まったく、僕という人間は、実に油断していたと言わざるを得ない。今から思えば、手の込んだ準備の一つや二つやっていてしかるべきだったというのに、それらしい用意など、全くもってやってはいなかった。だから、僕が現状のように窮地に陥っていたとしても、無理のないことなのだ。
詳しく説明しよう。僕は今、ウバメの森というところに入り込んでいる。コガネシティ側の入口からどこまで進んだのかは分からないが、腕時計を見るに、足を踏み入れてから結構な時間が経っている。だから、恐らく、かなり奥深くまで進んでしまっていることだろう。だが、僕には帰る手段が無いし、来た道をそっくりそのまま覚えているわけでもない。僕が後退すれば多少は入口に近づくだろうけれども、かと言って無事にこの森から抜け出せるという保証は全然無い。端的に言えば、僕はすっかり道に迷ってしまっているわけだ。
それだけではない。実は、僕は護身用のポケモンを何一つ持ってきていないのだ。なので、ウバメの森に棲息しているポケモンが襲いかかってきても、ほとんど手の打ちようがないのだ。一応、万が一のときのためにピッピ人形を五体ほど持ってきてはいるが、これを切らしたら、もはや僕の命は風前の灯火と言っても良いだろう。問題なのは、ピッピ人形が必要になりそうな事態が僕の想像していたよりも非常に多く発生しうる、ということである。幸いにも、このようなケースはまだ訪れてはいないけれども、そのうちやってくるに違いない。現に、ピジョンの鳴き声やスピアーの飛んでいる羽音が遠くの方から聞こえてきている。いつ僕が狙われても、全くおかしくはない。
ひょっとすると、僕はもう帰れないかもしれない。たとえ森から抜け出られそうになったとしても、命が奪われることになってしまうかもしれない。早まった行動に出てしまったことで、僕の明日以降の人生が全て水の泡となって弾け飛び、そのまま消えてなくなってしまうかもしれない。
僕は未だかつてないほどの不安と恐怖に駆られ、つい先ほどまでやっていたことを大いに悔やんだ。後の祭りとは知りながらも、自分の無謀さに呆れ果てる他はなかった。特に壁らしい壁などなく、四方八方に開けている場所であるというのに、まるで袋小路に追いやられている気分だ。
だが、ここで立ち止まったところで、何ら事態が良い方向に動くわけもない。思わず溢(こぼ)れそうになっている涙をぐっと堪えつつ、仕方なく僕は前の方へと進むことにした。この際、どうなったって構わない。今優先すべきなのは、ウバメの森という魔境を脱出することである。南の方、すなわちヒワダタウンの方に抜けるのでも良いから、とにかく抜け出すことを第一に考えるべきではないか。
こうして僕は、いつ自分が襲われるか分からないという恐怖感と戦いながら、当てもなく足を前に進めた。一応道になっているところを歩いているつもりなのだが、道中でこれと言った道標(みちしるべ)や案内板すら見当たらないところを考えるに、僕はもう道を外しているかもしれない、という不安に駆られてしまう。だが、それでも、僕は行くしかなかった。そうすることでしか、自分の命が助かる術は残されてはいない。
時折麦茶を飲みつつ、僕はウバメの森の中をひたすら彷徨った。それでも、行けども行けども周りは木々や植物といった緑色のものばかりである。運良く他の人とすれ違うようなことがあれば良いのだが、今のところそういったことは起こっていない。実際、僕は先の方へ向かって、おーい、と何度も叫んでいるのだが、全く反応が無いのだ。それもそのはず、ウバメの森は、僕のような普通の人間が丸腰で足を踏み入れるようなところではない。せいぜいすれ違うとしても、ポケモントレーナーと呼ばれる、ごく限られた人たちくらいだろう。そういった人の影すら見当たらないのである、僕はやってはいけないことをやってしまった気がしてならない。
どうすれば僕は助かるのだろうか。どうすれば僕はこの場から解放されるのか。どうすれば僕は緑に覆われた魔境から抜け出せるのか。まるで見当のつかぬまま、ただいたずらに時間が過ぎるばかりであった。
それから、はや三、四十分が経過しようかというとき、僕は奇妙な場所に辿り着いた。薄暗さの支配するこの森の中に、小さな神棚らしきものが、ぽつん、と安置されていたのである。そのそばには、すっかり黒ずんでしまっている木製の立て看板があった。この神棚で、いったい何が、何のために祀(まつ)られているのかが、ごく簡単に説明されているようである。それによれば、ウバメの森がもたらす自然と恩恵を永遠のものとするために、セレビィという神様が森の秩序を保ち続けているのだという。要は、森の繁栄を少しでも長続きさせるためにセレビィを崇め奉っていた人たちが、気の遠くなるほど前の時代に、この神棚を作り上げた、ということらしい。
このセレビィという森の神様について、僕は全く何も知らない、というわけではない。というのも、セレビィというのは、存在するかどうか分からない、いわゆる幻のポケモンとして広くその名が知れ渡っているのだ。自然の恵みをもたらす存在としても有名だし、過去へ未来へと自由に行き来できる不思議な能力を持つこともよく知られている。そういったところから、おとぎ話や芸術の題材、あるいはスポーツ新聞の特ダネスクープというように、様々な方面でネタとして使われていることも少なくない。僕もこのような形で小さい頃からセレビィという未確認生物に触れてきている身なのである。おそらく、セレビィについて全く聞いたことがない人の方がまれであろう。
僕はしばらく、神棚の前で立ち尽くしていた。今ここにセレビィが存在するのならば、僕はいったい何と言おうか、そのことをずっと考えていた。頭の中に出てくる言葉の数々が、いつの間にか、セレビィに対する祈りとなっていた。セレビィが実在するなどと考えるのは実に馬鹿馬鹿しいことであるのだが、僕の置かれている状況が状況なだけに、何に対してでも良いから祈りたかったのは、間違いのないことである。
そのときだった。神棚についてある三角形の屋根の上が、ひとりでに真っ白く光ったのだ。神棚の高さは僕の身の丈とだいたい同じくらいだったし、まだお昼過ぎだというのに森全体が妙に暗かったということもあって、この妙な変化はすぐに分かった。でも、どうしてそんなことが起こったのかまでは飲み込めず、僕はただ呆然とする他はなかった。
この白い光はやがて薄くなっていき、代わりに一匹のポケモンが姿を現した。そのポケモンは屋根の上にちょこんと座っている。身の丈は僕と比べるとかなり小さく、全体的に人間の赤ん坊くらいの大きさしかない。背中から生えているらしき一対の翅(はね)が見え隠れしている。頭部はタマネギかラッキョウのような形をしており、二つの目の上には一対の触覚のようなものが生えている。そして、体色は上半身が薄い黄緑であり、下半身が濃い黄緑になっていた。そう、神棚の上に現れたポケモンこそ、あのセレビィなのである。
僕は自分の目を疑わずにはいられなかった。どんな人間でさえ見たことがないというポケモンを、たった今目の当たりにしているのだから。
-----
初めましての方は初めまして。「幽霊好きの名無し」と申します。
少し前から準備を進めていた作品が一区切りつきましたので、こちらに投稿させていただく次第です。拙い文章ではありますが、完成までの間、よろしくお付き合いくだされば幸いです。
なお、続きは長編板の方で公開する予定にしております。ご了承くださいませ。