「へぇー…」
私は思わず感嘆の声を漏らしながら、そのアサガオさんという人のホームページに魅入っていた。
ネットサーフィンをしていたら偶然見つけたホームページ。ソノオタウンのラベンダー畑や、シンオウの広大な草原、アサガオさんと及ぼしき若い女性が、ふっくらしたプクリンの背に腕を回して微笑んでいる写真などで彩られたそのホームページで紹介されていた「きのみ食」。私はその言葉を聞くのは始めてだったが、アサガオさんが紹介している写真付きのメニューはどれも彩り豊かで、深夜1時のお腹にダイレクトに響いた。
ポケモンの肉を食べない生き方、そういうものがあるということ自体は知っていた。ただ、そういう生き方もあるよなぁという以上の感想を抱くことはなかった。それはひとえに、そういう生き方は、例えば宗教的な使命とか、自然を守りたいとか、そんな感じの信念を持っている人がやるものだ、という私の先入観があったからに他ならない。このアサガオさんは、きっかけはそうだったかもしれないが、今は何よりも楽しくて健康にいいからこの「きのみ食」をやっているのだ。しかもポケモンにまで良い効果があるなんて、驚きだ。
目を光らせて布団の中でスマホの液晶を覗きこんでいる私を、レパルダスの「レッチー」が早く寝ろよとばかりに布団の上から睨みつけている。スマホの液晶が眩しいのだろう。しかし私としては、そっちこそどいてくれと言いたいところである。君が乗っているのは布団越しとは言え私の体の上だ。液晶の光が届かない部屋の隅に行けばいいじゃないか。
現にパチリスの「パッチー」はそうしている。彼は私の使い古しのブランケットを体の上に被せ、お行儀よく丸まって寝息を立てている。
この二匹は一事が万事こんな感じで、パッチーはよく言うことを聞いて誰にでも人懐こいのに、レッチーは気に入らない人間には顔も向けないし、現トレーナーである私の言うことでさえ時々無視するのだった。それにレッチーはイタズラな性格で、パッチーの持ち物にしょっちゅう手を出しては怒られている。もしかしてこの違いもポケモンフードのせいなんだろうか、私は少しずつ眠くなってきた頭でそう考えた。元々は二匹とも旅トレーナーの弟から送られてきたポケモンである。コールセンターで働く社会人に自分でポケモンを捕まえに行く時間などない。人から貰ったポケモンは懐きにくいとか、言うことを聞かないとか言われていたが、パッチーはちゃんと私に懐いている。
ホームページの体験記にあった、ポケモンフードをきのみ食仕様に替えたら大人しい性格に変わったガーディの話。パッチーのポケモンフードは元々植物性のものが多く入っている。そしてレッチーのポケモンフードは肉食ポケモン用なので、やっぱりそういうポケモンが食べるようなものが入っているのだ。あんまりその辺りを考えていくと気まずくなりそうなので、これまで深く考えたことはなかったが。
きのみ食のポケモンフードでは、肉食ポケモンに必要な成分をきのみから抽出しているとホームページのどこかに書いてあった気がするが、眠さが思考力に勝ってきたのでスマホも手から離れてしまった。とにかく明日ちゃんと検索して、必要な物を揃えよう。そこまで考えたあたりで私はレッチーの重さを感じながら眠りに落ちた。
次の日。
私は朝食をヨーグルトだけで済ませ、ひと通りの掃除を済ませてしまうと、トウカの森のすぐ近くにある小さなフラワーショップへ自転車を走らせた。
1DKの女性一人暮らしのアパートのベランダでも育てられそうなきのみって何ですか、とだけ聞いたら、必要な最低限のものだけ教えてくれるのではないかと思っていた。それは半分当たっていた。店員は懇切丁寧に世話の簡単なきのみの種類と育て方を教えてくれて、そこはありがたくアドバイスに従って幾つかのきのみをカートに入れることができたのだが、
「お客様、もしかしてご自分できのみを育てるのは初めてですか?」
「え?ああーはい」
その返事を聞くやいなや、
「あらぁ、そうだったんですかぁ!」
あからさまに店員の声のトーンが高くなった。…それからは、やたら熱心にあれもこれもと薦められた。実のつき方が良くなる肥料とか、きのみの種類に合わせて水量を調節できるジョウロとか。きのみにあげる専用の水を作る薬まで薦められた時には、思わずたじろいでしまった。水なんて水道水でいいんじゃないかと思っていたけど、そうもいかないものらしい。
「特にカナズミシティのお水だと色々と処理がされているので、デリケートなきのみだと、そのままあげちゃうと枯れてしまうものもあるんですよねぇ〜…このお薬はそういう水道水の中の微量な塩素などを取り除くお薬なんですよ〜」
やたらとフレンドリーな店員は笑顔を浮かべたまま眉毛を八の字にしてそう言った。私は頭を巡らせた。さっきから店員に押されっぱなしだが、そもそも私は何をしに来て何を買うべきなのだろうか。自分で育てて食べるきのみを買いに来たわけだから、水が悪いときのみの質も悪くなるだろう。それを食べるのは私だ。自分で食べるものなのだから、きちんと気を使わなくてはならないのではないだろうか。
「きのみ食」のホームページにも「不自然なものを食べていると体のバランスが悪くなる」みたいなことが書いてあったではないか。そうだ、それならこの薬は必要だ。
「じゃあ、その薬もください」
「ありがとうございます〜!」
店員の声がまた一段と高くなった。まるでズバットの超音波だ。こちらのペースが乱される。ポケモンのこんらん状態もこんな感じなんだろうか。
それからも私は店員にペースを乱されつつ、オツキミ山の赤土とクルマユの作った腐葉土をブレンドしたらしい高級な土4.5リットルと、残業などで長時間世話ができなくても大丈夫なように土の水持ちをよくする肥料と、色々なきのみを同時に育てられる横に広くて深いプランター2つをカートに入れた。ジョウロは普通のものを後で百均で買うことにする。安物のジョウロから滲み出る成分が水に混じって云々、などということもありえるかもしれないが、いい加減そこまで考え出したらきりがない。水と土と肥料が良いのだから、相殺されるだろう、多分。
それにしてもきのみなんて、一昨日までは適当なプランターにそこら辺の土を放り込んで、きのみを埋めて水道水をかけたら勝手にスクスク育つものだと思っていたが、さすがに舐めすぎていた。やはり自分やポケモンのために育てて食べるものなのだからそんな適当なことではいけないのだ。やはりきのみ食を始めてみてよかった。自分の食べ物に対する意識が一日でこんなにも変わったのだから。
私は重すぎる荷物を前籠に入れてよろよろと自転車を漕ぎながら、遠いシンオウのどこか(多分ソノオタウン)に住んでいるアサガオさんに心の中で感謝を捧げたのだった。
「『アースフード』は無香料・無着色・保存料不使用の、ポケモンの健康と自然に優しいポケモンフードです。10種類のきのみと5種類の穀物を混ぜて作っており、肉食の陸上グループポケモンに必要な栄養素も問題なく摂ることができます。原材料は全てシンオウ産。決め手は乳酸発酵させたリンドの実とモコシの実、そしてネコブの実のエキスです。またセシナ、ラブタといった胃腸のはたらきを整える作用のあるきのみを丸ごとミックスしているので、ポケモンの体が中からキレイになります。ポケモンの体に嬉しい成分を多く含んだラムの実の栄養素も、一袋につきおよそ10個分を摂ることができます…」
家に帰った私は再びアサガオさんに感謝することになった。アサガオさんのホームページのリンクに、きのみ食のポケモンフードをネット通販しているサイトがあったのだ。さすがに一般のフレンドリィショップを回ってもこういう専門的なフードはちょっとないだろう。カナズミのどこかにはあるのかもしれないが、そもそもきのみ食のポケモンフードにどういうものがあるのかすらわからない状態で広いカナズミシティを探しまわるのは、丸木舟でホウエンからシンオウへ漕ぎだすようなものだ。私は迷いなくネットの力を借りることにした。
「購入が完了しました」と表示されたスマホから顔を上げてベランダを見てみれば、そこには二つ並んだプランターがきのみの成長を待っている。植えたのはオレン、モモン、クラボ、ナナシの実だ。朝に植えれば夜には実が成っている、と言うくらい成長が速くて水もその間に1〜2回あげればいい、特に今日フラワーショップで買った肥料を与えれば水は植えた時の1回だけでいいと、きのみ初心者にとっては非常にありがたい特性をいくつも持っている。
パッチーはゴムボールで遊びながら時々外を気にしていたが、レッチーはまるで興味なしといった風にごろごろ寝ているだけだ。毛づくろいすら面倒くさいらしく背中にゴミがついている。やっぱりいつもの二匹である。でも、この「アースフード」をあげれば、きっとこんなレッチーの毛並みもゴミひとつつかないピカピカなものになるのだ、多分。
さてと、私はさっそく、昼飯兼夕飯の献立を考えなければならない。買い物とプランターの準備だけで貴重な休日は午後の3時を過ぎてしまった。朝はヨーグルトが残っていたのでそれで済ませてしまったが、本来きのみ食を実践する者はポケモン由来のものは食べてはいけないのだ。ということはあれが最後のヨーグルトだったのか、もっと味わっておけばよかったな、と思いながら私は「きのみ食 夕飯」という単語を検索欄に打ち込んだ。
慣れないことをするのはやはり時間がかかるもので、ノメルの実のパスタが出来上がるころにはもう陽もすっかりくれてしまっていた。
しかしお陰で、いつも行っている食料品店より近くに、より食材の安心安全に拘った健康志向の食料品店があることを知り、大抵のきのみはそこで買えることも分かった。味がきつすぎるきのみには、人間が調理に使う用に味を整えた種類のものがあることも分かった。
そんなわけで私の記念すべききのみ食第一号は、地元ホウエン産の無農薬小麦で作ったパスタにキノコ数種を加え、そこに輪切りにしたノメルの実を乗せてスパイスにニニクの実の欠片を少量加えたパスタである。キノコがうまい具合にボリューム感を増してくれて、すっきりサッパリとして美味しい。今日の苦労を労ってくれるような味だった。
その横ではレッチーがいつものポケモンフードをガツガツと食らい、パッチーも普段のポケモンフードを両手に持ってカリカリと齧っていた。さっさと食べ終わったレッチーは暇になったのか、パッチーの食事に手を出して怒られている。やれやれ。早くアースフードが届いてほしいものだ。
きのみ食を始めて3日目の夜。
私が玄米ご飯とネコブの出汁のスープ、朝採れたオレンとナナシのサラダで夕食をとっていると、部屋の呼び鈴を鳴らす音が聞こえた。おそらく昨夜ポストに入っていた不在者通知の便だろう。私は席を立ち、ドアを開ける。ペリッパーのマークが入った仕事着の男性が笑顔で差し出してくれた包みを受け取り、サインをして彼を見送ると、私はさっそく部屋に戻って包みを開けた。
薄茶色のパサパサした重い紙袋に、「アースフード」の文字と美しい毛並みのペルシアンの写真がプリントされたラベルが貼ってある。裏には成分表が貼ってあり、確かにそこにはきのみと穀物の名前しか見当たらなかった。包みの上のほうを少し切って中を見てみると、薄い緑色のコロコロしたフードがぎっしり詰まっていた。
いきなり全てこれにしてしまうと逆に胃腸に負担がかかる、と通販サイトには書かれていたので、とりあえず普段のフードに少量を混ぜてレッチーに与えてみる。レッチーはフンフンと慎重に匂いを確かめると、しばらく思案してから口をつけた。アースフードだけ避けて食べたりもしていない。私は胸をなでおろした。割りといい値段がしたので、初日から残されたりしたらきっと私のテンションはガタ落ちだっただろう。
ついでにパッチーにも一粒与えてみることにした。通販サイトには「肉食性の陸上グループポケモンにも問題なく与えられる」とは書いてあったが、草食性のポケモンにどうだかは書いていなかった。まぁ、元々がきのみ食体質なパッチーには普通に与えても大丈夫だろう。
アースフードを受け取ったパッチーは、カリカリと美味しそうな音を立ててあっという間にその一粒を平らげてしまった。もっとくれ、というような顔をしていたのでもう5,6粒与えてみる。するとパッチーは、あげた粒をそのまま吸い込むように口に入れ、ぷっくりと頬をふくらませた。新しいフードが気に入った証拠だ。保存料が入っていないのでなるべく早く消化しなくてはいけないのだし、この際パッチーにも手伝ってもらおう。
食事を終えたレッチーは全くいつもと変わらない様子で、だるそうにパッチーのお気に入りのゴムボールをベシベシと引っ叩いて、パッチーをまたまた怒らせていた。
きのみ食を始めて一週間が過ぎた。
自分としては体がものすごく変わったような実感はないが、朝にきのみのスムージーを飲むのは既に日課になってしまった。最初の四種の他に、アサガオさんのホームページでお勧めされていたナナを栽培して試してみたら本当に美味しかったので、ナナの実も常備することにした。
それにしても、きのみの成長の早さと取れる量の多さには驚かされた。最初にオレンとナナシを収穫してから、毎日5,6個は何かしらのきのみが採れる状態が続いたので、今はプランターには何も植えていない。今だって余りをパッチーに食べさせたり、ミキサーをフル稼働させてジュースにしたりしてなんとか使いきっているのに、このまま毎日収穫し続けていたら、供給に需要が追いつかない。食べずに腐らせてしまうのもきのみに申し訳ないことだ。一度採れたものを使い切るくらいのタイミングで植えるサイクルがちょうどいいのかもしれない。
それから少し困ったのは職場の同僚にランチに誘われた時だった。こっちとしてはあまり「自然な食べ物」以外を食べることはしたくなかったのだが、同僚の誘いを無碍に断ることもできず、ミートソースのパスタをいただいてしまった。外食がそうなのか、肉類がそうなのかわからないが、とにかくそういう食べ物って意外とにおいがきついんだな、と初めて感じたのがこの時だ。きのみ食を続けていると体臭がなくなる、と色んなサイトで言われていたが、確かにそうなのかもしれない、と実感した出来事だった。
一方ポケモン達はというと、パッチーはいつもどおり変わらないように見える。これはまぁ、そうだろうと思う。レッチーや私のついで程度にしかきのみやアースフードはあげていないし、そのアースフードにしたって、パッチーがいつも食べている小型の草食電気タイプ用ポケモンフードと内容としてはそんなに変わらないのだ。
むしろ変わってきたのはやはりレッチーの方だった。アースフードの割合を毎日少しずつ増やしていくうちに、段々とフンが堅くコロコロとした感じのものに変わってきた。臭いも少し減ったように思う。少なくとも片付けはとても楽になった。体臭については普段から一緒にいるから分からないが、おそらく減っているのではないだろうか。いつも世話をしているトレーナーとしては、これらは素直に嬉しい変化といえる。
だが、気になることもあった。トイレの時になんだか苦しそうにするようになり、時間もかかるようになったのだ。やはり肉食性のポケモンが完全植物性のフードに慣れていくのは大変なのかもしれない。それに私の方も、少し増やし方を急ぎすぎたようにも思う。今は6:4の割合でいつものフードとアースフードを混ぜているが、7:3に一度戻してみよう。
クローゼットの影で、ケッケッと咳をするようにしてレッチーが毛玉を吐いた。あの面倒くさがりが、毛づくろいも前よりはちゃんとするようになったのだろうか。良い兆候だ。
―その日も、心地よい日差しが降り注ぐ休日だった。
先日採れたベリブのジャムをつけた雑穀パンを軽いランチに齧りながら、私は二匹のポケモン、レッチーとパッチーの昼寝姿をゆったりと眺めていた。二匹とも窓辺でベランダのナナの木越しの日差しを浴びて、寄り添って寝息を立てていた。あまり仲の良くない二匹だが、寝る時だけはいつもこうして寄り添っているのは、いつ見ても不思議な気持ちになる。
それにこうしてじっくりとその姿を見ていると、10日、二週間、一ヶ月、と日が経つうちに、二匹の体が確かに変わってきたことを実感していたのだ。
まずパッチーだが、体がふっくらとして、性格が穏やかになってきた。庭で育てているきのみも、どんな味のものでも与えれば喜んで食べてくれる。お陰でゴミも出すことがなく、きのみを全部使い切ることが出来てとてもありがたい。レッチーが多少狼藉をはたらいても、怒って火花を飛ばすこともすっかりなくなった。というか、そもそもレッチーがパッチーを怒らせることをしなくなったのだ。
レッチーは7:3の割合で混ぜていたフードに体が馴染んできたようなので、また少しずつ増やして今では半分をアースフードにしている。パッチーとは逆に引き締まった体つきになり、いたずらに費やしていた時間を毛づくろいに回すようになった。今では暇さえあれば体を舐めている。それにつれて毛玉を吐くことが多くなり、それが見ていてちょっと辛そうなので、自分でもブラッシングを手伝うようにした。ブラッシングの最中大人しくしてくれているのもとても嬉しいことだが、それでもブラシが離れたとたん自分で毛づくろいを再開するのだから念が入っている。
私はといえば、職場でもオフでも「あなた、ずいぶん痩せたね〜」と言われることが多くなり、そのたびに得意げな気持ちになってしまうのは否定出来ない。それにきのみ食のサイトにも、体重が落ちるのは体の中の悪いものが出て行っている証拠だと書かれていた。これはきっと私の体が良い方に変わっていっている印に他ならない。
二匹が眠る部屋の中はとても穏やかな時間が流れていた。私はモモンのお茶を飲みながら、全てが順調に行っていることを幸せに思っていた。
レッチーが吐いたのは、その日の夜である。
廊下をウロウロしていたレッチーが背を丸め、ケッ、ケッ、と咳をするような声をあげたので、あぁ、また毛玉だな、と思った私は、室内用のホウキとチリトリを取ろうとして立ち上がった。が、どうにも様子がおかしい。顔は苦しげに歪み、全身の毛が逆立っている。私は彼のその様子にただならぬものを感じ、名前を呼んだ。
「レッチー、どうしたの…?」
返事はなかった。レッチーはこちらを見ようともしなかった。ただ苦しげに呻くと、私の見ている前で、全身を震わせて半分溶けたポケモンフードを廊下に吐き出した。こんなことは今まで無かったことだ。
「レッチー!レッチー、大丈夫?!」
私はレッチーに駆け寄り、必死にその背を撫でた。指先にゴツゴツとした背骨の感触があった。パッチーが部屋の隅から、ブランケットを抱いて心配そうな顔でこちらを見ているのが視界の隅に映った。レッチーはすべてを吐き出してもまだ足りないというように咳をしつづけている。
どうしよう、どうしよう、私は頭を必死に巡らせる。グラグラする頭のなかにはたった一つの単語しか浮かばない。私はその単語に突き動かされるように起き上がり、自室のクローゼットの一番下の引き出しを漁る。そこからチョロネコのシルエットのシールが貼られたモンスターボールを取り出すと再び廊下に走り、レッチーの隣にしゃがみ込んで囁いた。
「レッチー、すぐ治るからね、大丈夫だからね」
手の中のボールを起動すると、赤い光がレッチーを包み込み、彼の体は私の手のひらに収まった。
そして私は脱衣所のタオルを一枚引っ張りだすと、廊下の吐瀉物を乱暴に拭い、ビニール袋に押し込んだ。これも必要なものだ。
「パッチー、お留守番、お願い!」
私は部屋に向かってそう叫ぶと、モンスターボールをポケットに押し込んでアパートを飛び出した。
夜の街に煌々と光る赤と白の丸いネオン。その下に並ぶ「POKEMON CENTER」の文字列。私にはそれが救いの神に見えた。
自転車を停め、自動ドアが開く時間も惜しいくらいの勢いで施設内に飛び込むと、私は受付のジョーイさんに駆け寄った。
「すみません、うちのレパルダスが吐いて…ずっと止まらないんです、治してください、お願いします…!」
もしかすると、私は半分泣いていたかもしれない。ジョーイさんの対応があくまで冷静で、こちらを落ち着かせてくれるようなものだったのは救いだった。言われるままにモンスターボールと汚れたタオルを預け、待合室で待っていた時の時間は拷問のように長く感じられた。
やがて私の名前が呼ばれ、診察室のドアを開けた私は、レッチーが何事もなかったような顔でベッドの上で横になっているのを見てボロボロと涙を零してしまった。
「大丈夫だったんですね…よかった、本当に良かった…」
レッチーの体はもう震えておらず、咳もしていない。代わりに「にゃあん」という不思議そうな声がこちらに向かって飛んできた。
ベッドの脇にはジョーイさんとナース帽を被ったプクリンが立っていた。ジョーイさんは私にレッチーが無事であることを伝えると、難しい顔をして
「預かったタオルを調べてみたんですが…もしかしてレッチーちゃん、ラブタの実をたくさん食べたりしませんでしたか?」
と、聞いてきた。私は、はて、と考え込んだ。この間収穫したのはベリブだし、今はナナとマトマしか植えていないはずだ。ラブタの実…?
(あっ!)
私の意識にあの薄茶色の紙袋が浮かんだのはその時だった。購入時に通販サイトに書いてあったではないか。「セシナ、ラブタといった胃腸のはたらきを整える作用のあるきのみを丸ごとミックスしているので、ポケモンの体が中からキレイになります」と。
そのことを伝えるとジョーイさんは、なんとも言えない顔でため息をついた。
「ラブタの実の皮には、確かに胃腸の活動を高める作用があります。でも摂り過ぎると、かえって胃腸に過剰な負担をかけてしまうんです。そのままきのみアレルギーになってしまう子もいます。最近、自然食ブームか何かでこういう症状の子が増えてきているんですよね…レッチーちゃんも今後あんまりきのみは与えないほうがいいかもしれません」
ジョーイさんの説明は、私の頭に音としてしか入ってこなかった。何よりも、私がしてきたことがこの子に負担をかけていたというショックが頭を激しく揺り動かしていた。
「それからちょっと栄養失調も起こしてますね…栄養剤を与えておくので、普段のポケモンフードに1食につき一袋分を混ぜてあげてくださいね」
私はただもう俯いて、はい、はい、と頷くだけの人形のようになっていた。レッチーは、こんな酷いトレーナーの側で、くあぁ、と、のんきにアクビをしている。それすらも辛かった。
モンスターボールとタオルを再び貰い受け、アパートに帰って寝るまでのことはろくに覚えていない。ただ、アパートのドアを開けるなり丸々としたパッチーが無邪気にじゃれついてきてくれたのは本当に嬉しく、そして悲しかった。
あの記事が出たのは、その2,3日後のことだったと思う。