※官能描写を伴います。苦手な方は御注意下さい……。
花神の宿
旭光が静かに踏み込むにつれ、淡い朝靄が動き始めた。夜の冷気を宿す晩春の空気が、色づき始めた草露を残し、森の奥へと引き退いていく。徐々に強まる白い光は輝きを増し、夜半の雨に打ち叩かれた下草を、力付けるように優しく包む。イッシュはシッポウの西に広がるヤグルマの森に、何時もと変わらぬ夜明けが訪れていた。
シッポウの街並が漸く目覚めようとしているこの時間、既にこの地の住人達は朝餉の支度を終えており、てんでに箸を取る為稼業を切り上げ、住居の中へと舞い戻っていた。森際に点在する家屋は何れも一風変わった造りであり、その殆どが広い庭を構え、更によく整備され細かい砂を敷き詰めた一区画を、その真ん中に設けている。砂敷きの広場には木製の杭が立っており、散々に打ちすえられたらしいそれらはまだ比較的新しく、中には早朝の鍛錬の結果へし折られた物も混じっている。ヤグルマの森近辺は格闘家の修練場として知られており、南方の試し岩を基点として、幾つかの個人道場が散在していた。
無人となったばかりの稽古場が小鳥達の囀りに満たされる中、不意に何処か遠い場所から、微かな矢声が聞こえてくる。砂浴びを楽しんでいたムックル達は小首を傾げ、次いで何かに納得したように頷き合うと、小さな翼をはためかせ、てんでに声のした方へと飛び去ってゆく。雲一つない朝空にゴマを撒いたような黒点が散らばると、まるでそれを引き寄せるが如く、再び鋭い気合いが風に乗って、ヤグルマの里に響き渡った。
一定だった風向きが、変化の兆しを見せた時。じっと相手の隙を窺っていたコジョンドのスイは、その雪白の痩身を宙空に閃かせ、踏みにじっていた下草を朝風に散らして、眼前の敵に躍り掛かった。風を切り裂く武術ポケモンは征矢となり、自分の一挙手一動を完全に把握しているであろう相手に向けて、一直線に突き刺さっていく。
果たして相手方のポケモンは、彼女の動きに対し的確な反応を示した。既に波導を通し、コジョンドの攻撃を予測していたのだろう。相手の体が宙に浮いた瞬間には早くも地を蹴り、最早軌道を変える事の出来ない武術ポケモンの死角に位置すべく旋転する。くるりと半身を廻したルカリオは、必要最小限の動きでコジョンドの攻撃範囲から逃れると、そのまま着地際の間隙に乗ずべく、尻尾を揺るがし身構える。
が、しかし――波導ポケモンが狙い撃とうとしたその隙は、コジョンドが着地寸前に見せた揺らぎによってあっさり消え去り、失われる。完全に掴んでいた筈の相手の波導が予想外の乱れを見せた時、彼女は既に攻撃の態勢に入っており、踏み込んだ脚は全体重を乗せて、次の一撃に向けた最終アプローチを終えてしまっていた。「しまった」と臍を噛むのも束の間、ルカリオのリンは目元を鞭の様なもので強打され、出鼻を潰された瓦割りは空を切って、痩身はよろけたたらを踏む。曝け出された無防備な脇下にはっけいを打ち込まれた事により、早朝の一本勝負は呆気ない幕切れを迎えた。
『フェイント、か。引っ掛かった』
息を詰まらせつつ膝を突いたルカリオが渋い表情で零すと、コジョンドのスイは稽古相手に手を差し伸べ、苦笑いしつつ応じて見せる。
『見切りにはそうするしかないだろ? お互い様さ』
ワザとに強く引く彼女に対し、リンの方も慌てる事無く付いて来て、揺らぎもせずに立ち上がる。『昼には返す』と宣言する幼馴染にやってみなと応じつつ、スイは身軽に踵を返すと、母屋に向けて歩き始めた。
その客人が訪れたのは、正午過ぎの事である。丁度昼の稽古に戻ろうかと言う時間帯、休憩を終えた彼女達を送り出そうとしていた女主人が、小道を此方にやって来る、見慣れぬ人影に気が付いた。
バックパックを背負い、頭にバンダナを巻いたその姿は、旅の途中のようであった。既に寒気も緩まった時期であるのに、少しくすんだ白のスカーフを襟首に巻いた青年は、じっと見守る道場主に気が付いて、小さく会釈を送って来る。尚も近付いて来る青年に対し、うら若い道場主は何処か落ち着かない雰囲気で、その姿を見守っている。
普通旅人は、此方の方には回ってこない。シッポウシティからヤグルマの森を抜けるルートは此処より北に延びており、ヒウンへと続くその道を外れる者は、余程の物好きでなければ滅多にいない。敢えて此方にやって来る物好きとは、無論他流試合を申し込んで来るトレーナーである。
「済みません。失礼ながら、お願いしたい事があるのですが……」
果たしてその青年の腰には、幾つかのボールがセットされていた。無意識の内に身構える主従の内、主人である道場主が、堅い口調で要件を聞く。
「他流試合の御申し込みでしょうか? それでしたら――」
だが予想に反し、青年はチラリと苦笑してそれを否定すると、彼女達が思いもよらぬ要望を告げる。
「いや、そう言う訳じゃないんです。……実は、ちょっと宿に困ってまして。今日明日辺りから降りそうなので、何処か雨宿り出来る場所を貸して貰えはしないかと」
「雨宿り、ですか……」
主が首を捻るのも無理はない。昨晩からの雨雲が去り、未だ湿気の飛んで間もない空はからりと晴れ渡っており、青年が口にした様な雨の気配は、全く見えぬと言って良かった。ずっと此処で暮らして来たスイとリンも、そう言った変化の兆しは感じられず、目の前で低頭する旅人を、腑に落ちぬ表情で見守るばかりである。
「それなら、シッポウシティも近いですしそちらに回られては如何でしょう? あの街にはポケモンセンターもありますし、使わなくなった倉庫を利用した宿泊施設も多いですよ」
「確かに、街で宿を求めるのが穏当なのは分かっているのですが……。ちょっと個人的に、街にはあまり近付きたくないんです。別に不都合がある訳でもないんですけれど」
やや煮え切らぬ態度で言葉を濁した青年は、次いで別に軒下で構わないので、雨が止むまで滞在させて貰えると有り難いと、重ねて希望を述べる。特にしつこさは感じられず、控え目な態度からも断れば問題無く去っていく様な雰囲気はあるものの、流石に特に理由も無しに追い返すのは気が引けたのだろう。主の娘は用心深げな視線で一通り相手を見定めた後、小さく頷いて返答する。
「でしたら、使って無い部屋もありますしどうぞ。特にお構いも出来ませんが、それで宜しければ……」
「助かります。部屋まで用意して頂いても反って恐縮なので、取りあえずその辺に寝場所を設えさせて下さい」
丁寧に頭を下げた青年は、玄関に導こうとする女主人に断りを入れると、そのまま母屋と道場の間を覆う庇の方へと歩き始めた。
見慣れぬ異邦人を訝る思いは、日暮れ時には驚きに変わった。
彼の予見した通り、気持ち良く晴れていた空は徐々に雲の層に覆われ、何時からともなしに降り始めた細雨は、夜の帳が下りる頃には若葉を打ち叩く激しい雨音に取って代わる。雨垂れの音に包まれた道場の軒下に小さな一人用テントを張っていた青年は、既に客人として半ば強引に空き部屋の方に移動させていた。
「済みません……態々ここまでして貰って」
道場主の弟も加え、都合三人と二匹になった夕食の席上、恐縮の極みと言った表情で低頭する彼に向け、食事の準備を手伝って貰った娘は、もっと気を楽にして欲しいと要望する。部屋に上げるにも苦労させられた客人は、今度はならばと持ち合わせの食料をつぎ込んで、質素なその日の食卓に更に二品、新たな品目を加えて見せた。干魚のスープに木の実の白和えと言う素朴なものだったが、材料も味付けもよく吟味が加えられており、豊富な経験や腕前の確かさを感じられるものだった。
「此方こそ、大事な食料を使わせてしまって申し訳ない」と返答した道場主は、特に困る事も無いので、雨が止むまでは自由に滞在して貰って構わないと言葉を続ける。重ねて礼を言った相手と簡易な自己紹介をかわした後、彼女と二匹のポケモン達は、その日はそれ以上何をするでもなく床に就いた。
翌日、まだ暗い内から目を覚ました本来の住人達は、まだ早起きの習慣が付いていない年若の少年一人を除き、何時もの日課をこなす為、思い思いに道場に向け集まった。
コジョンドのスイもルカリオのリンも、主人である娘と同じく体内時計がすっかり固定されており、寸分遅れず道場内に顔を揃える。これから朝食の支度が整うまで、此処で朝稽古するのである。
本来なら雨など気にせず外でやる所だが、実践の場である試合の期日が近付いていた。質実剛健を気取って雨に打たれつつこなした結果、余計な怪我でも背負い込んだら事である。今は大人しく屋根付きの、此処で稽古をした方が賢明と言うものだった。
何時も通り組み手を始め、幾分時間が経った頃。不意に集った三者が、同時に入口に目を向けた。
「済みません。……邪魔する心算は無かったんですが」
全員の視線を一身に浴び、ふらりと顔を覗かせていた青年が、慌てて詫びの言葉を述べる。けれどもその半面、やはりトレーナーだけに稽古風景に興味があるらしく、尚も立ち去ろうとはせずに、「良ければ見取り稽古をさせて貰えないだろうか」と頼み込んで来た。
「良いですよ。では、そこにどうぞ」
青年に二つ返事で許可を与える主人の言葉を聞きながら、スイはリンに向け、再開しようと合図を送る。再び動き始めた両者に対し、無言のままで視線を送る青年の表情は、普段見せていた物腰とは打って変わり、真剣そのものだった。
やがて朝食の時間が訪れた際。漸く起き出して来た弟も交えたその席での話題は、自然とトレーナーとしての青年に関する事となる。姉である道場主の質問に対し、彼は自分が海の向こうのシンオウ地方の出身であり、その地を一通り巡り終えて此方に渡って来たと言う経緯を、言葉少なに説明する。
「バッジは幾つ持ってるの?」
そう尋ねた少年の言葉に、彼は苦笑気味に首を振ると、「此方ではまだ一つも取っていない」と応じて見せる。では向こうではどうだったのかと継がれると、多少は成果が上がったと答え、上着の裏地に留めてある、幾つかのジムバッジを見せてくれた。
万事控え目で、何処か居心地悪そうな客人の様子に、年若い道場主は何処か釈然としないものを感じたものの、取りあえず空気を変えるべく、手持ちについても質問してみる。
「どんなポケモンを連れてるんです?」
主人のその質問に、傍らに控えるコジョンドとルカリオも、興味深げな視線を送る。既に道場での態度から、トレーナーとしての非凡さを感じさせられた青年は、此処でもやや曖昧に、自らのパートナー達について触れて見せた。
「大方は向こうから連れて来たメンバーです。新顔と交代した者も居ますけどね」
言いつつ卓の上に出したボールは、全部で五つ。何れもシンプルなモンスターボールだが、一つだけ見慣れぬデザインのものが混じっていた。上半分の塗装が薄く、鏡の様に煌めく光を反射しているそのボールを指差して、「これは?」と聞いた年端もいかぬ少年に対し、持ち主である彼は、微笑と共に応じて見せる。
「うちのエースが入ってるんだけど、訳あって特注なんだ。……マッジクミラーって知ってるかい?」
首を傾げる少年に向け、青年は丁寧な口調で、「簡単に言うと、中から外が見える様にする仕掛けだよ」と言い添える。
「こいつは卵の状態で譲って貰ったポケモンなんだけど、元の親から広い世界を見せてやって欲しいと頼まれてね。それで、こんな細工をしてるんだよ」
「へぇ……どんなポケモンなんだろ? 見てみたいなぁ」
興味深々と言った具合の少年に対し、彼はチラリと苦笑して見せ、「多分君が見慣れたポケモンだよ」と答えて見せた。その言葉の意味を周囲が理解する前に、青年は視線を家主に戻すと、「所で話は変わりますが」と新たな話題を持ち出して来る。
「先程道場で、星の欠片が並んでいるのを見かけたのですが……この辺でよく見掛けるものなんでしょうか?」
「いえ、そう言う訳じゃ……。一応手に入れる事が出来る場所もありますが、あれは別に拾ったものじゃないんです」
主の答えに、青年は穏やかな表情で続きを促す。確かに星の欠片は装飾品として人気が高く、付随する価値もそれなりで、旅のトレーナーが興味を持つのは別段珍しくないのかも知れない。――しかし一方、傍からそのやり取りを見守るスイには、彼の本心は別の所にあるのではないかと思えてならなかった。
「あれは前の……先代の道場主だった私の父が、年に一度行われる腕比べで優勝した時手に入れたものです。此処から少し南に行った所に試しの岩と言うものがあるのですが、この辺りの格闘道場は春の終わりに其処で修業の成果を競い、勝者はその証としてその岩の欠片を持ち帰る事が出来るんですよ」
「なるほど。つまりはトロフィーと言う訳ですね。だから師範席の後ろに並べられてたのか」
果たしてその青年は、彼女の説明に納得したと言う風に頷くも、次いで道場主に向け、更なる要望を切り出して来た。
「実は、今のメンバーにもう少し修業を付けてやりたいのが居るんです。……宜しければ、そいつにも見取り稽古を許して頂けると助かるのですが」
「構いませんよ。それを言えば私達も、試合の時期が迫ってますしどんな経験でも身に付くのであれば貴重です。もし良ければ、そちらのポケモン達とも手合わせさせて頂けませんか?」
「無論です。……どうせこの雨じゃ二、三日は動けませんし、此方としてもスパーリングのお手伝いが出来るのであればそれに越した事はありません」
とんとん拍子に決まった午後の予定に対し、当事者となるスイとリンは、未だ実力の程がはっきり分からぬ目の前の異邦人を、ただ唖然とした表情で見守るばかりだった。
一同が再び道場に戻った時、最初に青年がやったのは、手持ちの仲間達を一通りボールから開放し、見たいとせがむ少年に見せてやる事だった。
ポンポンと手際良く交代する度、幼い少年の歓声が響く。最初はリーフィア、次いでチルタリス、ビーダルと、一見攻撃的な印象に乏しいポケモン達が続く中、それでも道場の主体となる主従三者は、その何れもが多くの経験を重ねたベテランであると正確に見抜いた。
四匹目に登場したのは、一風変わったポケモンだった。紫色のふにゃふにゃとしたその生き物は、少年の好奇に満ちた視線を受け止めた後も戻されず、青年の隣で稽古の様子を見て置くように告げられる。
「メタモンですか……」
「ええ。……こいつが新顔なんですが、まだチームに加わってから日が浅くて、戦い方や味方との連携のコツを十分に教え切れてないんです。なので是非、此方で見取り稽古をさせて貰いたいなと」
主の言葉に反応する一方、青年は直ぐに自分の仕事に戻ると、最後の一つ――あの特殊な加工が施されたモンスターボールを手にとって、開閉スイッチを操作するや、手前に向けて無造作に放った。中から現れたそのポケモンを目にした途端、スイは先程青年が口にした言葉の意味を、はっきりと認識させられる。
ボールの中から出現したポケモンに、傍らのルカリオが小さく声を上げる。青年の前に立ち、真っ直ぐ此方を見据えているのは、隣に立っている彼女と全く同じ種族であった。
「うわぁ、ルカリオだ……!」
「リンと同じだ」とはしゃぐ少年に対し、彼は柔らかく微笑んで頷いてやると、次いで無意識の内に身構えている彼女達に向け、「御相手はこいつで構いませんか?」と聞いて来る。
「え、ええ……。宜しくお願いします」
慌てて返答する主に対し、青年は場慣れしている者特有の落ち着きをもって、「此方こそ」と丁寧に頭を下げる。勝負の場に出るリンの背中を見送りながら、スイは自身もゆっくりと相対すべき位置に歩み出している、相手の波導ポケモンに視線を移す。特に気負うでもなく淡々と進むその目からは、傍から見る限り何の気組みも読み取れなかった。
一方リンの方は、明らかに動揺していた。生真面目で正義感は強い半面、上がり症でプレッシャーにあまり耐性が無い上に、思いがけぬ同族の出現に完全に気を呑まれている。それでも何とか開始の合図と共に身構えて、何時もの見慣れた姿勢でじっと相手の隙を窺い始めた。
相手方のルカリオは、当初全く動かなかった。相対している同族の戦い方を見極めようとしている風情で、真剣な表情で守りを固めるリンに対し、性急な攻撃は仕掛けて来ない。
しかし、どうやら相手が後の先を取る心算であろうと理解したと見るや、即座に様子見を止めて動き始めた。既に鋭く研ぎ澄まされていた眼光を更に強め、音も無く身を沈めた波導ポケモンは、そのまま何とか動揺を静め終え、万全の態勢で待ち受ける同族へと、真っ直ぐ突き進んでいく。フェイントを掛ける風でも無く、一直線に突っ込んで来た対戦者に対し、『待ち』を得意とする相方が完璧なタイミングで迎撃に動いたのを、彼女は固唾を呑んで見守っていた。
が、それに対する相手方の反応は、彼女達道場側の面々が想定出来る範囲を超えていた。無造作に間合いの内に踏み込んでいったルカリオは、打ち込んで来たリンの突きを脇に開いて苦も無く外すと、そのまま流れるような動きで彼女の腕に手を添えて、自分の片脚を軸に軽々と宙に投げ飛ばす。見事に一回転したリンが砂を跳ね上げて墜落した時には、止めのはっけいがピタリと頭上で制止しており、勝負の行方は疑う余地も無く明らかだった。
「そ、それまで!」
道場主の上ずった声での宣告を受け、まるで手妻遣いのように試合を決めたルカリオは、直ぐに突き出した片腕から力を抜くと、息を呑んで固まっているリンに対し、それをそっと差し伸べる。呪縛が解けたように身動ぎし、戸惑いながらもその手を取って立ち上がる相方の様子を上の空で眺めつつ、スイはこれまでになく真剣な面持ちで、自分の取るべき戦術を思案していた。
相手が何をしたのかが分からない。……より正確に言えば、理屈としては分かるのだが、具体的にどうすればあのような対応が可能になるのか、またどう動けばあれを破る事が出来るのかが、如何に頭を捻っても出て来ないのだ。
リンの事は当然ながら知っている。手の内も実力の程も、幼い頃から姉妹同然に親しみつつ切磋琢磨して来ただけあって、当の本人よりも互いの事を理解し合っていると言っても過言ではない。彼女の実力は自分のそれと遜色はなく、現に昨日も宣言通り、昼の試合は取り返されている。その相方が自分の思い通りの試合運びで一蹴されたと言う事は、相手の実力はそれすら問題にならぬ程に隔絶していると言って良かった。
だが無論、それで彼女が憶する事は断じて無い。元々負けん気が強く、平素も滅多に峻厳な姿勢を崩さない彼女にとって、余所者がこの場で余裕を示していると言う事それ自体が、我慢のならない事であった。主人の呼び掛けに応じ、何処か上の空な表情で戻って来るリンに鋭い一瞥をくれながら、彼女は厳しい面持ちで試合の場へと進み出る。
「スイ、落ち着いて掛かりなさい」
早くも雲行きを察したのだろう。主の注意する声が飛んでくるも、彼女は等閑に頷き返すのみで、敵意に満ちた視線を緩めようとはしない。主人を軽んじる心算は毛頭なかったが、こればかりは自身としても譲る事は出来なかった。
対する相手の側はと言うと、彼女の攻撃的な態度にも、無表情で応じるのみ。ただ軽視されている訳ではないらしく、相手から感じ取れる雰囲気は、強固な壁を思わせる威圧感共々微塵の緩みも存在しない。鋭い目付きで此方を注視する相手に向け、スイは些かも覇気を緩めないまま、開始の合図と共に地面を蹴る。
砂を跳ね上げ風切り音と共に仕掛けたのは、先制技である猫騙し。ルカリオ族に仕掛けるのはそれなりにリスキーな選択だったが、普段相手をしているリンには実際有効な手段であった。彼女がこの選択肢を有しているが為、受けの名手である相方ですら、初動は慎重にならざるを得ないのである。
果たして相手は、この試みに彼女が望んだ通りの反応を示した。初動を抑え、彼女の初撃をかわす為、守りを固める事を選択したのである。鞭のように目元を狙った腕の毛が相手の守るに阻まれたのを見て取ったスイは、間髪を入れず次手を差し込み畳み掛けていく。――常に先手先手と攻めかかり、相手に反撃の糸口を与えぬ一方的な攻勢こそが、彼女の最も得意とするバトルスタイルであった。
だが、彼女の思い通りに事が運んだのは、この瞬間までだった。猫騙しから息をつかさずはっけいに変化した彼女の腕は、まるで読んでいたとしか思えぬ動きを見せた対戦相手の利き腕にしっかと掴まれ、そのまま反応も出来ないままに捻られる。仕掛けた勢いを利用され、前にのめった形となったスイは、そのまま脇に身を開いた相手に足を払われ、為す術も無く一回転して叩き付けられた。
試合終了の宣告と共に飛び込んで来たのは、上から覗き込む相手の双眸。険を収め、静かな光と共に手を差し伸べるその瞳に、彼女は不意に身の置き所も無いような居心地の悪さを覚え、顔を背けて視線を切った。次いで腕を払って身を起こすと、相手の顔を鋭く睨む。少し呆気に取られたような表情の波導ポケモンは、彼女の意思を察すると直ぐに身を引き、立ち上がれるよう後ろに下がる。
取り返せるかは分からない。――けれども、このまま相手の実力に呑み込まれてしまうのは、何としても嫌であった。
雨が止んだ。青年の言う通り三日後に消えた雨雲の名残は、徐々に夏らしさを加えていく潤んだ風と、やや水量を増している森の小川ぐらいのものであろう。
青年の一行はまだ此処にいる。別に愚図ついている訳ではなく、試合の結果を重く見た道場主に、暫く滞在して修行の手伝いをして欲しいと頼まれたからだ。青年は承知し、パートナーのルカリオとメタモンを毎日道場に預ける傍ら、自分は他の仲間達と共に少年の相手をしたり、ヤグルマの森を散策したりして過ごしている。野外生活が長いと見え、毎晩の食卓には彼が拾ってきた木の実と、釣って来た魚が並ぶのが定番となった。青年の魚スープはシンプルながら完成度が高く、賑やかになった食事の席は何処か華やいでいて、日々の暮らしは嘗て見られなかったほど明るいものとなっている。
一方修行の方も、成果が表れるのは早かった。雨が上がるまでの二日間で、スイもリンも動きの中から無駄や悪癖を早くも指摘されており、それを是正するのに余念がない。素直に従うリンは勿論、抵抗感を捨てきれないスイの方も、リムイと名乗ったそのルカリオが、有能な教師である事を認めない訳にはいかなかった。風格よりも遥かに若く、未だ同年輩だと知った時こそその指導力を疑ったものの、実際に稽古を付けて貰うと、そんな疑念は直ぐに消えた。主に人間の業を習って来たと言う彼は、「コグソクタチマワリ」と称されるらしいそれを彼女達には敢えて教えず、今まで彼女達が磨いてきたポケモン本来の戦い方を更に研ぎ澄ます方を選択する。短期日の内に新しい型式を取り入れると、一時的に実力が低下する場合があるのを憚った為だ。
本番となる交流試合まで、後一週間もない。事故に巻き込まれた先代がパートナーと共に急逝し、長らく沈滞を余儀なくされていたこの道場も、近年漸く浮上の糸口を掴むべく、毎年これに向けて厳しい修行を重ねて来ている。此処二年ほどは周囲の壁の厚さに跳ね返されて来たが、戦う彼女達自身の強い決意もあり、最近では他道場との訪問試合でも、早々後れは取らぬようになっていた。
そんな折、まるで彼女達主従の信念が呼び寄せたかのように、彼らが現れたのである。何としてでもこの機に乗じ、宿願である優勝を勝ち取りたいと願ったのは、主の娘だけではなかった。
『次はもっと踏み込むタイミングを図ってみて欲しい』
一当て終えたばかりのルカリオが、言葉少なに注文を付ける。無言で頷き返したスイは、再び砂地の上で構えを作ると、一本取られたばかりの相手に向けて身を躍らせ、渾身の力を込めて技を繰り出す。全霊込めた飛び膝蹴りを真っ向から受け止めつつ、それでも尚余裕を残す波導ポケモンは、今度は堪えたダメージに納得したらしく、素早く飛び下がった彼女に向けて誇らしげな笑みで頷いて見せた。
やっと引き出せた相手の満足げな表情に、覚えず心が揺れた。未だ躊躇いを残して接しながらも、篤い信頼の情を隠そうとせぬ相方と違い、最初から攻撃的な態度を取り続けていた彼女にとり、この目の前の遣い手は親しむよりも打ち倒すべき対象としか見ていない。……少なくとも、意識の上ではそうであった。
だが、自分でも思いがけず頭を擡げたその感情は、そんな彼女のスタンスが――自らの意思にも反し――上辺だけのものであった事を疑わさせられるものであった。若干の混乱と共に襲って来たのは、激しい狼狽と羞恥心。それは程なく、湯気の立つような熱気と脈絡もない怒りに変換されて、目の前の相手に注がれる。
息づく理性は理不尽であると訴えたが、湧き起こる衝動は止まらない。よりにもよって稽古の最中に意識を奪われた事を受け、スイは直後込み上げて来た憤怒のままに、相手に向けて襲い掛かった。
だが、当然そんな拙攻が通用する相手ではない。闇雲に打ち掛かった彼女の瓦割りは呆気無く空を切り、逆に正確に胸元に突き刺さったはっけいが、あっさりと彼女の継戦能力を奪った。
『ッかは……』
一瞬息が詰まると共に、身体の力が一時に抜ける。運動神経を麻痺させられ、一時的な戦闘不能に陥った彼女の身体を支えながら、理も無いやつあたりの対象となった相手はゆっくりと稽古場の端まで歩いて行って、返り討ちにした武術ポケモンをそっと地面に横たえた。
代わりに呼ばれたリンが稽古の場に出ていく中、スイは消化し切れぬ感情の波に苛まれつつ、己の不甲斐無さを呪いながら、麻痺の回復を早めるべくきつく目を閉じた。
午後には訪問者があった。
「頼もォ!」と言う掛け声と共に現れたのは、近所に道場を構えている顔見知り。数年ぶりの外部からの挑戦者に、若い道場主は相手を迎える仕来たりも忘れ、あたふたしつつ挨拶を交わす。
一方二人の門下生を引き連れ、悠然と歩む五十絡みの先達は、そんな彼女の狼狽ぶりにも大らかな態度を崩さず、「突然御邪魔して申し訳ない」と断りを入れると、次いで気さくな口調で近況を尋ねる。狭いこの界隈の事だけあり、既に旅の青年と彼が連れているポケモンの噂は辺り一帯に知れ渡っているらしく、今回訪ねて来たのもどちらかと言うと出稽古と言うより、未知の相手への興味本位でやって来たと言う塩梅である。
早速道場に招き入れられた彼らは、当然の如く臨時の師範役を務めるリムイに対し、他流試合の矛先を向けた。ルカリオの方も主人が不在であるにもかかわらず、予めこう言った場合の対応は仕込まれていたのであろう。困惑した様子の道場主を慮るように、自ら試合の場に立った。結果は無論言うまでも無く、相対した全ての相手が、彼に一撃も入れられる事なく一蹴された。
試合の内容に驚きを隠せなかった主人達が、道場主の申し出を受けて母屋で一服している間、ポケモン達は道場に残ったまま、思い思いに自主稽古に励んでいた。元々この周辺の道場では、ポケモンも手持ちと言うより「門下生」として扱われており、直接的な指示が無くとも対応に苦慮する事はない。実際最大の舞台である春の交流試合も、主の指示を仰がず行う、完全なポケモン同士の真剣勝負だった。
一方ルカリオのリムイの方も、自主性と言う点では彼女らと同じような鍛錬を重ねているらしい。言葉少なに彼が語る所よれば、彼らの主人である青年は手持ちである彼らを対等な一個人と見做しており、独自の意思で行動する事を、寧ろ奨励しているのだと言う。『彼はあくまでリーダーである事を崩さない』と語るその目には、主人としての信頼は勿論の事、一個の人物に対する強い尊敬の念が窺えた。
リムイの熱の籠った目を見ている内に、スイは自然と自分達の身の上を思い返す。――相方と共に歩み始める切っ掛けとなったそれは、決して快くも誇らしくもなく、彼女をして一心不乱にこの道にのめり込ませる、根源とも呼べるものであった。
当て所なく回想の海に漂いかけていた彼女の意識は、不意に耳に飛び込んで来た質問によって引き戻される。視線の先では、外部からの挑戦者であるゴーリキーが、師範役のルカリオに向けて自信に満ちた口調で問題提起していた。
『確かにあんたは強いが、一度捕まえてしまえば俺には絶対押し切れる自信があるぜ』
先の試合の内容が、やはり納得いかないのだろう。並みの同族より二回りは大柄な彼は、この里でも指折りの怪力で知られている。その矜持を剥き出しにして語る瞳の内には、目の前の相手の実力に対し、何らかの形で報いてやりたいと言う精一杯の反骨心が見て取れた。
それに対するリムイの反応は、実に単純明快であった。『ならば捕まえてみると良い』と応じた彼は、呆気に取られるゴーリキーに背中を向けると、好きなように押さえてくれと誘いかける。一転して緊張した面持ちに変わった剛力ポケモンが、背後からがっちりと相手に組み付いたのを確認すると、彼は落ち着いた表情で『良いか?』と問い掛けてみせる。
道場内は何時の間にか静寂に包まれ、全員の視線はただ一点に注がれる。周囲が固唾を呑んで見守る中、応諾したゴーリキーに対し、無造作に開始の合図が送られた。
直後、ゴーリキーの全身が膨れ上がる。全力で締め上げにかかる彼に対し、ルカリオの痩身は圧倒的な筋肉の壁に押し潰されるような形で、到底振り解けるような状況ではない。事実彼の表情は明確に歪み、すさまじい圧力に何とか耐えようとしているのが見て取れた。
放っておけば、あっと言う間に身体の骨を圧し折られるだろう。思わず声を上げようと周りのポケモンが口を開き掛けたその時、波導ポケモンの利き腕が動いた。完全に制圧されている彼が取ったのは、自分を締め上げている相手の肘の辺りに手を添えただけ。――だが次の瞬間、満身の力を込めて責めていたゴーリキーは驚いたような苦痛の叫びと共に身を離し、巻いていた腕を抱え込んで蹲った。
予想だにしてなかった事態に他のポケモン達が息をするのも忘れて立ちすくむ中、リムイは身体を一つ捻って息を吐くと、稽古を再開するよう周囲に合図してからゴーリキーに歩み寄る。
『参ったよ。大した怪力だな』
怖気付いたように身をすくめる彼に対し、波導ポケモンはポンと肩を叩くと、やや苦笑気味に微笑んで見せた。
スイが新たな技を習得したのは、その日から三日後の事だった。
あの後、当然の如く何が起きたのか説明を求めた彼女達に対し、リムイは相手の急所を突いて難を逃れた事と、それまでは波導を用いて耐えていた事を簡単に説明する。
『人間は「タンデン」や「キ」といった言葉で説明する』と言うその内容は、やや難解で理解するには時間がかかったが、理屈が分かれば後は自然と呑み込めるものだった。同族であるリンは勿論、この力を扱えはしてもやや疎い種族であるスイに理解させる為、臨時の師範役は様々な例えによって彼女の意識にアプローチする。彼は同じ重さの人形とポケモンを比較して、何の力も加わっていないが重量は同じ人形を突き倒すケースと、同じようにポケモンを突き倒すケース、そして修練によってレベルの上がった全く同種のポケモンを突き倒すケースで、完全に内容が異なってしまうのは何故なのかと質問し、そこに変化を生じさせている存在こそが、自分達が鍛え上げるべきものであると説く。リムイはこれによって、人間は勿論自分達ポケモンにも本来共通して宿っている力――気、若しくは波導と言われるものを操る重要性と、それを意識して行う術を、彼女に改めて認識させてくれたのである。
自分の体内に宿る波導を練る方法は、そこまでいけば教わらずとも自然に悟れた。今までずっと相方のみが自由に出来ていたその力を、やっと彼女も目に見える形で行使出来るようになったのである。初めて放った波導弾は射程も威力もまだまだだったが、得られた達成感は言葉に出来るものではなかった。
「ほんとに見違えるようになった」と喜ぶ主の言葉通り、彼女達の実力はどんどん伸びていく。まだまだ当の師範役には全く及ばなかったが、嘗ての姿が霞むほどに成長出来たのは間違いない。その事実は、無意識の内に彼女達の内側から、鬱屈した影と躊躇いを拭い去り始めていた。
自身は兎も角、相方の変化はスイにも分かる。ずっと傍にいただけに、何時も何処か内向的で弱気に感じられた物腰がどんどん明るく前向きに転じていくのが、手に取るように分かるのだ。必要とされぬ余剰物――自分と同じく、より優秀な者を生み出す際の「孵化余り」として生を受けたと言うその劣等感が薄れるにつれ、何処か眩しく感じられるようになった義兄妹の姿は、喜びと共に微かな羨望をも感じさせるものだった。
それを齎してくれた相手に対する意識も、徐々にではあるが変わってきた。未だ雪辱を期する思い――降って湧いて来た余所者に向かう反骨心は根強いが、リンの質問に答えてポツリポツリと語る生い立ちを傍で聞く内に、反感は水に薄れるように色褪せていった。平凡な何の変哲もない卵から孵った彼は、彼女らと同じく実の親の顔も知らずに、ずっと旅空の下で暮らして来たのだと言う。変わり者として知られた主人について、異種族である人の武術を仕込まれつつ、シンオウの大地を東奔西走する漂泊と戦いの旅は、未だ歳若い波導ポケモンの相貌を、不相応に厳しい形に彫り上げていた。寡黙な出で立ちと鋭い眼光に塗り潰された細やかな情は、時間を掛ければ掛けるほど肌で感じられるものだった。
何時の間にかすっかり親密になっている二匹のルカリオを眺めつつ、スイはふと自分の内側に、今まで感じた事のない奇妙な感情が息づいているのに気が付いた。何が不足と言う訳でなく、ただ理由も無しに鬱屈している自分自身に戸惑いながらも、彼女はそれを振り払うように視線を逸らし、小鳥達が高みに散った、遠い蒼空に目をやった。
そのまま駆け下るように、試合の当日が訪れた。
二対二で行われる試合形式に則り、最後の調整として青年と他の手持ち達も加わった総掛かりでの実戦稽古も無事に修めた彼女らにとり、これ以上の準備は望んでも得られるものではない。目指すは唯一つ――未だ手に入れた事のない、あのちっぽけな赤い宝石の欠片である。
最初の相手は一蹴出来た。緊張気味に場に上がって来たニョロボンとドテッコツを、彼女らは開始直後の同時攻撃で呆気なく下す。二戦目は前回三位に付けた強豪だったが、自信満々のサワムラーとエビワラーに対し、彼女達は相手の動きの裏をかいて、そのまま一気に勝負を決めた。カウンターを狙うパンチポケモンにはフェイントで応じ、相方に飛び蹴りを見切られたキックポケモンに集中砲火を浴びせて叩きのめすと、当てが外れて立ち竦む残り一体を挟み込み、反撃を許さぬままに打ち倒す。形式にこだわらぬ臨機応変の進退は、千変万化の野良バトルを生活の場として歩んで来た、異邦人達の賜物だった。
準決勝となる三戦目は、過去に敗れた対戦カード。特性よる圧倒的な瞬発火力を誇るキノガッサとカポエラーに対し、相方のリンは教え込まれたファストガードで対抗する。護りに全力を投じたパートナーが二発のマッハパンチを受け止める中、スイは伸ばした腕を引っ込めようとするきのこポケモンに、強烈な飛び蹴りを叩き込む。慌ててトリプルキックに切り替えたカポエラーの反撃はそれでも十分鋭かったが、雪白の武術ポケモンは打ち付けられる両足を身を低くしてやり過ごし、尻尾による三撃目が旋回して来るその前に、相手の脇腹に突き刺さるようなはっけいを決めた。
決勝に駒を進めて来たのは、去年も優勝を勝ち取ったチーム。二戦以上勝ち上がった事のない彼女達に対し、上位グループの常連であるダゲキとナゲキは、初顔合わせとなる目の前の相手にも、全く気負う所は無さそうであった。
開始前に視線を感じて振り向くと、主の祈るような表情が目に入る。何時もは見せぬ思い詰めたような瞳の色に、スイは思わず身体を廻し、まだ若い道場主へと向き直った。彼女の動きにつられ、傍らのリンもそれに倣う。野生のポケモンに追い立てられ、行き場も無くシッポウの町を彷徨っていた彼女達を拾って以来、自らも家族を失っていた娘がどんな思いで普段の毅然とした態度を維持していたのか、深く考えた事はなかった。
主人である事と、一人の人間である事は別である。ずっと主として通して来たその「親」は、彼女達の反応に自らの揺らぎを覚ったらしく、微かに恥じるような苦笑いを浮かべた後で、大きく一つ頷いて見せる。時も選ばずじわりと滲む惰弱な感傷を振り払うべく、此方も小さく頷き返して応じて見せると、同じ柵(しがらみ)に掛かったらしい、隣の波導ポケモンに合図を送る。パートナーと呼吸を合わせ、勝負の場に踏み込んだ時には、心の中には如何なる澱も蟠ってはいなかった。
開始と同時に動いたのは、彼女達の方だった。此方を見据えどっしりと構えるナゲキに向け、スイは鞭の一振りのように己が痩身を閃かせると、相手の胸板に飛び蹴りを見舞う。インパクトの瞬間に敢えて全霊を込めず、ヒットした蹴り足をバネに跳ね返るように距離を取ると、間髪入れず掴み掛かって来ようとする、相手の追及を振り払う。圧倒的なパワーを誇る対戦相手の間合いから、とんぼ返りで身軽に引いたコジョンドは、続いて稼いだ距離を即座に詰め直し、両腕に伸びた長い体毛を打ち振って、息もつかさぬ連続攻撃を繰り出した。
畳み掛けるように攻め込んでいくスイが動を担っているのなら、対となるリンは静を体現していた。少なくとも普段はそうだったし、彼女自身動きの中で勝機を見出すよりは、相手の攻め手に対応して戦う方が得意だった。
だが、今回は少しばかり事情が違った。確かに自ら仕掛ける事はなかったが、本来じっと相手の構えを伺うばかりのルカリオは、遅れじと地面を蹴って迫って来た空手ポケモンに抗するように、軽快に移動しながら相対する。常に瞬発力を持続させつつ待ち受けている彼女に対し、相手のダゲキは攻め込まれる一方のパートナーに加勢しようと焦りながらも、目の前の敵を捨て置く事が出来ないでいた。
やがて業を煮やしたように、空手ポケモンが仕掛けて来る。足元を踏み違えたように見せかけた直後、勢い良く襲い掛かって来た相手に対し、既に波導の乱れによって攻撃を予知していたリンは、此方も思いっきり踏み込みつつ、飛び違えるように技を繰り出す。打ち込んだバレットパンチは狙い過たずダゲキの肩に突き刺さり、出始めを潰されたインファイトは不発のまま、擦れ違う彼女を捉えられない。完全に後の先を取られた対戦相手が構えを直し、厳しい表情で睨め付けて来るのを見守りながら、リンは相方が試合の盤面を動かすのを、辛抱強く待っていた。
一方的に打ち込んでいたスイの攻め手が止まった時、拙速な攻勢に出る事を戒めていた柔道ポケモンは、漸く訪れた反撃の機会を掴もうと、堅固に構えた守りの姿勢を改めた。既に下準備は整っており、攻めに転じる用意は出来ている。相手の攻撃は手数こそ多かったものの、小手先の軽いものに終始しており、蓄積されたダメージは取るに足らないものだった。
しかし、万全の態勢で身構える彼が見たものは、先程意固地なまでに攻めの姿勢を崩さなかったその相手があっさり此方に背を向けて、ルカリオによって釘付けにされた相方の背後を急襲すべく、一直線に馳せ向かっていく光景だった。謀られたと覚ったナゲキが警告の叫びを上げた時には、俊敏な武術ポケモンは既に攻撃態勢に入っており、標的とされたその相手には、向き直る余地すら無くなっていた。
俄かに挟撃を仕掛けられたダゲキは、それでも簡単には崩れなかった。彼は正面から来るリンの瓦割りを捌きつつ、まるで背中に目が付いているかのようなタイミングで半身を廻し、コジョンドの襲撃を受け止める。体毛での鋭い一撃を腕で受け、次いで更に攻め立てようとする武術ポケモンに向け、身体をぶち当てるような勢いで踏み込むと、思わぬ反攻に出鼻を押さえられ、動きの止まったその足に、痛烈なローキックを見舞う。捨て身の一撃は功を奏し、脛に痛打を浴びたコジョンドが堪らず膝を折ったのを確認した直後、彼は背後から打ち込まれたはっけいに、自らも天を仰いでのけ反った。全身を貫く衝撃に肺の空気を残らず吐き出した空手ポケモンは、それでも自らの働きに満足しつつ、そのまま平衡を失い引っ繰り返る。
何とか相手を仕留め終え、唐突に開けた視界の先で、結局カバーの間に合わなかったナゲキが断固とした表情でパートナーに向けて襲い掛かるのを目の当たりにしたリンは、未だ立ち直れていない彼女を救うべく、急いで地を蹴って飛び出した。
不覚だった。一気に畳み掛けようとした相手の思いもよらぬ反撃に、スイは強かに急所を打たれ、立ち直れぬまま膝を突いた。捨て身の攻勢に出たダゲキ自身はパートナーが打ち取ったものの、駆け付けて来た柔道ポケモンを迎え撃つには、余りに時間が足りなさ過ぎる。歯を喰い縛って立ち上がりつつも、スイは次に来る衝撃に備え、無意識の内に身を強張らせた。
けれども、止めの一撃は訪れなかった。身近で響いた矢声にハッと顔を上げると、駆け付けたリンが掴み掛かるナゲキの腕を掻い潜り、懐に飛び込む様子が映り込んで来る。相手の注意を自分に逸らす、この指止まれ。一髪の差で幼馴染を救った彼女は、そのまま一気に勝敗を決すべく、分厚い相手の胸板に、力の限りインファイトを叩き付けた。
だが驚くべき事に、相手はそれを受け切った。全霊を込めた大技を耐えられ、信じられぬように目を見張ったルカリオを、大柄な柔道ポケモンは太い腕で掴まえると、まるで紙細工でも持ち上げるように担ぎ上げ、地面に向けて叩き付ける。受け身も許さぬ強烈な当身投げに苦痛の声を上げる対戦者に対し、彼は一切手心を加えぬまま、力任せに相手の身体を引き寄せると、止めとばかりに技を掛けて投げ飛ばした。小柄な波導ポケモンの痩身が、容赦無いやまあらしによって土煙と共に薙ぎ倒されると、試合の様子を見守っていた周囲から、感嘆の声が木霊する。互いに痛手を受け、今や単騎同士となった勝負の行方は、固唾を呑んで見守る練達の格闘家達にも分からなかった。
パートナーのルカリオが暴風のような相手の猛威に沈んだ後、何とか痛みを堪えて立ち上がったコジョンドのスイは、自らも肩で息をしている対戦相手と、改めて向かい合った。機動力を殺がれた彼女に対し、相方のインファイトをまともに受けた柔道ポケモンも、隙無く構えているとは言え、上がった息を抑えられていない。演技からは程遠いその様子に励まされ、スイは此処で一気に片を付けるべく、腫れ上がった脛の痛みを押し切って、渾身の力で地面を蹴った。必殺の気概も顕わに繰り出したのは、最大火力である飛び膝蹴り。格闘ポケモン屈指の破壊力を誇るその大技は、既に避ける余力も無いナゲキの身体に、狙い過たず突き刺さる。
しかし信じられない事に、相手はまだ倒れなかった。岩のような筋骨に覆われた壁の如き柔道ポケモンは、最初に彼女の攻めをしのぐ最中に挟み込んでいたビルドアップでその頑健な体躯を更に強化し、先のインファイトに続くこの強烈な一撃を、真正面から受け止める事に成功する。驚愕の余り息を呑む武術ポケモンに凄絶な笑みを浮かべると、彼は機敏な動作を封じられている相手の身体に腕を巻き、そのまま全身の力を込めて締め付ける。
『う、く……ぁ……!』
余りに強烈な締め上げに、スイは掠れた苦鳴と共に身を捩り、為す術も無いまま虚空を仰ぐ。何とか逃れようともがいたものの、蹴ろうが爪を立てようが、丸太のような相手の腕はビクともしない。此処を先途と残った力を振り絞る相手の気迫に、元々剛力とは言い難い彼女の肢体は、完全に圧倒されていた。
華奢な痩身が反り返り、背骨が軋む音を立てると、ぼやけ始めた視界の内が、限界を越えて赤く色付く。呼吸も出来ぬその状態で、何とか意志力だけで意識を保つスイの脳裏に、不意に何かの啓示のように、嘗ての光景が電光のように閃いた。あるか無いかの最後の力を振り絞り、辛うじて利き腕を動かした彼女は、ほぼ無意識の内に脳裏に焼き付けたあの場所に、自分の指先を這わせていく。何とか運んだその位置に夢中で掌を重ねると、振り翳される絶対的な力の差に抗うように、歯を食い縛って力を込める。
『ぬぁッ!?』と言う叫びと共に、強固な圧力が一時に緩んだ。肘の急所を力任せに握り締められ、痺れた腕を抱いてたたらを踏む対戦相手に対し、地面に崩折れたスイは直ぐに身を起こし立ち上がると、まるで何かに導かれるかのように、己が利き腕に精神を集中させる。説き聞かされた理が、満身創痍の彼女に対し、本能のままに故郷に向かう鳥のように、為すべき事を囁き掛ける。――波導とは即ち生命の力。己が追い詰められれば追い詰められるほど、生きる力は輝きを増し、鍛えた意志に呼応し従う。
片腕に込めた意識の刃は何時しか青白い球となり、直ぐに眩いばかりの輝きをもって、彼女の掌に具現化する。練り上げた波導弾を散らす事無く保持したスイは、そのまま何とか立ち直ったばかりのナゲキに向けて地を蹴ると、一切減衰の伴わない至近距離から、力の結晶を解き放った。
青年の一行は、それから三日の間滞在した。道場主に引き留められたのもあったが、主な理由は徹底的に痛め付けられた、スイ自身の治療の為である。シッポウのポケモンセンターは出来るだけの事をしてくれたが、機械による手当だけでは、傷んだ身体はなかなか元に戻らない。リムイの師でもある青年は整体の知識もあり、彼女の痛みがなるだけ早く取れるよう、物心両面で手を尽してくれた。
強烈な圧力で歪み掛かった骨格を元に戻すと、後の直接的な治療は、ルカリオのリムイに一任された。指示に従い大人しく療養している間、野外採集に長けた客人が集めて来てくれるオボンやヒメリを口にしつつ、元の師範役に癒しの波導を当てて貰うのが、試合後の彼女の日課となる。嘗ての自分なら直ぐに反発して座を蹴ってしまうような日々だったが、あの頃のような性急な衝動は、もう生まれなくなっていた。
スイが身を休めている間、リンは活発に道場稽古を続けていた。まだ試合が終わって間がないにもかかわらず、激戦を制して復活を遂げたこの場所は俄かに強豪として返り咲き、出稽古を希望する者が次々と来訪するようになったのである。時々見舞いに来る相方の表情を見れば、充実した毎日を過ごしているのがよく分かった。
傍らのルカリオは、相も変わらず寡黙だった。話し掛けねば口を開かず、かと言って彼女も口が回ると言うには程遠い性分だったので、勢い場の空気は静かなものとなる。それでも有り余る時間の中、偶に彼女が話題を振ると、黙然と座に着いている彼は別段迷惑がっている様子も無く、穏やかな口調で答えて見せる。遥かな故郷を語るリムイの目は柔らかで、包み込むようなその雰囲気には、何とも言えぬ温かみがあった。突き動かされるように走り続けた長い旅路の末、遠い北の地で勝ち取った栄光を投げ打ち、人目を避けて海を渡った孤独な主人の顛末を、彼は幾分の感傷も交えて語った後、静かな調子で締めくくる。
『結局、誰にでも時間が必要なんだと思う。自分を取り戻す為に、立ち止まる時間が。鳥はみんな巣に戻るし、どんな船でも湊に入る。進んでばかりの自分達には、それが足りなかったんだろうな』
珍しく感情を滲ませ語った彼は、最後に今まで見せた事の無い表情で、穏やかに苦笑して見せた。
出発を控えた最後の夜、寝床の中から彼が消えた。
前の日もその前日も、深夜に一時場を離れ、何処かへ出かけたのは知っていた。眠っていても何処かで醒めていたスイは、リムイが密かに出て行く度に、夢の中から舞い戻っていた。
行く先も、知っている。影のように戻って来るルカリオは用心深く、床に入り直す際も夜気一つ揺らさなかったが、微かに漂う残り香だけは、誤魔化す事が出来なかった。昔から嗅ぎ慣れたそのにおいに触れる度、スイは元の寝部屋にいる筈の、相方の姿を思い浮かべる。あまり気が強い訳ではなく、寧ろ臆する場面を見る事の方が多かったにもかかわらず、自らの思いを遂げる為一途に進み続けた幼馴染に、彼女は讃嘆とも羨望とも取れる、複雑な思いを抱いている。此処数日で――特にリムイが、時間について語った日の夜――漸くそれが、「嫉妬」である事に気が付いた。
何時も先を歩いていた自分。常に前に出て引っ張る側で、試合の内容も幾分かは、彼女の方に分があった。一度も後れを取った事は無いと思っていたのに、今回ばかりは足元にも及ばぬほどに、水を空けられてしまっている。……己の抱いた感情に素直に向き合ったリンに対し、共に歩んで来ていた筈の彼女の方は、それを上手く受け入れる事が出来なかった。
そしてそのまま、今に至っている。どんな時でもぶつかる事を恐れなかった自分。何者をも打ち負かし、捩じ伏せようと言う気概だけは絶やさなかったその自分が、心に浮かんだ波紋を消せず、寝返りばかり繰り返している。野外に満ちる虫達の鳴き声だけが、虚ろな闇に同じ時間を共有する、唯一つの存在だった。
ルカリオが戻って来たのは、それから直ぐの事だった。タイミングは何時もより早く、その為彼女は気付くのが遅れ、相手が足を踏み入れた時には、未だ波導の調整は愚か、寝息すら作り終えてはいなかった。案の定、相手は直ぐに気付いたらしく、『起こしてしまったか』と呟くと、小声で彼女に向けて謝罪する。対するスイは、思わぬ不手際に内心激しく動揺しつつも、声音だけは極力平静を装って、『気にしなくても良い』と答えた。
『偶々目が覚めただけさ。……御蔭でもう身体も痛む事は無い。感謝してる』
下手な嘘だと思った。詰まらぬおもねり方だと思った。この程度の誤魔化しで、優秀な波導ポケモンである相手をはぐらかそうなど、愚かを通り越して滑稽とすら言えるものだった。
だがそれでも、彼は何も言わなかった。『そうか』とだけ反応すると、次いで自分の寝床に戻りつつ、暫し無言で寝支度をする。やがてスイが自分の拙さを気に病んで、再び懊悩し始めた時。出し抜けに今度は自分から、別の話題を振って来た。
『最後の試合、素晴らしかった。一度見ただけであれが出来たポケモンは、自分も含めて知る限りじゃ一匹もいない。……もうこの場所に戻って来る事はないと思うが、此処で教えられた事は本当に誇りに思う』
『あまりよい師範役ではなかったが、ついて来てくれてありがとう』。そう結んだ相手の声音が未だ余韻を残す中、スイは無言で身を起こすと、音も無く敷き藁を払いのけ、相手の方へとにじり寄った。少し遅れて何事かと顔を向ける波導ポケモンに対し、彼女は開きかけた口元に顔を寄せつつ、そのまま相手に身体を重ねる。疑問の言葉を堰き止められたその口中に舌を絡ませ、相手の足に自らのそれを交差させる内、ルカリオの手は背中に沿って緩やかに滑り、蒼い痩身は彼女を上に乗せたまま、ゆっくりと腰を動かし始めた。
最初静かに始まったそれは、直ぐに激しく勢いを増し、やがてそこまで間を置かず、闇を揺るがすほどに熱気を帯びる。先に仕掛けたコジョンドが真っ先に為したのは、捉えた相手の身体に残る、友の残り香を消す事だった。兆した本能の赴くままに息を弾ませ、暗闇の底に身をうねらせる今、他者の存在を認識させる全てのものが、彼女にとって敵である。舌を這わせ吐息を浴びせ、己が体液で相手の槍先を洗いながら、彼女は目の前の相手を捻じ伏せ貪り尽くすべく、引き締まった四肢を躍動させる。両眼に炎を点じた武術ポケモンの凶暴なまでの昂りに、感応させられたルカリオが自らも一匹の獣として受けて立つまで、そう長くは掛からなかった。
重ねた口腔で蠢く舌は互いの急所を弄り合い、毛皮を乱す四本の腕は、攻めの起点と相手のそれへの対抗を兼ねて、しばしば筋張るほどに力が籠る。導き入れられた波導ポケモンは当初こそ胸部の刺を意識したものの、断固とした姿勢でイニシアチブを握ろうとする彼女の側にそんな躊躇いが全く無いのを悟った後は、早々に要らぬ気配りを捨て去った。生涯の大半を修練に捧げたその闘志は凄まじく、鍛え上げられたしなやかな身体は傷付けば傷付くほど、まるで猛り狂うように勢いを増して攻め立てて来る。強烈な締め付けに襲われる度、彼は相手の細腰を折れるほどに抱き締めながら、己が半身に力を込めて耐えしのんだ。
無論ルカリオの側も、決して守りに終始する事はない。相手の圧力が緩む毎に猛威を振るう反攻は、時が移るにつれ激しくなる一方だった。彼の身体に爪を立て、時に喰らい付いてでも声を上げまいとする相手の意志力を試すかのように、彼は察知出来た限りのつぼに刺激を与え、微かな呻きと共に仰け反りかける彼女を屈服させようと、情け容赦無い攻撃を加える。時として両者の攻めは拮抗し、締め上げるコジョンドの痩身が僅かとは言え持ち上げられる事すらあり、一戦終えた後とは言えまだ若い雄である彼の方も、勝負を収める気配は微塵も無い。互いに譲らぬせめぎ合いの中、両者はそれぞれ言い合わせたように顔を離すと、歯を食い縛って相手の力が緩むのを待つ。結局どちらかが息を切らし、相手の優勢を一時的にではあれ受け入れると、その時だけは双方息を弾ませつつ、互いの身体を微かな喘ぎと共に愛撫しながら、穏やかに求め合うのだった。
幾度も体位が入れ替わり、衰える事無く続いた消耗戦に決着が付いたのは、果たして何時頃の事だったのか。彼女が遂に攻勢を断念し、堪えを破り声を放って喘いだ時、組み合っていたルカリオも最後の攻撃を終わらせると、力尽きるように精を放った。荒い息遣いと共に視線を合わせた両者は、暫し溢れ出る体液を払いもせず、ケダモノのような応酬を繰り返し合った、相手の目の内を覗き込む。
ややもして、コジョンドの側が俯いた。相手の胸に顔を埋める彼女の肩が小刻みに震え出すと、迎え入れたルカリオの方は、静かな手付きでその背をさする。滂沱の涙が相手の毛皮を濡らす中、スイは男の身体を掻き抱きながらしゃくり上げ、顔を擦り付け嗚咽した。
ずっと肩肘を張って生きて来た。顧みられぬ故となった弱さを憎み、妥協を排して走り続けた道程は、例え何者だろうと干渉させぬ、固い決意に満ちていた。傍らの友も恩人の主も踏み込めなかったその領域は自身の存在意義であり、それを忽せにさせない事が、彼女の拠りであり誇りであった。世界は常に壁であり、行く手を塞ぐそれをひたすら打破する事が、心のくびきから解放される、唯一無二の手段であった。
だがそれは、同時に諸刃の剣でもあった。己の型に寸分違わず嵌った結果、彼女はその代償として、二度と留まる事が出来なくなった。角立て進む長い旅路は、何時しかスイの心を荒々しく干し固め、細かな罅で覆い尽くす。戻れない道をひたすら進む彼女にとり、それは当然受け入れるべき代償だったが、我武者羅に強さだけを追い求める生き方は、結果的に自身の目から、答えを覆い隠していた。身を置いていたその世界に微かな揺らぎが生じた時、彼女は上手く対応出来ず、錆びたレールにしがみ付いたまま、身を強張らせているしかなかった。変わろうとする幼馴染に続けぬままに、その背を見詰めて懊悩し、変化を恐れて嫉妬しながら、見送る事しか出来なかった。――臆していたのは他でもない、自分自身の方だったのだ。
けれども彼は――リムイは全てを受け入れてくれた。己が惰弱に苛立つままに牙を剥き、衝動的で拙い進退を続ける彼女を、目の前のルカリオは自分に従順な同族共々、同じ目線で扱ってくれた。自分の全てを受け止められる実力と、他者受け入れる揺るがぬ信念に接して初めて、スイは自分が如何に孤独であったかを、自覚する事が出来た。臆病な自分の重なる愚行を咎めもせず、静かに包み込むように覆ってくれるその姿勢は、乾ききっていたスイの心に、震えるような慈雨となり染みた。意を決して進み、一方的に挑んだ闘いにも全霊を以て応じてくれたその胸で、彼女は生まれて初めて他人に縋り、声を放って泣き続けた。
やがて閊えた鼻先を上げ、湿りきった胸元から顔を持ち上げた彼女の頬を、リムイは己の指先でそっと払うと、額から耳の後ろにかけて優しく撫でた。平素は決して己が頭に手を触れさせようとしないコジョンドは、そんな相手の思いやりに満ちた瞳に応えるように、濡れた目元を綻ばせ、微かにはにかんだような笑みを浮かべる。次いで僅かに口元を開いたスイは、そのまま一言も発する事無く、再び擡げた顔を傾けて、相手の口吻を強く吸った。
如何に愛おしく感じようとも、時の流れは止められない。潜り込んだ舌先に応じ、再び力を取り戻したルカリオの腰が上下しだすと、彼女は組み合わせた鼻先をずらし、自ら付けた相手の肩の噛み傷に、ゆっくりと舌をなぞらせていく。乱れ始めた吐息に交じり、今度は抑える事無く漏れた喘ぎに、相手は残された時間を惜しむが如く、雪白の彼女の痩身を、力強一杯掻き寄せた。
差し込む朝の光のように、季節の移ろいはスピードを増す。遠い記憶は次第に過去のものとなり、鮮やかな個々の瞬間を焼き付けながら、思い出へと変貌を遂げた。積み上がる事象に埋もれつつも、決して色褪せぬその体験は、しばしば一個人に留まらず、周囲の者達にも影響を及ぼす。
道場の佇まいは変わらなかったが、そこにある者達はその限りではない。十指に余る歳月は、多くの実績と名声を、この小さな修練場に齎していた。名実共にこの近辺の筆頭として認知されているこの場所を尋ねる者は、旅のトレーナーから現役の四天王まで、多岐に渡っている。試しの岩は今でも健在であり、この地を訪れる格闘家の多くがこれに願を掛けると共に、付近に点在する道場群に他流試合を申し込むのだが、そんな彼らがほぼ例外無く跳ね返されるのが、見た目は何の変哲も無い、このちっぽけな建物であった。
師範席の後ろには勝ち取った証が列を成して並び、過ぎた年月に比例して増えていくそれを阻止する事が、周囲のライバル達の最大の課題となっている。――先代の物は今や残っておらず、それを託された旅人の記憶は、ホンの数名の心の中に名残を留めているに過ぎない。
そして今年も、それを左右する時期がやって来ていた。当然のように代表を決める席が持たれた中で、一匹の若いコジョンドが、朗々と響く声音で訴えていた。
『母上。今年こそは、私が出場させて頂きます』
精悍な表情で睨め付けている武術ポケモンの視線の先では、雪白の美しい毛並みに厳しい光を宿した目を持つ同族が、同輩らしい波導ポケモンと共に、道場主である夫婦の傍らに控えている。未だ及んだ事の無い若武者のその口上に、師範役である雌コジョンドは、主の判断を仰ぐ事無く言い返す。
『なら実力で示してみろ、サイ。道場の代表に相応しいかどうかは、口ではなく己が腕で決めるものだ』
『望むところです。……今日こそは一本取らせて頂きますよ、母上!』
闘志満々で勝負の場に出る息子の姿に片腹痛いものを感じながらも、その瞳に宿る強い光が懐かしく。スイは胸に兆した思いのままに、峻厳な面持ちを微かに緩め、ホンの一瞬陽炎のように、淡い笑みの影を揺らめかす。相方と共に隙も無く鍛え教え込み、それでいて可能な限り情を注いだ若者は、強い意欲と精神力を持ちつつも、明るく深い思いやりを示せる、探究心に満ちたポケモンに育った。あの夜授かった二つの卵の内、一方は旅の青年が譲り受け、残る一方は道場の側で引き取って、今日のこの日を迎えている。残った卵から生まれたサイを、彼女は勿論相方のリンも、実の息子同然に親しみを込めて世話してくれた。
海の向こうには、「花神」と言う言葉があるらしい。春の訪れと共にやって来ると伝えられるその神は、草木に彩りを添える事を業とし、己に課せられた役割を終えると、咲き誇る花々をその地に残し、ただ去って行くのだと言う。吹き過ぎる風のように現れ、必要とされる期間が終わると人知れず消えていくと言うその伝承を耳にした時、スイの脳裏に真っ先に浮かび上がったのは、ふらりと現れた旅の青年と、あのルカリオの事だった。固く強張った己の心を解きほぐし、日陰に寄り添うくすんだ蕾でしかなかった彼女達を誇らかに花開かせた恩人は、掛け替えのない贈り物を残し置き、自身の前から姿を消した。――例えあの夜が現(うつつ)の夢に過ぎなかったとしても、自分はもう二度と、行く道に迷う事は無いだろう。
二匹の母親から学び取れるものは全て受け継ぎ、漸く誇れるだけの気骨を見せ始めた若武者は、嘗て魅かれたその相手を思わせる強い意志の輝きを、何気ない所作に覗かせる事が増えている。後は経験さえ積み上げれば、何時かは彼女を飛び越えていくに違いない。
だが、無論それは今ではない。あの遠い記憶に繋がる日々、ただ圧倒されるばかりであった父親の実力に達するには、この目の前の息子は未だ全く、足元にも及ばぬと言って良い。
『その言葉がどれだけ身の程知らずであるか、今からしっかりと教えてやる。覚悟しろ』
冷たい声音の裏側で、湧き上がって来る誇らしさを噛み殺しつつ。道場の師範役を務めるスイは、記憶の中で光芒を放つ相手の姿に為り変わるべく、挑戦者として歩み出した息子の前に立ちはだかる為、ゆっくりと闘いの場に進み出た。
・後書き
ポケモン小説wikiさんの第八回仮面小説大会にエントリーさせて頂いた作品。
ツイッターで『官能小説書くと描写力上がる』的なやり取りを見て、「それぐらいなら俺にでも出来る……(アミバボイス)」と身の程も知らず突っ込んだ問題作。結果、本職の方々の官能描写のレベルの高さに完全に圧倒されて見事「うわらばァ……(爆砕四散)」するオチに。思い上がってました済みません土下座すると同時に、やっぱり自分は得意分野以外じゃまともな描写は出来ないなぁと猛省しました。
幸い企画作品としては御評価頂けたものの、もうこの手のジャンルは書くまいと固く心に誓った次第。餅は餅屋に任せておけば良いのだ……。
なお作品背景に触れると、昔書いた『酔って候』の過去編に当たります。後登場してる青年は『雪の降る夜』なんかに出てきたあいつ。また、序文を一粒万倍日に出したので覚えてる方もおられるやも知れません。