自転車で転倒したのが一週間前、幸い骨折には至らなかったものの右腕を捻挫してしまったようだった。それまでやっていたカフェのアルバイトは半ば重労働であり、とてもじゃ無いけれど料理を運ぶなどということは出来そうに無い。予想以上に後を引きそうなこともあって、頭を下げて長期休職にしてもらった。
そうなると困るのが生活費の維持だった。フリーターの独り暮らし、ミュージカルのコーディネーターを目指しているとは言っても完全な夢追い人でしか無い。親の反対を振り切って家を飛び出してきた以上、実家に泣きつくというのは今の私にとって最後かつ最悪の手段である。しかし悩んでいても解決する問題でも無く、新しいアルバイト先、それも力を必要としないものを探すことは一刻を争う要事だった。
ミュージカル公演の合間を縫って、ホールのロビーで求職サイトや情報誌を片っ端から漁る私に、声をかけてきたのは同じくコーディネーターのタマゴである友人だった。事情を知ってくれている彼女は、良いバイトがあるのだと話を切り出した。
「一個下の弟が学校の人から聞いたって言ってたんだけどさ」
そんな風に紹介されたバイトは、どの情報誌にもサイトにも載っていなかったように思えた。聞くところによると大々的な求職はしておらず、関係者の知り合いを辿って働き手を探しているらしい。要するにコネであるが、私にとってはありがたいことだった。
早速、彼女と彼女の弟を通じてその『学校の人』とやらに連絡をとった。私よりも二つ年上であったその人は、正社員としての就職が別の会社に決まったから自分の分の空きを埋めてくれる人を探していたらしい。仕事内容について軽く説明を受ける。職場はライモンの中心部、住んでいるアパートから徒歩でも行けそうだ。接客業であるが歩き回ったりすることは無くカウンター越しでのやり取り、小さな景品を手渡す以外に肉体労働は無し。おまけに時給は破格クラスと言っても良いほどで、勿論私は二つ返事でオーケーした。
『常に平静でいること。それが就業条件だ』
唯一言われたことはそのくらいか。まあ、接客のアルバイトならそれは基本的な心得である。客の一人一人に腹を立てたり動揺していたらこちらの身がもたないというものだ、今までだってしていたことだし、と適当に頷きながら私は当面の収入が得られるであろうことに安堵した。
その翌日、早くも初出勤が訪れた。職場である大きな建物に足を踏み入れようとして一度立ち止まり、立派な外観にほっと溜息をつく。
「バトルサブウェイ、ね」
ポケモンバトルに興味の無い私が入るのは初めてだ。評判と人気ぶり、それから強い人だけが戦えるらしい車掌コンビのなかなか良いビジュアルだけは知っているが、詳しいルールや魅力はよくわからない。地上に見えている建物も十分ゴージャスだったけれど、階段を下りた先に広がる駅構内はもっとすごかった。沢山のトレーナーやポケモンで賑わうその場所は活気で満ち溢れていて、思わず感心してしまった。
私の新しいアルバイト、それは景品交換所の受付嬢だった。詳しくはわからないけれど、この施設では勝つ度にポイントがもらえるらしい。それを一定数溜めると技マシンや栄養剤、バトルに役立つアイテムなどと交換出来るという仕組みのようだ。トレーナー毎にパソコンに記録されているポイントをチェックし、それに応じて希望の景品を渡す。それが私に割り振られた仕事なのだ。
そしてそれは驚くほど楽だった。利用者の数が多いだけあって、結構なペースで交換に訪れるトレーナーはいるものの、大したことはする必要も無い。トレーナーカードを受け取って、パソコンにスキャンさせて、受付下にストックされた景品を渡す。ずっとそれの繰り返しだ。景品は軽くて小さいものばかりで、疲れるということすら無い。
こんな仕事で、あれほどまでの給与をもらっていいのかと思いはしたけれど、二重三重に助かっているのもまた本当だ。誰もがスムーズに受け取りを終えていくので、心配していたような嫌な客も一人もいない。カフェにいた頃の方がずっと困った客を相手にしていたものである。まさに怪我の功名ということか、と一人で納得しながら、私は思わぬ幸運に感謝しつつ仕事をしていた。
「すみません、タウリンとインドメタシンを一つずつお願いします」
仕事を始めて半月ほど経った。いらっしゃいませ、というカフェ時代とはまた違うかしこまったトーンも、なかなか板についてきたと思う。
ほぼ少年と言っていいであろう、若い客受け取ったトレーナーカードをスキャンする。累計ポイントは残高と同じ四ポイント、登録日時もつい先週。どうやらバトルサブウェイ初心者なのであろう。内心でそんなことを考えながら栄養剤の瓶を箱から取り出すと、そんな私の気持ちを察したように「まだ弱くて全然勝てないんですけどね」と肩を竦めてみせた。
「少しでも強くなれるよう、なけなしのポイントですがこういうアイテムもらおうと思って。お店でも売ってるんですけど高いから……」
早く沢山勝って、サブウェイマスターと戦うのが夢なんです。客はそんなことを言いながら、傍らのエルフーンと笑い合った。頑張ろうな、と頷く彼らはなんというか爽やかで、バトルに明るくない私から見てもいい感じの光景だった。
応援してますよ、と一言添えながら瓶を手渡す。元気に「はい!」と答えた彼らを見送った先、改札口には今日も数多のトレーナーたちが吸い込まれていた。
その少年は、それからも何度か顔を合わせることとなった。当たり前と言えば当たり前なのだけど、彼が来る度にトレーナーカードに溜まったポイントはその数字を増していた。いや、単純な数字の話だけでは無い。最初のうちは一週間でせいぜい五ポイントいくかいかないかだったのが、一週間で十ポイント、五日で二十ポイント、そして今では僅か三日で三桁のポイントを稼ぐようにまでなっていた。
ポイントが増えれば、その分もらえる景品も豪華になっていく。技マシン、パワー強化系、能力操作系、そして他の場所では手に入らないようなレアアイテム。あの頃の彼には到底手が届かなかったであろう高ポイントの景品を、いとも容易く持って行くようになった。
彼は、初めてあった時と大分顔つきが変わったように思う。あの邪気の無い笑顔をすることは無くなったし、エルフーンの瞳も随分と険しくなった。私が声をかけても、足早に改札へ消えていくことがほとんどだった。
そんな彼の姿をめっきり見なくなったことに気がついたのは、それからしばらくしてのことだった。膨大なポイントにも関わらず短いスパンでやって来ていたのに、とんと訪れなくなったのだ。
風邪でもひいたか、他に興味のあることでも出来たのか。ふと気になって、彼のデータベースを検索してみた。職権乱用と言われれば逃れられないけれど、深く考えはしなかった。何度も見た彼のトレーナーネームを入力し、エンターキーを押す。
検索結果はすぐに出てきた。画面に表示されたそれを見て、私は目を疑った。
瞬く間に増え続けるポイント、目まぐるしく変わっていく数列。システムの故障だろうか、と眉根を寄せた私が画面に顔を近づけたその時、後ろから乾いた声がかけられた。
「…………もう、そのお客様のデータは見る必要ありませんよ」
驚き振り向いた先にいたのは、いつの間に来ていたのだろうか、何度か言葉を交わしたことのある駅員だった。
思わずびくりと肩を震わせてしまった私の
失礼な振る舞いを何ら気にすること無く、駅員は自然な手つきで私からマウスを奪い、パソコンに何やら操作を加えている。手袋をはめた手がキーを叩くと、画面に表示されていた件の客のデータは消えていた。
その行動の意味がわからず、私は困惑するしかない。パソコンと駅員を交互に見やる私に背を向けて、駅員はさっさと立ち去ってしまった。
「もう、あなたの所にいらっしゃることはありませんからね」
その言葉が私の耳に届いた時、いつか仕事を紹介してくれた人に聞いたことを思い出した。
何が起きても、平静でいること。
それから間も無く、捻挫の治った私は バトルサブウェイでのバイトを辞めてカフェに戻った。
果たしてあれは、やはり単なるシステム故障だったのだろうか。或いはそうではなくて今でもまだ、あの客のポイントは増え続けているのだろうか。その答えも、駅員の言葉の真意も私はわからないままである。平静でいることがベストだと判断し、今後平静でいられる自信を持てずにあの場から去った私には、それを知る必要も無いだろうから。
この話を含め、バトルサブウェイにまつわる短編を20話ほど集めたコピー本が春コミで出る予定です。何卒