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  [No.4051] 銀の吐息 投稿者:小樽ミオ   投稿日:2017/12/28(Thu) 20:45:56   114clap [■この記事に拍手する] [Tweet]
タグ:グレイシア】 【】 【ポケモンと生活

 家を出るなり霜柱を踏んだとみえて、ぱきぱきという小気味よい音に送り出された。振り向きざまに視線を落とすとやはり、透き通った無数の氷の針が足跡の形に踏み抜かれ、土くれにまみれて体を横たえている。それで私は改めて冬の訪れを知らされた。昨日まで見なかった霜柱が姿を現したくらいだから今朝はよほど冷えているらしい。いずれは朝の陽ざしに融けていくのだろうが、肝心のお天道様もこの時期は一分一秒でも長く寝床に留まりたいようで、視界はまだ薄明の中だ。ぼうっと思いを巡らせていると、情のない風に頬をぴしゃりと叩かれた。

 散歩に出てきたまではいい。が、門柱を抜ける前から家の中に戻りたい。普段のスカートを諦め、手袋、耳当て、上着にマフラー、防寒具と呼べるものは大方身に着けたのに、冷気は事も無げにまるで剣山の束を押し付けるように貫通してくる。表に出るのすら億劫な季節になってきた。今日は行こうか行くまいか逡巡していると、今度は太腿の後ろをぬくい感触に撫ぜられた。見ると私の体の陰になった方から、グレイシアがきゅうきゅう鳴きながら鼻面を押し当てている。どうも催促されたらしい、目が合うと、グレイシアは私を見上げながら一際大きく「きゃう!」と鳴いた。

 朝食を済ませたら、高校へ行く前にグレイシアのユキと散歩するのが日課になっていた。古い平屋の家並みを抜け、坂を下り、丘の下の田んぼを廻って帰ってくる三十分程度の道のりだ。
 ユキを伴って散歩に出たと言えば聞こえはいい。今朝の実態は、食後にもう三十分布団へ帰りたい私をユキが連れているようなものだ。つららのように先の尖った尻尾を振り振り、しなやかな体躯を揺らしながら私の前を歩いていく。真新しい金の光を浴びる美しい獣と、その背中の方へ、私の方へと伸びる長い影を見つめながら追いかけるうち、足は自然にいつもの散歩道を悠然と進みだした。

 辺りはすっかり冬の気配に満ちている。日に日に起き出すのが遅くなっている朝の陽ざしに、澄ました顔してやたらと突っかかってくる空気。秋雨の残した水溜りをユキが凍らせて遊んでいたのも随分前の話に思える。人間の私には分からない感覚だが、グレイシアは力みながら息を吐き出すと冷たい氷の吐息になるらしい。夏の頃は縁側に氷を張ったり手ぬぐいを凍らせてもらったりとお互いに随分重宝したが、あれは本当に今年の話だったのだろうか。ぼんやりと考えながら歩いているとすっかり後れをとって、ユキはもういつも曲がる場所から私をじっとりとした目で見つめている。気付かなかったことにして大股で早歩きした。

 立派な旧家の角を南に折れると鮮やかな色遣いが目に飛び込んできた。金木犀が匂っていた家並みからもその香りは消えて、今では肉の厚い艶めいた緑の葉の合間に赤い花をしゃんと咲かせた椿がよく目立つ。麗しい姿に目を奪われていたら、足元が疎かになって口紐を踏んづけた。結わき直そうと腰を屈めると、ユキの頭の後ろに椿の花が重なった。口紅のように赤く灯る花弁が花簪のように見えた。見惚れていると、ユキは不思議そうに小首を傾げる。写真機でも持っていたらさぞ美しい一枚が撮れたのにと思うと惜しまれた。なんでもないよと空色の毛並みを撫でて、また二人で歩き出した。



 家並みを十分も歩けば下の田んぼに出る。稲田にはとうに金の稲穂の姿はなく、しばらく放られたままの乾いた土が一面に広がっている。山々も色彩を失って、冴え冴えとした空気の中に幾分か淋しげに見えた。用水路に水は通じず、農道を行く軽トラックも見かけない。ユキの空色の体だけが瞳の中に鮮やかな色を投じてくる。そんな静かな道をぽつねんと歩いていると、だんだんと肌寒さが身に堪えるようになるのが毎年のお約束だった。だから大抵この田んぼ道の辺りでユキに止まってもらって、使い捨ての懐炉で手やら首やらみんな温めるのだ。特にかじかんだ手には直に懐炉を握りしめたい。手袋を外す瞬間は、ちょっと地獄だ。だが一度しっかり温めればしばらくの間は手袋の間までぬくぬくする。ユキはもういつもの場所に差し掛かったのに気付いたようで、私を振り返り見上げながら佇んでいる。私もそこで足を止めると、一思いに手袋を取り払った。

 だがいざ手袋を外して、失策に気が付いた。右のポケットを探る。空だ。左も探るが何もない。どうやら散歩に持ち歩いている使い捨ての懐炉を忘れてきたらしい。茶化すように朝風が吹いてきて指先に刺さり、たまらず揉み手で暖を取る。だが冷えた手同士で温めあってもさほど状況は好転しない。少し深く息を吸い、かじかんだ手のひらにほっと息を吹き掛けると、温かな感覚がじんわりと指先に広がった。夜明けの空気に曝されていると自分の吐息すらストーブの温風に思えてくる。ユキはといえば、時折首を傾げながらじっとこちらを見つめている。きっとユキには今朝は少しも寒くないのだろう。それにユキが自分の吐息で体を温めているのは見たこともないから、ひょっとすると私の悪足掻きは何か珍妙な行為にでも映っているのかもしれない。

「こうするとあったかいんだ」

 ユキの顔の前にしゃがみ込んでもう一度同じことをしてみると、ユキは真似るようにふうふうと息を吹き掛けてくれた。きっと蝋燭の火も消えないであろう、やわらかくてこそばゆい吐息だ。ほんのわずかに体熱の名残を感じる。無論手が温まるほどではなくて、けれどそれがいじらしく思えて頬が緩む。

「もっと思い切り、こうやって、ふうう、って」

 人間の私にはユキのように器用な真似はできないが、手を温める手段なら私に一日の長がある。得意になってほうほう息を吐いて実演していると、ユキは要領を掴んだのかこくこくと頷いた。どうやらもう一度私の手を温めてくれるらしい。眼差しにも熱を感じるほどの気合が篭もっている。私は表情を蕩けるに任せながら、ひょいと両手を差し出した。





 ユキは胸いっぱいに息を吸い込むと、きゅっと目をつむり、ありったけの力で私の手のひらに吹きつけた。










 それは冷たい、細氷まじりの、銀の吐息で。










 朝焼けの冬空に、悲鳴が一つこだました。