じーころじーころ。
蝉がジワジワ揚げられるように鳴いている。
テッカニンとかではない。ここはホウエンではなく、あんな格好良い虫ポケモンとは縁遠い陸奥の糞田舎だ。
どのぐらい糞かというとまずポケモンセンターがない。最寄のポケセンは県庁所在地で、バスで一時間半ほど山を降りたのち電車で六駅かかる(補足しておくと、この六駅のうち四駅は無人駅であり、線路間で山を二つ超える)。トレーナーもぜんぜんいないからバトルも発生しないし、そもそも人がいないので目も合わない。盆と正月以外は基本的に爺さんと婆さんしか居ない。分校通いのクソうるせえガキどももいるが、俺と同年代の奴はパッタリいない。そういう連中のうち正気の奴はもうとっくにこんなクソミドリを出ていってしまったのだ。ポケモンもいない、野生じゃコラッタとポッポとキャタピーとビードルぐらいしかいない。しかも俺がボーッと村役場の図書室で読んだ図鑑から鑑みるに平均的な個体より明らかに身体が小さい。さらにググるとド田舎で競争が発生しない環境ではヒエラルキー上位のポケモンほど体格が小さくなったりするとかいう与太を発掘してしまった。もちろんそんな貧相なポケモンでバトルがやれるわけもなく、このへん出身でトレーナーになった奴とか全然知らない。農業開拓したナントカっつう偉い爺さんが持ち込んだケンタロスが僅かばかりの潤いだが、それだってこのドドド田舎の伸びきったゴムみたいな空気にやられて図鑑や風評の雄々しさからは信じられない、というか本当に同種ですか? というぐらい表情がゆるい。完全にゆるみきっている。腹周りもだるんだるんである。しかし人(人?)のことは言えない、毎朝起きたときの俺の表情もだるんだるんである。なにしろ北国なにするものぞ、この盆地、糞みてえに暑いのであった。
「あ゛つ゛い゛」
口に出しても現状を確認することしかできない。暑い、とにかく暑いのである。かろうじて舗装されてる家の前の道路に逃げ水が見える。もう洗面所で水を上半身が水浸しになるほど浴びて居間の畳に寝転んでは耐えきれずまた洗面所へ向かうことを繰り返している。庭のほうを見ると小屋の給油タンクの影でいつものポッポ二匹が伸びている。さっきから見てるが、あいつら影が動くのに合わせて移動してんな。賢いんだかアホなんだかわかんねえが。
死にかけている垣根の知らん花の手入れもかねて水をぶちまけようと思い至って外へ出る。太陽は死の日差しで容赦なく引き籠りの肌を焼く。負けやしない、家の敷地内までなら俺は無敵だ。ホースを取る、焼けつくように熱い。「あっつ」耐えかねて取り落とし、諦めて先に蛇口をひねる。ホースが息を吹き返すようにのたうち出し、水が沸き出る。にわかにポッポどもがくっくくっくと騒ぎ出す。
「もっとだ……もっと地面にへばりついて乞え。さすれば恵みをやろう」
このポッポどもはもちろんうちのポケモンではない。がっつり野生である。しかしよくうちの庭を荒らしにくるので、昼間は自宅の警備を副業とする俺とは因縁があった。幾度となく繰り返された戦いの末、うちのケンタロスにやるエサを若干分ける方向で停戦協定が結ばれた。人間にたかったりなどせず、ポッポならポッポらしくキャタピーでも喰ってればいいのである。ポケモンとしての尊厳みたいなものはないのか。だがキャタピーでも糸ぐらいは吐いてくるわけだし、つまりこのポッポどもは安定してエサを得るためにプライドを放棄した怠惰者というわけだ。なんだ、俺と同じじゃん。
どうせ部屋着の「ダイナマイトバタフリー」とか書いてあるクソTシャツだったので、一発頭から水を被ってシャッキリしたのち、指で潰したホースの先からみずでっぽうを繰り出してくっくくーとわめくポッポどもを強制的に黙らせていると、不意に腹が減ってきた。
あー。
「そうめん喰いてえな」
思わずつぶやくと、ポッポ二匹がおのおの「くっくー」「くっくどぅー」みたいなことを言い出した。
「マジ? お前らもそうめん喰いたい系?」
ポケモンに人語は通じるのだろうか。分からんが、少なくともこいつらが昼飯を喰ってないのは確かだ。ずっと庭にいたし。
「仕方ねえな〜」
いや〜仕方ないな〜。ポッポに餌をやるためなら仕方ないな〜。秘蔵の流しそうめん装置を展開しちゃうとトラクター小屋に戻ってこれなくてキレられるけど、ポッポに餌やんなきゃいけないし本当に仕方ないな〜。
こちら、竹を叩き割って作られたマジモンの流しそうめん装置である。ちょっと竹そのものが育ちすぎていてデカいのが御愛嬌だが、おかげさまでホースを固定しやすくてそうめんの流しやすさが高まっている。代わりに箸ですくうのが難しくなっているので、プラチックの先割れスプーンを使用するのがよいとされている(俺の心の中で)。流しそうめんとはいえ流すと流れていってしまうというジレンマめいた欠点があるため、普段は傾斜をゆるやかにしてデカい竹の入れ物を麺が漂っているみたいな感じで使用されるが、今日は俺一人だし、昨日食ったうどんめちゃくちゃ余ってるし、流しうどんでいこう。問題ない、流しそうめんであると認識すればあらゆる麺類は流された瞬間にそうめんと定義されるのだ。問題ない問題ない。
ポッポと流し損ねたうどんを受け止めるザルを水流の終着点に配置し、ドンキで買った自動麺流しを居間に設置。縁側から庭の真ん中ぐらいまでに向かってゆるやかな傾斜で竹を設置する。うど……そうめんをひとつまみ流してみて、うん、いいぐらいの速度だ。これなら流されているそうめんを掴むという流しそうめんの大目的を果たして満足することができる。流れているのはうどんだが。
ポッポたちも俺の掴み損ねたベータテストそうめんを律儀に待って食べている。わざわざ流れているところへ飛んでこないあたりは行儀がいいのか怠惰なのかわからないがたぶん後者だ。ここは俺が人間様の意志力というのを見せてやる。人間とは、流れてくるそうめんを箸で掴むという徒労のために二十分かけて準備ができるもののことを言うのだ。流れてくるのはうどんだが。
さて……真夏の流しそうめん、スタート!
第一そうめんを先割れで獲得。巻き取るようにして逃がさない。完全に逃がさないとポッポどもが可哀想だが、俺は俺の不器用を完全に計算に入れているので全部取ったりはしない。というか出来ない。というか半分ぐらい逃がした。悲しい。既に溶けかけた氷で薄くなりはじめているつゆにくぐらせて喰らう。ああ……冷たい。冷蔵庫から出したばかりの麺が神の冷たさ。炭水化物とつゆの塩味がすきっ腹に染みる。
「最高だぜ」
こんな無駄のためならいくらでも努力ができる。どうだ、これが人間様というものだ。
「くっく」「くっくズズー」
見てないですね。
気を取り直して第二玉の進撃を待つ。おらッ来いよ! こちとら準備はできてんだよ! と思いながら、射出されたそうめん(そうめんとは言ってない)を視認した俺が先割れを構えた瞬間――
ぺひゃん。
という音を立てて、上空より飛来した、何かが、ちょうど流れくるところだったそうめんの中に混入した。
「あっ」
混入した何かは、動物――おそらくポケモン。見たことのないポケモンだった。地域図鑑にないっつうことはこのへんに生息しているポケモンではないはずだ。生まれたてのネズミみたいななまっちろいピンク色で、大きさは20cmぐらい。竹の中を、そうめんに絡まりながらゆっくり流れてくる。尻尾が長く、そうめんに混ざって本物のそうめんのようになっている。
そして、そのまま流れてくる。
そういう……そういう準備はできてない……!
しかし俺の手は既にそうめん迎撃モードのスイッチがオンされてしまっている。もうそうめんをすくう手を止めることなどできない。
俺の先割れは無慈悲にも、流れてくるポケモンごとそうめんを受け止めた。そしてつゆにぶち込んだ。
「みうー」
器に収まりきらず、茶色いつゆの中で、半身そうめんに絡まりながらポケモンは鳴いた。そりゃあ鳴きたくもなるだろう。俺もちょっと泣きたい。
まじまじ見つめると本当に見たことがないポケモンだった。耳は三角形でケモノっぽいが、フォルムは流線型で、つるつるした感じがする。前足はほぼ手だが後ろ足が大きく、尻尾はそうめん。目につゆが入ったら痛いと思うので、半身で突っ込んでいるつゆから指でつまんで持ち上げるとまた「みうー」と言った。ふにふにしていて、細かい産毛につゆが珠みたいにくっついている。
一瞬遅れて、つままれたまま足先をばたばたしはじめた。その一挙だけでとりあえずどんくさいということは分かった。
「なんかもう……気をつけろよ!」
言葉がまったく浮かばず、とりあえずそう言って、つゆを泣く泣く捨てて流れてくる水で洗い、地面に降ろす。
「みうー」
だが地面が熱かったのか、一瞬目を見開いてから地面を蹴ってふわっと跳ねた。あっ違う、飛んでる! こいつ飛ぶぞ! そういやさっき上から来たな!?
明らかに物理法則をシカトして浮かび上がったそいつは、しばらく空中をうろうろしたのち、何を思ったのかふたたび流しそうめん装置に飛び込んだ。
「あっ」
おま……お前ーッ!
「みうー」
それ水浴びかーッ! 水浴びのつもりだなーッ! 流れるプールだなーッ!
「違ぇよ! それ俺の昼飯だよ!」
竹の中を流れていくそいつの表情はやすらかだった。お前、今の「みうー」は「ひんやり〜」みたいな感じだなーッ! お前ーッ!
「許さん、お前はそうめんじゃねえ、うどんだうどんッ!」
俺は復讐を誓った。そうめんを台無しにしたうどん、お前をこのまま生かして流し続けるわけにはいかないッ……!
流れてはポッポたちの前に流れ着き、ふよふよと起点に戻ってふたたび流れてくるそいつをすくい上げようとする俺のあくなきバトルが幕を開けた。ポケモンと闘うという意味では完全にポケモンバトルだし、もはや俺はトレーナーであると言える。トレーナーの矜持にかけても絶対にお前をこのまま流しそうめんにはさせない、必ずや掬い上げて、お前がうどんであることを証明してみせるッ……!
いざ尋常に、そうめんッ!
*
俺が「みうー」と格闘している間に、ポッポたちは流れ着いたうどんをたらふく喰い、充分に水を浴びて満ちたりた表情で去っていった。
一方の俺はなぜか逃がす隙間などないはずなのにうどんを捕まえることができず、ムキになった結果しっかり汗だくになり、戻ってきた親父に「邪魔だオラーッ」とキレられた。もう死にたい。
「みうー」
そんな俺をあざ笑うかのように、うどんはまだ縁側にいる。「暇潰しはもうポッポがいるでしょ、帰してきなさい」と言われたので来た方向に帰そうと何回か空に投げたのだが投げても投げても戻ってくるので、あきらめた。明日、軽トラで山に戻してこようと思う。