ゾウという動物を知っていますか? 彼女はこの地球で最後のゾウでした。 幼いころから動物園の檻(おり)の中、一人ぼっちで暮らしていました。野生のゾウはずっと昔に絶滅していたのです。 彼女は、決して人になつかなかったそうです。 名前はボレロといいました。
「なあ、ボレロ」と飼育員のおじさんがいいました、「わたしはもうきみに芸をおぼえさせようとがんばるのはあきらめた。これからはしずかに暮らせばいいさ。きみはなにもしなくても毎日こうしてエサがもらえるんだ。それというのに、どうしてそう怒ることがある。いいかげん暴れるのをやめないか。檻がこわれてしまうよ」 ボレロはある日とつぜん、檻に体当たりをしはじめました。以前にも彼女は飼育員のおじさんをからかったり、いたずらすることがありました。ですがこんな乱暴をするのははじめてです。ゾウの檻は頑丈な鉄の格子でできていましたが、何トンもある大きな身体がおもいきりぶつかるものですから、そのうちにだんだんとひしゃげてしまいました。大きな鳴き声をあげてボレロが体当たりすると、檻はとうとう壊れてしまいました。 「アア大変だ、ボレロが逃げ出した! ゾウが逃げ出したぞ! みんな捕まえてくれ!」 動物園は大騒ぎになりました。普段から猛獣が逃げ出したときの訓練はしていましたが、ゾウのような大きな動物を捕まえるのは大変なのです エサで大人しくさせる作戦は失敗でした。ボレロはエサに見向きもしません。それどころか長い鼻でジャガイモをつまんだかと思うと、飼育員のおじさんに投げつけるくらいです。 つぎにロープでひっぱってみようということになりましたが、これもうまくいきません。ボレロの身体にがんばってロープをまきつけてみても、ゾウは力が強いので何人もの職員を簡単に引きずりまわしてしまうのです。 それならここは麻酔銃を使おうということになりました。動物のお医者さんがやってきて、ボレロに狙いをさだめます。ところがそれを見つけたボレロはすごい速さで近づいてきて、長い鼻で麻酔銃をとりあげるとポキッとへし折ってしまいました。お医者さんは怖くて泣き出してしまいました。 やはり猟師さんにお願いするしかないだろう……という意見もありました。ですがこれは園長さんが反対しました。ボレロは世界でただ一頭だけ生き残っている最後のゾウなのです。そんなに簡単に撃ち殺してしまったのでは取り返しがつきません。 飼育員のひとりがつぶやきました、「わたしはこどものころ『かわいそうなぞう』という絵本を読んだことがあるよ。ゾウというのは頭がよくて、やさしい動物だと書いてあったのに。それがどうしてこんなに凶暴なものだろうか……」 もうなすすべもありません。だれもボレロを止めることはできません。 そうしてボレロは歩きはじめたのです。
はじめてみた動物園の外の世界を、ボレロの小さな瞳はどのようにうつしたことでしょう。高いビルが立ち並び、たくさんの自動車が走っています。彼女の故郷のジャングルとはきっと似ても似つきません。 「あれ」ボレロをみて街の子どもがさけびました、「街なかにあんな大きなポケモンが歩いているよ」 この世界にはポケットモンスター――略してポケモン――という、動物図鑑にはのっていないふしぎな生き物がいたるところに住んでいます。それを人は捕まえてペットにしたり、仕事の相棒にしたりして、一緒になかよく暮らしています。小さな子供からお年寄りまで、みんなポケモンが大好きです。 動物園から逃げ出したボレロを、警察の機動隊がとりかこんでいます。盾と警棒をにぎりしめて、街の人に怪我をさせてはいけないとにらみつけています。 それでもボレロは歩きつづけます。のっしのっしと、力強く歩きつづけます。機動隊の装甲車をふみつぶして、街のなかを歩きつづけます。 「ようし」元気のいい青年がまえに出ていいました、「暴れポケモンならここはひとつ、おれがなんとかしてみせようか。おれのポケモンはうんと強いんだからね」 お巡りさんがあわてて注意します、「あれはゾウという動物で、ポケモンではないのですよ。危ないからさがっていてください」 人はみんなポケモンが大好きです。身近にそういうめずらしい生き物を飼っているので、もうだれも動物園へゾウを見に行くことはなくなりました。だからもうだれも、この地球にゾウがいたことを知らないのです。 それでもボレロは歩きつづけました。
議事堂(ぎじどう)というところでは、国のえらい人たちがたくさん集まって真剣に話しあっていました。もちろんゾウのボレロについてです。 「やあ、インドゾウなんてポケモンはきいたことがない。ポケモン図鑑のどこをさがしてもみつからないのだから、あんなポケモンはいるわけがない。いてもらっては困るじゃないか」 「そうだそうだ、この世界にはポケモンという生き物がちゃんといるんだ。ゾウなんていう古い動物は殺してしまってもいいのではないかね。動物園というのはこのところ、お客さんがあまり入っていないようだし、いっそのこと廃止にしてしまったらどうだろう」 「そんなこというのは誰だ。ゾウだってきちんと生きているんだぞ。殺してしまうなんてあんまりじゃないか。殺すくらいなら、ポケモントレーナーに頼んでシツケてもらうのはどうだろう。そうしてついでにゾウもポケモンだということにしてしまったらいいんじゃないかな」 「それにしたってねえ、あんな風に街中を歩きまわって、ビルやら自動車やらこわされたらたまったものじゃない。はやくなんとかしなきゃならんぞ」 「きみはゾウよりビルや自動車のほうが大事だっていうのかい。ゾウという動物はもうあの一頭しかいないんだ。きちんと檻に閉じこめて飼い殺しておかないと、外国や学者がうるさいったらない」 「なあに、絶滅といったっておそいかはやいかの違いじゃないか。あのゾウ一頭では子どもをつくることだってできないんだ。そんなことよりわたしの子どもがケガをしたら誰が責任をとるのだろうね」 「子どもといえば、うちの子どもはポケモンが大好きなのよ。それなのに、昔の生き物を子どもに見せるのはよくないわ」 「それをいうならぼくもゾウさんというのはあまり好きじゃないねえ。ゾウさんよりキリンさんが脱走しないかしら」 「キリンなんてとうに絶滅してしまったわ。わたしは昔見たペンギンさんをもういちど見てみたいの。かわいいから」 「一番つよいのはライオンさんだ」の「めずらしいのはパンダさんだ」のとめちゃくちゃです。なにも決まりません。 そこへボレロが壁をぶちこわして歩いてきました。 「イヤここは解散(かいさん)だ!」 ボレロは議事堂をぺしゃんこにふみつぶして、のっしのっしと歩きつづけました。
「それにしても、あのゾウはどうして歩きまわっているのでしょうねえ、博士」 ボレロの上空をテレビ中継のヘリコプターが飛んでいます。ゾウの脱走というめずらしい事件を、みんながテレビでみたがったのです。 「ゾウいうのは」と生き物博士が解説しています、「えらい耳のええ動物なんじゃ。わしらに聞こえん低周波いう音で、数キロあるいは数十キロ向こうの仲間としゃべることができるいわれとるわ。わしらには想像もつかん理由があって、ああして歩いとるのかもしれんのう」 「へえ、耳がいいんですねえ。テレビの前のみなさんの多くは、このゾウという動物をみるのが初めてかと思います」 「ひとことゾウいうてもアフリカゾウとアジアゾウとおってな、かつてはアフリカやアジアに広く生息しとった動物なんじゃ。人間やポケモンよりもずうっと古くからこの地球に暮らしとったようじゃな。ところが森林伐採や環境破壊のせいで、しだいに住むところを奪われてしもたんじゃ。こうして絶滅してしもた動物はほかにもたくさんおる」 「現代では新種のポケモンが次々と発見されている一方で、古い動物はどんどんと絶滅しているそうですね」 「そのとおりじゃ。それにくわえて、オスのゾウの生やしとるごっついキバが象牙いうて珍しがられたさかいに、乱獲されたこともあったんじゃ。みたところ、あのゾウはもともとキバの小さいインドゾウいう種類じゃな。うん、そういえば、あのゾウは動物園を逃げ出してから西のほうへずうっと歩きつづけとるようじゃの。もしかしたらあいつは、故郷のインドを目指して歩いとるのかもしれんのう、ほっほ。せやったらほんま目覚しい本能じゃわ。ゾウみたような旧生物もまた、地球いう星が数十億年かけて生みだした生き物なんよ。ひとつひとつが大切にせなあかん命なんじゃ」 えらい博士がそういうので、ゾウの好きなようにさせてみようということになりました。ですが野放しにしておくことはできません。いままでのことで、どうやらボレロを捕まえるのは大変らしいと分かりましたが、目をはなしていて誰かがケガをしたら大変です。そこで誰かが見張りをすることになりました。 そこでぼくが、ボレロと一緒に歩くことになったのです。背中に小銃を背負って、ゾウをいつでも撃ち殺せるようにです……
「やあ、ボレロ」とぼくは話しかけました、「この背中に担いでいる鉄砲がこわいかい。だけどねえ、きみがもし人間に危害を加えようというのなら、ぼくはきみを止めなきゃならないんだ。それはもちろん心苦しいけれど……アアいっそはやく野たれ死んでくれたら楽なのになあ。そうしたら誰のせいでもないんだから」 ぼくとボレロは距離をとって歩きつづけます。彼女はぼくを警戒しているのか、あまり近づかせてはくれません。彼女の小さな瞳がじっとぼくをみつめます。ゾウはなにもいいません。なにを考えているのか、てんで分かりません。ひたすら西に向かって歩きつづけるばかりです。 ボレロは何日も飲まず食わずで歩きつづけています。のっしのっしと山をこえ、街をこえ、道路を森を歩きつづけます。 以前はあれほどテレビを騒がせていて、道行きめずらしがって見物する人たちがいたものですが、このころになるみんな飽きてしまったのかそんな人もあまりないようです。 「きみはもう世間に忘れられてしまったようだよ。そりゃそうさ、ゾウなんていなくても、ほかにポケモンがたくさんいるんだから。きみのように聞き分けのないやつじゃなくて、ぼくたちに忠実で賢くて、甘えてきたりもするかわいいやつらがね。そうだ、ぼくも一匹飼っているよ。今は家にいるんだ。まったく、こんな仕事ははやく終えて、会いに行きたいなア」 とはいえ考えてみればボレロもかわいそうなやつです。一人ぼっちで動物園で暮らしていてそれはさびしかったことでしょう。ポケモンと人間は仲良く暮らしているというのに、彼女は一人で檻に閉じ込められていたのです。故郷へ行こうとしているという話だって、まんざらデタラメでもないのかも知れません。もしかしたら自分と同じゾウの仲間に会いたいのではないでしょうか。もっともそれは叶うはずがないのですけれど。 「なんでもインドゾウというのはもともと人によくなれて、芸をおぼえるので有名だそうじゃないか。もしきみがそうしていたら、動物園で人気者にだってなれただろうにねエ」 ボレロはなにも答えません。のっしのっしと、ただ歩きつづけるばかりです。 「やれやれ悟っちまってお嬢さん。経文よこせと天竺へか。さしずめぼくはお供のおサルというところかい」 ボレロとぼくは歩きつづけました。
人里はなれると、おそろしい野生のポケモンがおそってくることがあります。ボレロを食べてしまおうと、するどいキバを向けてきます。ゾウは大きな身体をしていますが、凶暴なポケモンが本気でおそいかかってきたらひとたまりもありません。そのたびにぼくは鉄砲を空めがけて撃って、大きな音でおどして追っぱらいます。でも彼女の前に立ちはだかるのは、そういったものばかりではありませんでした。 あるとき、ゾウを知らない人が話しかけてきました、「こらこら。ポケモンだって交通ルールを守らなきゃいけないじゃないか。そうして大きな身体で道をふさいでしまって、トレーナーはいったい何をしてるんだ」 困りました。ポケモンならともかくとして、ゾウに交通ルールをいったってしかたありません。 「こいつはポケモンじゃないので人のいうことをきかないんです。どうか大目にみてくれませんか」このときはしかたなくぼくが叱られました…… あるときは、「ゾウを街にいれるな」と主張する人がありました。「かえれ、かえれ」の大合唱です。でもまさかそれでボレロが止まるわけはありません。 街の人々は力をあわせてバリケードを作りましたが、ボレロが大きな足でかんたんにふみつぶしていくのでたいそう怒りました。 ぼくは、「かわいそうなゾウなので」といってなだめました。 「かわいそうなのね。きっと仲間がいないので寂しくて気が狂ってしまったんだわ」という人もありました。 あるところでは、暴走族が道路を占拠していました。 「ここを通るならおこづかいをくれなくては、へへへ」 ぼくは怖くっておじけずいてしまいました……遠くから見守るばかりです。 「あッ、おれの単車!」ボレロは暴走族のバイクをふみつぶしていきました。 あるところでは、人間の着るような洋服をポケモンに着せて喜んでいる人がありました。「ふふふ、なんてかわいい」 ボレロはそうした衣装をふみつぶして台無しにしてしまいました。 とんでもなく怒っていたので、ぼくは動物園に電話して弁償してもらいました。 あるところでは、「原始グラードンがふんでもこわれない筆箱を買ってもらったんだ、すごいだろ」と自慢する子どもの宝物をふみつぶしてしまいました。ぼくは泣きじゃくる子どもを一所懸命あやします。 「もう人のものをふんづけてはいけないよ」 というとさすがにボレロも反省したのか、もうしわけなさそうに小さく、「ぱおん」と鳴きました。 あるところでは、男がいたいけな女の子を鎖につないで監禁しておりました。 ぼくはおどろきました。どんなに通報しようかと思いました。 ところが、「こんなことをしていては」と男は泣いています、「きっとバチがあたってしまうにちがいない。逮捕されてしまう、アアどうしよう」 「ネエあたしをもっとムチできびしく調教してくれなくては困るわ。そうしたらまるでポケモンと飼い主みたく、あたしたちは親密になれるはずなのよ」と女の子は男にまるでタコみたくへばりついています。 そこへボレロが歩いてきて、鎖(くさり)をちぎってしまったのです。 怒った女の子にボレロは鼻のあたりをひっかかれました。ぼくはほっぺたをひっかかれました。 ボレロとぼくは歩きつづけました。
あるとき競技場にやってきました。ところがそこでボレロは止められてしまいました。 「これはポケモンリーグの頂点を決める大事な祭典なのだぞ。そんな変な生き物を連れ込まれては困る」 そこではポケモンバトル――ようするにポケモンを戦わせるスポーツがおこなわれていたのです。そのための競技場にやってきてしまったのです。 「ねえ、みなさん」ぼくはいっしょうけんめい交渉しました、「ここはひとつ、このゾウの好きにさせてやってはくれないでしょうか。こいつはどうも、ただ西のほうへ行きたいだけらしいんです。それだけで満足らしいのです。どうかここを通らせてはもらえないものでしょうか」 「やや、古生物なんかに好き勝手させるな」「天下のポケモンリーグだぞ」「インドゾウなんかに出場資格はないんだ」 ポケモン好きのポケモントレーナーさんはボレロを許しません。それどころか、ポケモンに命令してボレロを襲わせようとしました。サア大変です。ポケモンのなかにはするどいキバでかみついたり、大きなツメでひっかくやつがあるのです。 ところがぼくの心配をよそに、ボレロは大きな身体でポケモンたちをみんなはねのけてしまいました。 「ハハハ」ぼくはついつい笑ってしまいました、「バトルだポケモンだとえばっているくせに、てんでたいしたことないじゃないか。本気になったボレロのほうがよっぽど強いみたいだぞ」 それをきいてトレーナーさんたちは怒りくるいました。 「大事なポケモンになんてことをするんだ!」「いいかげんにしろ!」「ゾウを止めろ!」「みんな迷惑しているのに!」「ここで殺してしまえ!」「地獄に落ちろ!」「ゾウなんていらない!」「ゾウを殺せ!」ひどい言いようです。あんまりです。 それどころではありません、鉄砲をもって追いかけてくるものまでいるではないですか。 ボレロもこれにはあわてたようです。ながい鼻でぼくの身体をひょいとつまみあげると、自分の背中に乗せました。かと思えば、一目散に逃げだしたのです。ゾウというのはにぶそうな顔をしているくせに、これでなかなか足の速い動物です。 トレーナーさんたちも息を切らして追いかけてきましたが、ボレロにはぜんぜんかないませんでした。
とてもこわい思いをしたのに、一方でなんだかスカっとした気分です。 ゆかいになって、ぼくは歌いました。調子っぱずれに歌いだしました。 「でもあたし神さまのいいなりにならないわ♪ あたし世界のいいなりになんてならないの♪ ファイト♪ ファイト♪」――The Fight Song/Marilyn Manson ボレロも歌いました。ぱおんぱおんと歌いだしました。 ゾウと人間のてんでチグハグな二重唱です。 ボレロとぼくは歩きつづけました。 しかしこのときぼくはまだ、ボレロの異変に気づいてはいなかったのです。
多くのポケモンは人間の主人に忠実です。ボレロにとってみれば、それは人間だって同じようなものでしょう。人間だって誰かと一緒でないと生きられないんですもの。ぼくは思いました。彼女のように、ただみずからの意思でこの過酷な旅路を歩きつづけることのできる動物が、はたしてほかにいるでしょうか。 ボレロはただ一人ぼっちです。ポケモンは人間ととても仲がいいのに、彼女はこの地球で最後に残ったただ一頭のゾウなのです。それなのに彼女はこれまで何日も何日も、飲まず食わずで歩きつづけています。 ゾウは長生きだそうです。それでも寿命があります。ゾウはじょうぶです。それでもケガをすれば死んでしまうことだってあります。ゾウは足が速いです。それでも何日も歩きつづけたらいつかは疲れます。ゾウは頭がいいそうです。だから自分がいずれどうなるかきっと分からないはずがありません。 このごろのボレロの歩く速さは、はじめのころにくらべたらうんとゆっくりになっていました。足をつまづかせて転ぶことも多くなりました。路肩に座りこんで休むことも多くなりました。ずいぶんやせたように思います。おなかがすいているでしょう。のどだってからからでしょう。それは疲れていることでしょう。 それでもボレロは歩きつづけました。 ぼくはそんな彼女をみるのがだんだんとつらくなってきました。だからいってきかせました。 「もうやめてくれボレロ、これ以上歩きつづけたらきっと死んでしまう。たとえきみが故郷にたどりつけたとしても、そこにはもう君の仲間はいないんだ。ぼくはきみが死んでしまうのが悲しいよ」 ぼくはボレロを殺すためにこうしていっしょに歩いてきました。はじめはいっそ鉄砲で一発みけんを撃ちぬいてやろうかと思ったことさえありました。それでも、こうしてこれまでいっしょに歩いてきたんですよ。いろんなことがありました。邪魔されたり、文句をいわれたり、馬鹿にされたり、ときにはあわれまれたり……そんなことをぼくも彼女といっしょにみていました。それなのに、いいえ、だからかしら、ぼくはいつのまにか、ボレロのことが好きになっていました。 「ボレロ、かえろう……もう動物園にかえろうよ……」 だけど彼女は歩きつづけました。ぼくにはボレロを止めることはできません。なんのために歩いているのか、なぜこんなにまでしてがんばりつづけるのか、ほんとうのところは分かりません。道ゆく人はだれもゾウを見向きもしません。だれも彼女を助けてくれるものはありません。それでも彼女は、自分で決めて歩きつづけました。 「どうしてだれも」ぼくは思わずさけびました。「このかわいそうなゾウを守ってやらないんだ。どうして人間は自分のことしか考えないんだ。ポケモンばかりにかかずらって、そんなにポケモンがかわいいか! ボレロを殺すな! ゾウを殺すな!」 そしてついに、ボレロは倒れたのです。
ゾウという動物を知っていますか? 身体が大きくて、鼻の長い動物です。 アフリカのサバンナや、アジアのジャングルに暮らしていました。 人によくなついていろいろな芸をおぼえるので、むかしは動物園やサーカスの人気者でした。 とても頭のいい、心のやさしい動物でした。 この世界にポケモンがあらわれるようになったのと同じころ、旧生物はこの地球上からいなくなりました。 ゾウという動物もまた、滅んでしまったのです。 もうどこにも、ゾウをおぼえているものはありません。
しかし、ボレロは倒れませんでした。 それというのも、どこからともなく一頭のドンファンが現れて、彼女の身体を支えているのです。 ドンファン――というのは、ゾウとよく似た、でもゾウではないポケモンです。 息も絶えだえでいまにも倒れようとしていたボレロが、ポケモンの助けを借りてもう一度立ち上がったのです。 「こいつ勝手にこっちのほうへ歩きだしたんだ」トレーナーらしき人がやってきていいました。きっとこのドンファンの飼い主なのでしょう、「だけどこいつがぼくのいうことをきかないなんてはじめてだし、好きにさせてみようかと思うんだ」 あぜんとしました。信じられない思いです。 ぼくは鉄砲をかついでいます。それはぼくが猟師だからです。ずっとまえ動物園にたのまれて、ボレロのお婿(むこ)さんを探しにアジアの森へ行ったことがあります。ですが王子さまは見つかりませんでした。野生のゾウはやっぱりずうっと昔に滅んでしまっていたのです。そして、ゾウのいなくなった森に暮らしていたのが、ゾウに似ているけれどもゾウではないポケモン――ドンファンだったのです。 大昔、オーストラリアにはフクロオオカミという動物がいたそうです。カンガルーやコアラの仲間――おなかに子どもを抱くためのポケットがあるので有袋類といいます――で、オオカミによく似た、でもオオカミではない動物です。昔といっても、数万年も昔のことだそうです。彼らはそのころオーストラリアへ移り住んできたディンゴという動物――オオカミの一種――と生態的地位(ニッチ)を争って、敗れました。どちらも野生の動物を狩って暮らす肉食動物です。彼らはべつにケンカをしたわけではないでしょう。でも、ひとつのパンを二人で仲良く分けたとして、どちらもおなかいっぱいにはなりません。そういうときに野生では早い者勝ちです。このときパンを食べることのできなかったフクロオオカミは、オーストラリアからいなくなってしまいました。環境破壊や捕獲圧がなくても、動物というのは生態的地位(ニッチ)を奪われることで絶滅してしまうものなのです。 ゾウが絶滅してしまった理由はいろいろにいわれています。ほんとうのところは分かりません。たしかに環境破壊はありました――それはひどいものでした。ゾウのような身体の大きな動物は捕獲圧に弱いという話もあります――子どもをたくさんつくれないのです。 それなら、なぜゾウのような古い動物が地球上から姿を消していく一方で、次々と新しい種類のポケモンが発見されているのでしょうか。なぜゾウのいなくなった森に、ゾウとよく似たドンファンが暮らしているのでしょうか。もしかしてゾウとドンファンは、生態的地位(ニッチ)を奪いあう競争相手……いいえ、それどころか、ドンファンはゾウを、ポケモンは旧生物を滅ぼした……それなのに…… 「たいへんなことになるかもしれない……」ぼくはつぶやきました。なぜだかそんな風に思えたのです。 ドンファンとボレロはお互いをしっかりと支えあいながら、ゆっくりと歩きだしました。
はるかな水平線が見えます。よせてはかえす波に足がぬれます。カモメ――ではなくて、カモメによく似たポケモンが飛んでいます。 「きもちいいねえ、ボレロ」 ボレロはとうとう、海までやってきてしまいました。それはこの国のさいはてです。 「海をみるのはじめてだろう。これは川とちがって、わたることはできないんだ……きみはよくがんばったけれど、ここまでみたいだ」 ボレロとぼくらは立ちすくむしかありません。 そこへ、「やあ、大きいなア」と船長さんが話しかけてきました。「でもみろよ、おれの船。大きくていい船だろう。……のっていけよ」 ボレロは甲板をふみ抜いてしまいましたが、船長さんは笑って許してくれるのでした。
あるところに戦争をしている国がありました。何十年も、ひどい戦争をつづけていました。 北の国と南の国の兵隊さんたちが、相手を鉄砲をかまえてにらみあっています。みんなおなかがすいて、疲れきっているようでした。ほんとうは兵隊さんだって、はやく家に帰って家族に会いたいのです。それでも命令ですから、こうして鉄砲をかまえていなくてはいけないのです。 そこへボレロがやってきて、二つの軍隊の間をのっしのっしと歩きます。 「あれはなんだ」「あんなポケモンはみたことがない」「だいじな国境線をふんづけているぞ」「機関銃がこわくないのか」「まったくふざけている」「そそのかすならかんべんならんぞ」兵隊さんが口々にいいます。おどしで何発か撃ってくるものまでありました。 ですがボレロはなにもいいません。ただ前を向いて、のっしのっしと力強く歩きつづけます。 そのうちに、キャタピラの音をひびかせて追ってくるものがありました。なんと戦車です。 「なぜだか分からないけれど」戦車から顔を出して兵隊さんがいいました、「なんだかそいつをみていたら、こうしてみたくなったんだ。戦車っていうのは壊れながら走るものだから、どこまでついていけるか分からないけれど。いけるところまでさ」 キャタキャタピラピラ、ボレロとぼくたちは歩きつづけました。
森の奥深くに未開人の村がありました。大昔からの生活を今でも続けているのだそうです。古くから伝わる伝統的な家がならんでいます。その家のなかでは村長さんが村人を集めて話をしていました。 「明日には撮影隊がやってくるそうだからね。みんな朝から伝統衣装に着がえておくんだ。まちがっても街で買ってきたオシャレな洋服を着てはいけないよ。それから、携帯電話は電源を切って隠しておくんだ。わたしたちは持っていないことになっているんだからね。アア腕時計もだめだ。それでお金がかせげるんだから、みんなひとつよろしくたのむよ」 間のわるいことに、そこへ取材クルーが一日早くやってきてしまったのです。ディレクターさんがつぶやきました。「アレレ、ここはいつのまに文明開化しちゃったのかしら」取材の予定がだいなしです。ディレクターさんが出直そうかしらと思ったそのときです。 木々をなぎたおしながらボレロが歩いてきました。伝統的な家をばらばらにふみつぶしました。 「おい撮影部!」ディレクターさんがさけびました。「カメラをまわせ! いつかのゾウがこんなところまできている」 こうしてボレロはひさしぶりにテレビに映りました。 村人たちもゾウを携帯電話の写メで撮りました。 「撮影予定は変更だ。テープのある限りあのゾウを撮るぞ」ディレクターさんがいいました。 ボレロとぼくらは歩きつづけました。
あるとき、旅人が近づいてきてこんなことをいいました。「テレビをみてやってきたんだ。このあたりを歩いているらしいって。でもいいか、おれはうんと怒ってるんだからな。このゾウに愛車をつぶされたんだから、弁償してもらうまではかえれねえ」よくみれば、いつかの暴走族のお兄さんではありませんか……「とりあえず水と食いものを持ってきたから、食べさせてやってくれ」 暴走族のお兄さんは、ポケモンに食べ物をどっさり背負わせていました。お兄さんは、それをぜんぶボレロにくれるというのです。 ボレロとぼくたちは歩きつづけました。
あるところでは、人間をポケモンのように売り買いしていました。 その国では荒れはてた土地が広がっているので、野生のポケモンがいませんでした。そのため人間をポケモンの代わりにしているのです。 人間は動物図鑑にはのっていません。とても利口で手先の器用な、ふしぎな生き物です。化石人類をみんなほろぼしてこの地球に繁栄した生き物です。人はそれをペットにしたり、仕事の相棒にしたり、戦わせたりしています。 ボレロはそんな人たちのつながれている鎖をみんなちぎっていきました。 だけどだれも困りません。お金持ちの人がくやしい思いをするくらいでした。なぜなら、そんなことをしなくても人間は助けあって暮らしていくことができるからです。 ボレロとぼくたちは歩きつづけました。
あるところに、とても古い遺跡がありました。 二千年もむかしにつくられた、ポケモンをかたどった石像だそうです。ところがあるとき、それをテロリストがいやがらせで壊してしまいました。それはテレビのニュースになりました。大きなポケモン像がくずれていくのをぼくもテレビでみたことがあります。どうしてこんなことをする人があるだろうと思いました。世界中が怒りました。なぜならポケモン像は人類の大切な宝物だったからです。ですがこのとき、ポケモン像の足元で飢え死にしそうになっているたくさんの人たちのことを、だれも知りませんでした。二千年のポケモン像はその人たちを助けてあげることができなかったのです。 ボレロがやってきたとき、そこではいろんな国の人たちが、石ころをいっしょうけんめい拾い集めて、なんとかしてポケモン像をなおそうとがんばっているところでした。 けれど、その足元でおなかがすいて死にそうな人たちのことを、だれも見向きはしません。 ボレロはここまで長い距離をひたすら歩いてきました。飲まず食わずで何日も歩いてきました。だから、きっと食べ物などいらなかったのかも知れません。それとも、彼女は頭がいいので、みんながおなかをすかせていることが分かったのかもしれません。彼女は暴走族のお兄さんからもらったたくさんの食べ物を、おなかのすいた人たちにみんな分けてしまいました。たくさんの人が助かりました。みんなそれはそれは喜びました。 その様子がテレビのニュースになりました。このとき世界中の人たちははじめて、おなかのすいた人たちのいたことを知りました。ポケモン像をなおそうとがんばっていた人たちはたいへん恥をかきました。 そしてボレロは、やっとなおりかけたポケモン像をこっぱみじんにふみつぶしていきました。彼女にとってみれば、それは宝物でもなんでもなかったのです。 ボレロとぼくたちは歩きつづけました。
気づけば、どの街へいってもボレロを応援する人でいっぱいでした。ポケモンさえ彼女を応援しました。もうゾウは一人ぼちではありません。たくさんの人が、ポケモンが、ボレロをささえて一緒に歩きます。 彼女の気高さを、いまでは世界中の人が知っています。「故郷に帰ろうとしているらしい」「死んだ仲間に会いたがってるらしい」「なんて健気な生き物だ」「失われた太古の美しさよ」「インド人もびっくりだ」くちぐちにそんなことをいいだしました。 たくさんの人がゾウに水や食べ物を差し出してくれました。みんな、ボレロに死んでほしくないのです。だけど彼女はもうなにも口にすることはありません。食べ物をみんなほかの人へやってしまって、自分はやせ衰えていくばかりです。目はおちくぼんで、皮膚がしわしわに伸びてしまって、身体はうすっぺらになりました。どうして歩けるのか分かりません。もういつ死んでもしまうか分かりません。それなのに彼女の歩みはさらに力強くなっていきます。すべてをなぎ倒しながら、ふみつぶしながら、なおもほこり高く、雄大なゾウの姿です。 それをみて、みんなふしぎと涙が止まりませんでした。「がんばれ、がんばれ」と声をかけました。たくさんの人が勇気づけられました。「死んじゃだめ、ゾウさん死なないで」そう願わずにはいられませんでした。 ぼくは思いました、ほんとうはみんなゾウを忘れていただけなのです。ほんとうはなつかしくてたまらなかったのです。だから、動物園の飼育員さんも、獣医さんも、お巡りさんも、それからポケモントレーナーだって、兵隊さんだって、最後のゾウを殺すことなんてできませんでした。だってゾウと人間は、この星でこれまで何百万年、何十億年も一緒に暮らしてきた仲間なんですから。 ポケモンだっておなじです。旧生物に擬態(ぎたい)をして、生態系の地位をうばいこそしたって、旧生物がいなければポケモンは生まれなかったのです。ゾウはポケモンに命のバトンをわたしてくれたのです。彼らはそのことをよく知っているに違いないのです。 でも彼女はきっとそんなこと考えちゃいません、きっと知ったこっちゃありません。ちいさな瞳ははるか向こうをみつめつづけています。ひたすたのっしのっしと歩きつづけるのです。だれも彼女を止めることなんてできません。すべてをふみつぶして、力強く歩きつづけます ぼくはそんなボレロが好きです。ほんとうに大好きです。死んでほしくありません。それでも、やせ細った彼女をささえながら、それでもぼくはさけびました! 力のかぎり、さけびました! 「ボレロ、すすめ!」
ゾウという動物を知っていますか? 彼女はこの地球で最後のゾウでした。 名前はボレロといいました。
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