月と、星と、静かな波に、思考が研ぎ澄まされていく。
サザナミタウン。短い休暇を過ごす地に、ここを選んだのは正解だった。
涼しい潮風に身を委ね、波音に耳をすませる。
「bonsoir――おにーさん」
「うおっ」
余りの静けさに微睡みかけていた所に、不意に声が聞こえて肩が戦慄いた。
波打ち際に立ち、此方を覗き込んでいたのは軽薄な雰囲気を纏う青年。アロハシャツを着ている所は昼間見かける観光客と変わらないが、大きく違うのは――目元を覆う蒼のマスカレイドマスク。
「こんな時間にひとりでなにしてんの」
「人の勝手だろう」
「暇なら俺といいことしない?」
「……生憎だが俺はそのようなふしだらな誘いは」
「ちーがうってー。てかふしだらって。ウケる」
青年はけらけらと笑う。いきなり現れて何なんだ、失礼な奴だ。
「おにーさんトレーナーなんでしょ」
ひとしきり笑った青年は、俺の腰のモンスターボールを指差す。
「ね、俺とバトルしてよ」
複雑な蒼の紋様の向こうに、にやりと細められる瞳が見えた。
なんだかよく分からんが、トレーナーたるもの挑まれた勝負は受けて立つのがマナーだ。例えそれが不審者相手であろうとも。
「1対1でいいか」
「いーよ」
距離を取って向かい合う。真夜中と言えどここは宿泊地からは離れている。多少なら騒がしくしても問題ないだろう。
ボールからバッフロンを繰り出す。蹴る足に砂が舞った。
「リュンヌ、頼むよ」
青年がぽんと投げたボールからは、レパルダスがふわりと現れた。前足を舐めながら、こちらを見ている。
「いつでもどーぞ」
「……ではこちらから、行かせてもらう」
ぶんと腕を振り抜き指示を飛ばすと、バッフロンは走り出す。
「アイアンヘッド!」
飛び込んだ所を、レパルダスは颯爽とかわし姿を消す。否、バッフロンの腹側に潜り込んでいる。
「みだれひっかき」
容赦の無い斬撃。だが鍛えられた体には些細なダメージに過ぎない。
「リベンジ!」
思い切り体をねじり、弾き飛ばす。とっ、と。レパルダスはしなやかに着地した。
「すなかけ!」
その指示と共に砂が舞い上がる。
目眩ましか。的確にフィールドを利用している。だが弱い。バッフロンにアイコンタクトを取り、咆哮で吹き飛ばした先に標的を捉えた。
「そこだ! アフロブレイク!」
レパルダスは怯んで、反応が一瞬遅れた。
――当たる!
そう確信した瞬間、レパルダスが砂浜を蹴った。
空を舞う、月光に冴える紫色。しなやかに体をねじり、堕ちていく。
「つじぎり」
すれ違いざま、的確に急所をつく。
気付いた時には、バッフロンは足を着いていた。
息を飲むほどの美しさだった。
「……勝負、あったね」
「あ、ああ……」
青年はしばらくぼんやりとしていたが、レパルダスをボールに戻すと、こちらを見た。
「ね、おにーさん。また明日、ここで会お」
こちらを見つめる凪いだ瞳を、どこかで見たような気がした。
翌日の昼。耳元でバイブレーションがうるさい。寝ぼけ眼で携帯を見ると、同僚からだった。
「んだよ……」
『おー、お前さ、来年度のダイヤ改正案、あれどこ置いたよ』
「ああ? あー、あれだ、そのヤブクロンのフィギュア乗ってる棚の」
『おっ、ちょっと待ってくれ……よっしゃあ1抜け!』
「……てめえ何してやがる?」
『いやー、今いる奴らでババ抜きしたら盛り上がってよー』
「おい、仕事中だろ」
『硬いこと言うなよー、このクソ暑いのに夏休みのお子様方が毎日毎日挑んできてて、こちとら神経衰弱してんだよ。だからババ抜きをだな』
ぶち。
通話を強制終了し、ついでに電源も切って枕元に投げた。雑談するために電話してきたのかあいつは。せっかくの休暇を邪魔しやがって。というかなんだ、神経衰弱してるからババ抜きって。意味が分からん。
イライラしてきたので、二度寝することにした。
今宵の月は、全てを見透かすように明るい。
妖しい煌めきに照らされ跳ね回るコジョンドは、軽やかにこちらを翻弄する。
「ダンセ、今だ!」
ダブルチョップで的確に弱点をつかんとするコジョンドを、ドラゴンクローで受け止める。
「クリムガン、そのまま押し切れ!」
青と赤の竜はしかと大地を踏み締め、コジョンドを鋭く睨む。ぶつかり合う力は五分五分か。しなやかさだけでは無い、確かな力も備わっている。
「ダンセ、けたぐり!」
「っ、クリムガン!」
しまった。組み合う2体に気を取られていた。
コジョンドのしなやかな蹴りに、足元を掬われる――こちらの読み通りに。
「ふぇっ!?」
青年の喫驚する声が聞こえて、口角を上げる。
視界にはいくつもの、青と赤と、赤と青。
「かげ、ぶんしん……?」
「力押しだけだと思ったか? 昨日のお前の動きは覚えている。これくらいは想定済みだ」
息を吐き、あからさまに挑発してみせる。額に滲んだ汗が流れていくのが分かった。
さあ、お前はどう出る?
「……ふふっ、くふふ……」
呆気に取られていた青年は、やがて妖しく笑いだす。
「ははっ、あはははは……! いいね、いいじゃん、おにーさん!」
爛々と輝く瞳に、炎が灯るのが分かった。
「ダンセ、片っ端からはどうだん!」
青く光るエネルギー弾が分身を消していく。
しかし勢いが余ったのか、砂煙があちこちに立ち上る。
「やばっ……」
コジョンドが相手を見失った。
今がチャンスだ。
雄叫びを上げ、正面からぶつかる。『ばかぢから』だ。
「ダンセ!」
寸前で気付いたコジョンドは受け止める。やはりそう簡単には倒れないか。
「行け!」
腕を思い切り振り抜く。
凄まじい力にコジョンドははね飛ばされ、地に伏した。
俺も、青年も、肩で荒い呼吸をしていた。
「勝負あったな」
「……うん。お疲れ、ダンセ」
青年はコジョンドをボールに戻すと、そのままぺしゃりと崩れ落ちる。
「おい、大丈夫か」
俺もクリムガンを戻してかけよると、青年は自らの腕で体を抱いて震えていた。
「はは……おにーさん、何者……?」
「名乗るほどの者じゃない」
「うそ。だって俺、こんなにぞくぞくしたの久しぶりだもん」
俺を見上げる、ギラギラと輝く瞳。
俺は……この目を、知っている。
翌日の昼。眠りから覚め、寝ぼけ眼でバトルレコーダーを起動する。当時、録画を何度も何度も見返したそれは、数年前のイッシュリーグ決勝戦。
その敗者は、イッシュとカロスのエリートトレーナーの子で、このリーグの後に行方不明になった。
それ自体は特に珍しいことではない。あと一歩で優勝を逃したトレーナーが自暴自棄になり、失踪するのはよくあることだ。
ただ、あいつの、あいつのポケモンの、舞うような戦い方がやけに焼き付いて、しばらく離れなかった。
画面の中で、華麗に舞うポケモンと、真剣な眼差しのトレーナー。勝利を求めギラギラと輝く瞳、敗北を喫した瞬間の酷く凪いだ瞳――間違いない。
月と、星と、静かな波音。砂浜に座り、寄せては返す波を見つめる。
暫く後に聞こえてきたのは、最初の日は気付かなかった微かな足音。
「あれ、いた」
そして、軽やかな声。
「今日は約束してないのに」
「お前と話がしたかった。それに、俺の休暇は今日で終わりだ。明日の朝には帰らねばならん」
「ふーん」
青年は俺の隣に腰を降ろした。
ふたりでしばらく波を眺める。
何度目かの波が引いた時、意を決して口を開いた。
「気付いたんだ。お前の素顔に」
「やっぱり?」
「驚かないのか」
「おにーさん、大分バトルに詳しいみたいだし? だったら知ってるかもなって」
「最初は幽霊かと思ったんだがな」
「あはは、ひどーい」
それきり、会話が途切れる。ざり、と砂をなぞるサンダルが見えた。
「なにもきかないの」
「余計な詮索はしない。話したければ勝手に話すと良い」
ふっと頭上が暗くなる。見上げると、月が雲に隠れていた。
「……俺さあ、あの時、自分の力全部出しきったの。だから、負けたのすごいショックだったんだよね。全力出したから悔いはないなんて、言えない。やっぱり、勝ちたかったもん」
青年はすん、と鼻を鳴らす。
「辛くて、苦しくて、こころがぐちゃぐちゃになって、逃げた。世間から俺のこと隠したくて、親のこれ借りた」
マスカレイドマスクをこつ、とつつく音が聞こえた。
「……そんな物を着けていたら余計に目立つだろう」
「目立つけどさあ、仮面つけた変な男としか思われないでしょ。俺だとばれなきゃ何でもいいし」
最近の若い子の感覚はよく分からない。
「それで、なにもする気が起きないから、ここ数年色んなとこふらふらしてた。ここにきたのもきまぐれなんだよね」
「ならば何故一昨日、俺に声をかけた」
「んー、なんでだろ、よくわかんない。でも一目見て分かったんだよね、この人強いって。そしたらなんか、我慢できなかった」
思ったよりも強かったし。青年は楽しそうに笑いながらそう続けた。
「おにーさんとバトルすんの、すっごい楽しかったよ。俺……もう未練ないや」
ぽつりと呟かれた言葉に、拳を握る。
「俺は、あの日のお前の戦う姿に感動したんだ」
視界の端で青年の動きが止まる。
「俺がお前のことを覚えていたのは、お前の戦いぶりが好ましかったからだ。だからこそ、お前があの日勝てなかったのが悔しかったし、お前が表舞台から姿を消したのは、心底惜しいと思った。ここでお前と出会えて、お前と戦えたのが……嬉しい」
視線を感じる。こちらを見ているのだろう青年は、暫くしてほうと熱い息を吐いた。
「……ははは、熱烈」
掠れた声は、潤みを帯びていた。
「おにーさんてさ、まっすぐだよね。そんな風に言ってもらえるなんて、なんか得した気分」
照れくさそうに笑っていた青年は、やがて決意を固めた様だった。
「……俺も、おにーさんに出会えてよかった!」
振り切るように立ち上がって砂を払う。
「もう行くよ。ありがと、おにーさん。――adieu!」
足早に遠ざかっていく音が聞こえる。
しばらくすると、もう波音しか聞こえない。
月が、残された俺を照らし始める。
握り締めていた拳を開くと、手のひらに血が滲んでいた。
休暇が終わり日常に戻っても、時折あの数日間を思い出す。
バトルをやめるのも、続けるのも、本人の自由だ。外野がうるさく言っていいことではない。
だが、願わくばあいつと、もう一度。
そろそろ夏も終わるのに、じんわりと汗ばむ気候だ。
今日もまた、挑戦者を乗せた電車は走る。
――ライモンシティ、バトルサブウェイ。ここが俺のフィールドだ。
「おい、おい、聞いたかよ!」
同僚が慌ただしい様子で事務所に飛び込んでくる。
「すげー奴が来たんだよ! ノボリさん負かすなんていつ以来だ!?」
「うるさい、興奮し過ぎだ」
「これが騒がずにいられるかよ!? いいから来いって!」
扉も閉めずに飛び出して行く同僚の後を不承不承追う。
構内の人はまばらだ。そろそろ夏休みのお子様方も後回しにしていた宿題に取りかかる頃だろう。
「ほら、あいつあいつ! 次、お前出るだろ?あいつと戦うってことだぞ!」
同僚が指差す先にいた奴を見て、目を見開く。
ボールをぽん、ぽんと投げては受け止める、まだあどけなさが残る青年。
その強い瞳は、もう蒼に隠されてはいない。
心臓の辺りが熱くなる。激しく鼓動しているのが分かった。
「どーすんだよ、流石のお前も負けちまうかもだぞ!」
「俺を誰だと思ってる?」
「いや確かにお前はノボリさんたちも認める連勝ストッパーだけどさあ!」
「分かっているじゃないか」
さあ、決着をつけるとしよう。
久しぶりに楽しいバトルが出来そうだ。