お散歩
青い孵化装置についたランプが光る。
手順書に従って、こわごわと装置の蓋を開ける。
白地に緑の斑点がついた卵にヒビが入る。
今にも孵化せんとする卵にそっと触れる。
唐突に卵が割れる。
私は驚いて手を引っ込めた。
孵化すると同時に卵が光り、卵が爆発すると思ってしまったのだ。
そんな私を不思議そうに見る、小さな赤いポケモン。
卵から生まれたポケモンは、美しい毛並みと六つの尾を持つ狐のようなポケモン、ロコンだった。
◇
ロコンは餌を食べようとしない。そもそもポケモンフーズなど、近所のスーパーに売っていないので、何を食べさせればいいのかもわからない。何も食べなくても大丈夫なのかと知り合いのポケモントレーナーに訊いてみたところ、鼻で笑われた。失礼な奴である。
曰く、ポケモンは飴を食べて強くなるとのことである。私のロコンを強くしたいと願うならば、飴を食わせよ、と。
奴は腹がマリオのごとく突き出ており、その中身は一点の混じりけもなく黒く染まっているに違いない。性格は斜め67度に傾いている節があるものの、就職に合わせて東京に来た3年前から付き合いのある男だ。今のところ、奴の言ったことの1/3ほどは正しかったと記憶している。残りの1/3は奴のうっかりミスで、残りの1/3は奴の嘘である。
とはいえ、奴のほかに頼れるものもなく、常に体をふよふよと揺らしている可憐な狐のためにできることなら何でもしたいの一心で、私は近所のスーパーマーケットに走った。
大の大人が可愛い飴ちゃんなどを買うことになるとはと少々の恥ずかしさを覚えつつ、基本のべっ甲飴からカラフルなフルーツの味がした飴にキシリトール配合の健康に配慮した飴など様々な飴を、アイスクリームとチョコレートとともに買い物かごに突っ込み、私は意気揚々とスーパーマーケットを後にする。家までは徒歩で5分もかからないのだが、その5分が長く感じられた。
そしてゆっくりと椅子に腰を下ろし、ロコンに飴を与える。
食べない。
じーっと眺めていると、たまに右足をちょっと上にあげて足踏みをするような動きをするが、それでも食べない。
ロコンの鼻を突っつくと、体を震わせながらちょっと吠えた。可愛かったのでもう一度鼻を突っつくと、先ほどと同じようにちょっと吠えた。
飴は減らない。
どうも「ロコンの飴」という特別な飴が必要であるらしい。Google先生に教えていただいた。
ロコンの飴は、卵が孵化したときに出てくるらしく、部屋の隅に放置していた孵化装置のなかを除いてみると、10個ほど、オレンジがかった丸い飴が落ちていた。
飴を慎重にジップロックの中に移し、無印良品で購入した白いお皿に2つだけ入れて、ロコンの前に差し出す。
狐の君は少しにおいをかいだ後、ぺろりと舌を出し、2個とも口に入れた。
時間をかけてゆっくりと飴をなめる様子を眺めていると、日が暮れてきた。
秋分の日を迎え、日が落ちるのが早くなった。
レトルトのごはんをレンジで温め、同じくレトルトのバターチキンカレーを温める。
温めている間に、パックに入ったポテトサラダを、小さな器に盛りつける。
ロコンが足踏みをしているのを眺めながら、バターチキンカレーとポテトサラダをいただく。
なんとなく、いつもよりおいしいように感じた。
◇
平日は憂鬱だ。
憂鬱である理由は仕事があるからにほかならず、自慢の炎で会社ごと木端微塵に吹き飛ばしてはくれぬものかとロコンを突っついてみるが、狐の君はちょっと吠えるそぶりをするだけで、火を吐こうともしなかった。
それでも、最近はすこし楽しみがある。
家から駅まで徒歩17分。距離にしておよそ1.5kmある。その間にある神社仏閣の数は3。マクドナルドの数は1、ソフトバンクも1である。その各々に近づくと、ちょっとしたアイテムがもらえるのだ。ただ歩くだけだった灰色の道のりが、ほんのり色づく。
ロコンが足元を離れずについてくるのもいい感じである。
もらえるアイテムの中にはモンスターボールなどもあり、焼鳥屋の前にいるポッポやオニスズメにそれを放り投げると、案外簡単につかまる。たくさん捕まえるとポケモントレーナーとしてのレベルが上がり、ロコンも強くなるのだ。と、Google先生がおっしゃっていた。その言葉を信じ、道行くポケモンをひたすら捕まえるのが日課である。
千代田寿司の前でコイキングを捕獲していると、通りすがりの中年トレーナーに呼び止められた。
「君、コイキングなんか捕まえて楽しいかね」
余計なお世話である。
それに、ただのコイと侮るなかれ、このぴちぴちしているただの魚を101匹集めると、歩きスマホをしているトレーナーを池に突き落とすことで有名な、かのギャラドスを手に入れることができるのだ。
先日Google先生に教わったばかりの知識を披露すると、中年トレーナーの彼は、赤いぴちぴちしたポケモンを数秒間眺めた後に、ボールを投げて捕獲した。
そのまましばし情報共有をしたのち、30%引きになったお寿司を二人で買って、帰路に就く。
帰り道、なじみのジムに寄った。
最近はシャワーズやラプラスといった水ポケモンがジムリーダーになっていることが多くなった。そのため、狐の君はお役御免である。なぜか私も水ポケモンばかり持っているため、ラプラス同士で不毛な戦いを繰り広げたのち、僅差で私のラプラスが勝った。傷薬で回復させたのち、ラプラスにジムを任せる。
彼なら大丈夫なはずだ。私の持つポケモンの中で一番強いのだから。
簡単な夕飯をすまし、家の中でコラッタをつかまえていると、突然窓からラプラスが現れた。
何事かと思ったら、私のポケモンで、どうやら負けてきたらしい。ひどく落ち込んでいる。哀れに思い、寝室を提供し全回復させてやった。部屋がちと狭いが仕方ない。
今日も明日も日常にはさして変わりないが、少しにぎやかになったことは間違いない。
良いことだと思う。
◇
「進化だ」とマリオのごとき腹をした悪友が言った。進化しかない、と。
進化とは、遺伝子の世代間変異のことである。フィンチの嘴のように、親から子へ世代が移り変わるごとに、少しずつ体の形質が変化していくのだ。あぁ進化とはかくも奥深く……。
「飴をたくさん食べれば、進化できるらしい」
「お前はバカか」
3年来の付き合いとはいえ、奴がそこまでバカだったとは思いもしなかった。それではスーパーマーケットで買いあさった飴を毎日食べ続けている私は、すでに、腕が4本、目が10個、体内で核融合したエネルギーで生活するくらいの究極生命体に進化しているはずである。
「Google先生がそう言っておられる」
「……まじか」
奴が押し付けてくるスマホの画面見た私は瞬時に心を入れ替え、生物の進化とは、飴を食べることだと理解した。
どうも、そのポケモンに特有の飴が必要となるらしく、特別な飴を一気に食べさせることによって進化するらしい。私が進化せず、仕事のミスを連発しているのも合点である。
進化させてみよう、と悪友が言う。私も同意した。
とりあえずたくさん捕まえて余っていたポッポに飴をやると、体が少しでかくなった。
「太ったんじゃないのか」
「いや、進化だ。Google先生がそう言っておられる」
「……そうか」
私はGoogle先生のおっしゃるとおり、さらに飴を与えてやる。鳥は、さらに体がでかくなった。
「成長しただけじゃないのか」
「前よりもスマートになっている」
「これが進化か」
「これが進化だ」
二人でひとしきり手持ちのポケモンを進化させてみると、トレーナーレベルがぐんぐん上がっていった。
これが進化かと、一人で合点した。
足元に寄り添うロコンに目を向ける。
狐の君も、進化するのだろうか。
Google先生に伺ってみると、ロコンは進化するとしっぽが増えるらしい。すでにして十分に美しい六本のしっぽである。それが増えるとなると、なかなかどうして進化後の姿を見てみたい。
そう思って必要となる飴の数を調べると、全く足りていないことを知る。ロコンの飴は貴重であるらしく、めったに見つからないらしいのだ。
それは困った、どうしようかと思う間もなく、Google先生が解決策を示してくれる。
「相棒となるポケモンとたくさん歩きなさい。さすれば、相棒が自ら飴を拾ってきてくれるでしょう」
Google先生はそうおっしゃった。
なるほど、狐の君とたくさん散歩をすればいいということか。
外に出たいかい、と狐の君に訊いてみると、スンとうなずいてくれた。
可愛いと思う。
◇
待ちに待った週末である。
何をするでもなく過ぎ去っていった過去の週末とは違う。
今日は、お散歩をするのである。
ビジネスシューズを靴箱に片付け、代わりに歩きやすいスニーカーを取り出す。カバンの中に、スポーツドリンクなどを入れてみる。電車の定期券は引き出しにしまう。
気温は26度。天候は晴れ。絶好のお散歩日和である。
狐の君を連れて近所の川まで歩く。そして、川沿いを西に進む。夏草の勢力が衰え、代わりに残した次世代への種があちこちで目に付く。昨日降った雨で地面はしっとりとしており、土を踏むとわずかに柔らかい。歩道に入り込まんとするススキの葉を避けながら、朝というには少し遅すぎる日の光を浴びる。川面がきらきらと光り、フナ釣りにいそしむ人たちを照らす。
家の近所を流れる川が、これほど美しいことを、私は今日、初めて知った。
電車で一駅の距離だが、歩くと30分かかった。少し休憩したのち、さらに30分歩いて、うちの区の中核都市へ向かう。
駅が近づくと、徐々にアイテムがもらえる箇所も増えてきた。ポケモンも増えてきたような気がする。
しかし、1時間以上歩くと、さすがに疲れた。
狐の君は大丈夫かなと思って視線を落とすと、ロコンが何かをくわえている。
ロコンの飴だった。
せっかく拾ったのだから、すぐに食べてしまえばいいのにと思いつつ、狐の君は律儀に飴を私に差し出した。
そして、狐は、私が飴をカバンにしまう様子を、ものほしそうに見つめる。
なんだかかわいそうにも思えたが、進化するためだと心を鬼にして、すべての飴をカバンに入れた。
そしてまた歩く。
駅に続く石畳を、やたらと広い駅の中を、地下のレストラン街へ向かう階段を。
喫茶店に入ってようやく一息ついた。
冷たい炭酸ジュースが心地よくのどを流れる。
エビの入ったサンドイッチをほおばる。私がその喫茶店でよく頼むメニューだった。それでも、たくさん歩いたからか、いつもよりおいしく感じられる。
飴の数を数える。もう一息という数まで来ていた。
帰りも歩けば、進化する分がそろうかもしれない。
そう思って席を立ち、思い返して駅の中へと向かった。
駅前の本屋で楽しみにしていた漫画の新刊を買い、無印良品でバターチキンカレーを買い、家に帰ったら食べようと思い、抹茶味のケーキを駅ビル地下の食品売り場で買う。
そして川沿いを、来た道を逆に歩く。
家に帰ってから狐の君に訊いてみる。飴をどれだけ拾ってきたかいと。
狐の君は健気に飴を渡してくれる。
数えたところ、進化するのに、十分な量だった。
◇
狐の君に、50個の飴を渡す。
白い光に包まれて、赤かった体毛が黄金色に染まる。
丸くくるまった六本のしっぽは、長く美しい九本の尾へと変わる。
体が倍以上に大きくなり、大型犬ほどに成長した。
ロコンが進化して、キュウコンになったのだ。
狐の君は、優雅に一つ吠えたのち、私の足元に寄り添うように立つ。
そういえば、今日は土曜日。
明日もまだお休みだ。
明日は何をしようか。
明日はどこへ行こうか。
狐の君に訊いてみる。
黄金に輝く九尾の狐は、小さくうなずく。どこでも構わないという風に
明日が終われば明後日仕事。
お金のために働いて、老後のために貯金する。
どこにも行けない閉塞感はなくならないし、与えられた僕らのノルマは終わらない。
それでも明日は散歩に行こう。
ポケモン連れて、散歩に行こう。
まだ見たことがない風景を、明日見れると嬉しいな。