占いなどというものは信じぬ。
いや、齢二十にもなって占いなどというものを盲目的に信じて疑わないなんてことは、元来なかったのだが、これはそういう話ではない。たとえば朝のほんの些細な娯楽の一環として、テレビの星座占いを観てみるといった、そんな次元の話である。
ようはここで俺の言う信心とは、占いをある種の冗句として楽しめるか否かということである。
しかし俺はテレビの星座占いは観ない。寝坊と判断される時間の限界まで睡眠に耽るため、俺の朝にはのんびりとテレビを眺めているような、そんな暇は皆無である。
そんな俺が毎朝密かに、取るに足らない程度の楽しみとしていたのが、駅前広場の掲示板の左下の隅に小さく張り出されている星座占いである。どうやら自治会の暇な誰かしらが、飽きもせずに毎朝張り出しているようである。
この星座占いはその日の運勢が最も良い星座だけを取り上げ、その星座のラッキーカラーを教えてくれるのだ。
毎朝駅前広場を通る俺はその度に掲示板の左下の隅っこに一瞥をくれては、俺の誕生日星座であるおひつじ座が運勢一位ではないかを確認してから大学に向かうのであった。占いを信じていないとはいえ、運勢一位と朝から宣言されれば、縁起が良いから悪い気はしない。
さて、現在世間ではゴールデンウィークなどというものが謳われ、もてはやされているようである。この貴重な長期休暇を謳歌せんと、朝から小中学生が自転車でどこかへ駆けていく姿が散見された。まこと羨ましい次第である。
甚だ忌々しいことに我が大学はゴールデンウィークという一大イベントもどこ吹く風と、構うことなく講義がおこなわれるというのだから、俺の気分も朝から沈鬱なものであった。それはもう、布団から幾多もの腕が生えて俺を離すまいとしているかのごとき倦怠感は格別であった。自主休講というワードが思考を過ぎりもしたが、実家暮らしともなればそうはいかない。母親に尻を叩かれるように家を出て俺は駅へ向かったのであった。
今日も今日とて、俺は駅前広場に差しかかると、掲示板の方に一瞥をやった。特に期待もせず、ある種の惰性でもって張り紙に目を走らせた。
「おや、おひつじ座」
どうやら、今日の俺は全人類中上位十二分の一に入る程度には幸運であるらしかった。ラッキーカラーは『桜色』と春を意識したチョイスであった。
春。五月とは春であろうか? その論題について学説的な知見は寡聞ゆえに持ち合わせてはおらぬが、大衆から意見を募れば、五月が春かどうかという判定については意見が分かれそうではある。ただ五月に桜は咲かぬ。なんとも季節錯誤なラッキーカラーである。
桜といえば我が相棒のチェリムである。本日は曇天ゆえに、口惜しくもそのかんばせを拝むことは叶わぬが、お天道様が輝けば桜のごとき花弁と笑顔にまみえることができる。お天道様さえあれば、年がら年中春を楽しめること請け合いである。お天道様がなければまるでなすびがごとき容貌であるが。どうもここのところ曇天続きで、ここ数日はなすびのままであった。
閑話休題。何の話だったかといえば、占いを信じぬという話であった。
そもそも占いという概念自体が非科学的なものであるし、それもどこの誰とも知れぬ輩が気紛れに張り出している星座占いに、端から信憑性の片鱗すら見出すことはできぬだろう。そのような曖昧模糊な代物に沈鬱なゴールデンウィークを応援されても、焼け石に水と言う他ない。ゴールデンウィークが倦怠な講義に蝕まれることに幸運など到底見出せぬ。今朝の星座占いの結果は俺の憤りを助長するだけのものであったのだ。
「おいおい、なすび。俺は今日一日幸運であるそうだぞ」
俺は鼻を鳴らしながら、随行するなすび、もといチェリムに言った。チェリムはだんまりを決め込みながら、俺の斜め後ろをただ陰湿なストーカーのように歩いた。
「ラッキーカラーは桜色だそうだ。どうだ、俺のために字義通り一肌脱いでみる気概はないか。そんななすび染みた紫ではなくて、華々しい桜を見せてくれても良いだろう」
俺がしつこくつっついたり、花弁を捲ってやろうという素振りをしていると、チェリムはなすびの蔕のような部分で俺の頬を一発きつめに叩いた。いったいこの痛みの何が幸運か。
俺はチェリムをモンスターボールに入れた。もう駅に着く。電車内ではポケモンはモンスターボールに入れなければならぬから、戯れ合いもここらで打ち切らねばならぬ。ゆえになすびとはしばしのお別れである。
俺は駅前広場を抜けて、バスロータリーを早足で横切った。そのまま階段を上り、駅構内に入った。俺が住むこの街は、それなりに都会であるから、それなりに駅が大きく、それなりに混雑するのである。大都会の迷宮がごとき駅には到底及ばぬが、それでも人混みを掻き分ける必要のあるくらいには人間が蠢いている。駅に殺到する人種は、平生ならばサラリーマンと学生が大半であるが、今日はゴールデンウィークだからかそういった人種はやや少ない。少ないが、見受けられる彼らは皆一様に沈鬱な面持ちであった。俺と似たり寄ったりの境遇の者どもであろう。果たしてこの中におひつじ座は何割ほど含有されているであろうか。
サラリーマンと学生が少ない代わりに、今日はやたらと家族連れが多い。連休を利用してどこかへ遠出する者たちだろう。奴らがいるせいで総合的には駅はむしろ平生よりも混雑している。
無秩序に改札へと流れていく人波の一員となりながら、俺はカバンから通学定期を取り出そうとした。
「む。無い」
いくらまさぐろうとも、カバンに入っていて然るべき定期はどこにも見当たらなかった。俺は人の群れから一旦外れ、壁際に寄り、カバンの口に頭を突っ込む勢いで、いよいよ本格的な捜索を実施した。しかし中身をクリームシチューよりも掻き回せど定期は出てきてはくれなかった。どうやら家に忘れてきたようである。
なんたる不運。今から家へ取りに帰る猶予はないので、今日は切符を購入せねばなるまい。幸いにも、俺は家の最寄りから一駅の大学に通っているので、運賃は最小限に抑えることができる。
すでに改札の近くまで流されていた俺は、人間の群れに対して怒涛の逆流を決行した。すれ違う人々は甚だ迷惑そうに顔をしかめながら、惜しげもなく胴体やら肘やらを俺に突っかけてきた。俺は這う這うの体で発券機までこぎ着けた。財布からなけなしの小銭を掴み、切符を購入し、俺は小さくため息をついた。なんとも幸先の悪いものだ。
その後も俺の不運は連鎖した。まず講義に出席したら、通学定期のみならず、本日〆切のレポートをも家に忘れていることに気が付いた。俺は教授にこれでもか頭を下げて、今日中に家から持ってきて教授の研究室まで提出しに行く約束を辛くも取り付けた。
昼に購買でパンを買い食いしようかと思ったら、財布に金がほとんど入っていなかった。俺は実家が学校からすぐ近くということもあり、平生からほんの一握り程度の金銭しか持ち歩いていなかった。それが今朝通学定期を忘れ切符を購入したがために、昼食に割けるだけの金がなくなってしまったのである。口座から金をおろそうにも、この辺りには俺が利用している口座の支店はなかった。俺は昼食を断念することを余儀なくされたのであった。
災難はそれだけに留まらない。本日の講義を全て終えた俺は、教授の恩情に報いるべく、急いで家に戻り、置き去りにされていたレポートを持って再度大学へ向かった。レポートの提出自体は滞りなく済んだのだが、問題はその後である。研究室を出るとなにやらゴロゴロと曇天の向こう側で不吉などよめきが聞こえるではないか。
「おいおい、勘弁してくれよ」
俺の絶望的な呟きなどが抑止力になどなるはずもなく、案の定数刻と経たないうちに天をひっくり返したような雷雨がしとど振りだした。俺は研究棟の正面玄関でチェリムと共に呆然と立ち尽くした。傘など持ち合わせてはいなかった。
ああ、なんたる不運!
コンビニエンスストアにでも行けばビニール傘も販売していようが、そこに辿り着くまでがすこぶる難儀であった。度重なる不幸に俺もいい加減辟易としてくる頃合いである。
次の瞬間、おれは土砂降りの渦中へと身を躍らせた。もはや自棄である。待っていれば止むという保証もない。ならば一時の錯乱に身を任せて、強引に事態を突破してしまう方がまだマシなように思われた。道行く人からの痛々しい視線に気付かないふりをしながら、俺は疾走した。
俺は全身から滝の如く水を滴らせながら、ようやく近くのコンビニエンスストアに飛び込んだ。店内の床に点々と水たまりを作り、店員の迷惑そうな目に身を晒されながらも、俺は無事にハンドタオルと傘の購入に成功した。タオルで全身の水分を拭い、チェリムの身体も拭いてやった。こいつはボールに戻してやることもできたが、基本的に俺のチェリムは外に出たがるので、その必要もなかろう。ボールが嫌いなようであるから、日ごろから必要最低限以外の時は、解き放って自由にさせているのだ。
チェリムを拭き終え、コンビニから出て傘を差した。とりあえず一段落着いたが、こんなにびしょ濡れの格好で電車に乗ろうものならそれこそ大顰蹙を買ってしまう。たかが一駅であるし、家までは歩いて帰ることにした。
大学の最寄り駅を過ぎ、俺は線路に沿ってゆっくりと歩いた。がたたん、ごととんとわきを電車に何度か追い越されながら、俺は己の不幸を呪った。やがて自宅最寄りのいつもの駅前広場に着いた。掲示板はガラスの防護板に覆われており、中の掲示物が雨風に晒されぬようになっていた。星座占いも朝と変わらぬ有り様で、隅っこにぽつねんと佇んでいた。なにが運勢一位であるか。星座占いなぞ、とんだペテンではないか。お前との縁も今日までである。こんなペテン、明日からはけして見向きなどしてやるものか。
俺は袂を分かつような思いで、足早に駅前広場を抜け出した。
*
「おや」
ふと、一筋の光が差した。俺は傘の下から天を仰ぎ見た。
どうやら単なる通り雨であったらしい。なにやら急激に雨脚が弱まったかと思うと、そのまま空を厚く覆っていた雨雲は彼方の方へと去っていき、後には煌々と光を注がんとするお天道様だけが残された。それは久方ぶりの邂逅であった。
それまで寡黙に後を付けてきていたチェリムは弾かれたように走り出した。
「待つのだ、チェリム」
俺の制止なぞには耳もくれず、チェリムはようやく相まみえることのできたお天道様だけを目指し、走る。走る。
お天道様のない日々が続いた後であれば、それはよくある光景であった。曇天の間、チェリムは愚直にお天道様を待ち焦がれている。その反動がかような奔走として表れるのだ。見慣れている光景であるから、猛進するチェリムに置いて行かれそうでも、俺は別段慌てたりはしない。後から追いかけ、ここ数日の鬱屈を晴らさんとするチェリムの後ろ姿を見守った。
我が街において、高層ビル等の文明的建築物を除いた中でもっともお天道様に近い場所は、街の喧騒から外れた、やや寂れている丘の上の公園であると記憶している。そこからならば、街の大半を一望できる。チェリムが駆け上がっているのが、まさにその公園の道程たる坂であった。俺はへろへろになりながらも身体に鞭打って、小さき体躯に無尽蔵の体力を滾らせたチェリムに食らいつこうと必死であった。
やがて頂上へと至る。お天道様の光を余すことなく浴びて、なすびが綻びる。それはまるで、羽化する蛹のような様相である。逆光を受けて輝くその光景は神々しさすら感じる。それはすでになすびなどではない。
そこに顕現したのは、爛漫と微笑む桜花であった。
本日の我がラッキーカラー。煌々たる桜色。
「久しぶりだな」
ここ数日間お天道様が顔を見せなかったゆえに、こいつの真のかんばせを拝むのも数日ぶりである。
チェリムは嬉々として飛び跳ねている。先ほどまでの陰湿ななすびが嘘であったかのように躍動する活力に満ち溢れている。そんな相棒を見ていると、俺の不運幸運にまつわる葛藤なぞ、至極矮小なものであったかのような心持ちになる。
「はは、くだらない一日であったよ」
俺は俺自身を鼻で笑い飛ばし、一蹴した。思えば、今日一日の憤りはゴールデンウィークに大学へ行かねばならぬという理不尽に対して湧き起こったものであって、掲示板の星座占いなど、初めからどうでも良かったような気もしてきたのであった。それは玩具を買ってもらえぬおさなごのような八つ当たりであったのかもれぬ。
チェリムに倣い、お天道様を見据え、その眩しさに目を眇めた。久方ぶりに相見えたお天道様は、無情にも沈み始めていて、そう遅くないうちに再度隠遁してしまいそうであった。
しばらく眺めていると、お天道様の沈む方角から、なにかがこちらに向かって飛んでくるのが見えた。光に目が眩んでおり、明瞭に視認ができないでいたが、それが翼の生えた生き物であるということだけはシルエットが物語っていた。
生き物は、ふわふわと頼りなく浮遊しながら俺たちに向かって近づいてきて、チェリムの頭上まで到達すると、そこで移動を終えて、その場で旋回し始めた。
「これはビビヨンか」
チェリムは自身の頭上で旋回する蝶々を落ち着きなく見上げた。ビビヨンはゆっくりと旋回をやめると下降し、チェリムの頭部にとまった。チェリムは頭を左右に振り乱し、唐突な襲撃者を振り落とそうとした。ビビヨンは驚いたのだろう、反射的に飛び上がり、不思議そうにチェリムを見下ろした。そこらの花と見誤ったのだろうか。
俺はビビヨンの様子を観察した。そういえばこのビビヨンはここらでは見ない模様の羽を携えている。ここらでは一部の特殊な地域を除けば、ビビヨンはおしなべて紫色の雅やかな羽を持っているのである。ところがこのビビヨンの羽は紫ではなく、チェリムの花弁の色と類似した桜色の羽であった。俺の記憶が確かならばこの桜色の羽を有するのは西洋の方でしか見受けられない種であったはずだ。畢竟するに、このビビヨンは外来種であるということである。
桜色といえばもはや言うもおろかではあるが、俺のラッキーカラーである。なるほど凡庸に生きていればまずお目にかかることのないであろう希少な模様のビビヨンに出会えたのだから、これは一つの幸運と呼んでも差し支えないだろう。幸運の程度としては些少たるものだが、占いなどというものは、受け手の気の持ちようなのだ。俺が幸運だと言えば、多少物足りなくとも幸運なのである。
記念ということでひとつ、俺は携帯端末を起動すると、付帯のカメラ機能でもって桜の花と桜の蝶々のツーショットを一枚収めた。背景にお天道様が煌びやかに光を放つため、いまいち写りが悪かったので、二匹の反対側に回り込んでもう一枚収めた。ナイスショット。
しかしこのビビヨン、外来種ということは海外から訪れた誰かしらが連れてきたということであろう。試しに近づいて頭に触れてみても、こちらを警戒することはなく、随分人に慣れている様子である。やはり飼い主がいるのだろう。今は一緒にいるわけではなさそうだが、もし迷子ともなれば面倒な話になってくる。俺は周辺に視線を彷徨わせてそれと思われる人物を探した。すると一人こちらの方へ駆け寄ってくる人影があった。
それは女性であった。恐らくは俺より多少年下の、十七、八くらいの少女であるように見えた。白いワンピースの上にブルーのベストを羽織っている。
少女は焦燥気味な小走りで、俺たちのもとまでやってきた。
「すみません、うちのビビヨンが突然押しかけてしまい」
息をきらせながらも、少女は恭しく頭を下げた。
もっと西洋風な人物が出てくるのではと構えていた俺は少々拍子抜けした。少女は長い黒髪を眼の上で一文字に切り揃え、肌は名残雪を想起させる今にも溶け出してしまいそうな淡い色白であり、むしろ和風然としているような印象を受けた。
「ああ、いえ。あなたのビビヨンですか」
「そうでございます。本当に申し訳ありません。ほら、ビビヨン、こっちに来てください。無闇と人様に迷惑をかけるものではありません」
少女は重ね重ね平身低頭し、謝罪した。それから少女はビビヨンに手を差しのべ、回帰を促した。
少女にたしなめられたビビヨンは名残惜しそうに、なおもチェリムの上で旋回を続けており、少女のもとへ戻っていく気色はなさそうであった。
「もう、本当にやんちゃなんですから」
「元気なことは良いことです」
と俺は言った。
「過ぎたるはなお及ばざるがごとしと言います」
と少女は答えた。
「ははは、でしたらうちの根暗なチェリムに活気を分けて欲しいものです」
「根暗でありますか」
少女はチェリムたちに一瞥をすると、疑惑の色を浮かべた。俺もそれにならい、二匹を観察した。
初めは戸惑っていたチェリムであるが、なにやら意気投合でもしたかのようで、ビビヨンが旋回する下で、くるくると回り踊っているのであった。木々の緑が濃くなり始めている季節の景色の中で、そこだけ過去から春を切り離して来て、現在に貼り付けたようであった。
「とても根暗でいらっしゃるようには見えません」
少女は言った。
「今は花が開いていますから、あんなにはしゃいでいます。こいつは花が開いている時は、見てくれ相応に陽気な性質なのです。ですが、もうしばらくして日が沈みますと花が閉じます。そうすると今の活気がまるで嘘のように、根暗になってしまうのです」
「そうなのですか」
「はい。そうなれば、あいつはただの陰湿ななすびです」
「なすびでございますか」
少女は袖もとを口に当て、くすくすと控えめに微笑んでみせた。その姿があまりに可憐であるものだから、俺はつい見惚れてしまいそうになった。
「でしたら、日が沈むまであのままかもしれませんね。あの子あんなに夢中になってしまって」
少女は心底申し訳なさそうに顔を曇らせた。ビビヨンとチェリムは依然じゃれ合っており、二匹の戯れが終わる気配は一向にない。
「いいえ、俺は別に構いません」
むしろ満更でもないくらいであった。平生女性との会話は、母親以外では皆無に等しい俺にとって、かような可憐な女子と会話ができるという事態は、今日この時が最初で最後であるかもしれないのであった。
「立ちっぱなしもなんですから、ひとまず腰を落ち着けませんか」
と俺は提言した。
「そうですね」
俺たちは公園の端にしつらえられた、老朽化の途上にある木製のベンチに腰をかけることにした。少女は右端の方に座った。俺は適切な距離感を図りかねて、少女から一人と半分が間に座れるくらい離れて座った。根性なしであると自らの内から罵倒の声が聞こえてくるようであったが、これが女性と真っ当なコミュニケーションを交わしてこられなかった男の限界である。
ベンチからは暮れなずむ街並みを背景にしたビビヨンとチェリムの姿が真正面に捉えられた。
「それにしても珍しい模様のビビヨンですね」
「はい。家の都合で五年ほど海外で暮らしておりまして、向こうにいる時に出会った子ですので」
「なるほど、帰国子女なのですね」
「そういうことになります」
「ちなみに、差し支えなければどちらの国で出会ったのかお聞きしても?」
「カロスでございます」
カロスといえば、西洋の中でも芸術に秀でた国であり、世界各国の中でも有数のお洒落大国でもある。しかしこの少女からはカロスらしい華美な洒落っ気は感じられなかった。むしろ精緻な和製人形がごとき、清楚で奥ゆかしい雰囲気をまとっている。
「ですから、この国ではあまり見られない模様かもしれません」
「はい。このような模様の羽根は実物では初めて見ました。素晴らしい桜色ですね」
「桜色、ですか?」
胡乱そうに小首を傾げる少女の仕草で、俺は迂闊にも妙ちきりんなことを口走ってしまったことを自覚した。桜色などという表現は常頃から世間で使われるようなものではないし、そもそもいまや桜は時期外れという節があるのだから、他人との会話で脈絡無く使えば戸惑われることもあろう。
「ああ、たしかに桜のような色とも言えますね」
「すみません。おかしな表現をしてしまいました」
「いえ、素敵だと思いますよ。そうですね、カロスに桜はありませんから失念しておりましたが、そういう言い方もありますね。今年帰国して久しぶりに桜を観ましたが、やはり風情があって良いものでした」
「この国の桜が一番美しいという話も聞きますし、格別なのでしょう。ちなみにですが、カロスにも桜はあるそうです」
「あら、そうなのですか」
「はい、こちらほど盛んではないそうですが、花見をする地域もあるそうです」
「浅学でした。私の住んでいた地域には桜はございませんでしたので、てっきりカロスには咲いていないものかと思い込んでおりました」
少女は含羞の表情でほんのりと頬を赤らめた。
「桜と言えばジョウトやカントーだけ、という先入観は抱いてしまいがちですし、実際そういう人も少なくありませんから、無理もないでしょう」
「いえ、本当にお恥ずかしい」
今までことさらに触れなかったが、俺のいる地方はジョウトである。ジョウトと少女の言うカロスとは遠く離れた地で、その文化も大きく異なるが、その仔細についてはわざわざ言及する必要もなかろう。
お天道様が隠遁してしまうまでにはまだ猶予があるようであった。チェリムはいまだなすびの中へ引きこもる兆しはないようであった。西日に晒されて自慢の桜花を咲き誇らせている。その桜花に向けられるビビヨンの並々ならぬ熱情も健在であった。
「貴方のチェリムさん、うちのビビヨンにたいそう気に入られてしまったようですね」
「そのようです」
見るからに異様な気に入られっぷりである。二匹とも愛らしい相貌であるから、傍から眺めていれば、それは微笑ましい光景に他ならないが、それにしてもビビヨンからはチェリムに対する往年の親友に久方振りに邂逅したかのような情愛染みたものを感じざるを得ない。二匹らは初対面であるはずなのに、いったいどういうことであろうか。
「あの子、桜の花が好きなのです」
ビビヨンの執心について思案を巡らせていた俺に、少女は言った。
「先も申しましたが、カロスの私が住んでいた地域には桜はありませんでした。あの子とはそこで出会いましたから、きっとあの子も向こうでは桜を見たことはなかったのだと思います」
「でしたら、ジョウトの桜はさぞ珍しく映ったことでしょう」
「はい。こちらに帰ってきて、初めて桜の花を見たとき、あの子、いたく桜を気に入ったようでした。しばらくの間、毎日勝手に桜並木の方まで飛んでいってしまって、大変でした」
「なるほど、ですから桜の花によく似たチェリムにあれほどご執心なわけですね」
得心がいった俺は、ぽんと手を打った。
「桜が散った後のあの子の鬱屈した様子といったらありませんでした」
「それほど酷いものでしたか」
「ええ。部屋のカーテンを桜柄にしたり、あれこれ便宜を図りましたら幾分か元気も出てきたようでした。まあ今となっては桜のことは半分忘れていたような様子でしたが、今日貴方のチェリムさんを見て記憶が呼び起されたのでしょう」
公園の裏は雑木林になっており、その奥底に潜んでいるのであろう鳥ポケモンの甲高い声が夕空へ突き刺さった。立地もあまりよろしくなく、甚だ寂れた公園には俺たち以外に人影はない。時折蠢く姿の見えぬ獣たちの気配が、この地の孤立をいっそう際立たせた。
じゃれ合うビビヨンとチェリムを尻目に、俺たちの間では沈黙の時間が流れた。気まずさでいたたまれない俺はなにか気の利いた話題を見つけようと、躍起になった。隣の少女を盗み見ると、二匹の戯れをあてもなく眺めながら、儚げな微笑みを浮かべていた。その横顔に胸が高鳴り、俺はますます焦燥感に身を苛まれた。
「俺の今日のラッキーカラーは桜色なのです」
懊悩の末に我が喉頭から飛び出した台詞は、そんな掃いて捨ててしまいたくなるような至極くだらないものであった。言ってから、おまえ他にマシな話題があっただろうと後悔の炎が身を包んだ。
少女は俺の唐突な宣言にぽかんとして見つめてきた。
「桜色、ですか?」
既視感のある少女の返答に、一抹の申し訳なさを覚えてしまう。
「はい。今朝の星座占いがそのように宣っていました」
少女は腑に落ちないように目をぱちくりと瞬かせた。
「それはおかしいですね」
「なにがですか?」
「私は今朝、星座占いをしているチャンネルを全て梯子しましたが、そのようなラッキーカラーは記憶にございません」
おっ、と俺はある種の手ごたえを感じた。悪手と思われた占い談義であったが、意外にも少女の喰いつきが良さそうであった。
「テレビの星座占いではないのです」
「では新聞でしょうか」
「いいえ、新聞でもありません。あそこの駅前の広場に掲示板があるのはご存知ですか」
俺は見下ろした街の一画に鎮座する駅の方角を指さして言った。もうじきお天道様も見えなくなりそうだった。
「はい。存在くらいは存じております」
「その掲示板に毎朝星座占いが張り出されるのです」
「まあ、初めて知りました」
「隅の方に小さく張り出されるので、大抵の人の目にはとまらぬようです」
過去、友人に何度か掲示板の星座占いについて教示したことがあるが、皆一様にそんなものは知らなかったと答えた。古くからこの街に住む人間にすらまともに認知すらされていない、悲しき星座占いである。とはいえ、俺もその存在を知ったのはそう遠い過去ことではないというのは内緒のはなしである。
「俺はおひつじ座ですが、その星座占い曰く、おひつじ座は今日の運勢一位でして、ラッキーカラーは桜色だそうです」
「なんと。私もおひつじ座なのです」
「おお、これはまた偶然ですね」
「では私のラッキーカラーも桜色なのですね」
「そういうことになります」
「桜色といえば、うちのビビヨンの羽の色は桜色ですし、貴方のチェリムさんの花も桜色でいらっしゃいます」
「はい」
「それで先ほど、ビビヨンの羽を桜色とおっしゃたのですね」
「つい勢いで口走ってしまいました」
俺は苦笑しながら頭を掻いた。
「ではあの子たちは今日、私たちに幸運をもたらしてくれていたのでしょうか」
少女は笑顔で首を傾げた。
「さあ、どうでしょう」
俺は今日一日でわが身に降りかかった不運に思いを馳せた。ゴールデンウィークの登校に始まり、定期やらレポートやらを忘れ、切符を買ったせいで昼飯代はなくなり、夕立に襲われる。それらはとても幸運であったとは言えまい。
ただ、こうして可憐な少女と邂逅し、しばしの談話に耽ったことは、至上の幸運と呼んでも、俺としては差支えがなかった。もっとも、『あなたと出会えたことが何よりの幸運です』などとこっ恥ずかしい台詞を臆面もなく口に出せるほど、俺の精神は強固に作られてはおらぬ。
「私は幸運でしたよ」
少女は言った。
「えっ、なにがでしょう」
少女は立ち上がり、お天道様の方へ歩み寄ると、伸びをするように両の手を天に突き上げ、夕日の紅を一身に浴び、こちらに振り向くと煌びやかに顔を綻ばせ、笑った。その芸術的とも賛美すべき情景に寸毫心を奪われた俺は固唾を飲んで、次に紡がれる言葉を待った。
「あの子の――――ビビヨンのあれほど嬉しそうな姿を見るのは久しぶりでした。これはきっと桜色の花と桜色の羽が私に運んでくれた幸運なのでしょう」
「あっ……ははは。そうですか。そう言っていただけるとうちの桜も本望でしょう」
一瞬、自分にとって都合のいい発言を期待してしまった己に、些末な羞恥心を抱きつつ、俺は釣られて笑った。
「ああっ」
突然少女が短く悲鳴をあげた。
「どうかしましたか」
「先刻まで雨が降っていたから木製のベンチに雨水が染み込んでいたのでしょう。その……後ろの方が濡れてしまいました」
少女は恥ずかしそうに臀部を押さえながら俯いた。
俺も慌ててベンチから立ち上がり自分の臀部に手を当てると、その下のボクサーパンツまでしっとりと湿っているのがわかった。
「とんだ不運だ」
俺は言った。
「ええ、本当に」
少女が言った。
少女は濡れた臀部の布地から水を跳ね除けようと、両手で忙しなく叩いた。そんなことをしてもどうにもならんだろうと思いながら見ていると、手を激しく動かした拍子に少女が携えていたカバンからなにやら四角い物が落下した。
「なにか落としましたよ」
言いながら、拾い上げるとそれは我が大学の学生証であった。そこには緊張ゆえに不自然に強張った少女の顔写真と名前、それから国文学部一年生、その他プライバシーに大きく関わるあれやこれが記載されていたので、俺はすかさず目を逸らした。
「すみません、ありがとうございます」
少女は俺から学生証を受け取るとそそくさとカバンにしまい込んだ。
「申し訳ない、見てしまいした」
「いえ、落とした私が悪いのです。お気になさらないでください」
「その……貴方もそこの大学生だったのですね」
「えっ?」
「俺も同じ大学に通っているもので。学年は俺がひとつ上のようですが」
少女は驚いて丸く口を開いて目を瞬かせた。
「まあ、こんな偶然もあるものなのですね」
気が付けば、お天道様はすでに隠居してしまっていた。遠くの方はまだ薄紅色の残滓が散りばめられていたが、だいぶ暗くなっていた。こうもなればチェリムの桜の時間も終わりを迎えることとなる。
いつの間にか俺の斜め後ろに物言わぬなすびが黙然と張り付いていた。それまでチェリムに執心を注いでいたビビヨンも、不気味ななすびにはもはや興味など皆無であった。
ビビヨンはようやく少女のもとへと舞い戻り、その傍らに落ち着いた。
「このたびはとんだご迷惑をおかけいたしました」
少女は深々と頭を下げ、長い黒髪を垂らした。
「いえいえ、そんな頭を下げないでください。うちのなすびも喜んでおりましたので、むしろ感謝しても良いくらいです」
「そんな、滅相もございません」
それから俺たちは並んで丘を降りた。
「では私はこっちですので」
「はい、ここでお別れですね」
途中の十字路で俺たちは立ち止った。
「同じ大学に通っているともなれば、また会う機会もございましょう」
少女が言った。
「そうですね」
「その時はまたうちのビビヨンが粗相をするかもしれませんが……」
「なんのなんの。うちのなすびなんぞで良かったら、いつでも貸し出しましょう。遠慮なく仰ってください」
少女は、ふふ、と小さく笑うと「では、また」と会釈をした。
「さようなら」
俺は夜道を歩きながら、少女の言うところの『桜色の花と桜色の羽が運んでくれた幸運』という言葉を反芻した。僥倖な縁を引き寄せてくれた二つの遅咲きの桜色に、俺は多大なる感謝の意を表す所存である。
それから此度の幸運の根源たる件の星座占いを、俺は密かに崇拝することにした。