自分達は本日も、水中を漂っていた。至極、無駄な時を過ごしていた。
自分達は、オタマジャクシに似ていた。体の色は黒ではなく白だが。形は殆ど変わらない。実際自分達を、「オタマジャクシ」と呼ぶ者もいる。
自分達は、数が尋常でなく多かった。この水中は、途方もなくだだっ広い。そんな水中を探索すると、どの場所にもオタマジャクシがうじょうじょいる。傍から見たら、気持ち悪い光景かもしれない。
自分達は皆、仲が非常に悪かった。お互いに睨み合った。威嚇もした。一人ひとりで過ごしていた。中には、他の奴の顔が見たくないと言って、一日中目を瞑っている者もいた。
だが、誰とも喋らないでずっと一人でいるのは、苦痛以外の何者でもない。中には、あるとき急に発狂し、水中をしっちゃかめっちゃかに泳ぎ回って、挙句の果てに水を飲みまくるという自殺行為をした者もいた。
稀に、仲良くしている連中もいた。それは、生きることを諦めた人達だった。
自分達は、所謂精子である。
定義上、まだ生まれていない。
明日自分達は、卵子まで一直線に走る。一番に卵子に辿り着いたものは、めでたく胎児になれる。そして、それ以外は消滅する。そういう、あまりにも厳しすぎる競争が行われる。
レースに参加する精子の数は、一億以上であるらしい。その中で勝ち抜くのは、難しいなんてものではない。奇跡に等しいことだ。故に、やる前から諦めてしまう者もいる。例え生存本能が、心底で唸りを上げていたとしても。
この文字通りの死闘は、当然ながら泳ぎが速い者が有利だ。勿論、途中で道に迷ったり、体力の温存を知らずにゴール直前で力尽きる者もいるかもしれない。だが基本的には、ポケモンで言う所の、「すばやさ」の能力値が高い者が勝利を掴む。
これまで自分達は幾度も、早く泳ぐ練習をしてきた。皆必死だったし、自分も寸暇を惜しんで死なない程度に練習した。師匠不在の孤独な修行を、自分らは生きるために行った。
練習を繰り返す中で、だいたい自分がどの程度速いのか、おおよそ分かってくる。
自分は、精子の中で、極めて速い方であることが分かった。周りからは、優勝候補と思われているだろう。勿論途方も無い数の中で一番にならないといけない訳で、優勝候補と呼ばれる人はその中でたくさんいる訳だ。だから勝てる保証なんてものは、ない。一寸もない。けれども、自分は自信があった。なんとなく、自分が選ばれし者になる、そんな予感がしていた。それは、自分だけは宝くじに当たりそうだと思う心理と、同じなのかもしれない。
実は自分達精子は、前世のどのような生を歩んだか、はっきりと覚えている。前世の時の記憶は、生まれる前のどこかのタイミングで消されるのだろう。
自分は、前世人間だった。子供のときは、えらくいじめられていた。主な原因は、足が遅いからだった。運動会やら体育祭では、いつもピリであった。マラソン大会などでも遅かった。教師から、本気で走ってないとみなされた。それ以降、いじめは増加した。
そんな足の遅い人間だったのに、ここでは一番速い。それを気持ちが良いと感じていたのは、最初の数日だけだった。いつしか、自分は気がついた。こいつらに勝っても、全然すごくないことを。
自分達は、生まれたら何の生物になれるのかを知っていた。ケロマツ、という種族のポケモンらしい。蛙によく似た姿をした、青いポケモンだ。オタマジャクシに似た形態から蛙になるというのは、面白い偶然だと思った。ケロマツは、俗に「御三家」と呼ばれているポケモンの一つ。初心者トレーナーのパートナーになることが多い。昔、トレーナーをやっていたから知っている。
ケロマツになると知らされたあの時。殆どの者は歓喜した。それは、自分も同じだった。勿論できることなら、人間に生まれ変わりたかった。が、二連続人間になるのを切望するのは、贅沢が過ぎるというものだ。人間でなくても、ポケモンだったら全然悪くない。植物とか細菌に生まれ変わるよりは、遥かにマシだ。
生またら、どんな人生を歩むか。それは、これまで数えきれない程妄想した。卵から生まれる。本日旅立つトレーナーに選ばれる。困難を乗り越え、一緒に成長していく。やがて進化をする。ゲコガシラになる。その後スタンプになる。しかしそれも乗り越え、更に進化する。ゲッコウガになる。ゲッコウガは、とても素早いポケモンだ。高速の動きで相手を翻弄し、強敵に打ち勝っていく。そして、やがて、自分のトレーナーはチャンピオンになる。自分は一番の相棒で、彼の隣で胸を張る。そんな、ベタなサクセスストーリーを夢想していた。
勿論、そうならないパターンも想像した。ちゃんと現実を見据えた。人間のポケモンにならない可能性だってある。野性のポケモンとして生まれる確率だってある。
また、人間のポケモンになったとしても、初心者トレーナーの下ではない可能性もある。トレーナーの中には、卵を何個も還してその中から良個体を選んで育てるという、廃人めいた行為をする者もいる。そういうトレーナー元につけば、生まれて即逃されるかもしれない。赤子の自分は野性に還されて数時間後、誰かの胃袋の中にいるかもしれない。
最高の人生。最悪の人生。両方を想像し、興奮したり鬱になったりした。まだ誕生できるかも分からないのに、生まれない確率の方が遥かに高いのに、そんなことを考えてどうするんだと自分でも思う。合格してないのに、サークルを何にしようか悩む受験生、あるいは、内定を取ってないのに出世した後のことを考える就活生、のようなもの。けれども、ついつい考えてしまう。暇で仕方がないからである。
本当に暇だ。誰でも良いから、自分に近づいてこないかなと思う。もう、自分に近づいてくる人は、皆無になってしまった。
以前は、自分を殺そうとして寄ってくる者が、多数いた。優勝候補者を一人でも削り、自分が生きられる確率を上げるため。「正当防衛」と称して、悪の行為をなそうとした。
だが、自分に突進しようとしてきた瞬間、そのオタマジャクシは跡形もなく消え失せた。数秒の静寂の後、周囲は悲鳴とどよめきで満たされた。あるときは、集団で殺そうとしてきた人達がいた。けれども、その人達も一人残らず全員消えた。消えたオタマジャクシは、いつまで経っても戻ってはこなかった。
自分達は、常に何者かに見張られている。良からぬ行動をするものには、制裁が加えられていく。
「たった今、卑劣な行為をしようとしてきた人を消滅させました。皆さんも気をつけましょう。正々堂々と戦うように」
制裁を加えた後は、このようなアナウンスがどこからともなく流れてきた。二十代後半くらいの、女の人の声だった。声に感情が全くなく、事務的に行っているという感じだった。自分達がケロマツになることを知らせたのもこのアナウンスだ。この声がトラウマになっている者もいて、流れる度に大声で「ごめんなさい」と何度も叫びながら号泣している者がいた。逆に、アナウンスに対して「死ね元凶」等と罵倒する者もいた。彼らは勿論全員消された。
このアナウンスのおかげで、自分の殺害を志す者はどんどん減った。自分としては、つまらなかった。自分を殺ろうとしてきた人が、次々と消えている様を見るのは面白かった。前世でいじめられていたのもあって、自分に危害を加えようとしてきた人が罰せられるのを見るのは、快感以外の何者でもなかった。
ある一人だけは、今もなお自分に近づいてきて、自分を別の方法で消そうとしてきた。その人は自分に対して、このようなことを言ってくるのだ。
「生きていても仕方がないよ。生きないほうがましだよ。勿論楽しいこともあるけれど、だいたい一割くらいだ。その一割のために生きてるんだって言う人もいるけれど、皆強がっていっているだけで、本当は死にたいと思っているに決っている。日本で自殺する人は、毎年三万人いる。毎年三万人って言っても、いまいちピンとこないよね。実は、五十人に一人なんだ。え、何がって? 自殺で生涯を終える人の数だよ。毎年何人死んだってことより、この方が実感が湧くだろ。そうだよ、やばいんだよ。そんなやばい人間社会の皺寄せは、当然ポケモン達にも寄っていく訳だ。ストレスを溜めた人間達は、まるで物のようにポケモンを扱う。じゃあどうするのかって? どうしようもないよ。だから生まれない方が良い」
彼は、明日のレースに参加しないと言っている。前世では自分と同じく人間であったが、自殺でピリオドを打ったと言っていた。
ほぼ確定的なことだけど、この人は絶対にレースにも参加するし、優勝を是が非でも狙ってくる。こうやって自分に対して、生きることの辛さ、大変さを教えて、自分のやる気を削ごうとしてくるのだと推測できる。たぶん、前世で自殺したのも嘘だろう。「走るのをやめろ。さもないと今殺す」などと脅してくるのは、消滅のターゲットになり得る。しかし、彼のような感じで精神的に追い詰めてくる奴には、特に制裁は加えられない。
彼の遺言を聞くのは、非常に良い暇つぶしになっていた。その話は、内容が毎回変わっていく。
自分は彼に何を言われようと、諦める気はなかった。生きるのが大変なのは、分かり来てっていることであり、覚悟の上であるから。
「自分は明日参加するよ。そして、絶対に生まれる」
怪しい宗教の勧誘を、自分は完全に突っぱねた。いつもは「その通りだねー」と適当に笑っていたが、今日で最後だし良いだろう。
彼はその後も色々言ってきたが、自分は自分の意見を当然曲げなかった。
翌日、アナウンスがなった。
「みなさん、扉から外に出てください」
不意に、自分の眼前にドアが現れた。驚いて、自分は少し後ろに下がる。貞子めいた物が出てこないか警戒する。それは、茶色のどこにでもありそうな無印のドアだった。数秒後、ドアは独りでにゆっくりと開く。開いた分だけ水が押し出され、自分の顔面に圧がかかった。横を見ると、十メートル先にも、全く同じ扉が出現していた。
貞子は出てこないので警戒を解き、ドアをくぐる。くぐった先には、数えきれないほどの数の精子が、一直線に並んでいる光景があった。どうやら、ここがスタートラインらしい。
自分も同じように並ぶ、横幅が少々狭い。スタート時にぶつかる危険性がある。事故を防ぐために少し遅れていく手もあるが、精神的にそれは不可能だと思った。
振り返ると、ドアを潜らずに立ち止っている精子が何匹かいるのが分かった。ドアはやがて、ふっと消えてしまった。彼らはもう生きられない。まだ葛藤中の者もいただろう。
アナウンスがなる。
「それではレース開始です」
もう始まるのか。あまりにも唐突で、心の準備をしたいというこっちの感情を完全に無視していた。
「それでは始まります。十、九、八」
水を掻く音が聞こえた。数匹のオタマジャクシが、フライングをしていた。彼らは皆消滅した。
「三、二、一、スタート」
「どうして足の遅い人が、精子のときは一番になれるのだと思う?」
様々な人がいる。勉強のできる人。できない人。イケメンの人。そうでない人。ポケモンバトルが強い人。弱い人。エロい人。エロくない人。腕力の強い人。強くない人。
ポケモンだって同じ。同じ種族とて、性格や能力はそれぞれ異なる。
色々な人やポケモンが生まれてくるのは、仕事当然のこと。
けれども。
足が遅い人が生まれてくるのは、おかしいんじゃないか。
足が遅かったら、精子のとき一番に辿りつけないんじゃないか。
こんな疑問を、小学校低学年の頃に抱いた。母に質問した。母は「意味分からん」と言いたげな表情を浮かべた。「自分で考えてみなさい」と言った。自分を無視して、洋服を畳みながらテレビのチャンネルを変えた。
言われた通り、自分で考えた。足の遅い自分が、どうやって誕生したのか。第一に考えたことは、自分はズルをしたのだ、ということだ。フライングをしたり、ジェット機に乗ったりして勝利した。そういう妄想をして、自分はなんて狡猾な人間なんだろうと自負した。
中学生の頃になって、再びこの疑問に出くわした。きっかけは自分の唯一の友達に、「どうして足の遅い人が、精子のときは一番になれるのだと思う?」と、質問されたからだった。改めて考えて、自分と同じ足の遅い遺伝子を持った人ばかりと競い合っていたからなんじゃないか、と答えた。
トレーナーになって数ヶ月が経ったとき、育て屋の前を自転車で走っている人を見た。当時は意味が分からなかったが、これはポケモンの卵を還しているらしい。自転車に乗った人は、一旦降りて休憩を取っていた。そのときに、このようなことを呟いていた。
「どうして足の遅い個体ばかりが生まれるのか。精子のときは、みんな一等賞だったのによお」
夕焼け空を、スバメの群れが飛んでいた。彼らは、一匹のファイアローから逃げていた。スバメ達の中で、極端に飛ぶのが遅い者が一匹いた。彼は、やがてファイアローに捕まった。他のスバメ達は、一匹残らず振り向きもしなかった。
満員電車に乗っているとき、誰かが駆け込み乗車をしてきた。ドアはその人の眼の間で閉まりかけたが、彼は自分の傘をドアに挟むことによって、ドアを再開させた。その人はその後電車には乗れたが、別のサラリーマンに怒鳴られていた。その人は「遅刻したらクビになって死ぬしかないんだから仕方がないだろ」と怒鳴り返していた。
あるときに見たイーブイは、炎の石をトレーナーに見せられて、一瞬顔が強張っていた。
テレビで見ていたお笑い番組は、芸人がただネタを順に見せる番組だったのに、いつの間にかネタの面白さを競い合う番組に変わっていた。
アルミ缶を集めた数を、クラスで競い合おうという企画が学校であった。自分のクラスはそれで最下位だった。担任は、「お前らには地球の環境を良くしようという気持ちがないのか」と、皆の前で激しく怒鳴った。
小さい頃見た絵本で、ボーマンダに馬鹿にされていたフライゴンの話があった。フライゴンはボーマンダに、バトルで最後に勝利した。そして二匹は仲直りした。フライゴンが勝利するまで、物語は結末を迎えなかった。
この世界は、「競争」で満たされている。
予想より遥かに、自分は圧倒的だった。振り返ると、優勝候補と言われていた人達の姿が、遠くの方にうっすらと見える。自分が優秀な遺伝子であることが決定的となった瞬間だった。
しかしそんな自分も、外の世界に出れば。
ケロマツの最終進化系であるゲッコウガは、非常に素早さの能力が高い種族だ。だが、自分はその素早い個体の中で、果たして半分よりも上の順位にはなれるのだろうか。恐らく無理だ。前世のときの性格や特性は、来世でしっかりと受け継ぐ。輪廻って、そういうものだから。
あくまで自分は、「相対的に見れば速い」ということ。
そう、自分は、本当は遅いのだ。
生まれる資格すら持ってない彼らに勝っても、所詮自分は雑魚だ。
どこまできたのか。ゴールは一体どこか。流石に疲れてきた。
振り返ったら、二位の人が完全に見えなくなっていた。これなら、少しくらい走らなくても大丈夫だろう。自分はちょっとの時間だけ、休憩することにした。足を止めて、呼吸を整える。
だが、そんなときであった。
途端に水流が荒れ始めた。自分は水流によって、飛ばされてしまう。そして、壁に叩きつけられてしまった。
…………。
数分間、自分は気絶していた。瞼を開ける。たった今自分を、二人の精子を追い抜かしていった。彼らの行く先を見る。遠くの方で、独走いている者が一人。
なんということだ。せっかく、首位を独走していたのに。一瞬の油断が仇となった。あのとき休まずに、先へ進めば……。これでは、兎と亀の兎状態。
横になった体を起こす。再び泳ぐ。前の二人の背中をじっと追いかけ続ける。しかし、気絶から戻った状態ではとても本調子ではなく、その背中は徐々に小さくなっていった。
と、その時だった。畳み掛けるように、前世の思い出がフラッシュバックしてきたのは。
小学二年のときの、運動会のリレー。自分は、前の人の背中をじっと追いかけ続けていた。さっき自分は、彼に追い抜かされた。
必死になって走った。リレーはチーム戦であり、自分の敗北は他人の敗北となる。自分が原因で負けたりしたら、皆から責められる。文字取り、石を投げられる。そうなるのが目に見えていた。
だが、背中は小さくなる一方。ワザと転んでしまうという手が脳裏を過ぎった。けれどきっと、それでもいじめられるだろう。自分は結局最下位になったまま、次の人にバトンを渡した。バトンを貰った彼の表情は、宝を盗られた鬼のようだった。
人よりも足が遅い自分は、他もこともだいたい駄目だった。勉強だってできなかった。絵だって下手だったし、手先は不器用だった。テレビゲームとかそういう類のものすら苦手だった。
運動会でわざと転んでしまうと考える自分は、性格だって悪かった。
高校を卒業し、会社で働くようになっても散々だった。上司とはまともにコミュニケーションが取れないし、仕事の段取りも掴めなかった。コピー機を使うだけでも戸惑ったり失敗したりした。
会社から退職を勧められその通りにした自分は、何を血迷ったかトレーナーになることにした。トレーナーを止めてから、会社に勤めるのが一般ルートなのに。けれども自分は、まずポケモンまで指示の声が届かなかった。滑舌も悪いので、声がやっと届いても、ポケモンが聞き取れないこともしょっちゅうあった。バッチは一つも集められなかったし。ポケモンを捕まえるのも下手だった。相性すらまともに覚えられなかった。戦績は圧倒的に黒星の方が多かった。ついには、モンスターボールの中身がいつの間にか空になっていた。
競争社会で、どうしても自分は上にいけなかった。どんな世界を歩いても自分は、最下層を漂い続けていた。
気がつけば、自分は完全に足を止めていた。走るという動作を、体が嫌がっていた。
自分は、もう生きるのが嫌になった。生きてもどうしようもないという考えが、脳内を支配していた。
前世のときの特性は、来世でばっちりと受け継ぐ。ポケモンになってもそう自分はどうせ、また誰にも勝てないで終わる。
自分はもう駄目だった。さっさと死んで、辛い感情から逃れたい。
さっきの水流が荒れた場所にいこうと思った。もう一回水流が荒れてくれれば、死ぬか気絶かする。それで楽になる。
自分は振り返った。
と、その時だった。
自分の視界がほとんど白一色で埋め尽くされた。白いものの正体は、勿論オタマジャクシだ。皆、必死になってこっちに向かってきていた。
自分はこれだけの数に、現在勝っていることになる。
自分は、再び前を向いた。走り出した。
もう一度思い出してみた。確かに自分は、どんな状況に置かれても常に最下層を漂っていた。けれども、自分よりも駄目な奴はどんな状況においてもいた。いたはずだ。
運動会や体育の授業は、いつも見学の人がいた。
漫画本を万引きしていた人がいた。
会社を三日でバックレた人がいた。
戦わすのがかわいそうといって、半日でトレーナーを止めた人がいた。
自分よりも下な人は常にいた。ただ、それに今まで気が付かなかった。彼らを自分は、いつしか抱き始めた差別意識によって、「論外」というカテゴリーに置いていたから。彼らについて考えることすらしなかった。けれども彼らを差別せず、自分と同じフィールドで戦っているとして見たとき。確かに、自分より足の遅い人がいたし、性格の悪い人はいたし、仕事ができない人もいたし、トレーナーとして未熟な人もいた。
ぐんぐん自分は追い抜いていく。たっぷりと休息をとった自分は、自分でも恐ろしいと思うほどに速かった。やがて、ドップを独走していたオタマジャクシの姿がはっきりと見えた。
今自分は精子として過酷な競争に参加していて、その中で。生まれずに死んでいく人達を、「論外」というカテゴリーに置かずに見たとき、確かに自分はこの人達に勝っているし、今まで勝ってきたのだ。自分は他の精子を勝手に見下して、調子に乗って、勝てることが当たり前だと思っていた。それは違った。当たり前、ではないのだ。
自分は、優秀な遺伝子だ。
最後の一人も追い抜かし、自分は卵子まで一直線。
過酷な競争社会で、上ばかりを見ていたら、誰も追い越せなくなったとき折れてしまう。時には、下を見ることも大事なんだ。自分より劣っている人を見て、優越感に浸れば良い。安心感を抱けば良い。元気を出せば良い。
そうして、走れるようになれば良い。
光る丸い物体を見つけた。ラストスパートをかけた。圧倒的スピート。疲れすら追い越した。自分は槍のごとく、その物体に突っ込んだ。瞬間、光が一層強くなった。
まだ先だけど、山場が残っているけど、誕生日おめでとう自分。