雷鳴錦
長治(チョウジ)の秋と言えばなんといっても東間王合戦(あずまおうがっせん)でございました。いかりの湖に豪商たちが集まって自慢の東間王を持ち寄って泳がせ、その大きさ、美しさを競うのです。
江戸に幕府が開かれた時代、諸国を治める大名達の間では菊見が流行しましたが、材を得た商人たちがそれ以上に夢中になったのは土佐金(とさきん)、そしてそれが成長した東間王(あずまおう)でした。水に濡れた鱗は時に赤く時に黄金(こがね)に、時に透通るように輝いて、彼らを魅了したのです。
時に大きく、姿(かたち)がよく、色や模様の調和が美しい個体には高値がつきました。そんな美しい東間王を邸宅の大きな池に泳がせる事は商人たちの材の大きさを何より示すものだったのです。
名だたる豪商たちは自分の東間王が諸国一だと示す為、秋になると長治の里に集まって、いかりの湖に放ち、魚比べを行ったのでした。篝火に照らされた水面に東間王達の鱗が赤に黄金に輝いて湖を彩ります。それは山々の紅葉以上の美しさであると評判になり、たくさんの人々が集うようになりました。
そうしてこの年の秋ももいかりの湖は赤の錦で染められ、集まった人々を目を楽しませていました。人々は湖に船を浮かべ、水面を眺めましたし、豪商たちは立派な屋形船を貸し切ると酒を片手に東王の泳ぎに見入りました。
ああ、諸国から集まってきた選りすぐりの東間王達のなんと立派な事でしょう。特に大きなものが船の近くを通った時など、人々は歓声を上げました。
あれはは誰のだ。あれは円寿の米問屋の……という具合に会話がなされて、東間王が大きければ大きいほどに主のその名も轟いたのでした。人々がざわめく大きな大きな東間王は決まって、豪商たちの持ち物でした。どの東間王も甲乙が付けがたく、持ち主達は皆、それぞれに大きさ、姿、色に理由をつけて自分の東間王が一番だと考えていたのでした。
そんな彼らのうちに雷鳴が轟くがごとくざわめきが走ったのは何百匹目の魚達の往来を見たのちだったでしょうか。彼らは湖の中に今まで見た中で一回りも二回りも大きな東間王の姿を見出しました。その東間王は黄金を宿した燃えるような赤に、白く透き通る美しい模様を篝火に照らされながら豪商たちの屋形船に近づいてきます。水の流れに揺れる尾や鰭の優雅な事、額から生える一本の大きな角は湖で泳ぐどの魚より太く長いのです。
ああ、なんということだ。その魚を見た瞬間に商人達は悟りました。自分の東間王は諸国一などではなかったのだ、と。
そうして、あれは誰のだ、誰の東間王だ、と口々に言い始めました。もはや彼らは持ち主を確認せずにはおれませんでした。けれど誰もその東間王の主を知らないのでした。
もしや、金魚師か。
主探しが一巡した時に豪商の一人が言いました。金魚師――それは操り人と云われる獣や使鬼を操る事に長けた者のうち、特に魚の姿のもの、土佐金や東間王を扱う事を専門にしている者を指す言葉です。この行事には各地から操り人や金魚師が東間王を木の実に入れて訪れるのです。手塩にかけて育てた東間王が豪商の目にとまったならば高く買い上げて貰えるからでありました。
それで今度は金魚師探しが始まりました。屋形船はゆっくりと件(くだん)の東間王を追ってゆきます。そうしてやがて船の集まる明るい場所から少し暗い船もまばらな場所に入った頃、彼らは湖に浮かぶ一艘の小さな小舟を見つけたのでした。東間王は小舟の回りを優雅に泳ぎました。それは小舟の上にいる貧しい身なりの男が主である事を示していました。
お前は金魚師か。屋形船の中から豪商は尋ねます。
いかにも、と男は答えます。
その東間王はお前のものか。
いかにも。男はまた答えました。
そうして男がそう唱えた刹那、豪商達は競うように喚きだしたのでした。
千両出そう。そうある者が言うと、千二百両とある者が言いました。千五百という声がそれに続き、二千両の声がそれらを打ち消しました。皆もうすっかりその東間王が欲しくて欲しくてたまらなくなっていたのでした。声が声をかき消して消し、より高い値が鳴り響きました。けれど、そんな駆け引きが続いて最後の値が皆を黙らせた頃、男が言いました。
私がここに来たのはこれを売るためではありません。皆様がそうであるように自身の東間王こそが諸国一であるという確信を得る為に私もここに参じたのです。
この東間王は金魚師としての私の命。何人の手にも渡す気はございません。
そう言うと金魚師は目的は果たしたと言わんばかりに持っていたひょうたんの蓋を開きました。すると瞬く間に東間王はその中に吸い込まれていったのです。金魚師は竿を手にとると闇夜の中に消えていきました。その漕ぐのの早いこと早いこと。商人たちは屋形船で追いかけたもののとうとう男の姿を見失ってしまいました。
悲嘆にくれる商人たち。しかしその中に静かに金魚師の消えた湖の先を見つける豪商がおりました。それは彼らの中で一番高い値をつけた商人でした。
彼は密かになんとしてもあの東間王を手に入れてやろうと決意したのでありました。
(たぶん続く)