雨雲が去ったばかりの空に、大きな虹が懸かっていた。朝霧の残る踏み分け道はひんやりと涼しく、林の奥から聞こえて来るテッカニンの鳴き声も、気持ちの良い微風に遠慮してか控え目で大人しい。朝露に濡れた叢を緩やかにかわしつつ、ヒューイは木漏れ日に彩られた通い路を、のんびりとした二足歩行で進んでいた。
大きな房尾に尖がった耳。白い毛皮に緋色のライン。胴長の総身を覆う夏毛はそれでも十分に長く、立って用を足すにはやや不適とも見える短い前足には、幾つかの木の実が抱え込まれている。シンオウでは非常に珍しいポケモンである彼は、猫鼬と言う分類や、それに纏わる数々の逸話には到底似合わぬ表情で、幸せそうに欠伸を漏らす。この按配なら後二時間ぐらいは、あの狂気じみた殺人光線を恐れる心配は無いと言うものだ。
シンオウ地方はキッサキシティに程近い、とあるちっぽけな森の中。冬は止めど無く雪が降り注ぐこの辺りも、夏の盛りとあっては是非もなく、昼間はそこかしこに陽炎が立ち昇って、涼味も何もあったものではない。元々南国の住人である彼は兎も角、間借りをさせて貰っている同居人達は滅法暑さに弱いので、この季節は殆ど動こうとしない。勢い役立たずの居候である彼に、雑用の御鉢が回って来ると言う訳である。最も彼自身、現状には酷く窮屈さを感じている為、こうして何かをさせて貰っていた方が反って有難いのだけれど。
足裏に感じる、まだ温まりきっていないひんやりとした土の感触を楽しんでいる内。やがて不意に林道は途切れ、小さな広場に辿り着く。林の中にぽっかりと空いた、雑木も疎らな空白地。所々に岩の突き出たその場所が、朝の散歩の終着点だった。足跡や臭いなど、様々なポケモンの痕跡が感じ取れる中、ヒューイは真っ直ぐ手近の岩へと歩み寄ると、その根元を覗き込む。そこには良く熟れたクラボの実が幾つかと、硬くて噛み応えのありそうなカゴの実が一つ、大きな蕗の葉の上に並べられていた。此処には目的のものがない。そこで彼はその岩の傍を離れると、隣に腰を据えている三角の岩に場を移す。此方の根方にあったのは、喉元を綺麗に裂かれて無念気な表情を浮かべている、二匹の野ネズミの死骸。乾いた血の痕にぶるりと身震いした彼は早々にそこから離れると、三つ目となる赤い岩の方へと足を向けた。日に焼けた岩肌に眼を滑らせていく内、漸くお目当てのものを見つけ出す。岩陰に敷かれた緑の葉っぱに乗せられていたのは、つるりとした白肌も眩しい、三個の大きな卵だった。大きさからしてムクバード辺りのものだろうか。朝の光を浴びてつやつやと輝くそれは、如何にも新鮮で美味しそうだった。
品物の質に満足したヒューイは、次いで視線を戻し、自らのなぞった道筋を辿って、岩肌の一角に目を向ける。卵が置かれた場所より丁度腕一本分ぐらい上に岩を削って印が付けられており、続いてその下に、品物を置いていった主が必要としているものが、この種族独自のサインで簡潔に記されていた。一番上の表記を見た瞬間、彼は思わず顔をほころばせ、我が意を得たりと独り頷く。個人を表すそのサインの主は、顔見知りのマニューラ・ネーベル親爺のものだ。腕の良い狩人である半面酩酊するのが大好きな彼が欲しがるものと言えば、マタタビに辛口木の実と相場が決まっている。案の定『一個につきマタタビ三つ』と言う明記があるのを確認すると、ヒューイは抱え込んでいた緑色の木の実を全て下ろし、代わりに三つの卵を大事に抱え込んで、悠々とその場を後にした。
遣いに出て行ったザングースが帰って来た時、ねぐらの主であるラクルは、既に朝食となるべき獲物を仕留め、丁度綺麗に『調理』を終えて、住処に運び入れた所であった。内臓を取り分けて皮を剥ぎ、近くの流れでよく洗った野ネズミの肉を鋭い爪で分けていると、住居としている岩棚の入口から、「ただ今」の声が響いて来る。無警戒な足音が近付いて来た所で顔を上げ、そっけない挨拶を返しながら、彼女は狩りのついでに確保しておいたオレンの実を汚れてない方の腕で拾い、ひょいとばかりに投げてよこす。「お疲れさん」の言葉と共に飛んできたそれを、紅白の猫鼬は大いに慌てながらも何とか口で受け止めて、腕の中の荷物共々ゆっくり足元に転がした。
「どうやら収穫があったみたいだね。有難う、助かるよ」
やれやれと言う風に息を吐く相手に向け、ラクルは何時もと変わらぬ口調で礼を言う。御世辞にも温かみに溢れているとは言えない、まさに彼女自身の性格を体現しているような乾いた調子だったが、それでも好意と感謝の念は十二分に伝わって来るものだった。それを受けたザングースの方はと言うと、これまた生来の性分がはっきりと表れている感じで、多少慌て気味に応じて見せる。何時になっても打ち解けたようで遠慮会釈の抜けないその態度に、家主であるマニューラは内心苦笑を禁じ得ないのだが、それを表に出して見せるほど、彼女も馴れ馴れしいポケモンではなかった。
「いや、大した事じゃないし……! こっちは朝の散歩ついでなんだから、感謝されるほどの事もないよ。木の実だって、僕が育てた訳じゃないんだし」
「どう言ったって、あんたが私達の代わりに交換所に行ってくれたのには変わりないさ。対価だって自前で用意してくれたんだ。居候だからって遠慮せずとも、その辺は胸張ってくれて構わない」
「木の実一つぐらいじゃ足代ですら怪しいからね」と付け加えると、彼女はもう一度礼を言って、ザングースが持ち帰った卵の一つを引き寄せた。肉の切れ端を一先ず置いて立ち上がると、卵を軽く叩いて中の様子を確認してから、奥の方へと持っていく。干し草を敷いた寝床の一つに近付き、横になっていた黒い影にそれを渡すと、持ち帰った相手に礼を言うよう言い添える。体を持ち上げた黒陰は小柄なニューラの姿になって、そちらを見守る気弱な猫鼬ポケモンに、笑顔と共に口を開いた。
「有難う、ヒューイ兄ちゃん!」
「どう致しまして、ウララ。暑い日が続いてるけど、早く良くなってね」
ザングースが言葉を返すと、まだ幼さの残る鉤爪ポケモンは「うん!」と頷いて、彼が持ち帰った御馳走を嬉しそうに掲げて見せる。夏バテ気味の妹に寝床を汚さぬよう起きて食事するように言い添えると、ラクルはヒューイに向け、自分達も朝食にしようと声をかけた。
ヒューイは臆病者の猫鼬。ある日ふらりとこの近辺に現れた彼は、今目の前で一緒に朝食を取っている、マニューラのラクルに拾われた居候だ。元々人間に飼われていた為、野生で生きていく術も心得も一切持たなかった彼は、本来の生息地から外れたこの地で仲間も縄張りも持てず追い回された揚句、栄養失調で行き倒れになりかかっていた所を、全くの異種族であり野生のポケモンである、彼女によって救われた。
まだ根雪の深い春先の頃、泥だらけでふらふらのザングースを見つけた彼女は、マニューラという種族が当然取るべき行為をあえてやらずに、彼を生かして自分のねぐらまで運び込み、熱心に世話を焼いた。本来なら肉食性の狩人であり、仲間内の結束は固い半面異種族に対しては非常に冷酷なニューラ一族の事であるから、彼女のこの行動は当時大いに波紋を呼び、実際血縁関係にある親族達からも、さっさと始末を付けるよう何度も言われたらしい。今でもヒューイ自身、これに関してアクの強い冗談や皮肉を言われる事が少なくないのだから、当の本人であるラクルがどれだけ風当たりが強かったかは、推して知るべしである。
ところがしかしラクル自身はと言うと、そんな事は自分からはおくびにも出さず、後に周囲からの言葉よって己がどれほどの恩を受けたかを悟った彼が恐る恐る話題を向けてみても、「好きでやった事さ」と切り捨てるだけで、何ほどの事とも思っていないようだった。彼女は寧ろ、ヒューイが自分の妹であるウララの命を救った事実の方に強い借りを感じているようで、今でもやたらと『手のかかる』ポケモンである彼を止め置き、何くれと面倒を見てくれている。正直身の縮むような思いではあるものの、未だに自力で生きていける自信が毛ほどにも感じられない彼としては、こうして養って貰う他には光明が見出せないのが現状である。
ヒューイが彼女に恩を作ったと言うのも、いわば成り行き上の事に過ぎない。長い眠りから覚めたあの日、自分の置かれていた状況がまるで分かっていなかった彼に対し、恩人の冷酷ポケモンはどこか落ち着きに欠けた様子ながらも、好意的な態度で事の次第を話してくれる。「好きなだけ居てくれて良い」と言い置くと、気忙しげに場を立った彼女の態度が腑に落ちず、おっかなびっくり立ち上がった先で見たのが、熱にうなされているニューラと、それを看病しているニューラとマニューラの姉弟だった。狩りの際に負った傷が化膿し、明日をも知れぬ容体だったウララを救う為、ヒューイはその足でキッサキの町まで駆け走り、毒消しと傷薬を手に入れて来て、無事彼女の一命を取り留める事に成功する。長く人間と共に暮らし、『飼われ者(ペット)』の蔑称で呼ばれる身の上だったからこそ出来た芸当であり、同じように命を救われた彼としては寧ろ当然の行いであったものの、これによって彼自身の株が大いに上がったのは間違いなかった。結果的に、彼は家族の恩人としてラクル一家に受け入れられたし、群れの他の同族達からも、『役立つポケモン』として一応の存在を認めて貰えるようになったのである。
とは言え、やはり彼自身が居候でしかないのは間違いなく、群れの中では紛れもない異分子である。何とか自力でサバイバル出来るようになり、これ以上一家の負担にならぬよう心掛ける事だけが、目下の彼の唯一にして、最大の目標だった。
ヒューイの日課は固まっている。朝食が終わると外に出て肩慣らし、次いで昼食時まで木の実の探索と採集である。狩りの心得はラクル達から教えられはしたものの、未だに小動物さえ満足に捕まえられず、例え木の実と引き換えに交換して貰った獲物でも、裂けた傷口から臓物でもはみ出ていようものなら気味が悪くて持って歩くのも躊躇うほどで、自活の道はまさに多難としか言いようがない。
しかしそれでも、彼は黙々と日課をこなす。倒木相手に接近戦の練習をし、木陰を縫ってオレンやキーの熟れ具合を確かめると、昼食の為に一旦ねぐらに舞い戻る。手早く食事を済ませ、暑気をしのぐべく午睡に入る一家に断りを入れると、今度は狩りの修練を積む為に、森の中へと分け入った。ポケモンフーズと違い素早っこい獲物達に翻弄され、そのまま悄然と茜空を迎えるも、せめて見付けられるようになっただけずっとマシじゃないかと自分を励ます。帰る前に少し足を延ばし、自分で設けた秘密の菜園の様子を見たら、一日の活動は終了である。苦労して手に入れた珍しい木の実を植えているその場所は、未だに嘗ての生活を引きずっている彼の、苦肉の象徴とも言えるものであった。
黄昏過ぎて戻って来た彼の不首尾にも、誰も皮肉めいた事は言わない。群れの中でも一目置かれる狩りの名手であるラクルは、背中を丸めてもそもそと食む居候が増えた所で、家族に負担を掛けさせるような事はなかった。日暮れ時の短い間に自分の仕事を終える彼女に対し、ヒューイは畏敬の念を抱くと共に、自分がどうやってもその域には及ばぬであろう事を、忸怩たる思いで噛み締めるしかなかった。
狩りの腕は進歩せぬまま、暑い季節が通過していく。時々練習に付き合ってくれるラクルや彼女の弟のルプシに言わせれば、彼は余りにも「トロ過ぎる」らしい。
「迷いも戸惑いも挟む暇はないよ。近付くまでは用心深くしないといけないけど、行く時は一気に行かないと。あんたは何にしても時間を掛け過ぎるのが欠点だ」
ラクルの批評は厳しかったが、同時に「周到なのは悪い事じゃないけどね」と、言葉を添えてくれるのも忘れない。弟であるニューラのルプシは妹のウララと違って活発で、生意気盛りで既に自立を終えている優等生だったが、妹を救ってくれたヒューイに対しては好意的で、失敗続きの彼をからかいながらも根気よくコツを教えてくれた。……残念ながら、その好意に報える見込みは未だ立っていないのだけれど。
駆け足に過ぎるキッサキの夏は彼に何の進歩も齎さなかったものの、一方で並行して進めていた彼の試みそれ自体には、大きな成果を残してくれた。崖際の窪地に設けられた彼の菜園では、盛夏の日差しを一杯に浴びた果樹の群れが、綺麗な花を咲かせている。狩りに不適な地形の為主達は見向きもせず、かと言って優れた狩人であるニューラ一族の縄張りに好んで近付くポケモンもいない御蔭で、丹精込めたヒューイの努力の結晶は、今の所自身でも信じられぬほど順調であった。
進展に差が出ると、やはりどうしても結果が目についている方に傾くのは否めない。元々一種の保険として始めた木の実畑は、今や彼の日課において主要な地位を占めるようになっていた。水やりや草取りの方法も工夫し、彼なりに効率化すると共に、物言わぬ樹木に温かく接し、情を掛ける事を忘れない。傍目には突っ立っているだけの植物が如何に細やかな情によって揺り動かされるかを、ヒューイは良く分かっていた。
果樹の手入れは、今は亡き主が得意としていた仕事であった。遠いホウエンの出身で、根っからのコンテストびいきだった老人は、彼ら自らの手持ちに与えるポフィンやポロックを自作する為、四季を通じて欠かさず収穫出来るよう、木の実栽培に余念がなかった。毎日丹念に樹木を観察し、感情を込めて接するその手法を、彼は「目肥え」をやると称していた。「知ろうと思って見てみれば木の状態が理解出来、必要な手当てが分かる。例え枯れかかっている樹木でも、言葉を持って励ませば不思議と樹勢が回復し、大きな花を咲かせるものだ」――温厚な主の誰に聞かせるでもない問わず語りは、彼を強く慕っていたヒューイの耳に、今もしっかりと息づいている。
しかしそれは、同時に最も振り返りたくない思い出であった。……主人が倒れたあの日、偶々傍らにいて慌てて隣近所に急を告げた彼は、主が不帰の客となった事を理解するや、そのままいても立ってもいられぬままに、全てを捨てて逃げ出したのだ。コダックを模した如雨露が転がり、ふらりと倒れた老人の口から赤黒い血が零れるのを茫然と見ている事しか出来なかったヒューイにとって、身についたこの知識と業は、自分の無力さを象徴するものでもあった。
そうして逃げた臆病者が、今もこうして本来の生業を放棄して、嘗ての生き方にしがみ付いている。流されるままに死ぬべきだった所を救われ、ずるずると引っ掛かったその場所で、未だに受け入れるべき現実から目を背けている。さわさわと慰めるように青葉を揺らす若木に向け、ヒューイは微かに俯けていた顔を上げると、青空をバックに佇む物言わぬ友人達に、寂しさと自嘲の入り混じった笑みで応えた。
木の実畑の管理を終えて帰宅する途中、ヒューイは不意に行く手を遮られ、びくりと身を震わせた。
しかし直ぐに、相手の顔を見て胸を撫で下ろす。「よぉ」と気さくに声を掛けて来たのは、数少ない友好的な知人の一人である、中年マニューラのネーベルであった。右頬に二本の傷痕が走るコワモテの黒猫は、この一帯で最も優秀な狩りの名人である一方、その相貌に反し世話好きで情宜に厚く、新入りの異分子である彼に対しても、これと言った隔ても無く接してくれる稀有な存在である。
「久し振りにこっちに回ってみたら見た事もない木が並んでるし、手入れまでされてやがるからな……。どんな奴が植えたのかと思ってたが、お前さんだったのか。相変わらず変な事ばっかやってるなぁ」
感心と呆れが半々と言った表情で口にする黒猫親爺に、ヒューイは苦笑しつつ「はい」と答える。物々交換の常連、いわゆるマタタビ要員として始まった関係だったが、どうやらウマが合ったようで話すほどに打ち解けて、今では悩みと愚痴を交換出来る程度の間柄にはなっている。酩酊している時は底抜けの笑い上戸で、狩りの最中は近寄るのも憚られるほど真剣な表情を見せるが、平素の彼はガサツながらも御人好しの、すこぶる頼りになる親爺であった。
「何か出来ないかなと思って……。ラクルやみんなにお返ししたいと思っても、僕にはこう言う事しか出来そうにないし」
「こう言う事が出来るなら良いじゃねぇか」
おちょくるような色を引っ込め、不意に真顔になった相手の反応についていけず、気弱な猫鼬は少しどぎまぎしながら口を噤む。「お前なぁ……」から始まる年長者の言葉は、未だに周りを憚るばかりで一人前の雄として振る舞おうとしない若者へのもどかしさが、包み切れぬ気遣いと共に伝わって来る。
「お前も好い齢してるんだから、大概にしゃんとして歩けよ。オトコだろ? ガタイだって俺達より良いんだし、好い加減もっと強気に生きたらどうだ」
「はぁ……」
「はぁ、って……なぁ……。何でこう切れ味が鈍いのかねぇ?」
思わず首を捻るネーベルに、ヒューイは呑まれ気味だった己自身を取り戻しつつ、「でも僕は居候な上に余所者ですし」と控え目に答える。本当はほぼ無意識の内に言い訳にしているに過ぎないのだが、言った本人が気付いていないその逃避も、彼には御見通しらしい。人一倍鋭い眼でじろりと睨むと、引け腰でやり過ごそうとする若者に、諭し掛けるように言葉を紡ぐ。
「お前が誰かなんて気にしてどうする。男の貫目なんて、そんなもんとは何の関係もねぇよ。陰で何言われようが気にすんな。狩りがダメなら教えてやるし、俺の次ぐらいに上手くなりゃ、誰も何も言えねぇよ」
大真面目に「俺の次ぐらいに」と言う辺りが、如何にも彼らしい言い草である。だが、本気で自分を心配してくれている相手の前で、ヒューイは何時ものように笑って誤魔化す事は出来なかった。
「そもそもお前を拾って来たのはラクルなんだし、何か抜かす筋合いがあるならあいつに直接言うべきなんだ。思いがけずお前がやって来たせいでやっかんでる奴がどれほどのもんだって話だし、そうじゃない連中には実力で分からせれば良い。最悪狩りが上手くならずとも、お前には木の実や知識って武器があるだろ? 家族を食わせるのに、狩りと木の実にどれほどの差があるかってんだ。ラクルの奴じゃなくとも、群れの中にゃ狩りの出来る娘はごまんといる。お前一匹狩りが出来なくとも誰も困らん」
「ちょ、ちょっと待って……。僕はただの居候で……!」
「行き場のない雄って事ははっきりしてるだろうが。え? ここで骨を埋めた所で不都合なんか無いだろ」
何時の間にか自分の嫁取り話にすり替わり始めて、流石にヒューイは待ったをかける。如何に善意からくるものとは言え、此処まで世話を焼かれると彼としても堪らない。が、次に相手が口にした事は、彼にとっては思いもよらぬ内容で、それでいて誰も教えてはくれなかった事柄であった。
「居候云々にしても、ラクルにしたって自分の都合でお前を拾ったんだ。片意地張って庇い立てしてた辺り、お前と昔の出来事を重ね合わせてたんだろう。あいつはずっとその事で、爺さんを恨んでたからな……」
「え……?」
「ラクルがお前を拾った理由さ。直接聞いた訳じゃないが、多分あってると思うな、俺は」
事情を説明し始めた彼の言葉を一句も漏らさじと聞いている内、ヒューイはラクルの抱いているらしい感情が、自分のそれととてもよく似ているのに気が付いた――。
彼がねぐらに戻った時。岩棚の横穴には、主のラクルが一匹だけで残っていた。
ウララは兄のルプシと共に、川に涼みに行ったと言う。「あんたの御蔭で大分良くなった」と好意的な表情を見せる冷酷ポケモンに、ヒューイは聞いて来たばかりの内容を切り出すべきか、束の間迷った。
だがその逡巡を、優秀な狩人でもある相手は、あっさりと見破ったのだろう。どうかしたのかと問うて来る彼女に対し、引っ込みがちな猫鼬は、意を決して口を開く。
「実は途中でネーベルさんに会ってさ……。聞いたんだ。ラクルについて、色々と」
「ふーん?」とでも言いたげな表情を見せる彼女に若干気押されながらも、ヒューイは一度踏み出した勢いのままに、自分が聞いたその内容を繰り返す。多分怯まなかったのは、ずっと自分が苛まれて来た思い出と、重なっていたからだろう。
彼女には昔友達がいた。マニューラではない、彼らの縄張りの外から来た友達が。天敵に追われて傷だらけで逃げ込んで来た彼を、ラクルは仲間に告げずこっそり匿い、家族にも内緒の秘密の時間を過ごす内、すっかり打ち解けて仲良くなった。
だがある時、彼の存在が周りにばれた。友人に食べさせたいが一心で非常時の備えとして手付かずにしていたオボンの木に登った彼女は、同心している仲間がいるかどうか確認する為泳がされていたとも知らず、見張り番をしていた大人達を、真っ直ぐ隠れ家に導いてしまったのだ。悪ガキ共の度胸試し程度に思っていた彼らは、実態を知るとすぐさま彼女の友達を捕まえて、木の実泥棒と共に群れの頭を務めていた、彼女の祖父の下へ突き出した。
勿論彼女は、必死に友達の為に嘆願した。当時から既に頭角を現していた彼女は群れの内でも期待の星であり、捕えられた友人も、現場では何とか傷付けられる事も無く収まっていた。だが、厳格さで知られ、恐れられていた彼女の祖父は、群れの伝統的な慣習であり自らも定めた掟を揺るがせる気はなく、孫娘の涙ながらの訴えも黙殺して、潜り込んでいた異分子を即決で処分する決定を下したのである。「他種族と交流する事一切無用」と言うその原則の下あっさり息の根を止められ、獲物として分配された友人の末路に、ラクルは暫くショックから立ち直れず、旧に復しても祖父とだけは、最後まで打ち解けようとはしなかったと言う。
「困った親爺だね。酔っ払ってなくても御喋りなんだからさ」
ヒューイが打ち明け終えた後、黙って聞いていた彼女は開口一番そう言って、何とも言えぬ苦笑いを浮かべた。極力何でもないようには装っているものの、呟きと共に眼差しの内に宿った翳は、彼でもはっきり読み取れるほどに色濃くて、底の深いものだった。
「確かに、そんな事があったよ。……私もまだまだ未熟だったからね。後をつけられてたってのに、全く気付かず仕舞いだった」
淡々と語る言の葉が、ヒューイの耳には別の形で突き刺さる。何に憤懣を漏らすでもなく、敢えて自分の未熟さに焦点を当てようとするその姿。――それもやはり、彼には見慣れた光景だった。自嘲に満ちた、淡い諦観。「あの時こうすれば」、「自分がこうであったなら」。終わらぬ繰り言に縛られ、責め先を自身にしか見出せない苦悩は、何よりどうする事も出来なかった自身のそれと重なって、ヒューイの胸を締め付ける。その虚ろな瞳がやり切れなくて、彼は思わず前に出ると、嘗て見た事もないほど小さく感じた相手身体を、包み込むように抱き締める。
「なっ……!?」
思わず声を上げて固まり、次いで戸惑ったように身を離そうとするマニューラに、彼は微かに震えながらも、心の底から思いを込めて呼び掛ける。「君は悪くない」、と。
老人が倒れた日の朝、ヒューイは自分の主が、常に飲み続けていた薬を切らしていたのに気が付いた。文机の上に散らばっていた空のフィルムは数が足りず、何時もの半分ほども無い。老人は胸の血管が弱っており、既にここ数年で薬を手放せない身の上となっていた。主人が地に伏した時、彼は生まれ備わったその全力で駆け走り、隣の家の柵門をでんこうせっかで突き破る。必死に助けを求めて飛び込んだものの誰もおらず、結局何とか通行人を掴まえて戻って来たのは、三軒目を覘いた後だった。
多分何をどうしても、主は助からなかっただろう。薬は気休めと本人自身が語っていたし、既に意識を失って倒れた時点で手の施しようがなかった事は、直感的に覚っていた。……けれども、それで納得出来るかは別物だった。助けを呼べたのは彼だけであり、薬を受け取りに行くよう誘う機会もあった。ヒューイは主人のお気に入りだったし、老人は彼の全てであったのだ。
彼を失ってから、ヒューイは行くべき道を見失った。目の前のマニューラは傍目にはちゃんと立っていたが、絡み付いた苦悩の蔓は断ち切れず、未だ翳の刃に苛まれ、声も無く血を流している。終わりの見えぬその苦しみが分かるからこそ、彼はこれ以上恩人に、背負い続けて欲しくはなかった。
込み上げて来た衝動が去り、身体の震えが収まった後。ヒューイは恐る恐る身じろぎすると、既に抵抗を止めていた彼女の背から腕を引き、静かに下がって相手に詫びた。
「ごめん……」
視線を合わせる勇気も無く、ぽつりと呟く彼に対し、ラクルはやや置いた後、冷たく光る鉤爪を持ち上げると、俯く相手の顎にあてがい、そのままくいと持ち上げる。
「謝るこたないさ。何で謝る必要があるのか、こっちが聞きたいほどのもんだ」
柔らかくも何処か寂しげに微笑んで見せた彼女は、次いで「ありがとう」と口にすると、直ぐに自らの見せたその表情をはぐらかすように切り替えて、軽い溜息と共に苦笑する。
「私もヤキが回ったかな。居候のザングースに慰められているようじゃ、先が思いやられるね」
顎に当てた爪を引っ込め、どう反応すべきか戸惑っているらしい猫鼬に背を向けると、ラクルは夕食の支度をすべく、足早に岩棚を後にした。
平穏だった森に衝撃が走ったのは、それから数日後の事だった。
何時も通りの一日が過ぎ、後は夕食を待とうと言う時間帯。突然駆け込んで来たルプシの切羽詰まった呼び掛けが、彼らのねぐらに急を告げる。
「ハガネールが暴れてる!」と叫んだ彼の次の言葉に、ラクルは勿論此処の事情に疎いヒューイまでもが、血相を変えて外に飛び出す。不意に現れた鉄蛇ポケモンに襲われたのは、散歩に出ていたウララだったのだ。飛ぶように走り、見る見る内に引き離されていく両者の背中を焦慮に満ちた目で見詰めながらも、ヒューイは少しでも喰い下がろうと、必死に四足で地面を蹴って追い縋った。
何とか二匹の姿を捉えたままで辿り着いたその先は、既に大荒れに荒れていた。木々が折れ、地面が抉れて至る所に穴ぼこが空いた川岸で、先に駆け付けた数匹のニューラやマニューラ達が、巨大な鉄蛇を取り巻いている。辺りを睥睨するハガネールが余裕に満ちている反面、数には勝れども種族柄非常に不利な黒猫達は近付く事も出来ず、爪を光らせ威嚇するのみで、焦りの色を隠せていない。早くもやられ倒れ伏している者も二体ほどおり、苦戦中なのは一目瞭然であった。
駆け付けたラクルとルプシがすぐさま敵に向かう中、ヒューイは一先ず呼吸を整えながら、ウララの姿を探してみる。程なく彼は、ハガネールが圧し折ったと見える倒木の陰に蹲り、縮こまっている彼女を見て取った。恐らく怪我をして動けなくなった所で、仲間が駆け付けて来たのだろう。怯えと共に彷徨わせていた視線がかち合い、此方を認識した幼いニューラの瞳の内に縋るような色が浮かんだのを受け、ヒューイは意を決すると、覚悟を決めて前に飛び出す。先に突出したラクルが、迎え撃とうと巨体を廻らせるハガネールに飛び掛かるのを横目に見つつ、彼は目を瞑る思いで鉄蛇の尻尾の下を潜り抜け、ウララの許に滑り込む。
「大丈夫、ウララ?」
「うん……。ありがとう、ヒューイ兄ちゃん」
気が緩んだのか、目を潤ませて抱き付いて来る小柄なニューラを励ましつつ、ヒューイは手早く観察して、怪我の程度を確認する。幸い出血も骨折も見えず、せいぜい足を挫いたか、軽い打撲ぐらいのものらしい。
「早いとこ逃げよう。掴まって」
長居は無用とばかりに、ヒューイは自分の背中に彼女を乗せると、外の様子を窺がってから走り出す。必死に距離を取る背後では、ハガネールの繰り出したストーンエッジを家主のマニューラが身軽に避けて、氷の礫で反撃している。彼女の果敢な突貫により、どうやら勢いを取り戻した周りの鉤爪ポケモン達も、てんでに礫や凍える風を撃ち込んで、ラクルの奮闘を援護している。小煩く攻め立てて来る黒猫共の反攻に、大柄な鉄蛇ポケモンは効果的な対応が出来ず、苛立たしげに尻尾を地面に叩き付けた。
だが、一見単純な力押ししか出来そうになかったその相手は、直後思いもよらぬ手で反撃に移る。周りを囲むすばしっこい狩人達を一渡り睨み回した彼は、不意に全身を輝かせると、一呼吸置いて辺り構わず、鋼の身体から光の帯を乱射する。
「うわっ!?」
「ぎゃ!!」
まるで刺を撃ち出したテッシードを思わせるような多方面攻撃に、避け切れなかった黒猫達が悲鳴を上げて蹲る。自分に向けて飛んで来た光を慌てて横っ跳びにかわしつつ、ヒューイは普通のハガネールなら先ず覚える事はないその技の名称を、信じられない思いで口にする。
「ラスターカノン……!? まさか……」
ラスターカノンは光を一点に集めて照射する、中距離向けの遠隔攻撃。鋼タイプの技ではあるが、本来野生のハガネールは、この技を覚える事はない。これを使えるのは、技マシンで習った時――人間の手によって覚え込まされた個体のみが、この特殊な技を扱う事が出来るのである。しかもこのハガネールのそれは、本来一点に凝縮して単体の相手を狙うべき技を、威力を大きく下げる代わりに放射状に無差別攻撃を仕掛けると言う、非常に実戦向きのアレンジまで加えている。此処まで戦いに特化されたポケモンが、元々野生に居る筈がなかった。
頭に浮かんだ結論に彼が驚愕する中、ハガネールは続いて強烈な地震を繰り出して、自分の周りで動けなくなっている、鉤爪ポケモン達を一掃する。地面タイプ屈指の大技の余波は激しく、ラスターカノンを避け切っていたラクル達も大なり小なり巻き込まれて、辺りは技の轟音とダメージを受けたポケモン達の悲鳴や呻きで騒然となった。ヒューイ自身も巻き込まれはしたものの、地震が来るのはある程度予想出来ていた為、ウララ共々痛手を被る事は免れる。
身軽なラクルも直撃こそはしなかったが、堪えた衝撃に動きが鈍る。それを見て取ったハガネールは、訪れた勝機を見逃す事無く、すぐさま次の手を打って来た。戦意充実し咆哮を上げた鉄蛇は、巨大な鋼の身体を駒のように回転させ、一直線にマニューラ目掛けて突っ込んでいく。この種族最強の武器である、最大火力のジャイロボール。もしこれが直撃すれば、ハガネール自体の質量も相まって、ほぼ間違いなく致命傷は免れない。
「ラクル! 危ない!!」
必死に叫ぶヒューイの声に応えるように、マニューラの身体が横に跳ぶ。でんこうせっかで何とか回避したのも束の間、ハガネールは折角巡って来た好機を無為にする心算は無いらしく、そのまま方向を転換し、彼女のみに狙いを絞って追い掛け始めた。
一方ヒューイの方は、急いでウララを地面に下ろした。姉の名を呼ぶ小柄なニューラに下がっているよう伝えると、彼は地を蹴って前に出ながら、ずっと使う事のなかった、自分の能力(ちから)を呼び覚まそうと試みる。必死に距離を詰め、風を切って高速回転する鋼鉄の蛇を射程圏内に捉えると、地に着けていた二本の腕を持ち上げて、標的を見据え身構える。最速で呼吸を整え、無意識の内に鋭い爪が飛び出している己の腕に戦う力を込め始めると、程なく生まれた枯れ草色の塊が、どんどん大きくなっていく。――命中率の悪い技だが、得られるチャンスは一度きり。両手で保持したエネルギー弾が十分育ったのを確認すると、ヒューイは全神経を集中し、恩人に向けて突進していく巨大な灰色の駒に向け、思いっきり技を繰り出した。
矢声と共に解き放ったのは、格闘タイプの気合い玉。ただでさえ制御の難しいそれは威力の確かな大技の半面、ちゃんと使いこなせても尚命中精度が不安定と言う代物だったが、今回は的の大きさが幸いした。案の定、予想もしなかった弧を描いて彼の肝を冷やさせた光の玉は、それでも何とか予想進路から大きく外れる事は無く、猛進するハガネールに引っ掛かるように命中する。凝縮されたエネルギーが炸裂音と共に弾けると、マニューラに向かっていた鉄蛇の身体は凶暴な力に打ちのめされ、強引に進路を捻じ曲げられて、苦痛の吠え声と共に横転したまま地を滑る。回転する鉄骨のようなハガネールの巨体は、繰り出していた技の勢いそのままに地表を削りながら進んだ後、岩にぶつかって漸く止まった。ぐったりと横たわる彼は命に別条こそ無さげだったが、最早起き上がって戦う事は不可能だろう。
「すげえな……。あんたそんな技が使えたのか」
大きく安堵の息を吐くヒューイに向けて、ルプシが気圧されたように言葉を掛ける。タネを明かせば、物理ダメージに対して極めて強靭な半面、特殊攻撃に対しては非常に脆弱なハガネールと言う種の弱点を突いただけなのだが、その手の知識がまだ無い彼には、今の一撃が驚嘆に値する、恐るべきものに見えたのだ。……まぁ事実、強力な技である事は間違いないのだけれど。
此方も漸く安堵の表情を浮かべたラクルに、ウララが足を引き摺りながら走り寄っていくのを眺める内。唐突にヒューイは、今まで聞いた事も無い声で、背後から呼び掛けられていた。
「見事だな。大した腕だ」
称賛を意味する内容であるにもかかわらず、ハッとするほど冷たいものが入り混じったその声に、ヒューイは慌てて振り返りつつ、無意識の内に身構える。――果たしてその相手は、今まで出会った事も無いポケモンだった。
そこに居たのは、一匹の猿。燃え盛る炎を頭部に宿し、彼と同じく白を基調とした体毛を纏うその種族自体は、嘗て主と共に観ていたテレビの中で、よく目にしていた存在である。
「ゴウカザル……」
「まぁ、そうだ。見ての通りの事だがな」
彼の呟きが何処となく可笑しかったらしく、目の前の火猿ポケモンはやや表情を緩め、軽い苦笑と共に頷いて見せた。次いで再び目付きを戻した彼は、ヒューイに向けて「いきなりで悪いが、ちょっと付き合って貰いたい」と要請する。
「貴様、元は人間の手持ちだろ? 気合い玉が使えるのなら、先ず間違いあるまい。なら――」
「ちょっと待てよ。いきなりでって言うけど、実際訳分からないし迷惑だ。ヒューイをどうする心算だよ?」
『飼われ者(ペット)』ではなく『手持ち(パートナー)』と呼ばれた事に、ザングースが目を見開く一方、傍らで見守っていたニューラのルプシは、抱いた敵意と警戒心を隠さぬままに、両者の会話に割って入る。普段なら同時に爪を光らせ、頭ごなしに威嚇もする所だが、今回は穏やかならぬ口調ながらも、自分から踏み出す事はない。この種族をよく知らぬ彼も、目の前の相手が自分より遥かに危険な存在だと言う事は、本能的に悟れていた。……果たしてその炎の猿は、横槍を入れた彼の方をじろりと睨み、冷たい口調で吐き捨てる。
「邪魔するか、小僧。首を突っ込むなら容赦はせんが構わんのだな?」
「待って……!」
思わず後ろに下がりかけるニューラを追い立てるが如く、険悪な表情で一歩進んだゴウカザルに対し、ヒューイは慌てて両者の間に割って入ると、ルプシを庇うように立ち塞がる。「行くよ」と答えた彼の顔を無言で見詰める火猿ポケモンは、ややもして一つ頷くと、くるりと背を向け歩きだす。その時背後で上がった叫びに、思わずそちらを振り返るザングースに対し、彼は変わらず前に進みながら、「気にするな」と呼び掛けて来る。
「仲間を連れて帰るだけだ。貴様が大人しく付いて来るなら、今は此処の連中に手は出さん」
冷たい声音の裏に見え隠れするその意図に、内心怯えを掻き立てられるも――事実上の選択権を奪われたヒューイは、ルプシに一言心配するなとだけ告げて、前を行く相手の後を追い、今の自分の生活圏である、縄張りの外へと向かい始めた。
ゴウカザルはソグと名乗った。自らも名前を言ったヒューイに対し、彼は「さっき聞いた」と素っ気無く応じつつも、やはりその反応が可笑しいらしく、微かに苦笑しながら首を振る。距離を置いた雰囲気を保ちつつも、不思議なほどに悪意の無いそんな相手の態度に、ヒューイは戸惑いを隠せぬ反面、それほど悪くないと思っている自分に気付く。
やがて見慣れた森を抜け、人間の使う道路が見え始めた頃。唐突に立ち止まったゴウカザルが、くるりと此方に向き直った。
「ここらで良かろう」
そう呟いた彼は、次いで「改めて聞くが、お前は元は人間の手持ちだったんだよな?」と念を押す。ヒューイがそうだと肯定すると、ゴウカザルは満足気に頷いて、「なら話は早い」と呟いた。そして不意に真剣な目付きになると、向かい合う彼が思ってもみなかった事を口にする。
「ヒューイと言ったな。元手持ちなら、是非とも勧めたいのだが……貴様、俺達の仲間に入らんか?」
「え……?」
思わず絶句する彼に対し、ソグは自分が、主を無くしたポケモン達で構成されたグループの、リーダーを務めているのだと言い添える。彼らは高い実力を持ちつつも、野生の世界で独自の縄張りを持てなかったり、上手く生活に溶け込めなかった者の集団で、旅をしながら「此処ぞ」と思った所に滞在し、そこで一定期間土地のポケモン達の厄介になって暮らしているのだと言う。
「さっき貴様が倒したハガネールも、俺達の仲間だ。今は隣の森の厄介になってるんだが、其処の連中に頼まれたのが、今回の件と言う訳さ。あの森はとても豊かで広大だが、主のニューラ共は余所者嫌いで、外から来た奴には容赦しない。だから少しばかり締めてやって、縄張りを削って貰うよう依頼されたんだ」
「でも……それって、彼らから言えばただの侵略なんじゃないかな……? 確かにもっと寛容になっても良いとは思うし、外の世界とも助け合えるならそれが何よりだけれども……」
ゴウカザルの言葉にも頷ける点がある事を認めながらも、ヒューイは控え目に彼の方針に反論する。ラクルが苦しむ切っ掛けとなった出来事を踏まえてみても、排他的に過ぎる姿勢は彼にしたって好きになれない。――けれども、だからと言って外の考え方を押し付けて、それを力づくで認めさせるなど、本来余所者である自分達がして良い事ではない筈だ。現にウララは危険な目にあったし、ラクルに至っては命すら奪われかねなかった。自分の身近な存在が脅かされた彼にとり、ソグ達の行いは不当な侵略以上の価値を見出せるようなものではない。
結局平行線を辿った議論に、最後はソグも諦めた。だが彼は、ならばと表情を改めると、最後に一つだけ釘を刺して来る。
「そう言う事なら仕方がない。惜しい話だが、貴様の事は諦めよう。……ただし、受けた依頼は撤回する心算はない。もし今度邪魔しに来たなら、その時は貴様も敵と見做して、容赦無く叩き潰させて貰う。それだけは肝に銘じておけ」
決別の言葉を終えたゴウカザルは、送りはしないが邪魔立てもせぬと、彼がラクル達の縄張りに戻るのを黙認する意思を示す。臆した色が顔に出ぬよう懸命に表情を取りつくろいつつ、相手の判断に言葉少なに謝意を伝えたヒューイは、冷たい視線を送って来る火猿ポケモンに背を向けると、再び元来た道を踏み分けて、長い家路を辿り始めた。
無事戻って来たヒューイの伝えた内容に、群れのメンバー達は大いに動揺し、議論百出して騒ぎ立てた。
ある者は今直ぐ戦いに向けて技を磨くべきだと言い、またある者は守り易いよう、役割分担をすべきだと言う。幼い者を巻き込まぬよう避難させる事が提案されれば、別の者は年端の行かぬ連中でも、見張りや連絡役は担えるのだから、留めるべきだと主張する。けれども全員が受けて立ち、迎え撃つ事を選択したのは変わらなかった。相手がどれだけ手強くとも、余所者如きに好きにされてなるものかと言う訳である。
その一方で困った事に、ヒューイ自身への風当たりも、露骨に強くなって来た。ラクル一家は言うまでも無く無事を喜び、感謝の念と共に迎えてくれたが、他の大半の同族達は疑いの目を向けて来るか、そうでなくとも嫌悪の情を隠そうとしない。余所者は十把一絡げで余所者であり、外からの悪影響が齎されれば、異分子の印象はただ悪化する一方だった。ルプシなどはハガネールを降した点を挙げたりして懸命に擁護してくれるのだが、あくまで排他論を捨てきれぬ一部の連中に言わせれば、敵であるゴウカザルと共に縄張りの外に出た事を見ても、グルであると判断した方が自然であると主張する始末。無関心や陰口程度なら兎も角、下手をすると闇討ちすらされかねない雲行きに直面して、流石のヒューイも嫌気が差すと同時に、自分がどうするべきであるのか思い悩んでいた。
正直な所、ソグのやり方は許せないと感じたし、出来るなら止めるべきだとも思う。けれども、いざ止められるかどうかとなれば全く自信が無かった。口で言って思い止まるような相手じゃないし、争い事も苦手である。ハガネールの時は他に選択肢が無かったし、そもそも横から手を出しただけで、正面から立ち向かったと言う訳ではない。一応心得も無い訳ではなく、バトル自体が始まってしまえばどうとでもなると思われるのだが、敵意を込めて睨まれるだけで萎縮してしまう自分にとり、こんな状況で自ら渦中に飛び込むのは、無謀以外の何物でもなかった。
寝ても覚めても思い悩んでいる彼に対し、ラクルが相談を持ち掛けたのは、それから三日後の事である。日課であった木の実畑の管理にも出ず、憂いを含んだ目でぼんやりと空を眺めていたヒューイに、家主のマニューラは「頼みたい事がある」と切り出して、彼を現実に引き戻した。
「もし私に何かあった場合に、ウララの事を頼みたいんだが……構わないだろうか? ルプシが無事で残っているとは限らないし、いたとしてもあの子は身体が強くない。その点あんたは病気や薬になる木の実に詳しいし、妹に関してはあいつよりよっぽど頼りに出来る。……こんな場所に縛り付けたくは無いけれど、せめてあの子が一人前になるまでは面倒見てやってくれないか?」
「ちょっと待って……! そりゃもし何かあったら、言われるまでも無く引き受けるけどさ……。何もそんな縁起でもない事言わなくても」
承諾しつつも、そんな事考えたくも無いと言う表情のヒューイに対し、ラクルは何時に無く真剣な面持ちで、自らの見据えた展望を語る。
「私もこんな事は言いたくないよ。……でも、もし本気で向こうが攻めて来るなら、勝ち目があるかは怪しいもんだと思うしかない。この間のハガネールだって、私達だけじゃ手に負えなかったんだ。あんなのが束になって掛かって来たら、追い払うどころか逃げ散るだけで精一杯ってとこだろう。そうなれば私らは幼い連中を守る為にも、前に出て時間を稼がなきゃならない。命までは取られなくとも、不具にぐらいはされる覚悟をしといた方が良いだろうな」
淡々と語る彼女の目には、その絶望的な内容とは裏腹に、恐れる気配は微塵もない。怖くないのかと尋ねると、ラクルは軽く苦笑して、「これがうちの一族の伝統だからね」と頷いて見せる。
「祖父さんがよく言ってたよ。受け止めずに逃げ出すのは簡単だけど、結果を見詰めるのは死ぬより辛いって。最初は意味が分からなかったけど、あの事があってから骨身に染みた。別れが辛くて延ばし延ばしにしたせいでああなったんだから、そう言う意味では重い教訓だったね。……今だって、ウララ達に当て嵌めてみれば答えははっきりしてる。逃げる訳にはいかない」
強い光を湛えて語る彼女の瞳を、ヒューイはまるで憑かれたように、言葉も無く見詰め続ける。その内でうねる嵐のような波頭に気付かず、件のマニューラは自分を見据える猫鼬に向け、少しだけ表情を和らげて付け加えた。
「とは言った所で、結局偉そうな事を言えた義理でもないんだけどね。……あんたに諭されるまで、私もずっと前を向けてはいなかった。私をこうさせてくれたのは、間違いなくあんたなんだ」
ぶるりと震えたヒューイに向け、彼女は微笑み手を差し伸べる。大揺れに揺れる感情の波に頭の中をかき回され、固まったまま動けない猫鼬の片腕を取ると、ラクルはもう片方の腕も持ち上げ、冷たく光る鋭利な爪を立てぬよう、己の両手で相手の掌をそっと包んだ。
「……だからさ。もう役立たず面するのは止めな。私達はあんたを必要としてるし、あんたは自分で思ってる以上に、私達にしてくれてるんだ。あんたの御蔭で、私も色々な事が見えて来た。祖父さんがなんで外の連中を受け入れなかったのか分かったし、それを頭に入れた上でも、自分のやり方は間違って無いと確信出来た。……なのに、未だにあんたは辛い思いをしてる。自分が救われる為に播いたタネであんたが苦しんでるってのに、私はまだあんたの事をろくに知らないし、聞かせて貰った事すら無い。不公平だと思わないか?」
噴き上がって来た熱湯のような塊が、何とか踏み止まろうとしていた、ヒューイの思考力をゼロにした。「少し待って……」と震える声で答えた彼に、ラクルは「分かってるよ」と応じると、そのまま何も言わずに言葉を待った。
多分、その時が来たのだろう。淀み溜まったの胸の重荷が、行き場を失っていた古い涙に包まれて、外に運び出される段階が。傷の舐め合いはしたくない――無意識の内に築かれていたちっぽけな砦(みえ)が跡形も無く崩れ去る中、ヒューイは今なら全ての事を、素直に話せる気がしていた。
その日以来、ヒューイは持ち得る限りの全力で、来たるべき日に備え始めた。あの後、自らも戦うと強固な意志の下に宣言した彼は、長らく錆び付かせていた技の鍛錬を繰り返し、放つ呼吸やタイミングなどを思い出しつつ、傍ら滞っていた何時もの日課を再開して、木の実の世話に精力を注ぐ。衰え始めた初秋の日差しに揺れる果実は、もう充分に大きく熟し始めており、使えるようになるのは目前だった。この近辺では決して見る事は出来ないだろう特徴的なラインナップは、機会さえあれば街の方に出かけていき、バトルの後の齧り残しを拾ったり、鳥ポケモンの糞を穿り返すなどして、コツコツ集めて来たものである。
「そろそろ良いかな」
やがて満足のいく色つやに仕上がったそれを手に取ると、彼は樹木に一声掛けてから、爪で丁寧に付け根を刈って収穫する。秋口の夕日を眩しく弾くヨプの実に、ヒューイは心強げな視線を向けて、己が成果に納得したように頷いた。
ゴウカザル達が現れたのは、それからホンの数日後――木の実の取り入れがまだ終わらぬ、午後下がりの事だった。丁度収穫の為にねぐらを離れていたヒューイは、息を切らせて知らせに来てくれたルプシに会うまでその一大事に全く気付かず、最初の段階から大きく後れを取ってしまう。「既に招集が掛かってる」と告げるニューラは、案内を頼んだ彼のペースにもどかしげな様子だったものの、何だかんだで鈍間な猫鼬に付き合ってくれた。
懸命に走りながらも、ヒューイは途中で一度立ち止まり、尻尾を激しく打ち振って、中に仕舞った唯一の私物を振り落とす。当ても無く駆け出したあの日以来、これだけは肌身離さず持ち続けていたその私物は、嘗ての主人に与えて貰った、小さな筒型のペンダントだった。
「何だそれ?」
振り出したそれを大事そうに拾い上げ、自らの首に慌ただしく引っ掛けるヒューイに対し、振り返ったニューラが怪訝そうに質問する。「大事なものだよ」と曖昧に濁し、再び走り出した猫鼬は、これから始まる危険に満ちた騒乱が何とか上手く片付く事を祈りつつ、嘗て幾多の場面を共にした思い出の品に、決意に満ちた眼差しを向けた。
彼らが到着した時には、もう戦いが始まっていた。予てから想定していた通り、有利に戦える種族を中心に攻め込んで来た相手方に対し、縄張りの主である味方の側は、その圧倒的な劣勢を高度なチームワークで喰い止めている。数に勝る黒猫達の集団戦術に、一息に押し切ろうとした略奪者達が手を焼いているのを見て、ヒューイは改めてマニューラ達の実力に感嘆した。
けれども、やはりそれだけでしのぎ切れるほど甘くはない。攻撃が分散しているだけで、消耗のペースは間違い無く味方の方が不利だった。せいぜい十数体に過ぎない攻撃側のポケモン達が未だ殆ど脱落していないのに比べ、群れのメンバーで倒れた者は、見える限りでも十指に余る。このまま彼我の比率が接近し続け、膠着状態を維持出来る許容範囲を割ってしまえば、防衛側は一気に総崩れとなり、受ける被害は計り知れない。直ぐにでも敵の数を減らさなければ、明日を待たずに悲嘆の声が木霊して、森を覆い尽くすだろう。
無論それが分かっているヒューイに、手をこまねいている心算は無い。「どうする?」と聞いてくれたルプシに対し、彼は大きく一つ深呼吸すると、両手の爪を露わにしながら返答する。
「援護して! 一匹ずつ片付ける!」
「了解だ! よし、行こうぜ!」
覚悟を決めて地を蹴るヒューイに遅れじと、爪を研ぎ終えた生意気盛りの黒猫が、勇躍して後に続く。自らも己を奮い立たせ、全身の毛を逆立て始めた猫鼬を、ルプシはニヤリと小気味良さげな笑みを浮かべて追い抜くと、視線の先のジバコイルに向け、氷の礫を投げ付けた。身軽にヒットアンドアウェイを繰り返すマニューラに向けマグネットボムを放とうとしていた磁場ポケモンは、頭部のアンテナを直撃した氷塊に、苛立ったように振り返る。すぐさま踵を返して避退するルプシに対し、用意していた必中技の目標を切り替えようとした彼の判断は、ニューラのすぐ後ろから迫って来ていた気合い玉への対応に、僅かではあるが致命的な遅延を生じさせた。慌てて再度志向先を変更するも、元より高度な集中力を要求される精妙な曲技が、度重なる意識の乱れに付いて行ける筈がない。中途で放ったマグネットボムはあらぬ位置で炸裂し、迎撃に失敗した気合い玉は、一撃で彼の継戦能力を奪い去った。撃破されたジバコイルが地面に墜落したのを受けて、戦っていた相手のマニューラが、表情を輝かせつつ駆け寄って来る。
「ヒューイ!」
「ラクル、遅れてごめん」
合流した家主に対し、ヒューイは先程までの勢いに到底似合わぬ声で謝ると、束の間普段の表情に戻り、バツの悪そうな笑みを浮かべた。見慣れた彼のそんな態度に、ラクルの方も何時もの調子で応じると、さっさと戦線に復帰するよう促して見せる。
「構わないさ。ただしその分、しっかり働いて貰うからね」
次いで弟と同じく、どうするべきかを質問して来た彼女に対し、ヒューイはこれまた同じように、自分の動きを支援して欲しいと要請する。快諾してくれたマニューラに向け、一声「行くよ」と声を掛けると、彼は再び手近な相手に狙いを定め、重ねて奮い立てるで己自身を鼓舞しながら、乱闘の渦に突っ込んでいった。
次々と敵を撃破しながら、ヒューイは自分でも知らない内に、戦いの場に溶け込んでいた。心の弱さに封じ込められた本能が息を吹き返し、臆心が生み出す躊躇いの掛け金が外れた先にあったのは、相手を捩じ伏せ自らの力を証明すべく牙を剥く、ザングースと言う種族本来の、純粋な闘争心だった。
嘗てヒューイは、主人と共にコンテストに参加していた。一般的なザングースとは全く異なる彼の技のレパートリーは、そこに端を発している。馴染まぬ技を薬籠中に使いこなすべく、彼はたゆまぬ鍛錬を重ねる傍ら、どんなパフォーマンスにも応じられるよう、徹底して身の軽さを追求した。老いた主を喜ばせるべく励んだ修練の道ではあったが、そこに見え隠れする強い闘争本能には、殆ど気付いていなかった。臆病なのは今と全く変わらなかったが、例えどんな形であれ、自身の事は思い通りにならねば気が済まなかった。扱いの難しい気合い玉や雷も、的中させられるまで放ち続けた。彼は負けず嫌いだった。
心の痛手に一度は折れたその牙が、今再び、違う形で表れていた。駆け疾る彼が力を解き放つ度、手強く働き続けていた敵ポケモンが、一体また一体と地に這っていく。相前後して氷の礫や辻斬りを放つラクルとルプシの姉弟と共に、ヒューイは戦いに没頭している己が心の赴くまま、目に付く敵に襲い掛かった。
フリーフォールで獲物を浚うエアームドに雷を当てて撃墜すると、ラクルの辻斬りを弾き返したハッサムに気合い玉を投げ付けて、そのまま弟の繰り出す袋叩きに便乗し、はさみポケモンに利き腕の爪を叩き付ける。次いで立ち向かったエテボースは俊敏な動きで身をかわし、彼の大技を尽く避ける見事なフットワークを披露したものの、ラクルの放つ氷の礫のコンビネーションには対応出来ず、複数に被弾して力尽きた。礫の名手である彼女は、形も特性も違う幾つかの氷塊を同時に生み出し、変幻自在の波状攻撃で素早い相手を討ち止める。弧を描き飛ぶ羽根型の礫で動きを封じ、針のような形状の細い氷柱で攻め立てられれば、如何に素早い尾長ポケモンとて、逃げ切る余地などありはしない。
矢継ぎ早に相手を仕留め、戦況が著しく変化し始めた所で現れたのがソグだった。傍らに三匹の仲間を従えた彼は、ヒューイ達の前に立ち塞がると、敵意も顕わに言い募る。
「やってくれたな青二才! こうなったからには生かしておかんぞ。覚悟しろ!!」
怒りに満ちた咆哮と共に、火猿ポケモンの頭頂部から、炎の柱が立ち昇る。共に居並ぶドクロッグにブーバーン、ドラピオンの三匹も、それぞれ憤怒の情を剥き出しにして、此方に襲い掛かって来た。
対するヒューイは、素早く一時後ろに下がった。何も言わずとも彼の思惑を心得たらしい姉弟は、何とか時を稼ぐべく、一団となって向かて来る、敵の群れへと斬り込んでいく。
ただでさえ不利な相手に数的有利を取られた彼らに、持ち堪えられる時間は限られている。それを分かっているヒューイは、すぐさま繰り出すべき技の呼吸を整えるべく、全神経を集中した。同時に胸から下がるペンダントに手をやると、細かな鎖で繋いであるそれを勢い良く引き千切り、丁寧に閉じ合わされた蝶番をこじ開けて、中に入った物を摘み出す。細かい作業をこなす間も技の集中は絶やす事無く、やがて彼の周りには、何時しか微かな揺らぎが生まれ始めた。最初は毛先に感じる程度だったそれは急速に勢いを増していき、昂った彼の心に応えるように、激しい渦を巻き始める。
最初にザングースの変化に気が付いたのは、歴戦の勇士であるソグであった。直ぐにそれが危険なものであると看破した彼は、目の前を隔てるマニューラ目掛け、速攻でケリを付けるべく突っ込んでいく。放たれた礫を敢えて無視し、庇った腕に突き刺さったそれを抜きもせずに詰め寄せた彼は、驚愕に目を見開き、次いで顔を庇うように口元に手を添えた相手に対し、激烈なインファイトを叩き込む。すさまじい威力を誇るその一撃は、標的のマニューラを一発で粉砕し、ザングースに向け突き進む彼と、同じく猫鼬に照準を定めるブーバーンに対し、突破口を開く。先ず助からぬであろう黒猫の後を追わせるべく、真っ直ぐ標的に向けて狙いを定める爆炎ポケモンの腕先から灼熱の炎が迸り出た時、何者かが脇から飛び出して来て、技への集中で無防備な、ザングースの前に立ちはだかった。
火達磨になった相手が誰かを理解した時も、ヒューイは何とか歯を食い縛り、技への集中力を維持し続けた。完全に援護を失った彼の瞳の内に、此方に向けて一直線に突っ込んで来るゴウカザルと、その背後で追い詰められたニューラのルプシが、ドラピオンの尻尾を必死に避けている様が飛び込んで来る。
絶体絶命のようにも思えたが、既に彼の成算は立っていた。大き過ぎる代償の果てに整ったそれを繰り出すべく、ヒューイは握り締めた掌を緩め、そこに包み込んでいたものを、乱暴に口の中に放り込む。ペンダントの中に仕舞い込まれていたそれは、傍目には何の変哲も無い、萎びた植物の茎であった。奮い立てるで高揚した戦意に後押しされ、逆立てた毛を風に揺らしつつ好戦的にほくそ笑んだ彼は、その枯れ草をガリリと噛んで飲み下す。口中に広がる刺激的な辛みが全身に力を行き渡らせ、万を時して荒ぶる風が意識と完全に同調すると、彼は己が全霊を込め、自らの意志に従うそれを、認識している全ての敵に向け解き放つ。吹き荒ぶ風は時ならぬ見えない刃となってゴウカザル達を包み込み、全身を滅多切りに切り裂いて、一瞬の内に全体力を奪い去り、戦闘不能に追い込んでいった。
パワフルハーブによって解放されたかまいたちに、ソグ達が為す術も無く薙ぎ倒された後。漸く自由になったヒューイが真っ先に走り寄ったのは、ブーバーンの火炎放射から自分自身を庇った相手――数少ない友人の一人である、マニューラのネーベルの許であった。全身火達磨となり、絶叫と共に倒れ伏していた彼の傍らに飛び込んだヒューイは、まだ完全には鎮まっていない周囲の状況も目に入らぬまま、くすぶり焦げた冷酷ポケモンに押し被さるようにしゃがみ込む。
「ネーベルさん! ネーベルさん!! お願い、しっかりして……!」
「よせ、爪が刺さるから落ち着け。……あー、きつかった。ったく、死ぬかと思ったぜ」
が、今にも泣き出しそうな彼の呼び掛けとは裏腹に、件のマニューラは思いがけぬほどしっかりした声音で反応すると、そのままひょいと頭を上げて、思わず仰け反る若い友人に視線を向ける。「なんで……?」と信じられぬ表情で呟くヒューイに、彼はほれとばかりに、ヘタだけ残った木の実の破片を突き出して見せた。
「オッカ……?」
「そ、お前のな。暇がありゃ食ってやろうとかっぱらって来たんだが、意外な所で役に立ったわ。辛くて美味い上に命まで救ってくれるたぁ大したもんだなこれ」
平気な顔で「かっぱらって来た」とのたまうその相手は、空いた口の塞がらぬ彼に向け、「時々失敬して楽しませて貰ってたのよ」と悪びれる事無く打ち明ける。「代わりに今度狩りのレクチャーを――」と焦げた親爺が続けた時には、ヒューイはもう既に座を立って、同じく致命傷を受けた筈の、家主の許へと駆け出している。
だが、そちらに向かうヒューイの表情は、意外なほどに落ち着いていた。……事実、先に傍らに寄り添っていた弟の呼び掛けに反応した彼女は、次いで隣にしゃがみ込んだ猫鼬に目を向けて、弱々しくも柔らかな笑みを浮かべて見せる。
「……ごめん。遅くなっちゃって」
「全くだ。何時も何をするにも遅(とろ)いんだからさ」
激しい戦いに決着が付き、漸く落ち着きを取り戻した周囲の視線を集めつつ。何時もの姿と雰囲気に戻った両者の脇に、あの日収穫したヨプの実の欠片が、風に揺られて転がっていた。
あの戦いから暫くの間、ヒューイは紛れもない英雄として、群れの連中から下にも置かぬ扱いを受けていた。戦後処理や今後の方針についても強い発言権を認められ、一時は異分子でありながら指導者層の一員として、受け入れられる雰囲気すらあったのである。
だが一月経ち、更に二月も経った今、彼の立場は嘗てと同じ、『少し変わってはいるが役に立つポケモン』に戻って来ていた。あれだけの働きを見せたと言うのに、彼は相変わらず狩人になれる気配が無く、普段の物腰も前と同じで、やっぱりやる事が何処かずれている。自然彼への接し方も軽いものとなっていき、以前と違う点と言えば、悪意のある陰口が聞かれなくなったぐらいだろう。……とは言え、彼にはそれで十分だったのだけれど。
一方で周囲の環境については、明確に変化が訪れていた。
まだ影響力のあった当時、ヒューイが真っ先に主張したのは、戦いに敗れ虜囚となった、ソグ達の助命と解放であった。幸いあの戦いでの犠牲者は無く、群れの連中の反感もその分許容範囲に収まっていた為、彼の必死の説得は、何とか実を結ぶ形となった。更に彼はそれに合わせ、長年断絶状態にあった群れと外の世界との交流を、推進する事も提案する。此方も抵抗は根強かったが、今回の事件もこの孤立主義に端を発していたと言う事実もあり、取りあえず通行や冬季以外の限定的な滞在ぐらいは認めても良かろうと言う風に落ち着く。正直まだまだ小さな一歩だったが、抉じ開けた風穴が残り得る限り、前進の機会は常にある。――少なくとも、ヒューイやラクルはそう信じていた。
ヒューイの日常は、今も変わらない。来たるべき冬に備えてせっせと集めた木の実を貯蔵する彼の姿に、「ザングースとはパチリスの親戚だったのか」と言った冗談は聞こえて来るものの、既にその手の言い草に慣れ切っている彼には、何程の事でもなかった。
「よくもこれだけ集めたもんだね」
「うちだけの分じゃないからね。交換に使える事も考えたら、冬の間は幾らあっても困らないと思うよ。この森は木の実集めをするポケモンも少ないから、独り占めの心配はないし……」
「そんな考え方してるから、自分の縄張りが持てないのさ」
やれやれと言う風に首を振るラクルに対し、ヒューイは曖昧に苦笑して見せる。何だかんだ言っても、自分がこの手の思考法から抜け出せる事はないだろう。――人間の世界で習い覚えたその知識や習慣は、やっぱり彼の一部に違いないから。
今の彼には、あるがままの自分を受け入れてくれる、掛け替えのない家族がいる。拾って貰ったヒューイにとっては、ただそれだけで充分だった。
・後書き
ポケモン小説wikiさんの第八回仮面小説大会にエントリーさせて頂いた作品。こっちは一般部門。これも一粒万倍日に乗せた奴なので覚えておられる方もおるやもしれませんね。
実は期日に二日遅れており、ペナルティも貰ってしまった代物。見てわかる通り終盤はめっちゃ駆け足で竜頭蛇尾な終わり方です。……うん、その通り。未完成なんだ。ゴメンorz せめて完成させてから投稿しようと思ったんだけど、どうにもポケモンGoが忙しくて……(撲殺)
ホワイティ杯とブッキングしてたせいではあるんだけど、向こうの夏の終わりも未完成だったことを考えるとやっぱり自分は仕事の出来ん人間なんだなぁと悲しくなりました……。しくしく。