僕は、僕のポケモンを殺した。
これは紛れもない事実である。
僕――
僕は世界を旅するトレーナーだった。ついこの間まで、僕は六匹のポケモンと共に世界中を巡っていたのだ。時にはフシギバナの背に乗って森を抜け、時にはマリルリと広い広い海を越え、時にはメタグロスと荒野を見下ろした。時には吹雪に掻き消される道筋をシャンデラに示してもらい、時には大きな都市の路地という路地をデンリュウと走り回った。
そして時には、どこまでも広がるのではないかと思われるほどの大空を、サザンドラと一緒に飛んでいた。
しかしそれは全て、既に終わったことである。もう二度と為されることの無い唯の記憶、僕の中にある思い出に過ぎない。頭に描かれる過去の風景は実際よりもいくらか美化されたものとなり、絶えず再生を繰り返しているのだ。
空になった器、その中に入るはずの存在はもはやこの世にいない。赤と白のボディの真ん中に走る黒い線、そこで割られたそれはぽっかりと口を開いているだけで何も言ってくれなかった。戯れに黒を指でなぞってみるも、役目を終えた道具たちはだんまりを決め込んでいるままである。
あの日、と口の中だけでひとりごちる。あの日に僕が罪を犯したその瞬間、この器は全て抜け殻と化したのだ。長年使用したことによって失われた光沢が僅かに残る、ゴミ屑同然の小さい球に。
僕は彼らを殺したのである。この器に入って、共に旅してきたポケモンたちを、この手で葬ったのだ。
一瞬の出来事だった、と記憶には残っている。
妹――
兄がおかしくなったのは、ある一日を境にしてのことでした。
それまではいつも通りの兄だったのです。口数の少ない、だけど静かで穏やかな性格の、私が幼い頃からずっと変わらない兄に他なりませんでした。
なのに、兄は突然変わってしまったのです。
あの日の朝、ダイニングで朝食をとっている私たちの前に現れた兄はーーそもそも兄が我が家の朝食に顔を見せることからして異常なのですがーーかなり青ざめていました。この世の終わりみたいな顔、とは今この時のために作られた表現なのではないか、なんてことを思ってしまうほどでした。
ふらつく足取りでダイニングに入ってきた、能面のように青い顔の兄はテーブルに手をついて言いました。震える声で私たちに告げられたその言葉は、何とも理解しがたい、意味不明なものでした。
兄は、自分のポケモンを殺した、と言ったのです
僕――
それは一瞬のことだった。
つい昨日まで、つい数時間前まで、つい一秒前まで隣にいた六匹は、瞬きする間に消え去った。
カロス地方の真ん中にあるミアレシティ、そのまた中央のプリズムタワー。でんきタイプのジムがある街を飾る塔で、僕はポケモンたちと夜景を見ていたのだ。
まるで星空と地面が反転させられたみたいに、キラキラと輝くミアレの光。このような場所は当然、カップルや家族連れなど観光客で混み合うものだけれど、僕にとってはその限りではない。カロスの頂点であるチャンピオンの座に着くだけでは飽き足らず、バトルシャトーのグランデュークとしての地位もあり、その上バトルハウスではバトルシャトレーヌを四人全て倒している。そんな僕が展望台を貸し切り状態にするのなんて、いとも容易いことだった。
三百六十度に張り巡らされたガラス越しに広がる下界の輝き、ミアレを行き交う人やポケモン、時折空を横切るスカイトレーナーの影。それに見惚れる僕のポケモンたちを、僕は、僕自身の手でこの世から消したのだ。
彼らのモンスターボール、彼らの居場所であった赤と白の器を足元に散乱させて。
どんな風に殺めたのか、僕の脳は記憶することを拒否したらしい。
或いは思い出すことを渋っているのか、その真相は定かではないが、気がついた時には僕は実家のベッドに横たわっていたのである。手持ちポケモンが全て戦闘不能に陥ると「めのまえがまっくら」になると言われているが、まさしくその通りだった。
ガラスに姿を反射させたポケモンたち、曇った夜空にうっすらと浮かんでいるような彼らに手を伸ばした。次の瞬間には、空になった器を顔の横に転がらせ、僕は薄汚れた天井を見上げていたのだ。
フシギバナの、背中に咲く大輪の花を根元から引き千切ったか。
マリルリの、弾力のある身体を押し潰して豊かな水分を全て枯らしたか。
メタグロスの、四本の脚が動くよりも早く紅い両眼を突き破ったか。
シャンデラの、蒼い炎が蠢くランプシェードを叩き割って魂ごと霧散させたか。
デンリュウの、尾の先に宿った光を破壊するだけでは無くその目に宿った光すらも消し去ったか。
サザンドラの、三つの首を両脇のものから一つずつ締めて、断末魔の叫びを上げる真ん中の頭を、部屋に響く音が無くなるまで押さえ続けていたのか。
わからない。
僕にそれだけの力があるようには思えなかったし、僕のポケモンたちがそこまでされて全く抵抗しないとも思わない。
だけど、全部終わっていたのだ。
僕が僕という意識を取り戻した時には、彼らが入っていた器の中には誰もいなかった。
父――
息子の様子がおかしい、とメールを受け取ったのは会社に向かう電車の中でだった。それは妻からのもので、あの子が変なことを言い出したから今日は出来るだけ早く帰ってきてほしい、とのことだった。
私達の間には息子が二人いるが、家にいるのならば下の方と考えて間違いないだろう。うわの空で仕事を終え、もしかしたら娘が生まれて間もない頃以来かというほど久しぶりに早く退勤した私は、心の中で電車を急かしながら家路についた。
私が玄関を開けると、複雑そうな顔をした妻が出迎えた。その少し後ろにいるのは、通っている高校の制服を着替えることもなく、妻同様感情を抑えたような表情の娘だった。
思ったよりも事態は深刻らしい、と頭の中で警報が鳴る。しかしここで私までもが狼狽えてしまっては悪影響だろう、努めて明るい雰囲気を装いつつ「どうしたんだ」と敢えて軽い調子で言った。
妻の言うところによると、あのメールの後に息子は自室に篭ってしまったらしい。靴を脱いで家にあがり、息子の部屋の前へと向かう。
固く閉じられた扉は、鍵がかけられているようだった。このドアをノックするのも、声をかけてみるのもいつぶりになるのだろうか。そもそも私は暫く息子の顔を見てすらいないのだ、今息子がどのような風貌をしているのかも思い描けない。
そんな相手がのこのこ出ていったところで返してくれる言葉など無いだろう、と諦観の念が湧いてくる。が、扉の前に立ってしまった今になってそのような泣き言を言っても仕方ない。数回扉を叩き、私はなるたけ静かな声で問う。
「おい、どうしたんだ?」
扉越しに耳を澄ませる。が、返事は聞こえない。少し考えてからもう一度尋ねてみる。
「何かあったのか? 困っているなら、とりあえず言ってみてくれ」
力になれそうだったら父さんが手伝うぞ、などと話しかける。しかしやっぱり返事は無く、扉の向こうから伝わるのは重い沈黙だけだった。
駄目か、と溜息をついて私は扉の前から一歩、足を引く。だが、その擦り音に被さって、か細い声が聞こえてきた。
「…………が、……を、」
「え?」
確かに息子の声だ。何を言ったのか聞き取れなくて、私は反射で聞き返してしまう。後ろで成り行きを見守る妻と娘が強張った表情に変わったのが、見ていないけれども感じられた。
反復を要求した私に、息子はまだ黙ったままである。ここで慌てても仕方ないと、繰り返し言ってくれるのを待っている私の鼓膜を、先ほどよりかはいくらか大きな声が震わせた。
それは悲壮に満ちていて、この世の終わりにでも身を置いているのではないかと思うほどに冷たい声だった。
「…………僕は、僕の……ポケモンを、」
「ポケモン……それが、どうかしたのか?」
「………………僕が、殺した」
自分のポケモンを、自分で殺した。
息子はそう言った。
息子がポケモンをこよなく愛していることは、父である私もよく知っていた。しかしそれを殺した、とは一体どういうことだというのか。
扉越しにはまた何も聞こえなくなる。息子の言葉を理解することが出来なかった私には、蛍光灯の明かりがやけに眩しい廊下で、妻と娘と共に立ち竦むことしかすることが見つからなかった。
僕――
扉の外から話しかけてきた父親が問うた。隠すことでも無い、隠す気も無い。正直に答えると、父親はそれきり黙り込んでしまった。
父親と話すのは随分久々のことだ。僕がカロスを巡る旅に出る少し前から口を聞いていなかったから、本当にいつぶりかすらもわからないほどである。だけれども、その感傷に浸る余裕は今の僕には無い。折角交わされた親子の会話は、父親の沈黙により早々に終了した。
自室のベッドに横たわって見えるのは天井とそこに取り付けられた蛍光灯、薄暗い部屋の様子は把握出来ない。僕は何をするでもなく、何をすることも出来ず、ただ四肢を布団に投げ出していた。
時計の秒針が時を刻む音が規則正しく聞こえる。手を伸ばせばギリギリ届くところにあるパソコンのデスクトップは、電源を落とされた今真っ黒の闇でしか無い。本棚ではいくつもの背表紙が僕を見ているけれど、動くものはいなかった。バチュルやコラッタの一匹でも出てくれば少しは気が紛れたかもしれないが、母親の掃除が行き届いているからかこの部屋には住み着いていないようである。
僕は父親に、本当のことを言った。
久々に話した息子が自分のポケモンを殺しただなんて、一体彼はどのような心境なのだろうか。警察に通報する? カウンセリングやセラピーに息子を連れて行く? トレーナー免許の停止を要請する? 彼がどの選択肢を取るかは僕の知るところでは無い。
今朝のことを思い出す。暗転した視界が晴れて、自分がベッドに寝ていることを自覚した時刻には既に父は家を出ていた。手すりに掴まって降りた階段の先、台所に入った僕を出迎えたのは、眉を顰めた母親と、目を丸くした妹だった。
「お兄ちゃん、どうしたの?」
僕を見た妹はそんなことを言った。無理もない、長らく顔を見せなかった兄が突然家に帰ってきた上に、それが手持ちポケモンの戦闘不能なのだから。全く連絡は取っていなかったけれど、家族だって僕の多大な活躍は耳にしているはず。そんな僕が、ポケモンセンターに行くことすら無く、家に送り返されるだなんて。
首を傾げる妹の横で、朝食に使った皿を持ったまま動かない母親は僕を黙って見ていた。その表情に胸が痛む。母親はきっと僕が無惨な負け方をしたとでも思っているのだろう、どう励まして良いものか考えているのだ。
だけどそれは違う。僕はこれから、それよりもずっとずっと無慈悲な報告を彼女たちにするのである。
渇いた口内と枯れた喉、そこから声を振り絞って、告げた。
彼女たちは絶句して、何も言えないようだった。当然のことだと思う。
固まった二人の姿を瞼の裏に思い描いて、僕は寝返りを一つ打つ。母親と妹と、それから恐らく父もしていたのであろう驚愕と絶望の表情。家族にあんな顔をさせてしまうだなんて、僕はなんて不孝者なのだろうか。
それ以上考えるのも辛くなって、僕は布団を頭から被って思考を打ち切る。代わって脳裏に浮かんだのはこれからの身の振り方でも、父親や今家にいない兄にどんな顔で会うかでも、間もなく僕を特定して追いかけて来るであろう公安や取材陣のことでも無かった。
あいつらは、今頃天国に辿り着けただろうか。
決して許されない所業に手を染めた僕の頭の中に木霊したものは、そんな、底無しに罪深く、天井知らずに身勝手な、祈りだった
母――
珍しくも朝食の席に現れた息子が、不可解なことを口にしたあの日から三日が経ちました。
息子はあれからずっと、私たち家族には理解することの出来ない懺悔を繰り返しています。部屋に篭った息子の嗚咽と譫言、そして時には悲鳴のような叫び声。まるで何かに取り憑かれたように、何かに追い立てられているように。息子は私たちの知らないものに向かって、謝り続けているのです。
幻覚。妄想。虚偽。そう解釈するのが多分一番自然なのでしょうし、事実私たちもそう考えています。
しかし何故、息子がそこに至ったかまでは想像出来ません。つい昨日まではいつも通りの息子だったのです。自分のポケモンを殺しただなんて、そんなことは欠片ほども言わなかったはずです。
ノイローゼや神経衰弱の類に罹る前兆は無く、かと言って、息子が麻薬に手を出すことはありません。それは母親として、家族としてきっぱり言い切れます。あの子がそんなことをするはずは、……いえ、出来るはずも無いのです。
今も尚、息子は何かに謝っています。ごめん、とか、もう駄目だ、とか。私たちが何を言っても聞き入れてくれないし、恐らく聞いてもいないでしょう。あの子の頭の中で響いているのであろう、罪の意識を呼び起こすような声だけが、今の息子の聞こえるもの全てなのだと思います。私の言うことも夫の言うことも、娘の言うことも……。何もかも、あの子の耳には届きません。
どうして、こんなことになってしまったのでしょうか。
最近は考えることを放棄していたその思いは、今になって再び膨らみ始めました。
僕――
僕が僕自身のポケモンを殺したということを、家族は嘘だと言う。お前はそんなことしていない、目を覚ませ、落ち着いてよく考えろ。家族は口を揃えてそう言った。
家族は僕の言うことを信じはしないが、僕のことを疑わない。僕の言葉を否定する彼らは、僕にそんなことは不可能だとでも言いたげなのだ。
そうだったらどんなに良かったことか。全ては僕の見ている悪い夢で、僕によって殺されたポケモンなんかいなかったのならば、それ以上の幸福は無い。だけど違うのだ。僕は僕のポケモンを手にかけたわけだし、その証拠に、空っぽになった器はここにある。
旅立つ朝は、ヤヤコマが羽を広げて滑り込んできた部屋の窓。今は固く閉ざされたその場所は、ヤヤコマどころか外からの光すらをも遮っている。雨戸の隙間から少しだけ漏れる日光は、分厚いカーテンを透かして部屋を僅かに明るくしていた。
カロスの未来を救ったあの決戦の日に見た、ゼルネアスの神々しい輝き。
もしもあの時、フラダリの手を振りほどかないで、聖なる輝きの力を以てした最終兵器の光を浴びていたとしたら。僕は罪に苛まれることはなく、六匹のポケモンは命を絶つことはなく。
今でも、一緒に笑えていたのだろうか。
益体の無いことが脳裏に浮かんでは消えていく。こんなことを考えたってどうしようもないのに、僕の頭は動くことをやめてくれない。それでいて身体の方はちっとも動かないで、僕の両腕も両脚も、皺くちゃのシーツに放り出されたまま。凝り固まった関節が軋む。
気がつくとまた泣いている。ごめん、ごめん。許されないことをした。もしも時間を巻き戻せるのならば……そんな、そんなの無理だ。もう終わったこと、済んだこと。零れた水はコップに戻せない。もう、二度と。
喉の奥が熱い。ここ一週間ほどで、何度となく味わった感覚だ。口に向かって逆流しているのは腹に収めた少しの飯と胃液だけではない、消し去ろうとした罪の記憶、消し去ることの赦されない僕の業。それらは酸っぱい臭いを放つ液体と叫び声、そして部屋の澱んだ空気をどす黒く掻き回す鋭さとなって、唇から漏れ出ていく。
同時に流れ出るのは涙と、握りしめた手の皮膚から滲む赤。不気味なほどに鼓動を速める心臓に合わせて脈打つそれは、あいつらにも流れていたはずなのだ。それを、僕は。
僕は。
染みが増える一方であるベッドの布地にまた新たな模様が刻まれる。寝返りを打つ気力すら今の僕からは失われていて、合鍵を使ったらしい家族の誰かが部屋の扉を開けたその音を聴覚が捉えても尚、反応という反応を返すことが出来なかった。
兄――
実家の両親から、弟の様子が異常であるという電話を受け取った。しかしタイミング悪く佳境を迎えていた仕事を手離すわけにもいかず、結局弟の元へ向かうことが出来たのは電話から一週間が経ってからだった。
久々に帰った実家の雰囲気は恐ろしく沈んだものとなっていたが、弟を見るなりそれも無理ないだろうと痛感した。自分で言うのもどうかと思わなくもないが、俺は両親と妹に比べればいくらか弟に信頼されていると自負している。そもそも妹は自分から弟とコミュニケーションを取ろうとすることすら無いから当たり前だが、弟は両親とも極力話さないよう努めているのだ。
家族の中で弟が一番口をきくのが俺だった。両親や妹には話さないことでも、弟は俺に言ってくれるということが多々あった。だから、「何を言っても応えてくれない」と嘆く家族を前にしても尚、俺ならどうにか出来るだろうとある種の期待と油断のようなものを抱いていたのである。
しかしその思いは裏切られた。弟は、俺のことすら無視したのだ。
否、無視というには語弊がある。俺が話しかけているのをわかって答えないのではなく、弟は俺の存在すら認識していないように受け取れた。いくら呼びかけても駄目で、思わず俺は弟に殴りかかってしまった。だけど、それでも、弟は俺を見なかった。
まるで憑かれているようだ、などと非科学的なことを考えた。心霊スポットだとか禁断の地とか、そういった類の場所に足を踏み入れたのではないかと一瞬思ったが、そんなはずは無いと自分で否定する。馬鹿げた考えだ、この弟が出かけるはずはない。
自分のポケモンを殺した、何をしても償えない、この罪で僕は地獄に落ちるしかない。地獄に落ちてもまだ足りない、あいつらの未来を僕は奪ったのだ。
狂ったように泣き叫ぶ弟の姿は、妄執、という言葉がぴったりだと感じてしまった。
「あなたが来るのを待てなくて、お医者さんに診てもらったの」
掠れた声で母が言う。
「でも、原因もよくわからないし、様子を見ていくことしか出来ないんだって」
疲れきった声で妹が言う。
「事後報告になってすまないが……しばらく、入院させることにしたんだ」
可能な限り感情を押し殺しているのであろう声で、父が言った。
俺は頷くことしか出来なかった。それこそ言葉を持たないポケモンのように慟哭する弟は、もはや俺たちのことは見えていないとしか思えなかった。弟の入院先となる病棟はここから車で数時間はかかるくらい遠い、などという父の説明が鼓膜を上滑りする。ベッドに横たわり、延々と涙を流し続ける弟を、俺は黙って見るしかない。
思えば、最後に弟と顔を合わせた時には家族が部屋に入ることすら嫌がっていた。それなのに、こんな近くまで来ているのに、弟は何も言わない。何も咎めることもない。
変わりきってしまった弟の横に、紅白が転がっている。年季が入ってすっかり光沢を失ったそれを、弟が目を輝かせて見せてきた遠い日のことを思い出して、俺は視界の全てを瞼で覆った。
僕――
どうやら、家族によると僕の状態は入院にも値するらしい。客観的に見ればそうなのだろう、今の僕では少しの日常会話すらまともに成り立たないのだから。誰かが言った台詞の端々の言葉さえも、僕にとっては許されない記憶を思い出させる引き金にしかならない。
もっとも家族や医師曰く、幻覚症状やら被害妄想やらの症状が出ているということだ。しかしそれは僕の思うところでは無い。僕の家族は優しいのだ、僕がそんな非人道的かつ非倫理的なことをするはずはないと、無条件に信じてくれているのだ。幸か不幸か、まだ僕が犯した罪の告発は誰からもされていない。いつかは為されるのであろうけれど、それを知るまで家族たちは僕のことを信じ続ける。
そのことに罪悪感は当然持っている。だが、今は家族へ回せる意識は僕の中に無かった。
狭い個室に見えるのは、清潔に保たれた白い天井。まさか自分が精神科の入院施設にお世話になるだなんて考えもしなかったけれど、なんとなく想像していたよりもずっと静かな場所だった。
車に揺られた先、緑の中に建てられた病棟。天井と同じく白の壁から聞こえるのは他の患者の声と、看護師たちの行き交う音のみである。こういう場所だからポケモンの連れ込みは禁止されているのは当然のことだけど、六匹のことを思い出さずに済むという意味ではありがたかった。
車を運転した父は終始黙り込んでいて、僕はこの病棟が何処にあるのか尋ねるタイミングを失った。移動した距離から考えてハクダンの森だろうとは見当はついているが、それにしては静かだった。小さな窓から見える青空に、沢山生息しているヤヤコマが横切る気配も無い。ヤナップら三種類の猿の鳴き声も響かない。野生ポケモンが患者を刺激しないよう、ゴールドスプレーあたりを建物全体に散布しているのかもしれないな、と僕は思う。
それにしても、静かである。僕が昔、旅を始めたばかりの頃にここを通った時は野生ポケモンがひっきりなしに現れたというのに。
懐かしい記憶が蘇る。まだ小さなフォッコと一緒に探した、でんきだまを持ったピカチュウも今はいない。そこそこまで育てて、強くなったから交換に出してしまったのだ。強いポケモンは同じくらい好条件のポケモンと交換出来る。
あらためて、僕は酷いトレーナーだ。数々のポケモンを手放して、最後に残った六匹、ずっと一緒に旅をしようと誓った奴らまでも突き放した。あんなに僕に懐いてくれていたのに、僕のことを慕っていたのに、僕を信頼していたのに。バトルに勝った時は共に喜び、負けた時は共に泣いた。そんな奴らを、僕は。
下腹部から胃を抜けて、食道を苦しさが逆流する。空っぽの胃から吐き出されるものは何もなく、喉から絞り出されるのは無駄でしかない懺悔の叫びだけだった。
はたから見れば恐らく奇声に過ぎないその声で、僕は全身全霊で許しを請う。どうか、時が許すのなら、僕があいつらを殺める前まで時間を巻き戻して欲しい。あの楽しかった毎日を、あいつらが隣に生きていたあの日々を、もう一度。
しかしながら、そんな都合の良い願いを叶える神様なんていないのだ。ここにいるのは罪を背負った僕だけで、地獄の底に突き落とされる日を待っている罪人が一人きり。まるで天国のように白く明るい部屋は、裁きのその時まで嬲り越しにするための拷問室でしかない。
無我夢中で伸ばした手が、無機質な冷たさに触れる。強張った顔で面会に来た兄が置いていった、赤と白のあの器だ。指先で表面をそっと撫ぜる。コーティングされたそこを爪が弾き、乾いた音は僕の呻きに掻き消された。
この中に、確かにあいつらはいた。
今は、もう。
医師――
新しく受け持った患者を一言で表すならば、まさに「手の施しようがない」であろう。
もっとも攻撃的なわけではないし、自傷行為も全く見当たらないから、一見しただけならばかなり穏やかな方であるのは間違いない。実際私も最初に説明を聞いた時、良い患者に当たったものだと胸を撫で下ろした。
だが、問題は別なところにあった。最初にその患者を診察した病院から受けた説明に嘘は無く、確かに患者は一人で泣くだけだった。それは本当なのだ。私や看護師や彼の家族など他の人がいようがいまいが関係無く、彼はふとした瞬間に泣き出した。ごめんなさいと叫びながら涙を流すだけ、彼のすることといえばそれに尽きる。
しかしその「泣く」という行為こそが、彼がここにきた原因であり、同時にこの病棟に委ねられた問題だった。言い方が悪いかもしれないが、こういう場所に来る人たちに涙はつきものである。いきなり泣き出したり悲鳴をあげたり、そういったことで今更驚くこともない。だから彼が泣くのを最初に見た時も、私は慣れた調子で落ち着くのを待っていた。
泣き声に混じって聞こえる彼の言葉も、連絡されたものと同じだった。どんなことを言っているのか簡単にメモを取っていた私は、不意に彼の泣姿に目を奪われた。
そこで感じた。泣いている時の彼は、他の者たちを全く見ていない。
泣いている彼は一人なのだ。どんなに近くに我々がいようと、彼の家族が寄り添おうと彼はそれに気がつかない。この患者はどうしようもなく孤独であり、そしてそのことを嘆くしかないのだ。
そんなことが私の頭に浮かんだ。勿論医師としてそんな自論を振りかざすわけにはいかず、私は彼の治療を少しでも有意義なものにしようと精一杯彼に向き合った。だけどそれは徒労に終わり、後に残ったのはもはや何を言っても涙のきっかけにしてしまう患者と、打つ手も無くなり途方に暮れる私だけだった。
私には理解出来ないことを泣き叫ぶか、虚ろな瞳で空を見つめるか。患者の出来ることといえば、今やそれしか無い。まともな対話が不可能で、病状から原因を探っていくことも出来ないとなると、治療の目処どころか次にとるべき行動さえもわからなかった。
それでもどうにか糸口を掴もうと、私は彼の病室を訪れる。私の存在になど目もくれないその患者は、頬に何筋もの水を流して、ここではないどこかを見つめているようだった。
僕――
医者と看護師がやって来て、何時ものように会話をいくらか交わし、そして溜息と共に部屋を出た。もう見慣れたその光景に、僕は一言も言葉を発することなく黙ってベッドに横たわり続けている。
この病院に来てからも、自室と同じような時間が過ぎるだけだった。僕が何処に居ようと、僕のしたことが無かったことになるわけじゃない。裁きの時は伸ばされ続ける一方で、刻一刻と近づいているのだ。
今しがた去った医者達により外から鍵がかけられた扉を除けば、この部屋と外界を繋ぐ唯一の窓は手の届かない場所にある。綺麗に洗濯されたカーテンの揺れるそこは、心地良い風を部屋の中へと送り込んでいた。
ここにきて、どのくらい経ったのだろう。
流す涙の量が増すにつれて、僕の時間感覚は失われていた。それだけじゃない、なんで自分がこの場所にいるのかとかどうやって来たのかとか、ついには今までの人生すらも曖昧になってきた。覚えているのは輝きに満ちた毎日だったというただそれだけの感覚、抽象的な幸せの系譜。
そして、鮮明に残る罪の記憶。
あいつらを殺したということは、それだけは、忘れられなかった。
忘れるつもりも無いし、忘れることなど許されないということは自覚している。それでも、他の何もかもが僕の頭から消え去っても、あいつらのことだけはじっとりとこびりついていた。素晴らしい仲間が僕にはいたのだという希望、それを自分で壊したのだという絶望。繰り返し、繰り返し思い描いてしまう彼らの姿は、忘れるどころか時を重ねるごとにその色を濃くしているとしか思えない。
きっと、僕は一生そうして生きるのだ。何もかも出来なくなって、何もかもを忘れ去って。この世界の全てが、僕とは違うものに成り果てる。
しかし、それでも、それでさえも。あいつらだけは僕の中に残り続けるのだろう。永遠に、永久に、楽しかったあの日々と、押し潰されるほどに重い罪を僕に遺して。空っぽになった僕の頭で、ずっと、ずっと。
そして僕は、それだけを思って生きていく。いつか下される裁きを待つだけの、いつかの幸せを回顧するだけの毎日だ。死ぬまで続くその時間、僕はあいつらだけを考える。
そうだ。それでいいんだ。
それこそが。
僕に与えられた、罰なのだろう。
「――――――!!」
突然、視界が大きく揺れた。
清潔感のある、外に面した白い壁が轟音と共に崩れ落ちる。さっきまで壁があったそこは唯の空間に成り果てて、澄み渡る青空がよく見えた。断崖絶壁の如く行き止まりになった病室の床に秋風が吹き込んで、シーツを軽く動かしていく。
何が起こったのか理解出来ず、僕は毛布を掴んだまま、次の行動を図りかねる。急に壁が無くなるだなんてありえないと、未だ煙を上げているそこを眺めて思う。
一体何事なんだ。不思議でたまらない一方で、しかし僕は壊れた壁などどうでもいいとも感じていた。
今僕が思うべきなのは、殺してしまったあいつらのことだけ。縛られるべき考えは、背負った罪への苦しみだけ。
だって僕は、決して許されないことを、したのだから、
…………………………、
聞き間違いかと思った。
見間違いだと思った。
そんなはずは、無いのだと、そうとしか思えなかった。
それでも、そいつは確かに俺の目の前にいた。
鋭い咆哮を響かせて、壊した壁の向こうから僕に笑いかけていた。
目の奥が熱を帯びる。歪む視界に映ったそれはまだ嘘だと思えたが、顔に吹き付ける風が痛くて、そうでは無いのだと教えてくれた。
太陽の光に輝く牙。吊り上がった六つの瞳。風を切り、空気を裂く翼。僕の方を向いて笑っている、いくども瞼の裏に描いた三ツ首。
「サザンドラ……!!」
名を呼ぶと、そいつは嬉しそうに首を振った。動きで示されたのは眼下に広がる世界で、みんなもあっちにいるから早く来い、と告げているようだった。
渇いた喉が疑問を口にしたがるが、生憎息にしかならない。何故ここにいるのだとか、お前は死んだはずなのにとか、俺のことを憎んではいないのか、とか。尋ねたいことが山ほどあった。いいたいことも、沢山あった。
それでも、目の前で飛んでいるその姿を見ていると、何も言葉にはならなかった。
毛布から離した手を伸ばす。
ベッドに投げ出していた足を立てる。
幻か、都合のよい錯覚じゃないとしたら或いは、罪人の僕を地獄に連れ行く使者か。三つの首は僕の身体をバラバラに切り刻んで、地の底まで突き落とすつもりなのか。
それでもいいと思った。構わない。
もう一度、こいつに会えただけで、十分だ。
「――行こう、」
罪人は身体を起こす。
愛した仲間に、その身を委ねる。
「お前たちと一緒なら……たとえ地獄の底だって、最高の冒険だ!!」
そして、僕は、
友――
高校時代の友人が、精神を患って病棟に入ったという連絡を受けたのは昨日のことだ。何度か互いの家に遊びに行ったこともある仲で、その時に合ったお兄さんからメールが入ったのだ。面会は出来る状態らしいので足を運ぶことにしたのだけれども、実際に顔を付き合わせるのはいつぶりになるのだろうか。
別々とはいえ、友人も大学に進学した。しかし半年と三ヶ月ほどで通わなくなったようで、もう数年ほど自室に引きこもっていると聞いている。別に深い理由は無いようだ、ただ単に外に出るのが億劫になったという。元々インドア派の奴だったこともあって、ゲームをしたりネットをしたりアニメを観たり、部屋の中で一人過ごしているようだった。
それでも、メールやチャット、通話で交わされる画面越しのやり取りの中で、彼に暗さや鬱のようなものを感じたことは一度も無い。精神病に罹るだなんて、その片鱗すらも見せていないと思う。家族に迷惑をかけているといつでも申し訳なさそうに語っていたといえばそうだけど、その口ぶりは、幻覚などというものとは無縁そうだった。
それが、どうして。そんな考えが頭に浮かぶ。
病棟があるのはひっそりとした緑の中で、いかにも隔離されていますという感じの立地だ。最寄り駅からバスに揺られること数十分、木々に囲まれた白の建物は、有給をもらって休んだ会社が存在している都会の喧騒からはまるで取り残されているかのように静かだった。
外見同様白い壁、白い天井、白い廊下。いくつも並ぶ扉の前を通り過ぎながら、受付で告げられた部屋番号を目で探る。何人かの看護師とすれ違いながら歩くうちに、彼の部屋に辿り着いた。
「…………おーい」
呼びかけて、ノックする。しかし返事はなく、やけに低く思える天井に乾いた音が溶けていくだけだった。
「……寝ているのか?」
少しだけ声量を上げて、ドアを叩く力も若干強めてもう一度呼びかけた。が、やはり返ってくる言葉は無い。どうするべきか一瞬悩み、白の扉を押してみる。
思ったよりも軽い手ごたえ、そしてドアは開いた。
「…………いない、のか?」
ベッドと小さなサイドテーブルだけの狭い、しかし清潔感の漂う部屋はしんと静まり返っていた。声を出す存在は無く、冷たい秋風が頬を撫でていくだけだ。
部屋を間違えたのだろうかと思いながら、ふと、視線をずらす。空のベッドは、先ほどまで人がいたかのような雰囲気だった。そこに無造作に転がっているのは、両手に持てるくらいの大きさをした携帯ゲーム機。
度重なる使用によって光沢の無くなった3DS、それは確かにあいつが使っていたものだった。
好きなゲームに出てくる主要アイテムのカラーをイメージして、あいつが自身で手を加えたゲーム機は赤と白に彩られている。
なんでこんなところに、と思いながら手に取ってみる。裏面に刺さったカートリッジは、あいつの大好きなゲームシリーズの。
「……ルビサファリメイク、明日、出るぞ」
持ち主に向かって呟いた。今ここにあるのは一応は最新作であるXで、あいつは過去出たルビーのリメイクである、オメガルビーの発売を待ちわびていたのだ。勿論俺も買うつもりで、交換も対戦もしようと意気込んでいた。
……いや。それは、前の話だ。
あいつは、大好きなポケモンを断つと言っていたのだ。今生の別れというわけではなく、出戻ることはきっとあるけれど一度やめるのだと、スカイプで話していた。それはこれ以上引きこもり生活を続けないためのきっかけ作りなのだと、まともな人間になったらまた遊ぶのだと。あいつは、そう言った。
そのために、今までの集積であるXのデータも全て消すと、一度リセットしてしまおうと、あいつは確かに言っていた。
その口ぶりは辛そうで悲しそうで、でも吹っ切れていたはずだった。だから俺だって応援したのだ。お前が始めるまでアルファサファイアは待ってるよ、とも言ったのだ。
思えばあれが、あいつと交わした最後の言葉だった。こんなことになってしまって、もしかしたら俺は二度とルビサファリメイクを遊ぶことは出来ないのではないだろうか。そんな考えが、頭をよぎる。
しんみりしても仕方ない、自分に言い聞かせた。縁起でも無いことを考えても何にもならないだろう。とりあえずあいつと会おう、もう一度受付に問い合わせてみよう、と思った時だった。
「……………………」
綺麗に選択されたカーテンを揺らす、優しい風。その入り口となった窓はとても小さくて、両腕を差し入れるだけで精一杯だろう。
ふわりとめくれたカーテンの向こうに、よく晴れた青空が見える。一瞬だけ、そこに何か飛ぶものが横切った気がした。
恐らく鳥か飛行機か、それか見間違いであろうと思う。俺は静かな病室を最後に今一度見回して、ゆっくりと扉を閉めた。
廊下をバタバタと看護師たちが駆けていく。何か騒ぎがあったのかな、と思った俺の耳に、救急車のサイレンが響いてきた。中庭だ、何号室の患者だ、という言葉に不穏さを感じつつも、俺は受付がある一階に降りるエレベーターへと乗り込んだ。
ポーン、という電子音。あいつと遊ぶと約束したルビサファリメイクの発売日は、明日に迫っていた。