天井から垂れた水滴が湯船に落ちて溶けていく。
元はここから上っていった湯気がまた本来の姿に戻り、そしてまた湯気に変わって天井に向かうのだろうか。少々逆上せてきた頭は霞がかってそんなことを考える。そろそろ上がらなければ倒れてしまう、という思いと、もう少しのんびりしていたいという思いが緩く絡み合って思考を邪魔していた。
別に暇な身というわけじゃない、やるべきことも溜まっている。だけど、知らないフリしてこのまま眠ってしまいたい気持ちだってある。いやいやそれは流石に危険だろう、浮かんだ考えを否定して浴室に一人、髪の濡れた首を横に振る。
その動きで浴槽の湯が波打つ。薄く微かな波紋が一つ、二つ。ならばこうすることにしよう、生まれては途端に消えてしまうそれが全ていなくなるまで。この狭い空間に揺蕩うことにする。
しかし所詮は頭を動かした程度、生まれる波などタカが知れている。そう時間もかけずに収まってしまったそれは凪と呼ぶまでもない、浴槽の水面も浴室の空気も、すっかり静まり返ってしまった。
多少の名残惜しさと悔しさ、そしてこれで踏ん切りがついたことへの安堵に新たな水滴の音が混ざる。こうなっては仕方あるまい、いざ行かんとばかりに立ち上がろうと心に固めたその時、不意に視線がその心を呼び止めた。
収まったと思った波紋が、本当に僅かながらだが、しかし確かに未だ生まれ続けていた。私の左胸を中心として、余程に気を張らなければ認識出来ないであろう波は、それでも緩く、幽かに、密やかに声をあげていた。
なるほど、なるほど。容易く裂ける皮膚を越えて、ここにいるのだと主張をする心の臓はこんな時にまで自らを見失わない。考えてみれば当たり前のことであるけれど、揺れる水面は決して同じ場所で留まることなどあり得ないのだ。
水面が揺れる。波紋が生まれる。何故なら心が動いているから。その因果こそが、生きている証拠足り得るのだろうか。
「おいで」
白く霞んだ視界、どこを向くともなく呼びかける。時折垂れる水滴の生み出す音以外に音らしいものもない、応える声など存在しない空間。それでも私はもう一度、あたかも虚空に話しかけるかのように声を響かせる。
「おいで」
湿った空気が揺れて数秒、白の壁に黒の斑点が現れた。次第に膨らみゆく斑点は紙魚となり、繋がった模様となり、そして壁を塗り潰す影と変わる。そしてその影が壁から完全に離れてしまえば、薄らぐ雲のような靄になるのだ。
ゴース。学名上ではそう呼ばれている。靄の中に浮かぶ鬼面に生温かな蒸気が纏わりついて、白と黒との彩を生んだ。湿り気に漂う、その気体とも思える姿に向かって私は手を伸ばす。
「ほら、こっちだ」
此の種族は、私とは違って肉体というものを持ち合わせていない。ガス状の身体は今に蕩けてしまいそうな程に頼りなく、時に自分の思惑通りにすら動かないことを知っている。湯に濡れた私の腕に戸惑いながらも飛び込んできた紫色の煙霧に動く、対の眼球はあるものの、そこには実体の無いことを知っている。
心音は無い。血流も無い。体温などは言うべきにあらず、むしろ触れたところから順々に凍りついていくようだ。当然のことながら、此の種族によって生まれる波紋も、無い。
ならば、此の種族が生きていないことの証明足り得るとでもいうのだろうか。
そんなはずはあるまい。この冷ややかな熱、静まり返る鼓動。これこそが、此の種族の生きている証であるのだ。霊に属する彼らに、生きているという表現を手向けるのは些か可笑しいことかもしれない。だけれども、今ここに存在していると云うのを生きていると呼ぶならば、確かに此の霧は、今私の腕で生きている。
そうだ、もっと言うのならばこの波紋。紫色を抱き留めたことでより一層揺れ動く水面に、喜ばしげに生まれゆく波紋こそが証である。此の、臓を持たない煙霧を出迎えたことにより、私の臓はこうして自己の生命を歌うのだから。
天井の水滴が、また落ちる。
心の響きと熱と冷、私達は今、生きている。