※似た名前の過去作とは関係ありません
コーヒーが好きな先輩がいると言ったね、よかったらこれを渡してくれ。店主はそう言って、袋に入った煎りたてのコーヒー豆を渡してきた。二晩ぐらい寝かせれば、熟成が進んで、もっと深みのある味になるだろう、と。
それじゃあ、私はこれで失礼するよ、と大きなリュックを背負い、アローラ、と僕に手を上げ、去って行った。
そのコーヒーを渡してから、先輩がおかしくなった。
朝に山の中腹にある宿泊施設でコーヒーを渡して、夕方山頂へ登った。途中の打ち合わせの時にコーヒーをすすっていた気がするけど、いつものことだから特に気にもかけなかった。
今思うと何となく、山頂へ向かう車に乗り込む頃から、いつもと様子が違った。いつもはにこにこ笑顔で、何かしら明るく話なんかしながら観測の準備をするのだけれど、やたらと静かで無表情で、時折何か聞き取れない言葉をぶつぶつとつぶやいていた気がする。
山頂について、陽が沈んで、観測が始まる頃には、先輩の異常はもっと顕著になっていた。観測室の片隅でだらりといすに座り、惚けた顔で、焦点の合っていない目で観測室をぼんやり眺めている。
高山病か何かだろうか、とオペレータさんが耳打ちしてきた。高山病にしても何かおかしい。とりあえずそっとしておいた方がいいだろうということにして、呻くように何かをつぶやき続けている先輩をちらりと見た。僕の後ろをついてくるメテノたちが、ぼんやり濁った先輩の瞳をのぞき込んでいた。
夜中、観測がぼちぼち進んで、少し休憩したらどうだとオペレータさんに言われた。そうします、とジャンパーを羽織り、バルコニーへ足を向ける。
ふと、机の上に置いてあった、先輩がいつもコーヒーを淹れているサーモタンブラーに目が行った。僕は何の気なしにそれを手に取って、外へ出た。
外は刺すような寒さだった。直上にぼんやりと光を放つ、青白い星の群れが見える。プレアデス星団。僕が一番好きな天体。
それをぼんやりと見上げていると、僕の後ろをついてくるメテノ達が、ざわざわと落ち着かない様子を見せてきた。
バタン、と扉が閉まる音がした。驚いて振り返ると、半開きの口からよだれを垂らした先輩が、焦点の合わない目でじっとこっちを見つめていた。
僕は驚いて、何となく持ってきていた先輩のサーモタンブラーを取り落とした。先輩は足を引きずるようにそれに近づいて拾い上げると、がくんと首が折れたように頭を反らせ、降るような星空の一点を見上げた。
先輩は天頂に輝く青白い星団にコーヒーの入ったサーモタンブラーを掲げ、あー、あー、と言葉にならないうめき声を上げる。
しばらくそうしていると思ったら、先輩は突然耳をつんざくような絶叫をあげ、目を剥いてゲタゲタと笑いながらその場に崩れ落ちた。
「I'll be on my way! Farewell to you, the Pleiades!!」
そんな感じのことを先輩が叫ぶと、突然、青白い光が天上から差してきて、先輩を包んだ。あまりに眩しくて目を覆い、もう一度開くと、先輩の姿はなく、コーヒーの入ったサーモタンブラーだけが転がっていた。
僕は膝をつき、それを拾い上げる。僕の後ろをついてくるメテノたちが、サーモタンブラーをのぞき込んでくる。あんまり近づくな、よくわからないから、と言いかけて、ふと思い立つ。
青白い星団。もらい物のコーヒー豆。つぶやく言葉。柔和な顔の老人。あと何かこうこの島の自然とか人とかその辺の諸々。
はっと顔を上げる。頭の中で、これまでの全てが繋がっていく。
全てを理解した僕が、興奮気味につぶやきながら立ち上がる。
「そうか、このコーヒー豆の鍵は、メテノ……」
その時、バルコニー入り口の鉄扉がどんどんどん、と叩かれた。
こちらの返事を聞くより先に扉が開かれる。ロマンスグレーの髪の恰幅のいい男性が、あの日会った時と同じ穏やかな笑顔を向けていた。
「君は知りすぎた。夜空の星になってもらおう」
※似た名前の過去作とは関係ありません。多分。