過ぎたるは
迎えてくれたアイツの母親は、今日も美しかった。
「いつもありがとうね、サンマくん」
大学二年になった俺を、彼女はいまだに小学四年生の時のあだ名で呼ぶ。
俺の名字のミマ、「ミ」は「三」で「サン」とも読むからサンマ。
そんなあだ名を思いついた奴は、奇人だらけの学校を渡り歩いてきた一〇年の間でも一人しかいない。
「今日は体調よさそうですか?アジ…コウスケの奴」
「今朝は水飲みにこっちまで出てきたからいい方じゃないかしら。
その時に『サンマくんが来るかも』って言ったら『そうか』って言ったから、部屋で待ってるわよ。たぶん。」
無地のエプロン姿の友人の母親の後ろを着いていって、目をつぶってでもたどり着けるリビングへ
通される。シンプルな部屋は何度見ても生活感が薄いなあと思っているけど、実質は一人しか
使っていないならこんなものなのだろうか。
小雨に濡れてしまったショルダーバッグを、それとなく気を使いながら窓際に降ろす。
腰からボールホルダーを外す。ライダージャケットを脱ぎ、ホルダーの上にかける。
ラグラージカラーのメガネを黒縁の無骨なヤツに掛けなおす。
液晶テレビの黒画面で何となく全身チェックをして、ホウエン土産のストラップのついたキーカバーを
ジーパンから外し忘れていたことに気づく。外す。
キーカバーの置き所を迷っていると、目の前に緑色のマグカップが出された。中には紅茶。
「あ、ありがとうございます」
「今、コウスケに声かけてくるわね」
すっ、と席を立って廊下に消えていく。ベージュのソファーに腰かけて、少し冷えた体をありがたく
紅茶で温めさせてもらう。今日はモモン風味だった。
マグが置かれたガラスのカップボード(って言うんだろうか。ソファーの前にある低いテーブルだ)には、
小学校の卒業式の時のオレ達の写真が挟まっている。
「卒業式」の看板の右側で人差し指を額に当てたポーズをとるオレ。左側で捻ったジャンプをするアジ。
何十回と見ている写真だ。
普通思い出の写真っていうのは、たまに見るものだからこそ「思い出が蘇る」んじゃないのか?と
思っているオレだったが、ここ最近で考えが変わってきた。
人は目に見えないものの存在ははすぐ忘れてしまう。だから本当に忘れたくないものは、
いつでも目に入る場所に置く。
本当に忘れたくないものとは何か。
たとえばそれは旧友との楽しい日々。たとえばそれは大切な仲間の入ったモンスターボール。
亡くなった人の顔。デートの約束。
部屋から出てこない息子の存在。
アジの母親が戻ってくる。
「部屋片付いたから入ってもオッケーだって」
「あ、じゃあ行きますね」
少し、申し訳なさそうな顔の彼女の脇を通って、廊下への扉を開ける。
アジの部屋の前で立ち止まると、いつも臭いはないが臭気のようなものを感じる。
何かで汚れている、穢れている、あの感じだ。こんなことは口が裂けても言えないけれど。
部屋の外に出て食事身支度風呂を自発的にやるだけ、アジはまだ良い引きこもりだ。
それなのに臭気を感じてしまうのは、引きこもりに抱いてる固定観念ゆえなんだろうか。それとも…。
「サンマ、いるんだろ?はよ来いよ」
部屋から声がする。
「おう、入るぞ」
オレはドアノブを握り、捻る。その時、長Tの黒い袖口に、黒い刺繍糸でモンスターボールのマークが
ついていることに気づいた。
心拍数が上がる。
ドアを開けると、ベッドに片膝立てたアジが腰かけていた。
「よっ、久し…」
袖口に目を落とした瞬間、悲鳴を上げてアジは飛び上がる。オレは急いで袖を肘までたくし上げた。
「馬鹿野郎ッ!」
瞳孔を開いたまま、息を荒げてアジは言う。
「お前じゃなかったら椅子ブン投げてたぞサンマ!!」
「ホント悪い。同じ色だし、今日初めて気づいた。…すまねえ」
壁に張り付いて肩で息をする親友に申し訳なさを感じる一方で、自分でも数か月間気づかなかった、
小さなボールの刺繍にすら反応する反射神経に、少し呆れに近いものも感じる。
…引きこもりの定石通り、部屋は薄暗いのに、だ。
アジイ・コウスケ。通称アジ。いわゆる電子携帯獣恐怖症(ポケフォビア)の重症患者だ。オレの旧友は。
(つづく)