あつくん、あつくん。遊ぼう、遊ぼう。一緒に遊ぼう。
目を閉じると、彼女の声が鮮明に蘇ってくる。僕は時折そのようにして、彼女が隣に居た日々を回想することがあった。かつての美しい日々、今は還らない日々。僕の隣に人の姿は無く、雲の迫り出した暗い空の下で孤独に佇むばかりだった。
それが自分には相応しいのだと、僕は無抵抗のまま受け容れる。今の己れの心境こそが、彼女と共に願い、彼女と共に望み、そして彼女と共に描いたものなのだと。
すべてに背を向けて進み続けよう、前にあるのは空虚な虚構だけだから。大人になっていく躰に残ったわずかな光、それは無知な子供の瞳。これを失うとき、それが即ち「いのち」の終わりなのだろう。
たぶん、彼女は全てが正常で、それでいて総てが狂っていたから、この世界には適合できなかったんだと思う。彼女は拒絶されて生まれてきた。世界という大きな躰のちっぽけな癌として生まれて、そして速やかに切り捨てられた。正常な細胞を壊さないために、「いのち」の終わりを遠ざけるために。彼女は躰から刈り取られて、塵箱に落ちていった。
ひとつだけ、消えることのない「いたみ」を残して。
――いたいの、いたいの、とんでかないで。
*
河原沿いの細い道。群れを成すうろこ雲が、碧色から橙色に移ろうカンバスに描かれている。僕はそんな空の下を一人、少しだけ覚束ない足取りで歩いていた。ふらついていたわけでもない、けれど大地をしっかり捉えていたわけでもない。空は飛べない程度に浮揚した感覚が、僕の躰を包み込んでいた。珍しいことではない、僕にとってはごく有り触れた感触。
空を見上げる。ずらりと並んだうろこ雲。空には今、はっきりと目に見える雲がある。誰もがその存在を認識することができる。雲は、確かに空にある。しかしひとたび風が吹けば、雲はたちまち姿を消してしまうことだろう。あれほど数が集まっていて、一つ一つが十分に大きくて、何より僕には手の届かない高みにあるのに、風という只一つの要因だけで、いとも容易く塵も残さず消えてしまう。そこに何らの例外は無く、地球が生まれてこの方数十億年、絶えること無く反復された夢現の泡沫。
そこに雲があったことを知る者はなく、雲は己れの儚さを知ることはない。
ポケットに込めた左手に籠もる力。あるいは僕もまた、空に於ける雲のような実体のない「いのち」なのかも知れない。僕の心に去来する思いを懸命に握りつぶすように、熱を帯びるほど強く強く、小さな握りこぶしを作る。
地べたに生きた骸が見えたのは、僕の独り善がりな懊悩に仮初めの決着が付いた時とほぼ一致していた。
僕は脊髄反射の如き速度でもって、未だ蠢く小さな骸の元へ駆け寄る。屈み込んで検分してみると、地面に身を横たえていたのはまだ子供のオタチだった。尻尾がほぼ根元から引き千切れ、切断面からは鮮血に塗れたクリーム色の骨がわずかに顔を覗かせている。道を走る乗用車に轢き逃げされたのだろう。この道ではとてもよくあることだった。慌てて逃げようとしたが間に合わず、タイヤに尻尾を巻き込まれたと見るのが妥当だと思った。
「君は善く生きた。僕が君を召そう」
ほぼ全身が血に濡れたオタチの子を抱えて、河原の下の河川敷まで降りてゆく。オタチの混濁した瞳に、果たして僕の姿はどう映っていただろうか。恐らくはもう、何かを思考するだけの余力も残余していないだろう。強いて言うなら、自分よりも大きな生物であるという程度の認識は、本能としてあったかも知れない。少なくとも、僕が自分を助けようと思っている、などとは思っていないことだけは間違いないだろう。
草むらに屈み込むと、そっとオタチの身を据える。真っ赤に染まった右手で十字を切ると、続けざまに左手をカバンのポケットに挿入し、すぐさま引き抜く。
取り出したるは、きらりと光る白銀の刃。よく研磨された、大きなナイフ。
「現世に於ける汝の魂が、主の御座します天の園へ帰り」
「来世に於ける汝の生が、より善いものとならんことを」
両手で木の柄を掴むと、僕は目を見開いたまま、オタチの躰の中心に刃を突き立てた。
顔に温かい飛沫が飛び散ったかと思うと、瞬く間に僕の体温と馴染んで、そこにあることの違和感を減じていく。刃を骸に突き立てた瞬間、眩暈と寸分違わぬ感覚が僕を襲って、全身を電撃が走るのを覚えた。微かに歯を食いしばって、飛散しそうになる意識を一所に集める。歪んだ視界が元の姿を取り戻すと、真っ赤になったオタチが見えた。
オタチは、とう事切れていた。
突き立てたナイフを引き抜くと、傷口から血が止めどなく溢れ出てくる。魂が傷付き損なわれた肉体から解放されたことを悦ぶように、躰を巡り躰を生かしていた血液が、我先にと外界へ噴き出してゆく。肉体という閉塞を打ち破った血は土へ還り、やがて風雨がその痕跡を消すのだろう。
さながら、風が雲を散らしてゆくように。
僕は再びナイフを手にすると、オタチの左胸に刃を添えてひと思いに切り裂いた。辺りに漂う血の匂いが、一層より一層、濃厚なものになる。鼻腔をくすぐる血の匂いを肺に取り込みながら、僕は機械的な手つきでオタチの腑分けを続ける。肉を掻き分けた先に見えたのは、小さなオタチのさらに小さな心臓だった。
血管を切断して肉体から孤立させると、まだ体温がはっきりと残る心臓を右手に取り出す。
「……さようなら。せめて天へ速やかに帰れるように、僕は君を記憶に止めることはしない」
僕はぐっと目を閉じると、躊躇うこと無く右手を閉じる。
手の中で命が弾ける感触がして、僕の周囲の時間が一瞬だけ、確かに凍りつくのを感じた。
開眼する。かつてオタチだったものを見下ろしながら、僕はすっと立ち上がる。軽い立ち眩みに襲われたのは、ただ僕が屈んでいたからだろうか。その答えを僕は知らない。右手の力を抜いて手のひらを大気に曝すと、中に止められていた命の破片が零れ落ちて、肉塊と血溜まりでできた海へ落ちていった。
終わった。そう考えた僕が回れ右をして、河川敷から消えようとした刹那のこと。
「血のにおい、いいにおい。みなぎる『いたみ』、あふれる『いのち』のほとばしり」
右手に立っていた女の子が――そう呟いた。
僕は不意を突かれて、とっさに返す言葉を見つけられなかった。輪郭のぼやけた、どこかふわふわした空気を漂わせながら、彼女は僕の隣に佇んでいる。何時から此処にいたのだろう、如何して此処にいるのだろう。面食らうばかりの僕に、彼女がゆっくり目を向ける。
ほっそりとした顔は青白さを帯びていて、触れると冷たい感触がしそうに見えた。口も鼻も小さいから、線の細い印象をなおさら強く与えている。だけど僕にもっとも強い印象を残したのは、光も濁りもない、吸い込まれそうなほどに黒い瞳だった。しばらく観察した僕は、瞳が僕の姿を映し出していないことに気付いた。
造り物の二つの瞳が、僕を見つめるふりをしている。
「こんにちは、こんにちは。あなたのお名前、<かたは>に教えて」
「<かたは>……それが、君の名前なの?」
「<かたは>は<かたは>。さくらいかたは。むずかしい方の<櫻井>に、片っぽの羽、ワン・ウィングド。素敵な名前、かたはのお気に入り、フェイバリット」
「そう、そんな名前なんだね」
「かたはも知りたい、あなたのお名前。名前と名前の物々交換。おあいこ、おあいこ、どっちもうれしい」
かたは。仮名は方羽。苗字は櫻井。櫻井片羽。それが自分の名前だと、隣の彼女は口にした。聞き覚えなどあるわけがない、初めて耳にする名前だ。けれど彼女は、かたはは何者も恐れぬ調子で、僕の名前を知りたいと繰り返しせがんだ。かたはの瞳は僕を捉えていない、彼女は僕を視てはいないはずなのに、僕はとても強い力でもって、全身を抑え込まれているような感覚に襲われた。
「……淳(あつし)。坂崎淳」
「あつくん、あつくん。きれいなお名前、すてきなお名前。教えてもらって、うれしい、うれしい」
「えっと、君ってさ、その……名前を集めるのが趣味とか? こうやっていきなり話し掛けてきてさ」
僕は漸く落ち着きを取り戻すことができて、今置かれている状況を把握するに至った。彼女が、かたはが何を考えているのかが分からずに、互いに名前を交換する羽目になってしまった。見知らぬ女の子に主導権を握られ続けていることに小さな悔しさを覚えて、僕はかたはに向けてぶっきらぼうに聞こえるように問うてみた。
「集めるのはキライ。大キライ。ばらばら、ばらばら、みいんな別々。わかれわかれがほんとのすがた」
「いや、そういう意味で言ったんじゃなくて」
「あつくん、あつくん。今日のお仕事、これでおしまい? おしまい? 店じまい?」
お仕事、という言葉が何を意味するのか、僕は速やかに理解した。かたはの指差す方向には、僕が召したばかりのオタチだったものの姿が見える。かたはの目には見えていないはずなのに、指先はぴたりと肉塊と血だまりを指していて、少しばかりとてぶれていない。
「かたは、知ってる、知ってる。あつくんがしたこと、知ってる、知ってる」
「……他の人に言いたいなら、言えばいいじゃないか。僕は――」
「どうして?」
他人からなじられることなんか、とっくに慣れっこだ。そう啖呵を切る前に、かたはが言葉を被せてきた。どうして? 強い疑問の色を帯びた口調。今渡こそ僕は戸惑った。どうして、と問われても、僕は返すべき答えを持たない。僕のしていたことを見ていた、仮に視ていなかったとしても見たならば、それを詰るのが当然の反応じゃないか。なのに彼女からは、かたはからは、微塵も僕の想定していた感情を読み取ることができない。狼狽する僕を見透かすかのように――いや、それは違う。僕の気持ちの揺れ動きとはまったく無関係に、彼女は己れの感情に対してとても忠実に振る舞っているに過ぎない。
どうして? そう尋ねた彼女は、僕から回答を貰えることを期待して、暫しの間行儀善く待っていたけれど。やがて僕が答えあぐねている空気を察したのだろうか、顔をぐっと僕に近付けて。
「あつくんのお仕事、知ってるのはかたはだけ。それってすてき、とびっきりすてき」
「他の誰にもあげたりしない。欲張りなかたは、ぜえんぶ独り占め」
満足そうな笑み。小さな顔が綻んで、野に咲いた花のようになる。彼女は化け物だと、僕はこの時確信した。僕の知っているアルゴリズムやルーチンがまるで通用する気配のない、理のない動きを繰り返す異形の存在。そこに恐怖は無く、ただただ「どうしようもない」という言葉で表現される、曖昧な色の感情が繰り返し上塗りされていく。不快とも愉快とも思えない、只管に積もる「どうしようもない」の山。
「君って、変わってるね」
「変わってる? かたは、変わってる? あつくんの世界のかたはは、おかしなおかしな、ふしぎな子?」
今口にした答えそのものが、もう既に変人だよ。僕はそう言い掛けて、なんとなく言う意味を見出せなくて止めた。けれど、明白に奇怪なれど彼女と会話が成立しているのは実感できた。入力に対する出力はある。出力された答えの意図が、僕の脆弱なプロセッサでは追い付かないだけのことだと思うと、そういうものなんだという諦観にも似た安堵の気持ちが浮かんできた。
「それならきっとあつくんは、かたはのことを忘れない」
「あつくんの世界で、かたははきらきら輝くお星さま。星はきらりと瞬いて、彼方の空のみちしるべ。すてき、すてき」
不覚にも、僕はほんの少しだけ、かたはの他愛ない空想に愛嬌を感じてしまったことを告白しておく。
彼女はそうしてひとしきりはしゃいだあと、不意にぴたりと動きを止めて、今一度僕を平らな瞳で見つめてきた。
「あつくん、あつくん。できることならもう一度、あなたと会いたい、いつかどこかで」
「それは……どうして?」
僕が彼女の言葉を引いて尋ねると、かたははまるでアイスクリームでももらった子供のようににんまり笑って。
「君のにおいと血のにおい、かたはのお気に入り。フェイバリット」
「あつくんのお仕事、いのちのおわり、いたみのおわり。すてきな景色、もっと近くで感じてみたい」
お強請りをしてみせるような口調で、僕にその理由を告げた。
「さようなら、さようなら。今日のかたはと、今日のあつくん。今日の二人に、さようなら」
「今日がかたはに来たように、明日もかたはに来ますように」
最後にそう言い残して、かたは音もなくその場から去っていった。僕は特段はっきりとした理由も持たぬまま、ゆるりゆるりと去っていく彼女の背中を、ただぼうっと見つめ続けていた。
やがて彼女の姿が視界から消える。僕は足元の肉塊にはもう目もくれず、僕が行くべき道に向けて進行を再開した。
僕の居た辺りを、ヤミカラスが飛び回り始めていた。
方程式を解くためには、定数が必要になることだってある。僕を取り巻く世界という式も、それから外れる道理は無い。式にはもちろん、僕自身というファクターも含まれるだろう。今必要なのは、定数の定義だ。
僕は坂崎淳。地方の公立高校に通う、二年生の男子。此処まで文を追ってくれた誠実な読者の方なら、僕がどういった人となりをしているか、高校の教室というクローズドなフィールドで僕がどういったポジションに位置しているか、大づかみな想像は付くと思う。そして、大方そこから外れることは無いと、僕は今此処で明言する。言葉として表すなら、大人しくて、目立たなくて、一人の思索を好んでいて、言い回しがまどろっこしくてかったるい。きっと、僕のような人物は、今までだって文字通り掃いて捨てるほどいたと思うし、今この瞬間だって唸るほどいるとも思う。
もし僕に何か特筆すべき点があるとするなら、僕の家柄というか、家系についてだろう。僕の両親は「帰天主義」という、とある国際的に振興されている宗教から分派した思想を信じている。それも、相当に根強く。良く言うなら、心の拠り所にしていると言えばいいのだろうか。強く信じていることに異論は無い。
帰天主義。天に帰る、或いは天に帰す主義と解釈できるこの宗派の特徴。それは、ヒトを含むすべての生物、特にポケモンに関して、先進的・人工的な治療や施術を強く否定・拒絶し、自然治癒と最低限の施術のみによって身体のダメージを取り除こうというところにある。そして欠かすことのできない要素として、彼らの基準で治癒が見込めないほどの大怪我や重篤な病を賜った生物に対して、積極的な「安楽死」が推奨されている。
「すべての魂は天に帰り、新たな肉体を与えられて現世に再臨する」
傷付いた肉体を無理に修繕して使いつづけることに意義は無く、今の肉体は魂を保管するための仮初めの器でしかない。魂を天に返せば、新たな肉体を貰って次の生を賜ることができる。すべての生命はそうして永遠に生きつづけるのだ――彼らの、僕の比ではなく回りくどい言葉をできるだけ平易にすると、ほぼこんな意味になる。肉体や現在の生に対する過度の執着は忌むべきもの憎むべきものであり、よって安楽死が推奨されるという結論に至る。安楽死によって現世の痛みから解放することは、天に御座します神の意志というのが、この宗派の考え方だ。
そうした教義を、僕は物心付いた頃から熱心に教え込まれてきた。死は一時的なもの、肉体は執着してはならないもの。子供のかつての僕は、スポンジが水を吸い込むようにそれを受け入れ、心の内に溜め込んでいく。ふと気付いたときには、僕の左手には何時もナイフが握られていた。
――<Painkiller>、<痛みを殺すもの>。中学校へ上がる直前に父と母に命じられ、生きたエアームドから抜け落ちた羽を僕自身が加工して作った、とても鋭利で固い大型のナイフの名前だ。教義では、これを「送具」と呼ぶ。エアームドは乳飲み子の頃から巣からも親からも無数に傷付けられ、それでもなお自らの生命力のみで力強く生きる様がとても偉大だとされて、帰天主義では神聖な生き物として扱われている。古くなって落ちた羽を自分の手で鍛え送具として作り替えることは、帰天主義の親を持つ子ならばほぼ必ず通る道だと教えられた。僕のように送具を持ち歩いている子供は、確かに他にも見掛けた記憶がある。
僕がこの<Painkiller>を使って何をするか、改めて説明する必要は無いと思う。僕は<Painkiller>を手にしてから、両手両足の数に余るほどのポケモンを「召して」きた。この「召す」という言い回しは、帰天主義独特の考え方によるものだ。ご想像の通り、天に魂を召す、というところに由来している。帰天主義の死生観は、他にもこんな言葉で表現できる。
「死者は只魂の蛻でしかなく、即ち亡骸に魂は宿らない」
「亡骸に執着することは愚者の行いである。ましてや標を作るなど、愚行の極みである」
「形の有無は大きな違いではない。記憶の中とて、死した者を往時の姿で止めるべきではない」
「故に忘れよ。死者を忘却し、魂を解放せよ」
帰天主義は、ただ安楽死を推進しているだけに留まらない。亡骸はかつて生きていた頃の者とは異なり、魂という本質を失った空の器に過ぎないという考え方を、とても強く教え込まれた。器にさしたる意味は無く、魂の救済こそが真の目指すべき道である――ずっとそう教えられてきた。そう教えられて、ずっと律儀な姿勢で教義に従ってきていた。
そうして今に至って、僕は。
「零れたミルクを嘆いても、詮無きことかな」
座席に着いた僕の声に耳を傾ける者はおらず、僕は教室の喧騒という緩やかな渦潮に垂らされたぎとぎとした極彩色の油脂のように、ただただ周囲から浮いていた。僕が不意に此処から居なくなったとしても、きっと誰も気付くことはあるまい。僕は本心からそう思う。
僕が独りでいるのは今に始まったことじゃない。学校という閉鎖的な集団生活を営み始めて間もない頃から、僕は他者から異端の眼差しを向けられていることを実感していた。一言で言うと、僕は「気持ち悪い」存在だった。あまり口を開かず、いつも暗い顔をしていて、何より――何より鼻を突く嫌な匂いがする。
腥い血の匂い。死を想起させる匂い。子供の折から延々と僕に纏わりついて、決して離れることは無い。
だから僕は、何時も何時でも独りだった。
こうしてコミュニティに馴染めずにいるのは、僕だけに留まらない。帰天主義の家に生まれた子は、幼少期から教え込まれた死生観に対する考え方の隔たりと、「常識」から大きく逸脱した習慣や流儀のために、「一般的」な人々の輪に溶け込めない事例が後を絶たなかった。僕はその中の類例の一つに過ぎない。あくまでも、ケースの一つに過ぎなかった。
それでも、僕は特段気にしているということもなく、現状に従属している。ひらがなを教わるような頃から絶えることなくずっと気味悪がられてきて、今となってはそれが当たり前の風景と化している。一切合切に<慣れて>しまって、何も感じないようになってしまったのかも知れない。感覚が麻痺した、もしかするとその言葉に当て嵌まっている気がする。麻痺しているかどうかを僕自身が知る術は無いから、ただの当て推量とも言えるけれど。
今日も今日とて僕は誰一人として言葉を交わすことは無く、カバンを提げて学校を後にする。さしてものを入れているわけでも無いのにカバンが重いのは、左のポケットにいつも忍ばされている<Painkiller>によるものだと僕は思う。帰天主義者の子達は、どんな時でも死に瀕した生命を「召せる」ように、常に自分たちの送具を持ち歩くことが奨励されている。送具は傷付いた肉体から魂を解き放ち、天に御座します神の元へと送り届けるための道具。魂を召すこと、それは神の御意志の代行。信者と送具は不可分の存在。神より賜った畏れ多き物の具であるから、手から離れるようなことがあってはならぬ。何度もそう教えられてきた。
何かを考えているのか、それともただ言葉を垂れ流しているだけなのか。働いているようで働いていないような茫洋とした頭を、血肉の詰まった無価値な肉体にくっつけて歩いていると、僕はいつしかあの場所へ到達していることに気が付いた。今日の雲行きは特段記すべきことのない平凡なもので、昨日のような鮮烈な印象を齎してはくれそうにない。
けれど、そんな空模様などお構いなしに。
「あーつーくんっ」
「うわっと」
無防備な背中から肩へ腕を回して、ぎゅうっとしがみ付いてきた少女。僕よりほんの少し小さな体つきで、腕を目一杯伸ばして僕と一つになろうとする。僕の背中に目が付いているわけでもないのに、彼女の動きがはっきり目に浮かぶようで。突然のことに戸惑いつつも、こうなることを心のどこかで予想していた気もするようで。
「かたは、もうちょっと加減してほしいな」
「あつくん、あつくん。また来てくれた、また会えた」
自分の気持ちに何よりも正直なところは、相変わらずのようだった。
肩が軽くなったのを見計らい、僕は後ろへ振り返る。光を宿さない黒い瞳が、視えていないことなどお構いなしに、僕の顔をはっきりと見つめている。違和感がくすぐったくて、僕はほんの少し体をよじった。
「僕だったからいいけどさ、もし抱きついたのが僕じゃなかったら、どうするつもりだったのさ」
「あつくんはあつくん。かたはの世界でひとりだけ。間違えたくても、間違えられない。こまった、こまった」
こんなに困っていない「困った」は、僕の短い人生の中でも初めてお目に掛かったし、この先おいそれと拝めるものでもないと感じた。
「会えたのはいいけど、今日は<仕事>があるとは限らないよ。かたは、君は僕が<仕事>をするところに居合わせたいんじゃないの?」
「お仕事が無くてもすてき、百パーセント。あればもっとすてき、百二十パーセント」
今日どこかで僕がポケモンを召すとは限らない、予めそう断りを入れておいても、かたはの意志がぶれる気配は無い。本当にただ、僕の側に居られればいいという答え。ただ僕のすることだけに興味があるとか、それくらい割り切っていてもおかしくないのに。
どうして僕なんだろう。すっかり衰えたイマジネーションに鞭打って懸命に答えを捻り出そうとしても、眼前の不思議で不条理な少女の前には、僕の貧弱な想像力ではまるで歯が立たない。彼女を理解することはとても難しい、あるいはできないのかも知れない。僕はそんな感情を抱かざるを得なかった。
目の遣り処に困った僕は、開き直ってかたはを正面から見据えた。どうしても目が行ってしまうのは、一目で作り物と分かる漆黒の瞳だった。
「かたは。目が見えないはずなのに、どうして僕だって分かったの」
「それは簡単、ピースオブケイク。あつくんは、あつくんのにおいがするから」
「ゴマゾウやウリムーなんかじゃあるまいし、本当なの?」
「いのちのにおい、とってもすてき。くらくらしそう」
無邪気、その言葉が脳裏を掠める。かたはの紡ぐ言の葉には、表裏というものが感じ取れなくて、代わりにひどく生々しく聞こえることが少なくない。こんな物言いをする人に、僕は残りの人生の中であとどれくらい出会えることだろう。そうはいまいに違いない。
彼女は何者で、どういう存在なんだろう。どれだけ考えたところで答えが出るわけもなく、終わりの無い底なし沼へ沈んでいくかのようなもどかしさだけが僕を包む。
「この際だからはっきり訊くよ。君は誰で、何者なの?」
考えを纏められぬまま、気持ちだけが急いて飛び出した言葉の平坦さに、僕は心中で苦笑いを浮かべるしかなかった。
「かたははかたは。かたははかたは。ホントにホントに、ただただそれだけ」
「……うん。なんとなく、そう答えるんじゃないかなって思ってたよ」
僕の貧しい常識や思考を満足させ得る答えなんて、まかり間違っても出てこない、そうだと分かっていたはずなのに。
「かたはの気持ち、あつくん分かったの?」
けれど――僕の不器用な会話は、かたはの心を満足させられたのだと、彼女の仕草が教えてくれて。
「少しくらいは、ね」
彼女が嬉しそうにしていることに、僕は少しずつ違和感を持たなくなってきていることを自覚した。
「あつくん、あつくん。聞いて、聞いて」
かたはが僕に呼び掛ける。息を弾ませ身を乗り出して、彼女が次に発した言葉は。
「あつくんのお隣、かたはの場所にしたい」
「いっぱいいっぱい、あつくんの記憶に残りたい」
「かたは、あつくんがほしい」
僕が心の内に用意していた答え以上に、積極的で面食らう内容だった。
豆鉄砲を食らったポッポのように次の反応を見せずにいると、かたはが僕の手を取って、慈しむように撫ぜ始める。
「あったかい手、おっきな手。あつくんのぬくもり、あつくんの手ざわり」
「ねえ、かたは。あのさ、さっきの言葉……」
「きまり、きまり。これできまり。あつくんの横、かたはのスペース」
「ええっと……」
「いいね、いいね、うれしいね。うれしい、うれしい、たのしいね」
まだ答えを返してないよ、僕はそう言うことだってできたけど、そこに意味など無い気がして。
「かたはとあつくん、ふたりでひとり。ふたつでひとつ」
「うれしいことかなしいこと、たのしいことつらいこと、ぜえんぶいっしょ、いつでもいっしょ」
思考がまるで追い付かないままに、かたははかたはの言葉だけを僕に差し出して。
それでも――僕は不思議と、拒絶する気にはならなかったのだった。
僕がかたはと互いの名前を交換して、早いものでもう一週間が経った。あれ以来、僕は断続的にかたはと顔を合わせている。会って特段何をするわけでもなく、他愛ない無駄な話を重ねるばかりの冗長な時間。確かにその通りだったけれど、どうしてだか僕の中で、彼女と共に在る時間の比重が少しずつ増していることを自覚せざるを得なかった。今まで他人と顔を突き合わせて話すという経験が極端に少なかったから、そうかも知れない。彼女は僕の人生の中でも珍しい「話のできる赤の他人」で、かつ「自分と同年代の異性」というさらなるレアケースと合致していた。
彼女と過ごす非生産的な時間が僕の中に占める位置を徐々に増していくと同時に、それ以外の時間、特に学校で過ごす茫漠とした時間は、無味乾燥さをさらに増していきつつあった。
「この前拾ったガーディいたでしょ、あのすごいケガしてたさ」
「いたいた。祥子があの後ポケセン連れてったんだよね? どうなったの?」
「治してもらったよ、しっかりね。右の前足が引き千切れてるって言われてうわぁってなったけど、回復してもらったらあっさり元通り。すごいよねー、あの機械」
僕の右前辺りで、クラスの女子が四人ほど固まって話をしている。僕は視線を敢えて窓の外へ逃しつつも、彼女達の会話にしっかり耳を傾けていた。
女子の一人が口にした「あの機械」というのは、すべてのポケモンセンターに配備されている汎用携帯獣回復装置、通称「リカバリーマシン」の事を指している。リカバリーマシンは現存しない種を含めたありとあらゆるポケモンに対応した万能の機能回復装置で、即死に至るような怪我や疾病でなければほぼ完全に回復させることができる。毎日のように多くの人々が利用していて、その存在はもはや当たり前のものとして認知されている。
リカバリーマシンの根幹を担うのが、ポケモンの「上書き回復」を行うプログラム群である「オーバーライト・キュア」だ。
「もうね、拾ったときはほとんど死にかけだったけど、すっかり全快したよ」
「あんなえぐいことになってても全快させちゃうんだから、科学の進歩ってホントすごいよねえ」
「全身血まみれで目泳いじゃってたからね、あれ超怖かったし」
半死半生のポケモンさえ立ちどころに回復させてしまうオーバーライト・キュア。その仕組みはとても単純というか、名前通りと言うべきか。健康なポケモンの身体情報を内部にデータベースとして持っておいて、回復の対象となるポケモンと情報学的な差分を取得する。その上で、必要な情報が欠落していたり不正な情報が存在していると判断した場合、正常な情報で「上書き」することで根本的な解決を行う。
一言で言えば、ポケモンを上書き(オーバーライト)して回復(キュア)する。見ての通り、正しく名前通りのメソッドだ。
上書きを行うことで、怪我や疾病による「痛み」を完全に「殺し」てしまい、ポケモンを「回復」させる。オーバーライト・キュアの性質は、このように説明できる。
「今はリハビリの準備をしてて、もう一回歩けるようにしてあげてるとこ」
「あれ、治しただけじゃダメなんだ」
「ううん。ホントはリハビリもする必要ないんだけど、なんか怪我が酷かったから念のため、ってことみたい」
「どんだけやばいケガでも病気でも、ポケセンなら治せちゃうってすごすぎだよね」
「バトルとかさせてボロボロにされちゃっても、これさえあれば大丈夫ってわけ」
大切なポケモンが健康を害しても、安全かつ完全に回復することができる。仕組みも単純明快でとても理解しやすい。故にオーバーライト・キュアは、たくさんの人々から全幅の信頼と支持を得ている。今となってはこれなしでのポケモンとの共生は考え得ない、そう断言する人だって少なくない。
痛みを殺して、回復させる。多くの人に受け入れられるのも、僕は理解できる。
「けどさ、なんかこないだテレビでやってたけど、ポケモンをポケモンで上書きして回復させてるんでしょ?」
「なんか聞いたことあるかも。継ぎ接ぎみたいなものだ、自然の摂理に反してるーって」
「あーなんか言ってる人いるねー。そういうこと。たまに駅前でマイク持って叫んでたりするあれ」
「見たことある見たことある。あれでしょ、あのなんかよく分かんないキモい宗教みたいなの」
「多分それー。なんかお父さんの知り合いにもあれ信じてる人いて、たまに勧誘とかされるんだって」
僕は窓に向けていた目線を、ほんの少しだけ下に落とす。
今のこのシチュエーションで空を見るのは、少しばかり僕には酷だ。
「あの人たち怖い。安楽死安楽死って言いながらポケモン殺してる連中じゃん」
「あたしさ、幼稚園くらいの頃にあの宗教の人がコラッタ殺してるところ見ちゃってさ、しばらく夜眠れなかったし」
「うわっ、見ちゃったんだ……それキツいね、シャレにならないよ」
落とした目線に、いつしか僕の手が映り込む。
視界に入り込んだ僕の手が、真っ赤な血でしとどに濡れていたように見えたのは――果たして、僕の気のせいだろうか。
少なくとも今の僕に、答えは出せそうにない。
河原へ向かう足取りが早くなっていることを、そして気持ちがポジティブなものになっていることを、僕はどこか快い思いで受容していた。
僕に背を向けて道端に立つ、黒髪の小柄な少女。背格好だけ見れば、大人しい印象を与える普通の女の子と錯覚してもおかしくない。外見の与える印象はとても大きい。そこでイメージが固まってしまってもなんらおかしなことではない。彼女がこれまで生きてきた中にも、彼女をこれといった特徴を持たない、ただの小市民だと認識した人だって居たに違いない。
だけど。
「あつくん、あつくん。今日もまた、あつくんがかたはの世界に来てくれた。うれしい、うれしい」
「背中に感じる気配だけで、僕だって分かっちゃうものなんだね」
彼女はどこを取っても普通なんかじゃないと、僕は知っている。
「今日は一日どきどき、はらはら。かたはのお隣、車がびゅんびゅん。小さなこころ、元気に弾んでお祭り騒ぎ」
「それでも、事故には遭わなかったんだ。杖も無いのに、よく歩けるね」
「ひびきとかおり、それからぬくもり。かたはの世界のマテリアル、体が感じる全部のよろこび。どんな風にみえるかは、かたはの気まぐれ、好き放題」
失われた視覚の代わりに、他の感覚器官がよく発達している。彼女の言わんとする処はそこにある。残った感覚器官から得られた情報を頭の中で的確に分別し処理して組み立てて、イメージとして世界を「見ている」。しばしば出てくる「かたはの世界」という言葉の意味が、僕にも少し分かった気がした。
一切の躊躇いなく僕に無邪気な笑顔を向ける彼女を、僕は僕の瞳でしっかりと捉える。光を宿さない目は人形のようで、それが却って彼女に不思議な愛嬌を齎している。ここに来て初めて僕は、彼女に抱く好意を明確に認識した。
「あのさ、かたは」
彼女の正体、彼女の出自、彼女の意図。解答を得られていないことは山ほどあったけど、これ以上そんな瑣末なことに時間を費やすのは馬鹿馬鹿しいと、僕は考え始めていて。
いかに「曲がりなり」であろうと、彼女が僕に好意的な感情を向けてくれているのは、現時点に於ける間違いのない事実、なのだから。
「この間の答え、まだ返してなかったよね」
「いいよ、かたは。僕なんかで構わないなら、隣はかたはのために空けておくよ」
僕の言葉に、今度はかたはが首を振って。
「違うの、違うの、そうじゃない」
「かたはのベスト、それがあつくん。スマートに言うと、『あつくんじゃなきゃヤダ』」
「あつくんはあつくんで、あつくんだから、一番すてき」
本当に、思ったことをそのまま言うんだなと、僕は少しばかり照れくささを覚えた。
僕なんか、じゃなくて、僕だから。彼女はとても分かりやすく、そう言ってくれた。僕をこうして「選んで」くれた人が、これまでにいただろうかと思案する。軽く記憶の海を探って、僕は彼女が記念すべき一人目であると認めることにした。なるほど、僕じゃなきゃヤダ、か。なんとまあ、こそばゆくも心地よいものなのだろう。
かたはが僕に右手を差し出す。ぴんと伸びた腕に、迷いは微塵も見られない。
「かたはを信じて、ためらわないで」
「手をつないで歩いたら、でこぼこ道も、さんぽ道」
僕が意を決して彼女の手を取ると、かたはは直ちに頬を緩ませ、力いっぱい手を握る。
「あつくんの手、かたはの手の中。かたはの手、あつくんの手の中」
真っ黒い偽りの瞳が、眩い光を得てきらりと輝く。そんな、ありもしない錯覚を見た気がして。
「あつくんの鼓動、伝わってくる。かたはの鼓動とひとつになって、とくんとくんとこだましてる」
「かたは、感じたい。あつくんといっしょに、たくさん<いのち>を感じたい」
分かったよ、かたは。僕は君に――。
いや。
僕は君「と」、付き合うことにしようじゃないか。
休日の朝。それは、僕が家の中で自由な時間を作れる数少ない機会だった。慣れた手つきで紅茶を淹れて、何も加えずにそのまま口にする。僕はこうしてよく紅茶を飲んでいる。好きだから飲んでいるのだろうか、自分でも分からない。有力な可能性は、まだ小さい頃から飲んでいたのが習慣化しているというものだろう。自分の嗜好である以前に、ルーチンワークとして「紅茶を飲む」という動きが組み込まれている、それが実態だと僕は考える。
概ね、僕の嗜好思考指向は、僕自身の意志に拠るものとは言い難いところがある。端的に言えば自我がない。かねてからこうしていたから、そう教えられて来たから。過去や他者に理由を求めて、僕が自ら何かを選んだという自覚があまり無い。よくないことだと理解はしている。頭で理解はしているけれど、心がそれに追随できない。頭と心は独立独歩。協調路線を取りたいならば、互いの譲歩が不可欠だ。
時折紅茶を啜りつつ、何気なくテレビを観る。放映されていたのは、朝のワイドショー番組だった。チャンネルを変えようか、そんな風に考えて、変えるべきチャンネルを見出せないことに思い至る。何を観たい、何を見たい、何を視たいというものが欠落している。我ながら困ったものだと思う。空虚で空疎な自分という存在を、否が応にもたっぷりと味わうことになる。この感覚は、なかなか辛い。
そうしていると――僕は何気なく新聞を取ろうとしていた。途中で無意識の動きに気がついて、思わずその手を止めた。体が固まってしまって、思うように動かせない。逡巡、逡巡、また逡巡。滑稽な光景だったと思う。孤独で無意味な闘争を経て、僕は漸く新聞を手にした。手にはした、だが目は通せない。一体何の為に新聞を持っているのだろう、それは僕が一番知りたかった。まったくもって理解できない、何の意味もない行動。胸がぎゅうっと締め付けられる思いがした。胸が痛い、だから僕は胸を労らなきゃいけないんだ。とっさに理由を作ると、心中の番人が不承不承「許可」の印を押してくれた。新聞をテーブルに置き直して、僕が胸を抑える。鏡があれば、青白くなった僕の顔をお目に掛かれたことだろう。
虚ろな光を宿したままの僕の瞳が、点けっぱなしにしていたテレビに「人間の『上書き』臨床試験間近か」という大きな見出しが掲げられているのを捉えた。
「負傷したポケモンの治療に広く使われている『オーバーライト・キュア』、これを人間にも応用しようという試みが、生体情報学の権威である半場恒彦博士によって進められています」
レポーターが原稿を読み上げる。僕はそれに聞き入る。淡々とした説明が耳から入って、頭の中に蓄積されていく。
オーバーライト・キュア。ポケモンを上書きして治療を行うこのメソッドを、ポケモンだけでなく人間に対しても適用しようという試みが、少し前から姿を現しつつあった。どんな難病や大怪我であっても、健康な人間の情報で上書きすれば完全に修復できる。ポケモンに対しては完全な実用段階にあるこの手法を、人間にも用いようというのはごくごく自然な流れだ。僕にはそう理解できた。
「人間の『上書き』を行うというこの手法を巡っては、倫理的な面から問題を指摘する声も上がっています――」
とは言え、おいそれと受容できる性質のやり口ではないという意見も、当然のように聞かれた。自然の摂理に反しているのではないか、道徳的に不味いのではないか、生命の愚弄につながるのではないか。異口同音の種々の声。もちろん、人々を苦しめる内患外憂を根本的に抹殺できるという観点から、諸手をあげて歓迎する人だって少なくない。そこまでではないにしろ、「便利だからいいじゃないか」という考えを持つ人は大勢いる。賛否両論。この言葉を当てるのが相応しい状況だった。
否の声を上げる人は互いに結束して、なんとしてもこの邪な研究を成就させまいと目論んでいる。自分たちの意見を如何にして知らしめるか、そのために知恵を振り絞っている。
「『勉強会へ行ってきます』、か」
例えば、僕の父母のように。
いつも河原じゃ代わり映えしない。そう考えた僕は、かたはと並んで近場の公園にくり出した。利用者もなく、整備も滞りがちの寂しげな場所。真っ当な神経をしていれば、こんな場所に来ようなんてそうそう考えるものじゃない。考えたとしても、実現に移すまでにはとてつもなく高いハードルがあるだろう。
「しずかでひっそり、サイレント。あつくんの声、しっかり聞こえる」
「かたはの声も同じだよ。まあ、これはいつものことだけどね」
「いいところ、いいところ。すてき、すてき」
けれど、案の定と言うべきだろうか。かたははとても喜んでくれた。雑音の無い場所なら、かたはは思う存分僕を「感じる」ことができる。なるほど確かに、彼女の言う通りだ。はしゃぐかたはを隣において、僕らは公園で二人佇む。
「だけど、ざんねん、ざんねん。とびきりざんねん」
「残念って、どういうこと?」
「かたはの瞳はツクリモノ。あつくんのひかり、受け止められない。かたはの世界のあつくんは、かたはの作ったお人形。それがざんねん、とってもざんねん」
本心から残念そうに言う彼女に、僕は他では得がたいほどの愛嬌を感じていた。
「なんかこう、時々忘れそうになるんだけど、かたはって目が見えないんだよね。大変じゃない?」
「大変、大変、ほんとに大変。あつくんのお目々が見られない、いっしょになってはじめて気付いた。大変、大変、一大事」
「ええっと、他には? 他にもあるよね?」
「あるある、あるある、盛りだくさん。あつくんのお耳が見られない、はわわ、はわわ。どうしよう、どうしよう」
「僕の顔以外にもさ、見られないものはたくさんあると思うけど……」
「ほんと、ほんと、その通り。あつくんのお手々も首すじも、なんにもかんにも見られない。がっかり、がっかり、底無しがっかり」
彼女の言葉を額面通り受け止めるなら、目が見えなくて困ったのは、僕の姿を見られないことだけ、らしかった。いかにもかたはらしいと言うか、彼女ならではの答えだと感じずにはられない。
広くもない公園をぶらつきながら、取りとめもない会話を楽しんでいた僕とかたはだったけれど。ある時かたはが歩みを止めて、いつもよりもほんの少しだけ改まった口ぶりで、僕の名前を発して見せた。
「あつくん、あつくん」
「かたは……?」
「かたは、もっとあつくんを感じたい。いっぱいいっぱい、感じたい。だから」
彼女は僕の前に立つと、おもむろに僕に両腕を巻き付けて、強く抱き締めてきた。ぎゅうっと、ぎゅうっと、力いっぱい。かたはの行動に不意を突かれて、僕は意識が一瞬飛んだ感覚を覚えた。それを知ってか知らずか、かたはが僕を抱く手を緩める気配はない。
飛んだ意識はありもしない光景を視る。僕は眠っていた旧い記憶が、速やかに目覚めるのを鮮やかに感じ取った。
傷が――じくりと疼いて。
(ダメだ、やめてくれ!)
僕の深層が発した声なき声が、僕の表層を責め苛んで、反射的に体を動かさせた。
「かたは、離してっ、離すんだ!」
「わぁっ」
体を動かしたことで、僕は抱き付いてきたかたはを振りほどいて、その場から突き落とすという結果を作り出していた。
突き飛ばす力を目いっぱい弱めることのみが、僕の理性に許された唯一の抵抗だった。距離を取られたかたははぽかんと口を小さく開けて、それでも目線はしっかり僕に合わせて来ていた。びっくりした、驚いた。そうとしか取れない表情。模造の目とは思えぬほどに、自らの心を惜しげもなく披瀝し伝えてくる視線を受けて、僕は湧き上がる罪悪感で直ちに支配された。
落ち着きを取り戻してから、僕は項垂れて肩を落とした。反射的だったから、なんてのは僕の身勝手な理由に過ぎない。僕を知りたがった彼女を拒絶してしまったのは、今この瞬間の確かな事実だったからだ。
「あつくん、あつくん。かたはのこと、キライ? キライ?」
どうしてそんな質問を、いつもの表情でできるんだろう。僕は純粋に疑問に思った。かたはは平時通りの顔つきで、自分のことが嫌いか、嫌いになったのかと問うてきた。どう表現すべきだろう。とても他人事とは思えないのに、いつも通りの顔つきをして見せている。彼女固有の思考回路に付いていけない、愚鈍な僕が情けなかった。
「……ごめん、かたは。本当にごめん」
「違うんだ、そうじゃない。僕は、かたはのことが嫌いなんかじゃないし、嫌いになったわけでもない」
「僕は――誰かに触れられることに、慣れてないんだ。信じてほしい」
僕のこの、言い訳としか取れないような言葉を受けて、かたはの方は。
「だいじょぶ、だいじょぶ。あつくんを信じる、ためらわない」
「これでかたははまたひとつ、あつくんのことに詳しくなった。オーライ、オーライ」
ゆるゆるになった頬が、かたはの心を嘘偽り無く顕している。僕は自信を持ってそう言うことができる。
「だから、だから、こうしよう、こうしよう」
彼女は僕の手を探し出すと、いつもより少し緩い力で軽く握る。
「ちょっとずつ、ちょっとずつ」
「あつくんがかたはに馴染むように、ちょっとずつ、ちょっとずつ」
伝わる鼓動、それは彼女のもの。伝わる鼓動、それは僕のもの。
この間、かたはが僕に言った通りだと――かたはの手の柔らかさを感じながら、僕は考えた。
何をしたのかよく覚えていない学校を出て、かたはと待ち合わせをするいつもの川沿いの道へ急ぐ。そう、僕は急いでいる。自分でもハッキリ分かるくらいに、先を急いでいた。これの意味するところはただ一つだけ。
一刻も早くかたはに会いたい、彼女と話がしたい。それに尽きた。
「電話、か」
だからだろうか。普段なら大して気にも留めない着信さえ、今の僕にはとても大きな枷のように思えた。別の言葉で言い換えるなら、煩わしいものに感じられて仕方なかった。それでも表向きばかりでも気持ちを落ち着かせて、カバンのポケットから使い古した携帯電話を引き摺り出すと、ディスプレイに表示された番号を視認する。
ああ、やっぱりか。こんな時間に掛けてくるとしたら、確かにあの人しか考えられない。確かにため息交じりに着信ボタンを押して、端末を耳に当てた。
「もしもし。坂崎です」
「こんにちは、淳君。久しぶりだね。元気にしてたかい?」
「ええ、それなりには」
聞き覚えのある声。紛れもなく義徳さんのものだ。何時ものように、僕に向かって「元気にしていたか」と問うてくる。彼が僕に電話をしてくる折には、必ずと言って良いほどここから会話が始まる。彼なりに僕に目を掛けてくれているのだと思う。善意なんだと理解はしている。
けれども、けれども。
「それならいいけど……本当に、大丈夫?」
――けれども。
「大丈夫です。心配しないでください。それじゃあ」
「あっ、淳君、ちょっと――」
理解はしていても、僕はこれ以上踏み込まれたくない。これ以上僕に触れて欲しくない。そんな負の感情がマグマのように競り上がってきて、僕は感情の赴くままに通話を終了した。電源ボタンを押してディスプレイの電源も落としてしまうと、カバンの奥深くへと仕舞い込む。河原で待っているだろうあの黒い瞳の少女の姿を思い浮かべると、僕は少しばかり遅めていた足取りを再び早める。さあ、急がなきゃ。
これ以上、かたはを待たせるわけにはいかない。
僕がかたはと会う度に、彼女のことを少しずつ知っていく。それはそれで間違いは無いけれど、知れば知るほど知りたいことが増えていく。それもまた間違いの無い事実だった。
「あつくん、あつくん。今日もすてきなことのはの束、かたはにもっとたくさん聞かせて」
かたはについて分かったことの一つに、彼女は相当な「知りたがり」で「聞きたがり」だということだ。僕の考えていること、感じたこと、そうしたとりとめも無い話をとにかくたくさん欲しがって、止めなければいつまでもお強請りをやめない。それでいて、彼女は一つ話を聞く度に、突飛な感想を僕に投げ返してくる。如何にもかたはらしい、彼女としかできないやり取りだった。
もっと話を聞かせて欲しい。せがむかたはのまやかしの目に誘われるまま、僕は記憶の中からエピソードを一つ抽出する。
「一年くらい前に、エアームドの巣を子供たちが取り囲んでいるのを見たんだ」
「小学二年生か、三年生くらいの男の子と女の子が、合わせて四人くらいだった」
「親は居なかった。まだ幼い、小さな雛が一羽だけいて、親が帰ってくるのを待ってたよ」
学校から自分の家へ戻る途中に、いつもと違う道を選んで歩いた折のこと。かたはと出会った時に似た、紅と青のグラデーションになった空が広がっていたのを覚えている。そんな空の下で、子供たちに周りをぐるりと取り囲まれた小さなエアームドの雛が、親が戻ってくるのを辛抱強く待っていた。
巣の中で。エアームドの作る、小さな巣の中で。
「人の住み着いているところに巣を作るエアームドは、変わったものを巣に使うんだ」
「有刺鉄線? とげとげ、ちくちく?」
クエスチョンマークを付けているのは、純粋な疑問からではない。彼女はとうに答えを知っていて、それでいて僕の語りとリズムを合わせてくれているから。僕にはそう思えてならなかった。
「そう。どこからか有刺鉄線を集めてきて、器用に編み上げて巣を作るんだよ。自然の多い地域だと、代わりに茨や固い木の枝を使うようだけどね」
「鉄分たくさん、吸収吸収。えふいーえふいー」
「うん。鉄分を増やして、翼をより固いものにするためだ、って説もあるね」
有刺鉄線で作られた巣。目にするのはこれが初めてのことじゃない。僕の住んでいる近くでは、ちらほら見掛ける程度に数はあった。エアームドはそこでタマゴを孵化させて、大人になるまで育て上げる。むろん、中にいる雛は大小無数の傷を負うことになる。有刺鉄線の棘に刺され、引っ掻かれ、肉を引き千切られる。そうして傷を負いながら、エアームドは長い時間を掛けて成長していく。
雛を傷付けるのは、巣の材料だけには留まらない。時には親のエアームドが率先して、雛を自らの手で痛め付けることもある。文字通りの血塗れになって巣で横たわり、傍から見ると瀕死の重傷を負っているような有様になっていることも珍しくない。こうして育てられたエアームドの巣はいつも血の跡がこびり付いていて、雛鳥が巣立った後に残された有刺鉄線の巣は、往々にして酷く赤茶け錆び付いている。
「僕が見た雛も巣の中で傷付いて、たくさんの血を流してた」
「大きな傷もあちこちに見えた。あれはきっと、親が雛を切り裂いたんだと思う」
「それでも内蔵や筋肉、骨が傷付くのは避けてたみたいだから、本能的に『どこをどれだけ傷付けてもいいか』が分かってるんだろうね」
「生かさず殺さずという言葉がぴったりだと、僕は思うよ」
女の子の前で何の話をしているのだろう。僕は時々我に返って、かたはの顔を見つめることがある。
だけど直ちに、もしそこにヒトの瞳が入っていれば、真夏の太陽のように爛々と輝いていただろうことは間違いない眼差しを見て、もう一度我に返る。僕の隣にいるのは名無しの「女の子」ではない、他でもない「かたは」なのだ、と。
「傷だらけで眠ってるエアームドを代わる代わる指さして、子供たちはこう言うんだ」
「『かわいそう』『痛そう』『血が流れてる』『死んじゃわないのかな』」
「誰も彼も、心配そうにして見せてはいる。彼らはもしかしたら、本当に本心から、可哀想だと思ったのかも知れない」
「だけど、誰も手を差し出そうとはしないんだ」
「一人として、雛を触ろうとか、巣から出そうとか、そういう動きをする子供は居なかった。一人として、一人として」
「ただ、何度も繰り返すだけなんだ」
「『かわいそう』『痛そう』『血が流れてる』『死んじゃわないのかな』」
「手が血で濡れることを、無意識のうちに避けているに違いない。僕にはそんな風に見えて仕方なかった」
「彼らには帰るべき家がある。暖かく、柔らかく、そして優しい空間がある。だからかも知れない」
血染めの雛と、無垢な子供たち。彼らはとても無自覚なままに、エアームドと自分たちを「別のいきもの」として区別していたのだろうと、傍から見ていた僕は考えた。雛と子供たちをさらに遠巻きに見つめている僕は一体何なのか、そんな根本的な疑問を棚上げにして、僕は僕の身勝手な感想を垂れ流した。
一呼吸置く。かたはの肩に手を添えると、僕の話はこれでお終いだと読み取ってくれたのだろう。顔を上げて僕の目を見た。
「すてき、すてき。イバラの中のけなげな小鳥、真っ赤に染まったせかいの中で、かすかに聞こえるこころのパルス」
「すべてのいたみはいのちのあかし。すべてのいたみのないせかい、それはすべてのいのちのないせかい。おそろし、おそろし」
「いいはなし、心躍るはなし。あつくん、あつくん。ありがとう、ありがとう」
彼女は僕の話に満足してくれたようだ。なら、それで十分じゃないか。
いつの間にか、僕の思考回路が戸惑うことを止めていることに、遅ればせながら気がついた。
その日のかたはとの別れ際。僕は何気なくカバンのポケットから携帯電話を取りだして、この時間になると何時も届いている迷惑メールを処理しようとしていた。
「あつくん、あつくん。手の中のものは、携帯電話?」
「うん、そうだよ。夕方になるとさ、いつも迷惑メールが来るんだ。溜まらないうちに消しちゃおうと思って」
「削除、削除、電子のもくず。けれどそこにいたみは無くて、あるのはただ1が0になるだけのプロセスだけ。ノーペイン・ノーライフ」
メールを削除していることを教えると、かたはは彼女の思考回路に沿って静かに感想を述べた。少しずつ、本当に少しずつではあるけれど、彼女が生きていく中で何に重きを置いていて、逆に重視していないものが何かが分かってきた。錯覚かも知れないけど、理解できるようになってきた感触がある。
彼女はよく「いたみ」という言葉を使う。物理的な痛みを指すことがほとんどだったけれど、時には精神的な痛み、辛い記憶やトラウマに対して用いることもあった。そしてかたはがしばしば口にする「いたみはいのちのあかし」というフレーズ。彼女の価値観に於いては、痛みこそが生きている証左であり、大切にすべきものであるという軸があるように思えた。そこがまだ僕には飲み込みきれなくて、今の段階では単なる音の塊としてしか受け止められていない。
「ところで、拝啓あつくん様」
「急に変な畏まり方しちゃって、どうしたのさ」
「実はね、実はね、実はですね」
無造作かつ勢いよくポシェットへ手を突っ込むと、かたはが中からしゅばっと何かを取り出したではないか。
「かたはも持ってる、携帯電話」
「持ってたんだね。まあ、持っててもおかしくないけども」
彼女の持っているモデルは、僕が使っているもう数世代前の古いものと大差ない、折りたたみ式のものだった。カラーは薄い桜色。特に理由は無いけれど、彼女らしいなと僕は感じた。
「あつくんも持ってる、携帯電話。かたはも持ってる、携帯電話。それならそれなら、こうか――」
「あっ、ちょっと。ちょっと待ってかたは」
「ふみゅっ」
僕はかたはがすべて言い終わってしまう前に、彼女の口に人差し指をそっと当てて言葉を遮った。元々大きく開いた目をさらにまん丸くして、かたはが僕を見つめる。
「ええっとさ、せっかくだけど、男の子の僕の方から言わせて欲しいんだ」
「ほほう、ほほう。あつくん、男の子。かたは、女の子。言われてみれば、おっしゃる通り」
僕もかたはも、一般的な「男の子」「女の子」のカテゴリに入っているとは思えないから、かたはがきょとんとした顔をしても無理はない。僕だって口にしていて、こんなにもむず痒いだなんて思ってなかったくらいだ。
だけど、あれだ。古くさい考え方かも知れないけど、こういうことは男の子の方から言った方が、やっぱりそれらしいじゃないか。かたはが積極的で、僕のことをたくさん知りたがるのは分かる。とってもよく分かる。だけど、それだけじゃなくて。
「それにさ……僕も、かたはのことをもっと知りたいんだ」
「あっ。あつくん、あつくん。今ね、今ね、かたはのこころ、高鳴っちゃった。ぴょんぴょん跳ねるバネブーみたいに、とくんっ、って」
相も変わらず躊躇せず、思ったことをストレートに言う。けれど、それがかたはをかたはたらしめる、押しも押されもせぬアイデンティティだと理解できてきた。本当に不思議で、変わった女の子だ。だけど僕だって、彼女に劣らずズレている。似た者同士、割れ鍋に綴じ蓋ってやつなんだ。僕はそう思いたい。
「……こほん、じゃあ、言うよ」
かく言う僕も僕で変に畏まって、泳ぎがちになりつつも、かたはにきちんと目を向ける。一度息を吸って、深く深く吐き出してから、なるべく、なるべく、さらりと聞こえるようにと意識して。
「僕と、交換しない? メールアドレスと、電話番号」
「いいね、いいね。いいよ、いいよ」
あちこち回り道して、ようやく言うことができた。軽い脱力感が僕を襲う。もう少しだけ、肩肘張らずに言えたら良いのにと思いつつ、こういうのも悪くないともまた思う。
「赤外線で情報を送ろうか。受信状態にしてくれる?」
「おまかせ、おまかせ。ショートカットは3・4・1。さあさあいつでもウェルカム」
「よし、送ったよ」
「来ました、来ました、ありがとう。贈り物には、お返ししましょう。ショートカットは3・4・2。いち・にの・さんで送っちゃおう」
「こっちはいつでもいいよ。さあ、送って」
「いっちゃえかたはの贈り物、わん・つー・すりー!」
いつの間にか英語になっているのはご愛敬。
「ありがとう、かたは。受け取ったよ。アドレス帳に登録するね」
「かたはのアドレス、あつくんの手の中。これでいつでも、ツナガレル」
「こうしておいた方が連絡もできて、お互い便利だね……あれ」
かたはからもらったアドレスと電話番号を目にして、僕は少しだけ、ごくごく少しだけ、違和感を受けていた。
「……『motoko-84@』……?」
メールアドレスのユーザーネーム、そこには「motoko-84」なる文字列が設定されていた。「84」は重複防止のために付与した数字だとしても「motoko」――恐らく「素子」だろうけど、これは一体どういう意味だろう。彼女なりの拘りかも知れない。訊いてみよう。
「かたは。メールアドレスの『motoko』って、これ――」
「あつくん、あつくん。どうしたの?」
「えっ、いや……教えて貰ったアドレスなんだけどさ、『motoko』って何か意味が」
「あつくん、あつくん。どうしたの?」
「……待ってかたは。最後まで聞いて。メルアドの『motoko』は誰かの名前だったりする」
「あつくん、あつくん。どうしたの?」
僕の形を変えた三度の問い掛けに対して、かたはは眉一つ動かさずに、唯々「どうしたの?」とだけ繰り返す。その様があまりに「いつも通り」過ぎて、どこからどう見ても「いつも通り」で、だからこそ「いつも通り」であることに、僕は違和感を覚えざるを得なかった。こんな彼女の姿は目にしたことが無かったから、僕は少しばかり緊張して身を固くした。
これ以上の質問は無意味だろう。何か、かたはに取って触れられたくないことなのかも知れない。かたはの頭にそっと手を載せて、小動物を慈しむようにそっと撫ぜた。
「ごめん、何でもないよ、かたは。今のは忘れて」
「あつくん、あつくん。すてきな電子のおくりもの、かたははとってもうれしいです」
無限ループブロックでずっと待機し続けて、次のプロシージャへ進むための条件が成立するのを待っていたかのように、かたはが「メールアドレスを交換して貰ったこと」に対する喜びの声を上げた。僕は緊張の糸が切れたようにふっと力が抜けて、元の流れに戻ったんだと実感していた。
分かった、詮索するのは止めよう。彼女が本当に僕に心を開いてくれれば、もしかするとその時に何か聞かせてもらえるかも知れないじゃないか。仮に話してくれなかったとしても、それで彼女の何かが変わるわけでもない。僕はそう考えて、メールアドレスを見て湧いた疑問を握りつぶした。
忘れてしまえば――どうということはない。
ベッドの上で寝転がりながら、携帯電話をぽちぽち弄る。ただそれだけのことなのに、そわそわした気持ちは一向に収まらない。
「『「にく」もすき、「さかな」もすき、「おこめ」もすき、「おやさい」もすき』……意外と何でも食べるんだなあ」
目を向けた先にあるディスプレイには、かたはの綴った短いメールが映し出されている。彼女が声に出して話をする時をイメージさせる、ほとんどがひらがなで構成されたメール。ただ一つ特徴的なのは、絵文字がとてもたくさん使われていることだ。「にく」「さかな」「おこめ」「おやさい」、それぞれの単語をイメージさせる絵文字を使って、文字だけのメールに彩りと潤いを与えてくれている。名詞のほとんどが絵文字に置き換えられているから、それが彼女なりのルールなのかも知れない。なかなかどうして可愛らしいものだと、受け手たる僕は思った。
「『ぼくも、きらいなものはないよ』……っと」
チャットでレスポンスを返すように、僕は手短に内容を固めてメールを送る。その本文は一切の漢字を含まず、ひらがなとカタカナのみで構成している。事前に聞いた話だと、目の見えない彼女がメールの内容を確認したい時は、携帯電話へ特別に組み込んで貰った自動テキスト読み上げツールを使っている、とのことだった。ツールは漢字も読める、けれどそれほど精度が高くないから、全部ひらがなとカタカナにして送って欲しい、意味は自分で組み立てられるから。僕に彼女の要望を無碍にする理由はなかった。
彼女に頼まれるままほぼ無変換の平たいメールを送り続けていると、いつしか自分の感情もまた複雑な内容に逐一変換することなく、もっと素直な素の感情が顕れ始めてくる気がしてきた。
「『あつくんといっしょに「ごはん」がたべたい。「ごはん」をたべて、それから「アイスクリーム」もたべたい』」
「『アイスをたべるなら、チョコレートあじがいいよ』」
「『かたはは『いちご』あじ。あつくんといっしょに「いちご」あじ』」
「『ふたりで、べつべつのアイスをたべればいいんじゃないの?』」
「『ばつ』『ばつ』。それじゃ『ばつ』。ふたりでひとつ、いつでもいっしょ。それがいちばん『にじゅうまる』」
二人で一緒に食事して、それからデザートにはストロベリーのアイスクリームを食べたい。僕がチョコレートアイスクリームがいいと返すと、ストロベリーじゃなきゃ嫌だ、それも二人で一緒がいいと主張して譲らない。普通なら「わがまま」だと感じるだろうけど、かたはがあの表情でお強請りしているところを想像すると、良い意味で逆らえなさそうだった。光はなくとも強い意志を湛えている、彼女はそんな目をしているから。
だけどこう、こうして他愛ないメールを互いに送って送られてを繰り返していると、僕とかたはは確かに互いに「付き合って」いるんだな、ということを実感する。彼女の送ってくるメールが絵文字とひらがなカタカナばかりで、どことなく普通の「女の子」が送ってきてもおかしくないような見てくれをしているのが、余計にその実感を強めている。
(そうか。かたはも「女の子」なんだ)
今更ながらにそんな感情を抱いて、僕はかたはが少しずつ愛しいと思えてきていることを実感した。
彼女としたいこと、それが少しずつ思い浮かんでくる。彼女だって、僕としたいことは山ほどあるだろう。少しずつ進めていけばいい。それこそ、彼女が僕に言ってくれたように「ちょっとずつ」「ちょっとずつ」。
「かたは、あしたもまたあえる?」
「『まる』『まる』『にじゅうまる』!」
そう――「ちょっとずつ」「ちょっとずつ」。
人は目でものを見ているのではなく、頭でものを見ている。誰かが口にしていたこの言葉の意味を、僕は今まさに実感している最中だった。瞳に映る光景と、僕が今頭の中で思い描いている光景は、僕自身が笑ってしまいそうになるほど噛み合わなかった。
左隣に母が、右隣に父が陣取る形で、僕は木製の固いベンチに腰掛けている。前には紺色のベストを身に着けた「識者」が壇上に立っていて、日曜の午前から訪れた信者達に弁舌を揮っていた。
「始まりがあるものには、必ず終わりがあります」
脳裏に浮かぶのはただ一人。それは言うまでもなく、かたはだった。電話番号とメールアドレスを互いに交換し合い、言葉をやりとりする機会が格段に増えた。もちろん、直接会うことだって欠かさず続けている。彼女は僕の気配を感じると直ちに歩み寄ってきて、遠慮なく僕の手を取る。あつくん、あつくん、今日の日もこんにちは。いつも彼女が口にする挨拶を、いつの間にか覚えてしまっている僕が居た。
「終わったことを受け入れることで、新たな始まりを迎えられるのです」
彼女にはずいぶん突っ込んだ話もするようになった。僕が送具である<Painkiller>を持ち歩いている背景や、<Painkiller>を使って死に瀕したポケモンを召している理由といった、少しデリケートな話題もだ。彼女の口ぶりを聞いていると、僕が思っていた以上にかたはは物知りだったようで、概ね僕がどういう立場の人間かを理解しているようだった。
面白い、いや可愛らしいと言うべきだろうか。かたはは既に知っているからと言って僕に話を止めさせたり、あるいは途中で割り込んだりするようなことはまったく無かった。彼女自身が言うには、僕から話を聞けることそのものが嬉しくて、自分が既に持っている知識かどうかはさしたる理由ではない、とのことのようだ。
「現世には終わりが在ることを認めようとせずに、偽りの永遠を欲する子羊たちが群れています」
僕は彼女に乞われるまま、僕が物心付いた頃から教え込まれてきた教条のうち、特に大切だと言われてきたものを教えた。かたはの方はというと、僕が日常生活を送るに当たって気を付けねばならないこと、そして禁忌とされていることを特に知りたがっていた。
「彼らを善き道へ導くこともまた、現世を生きる我らの責務であります」
何人たりとも、死者を偲ぶものを作ることは許されない。かたはには、まずこの教条について教えた。
帰天主義に属する人間は例外なく、如何なる理由があろうと、墓標・墓所・墓地・墓碑――その他有形のあらゆる「死者を偲ぶもの」を作ることや、既に存在するそれらのものに加わることを固く禁じられている。これは帰天主義について詳しく知らない市井の人々にも広まっていて、帰天主義が一般に異端視されることの一因ともなっている。
「天に御座します神の眼差しは遍く我らを捉えており、我らの奉仕する様を見守っておいでなのです」
神の子たる人間の本質は、魂である。生者は肉体に魂が宿った存在で、死者は魂を肉体の束縛から解き放たれた存在である。帰天主義の根幹になる考え方はここに尽きる。死者は物言わぬ屍、言うなれば只の肉塊に過ぎず、それに執着することに何らの意味も見出さない。墓標や墓碑などは文字通り無用の長物で、むしろ肉体から解き放たれた魂を現世に束縛する悪しき象徴として見られている。厳格な教義に撚れば火葬や埋葬によって死者を葬ることも禁忌に当たり、野晒しにして自然に還すことのみが唯一許された死者に対する扱いとされている。
「昨今の現世に於ける風潮、これが非常に嘆かわしく、悲しきものであることは論を俟ちません」
そこから派生して、他の人間の血肉を自らの肉体に取り入れることは望ましくないという教条もある。経口摂取はもちろんのこと、臓器移植や輸血もこれに当たる。ただ、これはあくまで「望ましくない」というものに止まっていて、厳しく強制されているものではない。実状としては、もし信者が臓器移植や大量の輸血が必要な怪我や疾病に見舞われれば、その肉体は「天へ帰る時が来た」と見做され、近しい者によって患者が「召される」ことの方がずっと多いのだけど。
禁忌である死者を弔うこととは対照的に、積極的に推奨されていること、つまり「すべきこと」もある。
「しかし我々は恐れてはなりません。天に御座します神は我らを護り、止むことの無い愛を抱いておいでです」
その筆頭が、「死者を忘れること」だ。
死者が魂の無い肉塊であるというのは先に述べた通り。そこから派生して、死者を忘却し記憶に留めないことが推奨されるようになった。人々の記憶という精神的な束縛から解き放たれることで、魂がより速やかに神の御座します天へと帰ることができるようにするというのがその主旨だ。だから、死者を忘れることが奨められる。最初からいなかったかのように振る舞えることが、もっとも望ましい。
「祈りましょう、祈りましょう。我らの思いが現世を遍く包み込み、善き世界へと生まれ変わりますようにと」
死者を思うことは禁忌とされ、死者を忘却することは奨励される。かたはにこの二つの点を教えると、彼女は何度も何度も頷いて、満足げな表情をして見せていた。なるほど、なるほど。あつくんの世界には、そんなルールがあるんだね。そんな感想を零していたのを憶えている。いい表情をしていた。知りたいことが分かった、僕の見ている世界をもう一歩踏み込んで理解できた。彼女の喜びが滲み出た表情だった。
「では、これにて。皆様の日々に幸多からんことを」
僕が頭でものを見ることをやめると、ちょうど説法が終わっていた。
ベッドの上で右手の人差し指を見やる。先っぽには小さな傷跡。傷そのものはとうに塞がって、これ以上血が流れてくることも無い。それほど深い傷でもないから、あと数日もすれば跡形もなく消えてしまうだろう。惜しいな、と僕は思う。こんな傷痕であれば、残ってくれていても構わないのに。指先に傷を作った経緯を、僕は今一度振り返ってみた。
夕刻。いつものように二人で待ち合わせた折に、かたはが僕の送具である<Painkiller>に触れてみたい、と言い出したのが切っ掛けだった。僕がカバンから<Painkiller>を取り出そうとした時に、僕は指先に冷たい感触が走るのを覚えた。冷たいと思った次の瞬間には、翻すかのように指先が熱くなるのを感じた。
「あっ……」
「あつくん、あつくん。どうしたの?」
エアームドの翼で切られると、初めに一瞬冷たくなって、それから遅れて火傷にも似た強い痛みを覚えると言われる。切れ味が鋭すぎるために痛覚が痛みを知覚するよりも先に傷口が開いて、身体が外気に晒されて冷たいと感じるからだそうだ。実際に切ってみると、確かに説得力があると僕は得心した。
つまるところ、僕は指先を<Painkiller>で切ってしまった、ということになる。
「大したことないよ。ちょっと、指先を切っちゃったんだ」
「これかな、これかな?」
かたはが子犬のようにすんすんと鼻を小さく鳴らすと、ほとんど迷わず僕の人差し指に両手を絡めてきた。どの指が傷ついたか、文字通り手に取るように分かっているようだった。
「それで合ってるよ、かたは。よく分かったね」
「血のにおい、いいにおい。君のにおいとひとつになって、かたはのからだを包み込む。くらくらしそう、ゆめみたい」
うっとりとした、という形容詞が似つかわしい表情で、かたはが僕の指先に絡めた手を艶かしく蠢かせる。どこか子供らしさを残すあどけない顔つきをしているのに、僕は彼女から放たれる色香をひしひしと感じずにはいられなかった。彼女は「くらくらしそう」と口にしたが、それは僕もまた同じことだった。
僕はかたはがこの後どんな行動を取るか、大筋で想像が付いていた。想像が付いていたけれども、それは僕に息を飲ませるには十分に過ぎた。彼女の熱を帯びた吐息が指先に掛かる。指先には鮮やかな紅色の珠が浮かび上がって、今にも零れ落ちそうになっていた。
「あつくん、あつくん。あつくんの血、かたはにちょうだい」
ああ――やっぱり、そうだよね。僕は納得し、同時に胸が高鳴るのを覚えた。
「いいよ、かたは。かたはの好きにして」
僕がいいよと答えると、頬を緩ませたかたはが平たい瞳を僕に向けて、おもむろに指先に口付けた。口からピンク色の舌をちらつかせると、間を置かずほんの少しだけざらついた感触が指先を撫ぜた。指先に集められていた紅い血が彼女の舌を伝っていき、目には見えないけれども、彼女の喉の奥へ飲み込まれていくのを感じることができた。
彼女の中に、僕が入っていく。
「あつくん、あつくん。かたはの舌、あつくんの味でいっぱい。あつくんの味がする」
愛しげに指先へ舌を這わせる彼女の様子を眺めていると、僕は明白に鼓動が早くなるのを自覚した。喉の奥から絞り出される呼気が、唾液で濡れた人差し指に生温かい感触を齎す。あつくんの味がする、あつくんの味がする。恍惚とした表情でしきりに繰り返す。もっと見せてほしい、僕にもっと、君の生々しい姿を見せてほしい。剥き出しの欲望と願望が際限なく膨らんでいく。僕を欲しがるかたはの姿は、僕の見てきたありとあらゆる人間の中で、抜きん出て生き生きとしていた。
彼女の言葉を借りるなら、「いのち」に満ち充ちていた。
かたはがひとしきり指先を弄ぶと、血はそれ以上流れなくなった。かたはもそれに気づいて、咥えていた指先をそっと解放する。彼女の表情からは物欲しそうな様子がありありと伺えた。もっと血が欲しい、僕の血が欲しい。無言の言葉が僕に押し寄せてくる。かたはが訴える欲求の奔流に、僕は自らの意志で身を委ねることを選んだ。
「かたは、もっと欲しい?」
「ほしい、ほしい。たくさんほしい、いっぱいほしい」
「分かった。僕も、血を啜る君の姿をもっと見てたいんだ」
カバンから取り出した<Painkiller>を左手に握ると、躊躇わず先端を塞がり掛けている傷口へ押し当てた。見る見るうちに鮮血が滲み出てきて、指先を静かに伝い始める。かたはが再び小さく鼻を鳴らす。僕の血のにおいを嗅ぎ付けたようだった。
「あつくん、あつくん。いたい? いたい?」
「痛みなんて――もう、とうの昔に忘れちゃったよ」
小首を傾げて訊ねる彼女に、僕はありのままの言葉を返す。
そう、もう痛みなんて忘れた。忘れてしまったんだ。
「あげるよ、かたは。君の望むままに」
無意識のうちに、僕はかたはの口内へ自ら指先を差し入れていた。
「坂崎くん、ちょっといい?」
「どうしたんですか、稲森先生」
いつものように――いつの間にか「いつものように」という形容がしっくり来るようになっていた、僕にはそう思えた――河原で待っているだろうかたはの元へと急ごうとした矢先、僕は担任の稲森先生に呼び止められた。英語のリーディングを担当している、二十代後半の女性の教師。それが僕の知っている稲森先生のすべてだった。
僕は足を止めて、稲森先生のいる方向へ向き直る。彼女は一つ咳払いをしてから、おもむろにこんな話を切り出してきた。
「大したことじゃないんだけど……進路のことで、一つ話があって」
「僕の進路について、ですか」
ここまでに言っていなかったかも知れないけど、僕は今高校二年生だ。稲森先生がどうして今の僕に進路の話をしようとしているのか、僕にはいまいちピンとこなかった。もちろん、早いうちから進路のことを考え始めるのは別に悪いことじゃないのは、僕だって頭では理解してる。だけどそれは自主的なもので、担任と顔を突き合わせてするようなものじゃないと思わずには居られなかった。
今頃かたははどうしているだろう。いつも彼女が先に来て待っていてくれているから、僕としては申し訳ない気持ちでいっぱいだ。今日こそはかたはよりも先にあの場所へ赴いて、彼女が来るのを待っていたかったんだけれども。
「隣の県に坂崎くんと合いそうな大学があって、そこへ行ってみたらどうかな、って思ったの」
「けれど先生。隣の県だと、実家から通うのは難しいと思うんですが」
「そうね、家を出て一人暮らしをすることになるわ。けれど、坂崎くんももう大人だし、独り立ちしてもいいんじゃないかしら?」
「今の法律では、二十歳未満は未成年です。まだ大人とは言えません」
この会話を通して、先生は僕に何を伝えたいのだろう。そこのところが少しも分からなくて、僕はしきりに首を傾げざるを得なかった。
「理屈では、確かにそう。だけど……坂崎くん、あなたは家を出た方がいい、先生はそう思うの」
「僕は、実家での暮らしにそれほど不便を感じていません」
「今はそうかも知れないわ。けれど外の世界に出れば、新しいものの見方ができるようになる。そうでしょう?」
「こうして学校に通うことも、外の世界に出ていると言えると思います」
会話が噛み合っていないのだろうか。僕は稲森先生の意図を汲もうとしているけれど、どうにも上手くいかない。先生も僕にどう言葉を掛けるべきか迷い始めているようだった。
「先生。すみませんが、僕は用事があるので、これで失礼します」
「あっ、ちょっと、坂崎くん!」
稲森先生の声を背中にして、僕はその場から早足で立ち去る。
さあ――かたはの処へ急がなきゃ。
僕が遅れてしまったために、彼女は今日も待っていた。僕の立場からすると、彼女を待たせてしまったということになる。
些かの罪悪感を覚えながらかたはに歩み寄る。こちらに背を向けて立っている彼女は、たとえ僕が声を掛ければいつものようにはちきれんばかりの笑顔を見せてくれると分かっていても、まるで待ちぼうけを食らわされたことを不満に思っているかのようで、僕にとっては居た堪れなかった。僕がもっと早く行動していれば、彼女を待つことだってできたかも知れないのに。仮定に基づく悔恨が僕を苦しめる。
せめて、ほんの少しであってもかたはを歓ばせてあげられないだろうか。僕は歩きながらも思案を重ねて、ふと――一つの案を思い浮かべるに至った。普通では考えられない、仮に考えたとしてもまず実行に移そうとは思わない、普通の人が相手なら間違いなく拒絶されるような案だった。だけど不思議と、かたはなら歓んでくれる、僕にはそんな確信があった。
反射的にカバンから<Painkiller>を取り出し、右手に構える。彼女のすぐ後ろにまで音を立てずに歩み寄って、かたはの感覚器官が僕を捉えるよりも先に射程圏内に入ることができた。僕は息を殺して彼女の真後ろに立ち、ほんの少し勢いを付けて彼女に飛び掛った。
「お待たせ、かたは」
「わあっ――」
僕は彼女に後ろから抱きつくと、首筋にきらりと光る<Painkiller>を突き付けた。
「分かるかな? 今、君がどんな状況にいるか」
かたはは小さく声を上げて見せると、そのまま身じろぎ一つせず立ち続けていた。
「……みえる、みえる、とってもみえる。かたはの首筋、その近く。きらりとひかる、つめたい刃」
「やっぱり全部分かっちゃうんだ。すごいよ、かたは」
「えへへ。かたは、あつくんにほめられた。ほめられちゃった」
かたはの声には、戸惑いとか困惑とか、そういった要素が微塵も混じっていなくて、ただただ「驚いた」「嬉しい」「楽しい」――そんなプラスの感情だけが前面に全面に押し出されていた。首筋に当てられた<Painkiller>の感触を、彼女は心から愉しんでいるようだった。
「背中のぬくもり。あつくんの体温、あつくんのぬくもり」
「首筋のつめたさ。刃の切っ先、今にも触れそう。その気になったら、すぐに消えちゃういのちの灯火」
「――しあわせ。あたたかいしあわせ、つめたいしあわせ。前と後ろ、正反対の幸せを、かたはがぜんぶ独り占め」
「あつくん、あつくん、ありがとう。すてきな贈り物、おしゃれな贈り物。かたははとってもしあわせです」
後ろから刃物を突き付けられる。常識で考えれば、驚かれこそすれ間違いなく拒絶されるような行為だったけれど、かたはにとって僕からのそれは、紛れもなく「すてきな贈り物」に感じられたみたいだ。密着した躰から伝わる彼女の鼓動は高鳴っていて、今の状況を好ましく思っているのは明らかだった。
首を回して僕に目を向ける。彼女の顔は、いつにも増して素晴らしい笑顔だった。
「歓んでくれたみたいで、何よりだよ」
「あつくん、あつくん。やっぱりすてき、とってもすてき。かたはの目に狂いはございませんでした」
「こういうのって、確か『あすなろ抱き』って言うらしいね」
「いえす、いえす、そのとおり。ロマンティックでドラマティック。かたはのからだ、今にもとろけてしまいそう」
そこにこうやって刃物が出てくるのが、いかにも僕ららしいよね。僕がおどけてそう付け加えると、彼女は声を上げて笑ってくれた。
少し間を置いてから、かたはが僕に尋ねてきた。
「あつくん、あつくん。かたはを抱っこしても、平気になった?」
「――うん。君は、僕のことを受け入れてくれるって、そう思えるようになったから」
「じゃあかたは、あつくんの特別な人?」
かつて抱いていた恐怖心が、誰かに身を寄せること、身を寄せられることへの畏れが、かたはに対しては生じてこなくなってきていた。
「そういうことだよ」
「えへへ。それはそれは、グッドニュース。ベリーグッドニュース」
そういう意味では――確かに、「特別な人」だった。
ひっそりとした表通り。人の往来も少なく、今ひとつ活気というものが感じられない。シャッターが降りたままの店舗も珍しくない。僕たちの入った喫茶店は、そんな寂寥感漂う商店街の一角に位置していた。
「木のにおい、やすらぐ香り。初めてなのに、ノスタルジック」
「気に入ってくれたみたいで何よりだよ。一人で落ち着きたい時に、たまに使ってる場所なんだ」
確か「ルージュ」って名前だったはずだ。確かめようと思ってお店の入り口にあるガラス扉を覗き込むと、鏡文字になったそれが目に飛び込んできて、僕は自分の記憶が正しかったことを確認した。
ここは僕が物心付いた頃から、今と変わらぬスタイルで経営を続けている。内装もメニューも、そして店長を含む従業員の顔ぶれも変わっていない。小学生の頃にホットコーヒーとトーストサンドが美味しいと聞いていて、僕も高校生になってからしばしばそのセットを注文している。苦いコーヒーは僕には合わないと感じていたのが、今となってはずいぶん前のことのように感じる。
「かたは、何がいい? コーヒー? それとも紅茶?」
「アップルジュース! 日本語で言うと、りんごのしずく!」
かたはのマイペースぶりは相変わらずだった。コーヒーでも紅茶でもなく、アップルジュースがいいらしい。じゃあ、僕はホットコーヒーでも頼もうか、そう考えていた折のこと。
「ご注文はお決まりですか?」
「きまり、きまり! アップルジュース! あーんど・ストローをダブル!」
えっ――ちょっと、かたは、それって。
「確認します。アップルジュースがお一つ、以上でよろしいですか?」
「あの、かたは、ストロー二本って……」
「いえす、いえす!」
「承りました。少々お待ちください」
僕が疑問を差し挟む余地を与えず、かたはは素早く注文を確定させてしまった。呆気に取られた僕に、かたはが人懐っこさといたずらっぽさが同居した笑顔を向けてくる。背を向けてカウンターの裏側へ去っていく店員から目を離すと、僕は頬を綻ばせるかたはの肩に手を載せた。
「ジュースは一つ、ストローは二本。ということは、つまり……」
「かたはとあつくん、ふたりでひとつ。アップルジュースも、ふたりでひとつ。うれしはずかし、ダブルストロー」
「……まあ、そうなるよね」
態々確認せずとも、分かりきったことではあったけれど。
注文を取った店員が気を利かせてくれた(お節介を焼いた、とも言う)ようで、グラスに並々と注がれたアップルジュースには既にストローが二本差しされていた。向かい合って座る僕らの真ん中にジュースを据えると、かたはははち切れんばかりの笑顔でそれを見つめ始めた。これもやっぱり、匂いで場所が分かるらしい。
「ちょっとこそばゆいけど……けど、かたはと僕は付き合ってるんだ。堂々としてなきゃね」
「かたはとあつくん、恋人なう。できたてほやほや、どきどきアベック」
「アベックって言い方はもう死語だと思うけど、なんだか僕ららしい気もするよ」
苦笑いを浮かべて応じる僕に、かたはの方はキャッキャッと無邪気な様子を見せている。戸惑っていた頃が嘘のように、僕は今の彼女から純粋に愛嬌を感じとることができている。これも、付き合い始めたことによる変化なのかもしれない。
だから、彼女からこんな提案をされても、僕は何一つ驚かなかった。
「あつくん、あつくん。きいて、きいて」
「どうしたの、かたは」
「アップルジュース、りんごのしずく。紅いりんごの成れの果て。けれどちっとも紅くない、りんごだけれど紅くない」
「だから、紅色が欲しい――そういうこと、かな?」
その通りだよ。彼女は言葉を口にする代わりに、大きく頷くことで応じた。
彼女の意図がさっぱり汲めないほど、僕も朴念珍ではない。店員が僕らに目を向けていないのを素早く確かめてから、僕はカバンをさりげなくテーブルの上に載せた。ポケットのファスナーを開くと、中に手を差し入れてしばし小細工をする。済んでから手を除けると、天井に取り付けられたシックなランプが放つ光を、ポケットの中の冷たい刃がきらりと跳ね返していた。
僕は静かに手を入れると、中指を選んで刃先に押し当て、ほんの少しだけ指先を沿わせた。冷たい感触がしたかと思うと、知覚する頃には熱い感触へ変貌していた。グラスに注がれたアップルジュースの上で傷口を潰して血を滲ませると、間もなく僕の血が下へ落ちていった。
「ジュースに僕の血を加えたよ。それで満足してくれるかな?」
「ううん、ううん。もっとほしい、もっともっと紅がほしい」
かたはがテーブルに置かれた僕のカバンを探り当てて、ぺたぺたとしきりに触って感覚を確かめている。彼女の仕草が何を示しているか、かたはが彼女の世界の中で何を探しているか、僕にはすぐ理解できた。彼女の意図が分かる、この感触が得も言われぬ心地よさとなって、僕をやさしく包み込む。
「分かった。それなら、もっと紅くしよう」
「ここにかたはの血も入れて、ひとつにするんだ」
勢いよく頷く彼女を見て、僕は一層自分の感触に自信が持てた。
「よし。じゃあ、その手を――」
「あつくん、あつくん。ストップ・ストップ」
側に置かれた右手を取ろうとした僕を、彼女が素早く制止した。
「どうしたんだい、かたは」
「あつくん、あつくん。かたはからの大切なお願いです」
「僕にお願い?」
「ダメダメダメ子なこっちじゃなくて、大事な大事な左の手。かたははこっちがいいのです」
かたはは僕に左手を差し出すと、こっちの指先を傷付けてくれというサインを送ってきた。彼女なりのこだわりがあるようだった。僕は二つ返事で了承すると、硝子細工でも扱うような手つきでもって、彼女の柔らかな繊手をそっとポケットへ忍び込ませる。細心の注意を払いつつ、ポケットの中で蠢く送具の刃先を、彼女の中指に押し当てた。
その時の彼女の表情を、僕はきっと忘れられないだろう。至福という言葉がここまで綺麗に当て嵌まる顔つきも珍しかった。あぁ、と声が漏れる。喘ぐような悩ましげな声だった。生暖かい吐息が微かに僕の頬を掠めた、そんな錯覚を覚える。ポケットの内部を覗き込む。<Painkiller>の先端が、彼女の指先を包む皮膚を貫いて、紅色のしずくを湛えている様が目に飛び込んできた。かたはに目を向ける。恍惚とした表情を浮かべながら、指先から伝わる刺激に小さく身悶えしていた。
「かたは、痛い?」
「いたい、いたい。とってもすてき、くせになりそう」
心底心地よさそうな面持ちだった。強がりでも虚勢でも何でもない――そもそも、僕には彼女がそんな稚拙な仮面を被るようなタイプとは、欠片も思えない――、本心から出た言葉に見えた。彼女にとって痛みは快感、或いは悦楽、若しくは愉悦。幼さを残す顔立ちとは裏腹な彼女の先鋭的な性癖に、僕は無意識のうちに胸が高鳴るのを感じていた。
「いたいの、いたいの、とんでかないで」
「いのちの波動、からだを巡って頭へとどく。小さな波動、大きく育って、頭の鎖を引き裂いて」
「からだのいたみ、いのちのあかし、ああっ」
感じ入った声をあげて、彼女が大きく身震いした。
僕が彼女の手の甲に手を添えると、かたはは名残惜しげに<Painkiller>から指先を離す。中指には紅い珠がくっきりと浮かんで、今にも零れ落ちそうになっていた。僕が彼女の手をグラスの真上まで持ってきてあげると、器用にくるんとひっくり返して指先とグラスを対面させた。
ぽたり、ぽたり。彼女の血がアップルジュースの注がれたグラスに落ちていった。浅葱色のジュースに、紅色の薄いもやが少しずつ広がっていく。三滴ほど垂らしたあと、手をグラスから除けてやる。未だに外へ零れようとしている血を見ながら、僕は彼女の指先を手で包んで温めた。そうしてしばらく待つと、かたはの指先から溢れていた紅珠が姿を消して、紅い小さな染みを残すばかりとなった。
眼前には、僕とかたはの血が加えられたアップルジュース。血はいつしかジュースの中でひとつになって、外からは血が混じっているようには見えなくなっていた。ストローを探していたかたはの口をグラスの前へ運んであげてから、続けて僕も白いストローに口をつけた。
「じゃあ、かたは。一緒に飲もうか」
かたはが大きく頷いた。白い歯を浮かべて笑う。つられて僕も一緒に笑う。ストローから液体を吸い上げて、喉の奥へ流し込んでいく。
僕たちの血を加えたアップルジュースは――いつもより少し、瑞々しい味がした。
ジュースを飲み干してからしばらく談笑して、僕らは連れ立って喫茶店を後にした。
「かたは、ありがとう。おいしかったよ、アップルジュース」
「おいしいりんご、自然のめぐみ。かたはも満足、だいまんぞく」
僕らは結局あのジュースを分け合って飲んだだけで、他には何も口にしなかった。けれど、他には何も要らないというのが僕の偽らざる本音だった。少しだけ混ぜものを加えただけの、何の変哲もない林檎のジュース。それさえあれば、今の僕たちにとっては十分に過ぎた。
「だけど、ざんねん、ざんねん」
「何か気になることでもあるの? かたは」
「りんごのしずく、かたはのしずく、あつくんのしずく。三位一体のいのちの水。とってもおいしかったけど、時計の針がくるんと回れば、後はお外へ出ていくだけ。からだにたまったゴミといっしょに、押し流されて消えていく。それがざんねん、とびきりざんねん」
口から摂取したものは体内で吸収されて、不要なものは外へ排泄される。かたははあのジュースも同じ運命を辿ると言い、それが残念だとこぼした。舌がとろけるような美食も、喉を潤す命の水も、体に取り込まれてしまえばすべて同じ。彼女の口ぶりからは、そんな無常観が見て取れた。
かたはの言葉に僕は少しばかりの切なさを覚えて、おもむろに彼女の肩に手を置いた。いつものように満面の笑みを浮かべて返す彼女に、僕はもっと尽くしてやりたい、気持ちに応えてやりたいという思いを強くした。どれだけ歪なカタチであれ、僕たちはまごうことなき男女の仲だ。側で笑っていてほしいと思うのは、当然のことだろう。
「じゃあさ、あれだよ。外に出て行かないようにすればいいんじゃないかな? 寒い部屋に篭もれば、汗をかかずに済むよ」
「ヤ、ヤ。さむいのはキライ。おしっこの数も増えるから、とびきりキライ」
「はははっ。ま、寒いと確かにそうなっちゃうよね」
感情を包み隠さず露にするかたはの様子が、愛しくてならなかった。
元来た道を遡って歩いていく中で、辺りから人影が消えた頃のことだった。
「あつくん、あつくん」
「どうしたの、かたは」
道端に立ち止まった彼女は不意に僕の右手を掴むと、そのまま自分の元へと近づけて行って――。
「うわっ……か、かたは……!?」
「えへへ。あつくんにも、かたはのどきどき、おすそわけ」
自分の胸へと、迷うことなく押し当てた。
指先に伝わる柔らかな感触は、かたはが身につけているこざっぱりしたブラウスのものなんかじゃ無い。紛れもなく間違いなく、彼女の肉体が齎すものだった。それは、僕が考えていたよりも少しばかり大きくて、ふわふわとした触り心地をしていた。布越しであることを忘れさせるほどに、はっきりと体温が伝わってくる。春の陽射しを浴びたようなぬくもりが、胸にぴったりとくっ付けられた僕の掌に広がっていく。
自分の胸へ男子である僕の手を無遠慮に押し付けるかたはの大胆さに、さすがに僕も面食らってしまった。何も知らぬ子供のような表情に混ざり込んだ、すべてを見透かす小悪魔のような瞳。そこに僕の姿が映し出されていないことだけが、困惑し狼狽している僕にとっての唯一つの救いだった。
「おいしいジュース、たのしいおはなし、すてきなあつくん。かたははとってもいい気持ち。きょうはとっても、しあわせな日」
「その、かたは……胸……」
「どきどき、どきどき。高鳴るかたはのこころのパルス、あつくんにもちゃんと伝えたい」
彼女の言う通り、手から伝わるかたはの鼓動は確かに早くなっていた。一度それを意識してしまうと、手を当てているこちらまでつられて脈拍が上がってきそうだった。かたはが僕の気持ちを理解して態とこうしているのか、あるいは無邪気さが齎す天性の色香なのか。どちらとも言えるし、どちらとも言えない。それが、かたはという不思議な少女の性質だった。
脈打つ鼓動、朱に染まる頬。それは僕だけでなく、かたはも同じだった。丸みを帯びた彼女の頬は、恰も林檎のようだった。先程僕らが飲み干したあのジュースに使われた、陽の光を浴びて育った林檎のよう。無垢な表情が見せる甘味と、時折紡がれる言葉の直截さが齎す酸味。
かたはは――確かに林檎のような少女かも知れなかった。
「かたは、伝わってくるよ。君の鼓動も、体温も、皮膚の感触も、全部」
「あつくん、あつくん。かたはは今、うっとりしています。背中にはがねのつばさがはえて、今にも空へうかんでゆきそうです」
「空へ、か。僕はかたはと――」
一緒にここで、地上で居たい。僕がそう続けようとした直後だった。
「あつくん――」
「おっとっと」
かたはが僕の胸元へ大きく寄りかかってきて、そのまま脱力してしまった。眩暈でも起こしてしまったのだろうか。僕は彼女を両腕で抱きとめて、倒れ込まないようにその華奢な体を支えてやる。彼女の目はとろんとしていて、心ここに在らず、といった具合だった。ぼーっとした表情で平らな瞳を僕に向ける彼女に、僕は今一度胸の高鳴りを覚えた。
「大丈夫?」
「平気、平気。しあわせすぎて、かたはのこころがオーバーヒート。ただそれだけ、ただそれだけ」
にこり、と笑って見せながら、彼女は僕に寄り掛かるのを止めなかった。僕もかたはの求めるまま、自分の胸を彼女に明け渡していた。彼女の体温を間近に感じられるから、何も悪いことじゃない。僕にとっては、望ましいとさえ言えるシチュエーションだった。
「また今日みたいに、一緒にジュースを飲もうか」
「のみたい、のみたい。たくさんのみたい」
彼女を抱きながら物思いに耽る。僕らは「ルージュ」で互いの血を混ぜたアップルジュースを飲んだ。一昔前でさえ時代遅れだと評されるような、一つのグラスに二本のストローを差して飲むあの飲み方で、だ。今の僕の躰には、例えごくわずかとは言えど、かたはの血が流れている。対する彼女の躰にも、僕の血が巡っている。二人で一つ。今の僕らは紛れもなく、二人で一つだった。
「もし」
「もし?」
「もしもかたはが魔法を使えたら、ふたりでいっしょに魔法をかけて、海のお水を飲んでみたい」
「海水を飲みたい?」
「飲めるのは、かたはとあつくん、ふたりだけ。そんな魔法を使ってみたい」
「それは、どういう意味?」
「海のお水は無限大。りんごみたいに終わりが無くて、いつまでもいっしょに、ふたりでいっしょに、ひとつのものを飲んでいられる。それができたら、ずっとしあわせ、無限にしあわせ」
海の水を僕ら二人だけが飲めるようになれば、世界中の海を涸れ果てさせるまで、二人だけで一つのものを飲んでいられる――かたはの空想は途方も無く突拍子も無く、だけど言いたいことは驚くほどストレートに伝わってくる。彼女の見ている世界はどんなカタチをしているのだろう。僕はそれを知りたいと思った。
もっと彼女の側に居たい。彼女を感じていたい。そう思いながら、僕は胸に寄り掛かる彼女を今一度強く抱きしめた。
早いもので、もう二ヶ月が経った。それは僕とかたはの二人が、見ての通り些か世間ずれしつつも、「付き合っている男女」らしい有り様を身に付けつつあった頃のことだった。
僕らに――ある一つの転機が訪れた。
人気の無い裏路地を二人して当て所なく散歩していた折のことだ。僕は道端に横たわるものを見つけて、反射的に足を止めた。
「あつくん、あつくん。見つけた、見つけた」
「君も分かったみたいだね、かたは」
僕が声を上げるよりも先に、隣のかたはが口を開いた。
「オニスズメ? オニスズメ?」
「へえ……種族まで分かっちゃうなんて、さすがだね。合ってるよ、かたは」
道端に横臥するオニスズメ。少し遠くから眺めても、衰弱しているのは明らかだった。外傷は見当たらず、萎れた尾羽はこのオニスズメが老体であることを如実に示していた。老衰、この二文字が僕の脳裏を過っていく。先はもう長くない、今は生きているか死んでいるか、自身にも判然としない状態だろう。最早救う手立ては無く、これ以上生きることは徒に苦しむ時間を長引かせるだけだ。
「お年を召したオニスズメ、今までほんとにお疲れさま」
「あのオニスズメは善く生きた。この期に及んで苦しむ必要は無い。だから、僕が――」
あのオニスズメを召そう。そう言い掛けて、言葉を準備し終えたと同時に。
かたはが僕の手を少しだけ強く握って、自らの存在を訴えてきた。僕は喉まで出ていた言葉をぐっと飲み込んで、彼女の意志を確認することにした。何時もと何ら変わらない、弾むような調子でもって、僕に向かってかたはが呟く。
「あつくん、あつくん」
「いたみのおわり、いのちのピリオド」
「かたはも近くで感じたい。いのちあるものの最後のひととき」
手に込められた力が一層強くなる。かたはが手を強く握ることの意味を、僕は一切合財の言葉なくして、はっきりと理解するに至った。思わず息を飲む。知らず知らずのうちに、僕の手にも強い力が込められていて。
「かたは、君は……」
僕は言葉を途切れさせた。それでも一分も余すところ無く、僕の思いは伝わっていて。
「おしまいに、してあげよう?」
「いのちのピリオド、刻んであげよう?」
頭に思い浮かべていたものと寸分違わぬ言葉を、彼女は口にした。
来るべき時が来た。僕は身が引き締まる思いを抑え切れなかった。いつかはきっと彼女も、自分の手で死に瀕したポケモンを召したいとせがんでくるに違いないとは思っていた。その時が来たら、ありのまま受け容れようとも考えていた。心構えは持っていた筈なのに、今こうして矢面に立たされると、否が応にも緊張してしまう。
この一線を越えてしまったら、僕らは何かが変わってしまうのではないか。かたはが今までとは異質な存在になってしまうのではないか。具体性の無い抽象的な不安が僕を包み込む。何がどう不安なのかは説明できないけれど、僕の胸騒ぎは収まる気配を見せなかった。彼女の血が手で濡れてしまうことを恐れているのか、彼女が醒めてしまうのを恐れているのか、或いはその何れでもないのか。無数の可能性が脳裏を過って、僕の思考力を奪っていく。
半ば凍結していた僕を、再び元通りに動かしたのは。
「ふたりで、いっしょに」
「かたはとあつくん。ふたりでいっしょに」
「おしまいに――してあげよう?」
他ならぬ、かたはの言葉だった。
「……そうか、そうだね。僕とかたはの二人で、あのオニスズメを召せばいいんだ」
僕は、自分の思考が凝り固まっていたことを自覚して、苦笑いを浮かべるほか無かった。
「かたはとあつくん、あつくんとかたは。互い互いに手をとって。ふたりでいっしょに、共同作業」
そうだ。彼女が口にした通り、僕らは二人で一つなんだ。ポケモンを召すことだって、二人で力を合わせれば、恐れることなど何もない。「いのちのおわりを感じたい」。かたはは確かに言っていた。彼女は僕が味わっている感覚を、自分もまた味わいたいと考えてくれている。
もしかすると、彼女は僕にとって初めての「真なる理解者」になってくれるかも知れないんだ。
僕の脳裏にヴィジョンが広がる。赤茶けて錆び付いた刺々しい有刺鉄線を踏み越えて、巣の中へ入ってきてくれる。血で濡れた躰を抱いてくれる。傷口に手を触れてくれる。彼女なら、この女の子なら、かたはなら――何の苦もなく、それができる気がした。
「分かった。かたは、一緒にやろう」
「あのオニスズメを楽にして、痛みを殺してあげるんだ」
手際よくカバンのポケットから<Painkiller>を取り出す。かたはの手を導いて柄を握らせると、僕が側に手を添えてアシストする。彼女の手を包み込むことはしなかった。手を血に濡らして、彼女の言う「いのちのおわり」を感じてもらいたかったからだ。かたはもそれを望んでいると、僕は確信していた。
二人して呼吸を整える。眼前のオニスズメの瞳は酷く白濁していて、僕らの姿はもはっきり視えていないに違いなかった。仮にもし何かが見えているとしたら、僕らはどう認識されていることだろう。手を差し伸べにきた善意の人間か、苦痛を与えにきた悪意の人間か、若しくは死者を異界へ連行する天使か死神か。既にそこまで思考が回らなくなっているというのが、最も理に適っていただろうけど。
「あつくん、あつくん。かたははいつでも大丈夫」
終わりにしよう。
「よし。じゃあ、そろそろ行くよ。せーの、だからね」
この老いたオニスズメの命を。
「――せー、のっ!」
始めよう。
「……!」
僕らの新しい関係を。
「――ああ」
「はいった、はいった」
「しろがねの刃、小さなからだを貫いて」
「確かに刻んだ――いのちのおわり」
恍惚とした表情という言葉が、今の彼女を表現するに当たってもっとも適切だと、僕には思えた。
「あったかい、あったかい」
「ふるえるからだ、ながれるちしお、こぼれるといき」
「きえゆくほのおのさいごのかがやき」
「これが、いのちのおわり。いたみのおわり」
夢を見る少女のような顔つきで、手を血に塗れさせたかたはが、ぽつりぽつりと言葉を漏らした。
オニスズメの心臓に深々と突き立てられて、文字通り即死に至らしめた<Painkiller>から手を離し、かたはが手探りでオニスズメだったものの骸を探す。彼女の手が血を湛える傷口付近に触れると、そこで動きが止まった。まるで慈しむように両手を回し、肉塊と化した骸をしきりに撫ぜた。その度に夥しい量の血が手に纏わり付いて、馴染めなかった分が地面へポタポタと垂れていく。そんな様相を呈していた。
彼女は確かに感じた。感じ取った。生きていた者が死ぬということを、生物から非生物へ遷移するということを、それが「いのちのおわり」だということを。すべてを自らの手に受け止めて、摂食して、咀嚼して、嚥下して、そして胃の腑に収めていく。
「――すてき、すてき」
「いのちのおわり、それは、いのちがいちばんかがやくとき」
「最後のほのお、やみを破って、せかいを照らして」
「かたはのせかいで――きらきらひかる」
満足げに血で濡れた手を空に翳すかたはを、僕もまた満足な気持ちで眺めていた。
僕らは二人で、二人でいっしょに、ポケモンを召したのだ。
「うれしい、うれしい。とってもすてき、いい気持ち」
「僕もだ、かたは。これで僕たちは、もっとつながりを強くすることができた。僕はそう思うよ」
血塗れの手で、同じく血塗れの彼女の手を取る。
握り返された彼女の手からは、彼女の刻む胸の鼓動が、確かに伝わってくるのを感じた。
僕らの関係は、その日を境にますます深化していった。
傷つき死に瀕したポケモンを見つけては、二人の「共同作業」で召していく。僕らの手が血に染まって、躰に血のにおいが纏わりついて行くごとに、僕らはより深く心を通わせるようになっていった。血に濡れた手を空に掲げて無邪気に喜ぶかたはを見ていると、僕まで彼女に感化されて童心に帰ってしまいそうなほどだった。
命の灯火が尽き掛けているポケモンはいくらでもいた。ポケモン同士の諍いで傷ついた者もいたし、事故に巻き込まれて生死の境を彷徨っている者もいた。もちろん、身勝手な人間に捨てられて、生きる術を見つけられずに死に逝こうとしている者もいた。それらを見つけては、僕らは<Painkiller>で召していった。
ポケモンたちを<Painkiller>で召すのは、ひとえにかたはの喜ぶ姿が見られるからだった。ポケモンを召すことの意義や是非は二の次で、僕は彼女が歓喜する様をただ見ていたいだけだった。倫理も教義も、主義も思想も関係なく、ただかたはが喜んでさえくれれば僕は満足だった。
「あつくん、あつくん。かたは、上手に切れてる?」
「綺麗に切れてるよ。うまく小さい方だけを切り取ってくれたみたいだね」
ホームランボールを手にした少年のような爽快な表情で、かたはが戦利品を――切り取られたチェリンボの顔を、空に向けて掲げる。切り口からはまだ赤い血が溢れていて、手首に流れたそれを舌を使って嘗め取る彼女の姿が見て取れた。
「じゃあさ、一緒に食べようか。チェリンボの実は美味しいって言うからね」
「さんせい・さんせい・だんさんせい!」
僕が手早くチェリンボだったモノを切り分けると、小さく開かれた彼女の口へそっと押し込んでやった。歯を食い込ませて果実をその場に固定すると、指先でそれを指して僕に続くよう訴え掛けてきた。望むところだとばかりに、僕は果実の反対側にかぶりついた。
かたはが実を齧る、僕が反対側から食べ進める。鉄のような血の味が広がったかと思うと、刹那によく熟したさくらんぼのような強い甘味とほとばしる果汁が口内を埋め尽くした。さほど大きいとは言えない果実が零れ落ちるか、さもなくば僕らの口の中へ収まりきるかするまでには、さして時間は掛からなかった。僕らの間を隔てていたのは果実だけだったから、それが無くなったということは、自ずと意味するところも決まってきて。
「あつくん、あつくん」
「かたは……」
僕らは自然と、口付けを交わすことになる。
僕が少し前に彼女を生まれて初めて目にしたとき、触れると冷たそうな印象を受けたのを、僕はよく覚えている。では、今はどうだろう? 青白い顔をしているという外見的なファクターに変わりは無いけど、触れ合うときの体温は暖かさに満ちていることを、僕はよく知っている。そう、知っているんだ。彼女と肌を重ねるときの感触を、僕は知っているんだ。
舌を絡ませあって戯れあった後、彼女は僕の背中に回した手でとんとんと合図を送ってきた。彼女の「お強請り」を、僕は着実に理解し受容しつつあった。近くに放り捨てていた<Painkiller>を手にすると、僕は躊躇わずに自分の人差し指を切りつけた。傷口から血が浮かんで来るのが見える。彼女から唇を離すと、半開きになったままの彼女のそれに指を差し入れた。
「あつくん、ああ、あつくん」
「美味しい? 僕の血は」
「すてき、すてき。かたはの味覚をとろかして、からだの奥へしみていく。デリシャス、デリシャス」
あつくんの血はごちそう。かたはの一番のごちそう。僕が血を供する度に、彼女はしきりに繰り返した。舌の蠢く艶かしい感触が指先を撫ぜて、徐々に徐々に溶かされていく錯覚を覚える。彼女はいつも僕の血が止まってしまうまで、絶えず舌を動かし続けていた。
夢見心地で僕の指先を味わう彼女を見ていると、僕はいつもかたはと出会えたことを心から喜ばしく思う。僕自身、彼女に傷口を嘗めてもらうこの行為に、この上ない快楽と愉悦を見出していた。他人には真似などできない、かたはだからこそできる僕への奉仕。僕は彼女に血を供するし、彼女は僕に奉仕する。主従の曖昧な僕らの関係はとても理想的で、僕はこれ以上望むものなど無かった。
「かたはのせかい。とってもとってもちいさなせかい。だけどあつくんの血は、そのせかいでいちばんおいしい」
「大袈裟に聞こえるかもしれないけど、僕は君の躰を巡る血を、いつか全部僕の血にしてあげたい。本気でそう思ってるよ」
「いいね、いいね。かたはの血、みいんなあつくんの血になったら、きっとあつくんとひとつになれるね」
無関係の第三者からすると、僕とかたはの交流はどう見えることだろう。かたはと付き合い始めた最初の頃、そんなことを気にしていた覚えがある。今はどうだろう。そんなことは最早どうでもよくて、僕はかたはが喜んで、歓んで、悦んでさえくれれば満足できる。第三者のことを気にしていたら、かたはに向ける気持ちが薄れてしまうじゃないか。
「かたはのせかいは、ちいさなせかい」
「井の中の蛙、籠の中の鳥、ボールに入った携帯獣」
「けれど、けれど、けれどもです」
「かたはは鳥でも蛙でも、況してやケダモノでもありません」
「ニンゲンなのです。かたはは、ただのニンゲンなのです」
詩を紡ぐような口ぶりの彼女を、僕がそっと抱き締める。
「そうだね、かたは。その通りだよ。だけど、一つ付け加えさせてほしい」
彼女はニンゲンだ。他の誰が何と言おうと、彼女が自らをニンゲンだと称するなら、それが唯一絶対の答えになる。僕はそれを充分理解している。受容もしている。拒絶するつもりも否定するつもりも一切無い。欠片もない。けれど敢えて、彼女に意見する形になるのを承知で、僕は彼女の言葉に付け加えさせてもらった。
「かたは。君は――ニンゲンである前に、<かたは>だよ」
「他の誰でもない、他に替えが無い<かたは>なんだ」
かたははかたはだ。ニンゲンであろうと無かろうと、ケダモノであろうと無かろうと、それよりも先ず、かたははかたはだ。僕の中で絶対に揺るがない軸、それはかたはがかたはであること。僕は彼女に、そう伝えた。彼女の驚いた表情が瞳に映る。僕の言葉に心動かされた様子が、手に取るように分かる。
「あつくん、あつくん。もういっかい、もういっかい聞かせて」
「一度と言わずに何度でも言うよ。かたはは、かたはだ」
「かたははかたは?」
「そう。かたははかたはだ」
「かたはは、かたは」
「かたは。君が自分をニンゲンだと言うなら、それは正しい。間違ってなんかない。僕はそれを信じるし受け入れる。だけどね、かたは。僕にとっては、かたはは何よりも先ずかたはなんだ」
かたははかたは。たった七文字の言葉で、僕と彼女はより一層強い結びつきを得られた。喜びを爆発させて、両腕を目一杯広げて僕に抱きついてきたかたはを、余すところ無く受け入れる。僕はいつしか、彼女に懐へ飛び込まれても何も恐れなくなっていた。彼女を突き飛ばしてしまったかつての記憶が、まるで嘘だったようにさえ思えてくるほどだ。
これほど近い距離で人と触れ合えるようになったのは、いったい何時以来だろう。或いは、僕の懐へ飛び込んできてくれるような人と出会ったのは、いったい何時以来だろう。
少しだけそんな感情が過って――僕はまたすぐに、胸の中で何度も頬ずりする彼女にすべての気持ちを向け直した。