太陽が東から南の方へと向かっている頃、僕はとある大きな公園のベンチに座り込んでいた。そばには、僕の飼っているネイティオのウィルが立っており、じっと僕の方を眺めている。ウィルは、標準的なネイティオに比べたら少々小さめであり、腰の辺りの黄色い線が三本ある、雄のポケモンだ。
今日は土曜日である。日頃通っている大学の授業から解放され、ひとときの休息を味わえる一日だ。そういう日には、僕はウィルと共に公園へと出かけて戯れることにしている。平日は大学での勉学に傾倒しなければならないため、なかなかウィルに構ってやれない。それで、せめて週末には、彼と一緒になる時間をとっているのだ。ウィルという一羽のポケモンを飼っている以上、こういう時間は必要不可欠だと思っているし、何より僕自身、週末の楽しみの一つにしている。おそらく、ウィルの方も楽しみにしてくれているものだと思っている。そのことは、彼の表情が物語っているのだ。一見、何も考えておらず、ぼーっとしている風に見えるが、実のところ、わずかながら微笑みを浮かべている。彼はネイティオの例に漏れず、自分の感情を表に出すことはほとんどない。そのため、こういう微少な変化であっても、心の中は大きく揺れているものである。僕はウィルがネイティだった頃から、かれこれ七年間は付き合っているので、このくらいのことは分かるのだ。
辺りを見回してみれば、人とポケモンとが遊んでいる光景があちらこちらで見受けられる。今日は快晴に恵まれているということもあってか、子供と小さなポケモンがはしゃいでいる姿はいかにも元気そうに映っており、見ている方まで思わずその輪に入りたくなる気持ちにさせられるものだ。周囲から賑やかな声が僕の耳に入ってくるので、うるさく感じないと言えば嘘になるけれども、僕の心を活気づけてくれるには十分すぎるほどだ。
僕はウィルに視線を移し、顔の方を見る。彼は相変わらず僕の方を見ているため、まるでお互いが睨めっこしているかのようだ。そう考えると、別に笑うところではないというのに、僕は思わず吹き出したくなってくる。対してウィルはどうかと言えば、全く動じていないようだ。全く変わる気配のない彼の表情を目にすれば、どんな人でもたちまちおかしく感じてきてしまうことだろう。とは言え、僕はすっかり慣れているのでこの場面で吹き出すことはなくなったのだが、飼い始めのうちは何度笑ってしまったか分からない(そして、そのたびにウィルに怒られたり不思議がられたりしたものである)。
ところで、こうしてウィルの姿を見るたびに思うのだが、ウィルは本当にかわいい奴なのである。何がどうかわいいかは言葉ではうまく説明できないけれども、とにかく愛嬌があって、思わず抱きしめてやりたくなるのだ。こちらの様子、あるいは太陽の方をじっと見つめているところもかわいらしいし、僕の背丈よりも幾分小さいところも良いし、少々おとなしめでほとんど自己主張しないところも気に入っている。男である僕が言うのも何だけど、母性本能とかいうのがくすぐられて、こちらから助けの手をさしのべてやりたくなるのだ。ウィルのことを端的に言うと、まだあどけなさの残っている、引っ込み思案な男の子なのである。僕はそんな彼のことが大好きだ。僕がまだ独り暮らしを始める前、実家で暮らしていたときからずっと、彼のことは好きでいる。そして、ウィルも僕にすっかり懐いていると思う。僕が独り暮らしを始めることになった際、彼は僕について行くと言って聞かなかったし、今もなお僕のもとをまったく離れようとはしていない。ウィルと僕とはお互いに信じ合っている関係、と言って良いだろう。もちろん諍《いさか》いを起こしたことは何度もあったけれども、仲直りは早かったし、それでお互いに気まずい関係に陥ったことはない。
それでも、僕はときどき不安になることがある――ウィルは本当に、あの二つの目で僕のことをそのまま見てくれているのだろうか。こんな発想は変だと思う方もいらっしゃるだろうが、少し待ってほしい。ネイティオには、次のような伝説があるそうだ。
南アメリカでは、右目で未来を、左目で過去を見ていると語り伝えられている。
この伝説をご存じの方なら、僕の言わんとしていることが分かるだろう。すなわち、ウィルは僕のことを見るふりをして、実際に目にしているのは未来や過去のことであり、それらのことに思いを寄せているのかもしれない、と僕は考えているわけである。
そんなことを言われたところで、所詮伝説は伝説じゃないか、実際には絶対に起こりえない、と反論したくなるかも知れない。実際のところ、僕も以前はそう考えていた。ウィルのことを呼べば、彼は僕の方に振り向いてくれるし、今そのものを見ているということには何の不思議もなかった。
ただ、ウィルは何もせずにただじっとしていることが多い。現に今がそうだ。一歩も動こうとはせず、翼は閉じたままで、視線すら変えようとはしていない。ずっと僕の方を向いているばかりである。ネイティオは全く動くこともなければ鳴こうともしないという習性を持つから、これで問題はないとは思うけれども、僕の不安は少しずつ募るばかりなのである。何にもしないふりをして、実際は過去や未来のことについてずっと考えているのではないか、と思ってしまうわけだ。
それならば、ウィルに直接尋ねてみた方が早いのではないか――その通りだ。どうしてこのことにもっと早く気付かなかったのだろうか。もちろん、僕は人間でウィルはネイティオだから、言葉で通じ合うということは難しいかもしれないけれども、ネイティオはエスパータイプのポケモンであるのだから、僕が何を考えているかを読み取るのはさほど難しいことではないはずだ。それに、僕の呼びかけに答えてくれるだけの知能も併せ持っているので、簡単なコミュニケーションくらいなら可能なはずである。
思い立ったが何とやらと言わんばかりに、僕はウィルに訊《き》いてみることにした。
「なあ、ウィル」
僕の呼び掛けに反応したか、どうしたの、とでも言わんばかりに顔を傾けてくる。嘴《くちばし》は閉ざしたまま、相変わらず視線を僕の顔の方へと向けている。
「こんなことを訊くのも何だけど、君はいったい、何を見ているんだい?」
そう言った僕に対し、ウィルは首を傾《かし》げたままであった。僕の言いたいことを理解できなかったのかもしれない。そう思った僕は、さらに言葉を続ける。
「その、ほら、君のようなポケモンは、過去も未来も見ることができるっていう言い伝えがあるじゃないか。だから、僕は気になるんだ。君の眼はいったい何を捉えているか、をね」
僕の言葉が終わるや否や、ウィルは傾げていた首を元に戻し、にっこりと微笑んだ。これほどの、満面の笑みという言葉がぴったり当てはまるくらいの表情を彼が見せるのは、滅多にないことである。無表情と形容されがちなネイティオの顔がこういう風になるなんて、いったい誰が想像できるだろうか。こんな顔を見せられたら、こちらも思わず釣られて笑みを浮かべるしかなくなってしまう。
――ああ、なんて可愛いんだ。
僕は思わずその顔つきに見とれた。そして、先ほど自分が何を言ったかを忘れそうになってしまうくらい、ウィルのことを愛おしく感じてしまう。できることなら、目の前にいるネイティオに抱きついてしまいたいくらいだ。しかし、ここは公園という公の場であるから、そんなことは恥ずかしくてとてもできることではない。だから、ぐっと堪えるしかないのは仕方のないところである。
ただ、ここで少し冷静になって考えてみると、どうしてウィルはこのような笑顔を浮かべたのか、僕には理解できなかった。
――この表情は、いったい何を意味するのだろうか。
僕がそう思った刹那《せつな》、ウィルが僕に向かって飛びつき、抱きついてきた。両翼《りょうて》で僕の身体を抱え込み、顔を僕の胸に埋めてくる。この恥も外聞もない行動に僕は思わず頬を赤くしてしまうと共に、辺りを見回した。奇異なるものを見ているような視線を送ってくる者が何人かいたのだが、いずれも凝視してくるまでのものではない。ウィルがポケモンであるということもあってか、あまり気にされてはいないようだ。
そこで、僕はウィルの方に視線を戻すと、ウィルの頭をそっと撫でてやった。ほんのりと赤くなっていたウィルの顔が、もう少しだけ赤くなったような気がした。もうここまで来ると、ネイティオの伝説がどうとか、関係なくなってくる。伝説がどのようなものであれ、ウィルはウィルとして見ていけば、それで問題はないのだ。それに、ウィルの方も過去や未来の光景という大それたものではなく、僕のことを見てくれている、ということがよく分かった。僕の勝手な解釈かもしれないけれども、そう考えて特に支障が出るものではないと思う。
――ウィル、これからもよろしくな。
僕を両翼で掴んで話してこないネイティオに対し、僕はひっそりと呟いたのである。