『みんなー! きょうは、ぬめりんのライブに来てくれて、ありがと〜!! 頑張って歌うから、みんなも、頑張って聞いてね!』
「ぬめりんー! 今日もかわいいよおー!!」
「最ッ高に愛してるぅー!!」
ライブハウスなどと言うのもおこがましいであろう、古びたビルの一角にある会議室の電気を消しただけの会場。ステージなんてものは当然無いから木箱を積み上げた足跡の台座で、スポットライトは持ち運び可能な簡易照明にすぎない。両手で数えても平気でお釣りが出る程の観客が振る、各色のサイリウムに照らされて、片付け忘れたらしいホワイトボードが時折見え隠れしていた。
このような場所でライブをやるということは、それ即ち彼女の人気が測り知れるということだ。ドームを埋める者も、チケットの倍率を100にも200にもする者もいる中で、彼女のイベントはこの会議室ですら広すぎるように思えるのだから。
それでも、僕たちは彼女の元に集っている。彼女のために声を張り上げ、彼女のためにサイリウムを振り、彼女のために汗を飛ばす。彼女の輝きは太陽にも優り、彼女の歌声は福音すら超越し、彼女の笑顔はこの世の何にも代えがたい。
だから、僕たちは彼女という偶像を愛するのだ。
「世界で一番素敵だよ、ぬめりん!!」
長い角と大きい尻尾、潤う柔らかな腹を持つ、紫の竜の『アイドル』を。
◆
ポケモンの臓器や身体器官を人間に移植する技術が発達して、早数年。
人権問題だの何だのがうるさかった時期もあったが、「あくまで医療目的」かつ「本人の意思に基づく」という条件が厳格に敷かれたことによって、今ではある程度落ち着いてきたように思う。人間同士の場合と同じように、合う合わないの個人差があったりとまだ課題は多いが、1つの手段として存在しているのは確かだろう。
そこで、次に上がってきたのは逆の話だった。
ポケモンに、人間の身体の一部を移植出来ないか。
それが次なる研究対象だった。
結論から言うと、その目論見は成功した。
勿論、全てのポケモンの全ての部位が、などというわけには到底及ばないがそれでも確かに、ルージュラと人間の網膜交換が上手くいった日を境に、ポケモンは人間の一部を獲得したのだ。
とりわけ、研究者たちが熱を入れたのは声帯の移植だった。ポケモンには種族差こそあるものの、その概ねが非常に高い知能及び言語能力を持っていて、そして彼らのいずれもが人間の言葉を理解し、それに応えることが出来る。そんなポケモンたちと会話をするにはどうしたら良いか。その答えが、人間が人間の理解出来る言葉を発するためにある器官、人間の声帯を与えることだったのだ。
そちらの成功は、まずまずといったところだろうか。サーナイトやルージュラ、ごちるぜるやカイリキーなど、身体構造が人間に近く頭脳も優秀なポケモンたちは、人間の声帯を得ることで人間の言葉を操ることが可能になった。当然、言語トレーニングや訓練などは積むことになるのだが、それらを乗り越えたポケモンの中には人間と何ら変わらないほどよ言語力を身につけた者もいた。
が、それが出来るのは平均以上の知力と声帯への適応がなされる一部のポケモンだけに限った話であったし、何よりそれ以上に、そうすることでのメリットがいまひとつ不明瞭であった。確かにすごい発見ではあるし、技術や科学史の面から見ても大躍進なことに間違いは無いが、「だからなんだ」の話なのだ。
よく考えてみれば、人間はポケモンとのコミュニケーションにおいてそこまで困っていないだろう。ポケモンとトレーナーは自ずから心を通じ合わせられるのだから、今更言葉など必要無いというものだし、反対に言葉があったところで、真にポケモンとやりとり出来るとは限らない。人間同士がそうであるように、それは言葉を持ったポケモンと人間の間でも同じである。
所詮、この研究は科学者たちの好奇心にすぎなかったのだ。
そうして、人間の声帯と言葉を与えられたポケモンは結局のところ、一時の話題性をかっさらっただけで研究の終わりは見られたのだがしかし、きっと誰もが予想していなかったであろう、一部の領域において過剰なまでの注目を集めたことも付け加えなければならない。
それの始まりはおそらくホウエンで始まったポケモンコンテスト、ひいてはコンテストライブなのだろう。いつだったか、出場者の1人がピカチュウに服を着せてかわいさ部門のコンテストに出たのだが、そのピカチュウがかなりの脚光を浴びたのだ。キラキラしたピンク色のワンピースにフリルやアクセサリー、リボンをふんだんに使った衣装に身を包んだ『アイドルピカチュウ』がトレーナーと共に踊り、歌う様子は瞬く間に広がって評判となった。
そうして生まれたのが、ポケモンに歌を歌わせるという文化であり、それはやがて人間の歌、人間の言葉で紡がれる歌を歌わせたい、という欲求へと繋がったのだ。
人間の、僕たちにわかる言葉で歌うポケモン。漫画やアニメの中では何度も描かれてきたその夢は、思わぬ形で実現した。頭の良いポケモンならば、握手会や手渡し会のファンサービスだって、インタビューの受け答えやバラエティ番組の出演だって難なくこなすことが出来る。向こうは元よりこちらの言葉をわかっていたのだから、後はこちら側、人間が彼らの言葉を理解するだけだったのだ。アイドルとして活動しだしたポケモンは、瞬く間に人気の絶頂を手に入れた。人間顔負けの、人間と何ら変わらない、そんなやり方が彼らには可能だった。
しかし、その、何ら変わらないというのが悪かったのかもしれない。確かにアイドルのポケモンたちは社会現象と呼ばれるまでに一世を風靡したけれど、結局のところは一世に過ぎなかったのだ。話題性さえ失えば、残されるのは個人の好み。人間のアイドルが好きな人だって当然いるわけだし、あえてポケモンを推す意味も無い。ポケモンだから、という理由だけで応援される時代は光の速さで終わってしまった。
そして、今。人間もポケモンも、アイドルとして生きる者たちを取り囲む現実は昔と何も変わっていない。人間にしろポケモンにしろ、絶大な人気を誇るアイドルは当然いる。しかしその一方で、広大な花畑に咲く一輪の花のように、誰の目にも留まらないアイドルだって数え切れないほどいるのだ。どのアイドルがトップスターになるか、誰にだってわからない。抜群に可愛ければ必ず売れるというわけでもないし、これといった特徴が無くとも時代の波に乗れたなら、信じられないくらいの人気を手にすることも出来る。
無数の星が輝く空で、誰が一等星になれるのか。そんなこと、誰一人として予想のつくはずもないのだ。
彼女は世間一般から見るならば、その星空に輝いている、五等星のような存在だった。ぬめるん、ヌメルゴンのアイドルは、ポケモンアイドルブームの絶世期に出てきた一アイドルである。しかしその頃にはすでに沢山のアイドルがいて、彼女だけが特別注目を集めるということもなかった。そのままブームも収束し、ほとんど誰の視線も惹かないままに、ポケモンであるという武器を彼女は失ったのだ。
ヌメルゴンという、大衆受けするような可愛さを持っているわけではない、かと言って意外性という冠詞がつくほどステレオタイプなイメージから掛け離れているわけでもない見た目。加えて彼女の種族は知力がそこまで高くなく、歌やダンスを覚えて簡単な受け答えをするだけで精一杯というレベルだ。人間に対して懐きやすいという理由で選ばれたのだろうけれど、アイドル界の戦線で勝ち抜くにあたって、彼女は決して恵まれた境遇と言えなかった。
しかし、それでも。
彼女は僕の一等星なのだ。都会の明るい夜空にあって、誰もが見落とすような薄い輝きしか放っていなかったとしても、僕は彼女の光を見失わないと確信する。彼女だけが僕にとっての輝きで、僕の中での眩い光なのだ。そのまぶしさは太陽にも月にも、どんなに強い一等星にだって負けやしない。
彼女という一等星を、僕はいつだって見上げていたかった。
◆
「本日はお足元の悪い中ありがとうございましたー」
スタッフの声を背中に、イベントを終えた会場から外へ出る。老朽化を感じさせる非常階段を下っていく僕たちに、どんよりと曇った空から降ってくる雨が容赦無くぶつかった。
今日はお疲れ様でした、お疲れ様ですまた次のイベントで。もはや馴染みの顔になってしまったファン仲間と言い合って、それぞれの目指す駅へと向かう。骨が2本ほど折れかかった安物のビニール傘を差して雨空の下へと歩き出すと、蒸し暑い湿気と生温い雨粒が同時に感じられて嫌な汗をかいた。季節は梅雨、ぬめりんにとっては1年で最も素敵な時期なのかもしれないが、さて、どうなのだろう。
雨が傘を叩く音と、車の走る音。それらに霞む通りすがりの人たちの話し声だけを捉える耳にイヤホンを差し込んだ。流れてくるのは彼女の声、何度聞き返したのかなんてわかるはずもないぬめりんの歌だ。シングルを何枚か出しているのだけれども、ぬめりんの持ち曲はなかなか増えない。イベントで歌われるのはいつだって同じ、僕たちの大好きな歌である。
駅に着いたらまずすべきこと。ぬめりんのオフィシャルサイトにアクセスして、掲示板に今日の感想を書き込む。何件も投稿したところで来客数から考えて無駄な努力にすぎないので、出来るだけ長く書く。家に帰ったら、パソコンをつけて「今日は行けなくて残念です! 次は絶対にぬめりんに会いたい!」というメッセージを、投稿。
『ぬるぬるねばねばキュートな粘液♪ あなたを包んで逃がさないの♪』
イヤホンから流れてくる彼女の歌。不用意に通った軒下から零れ落ちた水の音が、何秒間かそれを掻き消した。
◆
「お前、毎朝早いよなぁ」
翌日。朝8時半、会社でパソコンに向かう僕に出社してきた同僚が鞄を下ろしながら声をかけてきた。
「まぁ、家近いし」
「そういう問題か? 近いなら近いだけ遅く来たいもんじゃねーの、少なくとも俺はそう」
「んー、でも冷房効いてるし。家と違って」
それはそうだな、同僚は通勤途中にかいた汗を拭って言う。彼の同意した僕の言葉は嘘では無いけれど、かと言ってそれが一番の理由というわけでもない。
僕が出社するのは基本、毎朝7時45分頃。ここに入れるのが7時半だから、結構な確率で一番乗りである。何故そんなことをするのかというと決して仕事熱心なわけでも社畜精神なわけでも特別仕事が溜まっているからでもなく、先程言ったような理由を含む、会社の環境目当てだった。
僕の家には冷暖房設備が無い。いや、あることにはあるのだけれど動かしていないのだ。僕は電気代や水道代を出来るだけゼロにしたいと思って生活しているのだから、エアコンをつけるだなんて以ての外である。うっかりバチュルが入り込んだりしないよう、コンセントは基本ガムテープで覆っているくらいなのだ。
そして僕は、ネット回線も引いていない。僕の家にはWi-Fiも通っていない。月々の使用料が勿体無いからやめてしまったのだ、一応携帯は契約しているからネットを使いたい時はそれか、公共のWi-Fiが使える場所に行くか。
或いは、こうして始業前や終業後に、会社のパソコンを使うか、というわけだ。
「おはよう、今日も暑いな」
「あ、おはようございます。ホント暑いですよねー、課長」
「おはようございます」
「まったく、クールビズだなんだか知らんが、やらないよりはマシだが暑いものは暑い……お、お前ちょっとやつれてないか? 夏バテか?」
同僚と同じように汗を拭う課長が僕の方を見て言った。まぁそんなところです、と適当にごまかした僕に「最近どんどん痩せてねぇか?」と同僚が首を捻る。曖昧な笑みを返して、話題を変えるために適当な進捗状況を課長へ伝える。
やつれる、痩せる、そう見られるのも当然だろう。削るのは電気代や水道代だけではない、生活費全般を少なくするのだから食費だってその一環だ。恐らくあまりよろしくない方向性の節約術サイトで見つけたレシピ、小麦に水を混ぜて膨らませたものと、本来の4倍それも水で薄めたフルーチェ、そして偶のナナが今の僕の食事である。コスパ的にはモヤシも狙い目なのだろうが、しかし加熱時のガス代を考慮して却下した。
勿論栄養失調まっしぐらなのだけれど、何とかなっているのが驚きである。サボネアは体内に貯めた水分で30日は生き延びるらしい。僕も見習おうと思う。
「あれか、またメシ代ケチってアレに回してるのか? 最近ゲームも全然だし、いくらつぎ込んだんだって」
「お前だって課金しまくってた時あるじゃん。あの時電気も何もかも止められてたし、それと同じだって、同じ」
「それはそうだけど。ほどほどにしとけよ」
ゲーム趣味で仲良くなった同僚は、そんなことを言い残してトイレへと行ってしまった。ほどほどに、どれくらいが『ほどほど』なのか僕にはわからない。
削った諸費がどこに行くのか、それは言うまでもなく彼女のために使われる。数少ないグッズは1人で少なくとも2桁購入しないと採算合わないだろうし、CDが出れば売上貢献プラス店への『売れてるアーティストです』アピールのために出来る限り買う。有料ファンクラブはメールアドレス5つ全て入会済みだ。
それだけじゃない。ポケモンアイドルの特徴として、人間に比べていわゆる『維持費』がかからないという点がある。それは食費や、アイドルとしての容姿を保つための費用だけの話でなく、アイドルの精神面や体裁といったもののためにかかるお金もだ。絶対とは言い切れないまでも、アイドル生命に関わる炎上を引き起こす可能性は、人間と比較すればポケモンアイドルの方が圧倒的に低い。それを揉み消すための費用も、また防止するための費用も、ポケモンアイドルにはあまり必要の無いものなのだ。
しかし、とはいえ、ぬめりんを支えている事務所の人たちにだって少しの労いはあって然るべきだろう。だから僕がイベントの際にする差し入れは当選ぬめりん宛であるきのみやポフレ、アクセサリーなどもあったがそれに加え、事務所のスタッフに宛てたものもあった。それは、これからも彼女を輝かせて欲しいという願いの意もあったし、また『これだけ応援してる奴がいるんだからまだ見限らないでくれよな』というような念押しでもある。
もはやいつからこうなのかすらも忘れた、へこんだ腹が空腹を訴えたけれども無視を決める。
確かに、ぬめりんはいつぞアイドル生命を切られてもおかしくない。人気は低空飛行だし、ファンの数もほとんど変化が無いのだから。
だけど、まだ終わらせてもらっては困るのだ。ぬめりんは、もっともっと上のステージへ行けるだろうし、行くべきだし、行く運命なのだから。
眩しく輝く僕のアイドルは、まだまだ先に進まなくてはならない。そんなことを考えつつ、彼女のために今日も、僕は仕事に取り組み始める。
◆
今日はぬめりんのニューシングル『NuMeNuMe☆ラブコール』のリリースイベントである。一般流通経路だと発売日は明日なのだけれど、イベントに足を運べばフラゲ、それもぬめりんから手渡しで購入出来るとのことだった。
当然行くわけだが、しかし相変わらず来場者数は少ない。平日夜ということもあるのだろうけれど、あと15分でイベント開始なのにも関わらず、会場に集まっているのは僕を含め僅か5人足らず。珍しく定時で上がった会社からここに来るまでに目にした、夜と共に姿を現し始めるホーホーたちの数の方がよっぽど多いであろう。
その癖どういう風の吹きまわしか、普段は会議室などを借りて行ってるのに何故か今日のイベント会場は、それなりにちゃんとしたライブハウスであった。もっとも、メジャーアイドルなどが使うような所に比べればだいぶ狭いのだけれど、しかし今までの彼女のイベントを思い返すと段違いだ。ちゃんとステージやスポットライトがあって、客の入るスペースも広い。当然ホワイトボードの出しっぱなしがあるはずもない。アイドルが使うイベント会場として、少しの遜色も見当たらなかった。
だけど、どれだけ会場が立派だったところでこの客数である。場所の良さと盛り上がりは比例しないし、むしろ広くなった分どこか寂しさを感じざるを得ない。どうしてこんな場所にしたのか、なんて簡単に予想がつく。最近、ぬめりんのプロデューサーだかマネージャーだかは頑張っているらしく、ツイッターでぬめりんのアカウントを取得したり、LINE@を始めたりと広報活動に力を入れていた。ぬめりんの写真をアップしたりもしているため、それなりにリツイートされ、フォロワーや友達登録も増えている。だから思ったのだろう、少しは知名度が上がって新たなファンも生まれたに違いない、と。
しかしあくまでそのほとんどは、ぬめりんでなく『よく知らないけどかわいいヌメルゴン』に対する反応だ。だからぬめりんのファンが増える可能性はほとんどゼロに近い。その結果が今日の様子であり、いつもと寸分違わぬ会場風景である。
『みんなー、今日もぬめりんのイベントに来てくれて、ありがとうー!!』
結局客がそれ以上増えることもなく、会場が暗くなってイベントは始まる。ステージに浮かぶシルエット、今日はCD販売の前にぬめりんミニライブがあるのだ。かかるイントロは新譜からの新曲、オフィシャルサイトにアップされていた視聴とPVで僕たちも予習済みである。常に百均で買い置きしてある、ぬめりんのイメージカラーたる紫色のサイリウムを装備してコールを開始した。
『私が送る好きの気持ちは♪ いつでもぬめっとまとわりついちゃう♪』
スポットライトが点灯し、CDジャケットと同じ衣装に身を包んだぬめりんの姿が照らし出される。僕たちからぬめりんが見えるようになったということは即ち、ぬめりんからも僕たちが見えるということである。
人懐っこい笑顔をいっぱいに湛えて歌い、踊り、時には手を振ったりウィンクを決めたりしている彼女は、何を思っているのだろう。ぬめりんは今まで一度だって笑顔を絶やしたことは無い、それはアイドルとしては当たり前のことでどれだけ悲しかったり辛かったりしても涙をこらえて笑ってみせるのが当然なのかもしれないが、彼女のそれは他のアイドルがするような、無理をしてでも前を向くための笑顔では無い。ただ本心から幸せそうな、ステージに立つことを心から嬉しく思っているような、そんな、少しの翳りも曇りもない笑顔なのだ。
今もそうだ。彼女から、フロアの様子は間違い無く見えているはずなのに、点在ということも出来ない僕たちの姿は見えているはずなのに、彼女は少しも傷つく素振りも見せない。ただいつものように、満面の笑みを湛えているのだ。
「ぬめりん、愛してるよー!!」
「新曲、マジ最高ー! 大好き!!」
『ありがとー!! ぬめりん嬉しいよー!!』
それは単に、ぬめりんがポケモンだから、ヌメルゴンだからという言葉で片付けるべきなのだろう。人間ほどの、或いはサーナイトなど知能の高いポケモンほどの機微や感性というものが無いから、という理由で説明をつけるべきなのだろう。幾度と無く辿り着いた結論をまた繰り返す。
この状況に、実際泣きたいのは彼女のプロデューサーたちであろう。癖のある、たどたどしい声でカップリング曲の説明をするぬめりんの姿は今日も眩しく輝いていた。
◆
その日、僕は久々につけたテレビに向かっていた。
それにしてもテレビを見るだなんて、いつ以来であろうか。元々それほど見る方では無かったし、電気代を削り始めてからはとんとつけていなかった。にも関わらず、僕がこうして真っ暗な部屋でテレビのスイッチを入れたのは言うまでも無くぬめりんのためである。
テレビに映る番組は、ポケモンアイドル大特集と銘打つタイトルの通り、スタジオには現在アイドルとして活動しているポケモンたちが多く集まっている。世間的にも人気な子から、ぬめりんのようなアイドルまで。恐らく事務所所属のアイドルはほぼ全員いるのではないだろうか。
司会を務める、人間の男性タレントの隣で彼と共に進行役を担ったトップアイドル、サーナイトのサナ様の微笑みがカメラに大写しになる。会場にいる観客が歓声をあげるが、サナ様の後ろには数々のポケモンアイドルたちがひしめき合っているのだ。前列に配置された人気アイドルはともかく、ぬめりんの姿はほとんど見えない。先ほどCM前に一瞬だけ映ったからいるのは確かなのだけれども、かなり後ろにいる彼女は2秒としてカメラに収まらないし、映ったところでピントは当然合わされていないのだ。もっともそれはぬめりんに限った話でなく、彼女と同じく後列にいるアイドルだって似たようなものである。
イルミーゼ、スリープ、モグリュー……。名前も知らない、初めて見たようなアイドルたちは司会者に話を振られることもなく、ただ自分に割り当てられた場所にいるだけだ。僕のような、彼女たちのファンは今何を思っているのだろうか。傍に開いたノートパソコンに表示してあるのはネットの大手掲示板、生放送であるこの番組の実況スレだ。
人気アイドルたちの登場に湧くレスに混じって、もっと誰を映せだとか、誰に話を振れだとか、そういった発言も流れてくる。
「いや、ホント面白すぎでしょ! それでアイドルとか、意外性ありすぎだから!!」
それだけじゃない。
爆笑している司会者にいじられているのはドグロッグのぐーやんで、確かに彼女はイロモノアイドルとして注目を浴びている。「そんなこと言わないでほしいドグ〜」とお馴染みの語尾をつけて返したぐーやんに、司会者やサナ様や、スタジオの観客たちはまた笑った。
僕にとっては何度も繰り返されている、いつものやり取りでしか無いが、彼女を本気で応援しているファンの中にはこういった、無責任な貶め愛を良しとしない人もいる。現に実況スレでも沢山生える草の中に、司会者のタレントへの呪詛や怒りが書かれているのだから。
アイドルとしての存在を貶められるか。あるいは、それすらも無く、認識されているのかどうかも危ういような扱いをされるのか。
広く人気なアイドルたちが、それ相応の待遇を受ける一方で、先の見えない道を歩き続けるしかないアイドルもいる。それでも歩き続けている彼女たちを応援するのが僕たちの役目だし、望みなのだけれども、しかし、高いところへ行ってほしいと願うのも当然のことでは無いだろうか。
ぬめりんの映る気配もない、未だ笑われているぐーやんと、人気アイドルたちの画面を見て息を吐く。
不意に、司会者の表情が消えた。
彼はその顔のまま視線を天井の方へと上げ、何も言わずに数瞬、右手に構えたマイクの位置も何一つ動かさずに静止していた。
ぬめりんが、サナ様が、ぐーやんが、他のポケモンアイドルたちが、出演者と客の全員が、僅かに遅れて彼と同じ方を向いた。
途端、である。
大きく揺れ動いたカメラが写す乱れた映像と、轟音と悲鳴に割れたマイクの音、そして鳴り響く警報機が全てをつんざいた。
後でわかったことであったが、事件の原因はゴチルゼルのアイドル、ごちみ〜の過激なファンによる襲撃だったという。正確にはファン自身でなく、そのファンが雇ったバトル屋が腕に覚えのあるポケモンを何匹も連れてスタジオに突っ込んだのだが。
以前から危険因子としてごちみ〜の所属事務所や各イベント会場、ファンの間でもマークされていたそのファンは、度が過ぎた熱狂を以てごちみ〜を偏愛していた。今回の件もその延長線上で、ごちみ〜のライバル的存在であるサナ様が司会ポジション、つまりはポケモンアイドルのトップのように扱われたことに腹を立てて引き起こしたらしい。企画や番組が忌々しいから壊してやろう、という魂胆だ。
そうして説明されると何とも嘆かわしい事件だけど、その瞬間はそれどころではなかった。バトル屋が操るブーピッグやレントラー、フラージェスなどのポケモン達の襲来にスタジオのセットは崩れ落ち、その場にいた誰もがパニックに陥った。
怒号が飛び交い、人もポケモンもいっしょくたになって逃げまどう。しかし閉鎖された空間、かつお互いが冷静とかけ離れた状況にあるため、まともな避難をしているものは誰もいない。強力な技が容赦無く放たれ、様々な種類の悲鳴が放映を切ることすら忘れていると思しきスピーカー越しに聞こえてきた。
その動揺は視聴者も同様だ。テレビを前にした僕は少しも動けず呆然とすることしか出来なかったし、パソコンに映し出されたままの実況板にも混乱のレスが次々とついては流れていく。
状況は絶望的だった。それもそのはず、今あの場に、バトル屋のポケモンに対抗出来る者は存在しないのだ。人間は当然、また番組スタッフや客の中にバトル屋と相対出来る実力派がいる確率も低い。
そして、戦えないのはポケモンアイドルとて同じだ。ぬめりんもサナ様もごちみ〜も、彼女たちのように強いとされている種族は多くいる。だけど彼女たちは戦えない。彼女たちにはリミッターがかけられていて、イベント時やファンサービスの際に万が一にも事故が起こるのを防ぐため、技を出せないように仕込まれているのだ。
誰も、この惨劇を止められない。阿鼻叫喚のスタジオは、もはやどうすることも出来ないように感じられた。
その、はずだった。
逃げ回るだけで誰も戦えないはずの惨状に、立ち塞がった影があった。
そしてその影は、僕のアイドルの姿をしていた。
ぬめりん、ヌメルゴンは、他のアイドルポケモンに比べ、人間とは違う思考回路の持ち主だ。つまりどちらかといえば本能的に動く、深く何かを考えるのではなく自分の習性に基づいて行動するポケモンである。
その種族性ゆえ、かけられたはずのリミッターが今ひとつ効いていなかったこと、そして彼女の習性が『人間好き』であったことが幸いした、というのが結果論。今、あの場で彼女の味方である人間たちを守るため、リミッターの効力が失われていた彼女はバトル屋のポケモンに臆することなく立ち向かった。レントラーの放電に壊れたスプリンクラーの水を浴び、あの歌声と同じ声で咆哮を上げる彼女に、バトル屋も彼のポケモンも、そして他のアイドルやスタッフ、観客たちでさえも驚いたように動きを止めた。
ぬめりんのツノが恐ろしいほどの速さで伸びて、フラージェスを床に叩きつける。それを皮切りにして、呆けていたバトル屋とポケモンたちが反撃に出る。しかし彼女は怯む様子を微塵も見せず、緑の眼を光らせて相対した。紫の鱗はどれだけ技を受けても剥がれずに、むしろ帯びた滑りで相手を翻弄する。
自分の味方たる人間を守る、バトルで、自慢の技を駆使して闘う。ぬめりんの、ポケモンとしての本能は、彼女の全身に力を漲らせていた。
それか、あるいは。
紛れもない、アイドルとしての大切なステージを守る、彼女の表れであるのかもしれない。
ぬめりんの放ったりゅうのはどうがバトル屋もろとも戦犯たちを撃ち抜いたところで、生放送はプツンと中断された。ようやく、スタッフが正気を取り戻したらしい。
テレビが緊急事態を伝えるアナウンサーの画面に切り替わっても尚、掲示板は動揺の嵐が吹き荒れている。きっと同じ番組を見ていたに違いない、ぬめりんファンの知人からかかってきた電話に出ることも出来ず、僕はただ、テレビの前に座っていた。
◆
そして、ぬめりんはトップアイドルになった。
多くの人間やポケモンを救った、強くて優しいアイドルとして、彼女の人気は大きく飛躍したのだ。瞬く間にファンは増え、彼女のことを知らない人の方が少数派になった。テレビの出演も次々に決まり、誰か別のアイドルのバックダンサーなどではない、メインでの登場が主になった。コンテンツがほとんど無く、簡素を極めていたオフィシャルサイトは豪華になった。ファンクラブも出来た。Tシャツやサイリウムなどのファンアイテムも売り出された。CDアルバムのリリースが決まれば何かの主題歌にそれが選ばれたし、写真集の出版も決まり、雑誌の表紙を彼女が飾ることも多くなった。
彼女は、大勢の一等星になった。
そして今日、彼女のアルバムリリースを記念したライブが開かれている。いつかの会議室など比べ物にならない、カントーでも指折りの規模に入る大きなコンサートドームだ。しかしそれでも収まらないほどに増えた彼女のファンは、ぎゅうぎゅう詰めになりながらも彼女のために集っている。彼女という輝きを少しでもその目に焼き付けようと、彼女の方を見て叫んでいる。
「ぬめりん、愛してるよー!!」
「最高だよぬめりんー!!」
いつも通りの、しかしかつてとは違う声に聞こえる言葉が会場のあちこちで響く。昔からのファン仲間は、今この場にいるのだろうか。どちらにしても確かめる術など無い、広大な会場は見渡すことが精一杯で、一人一人の顔など見えるはずも無かった。
『みんな、今日は、ぬめりんのために集まってくれて、本当に、ありがとう!!』
拙い言葉は何も変わらないけれど、今ではそれすらも彼女の人気に一役買っていた。純朴で素直、そんな印象を与える彼女はその言葉遣いのままにまっすぐな立ち姿で、大きなステージの中央でスポットライトをあびている。聴いてください、新曲です、舌ったらず気味の声で言われたセリフと共に流れ出すのはアルバムの一曲目を飾る歌で、同時に恐らくこのライブの最後の曲だった。会場が熱気に包まれ、最高潮の盛り上がりを見せる。
その最前線、ステージに一番近い場所。そこで僕も叫んでいる。彼女を崇拝する者として、彼女を愛する者として。振り上げすぎて麻痺してきた腕をそれでも天高く突き上げながら、枯れた喉で彼女の名前を呼び続ける。僕たちの一等星、僕たちのトップアイドルの名前を声の限りに叫ぶのだ。
大勢のコールを受け、曲が進んでいく。一番が終わり、二番のBメロが終わり、そしてCメロも過ぎる。そこでステージの前方へと彼女が進み出した。轟音とも言える歓声の中、誰もが彼女の方を見ている。それを彼女もぐるりと見回す。
そして、最後に、僕たちの視線はぶつかった。
こうして、目が合ったのはもう十何年も前の話だ。
僕の父は転勤族で、小学生の頃から何度も何度も引っ越しと転校を繰り返していた。仲良くなってもすぐに別れなくてはいけない日々に、やがて僕も友達を作ることが悲しいことのように感じられるようになって、小学校高学年に上がるあたりではなかなか友人が出来ない子どもになってしまっていた。
彼女と話したのは、それが理由だったと思う。当時の学校に転校して間もない日に行われた体育の時間、二人組を作りなさいと言われてクラスの皆が騒がしく動く中、これといって仲の良い友達も、まともに話したことのある人もいない僕はどうしたものかと立ち尽くしていた。そこで先生が連れてきたのが同じく一人でいたクラスの女子で、要するに余りもの同士で組まされたということだろう。
後からわかったのだけれど、その女子はクラス、いや、学校全体からも孤立していた。汚らしいとか臭いとかお風呂に入っていないらしいとか、そういった理由で周りから明らかに避けられていたのだ。聞いた話だと、彼女は片親の家庭で育児放棄されていたようだが、ネグレクトという言葉も一般的でない時代の上にそんなことが子どもにわかるはずもない。まともな生活を送れていない彼女を、他の生徒は受け入れなかった。
しかし当時の僕がそれを知る由も無い。言われるままに組まされたその女子に対して、笑わない奴だなあとか全然喋らないなあとか、自分を棚に上げてそういったことを考えていた。他のクラスメイトたちは楽しそうにお喋りしていたけれども僕たちには特段会話もなく、適当にサッカーのパスだかボールの投げ合いだかをやっていたのだが、不意に彼女が口を開いた。
「あのさ、将来の夢とか、ある?」
あまりに唐突な問いに、僕はすぐ答えることが出来なかった。どうしてこのタイミングで、しかも僕に、彼女がこんなことを聞くのが全くわからなかったのだ。
動揺と、何の考えも浮かばなかったとので、僕は「特に無い」などと返事をしたと思う。彼女はそれに対して、ふうん、とつまらなそうな声を出した。そこで僕は聞いたのだ、それなら自分はどうなのかと。何か夢があるのか、と。
そして、彼女は答えたのだ。
「私は、アイドルになりたい」
今思えば、いや当時でも、彼女はその夢からかけ離れた存在だった。どこをとっても、彼女がアイドルに相応しいと思えるところなどありもしなかった。絶対無理だと、叶うはずないと、笑い飛ばされても仕方ないようなものだった。
しかし、その時、僕は確かに、彼女が輝いて見えたのだ。
「おっきな会場に、いっぱいお客さん集めて。みんなに私の歌を聴いてもらうんだ。みんなを幸せにできる、みんなに大好きって言ってもらえる、世界で一番素敵なアイドルになるの」
僕をまっすぐ見て、夢を語った彼女の瞳を僕は一生忘れることが出来ないだろう。
その時の彼女は、何よりも眩い存在だった。その夢が叶うようにと、何より近くでそれを見ていたいと、そう願わずにはいられなかった。
大きく、丸い、澄んだ緑色の瞳。僕に向けられたそれは、あの時見つめた彼女の目とは似ても似つかない。
そのはずなのに、それは確かに彼女のものだった。あの時と同じ、少しの迷いも揺るぎもない、何もかもを信じて前だけを見据える瞳だった。
歓声はいよいよ膨らみ上がる。ラスサビに向けて間奏が加速する。
彼女の名前を大勢の人が呼び、彼女の存在を幾人もが讃え、彼女という偶像をここにいる全ての者が崇め奉る。
ステージの縁まで駆け寄った彼女が、紫色の腕を伸ばしてきた。
途端に沸き立つ会場は、彼女に少しでも触れようとする人々の作る波によって混乱の渦が巻き起こされる。それに押されるようにして、僕の腕が高く挙がった。彼女の、腕が、こちらに伸びる。
時間に換算するなら、一秒にすら満たないほどの刹那だろう。
しかし、僕は彼女と、見開いた眼を潤ませた彼女と、確かに見つめ合っていた。
人間の器官をポケモンに移植する研究課程で、使う器官を死後に提供していたのはトレーナー協会に属する旅トレーナーか、或いは遺族の了承が得られた人間だった。
偶然にも大学で再会した、あの女子がいた学校の同級生の話によると、女子が高校二年生の時に下校中、野生のアーボックに襲われて事故死した。
移植実験が繰り返されていた時期と、僕が高校二年生であった時期は、重なっていた。
もし、その両者が関係していたら。
もし、彼女の母親による育児放棄が改善されることなく継続していて、彼女の死すら興味を持ち合わせないことであったら。
もし、身体器官の提供に拒否することなく応じていたのなら。
もし、その中に声帯も含まれていたのなら。
もし、記憶にこびりついた女子の声と、ネットサーフィンのさなかに偶然目にしたプロモーションビデオに映されたポケモンアイドルの声がが似ているように感じられた、僕の思い過ごしが思い過ごしなんかじゃなかったのなら。
もし、女子がほんの一部だけとはいえ、既にその姿では無くなっていたとはいえ、絶対になりたいと強く望んだアイドルとして、ステージに立つことが叶ったのだとしたら。
いくつかの事実と、いくつかの仮定が混ざり合う。
混ざり合ったそれは、一つの確信を生み出した。
彼女は、僕の。
一瞬だけ触れ合った手は、汗っかきだった女子と同じように湿っていた。
粘膜性の、滑りを帯びたそれはすぐに滑って離されてしまい、別の客にも同様のサービスをしているトップアイドルは、もう僕のことなど見ていなかった。ステージにいるのは人間の声帯を移植され、アイドルとして生きるための訓練を積まされた一匹のヌメルゴンだった。ヌメルゴンのぬめりん、アイドルのぬめりん。彼女は、それに過ぎなかった。
しかし、それでも変わることは無い。彼女が僕にとっての一等星で、最前線で追うべき輝きであることに、何一つ変わりなんか無いのだ。
いくつも設置されたスピーカーから、大音量のサウンドが鳴り響く。彼女がステージの中央へと走っていく。最後のサビを歌うため、会場中に喜びを与えるため、彼女というアイドルは、自分の生きる場所へとその足で立つ。
ただ本心から幸せそうな、ステージに立つことを何よりも嬉しく思っているような、その、笑顔で。
だから、僕たちは彼女の元に集っている。彼女のために声を張り上げ、彼女のためにサイリウムを振り、彼女のために汗を飛ばす。
彼女の輝きは太陽にも勝り、彼女の歌声は福音すら超越し、彼女の笑顔はこの世の何にも代えがたい。
だから、僕たちは彼女という偶像を愛するのだ。
「世界で一番素敵だよ、ぬめりん!!」
だってあなたは、ずっとずっと、僕のアイドルだったのだから。
スポットライトを浴びる彼女があまりに眩しくて、思わず目を閉じた僕のコールは、彼女を愛する大勢のファンの叫びに呑まれて消えていった。
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劇団ひとり作『陰日向に咲く』より、『拝啓、僕のアイドル様』に愛と感謝を込めて。