遥か上空にも感じられる、遠い海面が波打った。傍らを漂っていた仲間が警戒と高揚を示す合図を放ち、その動きは波紋を呼んで水の中に広がっていく。何も見えない、地面の奥深くのように真っ暗な海の中に光が浮かび上がった。一つ、また一つと生まれては強い輝きに変わっていくそれは攻撃的に瞬き、揺蕩う海を掻き混ぜる。
戦闘の予感、察知、洞察。一瞬にして海底中に行き渡った合図は、俺達の身体をまるで無意識でそうしているかの如き勢いで上昇させた。泳ぐことも潜ることも出来ない、この海の闇に溶ける濃紺の身体。海底から届く地磁気に反応して水中を浮遊する俺達の鰭は他の水棲生物のように水流へ乗ることも叶わず、ただただ海中を漂うことしか出来ない。
そんな、泳ぐには何の役にも立たないこの両腕が唸る。遊泳というよりも、目の前にある障害物を退けるような風体で海水を掻き分けて上へ昇る。進んだ先にあるのは、海棲の者としてあまりにも異色である両腕が求める存在。
つまりは、――獲物、だ。
俺達シビルドンと人間は争い合うものだと、そう決まっていた。シビルドンは人間を海に引きずり込む。人間はシビルドンを陸に引っ張り上げる。俺達にとって人間は憎たらしい敵であり獲物であり、全身の電流で殺す相手だった。
沢山のシビルドンが濃紺に浮かぶ斑点を光らせ電気を帯びて、海上へと躍り出る。待ち受けるのは武器を打ち鳴らして威嚇する、同じくらいに沢山の人間。敵意溢れる互いの視線が交差したのを合図に、今夜もまた戦いが始まる。入り混じる、海の者と陸の者。目まぐるしく動く数多の影は、敵を倒すことだけを考えて蠢き合う。
甲板に引きずり上げられた仲間の方へと電流を一撃放つ、慌てて離れる人間達から仲間が逃れるのと同時に、頬の鱗が剥がれ落ちる感覚。すぐに捻った身のおかげで致命傷にはならなかったが、船のヘリに立って三椏の刃を俺に向けた弟の一撃が掠ったようだった。まだ若い男だ、獲物にするにはもってこいの存在である。両腕に電気を集め、俺はそいつを見据える。
と、俺を攻撃した、その人間と目が合った瞬間、俺の視界に弾けるような閃光が走った。咄嗟の刺激に耐えきれず、一旦海へと戻る。飛び込んだ際に生まれた水飛沫の向こう、命拾いした人間は俺を睨んでいた。仲間の放った電流だらうか、と思うもそれは痺れが皆無であることによって否定された。それでは何か、と思案した矢先、俺は一つの違和感に気がついた。
先程腕を振り上げた人間のことを、自分は何と認識した?
獲物でしか無い、海に引きずり込むべきあの存在を、俺は、何だと思っていた?
俺はあの時、あの人間を、懐かしさを感じる横顔を、頭にこびりついたあの顔立ちを、
弟、だと――。
そうだ、あいつは弟だった。弱虫で、海に出る俺をいつだって泣きながら見送っていた。いつまで経ってもガキでチビで情けなくてその癖怖いもの知らずな時もあった、ーー五年前に見たのを最後に生き別れた、弟だ。
瞬間、頭の中を時間が駆け巡っていった。それは俺の過ごした時間だった。俺の見た景色で、俺の聞いた音で、俺の生きてきた記憶だった。いくつもの生が、一瞬のうちに迸った。
シビルドンとしての生の時もあった。
人間としての、生も、あった。
俺は、いや、――俺達は皆、人間であり、シビルドンだった。
シビルドンに海へと引きずり込まれた人間は、シビルドンに生まれ変わる。
人間に陸へと引っ張り上げられたシビルドンは、人間に生まれ変わる。
ずっと、その繰り返しだ。俺達はみんなみんな、シビルドンと人間と、交互に生きてきたのだ。
昔はそう理解されていた。人間が死ぬと海に還され、シビルドンが死ぬと陸に還されていた。そうすることで命が廻り、巡ることをどちらもわかっていた。姿を変えて双方に戻ってくることを、誰もが願っていた。
だけど、いつからだっただろうか。人間がシビルドンを乱獲したのが先か、シビルドンが人間を襲ったのが先か。俺達は二分し、憎み合うようになった。
同じものを殺し、同じものを傷つけていることすら忘れて。
俺達は、みんな同じものなのに。
それなら。それならば、この戦いに何の意味があるというのだろう。
俺は今、たまたま海にいて。
あいつらは今、たまたま陸にいて。
両方とも同じ、変わらない存在で。
敵もいない。
味方も、いない。
憎悪すべき獲物だと思っていた人間は、かつて共に暮らしていた仲間だった。一蓮托生の意志で以て力を合わせて生きるのだと思っていた同胞は、かつて倒さねばならなかった相手だった。どちらも一緒で、同じなのだ。今この瞬間にいるのが海か陸か、それだけのことだったのだ。
眩む視界に血飛沫が舞う。夜の闇の下でも尚鮮やかなそれは人間のものなのかシビルドンのものなのか、誰に判別することも出来そうに無い。当たり前だ。だって、どちらの血も同じように赤くて、同じように温かくて、同じように海に溶けて、同じように陸に染みるものなのだから。
シビルドンは水ポケモンのような姿をして海に棲んでいる癖に、他の水ポケモンのように泳げない。それは人間が泳ぐことに特化していないからだ。人間だった頃の名残なのだ。使い物にならないこの鰭も、昔自分が生きていた陸に繋がる水面に向かおうと、海底から執拗に浮き上がろうとするこの身体も。
人間だった。その前はシビルドンだった。
この腕は、かつてシビルドンを陸に引っ張り上げた腕で。
この腕は、今から人間を海に引きずり込もうとする腕で。
互いを抱き締めるためにあったはずの腕を、互いを殺し合うために使う。そして殺されればそのことも全て忘れ、かつては自分の種族であった者をまた襲う。守ろうとしていたものを死に追いやり、怒りをぶつけていた相手のために働くのだと思うようになる。
なんて、無益なのだ。
今の俺も、今までの俺も。誰もかれも。
茫然と動けずに海面に浮遊する俺に三椏が奮われる。それを振り回しているのは他でも無い、俺の弟だった。
避けなければ殺される。そう判断した本能は、うねる身体を三椏から逃がした。背鰭を刃が掠り、同時に俺は人間と距離を詰める。引きずり込むための両腕が、かつての弟に掴みかかる感覚。
このまま引きずり込めばいいのだと、頭の中では理解していた。だけど、どうすることも出来ない。形は変わったとしても、これも輪廻としての役割はそのままだとわかっている。だけど俺はもう、こんな世界は終わって欲しかった。こんな、同じ存在で傷つけ合う世界なんて、無くなって欲しかった。ただ、俺は、大きくなったなとか、鈍臭いところは健在だなとか、そんなことを言って、この人間を抱き締めたいのに。諦観の混じる怯えた顔をされながら、引きずり込む世界、だなんて。
お願いだから、頼むから。この争いに、終わりを――。
刹那、響き渡る轟音。煌めく閃光。少し遅れて全身を貫く激しい衝撃。
それが、途轍も無く大きな雷鳴と絶望的に強い電流であると理解した瞬間、俺の身体は空中へと浮き上がる。浮遊なんてものじゃない、もっと高い所へと向かっているのだと感じられた。腰が抜けたらしい弟が、目を丸くして俺を見上げていた。
輪廻から抜けてしまった。どちらも揺るがした雷、それを最後に俺はこの輪から抜け落ちてしまったのだ。海のシビルドンと陸の人間、どちらも生き得ない空に浮かぶ。
もう、あそこには戻れない。ならばせめて、俺がいなくなったあの世界は、いつかのように両者が両者を抱き締める世界に戻って欲しい。
願わくば、そんな希望を。静まり返った海面、陸と海が混じり合う場所を見下ろして、俺は空を飛んでいく。