驚きのあまり声が出なかった。彼女がそのトレーナーだという事実を、まだ信じられずにいたのだ。
「私ね、いつかミュージカルでポケモンをのびのび歌わせてあげたいと思ってたの! 今日、それができてとっても満足!」
彼女はそう言うと嬉しそうに微笑んだ。
「僕……そのポケモンの歌、聴いてたんだ」
やっと声が出た。この感動をどうにかして伝えたいと思った。
「えっ、そうなの? よかったね、ラプラス!」
「くぅーん」
ラプラスと呼ばれたポケモンは、嬉しそうに声をあげた。
「えっと、その……すごかったんだ。ポケモンの歌、初めて聴いた。僕も、そんなポケモンを育ててみたいんだ!」
彼女に出来て、僕にできないはずがない。僕は自信に満ち溢れていた。
「そしたら、いつか、その……ラプラスと、同じステージに立たせてくれないかな……?」
彼女はとても嬉しそうな顔をして、こう言った。
「もちろん! 楽しみにしてる!」
あれから、彼女には会ってない。
歌うポケモンは、ミュージカルホールの伝説となり、それ以降、現れることはなかった。彼女とラプラスのマネをする人は大勢いたが、観客が眠ってしまうという事件がたくさん起きたので、ミュージカルで歌うのは禁止となってしまった。
そして俺も、その大勢のひとりだった。
彼女は特別だったのだ。トレーナーになってからずっとずっと努力してきた俺と、比べ物にならないくらいの天才だったのだ。だから、仕方がない。仕方がないんだ。そう自分に言い聞かせるのが日課になっていた。
ライモンシティの空が赤くなる。うっすらと、少しずつ。この時間になると、俺はあの日を思い出してミュージカルホールの裏に行く。そのうち彼女が現れるんじゃないかと思って、ベンチに座って夕焼けを見つめるのだ。
ライモンシティの空が暗くなる。俺はゆっくりと立つと、ポケモンセンターに向かおうとした。すると、ホールのほうが騒がしくなり、歓声があがった。そして、近くから、ガチャンという音がした。
「あら……?」
出てきたのは、俺と同じ年頃の女の子だった。どうやら、ホールの裏口から出てきたらしい。
「もう見つかっちゃった? せっかく裏から出してもらったんだけどなぁ……」
「くぅん……」
「あっ、ラプラスごめんね。私が外に出ないと狭いよね」
その女の子が外に出ると、後ろからラプラスがついてきた。
「ラプラス!?」
自分でも変な声が出たと思う。イッシュ地方ではラプラスはとても珍しい。そして、そのラプラスを持っている人間を、俺は一人しか知らなかった。
「もしかして、前にもここで会った……」
彼女は一瞬驚いた顔をした。そして、思い出したようにこう言った。
「あの時の!!」
ライモンシティの空には、もう月が出始めていた。
「トレーナーになってから、ラプラスの歌声を目指して頑張ったんだ。でも、だめだった」
俺は、これまでの憤りを彼女にぶつけていた。誰にでもできると思っていたことが、自分にはできなかった。自分どころか、彼女以外の誰にもできなかったのだ。
「俺はお前みたいにはなれない。お前は他とは違う。才能があったんだ」
すると、彼女は首をかしげた。
「そんなことない。あなたは、何か思い違いをしているわ」
そして、彼女はラプラスをボールにしまうと、俺の手を引っ張って走り出した。
「空を飛べるポケモンって持ってる?」
「チルタリスなら……」
「あら奇遇。私も同じポケモン持ってるの! じゃあ、ついてきて!」
彼女はチルタリスをボールから出すと、急いでその背にまたがった。つられて俺もチルタリスをボールから出す。
「ちょ……ちょっと待って! どこに行くつもりなん……」
「出発しんこーう!」
俺の言葉は彼女には全く聞こえていなかった。
「私が天才だなんて、そんなの違うわ。あなたはもっと大切なことを忘れてる」
空を飛びながら彼女はそう言った。
「本当は、誰にでも、当たり前にできることなの……」
彼女はそう言うと、歌い出した。かつてラプラスが歌ったのと同じメロディーで。その声につられて、彼女のチルタリスがハーモニーを作り出す。その歌は、風のように大地に流れていった。
目的地に着いたのは、次の日の朝だった。しかも、俺にはここがどこなのかさっぱり
わからなかった。とりあえず、川に橋がかかっている。しかも、その橋の上に家が建っている。
「ビレッジブリッジって言うの」
彼女は橋に足を踏み入れながら言った。
「そろそろ聴こえてくるはずよ、ほら……」
彼女にそう言われて、俺は耳をすませた。すると、低い歌声が聴こえてきた。彼女は急に走り出し、橋を渡り終えると、川の方へ向かった。そこには一人の男性がいた。髪の毛は無かった。
「お父さん、ただいま!」
「おう、おかえり。ずいぶん早かったなぁ……」
彼女は振り向くと、ボールを取り出し、川にラプラスを出した。
「ここね、私の故郷なの。ラプラスとはここで出会ったのよ」
ラプラスはボールから出たとたんに、彼女のお父さんと歌い出した。
「ラプラスはね、歌うのが大好きなのよ。お父さんがいつも歌ってるから、一緒に歌うようになっちゃったの。楽しそうでしょう?」
彼女はラプラスの方を向いた。ラプラスは本当に楽しそうに歌っている。言葉はなくても、それが楽しい歌だということはわかった。
「あのね、歌わなくちゃいけないってことはないの。歌うっていうのは、もっと自然なこと。私にしか出来ないことじゃないわ」
彼女は俺の目を見つめて言った。
「歌うことは、もっと楽しいことのはず。そうでしょう?」
言葉が出なかった。俺は、歌うことに必死で、楽しいという気持ちを完全に忘れていた。歌は、もっと自由なものだったのだ。
「でも……」
「なーに?」
それでも、ひとつ納得がいかないことがあった。
「お前のラプラスの歌を聴いても、全然眠くならないのはどうしてなんだ……?」
彼女は目を丸くした。そして、あり得ないと言わんばかりの目で俺を見た。
「だって、技じゃないもの……」
彼女は言った。
「歌うことは、自然なこと。わざ以外でも、ポケモンは歌が歌えるのよ?」
反応に困った。それを理解するのに数秒かかった。そして、自分がとても恥ずかしい間違いをしたことに心底後悔した。
「あ、でも、ラプラスもね、ほろびのうたなら歌えるわよ? 聴いてみる?」
「いや、それは遠慮しとく」
その日、俺は、自分のチルタリスの歌を初めて聴いた。それは、とても綺麗なソプラノで、涙が出るほど美しかった……。
その日の夜、俺はライモンシティに帰ってきていた。彼女はビレッジブリッジに残り、またそのうちライモンシティに来ることを約束してくれた。そのときに、一緒にステージに立つことも。
ミュージカルホールの裏のベンチに腰かけると、北からとても強い風が吹いた。
「あ……」
その風にのって、彼女とラプラスの歌声が、かすかに、でも確かに、聴こえた気がした。