接続先のない通信ケーブルに、時々どうしようもない罪悪感を覚えることがある。
単3電池を4本搭載した分厚いグレーの本体に、緑色のラベルが貼られたカセットが刺さっている。
灰色がかった黄緑色の画面の中央に映るのは、16×14ドットの2頭身の少年。
160×144ドット、およそ4×4.5cmの、4色で構成されたモノクロの液晶の中が、幼いころから僕にとって一番心が安らぐ場所だった。
まだほんの子供のころに買ってもらったこのソフトと、いとこの兄ちゃんにもらったこの大きくて古い本体は、今もまだ僕の中では現役だ。
次作の内蔵電池が3年足らずで切れてレポートが書けなくなってしまっても、その次の世界が時を刻むことができなくなってしまっても、初プレイからかれこれ19年経ったこのソフトは恐ろしいことに未だ健在である。
20年以上使われている液晶画面は、劣化して両端に白線が入ってしまっている。幸い今のところまだプレイにさほど支障はない。液晶は昔のテレビとかで主流だったブラウン管とかと違って、自分が光り輝いているわけじゃない。詳しい構造を省いてざっくり言うと、シャッターのように光を透過させたりさせなかったりすることで濃淡を表現しているわけだ。この本体の液晶画面は反射板が金色だから、光を完全透過している「白」の部分が何とも言えない黄緑色だ。視認性が悪いけど、この色も何となく愛着があって嫌いじゃない。ずっしりとくる大きさと重さも案外気に行っていて、最新機種の軽さがいかにも玩具っぽくて時々少しだけ不安になる。それと、音楽はいわゆるピコピコなのだけれど、この本体は性能の割にかなり音質が良い気がして、僕はいつもイヤホンをしてゲーム内の曲を楽しんでいる。
まあ、常々使っているわけではない。僕だって新作のゲームはやりたいし、3Dグラフィック・立体サウンド・直感操作は大したものだと思う。ただ、時々無性に、機能性に関しては比べるべくもないこの本体とカートリッジに戻ってきたくなってしまうのだ。
僕は昔からどうも内向的で、人とコミュニケーションを取るのが絶望的に苦手だった。
おかげさまで幼稚園から大学卒業するまでほとんど友人らしい人物はおらず、会社でも何となく浮いているというか、避けられているというか、触れてはいけない存在のように思われている節がある。そのこと自体はまあこの20数年の人生ずっとそうだったから今更どうこういうわけではない。
ただ何となく、僕にとってこの世界は生き辛いな、と思うのである。
だけど、ほとんど空気みたいだったこの20数年間の中で、ほんの一瞬だけ、僕が輝いていた時期があった。
それこそ今プレイしているこのゲームが発売された時であり、僕が通信ケーブル(及び変換コネクタ)を持っていたからだった。
このソフトは、通信ケーブルを介して他人と交換・対戦することが醍醐味だった。CMも通信関係のことばかり言っていた気がする。あんまり覚えてないけど。
ただ、それまでのソフトでそこまで積極的に通信ケーブルを用いたものがなかったこともあって、持っている人はかなり少なかった。
そんな中、僕はいとこの兄ちゃんから本体と共に通信ケーブルを受け継いでおり、クラスの中で唯一の通信可能な人間だった。そんなわけで、通信進化や図鑑埋めの協力が僕に一斉に舞い込んできたのだった。交換してもらった子たちは何となく消せなくて、セーブデータを変えてもずっと持ち歩いていた。
まあ、そんなのもほんの数週間後、クラスのリーダー格が通信ケーブルを入手した(しかも初代は使えない奴を)ため、あっという間に鎮静化して僕は元の空気に戻ったのだけれど。
結局のところ、世の中は僕が必要なわけじゃなくて、他に適任がいなかったから仕方なく僕を選んだのだ。
あれ以来僕にお呼びがかかることはなく、僕はひとりでゲームを進めて、ひとりで通信をして、ひとりで図鑑を埋めて、ひとりで満足して、それで終わるようになった。
まあ、不満があるわけじゃない。本来RPGはひとりでやるもんだし、システム上何かしら問題があるわけでもない。自分のペースで好きなようにプレイ出来るし、そこのところは気楽でいい。
ただ、同じ人間が操っているキャラクター同士が通信するのを見るたび、他の人たちがわいわい対戦や交換をしているのを見るたび、僕は何となく胸の奥がもやもやとして、何となく罪悪感を感じるのだった。
ふつ、と突然画面がホワイトアウトし、イヤホンから流れていた音楽が途絶えた。
電源ランプはしっかり灯っている。そもそも電池はほんの数時間前に入れ替えたばかりだ。一旦電源を切り、カートリッジを取り出して端子に息を吹きかける。本来やってはいけないが既に習慣である。念のため麺棒で拭って本体に刺しなおし、もう一度電源を入れるが、画面は依然灰と金を足した色のまま変わることはなかった。
ああ、とうとう壊れたか。まあ20年も使ってたらそりゃ壊れるよな。僕はため息をついて電源を切り、本体を机の上に置いた。
画面の中央に、小さな2頭身の人影が現れた。
僕は驚いて本体を手に取った。それは紛れもなく、今刺さっているカセットの主人公だ。しかし本体の電源はついていないし、僕は全く操作していない。
そいつは僕が何のボタンも押していないのに、手前側に向かって足踏みをしていた。背景が白く本人の場所は動かないので一瞬困惑したが、画面下方向に向かって歩いているようだ。
しばらくの間そいつは辺りをうろうろと動き回り、こちらを見て「!」の吹き出しを頭の上に浮かべた。
「こんにちは」
耳元から突然、ノイズ混じりの少年の声が聞こえてきた。僕は驚いて本体を取り落した。ごつっ、という鈍い音が響き慌てて拾い上げたが、机の天板に小さなへこみが出来ただけで画面の中には相変わらず少年が映っていた。
何だこいつ、という僕の心の声に答えることもなく、そいつはきょろきょろとあたりを見回し(たように見えたが、このソフトに首だけが左右に動くモーションは存在しないので全身が左右を向いていた)、またこっちを向いた。
「むかしから ずっと きに なっていたんだけど ‥‥ どうして きみの せかいは モノクロなの?」
何言ってんだこいつ、と僕は思った。
モノクロなのは、「黒・白・灰色2種」で構成された、その液晶の中にいるお前たちの方だろう、と。
「だって ぼくの ぼうしと うわぎは あか だし ズボンは あお フシギバナは みどり だし ピカチュウは きいろ」
少年の両隣に、顔のついた花と、ピッピに似た生物のアイコンが現れる。そいつと変わらない、彩度0の4色。
だけど僕にはそれが確かに、緑色と黄色に見えた。
少しだけ間を置いて、ノイズ混じりの声がまた聞こえてきた。
「ねえ どうして きみの せかいは 『モノクロ』 なの?」
ふっと、画面の中の少年達の姿が消えた。気がつくと、本体からカートリッジを引き抜いていた。
カートリッジに貼られた、緑色のラベルが目に入る。僕はそれを裏返して、机の上に置いた。
僕は何度か深呼吸して、馬鹿馬鹿しい、と自嘲した。夢に決まってる。そうでなけりゃ幻覚と幻聴だ。疲れてるのかな。全く。
押し入れの引き出しの中をひっくり返し、紫色の半透明のボディをした、先程より幾分コンパクトなカラー液晶のハードを探しだした。これもまた古い機体だが、問題無く動くだろう。
僕は一瞬ためらいつつ、カートリッジを本体に挿入した。画面内に少年が現れることもなく、電源を入れるとゲームは起動した。
しかしスタート画面からひとつ進んだところに、「つづきから はじめる」の選択肢は存在していなかった。
何度かキーを動かすと、画面の中には意味不明の文字列が溢れかえり、それきり全く動かなくなった。
雲が3割ほどの晴天。風は生温かく、木の上では小鳥がさえずり飛んでいく。公園の砂場にもブランコにも人影はなく、ただただ穏やかな春の日差しが降り注いでいる。
そんな中で、僕はベンチに座ってただぼうっとしていた。顔のパーツは完全に無表情から動かず、時折肺の底から深いため息が漏れてくる。
空は澄み、若葉は鮮やかで、そんな麗らかな陽気だというのに、僕の目にはモノクロのような風景しか映らなかった。
今日に限ったことじゃない。いつもだ。今まで生きてきて、ずっと。
生きる意味とか目標とか、考えるのも面倒くさい。僕みたいなのはどうせいてもいなくても何の影響もないわけだし。
この世はとかく生き辛い。少なくとも、僕にとっては。
何度目かわからないため息をついた時、公園近くの道路に人影が現れた。
「――あれ? お前確か、小学校の時の……」
世間は休日だというのにスーツを着たその男は、僕の方へ近寄ってきて、やっぱそうだ久しぶりー元気してたか? と謎のハイテンションを見せてきた。
人の顔も声も名前も覚えるのが苦手な上、あったのもずいぶん昔のことらしいので、目の前の男が何なのかわからなかったが、彼が小学校何年生の時一緒だった、とか発表会で何々の役をやった、とかいろいろ個人情報を出してきたのでようやく思い当たる人物を脳内から検索できた。それにしてもよく20年以上前のクラスメイトの顔と名前なんか覚えてるなあ。それも僕なんかの。
元気してる? とか最近どうよ? とか本当に聞きたいのかいまいち不明な質問に適当に相槌を打っていると、彼はふと思い出したように言ってきた。
「そう言えば、ポケモン流行った時、最初お前だけ通信ケーブル持ってたんだよな。俺、お前に協力してもらってユンゲラー進化させてさぁ……」
ああ、そうだった。
この人もあの数週間の間に、僕の前に現れたひとりだった。
僕の灰色の大きな機体と、彼の赤いコンパクトな機体をケーブルで繋いで。
黄緑色の画面の中に、僕以外のもうひとりが現れて。
ケーブルをボールが行き来するのを見て、すごく嬉しそうにしてて。
「ごめん、あの時もらったキュウコン、昨日カートリッジがバグって消えちゃったんだ」
「えっ、お前今までずっと持ってたの!? すげーな」
あの少年の世界に色があって、僕がいるのがモノクロなのは、僕があの一瞬の輝きを、緑色のカートリッジの中に閉じ込めたからだ。
少なくともあの時僕は、ほんの短い時間だったけど、たくさんの人と繋がって、交換して、力を貸して。
それがすごく、楽しかったんだ。
ひとりが嫌いなわけじゃない。群れるのは疲れる。面倒な人間関係に巻き込まれるくらいなら、存在感のない空気のような人生も悪いわけじゃない。
そういうことじゃない。孤独だとか寂しいとか、そういう次元の問題じゃあない。
モノクロの世界だって悪いわけじゃない。生きづらくても、嫌いなわけじゃない。
僕はただ、接続先のない通信ケーブルに、時々どうしようもない罪悪感を覚える。たったそれだけのことだ。