「もうダメだ……」
「あいつらは俺たちを皆殺しにするつもりなんだ……」
僕たちは精子だった。
およそ5分前、膣内に射精された。
精漿、いわゆるザーメンに包まれて目を覚ました。
目を覚ました瞬間、僕たちはDNAに刻みこまれた使命を理解した。
だから鞭毛をくねらせ、泳ぎはじめた。
卵子と出会い、受精するためだ。
分かってる。
たくさんの精子の中で本当に受精することができるのはせいぜい一匹、多くて二匹。
一番早く卵子にたどり着いた精子だけが受精できる。
でも精子っていうのは何億匹っているんだ。
どうせ僕なんかは、一番になれっこない。
一番になれないなら、がんばったって意味がない。
意味がないなら、はじめから頑張らなくてもいい。
ばかげてる。こんなことにはテキトーに付き合っておけばいいや。
どうせほとんどの精子は無駄なんだから……
そのときの僕はそう思っていた。
だけど、そんな甘っちょろい覚悟は、すぐに打ち砕かれることになった。
あまつさえ、仲間たちの本気の決意といっしょに。
「これが膣内……」
「熱い、体が溶ける、うわああああ! もういやだあああ!!!」
「ねえ、私のしっぽがない! これじゃ泳げない……助けて……置いていかないでえ!!」
「こんなの聞いてねえよ、精巣に帰りてえ……なんで避妊してくれないんだよお!!」
膣内を泳ぎだした僕たちを、弱酸性の膣内分泌液が襲った。
タンパク質でできている僕たち精子は、酸性の嵐にいとも簡単に焼き殺されていく。
細胞膜が焼けただれ、のたうち、悲鳴をあげる仲間たち。助けを請う者、神に祈る者、呪う者……
もがき苦しむ仲間をかき分け泳ぎながら、僕はこのときもうすでに、一番が受精だとか、競争に付き合うとか付き合わないだとかいったことを忘れていた。
ただ、死にたくない、という思いだけが鞭毛をつき動かしていた。
僕たちにはかつて数億匹の仲間がいた。
しかし、子宮の入り口にあたる子宮頸部までたどりつくことができたのは、わずか数万匹。
おびただしい数の精子が、仲間が、ほんの数分の間に死んだのだ。
「熱い、熱い! 殺してくれええ!」
膣の方からそんな声が聞こえた。
後ろをふりむこうとする者はいなかった。
かろうじて生き残った僕たちにも恐怖する暇は、いや息つく間さえなかった。そこでは子宮に住み着く好中球が襲い掛かってきたのだ。
「やめろ、俺たちは敵じゃない、来るな、うわああああああ!!!」
好中球は、アメーバ様に運動し、異物を細胞内に取り込むと酵素の働きで殺菌する。人体の免疫機能、白血球の主力部隊である。
「食ってる……あいつら、俺たち精子を食うんだ……」
精子を遺伝情報の異なる外敵、異物として認識し、ただ食い殺す、精子の天敵……。
好中球は子宮内膜に数億、いや数十億、もっとかもしれない、おびただしい数がひしめいていた。
ここを泳いで進むだって……? 何いってるんだ……そんなことできるやつがいるのか……?
僕たちは恐怖した。
「食べられちゃう……どうしよう……このままじゃみんな食べられちゃうよ……」
「なんでだよ……? この人はお母さんになってくれる人なんだろう?……なのになんで俺たちを殺すんだよお!?」
「私たちはただ受精したいだけなのに、なんでこんなに憎まれなきゃいけないの……私たち何にもしてないのに……」
「なんなんだよ母体って……はじめから受精させる気なんてないじゃないか……」
「そうだ、ねえ、もどろう……膣内に、精漿の中に、そうすれば死ななくてすむよね! ね、そうしよう!?」
「考えてみれば精液は天国だった……温かなアルカリ性の前立腺液……果糖をふくむ栄養豊富な精嚢液……」
「だ、ダメだよ! みて、精漿のpHも酸性にかたむいてきてる! 膣内分泌液で中和されて……ううん、僕たちが果糖を消費するせいで乳酸がつくられてるのかも……」
「そんな、死ぬしかないのか……」
「ここは子宮なんてもんじゃねえ……ここは……地獄だ」
地獄……
僕たちは何か勘違いしてたんじゃないのか……?
受精なんてただのかけっこみたいなもので、一番足の速いやつが受精して、他のみんなは「ああ、惜しかったね」かなんか言って、笑っていられるって、そんなもんだろうって漠然と思ってた……
どうせ僕は一番になれないから、適当に付き合っておけばいいって、一細胞として一生をまっとう出来ればそれでいいやなんて……なめていたんだ。
「やめてよ! なんで食べるのっ、やめてよおおおっ!!」
「助けて、たすけてっ、ひぎゃあああ!!!」
「痛い、熱い、死にたくないよお、やだあああ!!!」
「あっ、あっ……あっ……あぁっ……」
断末魔の悲鳴。
群がる好中球たちに、仲間たちが次々と食われていく。
異物を認識した免疫機能が呼ぶのか、子宮頸部にはますます好中球が集まってきていた。
みんなここで死んじゃう……僕もここで死ぬのかな……いやだ……死にたくないよ……誰か助けて……
「ぬぅおぉぉぉおおおおお!!!!」
元気のいい精子だった。
そいつは襲い掛かる好中球に自分から向かっていき、頭部を突き立てた。
好中球に飲み込まれながら、頭部からタンパク質分解酵素を分泌する。すると好中球が内部から分解し、はじけ飛ぶ。
「うそッ! あいつ、免疫をやっつけてる!?」
「あれは先体反応(アクロソーム・リアクション)だ! 好中球だってつきつめればタンパク質の細胞だから……あいつ好中球を分解したんだ!」
そう、僕たち精子には先体反応という能力がある。卵子を包む透明帯を突破するために、頭部のアクロソームという器官からタンパク質分解酵素を分泌することができるのだ。
「いや、なに考えてるんだ!? 今あれを使っちまったら、卵子の透明帯を突破できなくなるぞ!」
そいつが答える。
「へえそうかよ、だったら透明帯とやらはお前らに任せるぜ。今分かったんだよ、俺はこいつらと戦うために生まれてきたんだってな!」
「はあ!?」
「なにいってんの!? 戦うの違うでしょ? 受精でしょ!? 精子なんだから!」
「うるせえ! 少なくとも俺はなあ! こんなところで食い殺されるために生まれてきたわけじゃねえんだよおお!!」
そいつは戦った。まるで鬼神のごとく、といったようだった。たった一匹で、何十匹もの好中球を突き殺す。取り囲まれ、殺菌されながらも、次々と好中球を道連れにしていく。
「エサだと思ってなめてんじゃねえ!!! 食われっぱなしじゃねえんだよおらあああ!!!」
あいつ、なんであんなに戦えるんだ……?
やがてそいつが力尽き、好中球に食われようとしたそのとき、おもむろに精子がもう一匹現れ、好中球に攻撃を加えた。
「くっ、すまねえ……」
「俺も……俺も戦う! ……ただ食われるくらいだったら、戦ってやる!」
他の精子たちも顔を見合わせた。
「私も……」
「……僕だって……」
勝気な一匹の精子の行動が、他の精子たちの闘争本能に火をつけた。
「やろう、みんなで戦えば……俺たちの中の一匹くらいは生き残れるかもしれない!!」
僕たちは免疫細胞を相手に戦った。
まさに死闘だった。
好中球と殺し合いながら、子宮内膜を泳ぐ。
「チームで対抗するんだ! 孤立するな! 食われそうな仲間を助けろ!」
「ふざけんなよ! 私はまだ産んでもらってないんだ! 負けてたまるかあああ!」
「俺だってなあ、死ぬために生まれてきたわけじゃないんだよおおお!!!」
「ひいいいっ!! 私食べられてる……酵素がもうないのに……痛い、痛いよ……ううううう、みんな行って! 私はいいから、私の代わりに泳いで!!」
「ぐう、果糖が足りねええ……くそ、これじゃ泳げねえ……ちくしょう、俺はここでやつらを引き付けるから……お前らは先に行ってくれ……早く行けよおおお!!」
「動けるやつは泳げ! 泳ぐんだあああ!!!」
「死にたくない……でも、死にたくないよおお!!!」
「誰でもいい、一匹でもいい、卵子にたどりつけえええ!!」
「うわあああああああ!!!!!」
仲間を食い殺す好中球を突き殺し、進めば自分が食われ、それを誰かが殺す。
一人一殺、殺しながら、殺されながら泳ぐ精子の集団。
死に向かって泳ぐ狂気の集団、怯え泣き震え恐怖しながら、それでもわずかな希望を胸に泳ぐ狂乱の細胞たち。
仲間の屍を乗り越え、自分もきっと死ぬと知りながら、それでも僕たちはがむしゃらに戦い、子宮を泳ぎ続けた。
先行した仲間たちが全滅したことは、立ちはだかる好中球の群れと、分解された仲間の死骸を見て分かった。
好中球は異物を排除するためだけに生まれてきた戦いのプロフェッショナルだ。
それに比べて僕たち精子はあまりにも弱かった。
僕たち、といってももうなんのことはない。このときすでに、僕とあと一匹の精子しか生き残っていなかった。
好中球の群れに取り囲まれ、今まさに食い尽くされようとしている、弱々しい二匹の精子だった。
絶体絶命、そして僕の心は折れかけていた。
「くやしい……あんなに戦ったのに全部無駄だった……意味なんてなかった……はじめから分かってた……でも……くやしいなあ……くそ、くそおお……」
僕のもらした泣き言に、ただ一匹の仲間が答えた。
「俺たち一匹一匹はそりゃ弱いさ……力尽きるやつもいる、酸に焼かれるやつもいる、免疫細胞に食われたり、他のオスの精子に殺されたりするやつもいる……でも、それでも、俺たちはまだ生きてる……ちゃんとつながってる、意味のない精子なんか一匹もいないんだ!! そうだろう!?」
どうしてそんなにがんばれるんだ? ……どうせ死んでしまうのに……
好中球の群れの隙間から子宮から卵管を結ぶ入り口が見えた。きっとこいつらは卵管を守る近衛の免疫細胞なのだろう。
「うおおおおおおお!!! そこをどけえええええ!!!!」
襲い掛かる好中球に、仲間が体当たりする。
「行けよ兄弟!!」
なにやってるんだ、一人じゃ無理だ……そう思った。思った瞬間には体がもう動いていた。
仲間の捨て身の攻撃が、好中球たちのスクラムにほんのわずかな隙間を作り出したのだ。
「うわあああああ!!!!」
僕は全速力で泳いだ、仲間の作った道を間一髪ですり抜けた。
「くっ……うっ……ひぐっ……」
ここまで来るのに、本当に、一体どれだけたくさんの仲間が犠牲になったんだろう。
みんなだって、死にたくて戦ったわけじゃない……死ぬために生まれてきたわけじゃない……
卵子にたどりつける可能性はほんのわずか、あるかないか……
怖い、逃げ出したい……
それでも僕はもう、諦めたり、投げ出すのはやめようと思った。
だってそうしたら、他の死んでいった仲間たちが報われないじゃないか……
僕の中の利他的遺伝子が呼びかける。もしかしたら人はそれを愛と呼ぶ。
みんなが、兄弟たちが戦ったのは、きっと無駄じゃないって思いたい……もう、無駄にしたくない……
だから戦う。僕のために、みんなのために、僕も戦う。
好中球、ああ、そうか、こいつらが戦って死ぬのも、きっとこの人間の体を守るためなんだ……
それでも精子は、泳ぎの速さなら他のどの細胞より負けない。
個体をはなれ使命を果たす細胞は精子だけだ。
苛酷な環境に素肌をさらし、免疫機能に襲われ、それでもなお泳ぎ続ける。
長い鞭毛と、先体反応、必要最低限の機能を与えられて、遺伝情報の伝達という使命を果たす。
僕は精子だ! いつか卵子に受精する精子だ!
ミトコンドリアが躍動し果糖を運動エネルギーに変換する、鞭毛が力強く運動し推進力を生み出す。
好中球の群れをすり抜け、僕は力の限り泳ぎ続けた。
目の前に50μmにも達しようとする巨大な細胞が迫る。細胞内にはたくさんの精子の死骸のみならず、戦い果てた好中球の死骸までをも貪欲に飲み込んでいるのが見える。ぶくぶくとグロテスクに肥え太った白血球の親玉、マクロファージだった。
マクロファージが細胞膜の一部を触手のように伸ばし僕に迫る……大きすぎる……避けられない……死を予感する……そのとき僕の心に湧き出たのは、ただひたすらに「受精したい」という思いだった……死にたくない、受精したい、生きて産まれたい……
卵子と出会い、染色体を交換する
胎盤に抱かれて十月十日
産道を通り産声を上げる
男の子かな、女の子かな
ああ、今まで考えたこともなかった
性別は精子のときにもう決まってるのに
お母さん、どんな人かな
優しくしてくれるかな
お父さん、どんな人かな
遊んでくれるかな
二人はどんな名前をつけてくれるだろう
友だちたくさんできるかな
いつか好きな人ができて結婚するかもしれない
そうしたら子どもなんかできたりして
ああそうか、この子宮もずうっと昔に、誰かの精子と誰かの卵子だったんだなあ
「うわああぁぁぁああぁぁああ!!!!!!」
マクロファージが食胞を開くその瞬間、その中に飛び込む。
僕の頭部を包む先体(アクロソーム)がはじけるほどに膨張し、タンパク質分解酵素、アクロシンとヒアルロニダーゼが粟立つ。
酵素を帯びた先体がマクロファージの細胞膜と細胞質を突き破り、小器官を破壊し、僕の体はマクロファージを貫通した。
卵管を独りただよう。精子と卵子が出会う約束の場所。
みれば排卵を終えた卵子が浮かんでいた。
丸い大きな細胞だった。とてもきれいだと思った。
たくさんの免疫機能に守られて、ただ精子を待っている。
なんて神々しい細胞なんだろう。
あまりに美しさに僕の鞭毛は萎縮した。
卵子さま。
僕たち精子はあなたに会うためにやってきました。
あなたに会うために、たくさんの仲間が死んでいきました。
僕はあなたに会うために、独りぼっちになってしまいました……
もうどうしていいか分からない……
あなたに会うのは僕なんかじゃなかったはずなのに……
うなだれる。
はげましてくれる仲間はもういない。
「ハァ……ハァ……なんとかたどりついた……」
「残ったのはこれだけ……いや、あそこに誰かいる……」
声に振り向く。
精子だった。数十匹。死んだ仲間じゃない、でも、同じ遺伝子を持った仲間の精子。
子宮を進むうちに僕たちの集団とはぐれ、きっとたくさんの犠牲を出しながら、それでもここまでたどり着いたのだろう。
涙の代わりにタンパク質分解酵素が流れる。
僕はまだ独りぼっちじゃなかった……みんなと一緒に戦ってたんだ……
「よう、俺たち、よくやったよな」
誰かがいった。
「うん、みんな、がんばった」
僕たちの仲間はかつて数億匹いた。
卵管にたどりつくことができたのは、わずか数十匹。
それでも僕は、数億匹の仲間たちと今でも一緒にここまでやって来た気がするんだ。
「最後まで、がんばろうや」
「うん、やろう」
僕は答えた。
仲間たちといっしょに卵子に取り付く。
びっしりと生えたコロナラジアタのひだをかきわけ、卵細胞を分厚く守る透明帯に、先体反応(アクロソーム・リアクション)で攻撃する。
これが卵子……近づいてみればあまりにも大きい……僕たち精子の頭部は5μm、しっぽにあたる鞭毛を入れても60μmしかない。それにくらべて卵子は差し渡し100μm以上はある。僕たちははたして卵子を攻撃しているのか? それとも卵子に抱かれているのか?
タンパク質分解酵素が、硬い透明帯をしだいにやわらかくほぐしていく。
過酷な旅に僕たちのミトコンドリアは限界だった。先体反応を行いながらも、一匹、また一匹と力尽きていく。僕も最後の力を振り絞る。この中の誰か一匹でも受精できるなら、僕はどうなってもいい。
やがて一匹の精子が透明帯を貫通し、卵細胞の中に侵入する。
その刺激によって、休眠状態にあった卵核が覚醒する。
透明帯が急激に変質し、取り付いていた僕とほかの精子をはじき飛ばす。
もう他のどの精子も受精することはできない。
その直後、僕は果糖を使い果たし活動を停止する。
意識が消えうせるまでのわずかな瞬間、卵細胞の中で、精核と卵核が出会う様子が垣間見えた。
「よう、兄弟……おめでとうだ」