羽化作業。主に、廃人と言われる者がする営為。ポケモンにたくさん産卵させ、その卵から強い個体を探す作業のことを言う。ポケモンを早く還すためには、卵を所持した状態で、長い距離を歩く必要がある。その作業に掛かる時間と労力は、半端ではない。そしてそれは、非人道的な行いでもある。何しろ、延々と産ませ続ける訳だ。更に、強くない赤子は逃がしてしまう。あるいは、ボックスにずっと放置する。それでもバトルで勝ちたいがために、羽化作業をやるものがいる。
羽化作業は、頂点を争う直前ぐらいまでのレベルに達して、始めて価値があることだ。一般トレーナーは、既にいるポケモンを鍛えていけば、普通に勝ち星を稼げるし、その方が遥かに効率が良い。
しかし、この青年はそこまでエリートでないのに、羽化作業に日々励んでいた。その時点で珍妙だが、更に珍妙さに拍車を掛けるのが、周囲からの非難に恐怖しているのにやっている、ということだ。
こんなことをやれば、当然他者から怒られる。怒鳴る人間の顔を畏怖する奴は、羽化作業に片手すら出してはいけない。だが彼は、既に両手を出してしまっている。当初彼は、偶然優秀な個体を即得られた。そのポケモンを鍛え上げ、順調に勝ち進めた。だからもっと上へ行くべく、他も秀才を揃えたいと願った。これが、廃人への始まりである。心の中では、既存を育成した方が効率的なことは分かっていた。しかし、良い個体を選ぶ作業を妥協することが、いつしかできなくなってしまった。途中で止めると己に敗北した気がする、という陳腐な理由があった。後は、上級者のフリをしたいという理由もあった。そして更に、意外と大きかったのは、卵を還すために無心で自転車を漕ぐのは楽であり、この楽な時間を捨てたくない、ということであった。
しかし前述通り、彼は非難を恐れる生き物だ。なのでできるだけ、周囲にばれないようにやりたかったが、それは困難を極めすぎた。まず、育て屋には確実にばれる。卵を還すためには自転車で幾度も走らなくてはならないので、通行人にも怪しまれる。どう足掻こうが人目は避けられない。ならばせめて、ばれてもいいから羽化作業を止めろと言われない方法を考えた。言われることは、なんとしても避けたかった。彼は今まで一度、羽化作業を批判されたことがある。そのときの気まずい雰囲気やら後味の悪さは、思い出すだけで気持ちが悪くなった。彼は怒られているとき、泣きそうになった。彼は、人前で涙を流すことだけはしたくなかった。プライドが高かったという訳ではない。こんなことで泣く異常人物であると、周囲に悟られたくなかったのだ。
そこで彼は、こうした。田舎に行った。人気が少ない場所の育て屋を発見した。そして、そこを起点とした。
そこの育て屋の主な従業員は、じいさんばあさんであった。年寄りにばれてもダメージは少ないだろうと考えた。その他に、恐らく正社員の若い従業員が一人いた。彼は少し悩んだが、まあ、いいかと思えた。その若者はひょろりとしていて、なんだか頼りなかった。最も、彼もその従業員と対して変わらないどころか、更に弱そうな見た目をしているのだが。それはさておき、なんとかその男は彼を怯えさせる対象にはぎりぎりなりえなかったのだ。
彼はここで、羽化作業を開始した。
人気が少ない場所とはいえ、当たり前だが、全く人がいない訳ではない。田植えを終えて畑から戻ってきた人と遭遇したとき、速攻で自転車のギアを上げて、息をはあはあさせながら逃げ出した。一回でも見られると、次に合ったときに怪しまれる。だから、即逃げた。ポケモンを逃がすときは、周囲に誰もいないことを丁重に確認した。
青年が自意識過剰人間と化したのは、十歳くらいの頃。それ以前は違かった。彼の地域では、マンホールにはだいたい、「おすい」という文字が掘られていた。「うすい」であるケースもあるが、それは頗るレアだった。彼は「うすい」「おすい」の意味をてんで理解していなかったが、とにかく「うすい」は珍しいということで、それを探して町中を飛び回り、マンホールを発見すると地べたに座って確認した。「うすい」に遭遇すると、人目も気にせず大声を上げて喜んだ。学校にいる間も同様。彼の、体操着は習字の時間で墨汁まみれになっていた。そもそもなぜ、体操着で他の授業も受けているんだって話であるが、習字の前が丁度体育の時間で、グラウンドから戻ってくるのが遅れて、着替える時間がなくなってしまうことが多々あったのである。着ている洋服に墨汁がすこしでも付着すれば、大人であれば恥ずかしいと思うものであろうが、彼は全く気にもしなかったどころか、そもそもいつ汚れたのかすら分からなかった。
そんな幼い子供だったのに、いつの間にやら彼は自意識が目覚めてしまった。それは、不幸な目覚めであった。彼は、自意識過剰であることを自覚していた。そして、こんな性格を辛く思っていた。何をするにも、人の目が気になっては、生き苦しくて仕方がないだろう。人目を全く気にしなかった頃の行動を思い出す度に、激しく悶絶した。
学校では、自分のことを「うち」と呼んでいた。幼稚園の頃からずっとであった。母親から、その呼び方は女の子みたいで恥ずかしいから止めてくれと言われた。しかし、彼は母親の忠告には従わなかった。いきなり一人称を変更したら、周囲になんて思われるか。クラスが変わったときにこれはチャンスだと思ったが、知っている人は勿論何人もいる訳で、その人達の気持ちが気になって駄目だった。
あるときの教室は酷くがやがやしていた。授業中の黒板の前には、当然の如く先生が立っている。先生は教室の空気に反応を特に示さず、平然と授業を続けていた。怒るなら、さっさと怒ってしまえばいいのに。彼は絶えずそれを思っていた。しかし、彼の思想通りには動いてくれず、今もなお教科書を淡々と読み上げ、黒板に書いてある式に赤線を引く。彼は怯えていた。この先生がいつ怒鳴るのか、異常なまでに警戒していた。別に怒鳴られるのは自分ではない。彼は静かに動かず座っている。彼は無罪だ。けれども、その場所にいれば、怒鳴り声を聞くことになる。それが大変に嫌だった。これが嫌で、学校を休みたくなって、ワザと風邪を引こうとしていた時期もあった。
彼の先生からの評価は高かった。授業を静かに聞いていて居眠りもしない。私立の厳しい校則も一度も破らない。特にテストの点が良くなくても、通知票には他人に自慢できる結果が書かれていた。しかし、本当は怒られなくないだけで、別に勉強が好きである訳でもないし、学校のルールは守らないといけないとも思っていない。彼は周囲から所謂「真面目」だと評されていた。誰も、彼の本質を見抜ける者はいなかった。
イヤホンで音楽を聞くときは、音漏れがしてないか確認すべく、何度も外したり付けたりを繰り返した。二者面談が終わって、立ち上がって椅子を引くとき、机にぶつけてしまって大きな音が出てしまい、彼は冷や汗を大量にかいた。それは反抗の意思ではないと伝えたかった。また、彼はネットに書き込みができなかった。ネットの世界を、映画みたいにとらえていた。だからそこに、自分が干渉することに凄く違和感があった。自身の発言によって、映像が変わるということに恐怖を感じた。
極めつけは、トレーナーとして旅に出るときだ。ここで彼は、自意識過剰の真価を発揮した。彼は十歳になっても旅に出ず、十四歳になったときに出た。十歳で旅に出るのは、成功する人は大成功するけれども、その可能性は限りなく低い。なので、自分が優秀だと勘違いしていると、現実主義の大人から非難されそうなので行かなかった。十一歳は、十歳で旅立とうとして勇気がなかった人みたいになるのでこれも駄目だった。最も旅に出る人が多い年齢の十二歳は、ミーハーだと馬鹿にされそうなので嫌だった。十三歳は、ミーハーになるのを避けたんだなと深読みされそうなので嫌だった。十五歳は、尾崎豊に影響されたと考えられる可能性があった。あいつは親や世の中に反抗して出て行ったんだな、と言われそうで、ここが最もまずいと思った。というわけで、消去法で十四歳を選んだ。
ここまで気にする意味は皆無で、誰もそこまで彼について考えない。人は自分が思っているほど自分のことを気にしないものだ、という真実は、世間に良く知られているし、彼もその真実を度々心がけるようにしていた。それでも彼はどうしても、思考がそっちへ行きがちだった。
しかし彼は、ひと目がない場所では平気で悪いことをした。彼は、ゴミを道端に捨てることはしないが、分別しないでゴミ袋に入れる。物を盗んだりはしないが、バトルで負けたときの賞金の額を、相手にばれない程度に誤魔化す。
だから彼は、羽化作業も普通にできる。
この場所を起点にして羽化作業を始めてまだ三日。彼はまだまだ、自転車を漕ぐつもりだった。だが、あるときのことだった。彼の心情に多大なる打撃が加わった。それは、決して予測外ではなかった。けれども、それに対する覚悟はほとんど不十分であった。
育て屋で働いている例の青年はKという名前であることを知った。Kは今まで、特に彼のことを気にせず黙々と働いていた。ずっと預けられっぱなしになっている彼のメタモンの世話を淡々としていた。 一方で、彼の方は大いに気にした。Kに何かを言われるのではないかという不安が常に渦巻いていた。そして、その不安は見事に的中した。
あるとき、彼がいつもの通り、卵を回収しに行くとKがこっちへ作業の手を止めて、ゆっくりと近づいてきた。これはいよいよ来るのでは。逃げようか。よし逃げようか。だが、逃げたらなんて思われるのか怖くて、けれども、怒られるもの怖くて、さあどっちを選ぼうか。こういう究極の二択を迫られると、人は自然と動かなくて良い方を選択する。すなわち、彼は逃げなかった。「逃げなかった」と書くと、何やら、善い行いのように見えるが、実際はどっちを選ぼうか「逃げる」ことになる。Kは自分を怯えさせる存在にはならないと思っていたが、それはどうやら思い違いだったようだ。予め彼は頭の中で何を言われるのか一生懸命高速で想像し、それを言われている自分を想像した。はめている軍手を地面に叩きつけるKを想像した。そうすることで、実際に言われたときのダメージを軽減させようとした、ポケモンを大事にしている彼だから、さぞかし怒りの表情で罵倒されるのだろう。と思いきや、
「羽化作業……」
Kはそう呟いたのみで、振り返って再び作業に戻った。彼は胸どころか体中を撫で下ろした。神様が助けてくれたと大袈裟でなく思った。一気に心が軽くなった。優秀な個体が手に入ったときより嬉しかった。冷静に考えれば、Kのキャラでキレるなんてことはするはずもなかったのだ。
しかし。その夜、彼は頭を抱えた
Kのたった一言は決して、怒りのこもった言葉ではなく、困惑に溢れたものだった。しかし、青年の脳内で繰り返し再生するうちに、それはだんだんと怒りのこもったものへと変わっていった。Kに対する恐怖心は増大する一方。次に彼からは何を言われるのだろう。そして、もし彼が他の人にこのことを言ったらどうなるのだろう。
それからの、彼の、日々の不安。
彼は自殺してやろうとまで思っていた。自殺の方法も色々調べた。ポケモンに殺してもらおうとも考えたし、ビルから飛び降りようとも思った。けれども、そんな勇気は彼にはなかった。自殺するときの痛み苦しみを想像しては、彼は顔面蒼白になった。彼は人に見られる恐怖と同時に、死に対する恐怖も強かった。
結論が出た。あいつと、無二の親友になってしまおうと思った。
この精神状態では百パーセント無理なので、彼は羽化作業を一旦中止した。けれども、預けたポケモンの様子を見たいという名目で育て屋には毎日行った。育て屋に行く度に、これまではスルーを極めていたKに話しかけた。仕事大変だね、などと平凡な労いの言葉をかけた。雨が振って彼がびしょびしょになって屋内に飛び込んできたときは、すかさずタオルを貸してやった。彼はKにタオルを貸すために、わざわざ用意しておいたのである。しかし、彼はそこまで他人と仲良くするための引き出しを持っておらず、その行動は明らかにわざとらしさが増していった。そもそも、こんな行動は逆効果になる可能性も高いだろう。
しかし意外や意外、Kは割とすぐに彼になついた。Kは学生時代友達が少なかったので、てなずけるのは比較的容易だったのだろう、彼はそう考えた。だが、彼には不安があった。こうして仲良くなっているうちにも、いつか皆に言いふらされるのではないか、という不安。おとなしいふりをしていつか鬼のような虎のような形相をして怒ってくるのではないか、という不安。
ある日のことだった。彼はKのアパートに呼ばれた。そこで、彼はKと遊んだり話しをした。
「おいおい、DSの画面を手で触るのはやめなよ」
「でもCMでは手で触っているときもあったよ」
「説明書には触るなって書いてあるんだよ」
Kとの交流で、Kは真面目である、ということが分かった。先程の会話で出てきたDSは、Kのではなく彼のである。Kは彼と似ている面もあった。けれども彼とは違い、偽物ではない真面目さがあった。
彼と仲良くなったら、彼が色々と育て屋になった、経緯が見えてきた。Kはあるとき話しをした。それは、子供の頃怪我をしたニドランを手当したことだった。ニドランは逃されたポケモンだった。偶然見つけたKが手当して助けた。こうしてKはポケモンを助ける喜びを知り、育て屋になりたいと思ったという。Kは実にさらっと話した。この話を聞いた彼は、凄まじい恐怖に包まれた。分かった。こうやって話をすることによって、自分のした行為を皮肉っているのだ。そうに違いない。あるいは、自分から謝罪させようとしているのか。謝罪させて「僕に謝ってもどうしようもない」と述べるのを狙っているのか。どちらにせよ、やはり彼は怒っている。殺される。殺される。殺される。
後日、彼は羽化作業を完全に止めた。もう、無理であった。恐怖に耐えかねた。恐怖に耐えているようならば、やらない方がましだと思った。勝てなくていいと思った。そういうことをやる資格があるのは、そういうことに対して、怯えない者だけだと考えた。
優秀な個体は揃っていないが、これでいい。取り敢えず、彼らを育てていった。彼の努力のかいあって、ポケモン達はかなり強くなった。ここは田舎という特に何もない場所であり、育成の邪魔をするものがないもない、というのが幸いした。
もう十分であろう。彼はここから出て、再び対戦に明け暮れる日々に戻ろうと考えた。出発の日、彼の眼前にある男が現れた。Kであった。Kとは、羽化作業を止めて育て屋に出向かなくなってからも、ちょくちょく会って話しをしたりした。もう彼は、Kに対する恐怖心は抱いていなかった。彼は羽化作業を止めたし、トレーナーとして批判されるようなことは何一つ行っていない。至極全うに地道に育成に励んでいた。彼とは、普通に友達として仲良くしている。あのとき育て屋になった経緯を話したのは、自分に対する皮肉ではないと確定した。恐れを抱く理由なんて一つもない。どころか彼は、Kに感謝していた。羽化作業を止めるきっかけを、自分に与えてくれた。止めどきが分からなくなっていた彼の背中を押してくれた。これで、感謝しない訳がない。
そんな彼に対して、最後にKはこう伝えたのだ。とても低い声で。
「君、羽化作業やってたでしょ」
「君」と呼ばれた時点で嫌な予感はしていた。その後に続く言葉で、予感が確信に変わった。
すっかり油断しきっていた彼の心臓が、再びどくんどくんと激しく鳴った
「逃されるポケモンがかわいそうだと思わないの」
なんで、今になって。
「卵を生むポケモンだって何回も苦痛に耐えるんだよ」
なんで、今になって。
「羽化作業なんてやらないで、地道に育てた方が早いって」
なんで、今になって。
「後ボックスの中にずっといるポケモンのことも考えてないの」
なんで、今になって。
「もういい。お前の顔なんかもうみたくない」
Kは彼をひたすら責め立てた。「なんで、今になって」という言葉を、彼は何度も飲み込んだ。
本当になんで、もっと早くに言わなかったのだろう。その原因は恐らく……。
彼は悟った。これは、そういう作戦だったのだ。反省して行いを改めてから。仲良くなってから。その後に怒ることで、精神的ダメージをより大きくやろうと企んでいた。だからKは、嫌いな彼と仲良くなったふりをした。これは皮肉なんじゃないか、というニドランを助けたエピソードを話して、彼に羽化作業を止めさせるようにした。
全ては、Kの掌で転がされていた。似たような性格のKには、彼の気持ちが手に取るように分かっていた。育て屋に来る度の、彼のびくびくした態度を見れば、一目瞭然だった。
「なんで、今になって……」
彼は、Kが既に遠くへ行って絶対に聞こえないことを確信してから、そう呟いた。