8月の終わりに、実家の母から呼び出しをくらった。自分の部屋にクーラーがないので、正直帰るつもりなんてこれっぽっちもなかった。今月提出のレポートも全然書けてないし、遊ぶ予定もバイトもある。でも、母があまりにしつこく電話をかけてくるので、しぶしぶ帰ってきたのだ。一浪して大学に合格し、この春一人暮らしを始めてから、実家に帰ってきたのはこれが初めてだった。
「タクオ、どうせ暇なんでしょ。部屋、なんとかしなさいよ」
部屋の中は、3月に荷物をまとめきれずにバタバタと出て行った、そのときのままだった。
「暇じゃねーし、俺の部屋なんだから別にいいだろ」
「住んでない人が文句を言わない、さっさと片付けて」
そんなこんなで俺は今、部屋の片付けをしている。
「へぇー、これまだ取ってあったんだ」
勉強机と壁の隙間から、懐かしいものが出てきた。誕生日に買ってもらったゲームボーイカラーと、それに刺さったポケモンのカセット。カセットのシールはほとんど色褪せて白くなってしまったが、ポケットモンスターの文字とフシギバナのイラストはなんとなくわかる。画面を指でこすると、指にかなりの埃がついた。電源を入れてみたが、つかない。そうだ、これは電池式だったっけ……
「これで、よし。データ残ってんのかな?」
単三の電池を入れ、電源を入れる。懐かしい音、Aボタンを連打しても飛ばせない最初の数秒。このカセットはゲームボーイ版だから、確かここらで十字ボタンを押すと、色が変わるんだっけ? へへっ、忘れちまったなぁ。
「おっ、『つづきから』、あんじゃん」
十数年も放置していたのに、データは奇跡的に残っていた。二頭身で色の少ない主人公。そいつは、ゲームコーナーの景品引換所の前にいた。確か……
「ポリゴンを引き換えたかったんだっけ」
手持ちのコインは6800枚。ポリゴンを引き換えるのに必要なのは6500枚。なーんだ、引き換えられるじゃんか。それなら……
「タクオ! ちゃんと片付けてるの!?」
「げっ」
俺は反射的にゲームボーイカラーの電源を切った。
「うっせーな! 今やってるよ!」
そう言いながら画面に視線を戻すと、ぽとり、としずくが落ちた。ゲームに集中して気が付かなかったが、体のいたるところが汗でベトベトしている。
「母さん、なんかジュースない? 今のでめっちゃやる気なくしたわ」
「なによ、私のせい? 冷蔵庫に炭酸入ってるわよ」
俺はゲームボーイカラーをベッドの上に放り投げて、リビングに向かった。
「あんた片付けしてなかったでしょう。自分の部屋だからって、まったくこれだから……」
母は手際よく桃の皮をむきながら、俺のことをちくちくと刺した。言葉は尖っているけれど、なんだかんだで俺が帰ってくるのが嬉しくてたまらないのだろう。俺がこの家に住んでいたときは「手がかぶれる」と言って缶詰しか買ってくれなかった好物の桃が、冷蔵庫に6つも入っていた。ソファに寝転んでテレビを見ていた父が、昨日鼻歌を歌いながら箱で買ってきたのだと教えてくれた。
「机の裏からさ、ゲームボーイカラーが出てきたんだよ。ほら、あの、確か誕生日に買ってもらったやつ」
「それであんた、ゲームやりすぎて夏休みの宿題が全然終わらなかったのよね」
「ちっ、俺に都合の悪いことだけ覚えてやがる……」
こんな嫌味の言い合いも、数ヶ月ぶりだとあたたかく感じた。
「そういえば、誕生日のお祝いしてないわね。1ヶ月遅れだけど、ちょうどいいから今日やっちゃいましょ? お父さん、いいわよね?」
「わかったわかった。今いいとこなんだよ、少し静かにしてくれ」
テレビの中では、大阪と青森の高校球児たちが、甲子園の決勝を戦っていた。
「もう一度……」
俺はベッドに置いたゲームボーイカラーを拾い上げ、電源を入れた。ポリゴンをゲットしてからじゃないと、掃除をする気になれなかった。もう少し思い出に浸っていたかったのだ。
『つづきから』、よし。手持ちは5匹だな……それと、コインもちゃんとある。ポリゴン、6500枚、引き換えますか、はい。
俺は小さく息を吐いた。そろそろ部屋を片付けないと、また母さんにちくちく刺されることになる。おっと、忘れてた。ちゃんとレポートを……あれ、どうした、体が動かない!? 声も出ないぞ……なんだこれ、やばい。かなしばり? なんかよくわかんないけどやばい。 汗をかいて暑いはずなのに、寒い。体は動かないのに、震えが止まらない。そして、画面いっぱいに映っているのは、ポリゴン。ポリ……ゴン?
ガガガガガ
ゲームボーイカラーが突然震えだした。画面の中のポリゴンが、無表情のままこちらにたいあたりしている。そうだ、思い出した。俺はポリゴンが引き換えられるのを友達に自慢するために、何度もここでリセットしてたんだっけ……
たいあたりを繰り返していたポリゴンが、ゆっくりと画面から出てきた。たぷんと画面に波紋が広がる。俺の体はまひしたみたいに動かない。無表情のポリゴンが、ただただ俺を見ている。
なんだ、怒ってんのか? 手に入れては友達にバレないようにリセットし、「2匹目ゲット」と嘘をついた俺に? 何度もポリゴンを引き換えたように見せてリセットし、結局ポリゴンをゲットしていなかった俺に?
ピカッ
ポリゴンが突然光った。あまりに眩しくて、俺は反射的に瞼を閉じる。こんなの、ありえない。ゲーム画面からポケモンが出てくるなんて、ありえない。これは、夢だ。そのうち覚める、大丈夫だ。
パッと目を開けると、やはりそこは俺の部屋だった。見慣れた天井。ほれみろ、夢……いや、体が動かない。それに、なんだか物が大きく見える。
「タクオ! 開けるわよ!」
母の声、部屋のドアが開く音。
「あら、いないじゃない。一緒にケーキ買いに行こうと思ったのに……」
いや、いるだろ。俺はここにいるだろ? なんで気付かない? なんで……
母が近づいてきた。すると、俺の体をひょいっと持ち上げて、俺の顔をじっと見つめた。
「ゲーム、つけっぱなしじゃない」
プチッ
レポートは、書かれていない。