とある一軒家の前で立ちすくみ、時折頭を抱えたりしゃがんで小石を掴んだりしている、一人の少年がここにいた。少年はあることに関してすこぶる悩みを抱えていた。
まるでポケモン達が人間の町を囲って監視しているかのように、マサラタウンの周囲には、ポケモンが潜む草むらが地平線の彼方まで生い茂っている。
その草むらに住むポケモンは、たまに人間の町へふらっとやってくることがある。好奇心旺盛な者なのか、あるいは、ポケモン達がスパイとして送り込んだのか。餌を探しにきたとか、もしくは、ただの迷子であるかもしれない。ともかく、ポケモンは時折町で見かけることがあり、少年の直ぐ傍にもまた、周囲をキョロキョロとしながら、コンクリートの地面に自慢の歯が刺さらないか試している一匹のコラッタがいた。
少年は特にコラッタを警戒はしていなかった。こんな小さな鼠ポケモンなんて、小さいときにも何回も見たことがあるし、昨日なんて四匹も見たし、そのうち一匹は尻尾が自分に触れていたし。彼はもう、旅立ってから四日も経つのだ。だから全然怖くはなかった。だがその感情が保たれるのは、コラッタが彼と目を合わせるまでのことであった。
コラッタは決して少年とこれ以上距離を詰めようとはしない。ただひたすら、滑稽な様子の少年を鋭い眼差しで見つめているだけである。
種族や個体にもよるか、ポケモンは人間の子供に匹敵する程知能が高い者が多い。
すなわちコラッタは、ずっと一軒家の前で立ちすくんでいる彼を見て、訝しんでいる可能性も十分あった。その証拠に今さっき首を少し傾げた。
自意識過剰な人間というものは、どの世界にも必ず一定数存在する。選ばれしその人間共は、一人でいる時以外の全ての時間を、周囲の思考を気にして生きていく、辛い生活を強いられる。
この世界に生きる選ばれし者の中には、人間の目だけでなく、ポケモン達の目すら気にしていなくてはいけない性格を神から与えられた者が、結構な数存在した。
この彼もまた、その一人であった。勝手に気にして勝手に生きづらくなっている不幸な人間の仲間であった。
ゆえに彼は今ここにいるコラッタにも、自分がなんて思われているのか気にしている。気にしないといけなくなっている。
彼は急にポケットに手を入れ、ポケモン図鑑を取り出して画面を見始めた。電源は入れていない。真っ黒な画面を一心不乱に見続けて、あまりにもワザとらしくうんうん頷いている。
彼の思考は次の通りである。ずっと一つの家を見続けていると、コラッタに不審に思われそうで恐ろしい。なので今度はポケモン図鑑を見ておいて、一つの物を睨み続けるおかしな人間と思われることを避けよう、と。
他者からどう思われるかを気にするあまり、彼は時折おかしな行動を取ることがあるのだ。
そんな彼の名前は、レッドと言う。
最近旅立った、新米のポケモントレーナーである。
性格がてんで違うじゃないかと憤る人もいるかもしれないが、あくまでこの世界線のレッドはこんな感じであるということでお許し頂きたい。また、作者の自己投影が過ぎるという批判は一行に構わないが、どうかゲームの方のレッドを批判するような真似はよして欲しい。最もそんな、「誰かの空想」と「誰かの空想に対して空想したもの」の区別が付かないような人は、この掲示板にはいないと思われるが。
マサラタウンから抜け出して、まる二日と半日経ってやっとのことで隣町のトキワまで足を踏み入れることができたのに、レッドはその二日後には再度マサラタウンを訪れていた。
トキワシティに辿り着いた彼がポケモンセンターの次に向かったのが、フレンドリィーショップだった。レッドはモンスターボールを一つも持っておらず、草むらに落ちていたりしないか探してみたりもしたが見つからず、それでも野性のポケモンは、どんどん元気良く飛び出してくるものだから、旅立ってそうそう鬱になっていた。
ボールを求めて店に入った、その瞬間のことであった。
「君は、マサラタウンから来た子だね」
四十代くらいの店員の人に手招きをしながらそう言われた。
レッドはここへ来たことを後悔した。手招きを「しっしっ」の合図と勘違いしたように見せかけて、店から抜け出そうとも一瞬考えた。その店員のおっさんをレッドはこれっぽっちも知らなかったが、向こうは自分のことをどうやら知っている、というとても嫌な状況が起こった。
「君も大きくなったねえ。よその子とゴーヤは育つのが早い!」
どうやら自分が小さい頃に会ったことがある人みたいだ。だがこれっぽっちも思い出せず、恐らくかなり小さいときに二回ぐらいしか会ったことのない人の可能性が高い。
「あ、お久しぶりです」
しかし覚えていませんと言ったら失礼になると思い、レッドは嘘をついてしまった。いくら嘘も方便という言葉があるとはいえ、この後どうなったかを考えると、ここでの嘘は適切ではなかった。
「おじさんのこと覚えているかい? 嬉しいねえ。ねえ、君にさ、ちょっと頼みがあるんだ。オーキド博士にこれを届けてほしいのね」
そう言って、彼は一つの高級そうな箱を渡された。中身が空っぽでもウン万円はしそうな程の箱だった。鮮やかな金箔の上に、豪華な桜の花の絵が散りばめられていた。
「大事なものなんだ。気をつけて運んでおくれよ」
大事なものであればあるほど自分になんか任せないで自らの手で運ぶべきであると、彼は言いたかった。
正直な話、レッドは断りたくて仕方がなかった。こんな高そうなものなんか怖くて触りたくもないし、小さい頃に会っているにしても全然記憶にないおっさいの頼みごとなんて聞きたくない。そして何より、やっとの思いでトキワシティまで辿り着けたのに、また戻るなんて嫌過ぎる。
貴様のことを覚えているとは言ったが、だからと言って親切を押し付けて良い訳ではない。自分で行け! ポケモン持ってなくてもポッポに吹き飛ばされながら進んでいけ!
等と心の中では怒って叫びまくってはいたが、彼は結局、
「分かりました。オーキド博士に渡しておきます」
これが自意識過剰の不幸である。相手に一滴でも不快な感情を注入させてはいけないと思うあまり、記憶がないのにお久しぶりですと言ったり、面倒なお使いをあっさり引き受けたりする。
こうしてレッドはマサラタウンへと戻るハメになったのである。
一度通った道とはいえ、道中でポッポが風を起こしコラッタがバッグを漁ろうとしてくるから、しんどいことこの上なかった。ポケモンを倒して経験値を貯めることもせず、どんどんポケモンから逃げてマサラタウンまで向かった。
マサラタウンに辿り着いた頃に、一旦自分の実家に寄ることも考えたが止めておいた。「なんでもう戻ってきたの?」って聞かれると面倒だと思った。正直な理由を話せば、「なんでそんなこと引き受けちゃうの。あんたっていっつもお人好しなんだから」ってキッチンで愚痴愚痴言われる光景が想像できた。
「おお、これはこれは。どうもすまんのう。全くあいつは、旅立って間もない子に頼みおって」
書棚の奥の方にある埃をかぶった分厚い本を取り出そうとしているオーキドを見つけ、例の届け物を渡した。
オーキドはホコリまみれの手で少々乱雑に箱を開けていた。ここまで丁寧に運んできたことをレッドは激しく後悔した。
「おおこれは。わしが注文した新型のモンスターボールじゃ。いやーどうもありがとう」
そのボールを自分にくれるような流れにならないかなあ、というあまりにも望みが薄いことをレッドが考えていると、誰かが機械を蹴ったような音が聞こえきた。
音のする方角を向くと、やたらと慣れた感じで研究所を小走りで歩く一人の少年の姿があった。その少年は、さっき自分の足が当たってしまったのであろう機械の方を一度振り向いて、一応正常に動いていることを確認していた。そして、
「じじい、話って何?」
と大声で言った。
「うるさいぞグリーン」
「黙れハゲ」
「わしはハゲていない」
「黙れ白髪」
「日々脳を使っていると白くなるんじゃ」
二人は怒りながら笑って会話をしていた。いつ見ても楽しそうな孫とおじいちゃんの様子を見ると、自分はこの空間に引き続き入っちゃっていても良いのか、っていう気分にレッドはなる。
グリーンという名前のこの少年は、レッドの幼馴染でありながら、レッドと同じタイミングで旅立った、謂わばトレーナーのライバルであった。
「二人に頼みがあるんじゃが……」
オーキドは、そう前置きした。レッドは、旅立ってから人から何かを頼まれるのが二度目であり、本来極めて不快な気分になる所だ。だが、オーキドの頼みならまだ許せるし、彼の言い方に後ろめたさが感じられなかったので、辛かったり面倒だったりする類の頼み事ではないんだろうと思っていた。
「二人には、これを完成させて欲しいんじゃ」
オーキドは赤い長方形の物体を見せた。レッドはこの物体の正体が分かった。その瞬間から嬉しさが溢れた。隣にいるグリーンも同様の感情の筈だと思った。
レッドとグリーンはポケモン図鑑を完成させる使命を託された。旅をしながらポケモンを捕まえて、ポケモンの生態を図鑑に記録していく。記録された内容は当然研究の役に立つのだろう。
レッドは非常にワクワクしていた。旅に出るだけでなくこんなことまで託されたのだ。この名声のある博士と脈があって良かったと改めて思った。
だが。
レッドはそのワクワクする作業のスタートラインに立つ前に、一つの壁を乗り越えなくてはいけなくなってしまった。たった今、そうなった。
そうなったのは、グリーンの一言がきっかけだった。
高揚した気分を味わっている横で、グリーンが大声でこんなことを言い放った。
「よーし、じじい。全部俺に任せときな。残念ながらレッド、お前の出番は全くないぜ。そうだ、姉ちゃんから『タウンマップ』借りてこよう。お前には貸さないよう言っておくからうちに来ても無駄だからな」
こらグリーン何を言っとる、と言ったオーキドの声は全く聞こえない。レッドは、絶望の淵に突き落とされていた。ここからどうやって脱出しようか、その方法を懸命に目論んでいた。
タウンマップとはようするに地図のことであるが、ただ紙に町や道路の場所が描かれているだけの代物ではない。これは電子式であり、今居る自分の場所を赤く点滅させてくれる機能がついている他、この場所は危険であるから近づかない方が良いなどの情報や、その場所のその日の天候の情報も得られる。更にポケモン図鑑とドッキングさせれば、野性のポケモンの住処がどこかも知ることができる。ということはすなわち、ポケモン図鑑を完成させるにあたっては必要不可欠な道具と言えるものだ。
タウンマップは非常に高価であった。トレーナーを目指す子供は年々増加しており、それに比例してどんどん値段が上がっていった。だから、そう安々と手に入れられるものではない。
グリーンの姉がタウンマップを持っていて(グリーンの言動からして二つ以上確実に持っている)、なおかつ貸してもらえる可能性があるということが分かれば、このチャンスを是が非でも逃してはいけないと思ってしまった。
グリーンの姉には小さい頃良く遊んでもらっていた。彼女には自転車の乗り方を教えてもらった。丁度彼女はグリーンに教えていて、いつの間にかレッドにも教えることになったのである。支えなしで自転車を漕げるようになったとき、彼女はとても褒めてくれたのが印象に残っている。
レッドは、グリーンの姉のことを「グリ姉」と呼んでいた。今考えるととても酷いネーミングである。失礼極まりない。彼女は嫌がっている様子を特に見せなかったが、内心では心底嫌であったに違いない。あんな呼び方してすいませんでしたと、八歳のときに謝りに行こうかとも考えた。だが、謝るときにどうしても「グリ姉」というワードを出さないといけないから、それが原因で億劫だった。
彼女はとても優しいから、面と向かってお願いすればタウンマップは貸して貰える。グリーンから貸さないように言われても、絶対に貸して貰えると分かる。それにオーキドの孫である。お金はたくさん持っている。タウンマップは一般的には高価であるが、グリーンの姉にとってはそこまで高級品ではないのではないだろうか。
だが、そうであってもレッドは、「タウンマップ貸してください」、とは言いにくかった。言ったらとても、気まずくなると思っていた。
レッドが大きくなってからは、グリーンの姉とは全く交流がなかった。それこそ四歳ぐらいのときは毎日のように遊んで貰っていたが、七歳を過ぎた頃からパタリと交流がなくなった。グリーンの家に遊びに行くこと自体が少なかったし、自分達がリビングにいるときは、姉は二階の自室に移動するようにいつしかなっていた。
ただでさえタウンマップを貸して欲しいという図々しいお願い。これを、幼いときにしか交流のなかった人にする訳である。しかもグリ姉なんて言う酷い呼び方をしていた人にである。
これがどんなに"ぼんやりと恥ずかしい"ことか、皆には想像できるであろうか。
この世界では人の家に勝手に入っても良いことになっている。そういう文化なのだ。インターホンが備え付けられている家もあるが、滅多に使われるものではない。悪い人がやってきたときのために貴重品等は全て金庫に保管している人が多いとはいえ、かなりおおっぴらな文化であると言えよう。引きこもりは引きこもる場所がない。
勝手に侵入して良いのだから、レッドは入ろうと思えばいつでもグリーンの家に入ることが可能である。しかし彼はいつまで経ってもドアノブに手を付けることすらしなかった。
本当に自分はやるのか。タウンマップを無条件で貸してもらうなんてするのか。言った瞬間気まずい空気が流れたらどうするのか。やはりどうしてもやり辛いことであった。
さっきからじろじろコラッタが見てくるから、ポケモン図鑑を開いて不審に思われるのを防ごうとしたが、そろそろそれも限界のようだった。今度はポケモン図鑑をずっと見ていることを不審に思われる。
もうここは勢いだと自分を鼓舞して、レッドはとうとう(こんなことで"とうとう"という形容動詞は使いたくない)、ドアノブを握った。
家の中に一度入ってしまえば、後戻りがし辛い状況に自分を追い込むことができるんだ。と、考えつつも、彼は無意識のうちに、音を立てないようにドアを開けており(音を立てれば家の人に気づかれる)、後戻りするという逃げ道をちゃんと用意していた。
また心の奥では、グリーンの姉が家にいないことを望んでいた。留守なら修羅場を明日に回すことができる。
残念ながら家のリビングは電気が付いていた。この家にはグリーンとグリーンの姉しか住んでいなくて、グリーンは現在旅に出ている訳であるから、姉がリビングにいることはほぼ確定している。付けっぱなしで出かけている線は薄いだろう。
他人の家というものは、どうしてこう独特な匂いがするのだろう。まるで自分がよそ者であることを裏付けるような、違和感を抱かせる匂いがする。決して嗅いで気持ちのよいものではない。だが、思わず逃げたくない程不快な匂い、とまではいかない。
玄関のカーペットを踏む感触も妙に違和感がある。カーペットと足の裏に妙な摩擦が走っているような感覚が何故かある。極端に固いと感じることもある。
玄関から見える階段は、やたらと急なような気がする。人の家の階段を上がるときは、手すりがないことを大概呪う。けれども用心するためか、階段で転んだことは一度もない。
レッドがグリーンの家に入ったのは、およそ一年ぶりのことだった。
という訳で、前に来たときとだいぶ家の様子が変化している感じだった。彼は良く覚えている。カーペットの色が赤から青になっていた。靴箱が新しくなっていた。玄関にある傘立ての場所がちょっと右にずれていた。些細な違いが幾重に積み重なって、ここは全く違う空間なんじゃないかとまで感じさせた。
不意のことだ。階段からぴょんと一匹のポケモンが降りてきた。ニドランという兎に良く似たポケモンだった。オスであるがそんなことはどうでもよい。ニドランは、レッドの方をじっと見つめており、その様子に彼はデジャブを感じた。ほんの数分前にもコラッタに睨まれていたのに、またである。
野性のポケモンよりも遥かに、人間に飼われているポケモンの方の視線は気になるものであり、彼は先程よりも遥かに息を詰まらせていた。ニドランの角には毒があるが、彼は毒よりも鋭利なその目に怯えを抱いていた。
ニドランは一体今何を考えている?
なおレッドは、このニドランとは初対面である。ニドランはいつの間にかこの家に住んでいる。
自分達が喋っている言葉は人間には伝わらない癖に、人間の言葉はしっかりと理解できるから、レッドはポケモン達がずるいと常々思っていた。
人間が何を考えているのか、ポケモンは言葉によって知ることができる。
だが、ポケモンが何を考えているか、人間は言葉によって知ることができない。
だから、世のブリーダーは仕草とかでなんとなく感情を把握した気になるしかないし、彼のような自意識過剰な人間は、ポケモンの仕草を気にしてあれはこれやと不安を募らせているしかないのだ。
またレッドには、ニドランにどう思われているか、ということと、もう一つの不安があった。
ニドランが鳴き声を上げたら飼い主のグリーンの姉がこっちへくるんじゃないか、ということだった。
レッドは自分のペースでグリーンの姉に会いたいと思っていた。(というのは建前で、本当はグリーンの姉に会わないで帰る余地を残したいだけである。彼は時折、自分の感情の建前を作って、自分自身を納得させようとする)
とか心配していたらニドランは、小さく鳴き声をあげてしまった。
咄嗟に今の鳴き声をクシャミで誤魔化そうとしようとするという、訳の分からないことを後一歩でする所だった。彼は瞬間パニックに陥った。
今直ぐにでも逃げようか迷ったが、グリーンの姉はこっちへこない。大丈夫か。ギリギリセーフだろうか。
それからニドランは再び階段の方に戻る。急なように見える階段を三段抜かしでジャンプして上っていった。
自分の視界の外へニドランが行ってくれた。まだ何も果たしていないレッドは、とりあえずの安心感を得る。
問題はここからである。
そのまま勢いで姉に会いに行ってしまえば良いものを、レッドは「どういうふうな感じでタウンマップくださいと言えばよいか」、考えに耽ってしまった。彼は具体策を練っているのだ。(予め考えとけば良いものを)。
レッドの足は、さっきから全くカーペットの上から動いていない。
一番分かりやすくかつ手数が掛からないのは、「ちょっと頼みがあるんですけど」って前置きした後に、「旅に出るからタウンマップ貸して貰えますか」って、単刀直入アンド真っ正直に言ってしまうことだ。
しかしそんなことは勿論、自意識過剰な彼にできる筈がない。繰り返すが、タウンマップ貸してくださいって言うことは彼にとって非常に難儀なのだ。
もしもリビングの壁にタウンマップがぶら下がっていた場合なら、こんな作戦も考えられる。
適当に会話を交えた後に、「これってなんですか?」ってまずタウンマップを指差す。そうすることで、話題をタウンマップの方に持っていく。その話題の最中であれば、「できれば貸してくれませんかね」って、極自然な形で言うことができる。
タウンマップに対して「これってなんですか?」って聞き方はちょっとまずいだろうか。見えば分かるだろ、って思われそうだ
そもそも、リビングにタウンマップが飾られてない場合この手段は使えない。この手段は次善策と言った所だろうか。もっとどんな場合でも対応できる方法がありそうだ。
これはどうだろう。グリーンとさっき出会ったことにしておいて、このように言ってみるのだ。
「そう言えばグリーンタウンマップ持ってましたけど、グリーンってあれ持ってたんですね」
さあどうだ。中々捻られた方法であると思われる。
「グリーンにも貸したんだけど、レッドも持っていく?」って言ってくれば、この方法は大成功だ。問題は、そう聞いてくる確率がどのくらいか、見積もりがあまり立たないことだ。
他人にどう思われるのか執拗に考える性格のレッドは、こんな些細なことですら脳味噌全てをフル活用するハメになる。
レッドの足は、さっきから全くカーペットの上から動いていない。
あっちらこっちらと思考を巡らせている内に、タウンマップ貸してくださいって言うのはやっぱりおこがましいのではないか、という考えが胸の奥底からまるで助け船のようにやってきた。
タウンマップがなくても、トレーナーをやれている人は大勢いる。危険な場所なんて町の人に聞いて情報収集すれば分かる。天候に至ってはニュースを見ればよい。
しかし。
自分はポケモン図鑑を完成させることを託された訳だ。あちこちいるポケモンをくまなく探すには、タウンマップは必要不可欠なものになってくる。
図鑑完成は全部グリーンに任せようか。それも一種の手かもしれない。けれどもやっぱり自分もやりたい。
それならば、タウンマップを自力で手に入れるという手は?
タウンマップが買えるようになるには後何回バトルで勝てば良いのだろう。負ければ取られる訳だから、単純な計算式では考えられない。親からお金を借りる手もあるが、家はそこまで裕福でもないし、この旅の準備だけでも結構かかっていることを考えると、旅立ってそうそうにお金を借りることを要求するなんてことは、よっぽど生活に困窮しない限りはやってはいけないと思っていた。
彼は夢中になってあれは駄目これは駄目と考え込んでいた。レッドが少年にしてはここまで色々思考を巡らす理由は、考え事をしている間は、周囲の目があまり気にならなくなる、というのも原因の一つとして挙げられる。
だからレッドは、今この瞬間自らを脅かす敵の存在に気が付かなかった。ニドランが階段から降りてきた。しかも彼の直ぐ傍まで近づいていた。
気が付いた彼は目を見開いた。その目の見開きっぷりにニドランの方が驚いてしまって、先程よりも大きな鳴き声をあげてしまった。
完全終了。
そんな四字熟語の文字が脳内にbold&redで浮かび上がってきた。
ところがリビングから人間は出てこなかった。脳内に浮かんだ文字が次第に薄くなっていく。だが安心は全くできない。後もう一回鳴いてしまったら流石に飼い主は訝しがるだろう。
ニドランはさっきからずっとカーペットの上に立っている人間を見て、どうしたら良いのか分からなくなっていると思われる。グリーンの姉を呼んできた方が良いのか恐らく迷っている。
人の家に勝手に入っても良いという文化は、飼われているポケモンらにも多大なストレスを与えている。見知らぬ人間が現われたとき飼い主を呼んできた方が良いのか、判断が付かない。怪しい人だと見た目で分かれば良いが、ただの少年であれば分からない。特に変な人間がやってきた訳でもないのに呼んでくるなんてしたら、逆に怒られる可能性もある。
これ以上カーペットの上に突っ立っていて、ニドランに不審に思われる訳にはいかない。レッドはようやく決意を固めた。カーペットの上から脱出を果たす。リビングのドアノブを握る。一旦離した。深く深呼吸をして再度握った。そしてドアを開けた。
「こんにちは」
「あらいらっしゃい」
グリーンの姉は彼と目を合わせた瞬間微笑を浮かべてそう言った。特に呆然としている様子は見せなくて、レッドは本日何度目か分からない"とりあえずの安心感"を抱いた。
自分がこれから図鑑完成を目指すために暫くマサラタウンを離れることを知っているから、彼女は挨拶に来たとでも思っているのだろう、とレッドは考えていた。
そしてそれから数分後。
レッドは出されたお茶を"客人として普通と思われるペース"で飲みながら、グリーンの姉との会話を淡々と続けていた。旅に出るとき緊張したの? とか、そういうことを尋ねてくる度に、「彼は『はい』とか『あー、しました』」とか、そういう無難な返事ばかりを返していた。
会話の主導権を完全に握られてしまっていた。これではタウンマップの話を切り出せるのは、いつになるのであろうか。チャンスは待っていても来ないことにレッドは気が付いていたが、会話の主導権をあっさり握られてしまった今、ハンドルを奪いにいくことなんてできなかった。
「ちょっとトイレ行ってくるね」
そう言ってグリーンの姉は部屋の外に行った。誰も見てない状況になった所で、レッドは頭を抱えた。窓の方をちらと見た。窓から抜け出してしまうおうかなんて言う突拍子もない考えが一瞬だけ浮かんで、そして呆気なく消滅した。
レッドは先程考えていた作戦の一つを思い出していた。部屋の中にタウンマップがもしあったら……。
レッドは首を左右に振り回し振り回し、必死の形相になってタウンマップがどこかにないか探した。飾ってあれば話題に出しやすくなる。
全然見つからない。立ち上がって探そうか。いや駄目だ。音で部屋中を彷徨っているのがバレる。聞こえないか。いや微妙だ!
結局レッドが探し当てる前にトイレを流す音が聞こえてきた。トイレの水は尿だけでなく、彼の希望すら容赦なく下水管に流していった。
グリーンの姉が部屋のドアを開ける。有力だった作戦が一つ潰れた。レッドは激しく動揺した。「うわあああ」と大声で叫んだ。勿論心の中で。
どうする。どうする。
残っている作戦は何だ。
グリーンと出会ったことにして、「そういえばグリーンってタウンマップ持っていましたね」って言う作戦はまだ残っている。
しかしレッドはここへきて、この作戦には大きな穴が空いていることに気が付きはっとなった。
グリーン出会ったという嘘はバレる可能性がある。
グリーンが家を出ていったのは二時間以上前のこと。(彼はその二時間の間、グリーンの家の前に立っていた)。
二時間前に家を出たグリーンとすれ違ったって言ったら、確実に時系列に違和感を抱くだろう。二時間の間何やっていたの? って聞かれてもおかしくない。聞かれたら自分は黙っているしかない。
駄目だ。この作戦はあまりにも危険が伴う。猛獣が行き交うジャングルに自ら飛び込むようなものだ。
手元のカードが全てなくなったデュエリストの気分を味わっていると、
「そう言えばさあ」
グリーンの姉が新たな話題を振り始める。今度は何だろう。
「じっちゃんからポケモン、何貰ったの?」
じっちゃん=オーキドから最初に貰えるポケモンは何選んだのか、ということを聞いてきた。この話題はいつか振られるんじゃないか、とレッドも予想していた。
本当はこんなことしている場合ではないが、断る的確な理由等もなく、仕方がないとレッドはボールからフシギダネを出した。うわーかわいい、という女性のステレオタイプな叫び声をグリーンの姉はあげた。
そんな様子のグリーンの姉を見ながら、半分以上諦めた頭でぼんやりと考える。一か八か帰り際に、ニビシティってどっちでしたっけ? って、唐突につぶやいてみようか。ワザと別の方角を指差しながら。そっちじゃないよって突っ込まれるだろうから、そこからタウンマップの話に繋げるなんてどうだろう。
駄目かなあ。ニビシティの方角を知らないなんて常識外れすぎるかなあ。
フシギダネをせっかく出しているわけだから、フシギダネから話を繋げられないか。ふしぎだね、くさたいぷ、たまむしじむ。
タマムシティってどこですかって、聞いてみるのはどうだろう。マサラから離れた町なら、どこにあるのか知らなくても違和感はない。
しかしこの方法には、相応のコミュニケーション能力が必要となってくる。フシギダネの話からタマムシシティまで繋げられる自信が、彼にはなかった。
どうやってもタウンマップは貰えない。これは詰みである。彼の敗北であると思われた。
「あ」
グリーンの姉は、突然「あ」と言った。
この「あ」は、何かに気がついたときに出てくるタイプのものだ。何かと何かの因果関係を理解したときに、無意識に口から出てくるものだ。
この手の「あ」には大きく分けて二種類のものが存在する。焦りが感じられるようなものと、そうでないもの。
グリーンの姉が今放った「あ」は後者であった。
「そういえばグリーンってヒトカゲを選んでたけど、そういうことだったのね。あなたに勝ちたいから、フシギダネに強い炎タイプを選んだのね」
「……はあ」
次の瞬間彼の元に幸せの青い鳥が飛んでくる。世界観的には幸せの青いチルットの方が適切ではあろうが、この際そんなことはどうでも良い。
「グリーンってさあ」
「はい」
「タウンマップ、貸してあげないって言っていたでしょ」
レッドが心の深淵から求めていたワードが、彼女の口から飛び出してきた瞬間だった。
(もう少しでこの小説は終わります。彼の長々とした葛藤にお付き合い頂きありがとうございました。お疲れ様でした)
「あの、すいません」
「どうしたの?」
「良ければなんですけど、自分にも、その、タウンマップ貸してくれあげたりしませんかね」
日本語があからさまに変になったが、自意識過剰のレベルだけなら既にチャンピオンクラスのレッドは、ついに「お願い」を言うことができた。
「勿論いいよ。私も、貸した方がいいのかなって思ってたし」
「ありがとうございます!」
「図鑑完成頑張ってね」
立ち上がって丁重に、とても丁重にレッドは頭を下げる。
これまでレッドは、数々のグリーンの意地悪を受けてきた。そんなグリーンの言動に対して、レッドは生まれて始めて感謝をした。
まさかグリーンの言葉がきっかけで、旅立って始めての壁を乗り越えることができるとは、思ってもみなかった。ありがとう、グリーン。
家から脱出したレッドは、今日の日を思い返す。タウンマップ一つ貰うのに波乱万丈であった。とても疲れた一日だった。
しかしこんなことで一々うだうだ悩んでいて、これから先大丈夫なんだろうか、彼はそう不安に思った。
だが同時に、こんなことも思う。
これから先出会う人は、全く知らない人達だ。そういう人達相手ならきっと自分は、あまり気を使わずに接することができる。
旅の恥はかき捨て。そんな言葉もある。
「一期一会の付き合いスキル」に関しては、自分はまだまだ未知数なのだ。
そう考えることにした。心の中では不安が台風の如く渦を巻いていたが、レッドは無理矢理こう考えて、不安から目を逸らそうとした。お前、さっき初対面のポケモンの目線気にしていただろ。そう言ったツッコミは聞こえない振りをした。
レッドはマサラタウンを抜け出した。眼前に続く広大な草むらを見つめながら、またここを通るのかと溜息を付きながら歩いていった。
あー、あのフレンドリィーショップのおじさんのような、軽々しく人にお願いできるぶてぶてしさがあればなあ。