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  [No.3316] お下がりのシンボラー 1 投稿者:GPS   投稿日:2014/07/06(Sun) 18:11:02   68clap [■この記事に拍手する] [Tweet]

「……と、いう感じなんだけど」
 ポケモン同伴大歓迎、サイユウ料理専門店。四人とポケモン幾匹かに囲まれたお座敷で、喋り続けていた俺の向かいに座る男がそう言って話を切り上げた。どことなく決まり悪そうにして目を逸らし、テーブルに置かれたメニューを用も無いのに眺めている。俺はすかさずそんな彼に向かって、大袈裟に腕を広げて見せながら叫んでやった。
「マジかよ! めっちゃロマンチックじゃん、何その胸キュンエピソード!! 俺もう感動しちゃったよ、まさかキョウヤが、あのポケモンに興味なさそうだったキョウヤが、そんなステキデイズを送っていたなんて……! まったく、そういうことは早く教えてよ!!」
「あー、うるさいうるさい」
「まーたそんなこと言っちゃってさー! ここに来た時なんて超ラブラブだったじゃん、手なんか繋いじゃったりして! 隅に置けない奴め!」
「うるさいってば」
「ほら見てよパルミエ、リュウ! あんなそっけないこと言ってる癖に抱きつかれている腕をふりほどく素振りすら見せないぞ!」
「うっせえぞカクタス!!」
 流石に調子に乗りすぎた俺を一括して、目の前の男こと我が友人であるキョウヤが憮然とした顔で泡盛を煽った。ごめーん、と軽く謝罪した俺と、それを睨みつけるキョウヤを彼の片腕にしがみついた電気ウナギが交互に見る。今キョウヤが話していたのはこの電気ウナギ、シビルドンとのエピソードなのだけれども、予想外のストーリーに俺は驚愕してしまった。ノリのせいでからかっている風に捉えられたかもしれないけれど、感動したのは嘘じゃない。
 ちなみに、大して酒に強いわけでもないキョウヤの前には既に何本かの空き瓶がある。詳しくは知らないけれど、ポケモンを持たない主義っぽかったキョウヤがポケモンを連れてきたというだけでもテンションが上がるというのに、それがあたかもラブラブカップルの如くひっついてきたのだから、もう興味深いとかそれどころじゃ無いだろう。これは単にゲットしたとかそういう次元じゃないな、と直感的に悟った俺はキョウヤの口を割るためにとりあえず酔わすことにしたのだ。許せ。
 俺が心の中で謝っている間にも、キョウヤのシビルドンはキョウヤから離れようとしない。テーブルに並ぶ料理や酒類に興味を示している風ではあるが、それよりかはキョウヤにくっついている方がいいらしい。
「ったくお前はそうやってすぐ騒……ん、なんだ? これ食べたいのか、なら早くそう言ってくれよ」
 そしてそんなシビルドンの様子を察し、キョウヤが俺への文句を中断してポケモン用に味付けされた料理を手元に寄せる。それを一欠片つまんだキョウヤの手からシビルドンは嬉しそうに料理を食べた。うまいか、と言ってキョウヤが笑ってシビルドンの頭を撫でる。めっちゃいい笑顔。
「なんだよ、すっごくいちゃいちゃしてるじゃねえか!!」
「いっ……そんなことないだろ」
「ありまくるよ!! ちくしょー、見せつけやがって……いいもんね、俺だってラビちゃんとほっぺすりすりでもてんしのキッスでもだいばくはつでも、何だってしてやるんだからな! ラビちゃん!! こっちおいで!!」
「お前のバルチャイならお前なんてそっちのけで飯食ってるぞ」
「ラビちゃーん!!」
 俺の悲痛な叫びすら無視して、我関せずと言った様子の愛しいバルチャイ、ラビちゃんはシーヤの皮を切ったものを夢中でつついていた。ちくしょう、なんでだ。でもシーヤの汁で嘴の周りを汚しているラビちゃんもかわいい。でも悔しい。
 シビルドンに「はいあーん」をしながら、俺に若干同情っぽい目を向けてくるキョウヤへの嫉妬の炎がブラストバーンだ。そう肩を震わせる俺の背中が隣からぽんと叩かれる。
「見苦しいからやめろ、カクタス。そもそもキョウヤの話を聞き出したのは君じゃないか」
 諫めるような口調でそう言ったのは、ブロンドの美声年として大学でも有名なパルミエである。涼しい顔をしているが、キョウヤに酒をどんどん飲ませていたのは俺というよりはこいつの方だ。何傍観者ぶってるんだ、という思いを込めて睨んでみたもののあっさりかわされてしまう。優雅にゴーヤーチャンプルを食ってるその姿が無性に腹立たしい。
「そうからかうものじゃない、尊い話なんだから。愛は美しい」
「二言目にはすぐこれだ。こんなことイケメン以外が言ってもキモいって言われるのがオチだっていうのに、これがモテてるのがむかつくよなあ」
「っていうかパルミエ、ビビヨンの鱗粉が舞散ってるんだけど……」
 パルミエは大量にビビヨンを持っていて、しかもそれを全員連れ歩いているのだ。別にそれはいいのだが、ビビヨンたちが羽ばたくせいで色とりどりの鱗粉が部屋中に飛んでいて気になることこの上ない。しかも全匹違う種類だからカラーバリエーションが豊富で余計目に付く。
 シビルドンの紺色の鱗に点々としている、赤だの黄色だのの粉を見て発せられたキョウヤの文句に俺も頷くが、パルミエは「大丈夫だ。ただの鱗粉なら多少体内に入っても効果は出ないから」とさらりと返す。そういう問題ではないし、パルミエがパイルカクテルを飲ませたことによってビビヨンたちは明らかに酔っている。うっかりしびれごなやどくのこなでも出されたらたまったものじゃない、俺とキョウヤは顔を見合わせて、どちらともなく肩を竦めた。
「まあいいじゃない、いつものことなんだから」
「リュウ。お前の頭にもゲンガーにも、めっちゃ鱗粉積もってるぞ」
「えっマジ」
 静かな声色のまま表情を固まらせたのは、酒漬けにされた豆腐をキョウヤの隣でつついていたリュウだ。ちょうど彼らの真上でひょうせつのビビヨンがふらふらと飛んでいるため、リュウの黒髪もゲンガーの紫も白くなっている。髪の毛と眼鏡のフレーム、そしてゲンガーに積もった白い粉を払い落としながらリュウが酷いなあ、と気の抜けた声で抗議した。
「せっかくシャワー浴びてきたのに」
「ごめんよ、彼女たちに悪気はないんだ。許してくれリュウ」
「いいって。怒ってるわけじゃない」
 パルミエとリュウの会話を聞いているとどこか脱力してしまう。それはキョウヤも同じようで、気の抜けた顔でシビルドンに寄りかかっていた。そんな俺たちの様子に、かじっていたサーターアンダーギーから顔を上げたゲンガーがきょとんとする。

 俺とキョウヤとパルミエとリョウは見た目も中身も全く違う。肌も髪も目も黒い俺と、いわゆる「陶器のような」白い肌にブロンド、青い瞳のパルミエ。キョウヤとリョウは黄色い肌と黒っぽい髪をしているが、リョウの方は不摂生気味なためキョウヤよりも若干青白い。不気味だからどうにかしてほしい。
 キョウヤは講義もサークルもバイトも何でもちゃんとやる真面目な奴だけど、俺はサークルにかまけて単位を落としかけまくっている。腹立たしいことにおモテになり、女の子から引く手あまたのパルミエも講義はサボっているはずだが、何故か余裕に溢れている。リュウは本の虫で、暇さえあれば図書室か本屋に篭りっきりになる奴だ。
 ここまで違う、そもそも俺とキョウヤ以外の二人は学部さえ異なるのだが、何故だか馬が合うらしくたびたびこうして四人集まっている。どう考えてもちぐはぐな取り合わせだろうに、人間とは不思議なものだ。
「なあラビちゃん、そう思うよな?」
「ぢぢぢ」
 シーヤに満足したらしく、ゲンガーのサーターアンダーギーに狙いを定めているラビちゃんをさりげなく止めながら尋ねてみる。殻の部分を引っ張られたラビちゃんは不満の声を上げたが、リュウのゲンガーは普通のゲンガーよりも小さめで弱く、その上泣き虫だからラビちゃんに食べ物をとられたら泣いてしまうだろう。つまみ食いを許すわけにはいかない。
 こっち食べなさい、という感じでラビちゃんを俺の手元にあったマゴに誘導する。そのまま膝に乗せて撫でていると、油に汚れたゲンガーの口を拭きながらリュウが「ところで」と首を傾げた。
「キョウヤは今まで全くポケモン持ったことない、って前に言ってたけど大丈夫なの? シビルドンってエリートトレーナーとかカミツレさん、クダリさんみたいに強い人も使うポケモンだから色々大変そうだけど……」
「確かに。進化重ねるごとに気位も高くなるって言うしね。ってそこは懐いてるからいいのか」
 若干からかうような口調でパルミエ付け足す。それに少しだけ眉を顰めて、でも否定しないキョウヤは「大丈夫、姉ちゃんに教えてもらえるから」と答えた。
「メールとか電話で、きのみだの傷薬だの色々連絡きたよ。俺がポケモンと過ごしてるの知ってすごい喜んでたからさ。あとまあ、ネットもあるし」
「そっか、そういえばお姉さんいたんだっけ」
「時々テレビとかで見るよね。この前雑誌でインタビュー受けてたよ、『現役トレーナーに聞く、バトルもOKファッションポイント25』っていうやつ」
「強いし、美人だし、あんな姉ちゃんマジ羨ましいわ。読モトレーナーもしてるよな〜、紹介してくれよキョウヤ!」
「それは駄目だ、姉ちゃんブリーダーの彼氏いるらしいんだよ。三年前から」
「ちっくしょう! トレーナーとブリーダーのカップルとか、輝石ラッキーの耐久よりも盤石じゃねーか! 絶対無理だろ!!」
 即答で返ってきた言葉に、だんっ、とグラスをテーブルに叩きつけて抗議する。俺に言われても、とキョウヤが肩を竦めた。「まあ落ち込むな。それにトレーナーはやめとけ」とパルミエが俺の背中を叩くのに合わせて、事態を察したらしいビビヨンが何匹か顔をのぞき込んできたが、正直鱗粉が鼻に入って困るので気持ちだけにして欲しい。
 泣き崩れる俺に苦笑して、リュウが刺身の皿をこちらによこしてくれた。目の前を横切る皿をチラ見したシビルドンはおしぼりに興味を持ったのか、二本の腕を器用に操って自分の手だのキョウヤの腕だのを拭いている。されるがままのキョウヤが話題を変えようと口を開いた。
「そういや、みんな兄弟ってどうなんだっけ。前聞いた気もするけどあんま覚えてなくて」
「僕は一人っ子だ」
「あれ、そうだっけ? なんか前、お前に似てる金髪美少女姉妹との写メ見せてくれたじゃん」
「あの二人は従姉妹だよ。ヒャッコクシティに住んでるんだけど−−ちなみに紹介しないからね」
「まだ何も言ってないだろ!? 俺のことなんだと思ってるんだ!」
 あんまりなことを言うパルミエに掴みかかりかける俺を華麗に無視して、キョウヤが「リュウは?」と尋ねている。が、リュウの反応は「うーん……いっぱいいるっちゃいるし、みたいな感じかな……」などという曖昧なものだった。思い返せば、以前リュウに兄弟のことを聞いたときもこんな様子だった気がする。自分のことをあまり話さないリュウだけど、話したくないのかもしれない。
 それをキョウヤも察したらしく、そっか、と一言頷いてグラスを傾けた。少し残っていた透き通った液体が無くなり、氷が涼しげな音を立てる。ふう、と一息ついてからキョウヤはグラスを置いて俺を見た。
「で、カクタスはーー」
 促すその声に、俺はすぐ答えられない。言いにくいことがあるわけじゃないし、複雑な事情があるわけでもない。ただ、一瞬だけ間が生まれてしまった。
 口を開くのが遅れた俺に、キョウヤが不思議そうな目を向ける。パルミエが怪訝そうに姿勢を変える。リュウが少し首を傾げた。シビルドンの大きな目玉が、ゲンガーの紅い瞳が、何匹ものビビヨンの眼球が俺の方を向く。ラビちゃんまでもがくぐもった鳴き声をあげて、じっと俺を見上げていた。
 全員の視線を集めた俺は、何でもない風に答える。ラビちゃんの頭を撫でてやりながら、出来るだけ軽い笑みを浮かべて。
「末っ子なんだよね、しかも五人兄弟の! 多いよー、もうお下がり天国ってやつ」


 がちゃり、と鍵を回すと扉の隙間から家の中の光が漏れた。窓を開ければ大きな螺子山が見える、ホドモエ中心地から少し離れた住宅街にある一軒家。一応庭付き二階建て、マラカッチの表札が目印の茶色い屋根が俺の家だ。
「あら、思ったより早かったのね。おかえり」
 店でねむり状態になってしまったラビちゃんを抱えながら片手で靴を脱いでいると、お風呂上がりであろう母親がタオルで髪を拭きながら登場した。その後ろから母親のポケモンであるペリッパーもついてくる。
「ただいま母ちゃん。風呂、一番最後になるのイヤなんだよ。だって最後掃除だろー?」
「残念ね。十分前にカリムが帰って来ちゃって、予約入ってるのよ。あんたは今日も最後よ」
「はあ!? またかよ、あの馬鹿姉……!」
「そんなこと言わないの! じゃ、掃除よろしくね」
 ほろ酔いも一気に冷めて崩れ落ちる俺に、母親はハハハと豪快に笑いながら鼻歌混じりで台所へ消えていく。この様子から勤め先の保育園で「ホドモエのアロエさん」と呼ばれているその笑顔が今は腹立たしい。歯噛みする俺を慰めようとしてくれているのか、ペリッパーが翼で肩を叩いてくれたけれども力加減をしてくれなかったためめっちゃ痛かった。
 しかしいつまでもここで落ち込んでいるわけにはいかないので、とりあえず家にあがることにする。三歳年上で次女にあたる姉、カリム姉ちゃんが「予約」ということはまだ入浴していないということだろう。それに加えて最後に入った者が受け持つ掃除当番、俺が眠りにつけるのは何時になることだろうか。明日の一限には行けそうもないから代返をキョウヤに頼むことを固く決めた。
「…………おかえり」
「…………ただいま。……わり」
 またかよこのクズ大学生が、と毒づくキョウヤを頭の中から頑張って消しながら、うがい手洗いそして歯磨きのために洗面所に入ると長兄の姿があった。家族共通の黒い目をぱち、と瞬かせ、下着を洗濯籠に入れかけた長兄の動きが止まる。
 ちょうど風呂に入るところだったらしく、全裸の長兄は服を脱いでいたら突然脱衣所に現れた俺に少し驚いたようで若干表情筋を固まらせていた。気まずいのと申し訳ないのとで俺も返事のタイミングが遅れ、何とも言いがたい雰囲気が漂う俺達を長兄のチャオブーが風呂桶片手に眺めている。
 しかし今更兄弟の裸ごときでそうそう驚いていられない。すぐに調子を取り戻した長兄は「悪いね」と苦笑した。
「先にお風呂いただくよ。その顔だと……カリムに先越されちゃったんだろ?」
「そうだよ、わざわざ言わなくていいだろ兄ちゃん」
「コノハがいればどうにかなったのかもしれないけど……ま、今回は運が悪かったと思って」
「またそうやって他人事みたいに」
 次兄にあたるコノハ兄ちゃんの名を出した長兄に溜息で返す。次兄はダブランを持っているため、念力で風呂掃除くらいちゃちゃっと終わらせることが出来るのだけれども、高校の先生をしている彼はダブラン共々現在修学旅行でジョウトへと行ってしまっている。頼ることは出来ない。
 早くしろ、とでも言うようにチャオブーが長兄の持っているタオルを引っ張る。急かされた長兄が浴室の扉を開けるとむわっと湿気が俺を取り巻いた。
「あ、そういえばカクタス」
 早くも湯船に浸かろうとしたチャオブーを両腕で止めながら長兄が振り向く。何となく嫌な予感がした。
「何?」
「父さんがさっきお前捜してたぞ。用事があるっぽい」

 歯を磨き終えて父親の部屋に行こうとすると、ドードリオと共に台所にいる姿が目に入った。冷蔵庫からおいしい水のペットボトルを取り出す背中に「ただいま」と声をかける。
「おおカクタスか。おかえり、出かけてたんだな」
「ケレウス兄ちゃんから聞いたんだけど、話って何?」
 早く自室に戻ってラビちゃんを寝かせてあげたいので早速本題に入ることにした。しかし父親はのんびりしたもので、「ちょっと待っててくれ」とコップに水をついでいる。手持ちぶさたに突っ立っている俺を父親のドードリオが六つの瞳で見、次いで俺の腕の中で寝息をたてるラビちゃんに視線をずらして嬉しそうに首を振った。彼らはラビちゃんが大好きなのである。
 余談だが、ドードリオの三つの頭はそれぞれ喜怒哀を表しているというけど、父親のドードリオはどう見ても全部喜だ。トレーナーに似たに違いない。
「いや、お前に頼みたいことがあってな。来週の三連休は暇か?」
 そんなことを考えながらぼけっとしていると、父親がようやく話に入る。あいにくその三日間はサークルで埋まっているため「練習あるから空いてないけど」と即答した。
「うーん、実はセイガイハの奴らに届けて欲しい資料があって……」
「いやだから空いてないって。話聞けよ父ちゃん」
「温度変化に弱いから、宅配サービスを使いたくないんだよ」
 植物学者の父親からこういうことを頼まれるのはこれが初めてではないし、俺に限った話ではない。資料ということは植物の標本とかだろうから宅配便を使いたくないというのもわかる。でも、だ。
「別に俺じゃなくてもいいじゃん。研究員の人とかに頼めば……」
「それなんだがな、もう一つ用があって……それも私用だからあいつらに頼むわけにはいかないんだ」
 父は「まあそれについては後で話すから」と勝手に話を終わらせて台所を出ようとしてしまう。しかし俺は了承した覚えがないししようもない、ちょっと待ったとばかりに慌てて行く手を塞ぐ。
「だから俺無理だって。私用ったって俺以外でも大丈夫だろ、三連休なんだから兄ちゃんたちも休みだろうし」
「ケレウスは仕事があるらしいんだ、休日だとむしろブリーダーは客が増えて忙しいっぽいしな。コノハも部活の指導で出勤だ、総体も近いし」
「じゃあ姉ちゃんに頼めばいいだろ」
「あいつはバイト仲間と旅行に行くらしい」
「遊びじゃねえか! なんでそれが認められて俺は行かされるんだ!」
「ちょっと、うるさいんだけど何ー?」
 あまりにも不本意な父の言葉に思わず大声をあげたちょうどその時、まさに張本人が不機嫌な顔を台所に覗かせた。香水の匂いが鼻につく。確かこの前言ってた新作とやらの、大人の魅力ビークインだかなんだかだろうか。どうでもいいけど。
 誰のせいでうるさくなってんだ、と言いたくなるのを抑える俺とは対照的に、次姉は「静かにしてよ」などとぶつぶつ文句を続けている。やっぱり何か言ったろうかと今度こそ口を開きかけた俺だが、それよりも早く父が「カリムにも言っただろ、今度の三連休の話だ」と話しかけた。
「ああ、セイガイハに行けってやつだっけ? うん、カクタス頼んだ」
「俺はサークルの練習があるんだよ。姉ちゃんも予定があるかもしれないが俺も無理なんだって、この前だって俺が引き受けたんだから姉ちゃんが行けって」
 どうせそうはいかないんだろうと頭では諦めつつも、黙ってこの場を去るには溜飲が下らないのでそんなことを言ってみる。すると次姉は予想よりも激しくに掴みかかってきた。
「はあ!? 無茶言わないでよ、もうバスもホテルも予約しちゃってんだよ!? なにふざけたこと言ってんの!?」
「うるせえな、兄ちゃんたちと違って遊びなんだからちょっとは考えろよ」
「遊びって、あんたのサークルだって遊びじゃない!」
「おい、ふざけんなーー」
「こらお前たち、声がでかいぞ!」
 流石にキレかかった俺を、父が溜息と共に止めた。俺も次姉も、憮然とした表情のままお互いを睨みつける。
 何歳になったらそれは治るんだ、と肩を竦めた父親は俺と次姉を半ば無理矢理引き離す。困ったような表情で告げられた、しかしもう父や次姉の中では決定事項となっていたのであろう次の言葉は、俺にとって「またか」と感じざるをえないものだった。
「しょうがないだろう、頼む。行ってきてくれ」

「はあ…………」
 大きく息を吐きながら、俺は自室のベッドに倒れ込む。再びうとうとしていたラビちゃんは布団に置かれるなり、またすぐに睡眠へと戻っていった。風邪をひかないよう、専用のタオルをかけてやる。
 兄弟が多数いる家庭だと一人部屋が持てるとも限らないし、俺の部屋と言うと聞こえはいいけれども、この部屋は元々俺のものでは無い。今はもう結婚して家を出ている、一回り以上離れた長姉が嫁入りするまで使っていた場所なのだ。次兄と共同の部屋からここに移ったのはトレーナー免許を取ったくらいの時だったけれど、手間がかかるという理由で壁紙を変えてもらえずに駄々をこねたのは、今でもペロッパフとケーキとハートが散りばめられた壁紙に囲まれていると鮮やかに思い出される。
 勉強机は長兄の使っていたもので、当時新型モデルで流行っていたロフトタイプの机は買ってもらえなかった。中学で指定されている運動着や鞄は背格好の近い次兄から譲り受けたものばかり。私服だって高校生までは二人の兄のお古がほぼ全部を占めていたと言っても過言では無いだろうし、いくらか昔のOSであるパソコンもまた長兄のものだった。ゲーム機はほとんど次姉から回ってくるものだから、ピンクばかりであまり使いたくなかったのを覚えている。今寝転んでいるこのベッドだって、過去長姉が使っていたのだ。お陰で俺には少し狭い。
 俺の部屋には、「お下がり」ばかりある。昔別の誰かが使っていた、俺が使い始める時には既に新品ではなくなっていた何かばかりなのだ。もはや新しくもまっさらでもない、別の人間が染みついているものばっかり。
 なんだかむしゃくしゃしてきたので、思いを頭から振り払って床に投げ出した鞄から携帯を取り出す。と、キョウヤからの通知が何件か来ていた。どうやら今日の写真らしい、いくつかの画像データをダウンロードしてから「Thank you!」というメッセージとプリンのイラストが並ぶスタンプを送信する。他に何個か更新を確認して画面を切り、携帯から視線を外したその時にようやく気がついた。
 部屋の中に、いつの間にか、或いは俺よりも前から「そいつ」がいたことに。
「……いたのか、お前」
 エスパータイプとひこうタイプの複合、とりもどきという何とも酷い分類をつけられた、独特のシルエットを持っているこのポケモン。大人でさえも腕を回しきれないだろう大きな球体には民族衣装みたいな模様が描かれ、どこまでが顔なのかがわからない。おそらくは翼と尾なのだろう、上と下に伸びる長い羽は色鮮やかでこれもまた伝統工芸的な雰囲気を醸し出している。頭部にちょこんとくっついた、「i」のアンノーンみたいな飾りの真ん中では水色の石が鈍い輝きを放っていた。
 目玉のような模様を俺に向けたまま微動だにしない、こいつの名前はシンボラー。いわゆるニックネームはついていない、というよりわからない。少なくとも、こいつが俺のポケモンとなった時には既に不明だった。
 そうだ。俺の「お下がり」は何もものだけではない。
 こいつもまた、俺に与えられた「お下がり」の一つである。
 シンボラーは学術的な説明だと、古代都市の守り神だったと紹介される。けれど当然、今存在しているシンボラーが必ずしもそうではない。ここ数年、ともすれば昨日今日で生まれたシンボラーだって大勢いるだろう。
 だけど一部は本当に古代から生き続けているシンボラーも確かに存在している。こいつもその一匹で、とりあえず俺のひいひい何じいちゃんに当たるのか不明だが、先祖との写真が残っているためカメラが開発された時分にはいたと言ってよいだろう。それ以前の手記のようなものにも、こいつのことっぽい記述が書かれていたらしい。ものすごく長生きだということになるが、ポケモンの寿命は謎が多いからありえない話では無い。

 さて、そんなシンボラー、こいつは理由は不明だけれども代々俺の家に受け継がれているポケモンなのだ。ミステリアスなポケモンだから、なんかロマンチックな逸話があるのかもと考えたりもしたことはあるが単に「死なないから」というだけかもしれない。そもそも先祖から俺にわたるまで貴族でもなんでもなく、わかる範囲まで遡ってもセイガイハの仕立屋という平民続きの家系なのだ。古代都市の守り神の説は大変薄く、後者の可能性の方がずっと強い。
 しかしそうだとしても、今までずっと、こいつは俺の家系を下りてきた。親から子へ、子から孫へ。血筋を辿ってトレーナーを替え続け、気の遠くなるような長い年月を俺の先祖と共に過ごしてきたのだ。
「…………………」
 こいつが鳴き声をあげることは滅多に無い。というか、聞いたこと自体無いかもしれない。前テレビで見たポケモンリーグ中継で、サイキッカーの参加者が使っていたシンボラーは不思議な声色で鳴いていたから声帯が無いわけでは無いのだろうけど。
 俺の祖父が育てていたシンボラーは、やがて父に受け継がれる。しかし父はフィールドワークや資料採集で外出することが多く、しかもその行き先がエスパータイプが苦手とする虫タイプが多いジャングルなどであるためこいつを連れていくわけにはいかなかったのだ。「直系の者が育てる」という暗黙の了解があったため、母がトレーナーとなるわけにもいかず、長姉が十歳になってからは長姉がシンボラーのトレーナーとなっていた。
 しかしこのファンシーな部屋を今俺が使っているように、長姉は俺が十歳になるのと入れ替わるようにしてカゴメタウンに住む彼氏の元へ嫁入りすることになる。一応書類上ではこの家の者でなくなった長姉は、それ以上シンボラーを育てることが出来なくなった。
 普通に考えればその先、シンボラーのトレーナーになるのは長姉より六つ年下の長兄のはずだった。しかし長兄の元には既にポカブがいて、どうしてもシンボラーと打ち解けることが出来なかったらしい。長兄がいくらなだめても、ポカブは表情一つ変えず漂っているシンボラーを怖がり続けたのだ。
 どうしようも無いので、シンボラーは次兄に受け継がれようとされた。だが次兄は軽度のとりポケモンアレルギーで、同じ家にいるのならばまだしも自分のポケモンとして傍に置くのは体調的に好ましくない状態なのだ。試しに一晩だけ、と両親が次兄の部屋で過ごさせようとしたところ、くしゃみの止まらなくなった次兄という結果が出ただけだったため却下となる。
 じゃあ次姉ならいいだろう、次姉は健康そのもので元気だし、次姉のチラーミィも可愛い見た目に反して怖いもの知らずなきもったまだ(実際はメロメロボディだけど)と両親は次姉にシンボラーを託そうとした。しかし、
「やだ。だってダサいもん」
 とチラーミィともどもそっぽを向いた次姉の目が再びシンボラーに戻ることはなかった。この件に関しては、心からシンボラーに同情したい。
 今は少し弱まったけれど子供の頃の次姉のわがままさは天井知らずで、一度こうなってしまっては聞く耳を持つことは出来なかった。確かにオシャレ大好きコーデ大好きミュージカル大好きな年頃の女の子に、シンボラーというポケモンは少々合わないという思いもあったのかもしれない。
 もう残っている兄弟はトレーナー免許ほやほやの俺だけとなり、父と母は仕方なく俺に打診した。このシンボラーはレベルが高いのだけど誰かに逆らうということが無く、経験皆無の俺でも大丈夫だろうと考えたのだろう。実際、次姉に酷い言われようをされてもこいつは物ともしない様子でふわふわしていたらしい。
 ここまでは良い。シンボラーが俺のポケモンになるというところまでは、不満なんか無かったのだ。無機物みたいなポケモンだけど小さな頃からずっと同じ家で暮らしていたから怖くは無いし、育てると言ってもとりあえずトレーナーという名目でいれば良いのだろう、今までの父がそうだったように家の中で放していてもこいつは平気だからそれで良いのだろうと思っていた。

 問題なのはここから先である。シンボラーのトレーナーになる、という両親の話に頷きかけた俺は、次の言葉を理解するのに時間がかかった。
「だからね、ミジュマルは諦めてほしいの」
 十歳になってトレーナー免許をとった子供は、いきなりポケモンを捕まえに行く猛者やブリーダーや知り合いトレーナーから譲り受ける人もいるが、大抵はポケモンセンタや学校で初心者用ポケモンを受け取ることになる。同級生のブリーダーからユニランをもらってきた次兄は別だが、長兄とポカブ、次姉とチラーミィはこのケースだ。
 俺もそのつもりで、何種類かいるポケモンの中からミジュマルをもらうと既に決めていた。ポケモンリーグ入賞者が繰り出したタイゲンキのアクアテール、いつかあんなバトルがしたい。そう思って、ポケモンとご対面する何ヶ月も前からカレンダーを一日ずつ消していたのだ。
 それなのに。両親は、それを諦めろと言った。
「なんでだよ! なんで、なんでそうなるんだよ!」
 当時はよくわからなかったシステムだが、トレーナー免許をとってから二年以内はポケモンを複数所持することが出来ないという制度がある。初心者が何匹も同時に持てば手が回らなくなってしまうと考慮した上での決まりで、権威のある博士の口添えがあるとか幼少期からポケモンとかなり接しているとか、或いは旅に出るのなら話は違うのかもしれないけれど、基本的に例外は認められない。思い返せば、長姉も長姉もミネズミを捕まえたのは十三の頃だと言っていた気がする。
 しかし幼い俺にはそんな理屈は通用せず、裏切られたことに対してかなり駄々をこねた。そんなの聞いてない、嘘つき、どうして我慢しなきゃいけないんだ。もうシンボラーもトレーナー免許もいらない、とさえ言ったと思う。
「わがまま言わないの! そんなこと言って、シンボラーがかわいそうだと思わないの!?」
 俺は、シンボラーが憎いわけでも嫌いなわけでも無かった。シンボラー自体がいらないから、泣き叫んで抗議しているのでは無かったのだ。
「しょうがないでしょう、あんたしか育てられないんだから!」
 ミジュマルがそこまで欲しかったわけでも、ポケモンを一匹しか持てないことが気に入らなかったわけでも無い。俺が嫌だったのは、「末っ子だから」という理由で面倒事を押しつけられたという感覚があったからだ。
「仕方ないだろう、お父さんたちのことも考えて、ここは堪えてくれ」
 しかしそんな不満が両親に通じることはなく、結局なし崩し的に俺はシンボラーのトレーナーとなった。そうなってしまった以上最低限の世話はしていたものの、一連の出来事に意地を張った俺はポケモンというものから出来る限り遠ざかり、バトルからもミュージカルからも目を背けたまま何年も過ごした。ようやくほとぼりが冷めたのは高校生の時であり、大学に入る前の春休みにラビちゃんを捕まえ、やっとポケモンと向き合えるようになったのである。

 それでもまだ、こいつ、シンボラーを見るとその記憶が蘇ってしまうのだ。シンボラーのことだけではない、お下がりが嫌で不満をぶつけ、だけど聞いてくれなかった過去が追いかけてくる。新しい机が欲しい、流行りの服が欲しい、こっちの色がいい。叶えられず、他の誰かが使っていたものしか与えられなかった、ずっと前からついさっきまで、全ての過去が。
 不気味な威圧感が若干あるシンボラーは、相変わらずの様子で俺の部屋に浮かんでいる。カミツレさんのポスターが張ってある天井すれすれをゆっくり移動するその動きは、さんざん泣いたあの日からまったく変わっていない。
「……カクタス」
 ぼんやりしていた俺の耳にちょっとだけしおらしい、しかしノックも何もせずに入ってきた次姉の声が届く。もう何百回何千回と「部屋に入る時はノックをするかドアの外で一度声をかけろ」と言ったのだけれども一向に改善されない。もはや俺の方が諦めているので、今更何も咎めたりはしないのだ。
 さっきのことがあったため、俺は無愛想に「何」とだけ返す。寝転んだ視界の隅にむっとした表情に変わる次姉が見えたが、珍しく何も言い返さずに喉元に留めたようだった。
「……さっきは悪かった、っていうか……」
「いいって別に……俺が文句言う筋合いも無いし」
「でも、あんたに押しつけたのは変わりないし。……ごめん」
 俺はベッドから上体を起こす。唇をきゅっと結んで俯いている次姉を見上げ、首を横に振った。
「こっちこそ悪かったって。いいよ練習なら休めるから、旅行行ってこいよ」
「ん……」
 まだ決まり悪そうな顔のまま、小さな声で「今日のお風呂掃除は私がやるから」と呟いた次姉に気づかれないよう、俺はそっと溜息をつく。扉の陰からチラーミィがその名の通り、俺たちの様子をちらちらと伺っていた。
 綺麗に伸ばされ、星だのハートだのチラチーノのデフォルメイラストだので鮮やかに彩られた次姉の長い爪が目に入る。ミュージカルスタッフのアルバイトともなるとこんなお洒落も必要なのだろうか。しかしメイクのせいで出場者やポケモンより目立ちそうだけど、と場違いな思いを頭に浮かべつつ、わざとおどけた声を出した。
「その代わりお土産はずめよ? この前雑誌で見たんだけど、ジムの近くで限定販売されてるサザンドラの根付けが超かっこよくて……」
「ちょっと、何生意気なこと言ってんの! ほんっと、すぐ調子に乗るんだから!」
 怒ったような、でも少しほっとしたような顔で次姉が笑う。つられるようにして俺も笑うと、「先にお風呂入っちゃいなさいよ」と軽く咎めるようないつもの声に戻っていた。おやすみ姉ちゃん、おやすみ、と言葉を交わした後にドアが閉まる。
 今度こそ一息ついて、俺はまたしてもベッドに倒れた。隣でぐっすり寝ているラビちゃんの羽毛を撫でながら、視線を壁沿いに動かすと小さい額縁につきあたる。その中に収められた写真で笑うのは、今年の冬、家族みんなで遊びに行ったフエンの温泉で撮った俺たちだ。はしゃいでいる父ちゃんと俺とドードリオ、げらげら笑っている母ちゃんと苦笑している長姉。ラビちゃんとペリッパーはマイペースと言った感じだ。きりっとした顔のチャオブーと対照的に長兄はへらへらしているし、ダブランを抱きかかえた次兄はにこにことピースサイン、次姉はこんな時までチラーミィと一緒になってモデル風のポーズを決めている。

 父ちゃんも、母ちゃんも。リプサ姉ちゃんも、ケレウス兄ちゃんも。コノハ兄ちゃんとカリム姉ちゃんだって。
 みんな俺にとって大切な家族だ。みんな、俺の大好きな家族なんだ。
 でも。

「……………………」
 俺の視線の動きを見定めたように、シンボラーがふわりふわりと写真の前に移動する。背景と同化しかかっている写真の中のも実物も、相変わらず何を考えているのかよくわからない目、そもそも目なのかすら怪しい二つの丸い模様が、じっとりと俺に向けられる。
 こいつに罪は無い。手がかかるわけでも無いし、珍しいポケモンだと言えば聞こえは良い。懐いてくれているのかどうかは不明だけれど、反抗したりすることも無い。
 でも。
「お下がり、か……」
 お下がりの部屋。お下がりの服。お下がりの机。お下がりの鞄。お下がりの本。お下がりのベッド。お下がりのおもちゃ。
 お下がりの、ポケモン。
「何が嫌、ってわけでもないんだけどさ」
 お下がりの物を与えられると同時に、「もういらない」という気持ちまでもがついてくるように思えるのだ。物自体に不満は無いけれど、不要になったから、自分は持ちたくなくなったから、という思いがくっついているような気がしてしまう。「仕方ないだろ」「しょうがないでしょ」の言葉と共に感じるそれはバチュルの静電気くらいの微かなものだけど、確かに何かが心に引っかかる。
 ゆらゆらと揺れる、シンボラーの足っぽい部分を眺めながら寝返りを打った。ラビちゃんがもごもごと寝言らしきものを言っている。意味を為さない思考を打ち止めて、俺は長兄の風呂が終わるまでの短い眠りにつくことにした。
 
 
「……………………」
「……ミックスオレ買ってきたんだけど飲むか?」
 ライモンから時計回りに湖の周りを一周する特急列車。とりあえずはサザナミまで向かうべく、いくつかの橋を渡ったり螺子山のトンネルをくぐったりしつつ、俺とシンボラーは二つ並んだ座席で暇な時間を過ごしている。
 席に座っているんだか座っていないんだか不明なシンボラーに車内販売で購入したミックスオレを与えてみると、何ともいえない動作でこちらを向いて体を薄く光らせた。発動された念力によって俺の手から缶が浮き上がり、触ってもいないのにプルタブが開く。そのまま一応口っぽいところに持っていかれたミックスオレは、尚もサイコな技で操られている。
「横着者め」
 翼を使った技も持っているんだから、そんな力を使わなくても大丈夫だろうに。しかしそんな俺の文句を聞き流して、シンボラーは素知らぬ顔で器用に缶を傾けている。それ以上何か言うのも馬鹿らしいので、俺はシンボラーの尾羽を引っ張って遊んでいるラビちゃんに朝食代わりのきのみをあげる行動に移ることにした。
 きのみと間違えて俺の指をついばみかけるラビちゃんに悲鳴をあげかけても横にいるシンボラーは動じない。いつもこの調子で、どちらかと言えば、いや、どちらかと言わなくても騒がしい家族である俺たちがいくら騒ごうとこいつだけは冷静沈着そのものといった調子で常に浮いているだけなのだ。無論、エスパーポケモンはそういうタイプである傾向も強いし性格的な理由もあるのだろうけれど、それにしたってこいつは感情というものが全く感じられない。
 しかしそんなシンボラーが、少なくとも俺たち家族が知る限り初めて感情らしいものを見せたという。それが今回俺が駆り出された理由であり、今俺がサークルに行けず列車に揺られている理由でもあるのだ。そう思うとやっていられないためそこからは目を背けることにする。
 
 その時、父は風呂上がりでテレビを観ていたらしい。ドードリオにもたれかかって三つの頭と一緒にぼんやりしていたら、居間にシンボラーがふわふわと飛んできた。まあ、こいつは常に家の中を自由に移動しているため珍しいことではない、父も「おう、お前も観るか」と肴を分けるくらいでそんなに気にはしなかった。
 しばらくは何事も無く、シンボラーも父たちと並んで画面を見ていた。だが、番組が終盤に差し掛かり、出演者による宣伝が流れた途端、シンボラーが今まで一度も見せなかったような反応を示した。全身の羽毛がぶわっと広がり、混乱のためか頭部の飾りや両目は光り、落ち着かない挙動で部屋の中を飛び回りながら画面にくちついた、というのは父の説明だ。
 俺はそんなシンボラーを見たことがないし、予想すらしたことがない。今俺の隣で、どこを見つめているのかさえ不明なこいつがそんなにも「普通のポケモンや人間」のような感情じみた行動をとるだなんて想像も出来ないくらいだ。
 何がそんなにも、こいつの心を揺さぶったのか。ラビちゃんに食べられて芯だけになったヒメリをゴミ袋にしまいつつ、俺は父から聞いた、シンボラーが反応した内容のサイトを携帯から呼び起こす。
『セイガイハマリンバルーンフェスティバル、今年も開催!』
 セイガイハシティの公式サイトのトップに大きく並んだその文字列は、街とも関係深い海をイメージさせる色や字体で飾られていた。ジム開設何年だかを記念して去年開かれたお祭りらしいが、街の住民・観光客ともにかなりの人気だったらしく第二回が開かれるらしい。リンク先に掲載してある写真は昨年のものだろう、イベントの内容が伺いしれる。
 マリンバルーン、というのはどうやら海に住むポケモンをかたどった風船のことらしい。それならライモンの遊園地にもありそうだが、このお祭りのものは原寸大であるという特徴を持つ。ラブカスやメノクラゲなら子供でも片手で持てそうだが、ホエルオークラスのものはそうそうないだろう。サイトに記された説明を読むと、大きなポケモンは役所や協賛企業によって作られ、当日も大勢の手によって浮かべられるようだ。
 何枚もの写真には、たくさんの風船が青い空に浮かんでいる光景が納められている。下から撮影されたものもあり、空高くを漂う海ポケモンの風船を見上げている構図は、まるで海底から海を泳ぐ本当のポケモンを俯瞰しているようにも思えてきた。実際にマリンチューブとも提携してそういうコンセプトとしてやっているらしい、チョンチーやタッツーなどの可愛いサイズのものからハンテールとサクラビスの綺麗な風船、もはや写真に全貌が収まりきっていないホエルオーのどでかいものなど様々な風船が浮かべられている。
 父が観ていたバラエティにはジムリーダーのシズイさんが出演していて、開催間近に迫ったこのイベントを宣伝したのだ。そこで去年のVTRが流れたのだが、シンボラーはその映像を見た途端に様子が急変したという。
「……………………」
 あそこまで興奮するなんて何か琴線に触れたのだろう、連れてってやれというのが父の意見だ。俺の隣で、相変わらずの無表情で無言で無反応なこいつがそんな状態になるだなんて考えられない。でも、父は確かにこいつが感情を見せたと言った。大きく狼狽え、何かを訴えるように液晶を見つめていたのだと。
 海底から見上げるポケモンたちのような、空を泳ぐ風船を見て、こいつは何を思ったのだろう。
『次はソウリュウ、ソウリュウ……チャンピオンロード方面をご利用のお客様はお乗り換えになります……』
 車内アナウンスが響く。どうやらまだまだかかりそうだ、祭は昼頃から開催されるためそれに合わせて出てきたのだが、そのせいでの早起きが今になって反撃に出てきたらしい。重たくなってくる瞼に耐えきれず、俺は着くまで少しの眠りに入ることにした。
 着いたら起こしてくれよ、とシンボラーに言ってみる。それがわかったのかわからないのか、シンボラーはちらりと俺に顔を向けたもののまたすぐに虚空を見る作業へと戻ってしまった。その様子に内心で溜息をつきつつ、俺は膝に乗せたラビちゃんを撫でながら目を閉じる。それからの記憶は数分となく、すぐに途絶えた。
 
 
 降車するなり漂ってきた磯の香りに俺は凝った身体で伸びをする。夏場のリゾート地として有名なサザナミタウン、まだ夏本番では無いけれども多くの人で賑わっていた。駅構内にある土産物屋には既に客が殺到している。
 あそこに身を投じるのは少し不安を覚えるけれど、帰りには俺もおみやげを買わなくてはいけない。お前はいつも大変だな、と、休むことを受け入れてくれたサークルのみんなだけれどもその代償としてサザナミやセイガイハの特産物の購入を命じられているのだ。目星をつけていこうかと土産物屋に視線を向けたが、客でごったがえしていて商品はほとんど見えなかった。
「……………………」
 右手に携帯、左手に鞄、頭の上にはラビちゃん、そして最後にシンボラーが一歩後ろに浮遊しているのを確認して俺は改札を出る。ポッチャマの絵がプリントされたプリベイドカードがピッ、と音を立てるのに続いてシンボラーが頭上を飛ぶのが感じられた。「起こしてくれ」という俺の言葉をどうやら理解していたっぽいこいつは、あと少しでサザナミタウンに着くあたりからずっと俺を凝視していたらしい。何か視線と寝苦しさを感じて目を覚ましたら、目と鼻の先にこいつが迫っていたことに気がついた瞬間は割と本気で怖かった。
 背中には一応持ってきたサックスの重みがあるのも少し遅れて再確認。ジャズサークルで使っているこの楽器は、俺がバイト代を貯めて買った数少ないノットお下がりの持ち物だ。運指くらいは練習出来るだろうと持ってきたのだが、決して小さいものでは無いため人混みでは明らかに邪魔になっている感が否めない。
 ボストンバックにキャリーケース。次姉を彷彿とさせる、着飾った女の子たちとが色とりどりの旅行鞄を引っ張って楽しそうに通過していく。通話しながら慌ただしげに早歩きするサラリーマンを避けると、今度は反対側を歩いていたマッスグマにぶつかりそうになる。三連休ということもあって混雑しきっている駅をどうにかこうにか抜けて、ほぼ直結しているマリンチューブにたどり着く。
 混雑しているためポケモンをおしまいください、と受付の係員に言われ、俺は一度二匹をボールへ戻す。海の中にトンネルを通したマリンチューブは、移動経路にして水族館顔負けの観光施設であり、臨場感溢れる水棲ポケモンの生の姿を見て楽しめるけれど、それも空いていればの話だ。サザナミ駅と同じくら混みあったマリンチューブは、人の隙間から一瞬覗き見えたガラスの向こう側にブルンゲルらしき何かが確認できただけだった。
 天井部を見ればまだ見えるものもあったのかもしれないが、あまりの混みように首を動かす気力もない。何もしていないのに既に汗だく、HP黄色状態になりながらもイベントが行われる中央広場行きのバス停に到着した。
「あちゃー」
 数分前にバスは行ってしまったらしく、俺はまだ人の少ない列に並ぶ。ボールから出してやったシンボラーはいつものようにそこらをふわふわしているし、ラビちゃんは指定席である俺の頭に移動した。
 しばらく来ないため時間潰しに携帯を取り出し、つぶやき投稿SNSのTLを呼び出す。友人たちは思い思いに休日を満喫しているようで、シビルドンと遊園地に行くだとかゲンガーと共に実家に帰ってのんびりするだとか、或いは虫ポケモン縛りのバトル大会に出るだとか色々なつぶやきが並んでいた。ヒウンのビーチでビキニのおねえさんと知り合ったとかいう、どこぞの金髪野郎は一時的にスパブロをかましておく。
 俺自身も「セイガイハなう」と投稿し、まだ時間がありそうなのでゲームに移行する。パズルアンドポケモンス、略して「パズポケ」のスタミナがそろそろ回復する頃なのだ。デフォルメされたポケモンや、ポケモンと融合した人間のキャラクターを集め、育てていくこのゲームは今も尚やっている人は以前に比べると大分減ってしまったけれども俺はまだ全力投球である。今育てているのはファイヤーとゴチミル少女で、俺はそのスキル上げに勤しむことにした。

「…………あれ?」
 しばしの間パズルに没頭し、そろそろバスが来るのではと画面から顔を上げたその時だった。並んでいる人は増えているのだが、ついさっきまで俺の周りにあったはずの気配がなくなっている。右手の携帯、左手の鞄、頭の上にはラビちゃん……しかし、一歩後ろ、少なくとも半径数メートルにはいたはずの、シンボラーの気配が消えていた。
「え!? ちょ、……あいつどこいった!?」
 もはやバスどころでは無い。周囲をぐるりと見回してみてもあの個性的な姿は見つからなかった。
 なぜ、どうしてこんなことに。こういうことをする奴ではないし、今まで一度もこんな出来事には見舞われなかった。なのになんで今、あいつは俺の前からいなくなったのだろう。
 そんなことを考えている時間さえ惜しい、俺はとりあえず列から抜けてもっと周りが見える位置を探す。しかし人通りが多すぎて、シンボラーどころか十数メートル先の光景すらままならない。途方に暮れ、目眩すら覚えた俺だが、頭の上からラビちゃんが飛び降りた。
「ぢぢぢ!」
「え? 何、どうしたのラビちゃ……あっ!!」
 小さな羽でラビちゃんが前方を指す。その方向を見てみると、シンボラーの尾羽が人波に紛れて揺れたのが一瞬だけだけれども確かに見えた。ありがとう、と告げてからラビちゃんを抱き上げ、その方向へと走り出す。
「おい、待て……あ、すみません……待てってば!! ああ、すみませ、……」
 何度も何度も人にぶつかりそうになりながら懸命に追いかける。見失いそうになるが、その度にラビちゃんが鳴き声をあげて教えてくれた。人の間から、曲がり角の向こうから、植物の陰から覗く羽を頼りにして無我夢中で足を動かし続ける。
 今回も、そして十年前も。俺の意見なんて耳を貸してくれることすらなく、押しつけられたのは未だ納得しきれていないけれど、それでもあいつを手放す気にはならなかった。お下がりのポケモンでも俺のところに来た以上は大切にしたい、そう思っていたのに。
 街道を走り、少しずつ海が近づいてくる。いつの間にかあたりに人はいなくなって、走る足下もコンクリートから砂に変わっていた。砂浜から浅瀬へだんだんと変化していき、俺の足音にも水の響きが加わってくる。おかしい、と気がついたのはこのあたりだった。
 走っている感覚は確かなものだけど、もう結構な距離と時間があるはずなのに疲れや痛みが全く感じられない。どこを走っているのか、具体的にどれくらい走ったのかの見当がつかない。右腕で抱きかかえているラビちゃんも、左腕に下げた鞄も、結構な重さであるのに大して鍛えられていない筋肉は未だ音を上げていないのだ。
 異変と共に、得体の知れない寒気を感じた俺は一度立ち止まろうとしたのだが、足が勝手に動き続ける。もう障害物の無い浅瀬の遙か前方には、今まで見たこともないようなスピードで浮遊移動を続けるシンボラーが見える。呼びかけようと声を出そうとしても喉はかなしばりを受けたように動かない。ただ、足が一人でに走行を維持するだけだ。
 耳にはびちゃびちゃと海水が跳ねる音だけが響く。足の疲れも、腕に抱いたラビちゃんの体温も、背中のサックスの重みすらもわからないままにどれだけ走り続けただろうか。頭が真っ白になり、視界が一瞬ブラックアウトした時、ようやく俺の足が動くのをやめた。
 いきなりの静止にバランスを崩し、俺はその場に座り込んでしまう。一気に襲ってきた疲労と痛み、肺の苦しさに心臓がどくどくと脈打っているのがわかった。頭と脇腹と、もはや体中が痛い。
 こんなに走ったのは、もしかすると高校のマラソン大会以来かもしれない。久しぶりの全力疾走、しかも長距離に俺の身体はすっかり音をあげていた。シンボラーを追わなくてはならないけれど、とりあえず水分補給をして少し休まないと身がもたない。そう思い、ペットボトルを取り出すべく鞄を肩から下ろそうとして、

「…………ん?」
 俺はそこで初めて、自分が座り込んだ白い地面が走ってきたはずのものとは違うことに気がついた。
 
 走り続けていたのは、白い砂浜と海水で出来た浅瀬のはずだ。しかし今俺がへたっているのは、白は白でも石、それも人間が歩きやすいように加工された平らな道だった。
 シンボラーを見失った時とはまた別の寒気が汗だくの背中を伝う。ペットボトルどころではなく、俺は鞄を身に寄せながら震え半分に辺りを見回した。後方にあったのは、シンプルだけれどもしっかりした作りの港。浅瀬などなく、白の陸地の向こうにある青い海はとてもじゃないけど泳げそうになどなかった。船の一つも繋がれていない。
 両隣には木で出来た簡素な小屋がいくつか並んでいる。もぬけの殻で人影は見えなかったが、わずかに残っている道具や、目を凝らすと見える古めかしい言葉遣いの張り紙からは漁師の作業場所らしいことがわかった。砂や落ち葉が吹き込んでいる屋内に、壊れかけた戸棚や割れた食器などがわずかに散らばっている。
「………………で、」
 問題なのは前方だ。俺はこんな場所がセイガイハの近くにあるだなんて聞いたことがないし、地図を見たってこんな情報が載っていたことはない。セイガイハは小さな街で、しかも周りを全部海に囲まれているのだ、どこか別の町に続いているなんてありえない。
 だけど。俺の目の前に広がるのは、小さいけれども確かに「町」と言ってよいものだった。この道と同じ白の建物が何軒も続いている。家はもちろん、レストランのような店構えの建物もあった。ところどころに緑や赤、黄色が見えるのは野生の植物でなく、人によって手入れされているガーデニングのものだろう。
 明らかに、ここは町だった。人が作り、人が暮らす場所だった。
「……………………ここ、どこだ?」
 俺の呟きが、白の石に反響しながら潮の香る空気へ消えていく。どうしよう、シャレにならない。ひたすら走り続けていたら謎の場所にたどり着くだなんて、そんなの怖い話と都市伝説の中だけだと思っていた。波乗りもしていないし、ここはカントーじゃなくてイッシュのはずなのに、どうして。
 嫌な汗が次から次へと流れてくる。右も左もわからないこの土地でどうシンボラーを探したものかとか、どうやって帰ろうかとか、そもそもここは一体どこに位置している町なのかとか、頭がパンクしそうだ。落ち着け、落ち着け、と自分に言い聞かせてみるも鼓動は速まる一方である。
「……ってラビちゃん! こら、待ちなさい!」
 と、頭を抱えていた俺の傍からラビちゃんがひょこひょこと走り出したので慌てて止める。この状況下でラビちゃんまで失ったら、俺は本当に絶望してしまうだろう。とっさにラビちゃんの片足を掴んで捕まえる。
 呻き声をあげられたものの、無事に手元に戻せたので安堵の溜息を一度つく。すると、さっきまでよりも空気が胸の中へと入っていくような心地がして頭も幾分か落ち着いた感覚になった。混乱のせいか白い石の眩しさのせいか、チカチカしていた視界も大分慣れてきた感じがする。
 ふう、ともう一度一呼吸すると、波の音がすうっと耳に飛び込んできた。ラビちゃんが腕の中から俺をにらみ、羽で前に広がる町を示す。
「ぢー!」
「まあ、ここにいてもしゃーないしな」
 走ってきたはずの道のりは、移動手段が見つからない海へと変わってしまっているのだから今俺がとれる行動はこれしかない。右手のラビちゃんをしっかり抱え直し、左手の鞄をぐっと引き寄せ、背中のサックスがちゃんと重いことを再度確認した。
「……よし、行ってみるか!」
 港に打ち寄せる波が響く。潮の匂いを大きく吸い込んで、俺は白の町へと歩きだした。
 
 
「……とは言ったものの……まさか誰もいないなんてなあ」
 港から出発して三十分ほど歩いただろうか。町に建っているのはいずれも白い石で出来たもので、どの建物も凝ったデザインで洒落ていた。一軒一軒、それぞれの家にそれぞれの植物とポケモンが割り振られているらしく玄関や窓枠にレリーフがあったり、花壇や植木鉢の隣に像が置いてあったりした。
 店もいくつもあり、果物屋であろう建物には、やはり白い石で作ったのだろう、色々な種類の果物とチェリンボやトロピウスの装飾が淡い色使いで彩られている。銀食器を売っているらしき店の看板にはブラッキーが描かれていて、色違いの絵なのか耳や手足、額の輪の部分には本物の銀が使われていた。調味料専門店の店先ではフシギダネの形をしたプランターに何種類ものハーブが植えられていたし、木製の看板にある素朴な絵がクルミルとハハコモリということは、オリーブ色の扉のこの店は仕立屋だろう。
 美的センスがあるかどうかと聞かれると自信の無い俺だが、その俺でもこの町が非常に美しく、また手間暇を惜しまず作り上げられてきたものだということはわかった。歩いていたらたどり着いた広場の真ん中にあるこの噴水も、沢山のバスラオを土台にしてマンタインやタマンタ、ブルリルやブルンゲル、ホエルコ、そしてホエルオーと海に住むポケモンたちを数え切れないほどかたどっている。迫力と美しさが同時に感じられて、つるりと磨かれた白の偶像に俺は思わず溜息をついてしまった。
 だけど。
「……誰もいないんだよなあ」
 そんな俺の言葉は誰の耳に届くこともなく、潮風が海へと流してしまう。白い石を彫って、波のような幾何学模様とコイキングが描いてある広場の地面を見てぽつりと漏らすと、ラビちゃんが同意したようにぢぢ、と鳴いた。
 どの建物にも、人っ子一人いなかった。家々の窓をこっそり覗いてみても中は薄暗いし、店の中を見ても店員、客共にいない。中に商品が全く無い店がほとんどだから、看板や店先の飾り付けから何屋なのかを判断せざるを得なかった。
 おもちゃ屋さんの赤い扉の隣に設置された、メロエッタを中心にポケモンたちがくるくる回るからくり時計はとんちんかんな時間を指して止まっている。目の前にあるこの噴水だってしんとしたままで、水がすっかり枯れていた。
 人間はおろか、この町に来てからポケモンすら見ていない。何の気配も感じられないし、何の影も見られないのだ。すぐそこにある生け垣からフシデが顔を覗かせても良さそうだし、白で出来た路地裏をチョロネコが駆けていくのが普通の光景と言えるだろう。海辺の町ならイシズマイがちょこちょこ見られるのが当たり前だろうに一匹たりともおらず、よく晴れた空を見上げてみても、キャモメの一匹すら飛んでいない。
「携帯も通じないし……」
 画面左上の小さなアイコンはずっと『圏外』の表示である。せめて写真を撮っておこうかとカメラを起動したものの、シャッターを切る度にフリーズしてホーム画面に戻ってしまった。不気味なことこの上ない。
「どうしようかねえ、ラビちゃん」
 ペットボトルに入ったオレンジュースは半分を切っている。小さい頃に読んだ、いわゆる『神隠しもの』の話の主人公は今の自分と同じような状況に陥っていたが、あの主人公はコンビニやスーパーの商品そのままに神隠しに遭っていたのだからまだマシかもしれない。店の様子を見る限り、食べ物のストックには気をつけないといけないだろう。
 それにしても、これは一体どういうことなのだろう。この謎の町に迷い込んだというだけでも不思議でたまらないのに、その町がバチュル一匹いないのだからさらに驚きだ。誰かに助けを求めようとしたのに、これではどうしようもない。育てられている植物の様子や、店内がそこまで汚れていないことを考えるとついこの前まで人が生活していたと考えても良さそうだけれども。
 シンボラーを探そうにも見つからないし、そもそも本当にこの町にあいつが来ているかどうかも疑わしいのだ。そう考えると不安になってくる、俺はペットボトルのキャップをしめてうなだれた。
「ぢぢぢ!」
「ああ、こら、ラビちゃん」
 先ほどのように鳴きながら羽を路地の方へ向け、俺の膝から飛び降りてひょいひょいと歩きだしたラビちゃんに声をかける。まあ、誰もいなくてしかも真っ白な町なら見失いだろう。座っていたベンチから立ち上がって揺れる卵の殻を追いかける。広場を出る時に見えた掲示板には、やはり古くさい言葉で音楽会のお知らせが書いてあった。
 ラビちゃんの数歩後をついて歩き続ける。立ち並ぶ白の建物はいずれも綺麗だけど、やはり誰の姿も見えなかった。波が港に打ち寄せる音、風に葉が揺られる音だけがひたすら聞こえる白い視界は言いようのない寂しさを生み出していた。
 胸が少し痛くなった気がする俺を余所に、ラビちゃんは迷うこと無く進み続ける。なんとも頼もしいその様子に俺はラビちゃんに話しかけた。
「シンボラーのこと、探してくれてるのか?」
「ぢぢ!」
「そっかー! え、もしかしてわかるの? そっちにいるの?」
「ぢぢぢー! ぢ!」
「すげえな、やっぱポケモンはポケモン同士……ん?」
 そこまで言ったところで、俺は言葉を止めた。
 
 波と風の音じゃない、新しい音が耳に入った。
 美しいけれども、悲しい。切ないけれども、眩しい。
 潮の香る空気の中、俺はふっと目を閉じる。この白い町と同じ、綺麗で寂しい旋律が、弦楽器の中低音に合わせて響いてきたのだ。

「楽器……」
 楽器の音が聞こえるということは、つまりは演奏している人がいるということだ。まだ、この町に住んでいる人がいるということなのだ。途方に暮れていた俺のテンションがぐっと上がった。
 ラビちゃんもそれを察してくれたのか、小さな足を動かすスピードを増す。白の地面を踏み、白の建物の間を抜け、音階が聞こえる方向へと走る。店主のいなくなった喫茶店の看板に取り付けられた、濃い緑の旗が俺たちの起こした風によって揺れた。
 道を直進するたび、曲がり角を曲がるたびに音は近づいてくる。人とポケモンが生活をやめたらしいこの町で、たった一つの気配は実際以上によく響いていた。
「ここは…………」
 やがて、俺とラビちゃんは一つの家の前で足を止めた。いや、家というよりも屋敷とか邸宅とか言った方がいいかもしれない。今までこの町で見てきたどんな建物よりも大きく、荘厳で、迫力すら感じられる。
 昔サザナミにあったというお屋敷よりも、もしかしたら立派かもしれない。広大というわけではないけれども庭はよく手入れされていて、鮮やかな薔薇がいくつも咲き誇っていた。鉄製の黒い門には広場の噴水のように、海に住むポケモンたちの彫刻が施されている。他の建物と同じく白の石で出来た屋敷は大きいけれども豪奢というわけではなく、上品な静謐さを醸し出していた。
 門の向こう側、その屋敷から旋律は聞こえてくる。しかし勝手に門を開けて入るわけにもいかず、俺は屋敷を前にしてしばし立ちすくんでしまった。
「どうしたものか…………っておい! こら、ラビちゃん!」
 しかし立ちすくんでいたのは俺だけのようで、ラビちゃんは迷う素振りを見せることなく門の隙間をくぐりぬけて、綺麗に切りそろえられた芝の庭へと入っていってしまった。そのまま軽やかな足取りで大きな扉へとまっしぐら、その上嘴でその扉をつつき始めている。天衣無縫も過ぎるその行動に、俺は本日何度目かの嘆きをラビちゃんへと向けた。
「あー! もう、だめだって!!」
 俺の声にもラビちゃんは耳を貸してくれない。ラビちゃんは小さいけれども力はそれなりに強いのだ、結構な音量でドアががんがんと鳴る。
 穏便に訪ねる方法を考えていたのに、これでは下手したら強盗まがいだ。気がひけるけれども仕方ない、と決意した俺は門に手をかけて力を込めた。ハクリューの形をした取手を握って動かした門は意外と重く、思ったよりもゆっくりになってしまう。
 俺が門と苦戦している間にも、ラビちゃんは扉を叩き続けている。一刻も早く止めさせねばと門を引っ張るがなかなか動かない。鳴り響く音に、もう一度ラビちゃんを咎めようと声をあげた時だった。
「もう、ラビちゃん、いい加減にしなさーー」
「……お客さん、かな?」
 俺の声に重なって、別の、落ち着いた男性の声が聞こえた。その声はさっきまでラビちゃんがつつきまくっていた扉の方からしていて、この家の人のものであることは火を見るよりも明らかだった。そういえば楽器の音がいつの間にか止まっていたな、とぼんやり思いながら、俺は門を開きかけた体勢のまま固まってしまう。
「あ、いえ、……その、まあ……」
 別にやましいことがあるわけでは無いから堂々とすればよいのに、俺はなんだか気まずくなって門の脇でうつむいてしまう。ちらり、と扉の方を見ると、声の主に開かれた扉にぶつかったのかすっ転んでいるラビちゃんが見えて余計に申し訳なくなった。すいません、と目を伏せたままもごもごと謝る。
 そんな俺とは対照的に、扉から出てきたその人はラビちゃんを「おやおや、これは悪いことをした」と優しく抱き上げた。ぢぢ、とふてくされるラビちゃんを見ても嫌な顔一つせずに撫でてくれたその様子に、俺はようやく全身の緊張がほぐれる。
「本当に申し訳ございませんでした。俺のバルチャイが、勝手に入っちゃって……」
「いや、かまわないよ。うちの家は誰でも大歓迎だからね」
 そう言って微笑んだ男性は、俺と同じような肌と髪、そして瞳の色をしていた。年の頃は父よりも少し下くらいだろうか。背は高く、それなりに鍛えていそうな身体つきはこの町の雰囲気によく似合っていた。素朴だけれども上品な服は量販店のものではないのだろうか、歴史の教科書か何かで見たようなデザインで手作りっぽい。
 黒い瞳に、どこか懐かしい温かさを覚える。まるで父とか母とか、兄姉を見た時のような感じだ。
 
 なんてぼんやりしていると、男性の方から俺に近づいてきてくれた。あれほど重たかった門を軽々と開けられる。はい、と笑いながらラビちゃんを俺へと返しながら、男性は「さっきも聞いたけれど」と口を開いた。
「君たちはお客さん、ってことでいいのかい? うちに来たってことは、何か用があるんだと思うけど」
「あ、それは走っ……いえ、素敵な音楽が聞こえたもので」
 まさか「シンボラーを追いかけて走っていたらいつの間にかこの町に迷い込んでいたんです」なんて言っても変人扱いされるだろう。慌てて言葉を飲み込んで取り繕う。
 そんな俺の言葉だけど、男性はとても嬉しそうに笑ってみせた。照れるねえ、なんて頭を掻いた表情は少しだけ子供っぽい。
「あの曲はこの町の歌でね。チェロは僕の趣味で……つたない演奏をお聞かせしてお恥ずかしい限りだ」
「そんなことは……とても、綺麗な、……ここみたいな音楽でした」
 率直な感想だったが、男性は一瞬目をぱちぱちさせて、それからより一層嬉しそうな笑顔になった。そんなことを言ってもらえるとは、としみじみと噛みしめるように呟かれたその言葉に、あまりわかってなさそうなラビちゃんが首を傾げる。そんなラビちゃんに苦笑した男性は、俺の背中にあるものに気がつき、今度は楽しそうに笑った。
「君も音楽をやるんだね」
「はい、サックスを……大学のサークルだけなので、趣味程度ですけれども」
「? 学生さん……ということかい?」
 何か上手く伝わらなかったのか、男性は俺の言葉の途中で聞き返した。しかしどこがいけなかったのかわからず、とりあえず、はい、と返事をしておく。男性は数秒だけ不思議そうな顔をしていたが、すぐに元の表情に戻った。
「ともかく、音楽をやっているのならば是非ともうちにお呼ばれしてくれないかい? お茶くらいは出せるし、それに」
「えっ、そんな……悪いですよ、いきなり失礼を働いてしまったというのに」
「それに、さっきの歌を君にも演奏してほしい」
 二つ目の提案は、俺にとってとても魅力的なものだった。さっきのメロディーは、それほど強く俺の耳と頭に残っていたのだ。あれを教えてくれるのだと思うと、俺は無意識のうちに頷いていた。
「決まりだね」
 頭を下げた俺に男性が微笑む。腕の中でラビちゃんが呆れたように呻いたけれど、「いいだろ」と小さな声で諭して置いた。誘惑に負けてしまったといえばそれまでだけど、見た限り誰もいないこの町で唯一の人間だ。怪しまれない程度だけれども、この人に聞けばなにか事情を知っているかもしれないだろう。帰り道も教えてくれるかもしれない。
 お邪魔します、と告げてから門をくぐる。庭の中に入って改めて見た屋敷は、外から見るのとはまた違う姿をしていた。見とれてしまったのと気圧されてしまったのとで足を止めてしまった俺を先導し、男性が扉の前に立つ。
「そういえば、自己紹介がまだだったね」
 扉の取手に手をかけ、男性が思い出したように言った。そこで俺も、自分の名前を言っていないし男性の名前も聞いていないことに気がつく。すこし居直って、扉を背にして姿勢を正した男性は板についてると言わんばかりの、百店満点のお辞儀をしてみせた。
「遅ればせながら、私、このアライソタウンの領主にあたります、サボンテと申します」
 急いで俺も礼を返す。そうか、領主だったか。こんな屋敷に住めるのは貴族とか地主とか、そういう立場の者だよんと思うのと同時に、聞き慣れない町の名前に内心で首をひねる。アライソだなんて、そんな町は無かったはずなのに。
 しかし実際に自分が今いる町を否定することも出来ず、俺は「ホドモエから旅行で来ました、カクタスです」としどろもどろになりつつ返す。こいつはラビっていいます、と付け加えるのも忘れない。
 カクタスくんか、と頷いて、サボンテさんは取手にもう一度手を置いた。がちゃり、と重々しい音をたてて扉が開かれる。
「そうだ、もう一つ紹介したいことがあるんだった」
 ゆっくりと扉を開きつつ、サボンテさんが振り返る。何のことだろう、と疑問符を浮かべた俺の前で扉が開かれ、屋敷の中が少しずつ明らかになる。
 屋敷と同じく、室内も瀟洒な雰囲気に満ちている。しかし俺とラビちゃんはそんなことを気にしている余裕は無かった。「紹介しよう」という言葉も耳を素通りしていく、扉の向こう側から現れたその姿、すっかり見慣れたその姿に俺もラビちゃんも絶句した。
 独特のシルエットに、民族衣装のようなカラーリング。大きな球体を中心にばさりと広がる尾羽と両翼、顔のような模様からは感情を読みとることができない。頭部に乗っかっている黒い飾りの真ん中にあるのは、鈍く輝く水色の石。
「我が家、ひいては我が町を守ってくれるシンボラーだ。名前は、ターコイズ、という」
 そう呼んでやってくれ、というサボンテさんの言葉に呼応して身体をゆらりと揺らしたそのポケモンは、俺がここにいる原因であり、散々走り回って追いかけていた、シンボラーに異ならなかった。 


  [No.3317] お下がりのシンボラー 2 投稿者:GPS   投稿日:2014/07/06(Sun) 18:12:07   87clap [■この記事に拍手する] [Tweet]

「じゃあ、好きなところにどうぞ」
 通された屋敷の中は外見同様の美しさで、入ってすぐのホールや上へと続く階段など一つ一つから確かなこだわりで以て造られたことが感じられた。見えるもの全てに溜息をつきそうになりながら広間に案内される。ここもまた息を飲むような空間で、無言で足を止めた俺に気づいていなそうなサボンテさんはそんなことを言って部屋を出ていった。彼にくっつくようにしてシンボラーも続く。
 扉の中のシンボラーを認識した時、先に反応したのは俺ではなくラビちゃんだった。やっと見つけたとばかりにラビちゃんは元々鋭い嘴をさらに尖らせて鳴きまくったのだけれど、しかしシンボラーは俺の知っているような反応をよこさなかった。
 反応というか、無反応なのが俺の知っているシンボラーなのだ。聞こえているのかすら不安になるくらい、どれだけラビちゃんが騒いでもシンボラーは平然としているのに、「ターコイズ」と呼ばれたそのシンボラーは驚いたように身体を揺らしてサボンテさんの影に隠れた。
 こいつは俺のシンボラーではない、と直感で理解する。それならば一体、どこに行ってしまったのだろうか。「見慣れないポケモンだろうし怖がらせてしまったかな」とラビちゃんに謝るサボンテさんの言葉に意識半分で頷きながらあいつの姿を思い描いた。
 少し前のそのやりとりを反芻しつつ、残されてた部屋を見回してみる。白い壁と白い床、白い天井に白い柱。白で統一されたこの屋敷だが、壁のところどころに埋め込まれている、黒の線が少し通った水色の石はターコイズだろう。アバゴーラ、パールル、シャワーズなどポケモンの彫刻も多いが、いずれにしても目の部分はその宝石で出来ていた。かなりの量が使われていそうだが、一体いくらかけたのだろうと無粋なことを考えてしまう。
 高級感漂う赤いビロードの絨毯、化学繊維などでは絶対になさそうな素材のソファ、窓からの風でサーナイトのように揺れているカーテンはもしかしたらシルクだろうか。Tシャツにジーンズの俺は明らかに場違いで、萎縮しつつ一番小さな隅のソファに腰を下ろす。
 風通しの良い窓際に置かれたグランドピアノ、凝った作りの調度品。どれも華々しさを放っているが、その反面俺しかいない部屋のそれらはなんだか切なく見えた。そういえば、この屋敷もサボンテさんと彼のシンボラーを除けば町同様誰もいない。サボンテさんが退室したため声も足音もなくなって、部屋に響くのは先ほどまでのように風の音と微かに聞こえる波の音だけだ。
 少しばかり離れたところにある大きなテーブルには、いくつもの椅子が設置されている。どう見ても、サボンテさんが一人で使っているとは考え難い。それにこういう家ならば、使用人というものが存在していてもおかしくはないのではないだろうか。
 やっぱり誰もいない世界に迷い込んだのか、という思いが頭をよぎる。しかしサボンテさんはいるし、ターコイズという名のシンボラーもいた。どういうことなんだと首を捻りながら視線を動かすと、いくつかの額縁が目に入った。紺碧の海底を泳ぐ巨大な影、荒れ狂う波濤と雨風の中を飛ぶ鋭い光、光が差し込む明るい海を漂っているフワンテのようなシルエットは何なのだろうか。

「おや、その絵たちが気になるかい?」
 ちょうどそこで声をかけられる。そんなに時間は経っていないはずだけれども、絵に見入ってしまったようだ。ええ、まあ、などと返しながらいつの間にか戻ってきていたサボンテさんに顔を向ける。
「あっちの青い魚は、ホウエンというところの海の神様らしい。あの白い鳥はどこのだろう、わからないけれども、あれもまたどこかの海の守り神だと言われている。あっちの絵、綺麗だろう。シンオウという地方でたまに見られる海の妖精だ」
 慣れた手つきでティーセットを並べながらサボンテさんが言った。その近くにはシンボラーが控えている。あいつと瓜二つなその姿に、まだ諦めていないらしいラビちゃんが睨むような目になった。
 俺の前に置かれたカップに赤い茶が注がれる。久しぶりに感じられる潮風以外の匂いを吸いつつ、俺は絵に目を戻した。
 海のポケモンを描いたものの他に、恐らくこの町の様子を描いたのであろう絵もいくつかある。噴水のある広場で子供たちがヨーテリーと鬼ごっこをしている絵、花屋の店先でドレディアが女の子に百合の花束を手渡している絵、船で届いた輸入品を運ぶダゲキとナゲキと筋骨隆々の男たち。たった今漁を終えたばかりらしい、港に上がる漁師とブイゼル、フローゼルたちの手には獲物が沢山掲げられてて、それを出迎える婦人の姿も絵に収められていた。
 白い町で人とポケモンが生活している何枚もの絵。俺が見ることの出来なかったその光景は、確かにこの町にあったものらしい。
「あの絵を見てくれ」
 またしても考え込みかけた俺にサボンテさんが声をかける。彼の指さす方向に視線を動かすと、どの絵よりも高い場所に飾られた一枚の作品が他のものよりも豪奢な額に入れられていた。
 それは家族を描いたものだった。中央に描かれた、恰幅のいい男性は体型こそ違うもののサボンテさんによく似ていた。隣で微笑んでいる女性は、サボンテさんと同じ目の形をしていた。
「……ご家族、ですか?」
「その通り。描いてもらったのはだいぶ昔だけどね、父はかなり腕の良い画家に頼んだらしく皆そっくりだ」
 夫婦を囲むようにして、九人の子供がそれぞれの表情で位置についている。男の子が六人に女の子が三人、立っている者もいるし座っている者もいる。精一杯の気取った顔の子、緊張しているらしく姿勢が良すぎる子、反対に溢れんばかりの笑顔の子、自分が描かれていることなどお構いなしに母親にしがみついている子。彼らの周りには何匹かのポケモンもいて、この家を守っているというシンボラーも、この絵が描かれた頃の当主であろう父親の傍らに鎮座していた。
「あれが当時の僕だよ」
 サボンテさんが、絵の隅っこの子供を指す。ムーランドの大きな胴体に隠れるようにして、遠慮がちにこちらを見ている一番小さなあの子供がこの紳士になったのだとは、成長というものは偉大なんだなあとしみじみ思う。
「大家族ですねえ」
「はは、まあね。僕みたいな家だと子供は沢山いるものだけど、それにしたって九人は多いか」
 一通り目を通したため、一度絵から視線を外してお茶に口をつける。喉を滑り落ちる温かな芳香は確かに紅茶なのだけれども、今までに飲んだことのない不思議な味がした。
「どうだろう、口に合うかな? イッシュ本土と同じ、茶葉はメブキジカの角のものなんだけれども、潮風の中で育てているせいか味が変わっちゃうらしくて。大丈夫?」
「なるほど! そういうことだったんですか、おいしいです」
「それは良かった、本土から来た人に出すと駄目な方も結構いるからね」
 こっちもどうぞ、と菓子皿を寄せられる。「カロスからの輸入品だ」と勧められたガレットはこの前父がお土産に買ってきたものよりも幾分素朴な味に感じられた。焼菓子を頬張る俺とラビちゃんを、サボンテさんは微笑ましそうに、シンボラーは無表情な目で見ていた。

 本当ならば、どうして町に誰もいないんだとか、大家族のはずのこの家になんでサボンテさんだけなんだとか、イッシュ本土かセイガイハか、俺の知っている場所に戻る手段はあるのかとか、聞きたいことはある。しかしこうして当然のようにシンボラーとだけの家にいるサボンテさんを見ていると、様子がおかしいということを指摘するのはどうも気乗りしない。
 話を切り出すタイミングをなかなか掴めず、俺はガレットをかじりお茶を舐めるだけになってしまう。何も言うことが出来ない俺の耳に届く波の音は、そのせいかさっきまでよりも大きく聞こえてしまう。そんな沈黙をどうとったか、サボンテさんが「そうだ」と明るい笑顔になった。
「あの曲を教える、って約束だったよね」
 あっ、と俺も頷く。是非ともお願いしますと頭を下げると、サボンテさんはにこ、と笑った。俺の向かいの席を立ち、立てかけてあったチェロを取って戻ってくる。
 そのまま演奏するだろうと姿勢を正した俺だが、サボンテさんは弓を構えることはなかった。代わりに、「ターコイズ」とシンボラーに話しかける。呼ばれたシンボラーは頷くような素振りを見せ、身体をぼんやりと光らせた。
「ターコイズにはちょっと変わった特技があってね」
 あの光は、シンボラーはじめポケモンがエスパータイプの技を使う時に発せられるものだ。何故今それを、とたじろいだ俺を落ち着かせるようにサボンテさんが言う。
「あの子は『みらいよち』が使えるんだ」
「みらいよち……」
 普通のシンボラーでは覚えないはずのその技は、バトルにおいて指示した少し後に効果が発動するものだ。それを使えるとなると恐らくタマゴ技ということだろうか。携帯獣学部でもなく、バトルサークルに入っているわけでもない俺はそのあたりに明るくない。
 まあ、エスパータイプのシンボラーがエスパータイプの技であるみらいよちを使うこと自体は別段驚くことでもない。気になるのは、どうして今それを使うのかということだ。
「しかも、ターコイズのみらいよちはただのみらいよちとはちょっと違う」
 サボンテさんの説明は続く。最初はうっすらだった光はだんだん強くなり、力も大きくなっているのがわかった。水色の石は一際明るい光を放っている。
「ただ、攻撃を後に持ってくるだけのものではないんだよ」
 その言葉が終わりかける時だった。窓から聞こえてくる波の音に混じって、小さな、ピアノの音がしてきたのだ。鍵盤を優しく叩くその音は、徐々に大きさを増していく。
「こんなことが出来るポケモンに、僕は今まで会ったことがないから……驚くかもしれないけれど、危なくはないから安心して欲しい」
 苦笑したサボンテさんが、すっ、と窓の方を手で示す。ピアノの音が聞こえたそちらの方向へ、つられて首を動かした。すると、
「…………え!?」
 絵の中に描かれていた女性、つまりはサボンテさんのお母さんが、先ほどまで閉じられていたはずのグランドピアノを弾いていた。カーテンの揺れる窓際で、長い髪を風に遊ばせながら、鍵盤の上に指を踊らせているのは、紛れもなく絵の中の人だ。
「……どう、いう、…………」
「ターコイズはね、今までに見たもの、聞いたものを再現することが出来るんだ」
 ピアノを弾くお母さんだけじゃない。その周りに、子供たちが次々と現れては動き出す。笑い声、涙混じりの声、怒ったような声と、聞こえるものも増えていった。
 優しげな旋律が広間に響く。その空間にはさっきまで誰もいなかったのが嘘だったかのように、部屋の中は一気に音に満ちた。シックな長いスカートを履いた女の人が一礼しながらどこからともなく出現して、楽譜をいくつか置いていったけれどもあの人は使用人だろうか。
「みらいよちっていうのは、先の時間に効果を期待する技だろう。ターコイズは恐らく、それを応用しているんだ。過去の時間において、何度も何度もみらいよちを使っておくことで、こうして未来に力を発動することが出来るんだろうね」
「は、はあ……」
 僕たち家族の推測だけど、とサボンテさんは付け加える。わかったような、わからないようなその説明に曖昧な返事をした。膝の上で驚きのあまり嘴をあんぐりとあけたまま膠着しているラビちゃんに、身体を光らせたシンボラーが得意げに揺れた。
 正直俺だってまだ混乱しているけれど、ポケモンの技が謎に満ちていることは常識だしとりわけエスパータイプのことはわからないことだらけだ。そう考えると、こういうシンボラーがいてもおかしくなかろう。などと強引に自分を納得させて冷めた紅茶を口に含む。

 いくらか落ち着いてきたので、再度ピアノの方を見てみるとさっき弾いていた曲が終わるところだった。そのタイミングで駆け寄る子供たちの一人一人を、母親は優しく抱きしめる。
『おかあさん! つぎ、あのきょくがいい!』
『うみのうた! あれひいて!』
 小さい女の子二人が母親にせがむ。はいはい、と笑った母親は膝から子供たちを降ろすと、先ほど使用人さんが持ってきた楽譜の中から一つを手に取った。
 ほどなく奏でられるその旋律に俺は、あ、と声をあげる。それは町を徘徊していた時に聞こえたあのメロディで、サボンテさんがチェロで弾いていたのと同じだ。これ、と口の動きだけでサボンテさんに伝えると「こちらの声は向こうに聞こえないから大丈夫だよ」と告げられる。
「この歌は、ここの町歌という感じかな。いつ作られたのかわからないし、誰が作ったのかもわからないけれどもみんな歌うことが出来る」
 ピアノの音に合わせて、子供たちが歌い出す。海の偉大さと美しさ、町の振興への祈り、海と町に暮らすポケモンと人の絆を歌ったその歌詞はすんなりと頭に入った。
 一度引き終わっても、子供たちはよほどこの歌が好きなのか、もう一回、と母親にねだる。何度も奏でられる旋律に、気がつけば俺も一緒になって口ずさんでいた。ラビちゃんが歌っているつもりなのか嘴をふるわせる。サボンテさんもチェロを構えて、低弦の音色をピアノに重ね出した。
「親から子へ、子から孫へ。兄から弟へ、姉から妹へ。この歌は伝えられてきたんだよ」
 美しいけれども悲しい、切ないけれども明るい旋律が潮風と共に部屋を満たす。それに乗る波の音でさえ、共に音楽を奏でているように思えた。
「伝えられるのは歌だけではない。この町で生きる人たちの気持ちが、この旋律に込められて、下の世代へと受け継がれていくんだ」
 気持ちが受け継がれる、という言葉に俺の胸が一度鳴った。歌っていた口を閉じてしまう。ここに来る前、迷い込む前の記憶が不意に蘇った。
 ものと共に、気持ちさえ押しつけられる。この綺麗な歌とは違うことのはずなのに、何かが重なった。今回のこと、洋服のこと、部屋のこと、ベッドのこと。シンボラーのこと。「お下がり」と伝承は別のことだとわかっているのに、俺は黙り込んでしまう。
「カクタスくん……?」
 弓を動かす手を止めて、サボンテさんが心配そうな顔で俺を見た。何でもないです、と慌てて取り繕って手を大きく振る。尚も怪訝な目つきの彼から逃げるようにして、俺は傍らに置いてあったサックスケースを引き寄せた。
「次は俺も一緒に演奏しましょう! 音階、間違ってたら直してくださーー」
 途中まで言いかけて、俺は言葉を切った。視線はサボンテさんではなく、窓際の方へと向く。
 俺が思考に入っていた間に鳴り止んでいたピアノの椅子に座っていたはずの母親が立ち上がっていた。過去の光景から聞こえてくるのはピアノの旋律ではなく、子供たちの争う声に変わっていた。
『やだ! 僕もこれ欲しい!』
『なんだよ、やめろよ! これは俺のだぞ!』
『だって僕だけ持ってないんだもん!』
 小さな男の子二人が取っ組み合いを始めてしまったようで、何やら言い争っている。やめなさいよ、とか、だめだよ、とか周りの兄弟姉妹たちが止めに入っているけれどもなかなか収まらない。とうとう母親が二人を引き離した。
『どうしたの、あなたたち。喧嘩はしていいことだったかしら?』
 なだめるように母親が言う。引き剥がされた二人のうち、小さい方は涙目になってもう片方を睨んでいる。背の高い方の子はその視線にぷいと背いて、手に持ったものを大切そうに、そして小さい方の子から隠すみたいにして抱え込んだ。
 ここから見る限り、彼が持っているのは船の模型のようだ。おもちゃにしては精巧な作りだ、やっぱりお金持ちの家に生まれた子供は遊び道具までも洗練されているということだろうか。
『こいつがおれの船を取ろうとしたんだ。おれは悪くない』
『だって……だって、兄ちゃんが』
『おれは何もしてないだろ!!』
 背の高い方の子が怒鳴り声をあげ、周囲で成り行きを見守っていた子供たちがきゃっ、と後ずさる。小さい子が、恐らく兄なのであろう背の高い男の子のおもちゃを奪おうとしてしまったということか。子供にはよくあることだろう、と思ったものの先ほどの「僕だけ持ってない」という言葉がひっかかる。
 九人の子供たちを見回してみると、確かに一番小さい、泣いているその子以外の子供は全員何かを手にしている。男の子は船の模型、女の子はお人形。足下には他にもいくつかのおもちゃやぬいぐるみ、カスタネットやタンバリンなどの楽器が転がっているけれども、彼らが大事そうに持っているそれは他のおもちゃとは違う、特別感のようなものがあった。
『もう、怒らないの。泣かないで、今度あなたにも作ってあげるって言っているじゃない。ゆっくり待った方が来た時嬉しいわ』
 母親が困ったように小さい子をあやす。しかしその子は首を振り、「うそだ!」と強く言った。
『もう何度も何度も、そう言ってまだくれないじゃん! いつになっても、僕だけ持ってないんだよ!!』
『おもちゃ屋さんが忙しいのよ。必ず、あなたにも作ってもらえるから』
『でも、僕だって……』
『わがまま言わないの。お兄ちゃんやお姉ちゃんを困らせちゃいけないわ、サボンテ』
 少しきつい口調で母親が言い聞かせたその途端、ピアノの周りに映し出されていた光景がふっと消える。シンボラーが技を止めたのだろう。しかしそれよりも、母親の言葉に混じった一言、小さい子へ投げかけられたその名が気になった俺は条件反射的にサボンテさんの方を見てしまう。
「恥ずかしいところを見せてしまったね」
 決まり悪そうにサボンテさんが苦笑した。その台詞から察するに、やはりあの小さい子は幼少のサボンテさんだったということか。
「九人もいるとなると、両親は末の僕にまで手が回らないことも多くて……大分困らせてしまっていたんだと今はわかるけど、あの頃はよく泣く羽目になったね」
「いやいや、わかりますよ。俺も末っ子ですから」
 照れくさそうに頭を掻くサボンテさんにそう言うと、「そうなのかい?」と少し驚いたような顔をした。流石に九人じゃなくて五人兄弟ですけど、と付け加える。
「五人でも九人でも変わらないさ。そうか、君も僕と同じか……」
「色々大変ですよね、末っ子って。兄ちゃんと姉ちゃんがみんな羨ましく見えちゃって」
「ああ。なかなか上の皆と同じ様には扱ってもらえないし、ほとんどの場合は最後にされるしね」
「イヤなことばっかりってわけでも無いんですけど……もう、俺なんかお下がりばっかりでうんざりですよ。部屋は姉ちゃんのお下がりだから壁紙が超ファンシーだし、ベッドは狭いし、兄ちゃんのお下がりの本にはめっちゃでかでかと名前書いてあるし。ポケモンだって……あ、領主さんの家では流石にお下がりはないか」
 思いっきり庶民ノリで話していた俺だが、そこに気づいて言葉を切る。しかし、サボンテさんは「お下がり、か」と呟いた後にふっ、と小さく笑いを作った。
「……そうでもない、と思うよ」
「え?」
 こんな立派な、やんごとなき家の人にもお下がり文化は存在するのか。末っ子はやはり大変なんだなと思いかけた俺だけれども、それは「確かに、服や部屋というわけではないけどね」という言葉に否定される。
 それなら、何のことなのだろうか。サボンテさんのお下がりは、何だったのだろうか。それを聞こうと俺が口を開く前に、サボンテさんがワンテンポ早く言葉を発した。
「ところで……君は、この町の様子を見たよね?」
「えっ、……はい、まあ」
「誰もいなかった、だろう?」
 あえて避けていた話題が唐突に出され、俺はすぐに答えを返すことが出来なかった。黙りこくった俺の声の代わりに、やけに耳につくような波の音が部屋に響いた。
「…………えーと……」
「間違っていないよ。その通り、今はこの町に誰もいない。昨日までならある程度残っていたんだけれども、折しも今日ですっかりもぬけの殻さ」
 僕とターコイズを除いては、と付け加えるサボンテさんの少し後ろでシンボラーが揺れる。紅茶を口に入れた時に一瞬薫った、磯の香りが窓から滑り込んできた。この屋敷は緩やかとは言え高台にあったらしく、よく晴れた青空の下、太陽に照らされた町と海が開け放たれた窓から一望出来る。その方向をちらりと見やり、サボンテさんは静かな口調のまま、言った。 
「この町は……この美しい町は、僕が『お下がり』としてもらったものだ」

「……………………」
 言葉の意味が飲み込めず、俺はまたしても無言になる。何かを言おうとは思うのだけれども何を言うべきなのかわからない。膝の上のラビちゃんが心配そうに見上げてきたけれども、その羽毛を撫でてあげることすら出来なかった。
 俯いたまま黙っている俺の言葉を、サボンテさんはしばらく待っていてくれたのだがやがて口を開いた。「だって、おかしいと思わないかい」と自虐的な声色になる。
「普通に考えて、領主の座を継ぐのは長男だろう。もし違ったところで、長女が婿を取るとか次男が継ぐとか……間違っても、九番目の末っ子に与えられるような地位じゃない。領主としてこの町を治める権利も、この屋敷も、ここを守ってくれるシンボラーも、本来ならば僕では無い、上の兄弟たちの誰かが手にするはずだ」
「あっ……」
 言われてみればその通りだ。時代の先を行くような会社の重役や最近の商店ならばこの限りでは無いだろうけれど、やはりこういう世襲が根強く残る家柄では家を継ぐにあたって、基本的に上の方の子供から優先順位が高くなるものだ。今までこのような家の人と直接話したことが無いから失念していたけれど、そういうものだろう。
 じゃあ、何故。なんで末っ子のサボンテさんが領主として、ここにいるのか。そして、どうして町に誰もいないのか。今度こそ尋ねようとした俺だけれども、「時に君は、三闘を知っているかい?」と逆に尋ねられてしまった。
「三、闘?」
 またしても唐突な問いに疑問符を浮かべた、俺の言葉に波の音が重なる。三闘、とはコバルオンとテラキオン、ビリジオンの三闘伝説のことだろうか。伝説のポケモンと言っても良いくらいの三匹で、何度かカメラが彼らの姿を捉えたという報道があったかどれも真偽ははっきりしていない。
 三闘という言葉にはそれ以外思い当たらなかったので、とりあえずサボンテさんに尋ねてみる。三つの名前を並べた俺に、彼は「そう。その三匹だ」と頷いた。
「昔、人間が戦争を始めたせいでポケモンが脅かされた時にポケモンたちを救った三匹、それが三闘だ。持ち前の怪力で岩を壊し、ポケモンたちの逃げ道を作ったテラキオン。すばやい身のこなしで、ふりかかる火の粉からポケモンたちを守ったビリジオン。そして、危険な状況でも冷静さを失わずに、焼ける森に怖がるポケモンたちを導いたコバルオン」
 その伝説は俺も知っている。しかし、どうしていきなりこんな話を始めるのか。内心で首を捻る俺を余所に、サボンテさんは少し音量を落とした声で呟いた。
「君がよりによって今日、…………の日に、来たのも……」
「はい?」
 途中の言葉を、波の音が掻き消した。何と言っているのかわからず聞き返した俺だけれども、サボンテさんはそれには答えずにシンボラーの方を見た。
「五年前、君は見ていたんだろう」
 サボンテさんがシンボラーの模様、目にあたる水色の円をじっと見つめる。シンボラーは動かず、サボンテさんを正面から見返した。波だけが聞こえる部屋が静まり返る。 シンボラーは、いつも俺のシンボラーがしているようにただただ浮いているだけだ。だけれどもそこには俺のとは、いや、さっきまでのシンボラーとさえも違う気迫があった。ただそこにいるだけなのに、有無を言わせないような雰囲気を纏っているのだ。
 恐ろしい。俺は、初めてシンボラーに対してそんな感情を抱いた。ミステリアスな模様が、大きく広がる沢山の羽が、類を見ないシルエットが、鈍く光る水色の石が。このポケモンが、こんなにも恐く見えたのは初めてだった。
 しかし、エスパーポケモンのぞっとするようなオーラを目の当たりにしても尚、サボンテさんは動じていなかった。静かな目で、シンボラーを見つめ続けている。サボンテさんの黒い瞳と、シンボラーの水色の瞳が、しんと交差した。
 状況が飲み込めず、また、間に入っていける空気でも無い中俺は立ち竦むしか無い。口の中に湧いた生唾をごくりと飲み込む。俺の喉が鳴ったのと同時に、サボンテさんが息を吸った。
「ターコイズ」
 シンボラーの名前が呼ばれる。低い声で、触れるように発されたその言葉にシンボラーの尾羽が少し揺れた。
「大丈夫だ。もう、全部済んだことなんだから」
 何を言っているのか、俺にはさっぱりわからない。しかしシンボラーは理解しているようで、少し球体部分を傾けてサボンテさんに何かを伝えていた。それは彼の言葉に抵抗するようなニュアンスが見て取れたけれども、その本意を俺は探れない。その動きに対してサボンテさんは首を横に振った。
「心配する必要は無い、全部解決したじゃないか。昨日説明した通り、あとは時を待つだけだ」
 それに、カクタスくんが来たのも何かの縁だろう。そう付け加えたサボンテさんに、シンボラーが渋々と言った調子で視線を外した。ぷいとそっぽを向いたその身体が先程同様光を帯びる。このシンボラー特有のみらいよちだろうか。
 しかし、今度は何の光景を。縁とはどういうことか。今日何が起こるのか。それ以前に、さっきの話の続きは。聞きたいことが山ほどあって口を開きかけた俺を、サボンテさんはそっと手で制す。それに気圧された俺の声の代わりに、ざらざらとした波の音が部屋に鳴った。

「五年前のことだ」
 窓とは反対の、沢山の絵が飾ってある方を見てサボンテさんがぽつりと呟く。海の神様の絵。町で暮らす者の絵。彼の家族の絵。それら一つずつに視線を動かしてから、彼は目を伏せた。
「波の穏やかな夜だった、と、当時の領主だった父から聞いている」
 小さい声で話すサボンテさんの言葉を、波の音から拾い上げるのが大変だ。聴覚に神経を集中させているうちに、シンボラーの技も発動していたらしい。絵が飾られた壁の下、白い柱の間にぼんやりと五つの影が現れる。
 二つの影は人間の男女で、片方はさっきの光景でピアノを弾いていた母親の面影があった。サボンテさんの母親の、年を重ねた姿ということか。となると、隣に立つ同じくらいの年頃の男性は父親だろう。絵の中央にいる男性ともよく似ている。
 俺たちに対して横を向く二人の正面に、次いで三つの影が現れた。それぞれ高さが違う、四足のポケモンの影だ。それが徐々にはっきりしていき、茶、緑、青の色を帯びた時、その影が何たるかがわかった俺は思わず息を呑んだ。
「三闘……!!」
 本や図鑑、教科書などの絵で見たことは多々あるけれども、三闘実物を見たことなど無い。数多の研究者が探しているのだ、俺が出会ったこともなくて当然である。そんな彼らを目の前にしてしまい、シンボラーが再現出来るということは実在したのか、という事実とそれを確認してしまったことに絶句する。
「でも、なんでここに……」
 震える声でどうにかそれだけ呟いた俺に、「聞いていればわかる」とサボンテさんが言う。それに対して何か言うよりも先に、浮かび上がった影のうち父親が「どういうことですか」と張りつめた声を出した。
『それは……それは、あまりにも酷すぎるのではないでしょうか!?』
 父親の拳はわなわなと震えていた。母親は両手で顔を覆い、声こそあげないものの涙を流していた。サボンテさんの両親の顔は色を失い、見ているこちらが辛くなりそうなほどだ。事情も何もわからないのに、胸が締め付けられそうになる。
 しかし、相対する三闘は怖いほどに落ち着いていた。テラキオンは鎧のような鋼を光らせてる。ビリジオンは爽やかな毛並みを風に遊ばせている。一瞬の揺らぎも見せない静かな瞳のまま、威厳溢れる立ち姿を見せていたコバルオンが三匹を代表するようにして口を開いた。
『もう決まったことだ、何度も言わせないで欲しい。我らに続く四番目の聖剣士、ケルディオは海や川などの水面を渡って移動し、世界を廻る運命にある』
 コバルオンが言葉を喋ったことに心臓が跳ねたが、伝説になるくらいのポケモンだからそのくらいは出来るものなのだろうか。ともかく、ケルディオ、というのは三闘伝説の続編に出てくるわかごまポケモンだったはず。三闘よりかは有名では無いけれど、同じように実在があやふやな、伝説の中のポケモンである。コバルオンの口振りからするとケルディオもまたいるらしいけれど、それがサボンテさんの両親とどう関係しているのだろうか。
 父親は口をつぐみ、母親は短い嗚咽を漏らす。そんな二人にお構いなしといった様子で、コバルオンは続けた。
『ケルディオにとって川は道、海は大地。それを封じるものがあっては、あの子は世界を廻ることが出来ない。どうして、の理由はそれだ。わかったか、この町を海に還すことは必要なのだと』
 淡々と告げられた言葉は、しかし耳を疑うような意味を込めていた。海に還す? 町を? それはつまり、ダムを作る時のように町を海に沈めるということだろうか。だが、そんなことを町の者が黙って受け入れられるわけがない。
 案の定、当主であるサボンテさんの父親は激昂した様子でコバルオンに食ってかかった。圧倒的な力で人間の戦争を止めさせたポケモンと言っても、今のやりとりではあまりにも理不尽すぎる。
『おかしいだろう! 何故、私たちの町が沈められなければならないんだ! 海ならいくらでも広がっているだろう、こんな小さい町……島の一つや二つ、避けて通ればいい!』
『駄目だ。あの子はまだ幼い、聖剣士としては駆け出しの身であるのだ。決まったルート、最短で済む道を通らなければ途中で力尽きてしまうだろう』
『だからと言って……』
『何でもだ! これはもう決定事項なんだ、何を言っても変えられぬ!』
『身勝手なのは重々承知。でも、どうぞ受け入れてくださいな』
 テラキオンとビリジオンがコバルオンに続く。泣き崩れる妻を支えながら「おい……」と尚も引き下がる父親に、コバルオンは落ち着き払った声で「五年後だ」と告げた。
『五年後の今日、この町を海に還してもらう。なに、民も財産もそのままに、とは言わぬ。ただ海面さえあれば良いのだ、ここで暮らす者もお前たちも、安全な場所へと行っておくといい』
 せめてもの罪滅ぼしに、ここに生きる者全ての繁栄を約束しよう。と、コバルオンが言ったのを境に映し出された五つの影がすっと消えた。能力を使い終えたシンボラーが光を失う。
 視線をサボンテさんに移動させる。何を言えば良いのかわからなかった。言いようの無い息苦しさばかりが追いかけてくる。柔らかな絨毯の上で立ち竦み、口を開きかけては閉じるばかりの俺を見ないまま、家族の肖像に目を向けたまま、サボンテさんは話し出した。

「あの後、両親は僕たち子供を集めて先程のことを説明した。町民たちにどう伝えるか、何か解決策は無いのか……何日も何日も、話し続けたけれども、答えは出なかった」
「三闘が訪れた夜から半月……両親の姿が、この町から消えた。逃げたのだ。いずれ消えゆく町が怖くて、逆らうことの出来ない大きな力が怖くて。そして、何も出来なかったことを町民に責められることが怖くて」
「僕も兄弟たちも、気がついた時はまさかと思って呆然した。しかしいつまでもそうしてはいられず、元々家を継ぐことになっていた長兄が当主の座についた。だが、長兄も両親と同じだ……一週間もしないうちに、妻と子を連れて夜の闇に身を消した」
「次兄も、三番目の兄も……姉二人は余所の地へ嫁に行ってしまってもう屋敷にいなかったが、それ以外の兄弟たちは皆同じだった。皆、この町から逃げていった。町が海に還る前に、町民たちがそれを知る前に」
「あの夜からちょうど二年後。とうとう、僕だけが残された」
 サボンテさんが、家族が描かれた絵の額縁をそっと撫でた。ミジュマルの最終進化形、ダイゲンキの勇ましい彫刻が施された一角はほこり一つ溜まっていない。
 黙ったままの俺の耳に波の音が届く。普段ならば爽やかで涼しげな気分になれるはずのそれは、纏わりつくような、締め付けられるような音となっていた。背中に生温かい汗がつたう。
「一人取り残された僕も、当然考えた。僕にも妻子がいるんだ、二人を連れて逃げてしまおうか……太陽が昇り、月が沈み。約束の日が刻一刻と近づく中、そんな思いはどんどん強くなっていった。さんざん羨んだ当主の座は、地獄にあるという針山のようなものだった。少しでも早くこの場所から逃れたい、そんな考えばかりが募っていった」
 少し語気を荒げて、サボンテさんは続ける。消える運命に置かれた町と、それを背負う立場を「お下がり」として押しつけられたのだ。服だの部屋だの、そんなレベルでは到底ない。それ以上誰に責任も求めることも出来ず、突然与えられたものに苛まれる日々。それが、サボンテさんの身にふりかかったことだった。
 自分はどうするべきなのか。何を優先し、何を捨てるか。白に囲まれたこの町で、サボンテさんは苦渋の選択を強いられ、しかし決断出来ずにいた。
 歯を噛みしめるような表情のサボンテさんに、俺はかける言葉を持たない。波がまるで這い寄ってくるような音を立てる。
「そんな時」
 不意に、彼の口調が緊張の糸を少し緩めた。
「そんな時だった。部屋に籠もって嘆く僕の元に、同じく兄弟たちが残していったターコイズがやってきた」
 その言葉を受けて、シンボラーがサボンテさんに寄り添うようにしてふわりと動く。球体の部分を優しく撫でられたシンボラーは相変わらずの無表情であったが、無機質だと思っていた顔の模様はどこか和らいでいるようにも見えた。ゆらゆらと揺れる動きに呼応して羽が舞う。
 独特の形状をしたその身体が、またもぼやりと光る。今度は何の記憶を見せてくれるのだろうか、と俺が考えているうちに像は壁の絵を隠すようにして現れ始めた。映し出される過去の情景の向こう側は白い壁だから勿論奥行きなど無いはずだけれど、部屋に生まれた町の様子は、まるで本当にそちら側へと行けそうなくらいだ。
「何の用だ、と言った僕に、シンボラーは町の記憶を見せた。昨日のものなのか、先週のものなのか、それとも何年も前のものなのか……いつの記憶なのかはわからなかったけれど、それは確かにこの町のものだった。この町で、人とポケモンが生きる様子だった」
 白の町、家と家の間を走る道を小さな子供たちが走っていく。コアルヒーの群れと追いかけっこをしているようで、水色の羽が飛ぶのもお構いなしに、家の前に植えられた緑の脇を賑やかに駆け抜ける。モジャンボと共に掃除をしている婦人や、ガマゲロゲと競い合うようにして荷物を運ぶ若者が微笑ましそうに眺める中、バタフリーを頭に止めた果物屋がナナを一つほうってやった。笑顔でそれを受け取り、子供たちとコアルヒーは騒がしくも賑やかに町を行く。ランプラーとシャンデラを連れたコックやフローゼルと並んで歩く漁師、メラルバを背負い両手に本を抱えた作家風の若者など、にこやかにすれ違う人々が白の町に次々と現れる。
 シンボラーに映し出されたそれは、俺が見た無人の町とは違う、同じ場所なのに全く異なるものだった。
 それはきっと、三年前にサボンテさんにも見せたものと同じなのだろう。末の子ということもあって屋敷の中では一番立ち位置が低かったというサボンテさんは、直接町に出向いて町民と一緒に働くことが多かったらしい。それもあって、改めて見つめることとなった町の様子は、彼の心にすとんと落ちた。
 領主という地位を手にして初めて、真正面から見た白い町。この情景をシンボラーに見せられたサボンテさんは、「それで、決めたんだ」と笑った。
「逃げるとか、逃げないかの前に、まずは町のみんなにちゃんと話そう、ってね。この町に起こること、そして僕たちが何も出来なかったこと。あんな風に、まっすぐ生きている人たちを裏切ることなんてとても出来なかった」
 そう言うサボンテさんの顔は、先程までとは違う、憑き物が落ちたようなすっきりした表情をしていた。それは俺がここに来て、彼を初めて見た時と同じようにだ。
「そして、みんなに全てを話して……僕は自分が、とんでもない勘違いをしていたことに気がついた」
「憎まれるかもしれない、恨まれるかもしれない。絶対許してなんかもらえないだろう。そう思っていたのに、そんなことはちっとも無かった」
「町の人々は、僕の話を聞き終わって口々に言った。俺たちの町の運命ならそれは俺たちの運命でもある、沈む直前まで共に生きようじゃないか、民が逃げ出すような町が聖剣士様の通り道としてふさわしいはずがない、最後まで立派な町として残すべきだろう。ポケモンたちも一緒になって、勇ましく、頼もしい笑みを浮かべていた。僕を、そして聖剣士たちを責めるものなんかいなかった。みんな、僕や僕の家族にはなかった、目の光を持っていた」
「町民たちが奮起して、最後に僕の妻が言った。この町は、あなたにとって、黙って沈ませることが出来る程度の町なのですか、と」
「それを聞いて、僕はやっと気がついたんだ。自分は、なんて素晴らしい所に生まれ、育ってきたのだろうと。そして、なんと素晴らしいものをもらったのだろうと」
「その日から、僕も町のみんなも一緒になって、それまで以上に明るく過ごした。誰もが力を合わせ、笑って生きていた。信じられないくらいに幸せな毎日で、ふとした瞬間に、まさか沈むなんて嘘だろうと思ってしまうくらいだった」
「けれども、そんな淡い希望はやはり叶わなかった。毎年、あの夜と同じ日が来る度に三闘が僕の前に現れたのだ。約束を忘れてはいないだろう、と。三年前は曖昧に、二年前は抵抗しつつも渋々、一年前は何も言わず、僕は頷いた」
「そして、この町にとって最後の一年が過ぎた。三闘がそうしてくれたのか定かでは無いけれど、例年よりも大漁で、貿易も上手くいき、気候にも恵まれた。人も、ポケモンも、この町の者はみんなが幸せを感じていた」
「それでも約束の日は否応無しに近づいて、一月をきったあたりから少しずつこの町から去っていった。親戚や子供のつてを辿ったり手の職を利用してセイガイハや本土に移住するのだと、一つ、また一つと町の影が減っていった。お元気で、またお会い出来るのをお待ちしております、と僕の手を握る顔の全てを覚えている。中には、是非とも訪ねてきてくださいと移住先を教えてくれる方もいた」
「この町と一緒に死ぬ、と頑なになる人をどうにか説得したり、行く当てが無い人の移住先を見つけたりしていると約束の日まであっという間に過ぎ去ってしまった。今日から三日前、僕が小さい頃からずっとこの屋敷に仕えてくれていたメイドと彼女のママンボウがサザナミに向かい、やっと、全ての町民を安全に送り出すことが出来た」
「そして昨日、最後に、僕の妻と子供がこの屋敷を発った。一緒に見届けると言ってくれたけれども、それは僕の役目だからとセイガイハに行かせたんだ。少し強引になってしまったが……危険な目には遭わせたくない」
 娘は怒ったままだったな、とサボンテさんは苦笑して、一度言葉をきった。彼にぴたりとくっついたまま、シンボラーがゆらりと身体を動かす。
 波が堤防に打ちつける音がする。まだ映し出されていた町の中、人とポケモンが笑い合っていた。それを愛おしそうに見つめ、だけれども数秒後に目を閉じて、サボンテさんが「そして」と繰り返す。
「そして、とうとう今日が来た。まさか、こんな時にお客さんが来るとは夢にも思っていなかったよ。不思議なこともあるものだ」
 感心したように言いながら、サボンテさんが俺を見た。黒い肌に黒い髪、黒い瞳には俺が映っている。彼の言った、『今日』の意味がやっと理解できた。
 今日は、今日はつまり。
「約束の日が、ついにやってきた」
「左様。わざわざお待ちいただいた旨、感謝しよう」
 静かに言葉を紡いだサボンテさんに続いて、落ち着き払った低音が広間と廊下を隔てる扉の方から聞こえてきた。その声にシンボラーが反応して、広間に浮かびあがっていた町の様子が霧散する。
 屈強な体躯を低く構えた茶色、床から伸びるすらりとした四肢を持った緑。それに挟まれるようにして、なめらかな青い毛並みを揺らし、立派な角を威厳たっぷりに携えたコバルオンは三闘の真ん中で俺たちを見据えていた。
 いつ、どこから入ってきたのかわからないけれど、今度はシンボラーによる投影では無い。俺の目の前にいる三闘は、確かに本物だった。驚きと、彼らの放つオーラによって声が出せない俺には目もくれず、コバルオンはサボンテさんに向かって「領主殿」と告げる。
「時は満ちた。今を以て、この町を海に還してもらう」

「見た限り、この町から民は既に去っているようだけれども、御前はまだ待っていてくれたのだな。準備は出来ているのか?」
 過去の光景にあったそのままの声で、コバルオンがサボンテさんに尋ねた。荷物をまとめているようには見えないが、と怪訝そうに言うコバルオンに、彼は「これで良いのです」と静かに微笑んだ。
「では、行こう。じきに海が来る、陸地まで我々が導く」
 コバルオンはそう言って、広間の扉を振り向き俺たちを促した。テラキオンとビリジオンも、身体の向きを少し変えてそちらへ行けというような動きをとる。
 海に町が沈む前にここから出るということだろうか。サボンテさんがこの後どこへ行くのかわからないけれど、コバルオンの台詞から考えるにとりあえず町からは去るのだろう。シンボラーがすうっ、と扉の方へ移動する。俺もそっちへ一歩を踏みだし、しかし、サボンテさんが動かないことに足を止めた。
「サボンテさん……?」
 行きましょうよ、という思いを込めて名前を呼ぶ。だけど、それでもサボンテさんは動かなかった。絵を背にして、サボンテさんは柔らかな笑みを浮かべて立っている。押し寄せるような波の音が響き、俺もシンボラーもそして三闘も、彼が動くのを待っていた。
 誰も、何も言わない。じっと彼を見ている。部屋にいる皆の視線を集めたサボンテさんは、どれくらいの静寂の後だろう、やがて「三闘様」とようやく口を開いた。
「なんだ」
 コバルオンが答える。その口調は待たされて苛立っているという風では無く、淡々としていた。
「僕は、この町が大好きです」
「知っている。御前が、御前の家族の誰よりもこの町を愛していたことなど、我々はよくわかっている」
「人とポケモンが寄り添い、互いが互いのことを思いやりながら生きている、この町が大好きなのです」
「わかっている。だが、今更事を変えることは出来ない。申し訳ないとは我々だって思っている、しかし……」
「それは承知しております」
 サボンテさんの声は穏やかだった。穏やかで、だけども芯が通っていた。三闘を前にしても何も恐れることなく、この町の領主であるサボンテさんは「約束を取り消せ、と言うわけではありません」とはっきり言った。
「僕が望むのは、僕を、この町と共に、海に還して欲しいということです」

 その言葉に、俺も、テラキオンも、ビリジオンも。そしてコバルオンでさえ動揺に身体を固まらせた。町と共に海に還る、その言葉が暗に意味していることを悟った俺たちは絶句し、サボンテさんの方をじっと見る。
「聖騎士様、ケルディオ様のためにこの町を捧げましょう」
 波が、まるで何かに叩きつけるような音が部屋にこだまする。しかしそれにも負けず、サボンテさんは凛とした声でコバルオンに告げた。
「しかし、どうか波に流さないでいただきたいのです。波によって押し流し、まるで、この町が存在しなかったようなことだけにはなって欲しくありません。確かに存在するこの町を、消し去るのでなく、海の底に眠らせて欲しい」
「それは可能だが……だが、それだけならば御前が一緒になる必要は無いだろう」
 コバルオンの言葉に、残りの二匹と俺も頷く。だけど、サボンテさんは首を横に振ってそれを否定した。
「確かに、今の僕の地位は、兄弟たちから押しつけられたものです。しかしそれでも、いや、そうでないとしても、僕はこの町を愛しております。この町に生まれたこと、この町で生きたこと。何もかも、誇りに思っています。僕は、この町にあって幸せでした。この町は僕にとってかけがえのない宝物だ。だから、せめて最後は。最後は、町と共にありたいのです」
「しかし……」
 納得しきれないというようにコバルオンが口を開きかけた、その時だった。
 「ぢぢぢぢぢゅいぢゅい!!」と、突如俺の腕の中から響きわたった大声が緊迫しきった空気を切り裂く。ずっと黙っていたラビちゃんが鳴き叫んだそのことで、俺は初めて、今まで聞こえていた波の音が段々大きくなっていったように感じていたのは気のせいではないこと、そして、もうそれがすぐそばまで迫っていることに気がついた。
「…………えっ!?」
 ラビちゃんの翼が指した窓の外、ついさっきまでは誰もいない白い町が見えたその景色を見て、俺は一瞬自分の目を疑った。
 波が、いや、波じゃない。海が、町を覆いつくしていたのだ。透き通った水が一面に広がっている。白の町並みはそのままに、先ほどまでは青空と水平線を背にしていたはずの白い町は、海底のものと化していた。俺に続いて窓に目を向けたコバルオンが切羽詰まった声をあげる。
「まずい、もう時間が無い!」
「三闘様! その子は今日来てくれた客人なのです、巻き込むわけにはいかない……その子をお願いします」
「御前は!」
 早く来い、とコバルオンが吠える。しかし、サボンテさんはゆっくりと頷いただけだった。コバルオンの瞳が、じっとサボンテさんを捉える。サボンテさんは、穏やかな笑みのまま、もう一度頷いた。それを見たコバルオンはしばし沈黙し、「…………承知した」と苦々しげに領主から目を伏せた。
 待ってくれ、とサボンテさんに口を開きかけた俺を、コバルオンが「行くぞ」と突き飛ばした。よろけた俺は、サボンテさんから離されてしまう。立ち上がって駆け寄ろうとしたものの、俺を阻んだコバルオンはさっきのサボンテさんと同じ、有無を言わさぬ瞳をしていた。逆らうことが出来ずに言葉を飲み込む。
 時間が惜しい、窓から出るぞとコバルオンが言った。海が広がる窓の向こう、水の中へとテラキオン、ビリジオンが消えていく。絶対に手を放すな、と俺に警告したコバルオンが窓に足を掛けた時、背中にサボンテさんの声が響いた。
「ターコイズ、お前も行くんだ」
 思わず振り向くと、サボンテさんがシンボラーの球体部分に両手を添えて語りかけていた。その手を強引に振り払い、シンボラーはサボンテさんの胴に寄り添う。身体を横に振りながら羽を大きく動かすその様子は、まるで主人の言葉に抵抗しているようだった。嫌だ、嫌だと繰り返す小さな子供のように。
 しかしサボンテさんはそれを許さなかった。自分にくっつくシンボラーを引き剥がし、無理矢理に視線を交わさせる。
「ターコイズ」
 コバルオンは動かない。サボンテさんの言いたいことが終わるのを待っているようだ。
「お前が僕のところに来てくれて、本当に嬉しく思っている。短い間とは言え、この町をお前と一緒に治めることが出来て僕は幸せ者だ。お前は、僕がもらった素敵な『お下がり』だよ」
 サボンテさんは、さっきもそうしていたように優しい手つきでシンボラーを撫でた。丸い身体が、小さく震える。派手な色の羽が今は力無く見えた。
「でも、『お下がり』には良くない記憶もくっついてくるようでね。この町が無くなってしまって、悲しいとか、悔しいとか。僕の兄たちだと、面倒だから押しつけてしまえ、だとか。そんな気持ちを、これから先に『お下がり』として受け継ぐわけにはいかないだろう」
 シンボラーを撫でる手が止まる。止まった手は、最後に頭部の水色の石にそっと触れ、とりもどきポケモンから離れていった。
「だから、嫌なものは全て僕が背負う。悲しさも苦しさも、悔しさも辛さも、全部僕が飲み込んで海の底にしまってしまう。なに、幸せそのものだったこの町と一緒なんだ。苦では無いさ」
 サボンテさんは冗談めかして笑ったが、シンボラーの方はとてもそんな雰囲気ではない。ぶわりと広がった羽は、相対するサボンテさんが主人でなければ攻撃していてもおかしくない様子だ。それでもサボンテさんはその気迫に動じることなく、淡々と、しかし優しく話を続けた。
「だから……だから、ターコイズ。お前は、幸せな記憶だけを『お下がり』として、僕の家族と共に生きていって欲しい」
 告げられた言葉に、シンボラーがさっきよりも強く抵抗する。しかし、サボンテさんは頑としてそれを振り切った。シンボラーの水色の瞳を強く見据え、大きく息を吸い込む。
「行くんだ!!」
 その声と共に、サボンテさんがシンボラーを突き飛ばした。不意打ちに対応出来なかったらしいシンボラーが、勢いをつけて俺とコバルオンにぶつかってくる。衝撃によろめいて窓の外に出された俺はサボンテさんを振り返ることも出来ず、否応なしに海中へと放たれた。
 群れを成して泳ぐ大量のバスラオ、飛ぶようにして悠然と進むマンタイン。家の間をくぐり抜けていくプロトーガ、海水に揺れる店先の花に頬ずりをしているサニーゴ。上に目を向けると、ホエルオーの腹部と思しき大きな白い影が横切った。
 まるで、今日の朝に携帯で見たセイガイハの祭の風船みたいだ、と考えるのとほぼ同時に、いや、こっちが元だと思い直す。海底から見た海の中は、あの祭の写真にあった、シンボラーが狼狽したという、青空に浮かぶ風船とよく似ていた。
 シンボラー、と俺がその言葉を頭に思い浮かべた時、隣で甲高い音が鳴った。なんだこれは、とそちらを向く。鳥ポケモンの鳴き声と、コイルの嫌な音を混ぜ合わせたような、聞き慣れないその音声。それは、シンボラーの方から鳴っていた。
 いや、シンボラーは、鳴いていたのだ。今まで聞いたことが無かったから失念していたけれど、ポケモンなのだから鳴いてもおかしくなどない。
「………………」
 シンボラーは、鳴いていた。もう会うことの出来ない主人に。自分を守ってくれた主人に。町と共に、ここに残ると決めた主人に。
 俺はシンボラーに手を伸ばす。俺はサボンテさんでは無いけれど、このポケモンを撫でてあげなければならないと思ったのだ。幸せな記憶を、明るい記憶を託されたこのポケモンを。
 しかし、俺の手がシンボラーに触れるか触れないかのところで突然辺りが光った。目も眩むような光に、俺は思わず手を止めてしまう。あまりの眩しさにコバルオンに尋ねることも出来ず、ほぼ無意識のうちに目を覆った。
 ところ構わずに辺りを見渡す。首が上を向いた時、光の中で海面が視界に入った。そこを、その表面を、何か小さい四つ足のポケモンが軽やかに駆けていくように見えたけれども……はっきり見ることは出来ず、まもなく俺は目を瞑った。


 数秒経っただろうか。瞼の裏の明るさが変わってきて、ようやく俺は目を開けた。視界のちかちかが収まると、はっきりしてきた目は先程と同じ、ホエルオーの大きな腹やマンタイン、バスラオの群れなどを捉える。美しい鰭を揺らしつつ、ネオラントが群れの前を横切った。
 しかし、ほどなく気づいた。それは本物のポケモンたちではなく、澄み切った青空に浮かんだ風船だったのだ。セイガイハシティ開催の、マリンバルーンフェスティバル。俺たちが向かっていた祭そのものだ。
 霞がかった頭のまま、辺りを見回す。瀟洒な作りの屋敷の広間も、白の町も、そんなものなどどこにも無かった。荷物とサックス、ラビちゃんはちゃんといるけれど、俺が立っているのは海底と化した町では無くセイガイハの中央広場近くの砂浜である。コバルオンも、テラキオンとビリジオンも、サボンテさんもいない。きゃあきゃあと祭を楽しむ人々の声が少し遠くに聞こえる砂浜で、俺は佇んでいた。ラビちゃんが呆けたような、気の抜けたような声で短く呻く。
 ただ、シンボラーだけが残っていた。サボンテさんを慕い、白の町を守り、そして幸せな記憶を背負って、海の底から抜け出したシンボラーが。
 そして、俺が兄と姉に「お下がり」でもらったシンボラーが。
 俺の隣でじっと浮く、シンボラーに手を伸ばす。このポケモンを、撫でなくてはいけないと思ったのだ。少し前にも、もしかするとずっと昔にも、そう思ったのだ。
「…………、いや、」
 シンボラー、といつもの調子で言いかけて、やめる。もっと呼ぶべき名前があるのだ。それはシンボラーも持っている水色の石で、家族を守る力を秘めた石と同じ名前だ。
「ターコイズ」
 初めて口にしたその名に、シンボラーは身体を震わせた。丸い体躯を強く抱きしめる。震える身体は無機質なんかじゃない、温かくて、柔らかかった。
「お前が、俺のところに来て良かったよ」
 抱きしめたまま、大きな羽の間をそっと撫でる。サボンテさんのようにはいかないかもしれないけれど、俺がそうしたかったのだ。
「俺のところに来てくれて、ありがとう」
 潮風が俺の頬を打つけれども構わない。寄せては返す波を聞きながら、何度も何度も震える身体を撫でた。
「お前は、最高の『お下がり』だよ」
 俺にとっては二回目になる、あの鳴き声が砂浜に響く。シルエット同様独特で、不思議な声だ。高い音で鳴り続けるその声は身体に合わせて震え、大きくなったり小さくなったりしている。尾羽が揺れて、柔らかな砂を少し散らした。
 シンボラーの身体をさっきよりも強く、しっかりと抱きしめる。お祭りの楽しげな声に重なって、まるで嗚咽しているみたいな鳴き声は、海の底までも届きそうだった。


「カクタスー、昨日言ってたやつ調べたよー」
 今日の分の講義を終え、バイトだというキョウヤと別れてサークルに向かう道中である。生徒だの教授だの各々の連れるポケモンだので騒がしい大学の廊下で、リュウが俺を呼び止めた。
「マジ!? もう調べてくれたの!? サンキュー、今度なんか奢るわ」
「いいって。この前のお土産もらったんだし、このくらいなら」
「いやいや、俺がおさまらないの! お礼ってことで、な?」
 差し出されたコピー用紙の束を受け取りながら頭を下げる。じゃあお言葉に甘えて、と笑った友人は「でも」と首を傾げた。
「どうしてカクタスがいきなりこんなことに興味持ったの? 考古学とか史学の類とか、絶対興味無いと思ってたし、前自分でも言ってたし」
「うん? まあ、いいじゃん」
 適当に笑ってリュウの言葉を受け流す。と、「いいけどさ」と笑い返した友人は引き連れていたゲンガーの手を握りなおして満面の笑みを形作った。
「じゃ、今度よろしくね。僕とポケモン十三匹分、お店はカクタスにお任せするよ」
「じゅうさっ……!? ちょ、おま……」
「じゃあねー! 楽しみにしてるよー」
 のほほんとした顔で意外と抜け目無い友人は、俺の言葉を聞き終わらないうちに廊下の人混みポケモン混みに紛れて見失ってしまった。こりゃあ、バイトのシフトを多めに入れなければいけなそうである。とほほと廊下で溜息をつく俺を、ヤンチャムに頭の上を支配されて降りてくれ重いと喚いている男子生徒が不審そうに見てきた。
 その視線から逃れるようにして、部室へと足を早める。歩きながらリュウにもらった紙の束を見ると、昔々セイガイハの近くにあったけれどもある日なくなってしまったという小さな島町のデータが集められていた。丁寧にまとめられたそれを、大切に鞄にしまう。
「ちーっす」
「おう、お疲れー」
「お疲れさまー」
 部室のドアを開けて軽く挨拶、返ってきた声に会釈しながら定位置に荷物を置く。ひょこひょこと我が物顔で部室を闊歩するラビちゃんに、俺が買ってきたセイガイハ土産のマカダミアチョコを食べていた先輩がナッツ部分を砕いて与えた。小さな嘴が嬉しそうにそれをつつく。
「ようカクタス、これ美味いぞ」
 ドラムの先輩が放ったカイスのアイスをキャッチ、「あざーす」と告げた俺の後ろから大きな影がゆらりと移動した。ゆらゆらと揺れる尾羽に興味をひかれたのか、キーボードの足下にいたエリキテルがぱちぱちと電気を起こしながら恐る恐るといった感じで近づいてきた。小さな電気ポケモンに、水色の目をしたシンボラーはじゃれさせるように身体を振る。エリキテルは目を輝かせ、揺れる羽を追いかけ始めた。
 あの日俺が迷い込んだ町の正体は、結局わからずじまいである。みらいよちの応用による能力で映し出されたものだったのか、あの場所に残ったサボンテさんの想いがそうさせたのか。はたまたその両方が合わさったことで、現実と記憶が交錯したのか。真偽はわからないけれど、夢では無かったと思っている。
 そしてあれ以来、シンボラーは幾分か感情豊かになったようだ。幸せな記憶を、とサボンテさんに命じられたシンボラーは長い間ずっと、嫌なことを封じるために自分の感情さえも押さえ込んでいたのだろう。悲しみも苦しみもずっと押さえ続け、記憶の奥底にしまいこみ、忘却の彼方に葬りさろうとしていたのだ。
 だけどもそれは出来ず、結局、海底から見た景色とよく似た祭の様子を見て思い出してしまった。思い出して、その記憶を蘇らせたのだ。
 でも、それを俺が見た。全ての記憶を、「お下がり」として受け取った。シンボラーの故郷だったあの町が、主人だったサボンテさんが、ちゃんと存在していたと知る人が生まれた。それを理解したシンボラーは、もう感情を抑えるのをやめたのだろう。
 楽しそうにしたり、怒った素振りを見せるようになったシンボラーに俺の家族は当初こそ戸惑ったものの、安心したように出迎えた。なかなか面白い奴じゃないか、と父親が言った。ご飯の好みがやっとわかったわ、と母親が肩を竦めた。今度見に行くわ、と長姉が電話の向こうで話した。これならすぐにチャオブーとも仲良くなれるかな、と長兄が苦笑した。せいかくは何だろう、きのみの好みは、と次兄が考察しつつくしゃみした。前よりはいいんじゃない、と次姉がそっぽを向いて口を尖らせた。
 サボンテさんの奥さんからずっとずっと、シンボラーが守り続けてきた俺の家族は幸せに暮らしている。頭部にある水色の石は、食卓を囲む俺たち全員から見える場所で鈍く光っているのだ。
 エリキテルをじゃらしているシンボラーから目を離し、楽器の準備に取りかかる。この前の練習に参加出来なかった分、一ヶ月後に迫ったミニライブまで追い上げなければならない。だけどその前に、と、俺は楽譜の無い曲を吹いてみる。
「お? 何だ、聞いたことない曲だな」
 美しいけれど、悲しい。切ないけれど、明るい。部室に響くその旋律に、サークル員たちが反応する。
 「お下がり」は、ものだけじゃなくて記憶や感情も一緒に受け継がれる。幸せな記憶も、辛い記憶も全部併せて伝えられるのだ。
 それでも俺は、誰かの思いをもらうことは悪いことでは無いと思う。そう、思うようになった。そりゃあ新しいものは欲しいし、今だって時々寝る時にファンシーでキュートなペロッパフの壁紙が目に入るとげんなりすることもあるけれど。だけど、お下がりも悪くない、と思えるようになったのだ。
 シンボラーは、しまいこんだ記憶と共に受け継がれてきた。それを教えてくれた今、記憶を一緒に受け継ぐのは俺の役目だ。いつか俺も、このシンボラーを誰かにお下がりとして託す時がやってくる。その時は、あの町の話とサボンテさんの話を伝えることになるだろう。
「いいメロディーだなー……なあカクタス、それ何て曲?」
 ベースのアンプをいじる手を止めていた同級生が尋ねてくる。ワンフレーズ演奏し終わった俺は、うーん、と悩んで頭を掻いた。そう言えば正式な曲名を聞いていなかったのだ。勿体ぶるなよー、とトランペットが野次を飛ばす。
 海の底に眠ったはずの、もう誰も見ることの出来ない町で聴いたこの音楽。白の町であった出来事を一つ一つ思い出し、俺はリードを指でなぞった。サークルのみんなを見回し、「この曲は」とかしこまった声色を出す。
「これは、『お下がり』っていう曲なんだ」
 サックスを持った俺の視界の隅で、お下がりのシンボラーが笑うみたいにふわりと揺れた。



長さにより、二つにわけました。
読んでいただき、ありがとうございました。