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  [No.3918] 晩夏 投稿者:GPS   投稿日:2016/05/03(Tue) 19:33:37   75clap [■この記事に拍手する] [Tweet]

「ねぇ、テッカニンとヌケニンだったら、神崎くんはどっちがいい?」



カナカナカナ、という声が、湿った風を通す窓から聞こえてくる。

ホウエン地方はテッカニンが多く生息することで有名だが、彼らの鳴き方は何種かに分かれている。
焦げついた声を持つ者もいれば喧しく歌い上げる者もいるし、奇妙な呪文のように鳴く者もいる。中にはそれが人ならばそら恐ろしい言葉と思えるような、そんな声を響かせる者もいる。
しかし、カナカナというこの鳴き方は、彼らの中でも一層特別なものに思えてならない。美しくて寂しくて、儚くて愛おしい。朝と夕刻だけに聞くことの叶うこの声は、夏の暑さを乱す涼風のように、一抹の涼やかさと共に何とも言えぬ侘しさを与える力があった。

この声の在り方を、テッカニンの生き様と重ねたのは何処ぞの文学作家だったか。
切なくて、刹那。夏の終わりと共に死んでしまう彼らの泡沫的な命と、この儚い声は確かに似通っているようにも感じられた。あっという間に消えてしまう、夏の空に溶けてしまうような呆気無さがありながらも、裏を返せばそれは、限られているからこその美しさと呼ぶことも出来る。寂寥と陶酔を同時に覚える歌声は、夏であることを伝えながらも夏の終わりをじわりじわりと引き連れてくるかのようだと言われた。

「今日ねぇ、古典の時間に聞いたんだ。昔の人はね、テッカニンとヌケニンのどっちの生き方がいいか考えてたんだって。短く楽しく派手に生きるか、それとも抜け殻みたいにじっとしながら静かに密かにぼんやり生きるか」

文字通り耳許で囁かれる彼女の声が、テッカニンの声と重なっている。それは鈴を転がすような密やかさで、こそばゆい吐息と共に僕の耳朶と鼓膜を撫でるが如くに震わせた。
彼女が着ている、ブラウスの第二ボタンをそっと外す。影になった襟元から覗くのは、互いに隣り合って微かに揺れる柔い二つの塊。

「私は、すぐ死ぬのはヤだけど、でも抜け殻みたいなのも嫌だなぁって」
「決められてないじゃん。どっちでもないじゃん、それ」
「そうだけど。……ね、神崎くんは? どう思う?」

湿気と、蒸し暑さで濡れた唇がその言葉の形に動く。僕の頬をつうと滑った彼女の掌は、しっとりと汗ばみ気持ち良い。
「そうだなぁ」カナカナカナ、の声を聞きつつ僕は考える。ツチニンの進化系として知られる対極の二匹、テッカニンの真反対と言われるヌケニンはなるほど儚い声を響かせることもかなわない。「確かに、出来る限り楽しく生きたいところもあるしそれなりに長生きしたいところもあるけれど」

「だけど」
「だけど?」

だけど、それは今、重要な話であるとは思えない。
とりあえずさ、と、僕は彼女の黒髪をそっと指に絡ませる。

「今は、そういう、別なこと考えんのやめて」

――たかだか蝉ごときに、『この時間』を邪魔されちゃたまらない。

若干拗ねた風な僕の言葉に、暑さと微熱に頬を赤く染めた赤く彼女は「えへ」と悪戯っ子のように笑う。二つ外されたボタンの間から覗く、シンプルなデザインの白い肌着。夏服のブラウスと同じ色をしたそれは眩しくて、薄暗い室内でも尚明るかった。

「もちろん、そのつもりだもん」
「つもり、って」
「そういう別なこと。考えられないくらい、そういうふうにしてくれちゃうんでしょ?」

僕の首の後ろに腕を回した彼女が、指の腹で皮膚を押す。汗と汗がくっついて、ぺた、ぺた、とそのたびに体温が0コンマ1度ずつ、上がっていくような気がした。
一つずつ、ブラウスのボタンを外していく。最後に外した、下着のホックが取れると汗ばんだ乳房がふる、と揺れた。「あは」と軽く笑って僕の唇を啄んだ彼女の声も、間近で見た黒の瞳に思わず鳴った僕の喉も、荒くなっていく呼吸の音も全部全部、カナカナカナ、というそれに上書きされて消えていった。

カナカナカナ。カナカナカナ。綺麗で涼やかだと思えるそれは、西日の差し込む視聴覚室ではやけに煩い存在であった。





晩夏




彼女、黒沼百合亜のことを話すには、まずは僕のことから語らねばなるまい。

僕こと神崎青葉は少なくとも客観的に見て、優等生と呼ばれる部類に入るだろう。
成績優秀、品行方正。眉目秀麗などと自称するほどに自信家ではないが、差し当たって校則違反、常識はずれになるような外見もしていない。学級委員長を務めており友人の幅は学年性別を問わず広く、教員達からの信頼も厚い。
これが大体、僕が通うこの、カナズミに位置する一私立高校に出回っている僕という人間のデータとなる。

そんな神崎青葉は実際、中学二年生の初夏まではまさしくその通りの人間だった。
そこに、もう一つ、別な側面を付け加えたのは当時中学三年生であった一つ上の先輩だった。

先輩は僕と同じ放送委員会に入っていた。将来の夢はキー局の女子アナというだけあって、十五とは思えぬ大人びた美人だった。
僕の『初体験』は彼女の手ほどきによるものであった。
その時の衝撃と言ったら、初めてポケモンバトルをした時のそれを遥かに上回るほどだった。古びた機材が積まれた狭苦しい放送室、小さな窓から差し込む西陽。愉悦と興奮の入り混じった、先輩の獣じみた顔。女子の、というか他人の体臭をあれほど間近に嗅いだのは今思えばあれが初だった。

――「大丈夫、どうせ誰も気づかないから」

一連のことが終わって、軽く目を回して放心していた僕に先輩は言った。

――「私も神崎も、"そういうキャラ"だとは誰も思ってないからね。誰も疑わないし、みんな何を言っても信じてくれるから」

先輩の細い手が、僕の代わりにベルトを締めてくれる。僕の身体のあちこちを愛撫していた時同様、ひどく慣れた手つきだった。

――「イリュージョン、だよ。ゾロアークみたいにね。普段は別人になりすましてれば、こんなことしても」


秘密のままで、いれるから。


その言葉を最後に、先輩の表情からは妖艶さや獰猛さというものが一切合切消え去った。
じゃあ行こっか、もう歩けるよね、と微笑んだ彼女はいつも通りの、数時間前までの僕が知っていた、『優等生』の先輩だった。



僕が先輩の言うところの『イリュージョン』を使うようになったのは、それ以来のことである。
先輩が話した通り、なるほど僕の優等生ぶりは実に多くの人の目を欺いたものだった。校内で事に及んでも教師の誰も気づくことなく、むしろ準備室や特別教室の鍵を僕が借りることに何の違和感も抱かず、快く承諾してくれるほどである。
欺けるのは教師だけじゃない、生徒の皆も同じだ。先輩のように、ハナから遊びの一環でしかない子がほとんどではあるものの、中には僕が一途に自分を求めているなどと錯覚している人もいる。「こんなことするのお前だけだし」「他のヤツなんて見るわけないじゃん」という二つの文句を並べ立てればすぐに騙されるし、「二人だけの秘密にしようね」とでも言っておけば僕のことが明るみに出る不安も無い。特定の相手がいる女子だって、彼氏の方もまさかよりにもよってこの、『優等生』たる僕が手を出すなどとは思ってもみないのでさしたる不安も無く遊ぶことが出来る。

そういうわけで、僕はあの放送室で過ごした時間を境にして、優等生と下衆の二面性を持ち合わせるようになっていた。





「早く涼しくならないかなぁ」

沈んだ陽は西の空に落ち、視聴覚室は先程よりもさらに薄暗い。夏日は長いと言っても、電気を消した室内に届く光などたかが知れていた。

「まだ始まったばかりじゃん、夏。7月入ったばっかだよ」

答えた僕に、彼女、黒沼百合亜は「そうだけど」と口を尖らせる。
とりあえずスラックスと靴下、上履きだけは履いている僕とは対照的に、全ての衣服を取っ払った彼女は、透き通るように白い肌を惜しげも無く晒している。やや不健康なほどに白く痩せた肢体に平素色気は無く、こうして見ている分には劣情も沸き起こりそうにない。細くて長い手脚と折れてしまいそうな腰は、ミナモに飾られる美術品の、裸婦像のような印象を与える。

「靴下履いてると暑いんだもん」
「脱いでんじゃん」
「履いたままする方が好きなの」
「何それ?」
「へへへ」

答えにもなってない笑い声を零し、黒沼百合亜は露わになった指先で床を蹴った。脱ぎ散らかされた濃紺の靴下と、転がされた二つの上履き。幼児みたいに跳ねるこの子が、ひとたび事となれば娼婦の如く豹変するなど誰が信じるだろう。

「アン、ドゥ、トロワ」

鈴の音に似た声で口ずさみ、黒沼百合亜は軽やかにステップを踏む。
汚れた床を素足でぺたりぺたりと蹴って、くるくると回ってみせる彼女のシルエットはステージに舞う踊り子のようだった。実際、バレエをやっているだかいただかという話を以前に聞いたことがある。一糸も纏わず、身体の線だけを浮かび上がらせて薄闇を踊る黒沼百合亜からは情事に見る背徳的な色香は消え失せ、ただただ不可思議めいた綺麗さがあるだけだった。
浮き出た肩甲骨に黒髪を引っ掛け、片脚を上げて回転した黒沼は「ねぇ」と回り際に僕を見る。

「神崎くんも一緒に踊ろ」
「何それ。二回目やろうって?」
「んー、そうしたい気はするけど」

神崎くん好きだし。
小さな口で息をするよりも自然に、黒沼百合亜はそんなことを言う。

「多分、この後別の子来るし」
「そ。じゃ、僕は早めに出てった方がいいね」

僕の方も至極自然に、そんな返事をして立ち上がる。夕刻の涼しさのおかげで大分汗は引いていて、シャツを羽織っても不快感はほとんど無かった。
床に放り出した鞄を拾って扉の鍵を開ける。「んじゃ、ね」と軽く片手を振った僕は「一応服着とけば」と付け加える。黒沼百合亜は曖昧に笑った後、ステップをゆっくりなぞる裸体をぺたりと壁にくっつけた。


「また遊ぼうねぇ。神崎くん」


二面性。
あどけない少女としか思えないこの乙女が、幾人もを惑わす女だということに誰だって気づかない。

こちらこそ、と頷いた僕が扉を閉めたところでふと思う。カナカナカナという鳴き声は、いつの間にか聞こえなくなっていた。




「青葉くん」

そのまま廊下を幾らか歩いたところで声をかけられた。
「ちーっす」とおどけるように走り寄ってきたのは、同じクラスの女子の一人だった。テニス部の準エースだという彼女は快活で友達が多く、クラスでも中心的な存在である。
そして同時に、僕の遊び相手の一人でもあった。

「どうした?」

尋ねる僕に、彼女は声をひそめて「あのさ」と言った。耳にかかる囁き声。健康的な肢体に目立つ、おそらくテニスじゃ邪魔になるだろう豊かな胸部の弾力を肩に感じる。明るさの象徴のような表情が陰になり、妖しい風香となって色欲を掻き立てられた。

「今からどうかな、帰る前にさ」

誘い文句を意味する言葉。頭の中で瞬時に情報整理をすることも、もはや慣れきったことである。今使えそうな教室、自身の体力、ゴムの残機と完全下校時刻。諸々の条件を脳裏に浮かべてコンマ数秒、是の答えが下される。

「そういうことなら、喜んで」
「やった、探して正解だったよ」

そして僕は彼女と共に、何食わぬ顔をして廊下を進む。「今なら更衣室、使えるから」とプリーツスカートのポケットから鍵束を覗かせる彼女に視線だけで答えたところで教師の一人とすれ違ったが、少しだって気づきそうに無い。笑顔で挨拶する僕たちに、中年男性の社会科教師はにこやかに返事をした。
夏とはいえ、夕方の風通しの良い廊下は少し寒いくらいに思える。半袖のカッターシャツから出る二の腕が粟立った。それに気づいた彼女が、僅かに上気した自分の片腕をぶつけるみたいにして押し当ててきた。


『優等生』の皮を被って人を欺き、刹那の快楽に身を任す。
いつ死に時が来るかはわからないけれど、こんな僕はどちらかと言えばテッカニンのようだ。

などということを柄にもなく考えた僕の頭では、カナカナカナという彼らの声に重なって、黒沼百合亜のステップが聞こえた。





「ただいま」
「おかえりー」

バレー部女子と別れ、家に帰る頃には完全に日が暮れていた。

「遅かったなー、やっぱ学級委員って忙しいカンジ?」

手を洗い喉をすすぎ、リビングに入った僕を出迎えた弟、雄馬はソファに寝転がったまま顔だけをこちらに向けてそう言った。二年年前からトレーナー修行の旅に出ている彼だが、三週ほど前に我が家へ戻ってきている。一ヶ月ほど滞在するという彼は鍛えた腕を活かし、地元のトレーナースクールを手伝うなどしていた。
「まあね」僕は適当な返事をする。ふと、雄馬の見ているテレビの画面が目に入った。ポケモン関連の情報番組、家にいる時くらいそこから離れれば良いと僕は思うのだけど、我が弟ながらつくづく真面目な奴である。

「何見てんの?」
「ん? あー、バトルで相手を出し抜けるポケモン特集。こういうポケモンって、トレーナーが弱いうちは扱いにくいからまだ持ってないんだけど、俺もそろそろいけっかなあって」

いっぱしのトレーナー然としたことを抜かして雄馬は画面を見つめている。
映っているのは、剣のような姿をしたポケモンだった。「こいつ超強いんだ。ギルガルドってんだけど」雄馬が言い終わらないうちに、画面の中のそのポケモンは姿を変える。盾のような形はついさっきまでの、剣に似たそれとは違っていた。

「フォルムチェンジだよ、兄ちゃん」

僕の心を読んだように雄馬が説明してくれる。

「状況に合わせて、能力を使い分けられんだ。攻撃する時はアタッカーになれるけど、受身の時は防御力が上がるわけ」
「ふぅん」
「同じポケモンでも、二つの面を持ってるってこと」

まあ使い分けを上手く出来なけりゃ意味無いから、上級者向きなんだけどさー。などとトレーナーにしかわからないことを言う弟の言葉はを半ば聞き流し、僕は内心笑ってしまう。
状況に合わせて、二つの面を使い分ける。まるで僕や黒沼百合亜のようだと思った。普段は色の欠片も知らぬ風な顔をして、その本性は果たして何であるか。

「やっぱ強いよなぁー。ヒトツキ捕まえに行くかな」

バトルのVTRに切り替わった画面を見て、雄馬は言う。想像の中の黒沼百合亜は、校則通りの制服に身を包んでニッと笑った。





「神崎くんってさぁ、色んな子とこゆことしてるよね」

初めて黒沼百合亜に話しかけられたのは、去年の冬だった。
膝丈のスカートと、切り揃えられた黒髪。いかにも清楚な優等生といった彼女が僕の本性を見破っていることを知り、僕がどれだけ慌てたかはわからない。
しかし僕の焦燥に反し、彼女は怒ることも咎めることも嫌悪を示すこともなく、ただ嬉しそうな笑みを浮かべただけだった。普段の、箱入りの小さなお姫様の如き幼気な可愛さが掻き消え、入れ替わるようにして溢れ出すむせ返りそうな色気に息が詰まりそうだった。

「私もおんなじなんだよ」

黒沼百合亜の上履きが、一歩僕に近づいた。
ブレザーのボタンをとん、とつついた彼女の爪は丸かった。

「一人じゃ足りないから色んな子に愛してもらってるの」

ぷるりとした桃色の唇がそっと耳朶を噛んだ瞬間、僕は自分の心臓がそこに飲み込まれたのだと思った。

「だからぁ……神崎くんも、私のこと愛してくれないかな?」




「神崎くん、何ぼけっとしてんの?」

これ以上無いほど湿気の溜まった、不快極まりない視聴覚室に黒沼百合亜の声が響く。
例によって彼女は衣服を全部取っ払っており、羞恥の少しもせずに痩体を涼ませている。事が終わった後、こうするようになったのは何月頃からだっただろうか。カナカナカナ、というテッカニンの声にふと思う。少なくともこいつらの鳴き始めた頃にはもう、裸体を晒すようになっていた記憶がある。

「最初にやった時のこと思い出してた」

正直な僕の答えに彼女は全く興味を持たなかったらしい。「ふーん」とどうでも良さそうな返事をして、片足を膝にくっつけてくるくると回ったりなどしている。「これがピルエット、こうするのがピケ・ターン」とバレエの動作の一つ一つを黒沼百合亜は気まぐれに、こうして僕に教えてくれるのだけれどもあまり覚えられたためしはなかった。
彼女の踊り子ぶりはいつまでも見ていたかったが、そうもいかないので僕は目を離して立ち上がる。使ったゴムはまさか学校で捨てるわけにもいかないので、ビニールに入れて駅かコンビニかのどこぞで捨ててしまうことにしている。初めの方は黒沼百合亜に「潔癖ぃ」とか何とか言われていた行為だが、今はもう突っ込まれない。

「神崎くんってさぁ」

回転しながら僕の手元を見る彼女が言う。

「几帳面だよね」
「どこが」
「そういうとこ。他の子たち、みんなつけないもん」

彼女の言葉に僕は閉口する。別にこうしているのは相手の身体のためというよりも、僕の自衛のための方が大きいのだが。他の子、つまり黒沼百合亜を抱いている他の奴らというのは随分と、後先を考えない人間らしい。
「まずくないの?」流石に尋ねた僕に、黒沼百合亜は「平気だよぉ」とけらけら笑った。「だって出来ないもん、みんなとじゃ」浮き彫りになった鎖骨が、彼女が喋るのに合わせて上下した。その自信がどこから来るのかは謎だが、僕が言及することでもない。互いの『遊び相手』には決して踏み込まないのが、僕たちの中では暗黙の了解だった。

「六時半か……どうする黒沼、お前先に帰れば? ここの鍵は僕が返すから」

黒沼百合亜と僕は、決して一緒に帰らない。
彼女がどこに住んでいるのかも僕は知らないし、彼女の方もまた、僕の家に興味も示さなかった。
彼女は「んー」と少し考えるように間を置いた。形の良い瞳が、だらけた格好のままの僕を映す。

「神崎くん」
「なに」
「もっかいしよ」

童子のような声で囁かれたその誘いに乗らない理由は特に無い。
白い裸身をぐいと抱き寄せる。窓の外の空は未だ薄明るく、学校が閉まる時刻まではまだまだ時間があった。





「……あお、具合でも悪いの?」

雨音の響く体育館倉庫。軽い口づけを交わした後、僕の両腕に収まっていた彼女は怪訝さと不機嫌さの入り混じったような顔をした。
「いつもと違う」唇を尖らす彼女は、ダンス部に所属するコケティッシュな女子である。僕の肩ほどもない背丈にそぐわぬ豊かな肉付きと、マリルリに似た可愛らしい顔立ちは不思議と溶け合いさらなる魅力となった。やや我儘なところもあるがそれも愛嬌のうち、誰にでも愛される性格は一緒に過ごしていて楽しいものである。

僕がこんな人間でなければ真面目に交際を申し込んでいたかもしれない。
そんなことを、僕が真面目に自分だけを愛しているのだと信じきっている彼女の丸い目を見てふと考える。

「違うって」
「なんか、元気無くない?」
「そうかな」

そうだよ、と彼女はぷうとむくれてみせた。

「せっかく、私と…………、なのに」

ごにょごにょと言葉を濁らせた彼女に「ん?」と問いかけると、「やめてよ」と顔を赤くして怒った風な口を聞く。「聞こえなかったし」「言わせなくてもいいじゃん」「聞きたいなぁ」馬鹿みたいな会話を交わして、膨れた頬をつんとつつく。

「かわいいからさぁ」

ついイジメたくなっちゃって。
そんなことを言いつつ微笑めば、僕への疑いは彼女の中から完全に消える。「もう!」とぷりぷりする彼女の鼻に自分の鼻を押しつけて、僕たちは同時に密やかな笑い声を立てた。
「夏休み、どっか遊びに行こうよ」至近距離でされた提案に曖昧な息遣いを返し、再び唇を唇に押し当てる。僅かな声と息が彼女の咽喉から漏れるのを僕は確かに聞いていた。


屋根を雨粒が打つ音がする。
この悪天候じゃ、当然テッカニンも鳴きやしない。にも関わらず僕の耳の奥で響いているのは視聴覚室で聞くあの儚い声と、鼓膜をくすぐる黒沼百合亜の言葉だった。

『アン、ドゥ、トロワ』

カイスのような胸元に手を這わせても、ミミロップよりも張りのある腰に指を滑らせても、脳裏に繰り返し浮かぶのは白く痩せ細った黒沼百合亜の裸体であった。





そもそも、黒沼百合亜の幻想を、必要も無く見てしまうようになったのはいつからだろうか。

けっきょく雨は昨日のうちに降り止まず、翌日まで持ち越されることとなった。いつにも増して充満する湿り気の臭いが、教室に染み渡る汗臭さと黴臭さをさらに増しているように思う。決して新しくはないこの学校で過ごす者の不快指数は順調に右肩上がりを続けており、楽しくやっているのは校庭で合唱を繰り広げているルンパッパくらいのものだろう。
現国教師が、教科書に載っている物語を読み上げていく。見事なまでの棒読みで、授業を受ける皆の不快指数はますます上昇を極めるしかない。


雨垂れの音と教師の声を上塗りするのは、やはり今は聞こえるはずもないテッカニンの鳴き声と、黒沼百合亜の囁きだった。
アン、ドゥ、トロワ。半分が声、半分が呼吸のようなその言葉は、何千何万回も僕の脳裏を行ったり来たりしている。滑るように白い痩躯がくるりくるりと舞っては回り回っては舞い、僕の視線を翻弄した。色気も何も無い、骨董品のような彼女の身体はしかし確かな女の形をしていて、僕を誘うように踊るのだ。

カナカナという声に合わせているような、そのくせ頓珍漢にずれまくっているようなステップが、頭部の真ん中にこびりついて離れない。
回転と同時にちらり、こちらを向く流し目が夕焼けを借りて紅く輝くのが、何度も心臓を掴むみたいだった。


不意に、隣の席から汗にしっとりとした手が伸びてきて、折りたたんだ紙を僕の机にそっと置いていった。
横目で見たその主、長髪をツーサイドアップにセットした女子生徒の眼が光る。それで書いてある内容の大体は察しがついた。気怠そうに頬杖をついた彼女の、汗を伝う首筋が呼吸に合わせて上下する様子が何か恐ろしい怪物のように思えた。
開いた紙に書かれているのは予想通り、今日の放課後の誘い文句だった。校則違反も何のその、堂々と化粧を施した彼女の唇が教師の目を盗んで動く。よ、ろ、し、く、ね。その動きから読み取った言葉によると、どうやら僕に拒否権はないようだった。

頭の中で、黒沼百合亜の裸体が回転する。

以前の僕であったら、先約か用事が無い限り迷わず頷いていたのに奇妙なものだ。了承を示す微笑みを返すと、彼女は紅に染まった口許で弧を描く。
今頃、黒沼百合亜は何の授業をしているのだろうか。そんな気色の悪いことを考えたところでにわかに勢いを増した雨音が、教師の大根役者な音読を打ち消していった。





「テッカニンうるさくない?」

時計の針が四時四十五分を指す理科準備室。そこに響くのが鬱々とした雨音だということを思い出したのは、口からそんな言葉を吐いた直後だった。
「何言ってんの青葉?」棚にもたれた僕へとさらにもたれかかり、現国の時間に紙を回してきた彼女は切り揃えた前髪の下で眉根を寄せた。「鳴いてるワケないじゃん」何重にも短くされたスカートから、むっちりとした太腿を雑に晒して彼女が呆れたみたいな声を出す。「雨なんだからさぁ」

「青葉、最近ねぼけてんの? やってる間もなんか返事遅いっていうかずれてるっていうか、発情期のケッキングだってもうちょっとハッキリしてんでしょっていう」
「別に何も無いよ」
「私も人のこと言えないし、青葉が誰と何しよーが好きにしていいけどさぁ。……私としてんのに、その時に他のヤツのこと考えるのは流石に失礼でしょ」

図星を指すその言葉に驚きざるを得ない。「そんなんじゃないって」と何の説得力もない返事をしたものの、内心に思い浮かぶのは黒沼百合亜の踊る姿だけであった。
「まぁ、いいけどさぁ」ただでさえ湿気ているのにべたべたと引っ付き、肉のついた二の腕を絡ませてくる彼女のことは奔放で好ましい。化粧の濃い顔は可愛いとは言いがたいし、肉がつくべきところにはつかずどちらかといえばつかない方が良いところにばかりついた体つきも、お世辞にも見目麗しいとは言えないものであったが、しかし溢れ出るような自信と常に今を楽しむような姿勢からは言い知れぬ魅力のようなものを感じ取れた。似合わぬ髪型も大きなピンクのリボンも、カビゴンなどと罵られようとも限界まで丈を詰めたスカートも、これ見よがしに鞄につけたイーブイ族のぬいぐるみも、どれもが彼女とミスマッチであるのに不思議と一つの愛嬌となって相手のことを愉しませるのだ。
そんな彼女といる時間は好きであるし、相性も良い方だとお互い感じているものの、最近はとんと別であった。逞しい肩を抱けば薄い肩幅を思い出すし、弾力のある腰を引き寄せれば折れそうな脇腹を思い出すし、耳に砂糖の塊を詰め込むような甘ったるい声を聞けばあの、鈴の鳴るような囁き声を思い出すという始末だった。

雨音が残響になって室内をはね返る。「ねぇ青葉ー」手持ち無沙汰に、垂らした髪をいじっている彼女が羽織ったブラウスが化粧品の匂いを撒いた。開きっぱなしの前からは、僅かばかりに膨らんだ胸元と段を作った腹が覗く。

「今からどっか行かない? 駅前にさ、新しくさー……」
「ごめん、この後用事あるから」

正確に言うのなら、今思いついた用事だった。
「そうなの?」ややつまらなそうな顔をしつつも彼女は了承してくれる。ブラウスの襟を両手で弄びながら、実験器具の並ぶ棚に寄りかかる彼女に「鍵」チャラリと音を立てる鍵束を手渡した。

「僕に頼まれたって返しといて」
「わかったぁ。……ねー青葉、夏休みヒマ? どっか遊びに行こ、カイナとか」
「ん」

誰にしているのにも似た曖昧な返事。彼女のような、ハナから遊びのつもりである者なら別段構わないのだが、中には僕と秘密裏に交際していると思い込んでいる子もいるから迂闊な行動はしたくないのだ。「じゃあ」挨拶もそこそこに荷物をまとめて準備室を出る僕を、彼女はツーサイドアップを揺らして不機嫌そうに見送っていた。


「黒沼、いるか?」


向かった先は言うまでもなく、放課後の視聴覚室だった。
鍵は開いていた。雨音と水気に満ちたその空間で、黒沼百合亜の裸体が扉の向こうに描き出された。

「神崎くん」

くる、と爪先立ちで一回転して彼女は笑う。花の咲くような、それでいて花弁を一枚残さず毟り取ってしまうような笑みだと思った。

「そろそろ来るころだと思った」

後ろ手で鍵を閉めて彼女の元に歩み寄る。腕を伸ばして掴んだ肩は薄く冷えていて、肩の先まで肌が粟立った。
頭の中でカナカナカナという声がする。幻想だ。アン、ドゥ、トロワと囁く声も。しかし今両手の中に手に入れた、黒沼百合亜の存在だけは本物だった。脳裏の幻を現の雨は流してくれなかったけれど、そのどちらも本物になればいい。

合わせた舌と舌、黒沼百合亜の身体の中は炎天の灼熱よりも烈々たるものだった。





「兄ちゃん!」

黒沼百合亜と別れ、傘を片手に学校を後にしていると後ろから声をかけられた。
「雄馬」ビニール傘を右手に、コンビニ袋を左手に持って駆け寄ってくる弟に返事をする。ぴしゃぴしゃと水音を立てながら走る彼の後に続き、意外とそこまで遅くもない速度でこちらに向かってくるのは弟のポケモンであるヌオーだった。薄暗い、夏夜の雨空の中で、粘膜に覆われたその肌はてらてらと光り得体の知れぬ君悪さがある。ぼんやりとした丸顔が近づくにつれ、蒸せるほどの水臭さが増していくような気がした。

「コンビニ行ってきた。コイツの散歩兼ねて、雨だとすぐ出たがるからさ」

困ったように笑う雄馬の横で、ヌオーは太い前足を無意味にぐるぐる回している。濡れたそこから水滴が飛び、地面の水溜りに落ちて輪を作った。常時呆けた顔からはわからないが、どうやら喜びを表現しているらしい。
「帰ろうぜ兄ちゃん」強まったように思える雨足から守るように、雄馬は袋を胸に抱き寄せて再び歩き出す。隣を歩く弟に「何買ったの」と尋ねてみると、「トレーナー向けの情報誌」という答えが返ってきた。「人とポケモンが合体して戦うってのがイッシュで話題らしいから」おおよそ僕には理解も出来なそうな説明に、半ば聞き流して適当な相槌を打った。

「あ、見て、兄ちゃん」

その説明を中断し、弟は歩を止める。
彼の視線の先、陰気臭い雨粒を照らし出す街灯の一つに目を向けると、電灯付近に浮かび上がった影があった。

「ヌケニンだ! なんか久々に見たなぁ、他の地方だとあんまいないんだよ」
「まぁ、こっちはテッカニンが山ほどいるからね」
「ジョウトとかだとレアなんだよな。捕まえようかな〜でも野生の捕まえるの難しいよなぁ」

雄馬は独り言のように迷っている。
微かな明滅を繰り返す光の下に浮遊するヌケニンは、降りしきる雨にも動じずそこに留まっていた。弱い風に合わせて僅かに身体が上下してはいるものの、ヌケニン自身の意思で動いたり行動を起こしたりということは全く見られない。


いや、違う。
意思どころか、何かの意志もそこには感じられなかった。


「なぁ雄馬」
「どうした兄ちゃん」
「アイツって、何か考えてんの?」

僕の問いに、弟は「どうだろ」と煮え切らない顔をした。

「一応、指示出せば動くしポロックとかは食べるけど。タイプによるけど技だって受けるし戦闘不能にだってなるし」
「ふぅん」
「でも、……ちゃんと何か思って、自分で考えたりしてるのかって言ったらわかんない。生きてるかどうかも、普通のゴーストタイプ以上にわからないし」


抜け殻だから。


『テッカニンとヌケニンだったら、どっちがいい?」


弟の言葉に重なるようにして、黒沼百合亜が耳奥で囁く。
街灯の下のヌケニンは、ただただ虚ろな目をしてそこにいた。黒々としたそこは視覚器官でも意思を宿す部位でもなく、身体に空いただけの穴に見えた。その奥には何も無い、本当に抜け殻そのものとしか思えない。ひっきりなしに降る雨すら映さずそこに停滞する空洞は、深く暗い無と見えた。

テッカニンの生き様が良いとは言いがたいが、この抜け殻よりは幾分マシであるように思う。
「ま、捕まえるのは今度でいいや」雄馬が足元の水を跳ねさせつつ、街灯の前から歩き出す。その横を歩きながらもう一度振り返ると、寸分違わぬ位置のままヌケニンが相変わらず浮いていた。
ヌオーの両足がアスファルトを踏むたびに水の跳ねる音がする。ぴちゃりぴちゃりと鼓膜の奥底まで濡らすようなその音を浴びて、テッカニンの声に包まれた黒沼百合亜は雨粒よりも軽く、純白の羽を持つチルタリスよりも軽やかそうに舞っていた。





いよいよ限界が近いのではないか、と思ったのは薄暗い、プール脇の更衣室でのことだった。

ぼくの腕の中で断続的に身体を震わせているのは何人目かの遊び相手、昨年度同じクラスであった女子生徒である。
水泳部に所属している彼女の肌は七月を半ばにした今すでに黒く焼けていて、筋肉に引き締められた肢体は健康的な色をしていた。黴っぽい壁に両手をつけて喘ぐ、彼女のうなじにショートカットの襟足がかかって揺れている。掴んだ腰を引き寄せるようにして体内を強く突き上げれば、汗を伝せる細い喉から湿った空気を裂くような声が漏れた。

僕たちが付き合ってるの秘密にしよう、などとうそぶいたら、彼女は顔を真っ赤にして口許を緩ませた。それが今年の初め、温暖なホウエンでもまだまだ寒さが深かったあの日以来、彼女はずっと僕だけを愛しているようだった。

「あ、っ……あおば、くん…………?」

甘い嬌声、濡れた瞳。薄闇の中でもわかるほど、上昇する体温に赤くなった肌。
普段ならば醜い、優等生の皮の下に隠したどうしようもない劣情を掻き立てる以外の何でもないそれらはしかし、黒沼百合亜の幻想に残らず上塗りされていくようだった。網膜が見たいと叫ぶのは黒沼百合亜の華奢な体躯、鼓膜が聞きたいと喚くのは黒沼百合亜の囁き声、手が足が我が身の全てが触れたいと主張するのは低体温の白肌なのだ。そしてその欲求に応えるようにして、頭の中では黒沼百合亜が幻を舞う。

たとえこの、ポニータのような美脚を持つ女子生徒に愛されていたとしても、僕はきっと少しも満たされないのだとその時確信した。
彼女に限った話ではない。誰だろうと同じなのだ。たとえ何人の相手に僕が愛されたところで僕はもう、満足であると言い切ることが出来なくなっていた。

ただ一人、黒沼百合亜を除いては。


アン、ドゥ、トロワ。
カナカナカナという声が頭の中を埋め尽くす。


ここに来る前立ち寄った、鍵のかかった視聴覚室を思い出す。
今頃、黒沼百合亜は誰と何をしているのだろうか。誰とかなど考える意味が無かったし、何をだなんて考える必要も無い。ただ、彼女が今、自分を置いているのであろう状況を思い描くだけで言い様の無いほど鬱屈した苛立ちにも似た感情が、腹の底から臓腑を這い上がってくるのを僕は感じた。


『アン、ドゥ、トロワ』


ステップが耳奥を徒らにくすぐる。
それを掻き消すように僕は、目の前の日に焼けた身体を乱暴に抱き寄せ一層強く腰を打ち付けた。





黒沼百合亜の幻想を脳裏に持ったのはいつからだろうか。

それを思い出そうにも上手くいかず、記憶の糸を辿った先ではいつだって黒沼百合亜があどけない笑みを浮かべて糸をつまんでこちらを見ており、絡めたそれを放り出して僕の眼を見て首を傾げるのだ。
テッカニンが鳴き始めてからのことのようにも、テッカニンが鳴く前からのことであるようにも思えてならない。ただ、頭に浮かぶのは常に白い痩躯を全て晒して踊る彼女の姿であることに変わりはなく、カナカナカナという声の中を泳ぐように飛ぶように、あるいは駆け抜けるようにして踊っているのだ。

抜けるような白い身体でくるくると舞う黒沼百合亜は、校則通りの制服を脱ぎ捨てて、まさしく生まれたままの姿であるのだと思わせた。

まるでオルゴールの中にいる機巧人形のようなその姿を、ずっと見ていたいという感情は何であろうか。
遊び相手の女子の大半が好む、甘いメロドラマや少女漫画などによく見られる独占欲とはまた毛色の違うものだという確信があった。僕は単に、彼女を独り占めしたいというだけではなかった。そんなに簡単な、単純な、人情じみた話では無いのだ。それは相手を束縛したい、自分に縛りつけたいという感情というよりも、どちらかといえば。

『ヤミカラスは光る物や輝く物を集め、自分の巣に持って帰るという習性を持ち……』

そういった、心の根本に根差した欲望であるように思われた。

久々の帰郷の時ぐらいそこから離れれば良いのに、またもやポケモン番組を見ている雄馬と並んでテレビの画面をぼんやり見つめる。
愛してくれればいいの、と黒沼百合亜は言った。みんな私のこと愛してくれるから、と黒沼百合亜は微笑んだ。僕としてもそれで十分だったはずだ、遊び相手になってくれればそれでよし、好きだの愛してるだの睦言を囁いてくれれば尚のこと。僕が望むことは、黒沼百合亜と同じだったはずなのだ。

それが変わったのは何故なのか。黒沼百合亜の、夕陽に染まった紅の瞳が光る。


僕以外に愛されて欲しくない。
僕以外を愛して欲しくない。


おおよそ彼女の意向とはそぐわぬその欲望は、校庭に住み着くテッカニンの数と比例するように膨張を続けていた。
テレビのスピーカーから漏れる音を上滑りさせた鼓膜の奥では、相も変わらず視聴覚室の、重なっては解ける二種の声が響いていた。



その渇きが頂点に達したのは、夏休みの始まりを三日後に控えた放課後だった。


「ごめん」


時計の針が五時四十五分を指した音楽準備室。
それまで肩を抱いていた両腕をだらしなく下ろし、唐突にそんなことを言った僕を、その子はきょとんとした顔で見つめた。

「え…………?」

何言ってるの青葉くん、と僕の名を呼んだ彼女は、僕を一途に好いている隣のクラスの女子生徒だった。君だけを愛してるなどという僕の拙い甘言を易々と信じた彼女は、僕のその一言が信じられないとでも言うように、開かれたブラウスの前を閉じることすら忘れて引きつった笑いを浮かべる。薄桃色の肌着が、セミロングの髪とブラウスによって見え隠れする。

「ごめんって、……え? 嘘でしょ、青葉くん、」
「嘘じゃない。もう、君とこういうことは出来ないし、君のことを愛せない」

罪悪感も背徳感も、僅かにだって湧かなかった。
顔色を失って立ち尽くす彼女に僕はそれきり何も言わず、背を向けると同時に走り出す。音楽準備室を飛び出した僕の頭には、後から彼女に何と弁明するのかとかどう落とし前をつけるのかとか、一切を教師に言いつけられたらどうなるのかとか、諸々を考える余裕など残されていなかった。カナカナカナと鳴き喚く、テッカニンの声が響く廊下をひたすらに駆け抜ける。向かう先は視聴覚室、黒沼百合亜の居るはずの場所だ。


「黒沼ッ……!」


「っは、……あ、んっ…………あれっ、かん、……ざき、くんっ…………?」


疾走の勢いのまま、開けた先の光景に僕は絶句する。
予想していた光景だった。というより、わかりきっていた、ある意味では彼女から直接報らされていたことだった。示し合わせていない時間は『別の子』に『愛してもらう』のだと、いつだって彼女は言っていたのだから。

「あっ……!? 神崎!?」
「何でお前ここにいんの!?」

汗だくでこちらを向いた、黒沼百合亜の裸体に群がっていた男子生徒たちが驚いたように僕を見る。
入り混じる体液の臭い。床に脱ぎ散らからせた夏服。絡み合う熱気と湿気。痩せ細った体躯を貪っていたのは同じ学年の男五人、多分に黒沼百合亜の『愛してくれるひとたち』。

生々しくて、下品で、卑しさを極めた光景だった。
カナカナカナという繊細な声がそこを上塗りして、その下劣さはより一層際立った。


「神崎くん?」


彼女以外を愛することが出来なくなった。
彼女が僕以外を受け入れるのも許せなくなった。

積もり積もった感情が、心の内で叫び声をあげる。


もう、限界だ。



「そいつから離れろッ!!」


叫んだ僕に、男子生徒たちは一様に目を見開いた。黒沼百合亜でさえ、驚いた風に瞬きを繰り返した。
しかし皆の驚愕に付き合ってはいられなかった。胃の中のものがせり上がってくる吐き気も、頭に血の全てが昇りそうな怒りも、心臓を握り潰されそうな切迫も、爪先から脳天を駆け巡る興奮も、僕の外側にあるようだった。

ただ、ただ、感じていたのは限界だけだった。


「出ていけ」

僕の本性など、彼らが知る由もない。
『先生方からの人徳もある優等生』に命令され、彼らは口惜しさと腹立たしさと苦々しさ、そして怯えの入り混じった顔になる。「行くぞ」「……クソッ」「急げ」などと口々に言いながら、彼らは乱れた制服を直すのもそこそこに、慌ただしい足取りで教室の扉を越えていく。
「おい、神崎」最後に残った、最も体格が良く最も厳つい印象を与える男子生徒が退室間際に僕の肩を叩いた。

「チクんじゃねぇぞ」

誰が言うものか。そもそも言える立場じゃない。
そんな馬鹿正直な返事をするはずもなく、僕はただ「今はそれどころじゃない」とだけ答える。それは僕の本心ではあったが、彼はどう受け取ったのか険しい目で僕を睨み、そして乱暴に扉を閉めた。

彼らの出て行った視聴覚室で、黒沼百合亜はぼんやりと突っ立っていた。
いつものように、一糸纏わぬ惜しげもない全裸姿で。「怖かったぁ」体温の上昇のせいか、紅く染まった唇を前に突き出して彼女は言う。

「神崎くんも、あんな風に怒鳴ることあるんだね」

精巧な美術品みたいな裸体。翻る黒髪。
とぼけた顔をして、彼女はふざけてステップを踏む。アン、ドゥ、トロワ。まるで呪文みたいにそう口ずさんで、黒沼百合亜は踊っている。

この舞姫が僕だけのものにならないか、なんて。
思いもしないはずだったのに。


初めから、わかってたことじゃないか。
そもそも僕だって、同じことをしてたじゃないか。
同じ穴のマッスグマ、クズはクズ同士で楽しくやるのだと、全部そういうつもりだったじゃないか。

なのに、どうして。


「どうしたの、神崎くん?」


彼女の白肌を、僕以外の誰かが赤くすることが。
彼女の体内を、僕以外の誰かが埋めることが。
彼女の心音を、僕以外の誰かが速くすることが。
彼女の唇を首を肩を腹を腰を尻を太腿を膝を脹脛を踝を爪先を、その全てを、僕以外の誰かが触れることが。

彼女のことを、僕以外の誰かが愛することが。


「神崎くんも、したいの?」


こんなにも、嫌でたまらないのだろう。



「黒沼百合亜、お願いがある」

そう、口を開いた僕はどんな顔をしていたのだろうか。
少なくとも笑ってはなかったと思うし、外面用の優等生ヅラでも無かっただろう。おそらく無表情、少なくとも向けられて良い気のするものではない。
それなのに黒沼百合亜は、何も気にしていないようにこちらを向いた。ステップを踏む足は止めぬまま、あどけない笑顔で「なぁにぃ」とゆっくり、そう言った。
ころころと耳の中を転がるような彼女の声は、窓の外からカナカナと響いてくるテッカニンの声にともすれば掻き消されてしまいそうだ。美しくも儚いはずのその鳴き声が、今では喧しくてたまらない。ジィジィという声よりもミンミンという声よりも、どんなテッカニンの鳴き声よりも、それは厄介極まりない邪魔な音でしかない。

「黒沼百合亜」

その声を遮るように吐き出した僕だったが、テッカニンたちは気にせず鳴いたままである。

「僕以外と、もう、しないで」

カナカナカナ。
カナカナカナ。

「神崎くん。それは無理だよ」


カナカナカナ。
カナカナカナ。

カナカナカナ。

そこで気づいた。
僕は黒沼百合亜と出会ってから一度だって、この切ない鳴き声のことを、美しいとも儚いとも思ったことなど無かったのだ。

黒沼百合亜との時間において彼らの声はいつだって、喧しくて煩わしくて五月蝿くて厄介なものでしかなかった。


「どうして」

自分でも笑えるくらい、縋るような、必死さの溢れた声が出た。
しかし笑うことは出来なかった。そんな情けない僕に黒沼百合亜は何を感じたのだろう。きっと何も感じてはいないのだろう。片足を曲げて膝につけ、彼女はくるりとターンする。ピルエット、完璧な弧を描いた細腕が、蒸した空気を掻き乱す。

「神崎くんじゃ、私を愛せないよ」

腰から首を捻ってこちらを向いた黒沼百合亜はそんなことを言う。ぱさり、と黒髪が鎖骨を隠して揺れた。

「私を愛するのは、ひとりじゃ足りないもん。いっぱい、たくさんの人に愛してもらわないといけないんだもん。だから、神崎くんだけじゃだめなんだよ。もっともっともっと、たくさん、愛してほしいんだもん」

いつか聞いたみたいなことを黒沼百合亜は繰り返す。「いっぱい、いっぱいだよ」子どもみたいな声と口調と身体つきに、やや膨らむ乳房がアンバランスでやけに艶かしい。「いっぱい、いっぱい、愛してもらわないとだめなの」

「私はいーっぱい、愛してもらわなきゃ」
「愛せる」

僕は即答する。
「お前のことなら、いくらだって愛してやる」握り締めた両手に汗が溜まっていくのがわかる。「愛なんて欲しいだけくれてやる」何もしてないのにも関わらず、カッターシャツの下が熱くなっていくのを感じる。黒沼百合亜はこてん、と首を傾けて、上げていた片脚を床へと下ろして僕の方を見た。

「でも、神崎くんは私以外にも愛してる子、いっぱいいるんでしょ?」

爪先立ちで細かく床を踏んでいる彼女に僕はまたしても即答する。「僕は君しか愛せない」繊細な動きで足踏みをする、この動作のことは何といったのだっけ。彼女の教えてくれたその単語を思い出そうとするも、カナカナという煩い声がそれを邪魔する。
うるさい。カナカナカナ。うるさい、うるさい。
僕のこの時間は、この場所はこの耳は、彼女だけを愛するためにあるというのに。

黒沼百合亜が、足踏みをやめて僕の両眼を直視した。


「ホント?」

アーモンド形をした綺麗な瞳。

「本当だよ」

そこに映った僕が頷いた。


「じゃあ、神崎くんの全部、私にちょうだい」

彼女が言う。もう、僕に深く考える余裕など残されていなかった。「いいよ」熱くなっていく頭が口を動かしている。「全部あげるから、僕の全部あげるから」僕の意思とは関係無く、いや、僕の意思など何処かへ消えてしまったように、口が勝手に動いている。

「だから、僕だけにしてくれ」
「うん。わかった」

黒沼百合亜の唇が緩やかなカーブを描く。
カナカナカナという音を背負って、黒沼百合亜は僕に一歩近づいた。

「神崎くん、全部使って私を愛してくれるって誓う?」

理性なんてない。

「誓うに決まってる。だから」

本能で言葉を紡ぎ、誓いを立てる。


「黒沼百合亜も、僕しか愛さないって誓ってくれ」


カナカナカナ。
カナカナカナ。
鼓膜を揺さぶるその声は、高く聳える包囲壁のように僕を取り囲む。

まるで事の最中にも似た心地で、彼女の中に僕の全てを突き入れるような思いで、僕は彼女に言葉をぶつける。

不意に思い出した。
テッカニンのように生きるか、ヌケニンのように生きるか。刹那を謳歌するか、抜け殻として密み続くか。
神崎くんはどっちがいい? と問いかける、彼女の声。

もしも彼女を僕だけのものに出来るならば、僕は前者で構わない。
黒沼百合亜が僕のものになるのなら、今すぐにだって死んでもいい。

本気でそう思った。



「誓ってくれ」


「いいよ。誓う。神崎くんが全部で私を愛してくれるなら、大丈夫だから」



黒沼百合亜は、そう答えた。

「愛してるよ、神崎くん」

黒沼百合亜の声は、テッカニンの鳴き声を凌駕した。

「だから、私を愛してね」

黒沼百合亜の裸体が、薄暗闇の中に白く浮き上がった。


「私に全部、愛をちょうだいね」


黒沼百合亜の、二つの瞳が、窓から見える夕焼けよりも赤く赤く、輝いたようだった。


唾液に濡れた紅い唇で囁かれた黒沼百合亜の言葉は、魔法の呪文みたいに聞こえた。
彼女の指先が僕の頬をなぞる。しっとり濡れたそこは妙に甘ったるい匂いを醸し出し、湿気た視聴覚室では噎せるほどの強烈さだった。もう止まる理由も枷も理性も残っていない。今すぐ全ての衣服を脱ぎ捨てて、彼女と同じようになりたかった。全部全部邪魔だった。今はただこの目の前の、僕だけの踊り子となった黒沼百合亜の、黒髪も肢体も臓器も心も何もかも、この僕に染め上げなくては気が済まなかった。

そして僕は返事の代わりに、その唇に噛み付いた。


カナカナカナ、という声はもう、耳にすら入らなかった。







目を覚ましたら、白のベッドの上だった。



あの視聴覚室で僕は、気を失って倒れていたらしい。授業に使う機器を取りに来た際に僕を見つけた社会科教師が救急車を呼び、病院に搬送されたということだった。
三日間意識を取り戻さずに眠り続けた僕は、四日目の夕方にようやく目を開けたのだ。

医者は僕の症状を、腎虚によく似た、またそれが酷くなったようなものだと説明した。
詳しい検査はまだこれかららしいけれど、おそらく一生、手足に麻痺が残ったり臓腑の不全がある可能性が高いだろうと告げられた。

そして、生殖機能はもう二度と、回復する見込みが無いと語られた。

淡々とした態度の医者も、顔色を失った父親も、泣き通しの母親も、神妙な顔で見舞いに来た担任も、誰も彼女のことは話さなかった。


黒沼百合亜のことは、誰も知らぬようであった。




「兄ちゃん、キルリアって知ってるか」

ベッド脇の椅子に腰掛けた雄馬が言う。僕はベッドに寝転んだまま、窓の外の紫がかった夏空を眺めていた。窓が開け放された代わりにエアコンの切られた病室は蒸し暑さと風の爽やかさが入り混じっていて、薄い病院着の下で汗ばむ肌はしっとりとしていた。

「あのな、その……兄ちゃんの症状、俺、すごい似てるやつ知ってんだ」

自分の肌が、いつかの彼女のそれと重なった。下着を外した弾む乳房、ブラウスの中の細い腰、スカートの奥に手を伸ばして触れる柔らかな太股。僅かずつに濡れていくのは彼女の肌か自分の手か、判別もつかなかった。

「ドレインキッス、って技使うんだ。相手の体力とか吸い取って、自分の力に変えるんだよ。サーナイトになるための力にする。バトルでももちろん使うんだけど、……たまに、人間がそれ、やられることがある」

窓の向こうから聞こえる声も同じだった。カナカナカナ、と鳴く種類のテッカニンの声。日が暮れてから鳴き始める彼らの声を、思えば何度も聞いたものだった。

「旅で知り合った人に聞いた。かわいい見た目につられた人間騙して、その人の全部を吸い取っちゃうんだって。キルリア一匹でも、獲物にされたら命沙汰だし助かっても、その…………」

言いづらそうに言葉を切った、バトル好きの弟の言わんとすることなど嫌でもわかった。カナカナカナ。弟の台詞を遮るみたいにしてテッカニンは鳴いている。

カナカナカナ。カナカナカナ。
カナカナカナ。

カナカナカナ。

繰り返されるその声はもう、綺麗だとも涼やかだとも儚いとも、そして、煩いなどとも思えなかった。


「これ、キルリア。見たことあるか?」


雄馬の差し出した図鑑に表示されたそのポケモンは、まるで踊り子のような愛らしさだった。

ほっそりとした白い手足、きゅっと見つめる大きな瞳。

黒沼百合亜が似てるのか、黒沼百合亜に似てるのか、その答えはもう、わからない。


命を燃やし尽くしたテッカニンの死体が、地面に一匹転がっているのが見えた。
テッカニンの一生は短くて、野生のものは夏が終わると同時に死んでしまう。明るく、楽しく、派手に生を謳歌して刹那なる時を送って地面に還ってしまう。そんな儚くも美しく生き様を、カナカナという鳴き声に重ねたのは誰だっただろうか。

僕の夏も終わったのだ。
しかし僕は還れない。

一生彼女のことを思い出しながら、抜け殻として生きていくのだろう。


あの虚ろな眼をした、ヌケニンのように。



「兄ちゃん…………」



カナカナカナ。
テッカニンは鳴いている。
夏は続いていく。

アン、ドゥ、トロワ、と口ずさみながら上履きで踏む、黒沼百合亜のステップが耳の奥にこびりついていた。