私にとって、スバル博士は憧れの存在でした。
博士は、まるで光のような暖かい存在です。
その眩しい光のおかげで、私は存在していられると思うほどでした。
……けれど眩しすぎる光は、影を生み落としていくことに、このときの私はまだ気づいていませんでした。
幼い私は、その光を失ったときに何が起こるのかを知りませんでした。
◆ ◆ ◆
「ミニリュウ……今日も、あの方に見られていますね」
青と白の皮膚を持つ細長い胴体を私の足に巻き付け、黒い瞳でパートナーのミニリュウは困ったような視線を送ってきます。
「そうですよね。ずっと見られていては、疲れてしまいますよね」
そうしてふたりして、沈みゆく太陽を背にしてうつむく。
影法師を作るように、じっと影を見つめる。影の中に浮かぶ、シルエットを私たちは観察する。
また、そのシルエットが持つ赤い目に、私たちは観察されていました。
……私の影には、居候がいました。
◎ ◎
「――その子はマーシャドーだね」
事情を説明したら、スバル博士は簡単にそのシルエットの正体を言い当てました。
「マーシャドー? なかなか聞かない名前ですが……」
「そりゃあそうさ。なんせ。幻のポケモンだからね」
思わず影を見つめる。そんなに珍しかったのか、貴方。
「……捕獲します?」
「やめとけやめとけ。今の君たちには無理だ」
きっぱり言い切られて少しむっとする私を博士はくすりと笑った。珍しい笑顔は素敵だけど、少し複雑な気持ちになります。
「そうすねるな。そうだね……今の君らには捕まえることはできないだろう。それどころか、バトルすることすら叶わない。何故なら、君らマーシャドーに認められていないからだ」
「認められていない……」
「そう。マーシャドーは本来伝説のポケモンホウオウに挑める権利の証、『虹色の羽』を手に入れたトレーナーを見定める観測者の立ち位置のポケモンだ。つまり羽をもっていない君らでは相手にすらしてもらえないということだ。残念ながら君たちの影に潜んでいるのは特別という訳ではない。ただ居候されているだけだ。しかし、同時にチャンスでもある」
チャンスという言葉にあまり魅力を感じていない私をよそに、博士はどんどん話を進めます。
「ようは、認めさせればいいのだよ。いい機会だ。君たちの実力をマーシャドーに見定めてもらいなさい」
「はあ」
「嫌そうな顔しない。とりあえず今からトバリ山の山頂まで、いってらっしゃい」
「……今から? もう外暗いですよ」
「じゃ、朝からでもいいよ。ああ、そうそう。ちゃんと山頂に着くまで、ここには帰ってこないこと」
「えっ」
驚く私に博士は呆れながら、デコピンしてきた。地味に力入っていて痛いです。
でもデコピンなんかよりも痛い言葉を、博士はわざとらしい笑顔で突き刺した。
「じゃないと君、諦めるだろ?」
◆ ◆ ◆
なんでこんなことに、なんでこんなことに、なんでこんなことに、なんでこんなことに。
なんで、私が研究所に出禁をくらったのか。理不尽だ。理不尽だ。理不尽、だ。
博士に会えないのは、嫌で仕方がない。
「……はあ」
ほほを伝う涙をミニリュウがぬぐってくれる。そうですよね。私がこんなんじゃ、心配させてしまいますよね。
「ありがとうございます、ミニリュウ。まあようは、トバリ山の山頂に行けばいいだけですよね。はい」
移動技を持ったポケモンをパートナーにしていないので、徒歩で登らなければいけないのが億劫ですが、とにかくやるしかない。
振り向いて影を見ると、マーシャドーはやはり丸い目でじっと私たちを見ていました。
……貴方、いつ眠っているのでしょうか。見たことありません。
と、そんなことは置いておきましょう。
これは、私たちとマーシャドーの、いわゆるポケモンバトルです。
「では、よろしくお願いしますね。マーシャドー」
リュックサックを背負って、私はトバリ山を目指して歩み始めました。
◆ ◆ ◆
ホウオウ。
七色の羽をもつ、神話にも伝えられる伝説のポケモンの中では有名な存在。
けれどマーシャドーがホウオウへの挑戦者を見定める役割を持つポケモンだということを先日まで知らなかった私は、まだまだ未熟なのでしょう。
もっとも未熟さを突きつけられるのは、それからの道中だったのですが。
「――――ぜえ、はあ」
未熟さ、というよりは久々の長期外出だったので私の体力が追い付いていませんでした。
舗装されているとはいえデコボコ道は、ミニリュウを頭の上に載せているので余計フラフラします。かといってこの野生ポケモンが襲ってくる森の中ミニリュウをボールの中に戻す気にもなれず、どんどん体に力が入らなくなっていきます。
(これは、単純に考えてもマズイ事態なのでは?)
マーシャドーは相変わらず私の影の中にいます。ちょっとくらい交代させていただきたい気持ちもありますが、それは望めません。
さて、今歩いているのが森の中というのが厄介です。道はかろうじて辿っていけているのですが、辺りも暗くなってきました。山小屋まで粘ろうとしたのが間違いでした。体力を見誤った。せめてどこか安全な場所を確保しないと、危険です。
ミニリュウがちょくちょく私の意識を保とうと鳴き声をかけてくれます。ミニリュウも疲れているだろうに……情けない。
(いい加減腹を括って野宿の準備をしなければ)
意を決しリュックを下ろすと、ふと視界の端を――――光る何かちいさいものが横切ります。
「雪? そんな季節じゃ……?」
それは上から降ってきていました。ぼんやりと木々の上を見上げるとその先には、
大きな傘の頭を持つ「はっこうポケモン」のマシェードが2体、こちらを見降ろしていました。
「ミニリュウ!! 『たつまき』!」
ミニリュウが空気の渦をマシェードたちにぶつける。しかしマシェードたちは『たつまき』をそよ風のように受けている。
動揺している私をミニリュウは不安そうに見上げる。その時なんとか思考だけが追い付いた。
(これはミスだ。判断を誤ってしまった!)
マシェードは確か、フェアリータイプを持っている。ミニリュウが得意とするドラゴンタイプの技は一切効かない。なんて初歩的なミスなんだ!
「すみませんミニリュウ……あ……」
気がつくと全身にマシェードの放つ光る胞子を浴びていた。マシェードの胞子は、相手を眠りに誘う胞子。相手を眠らせて、そしてマシェードは…………相手の生気を奪っていく。
そう文献で読んでいた。
(意識が、)
知識はあった。
(遠ざかっていく)
しかし活かせなかった。
「ミニ、リュウ」
だから、
「ごめ、んなさい……」
だから……私は未熟なのだろう。
落ちていく意識の中、マーシャドーの赤い目と目が合った。
◎ ◎
そこは見渡す限り灰色の、灰色の、灰色の世界。
でもそれが当たり前の世界。
私は公園のベンチに横たわっていたらしく、痛い背中をさすりながら起き上がる。
見渡すと、見慣れた顔の人物が滑り台を滑っていた。
名前を思い出せないけど、とても憧れている人物だった記憶がある。
「おはよう寝坊助さん……君、また諦めただろ?」
諦めた、何を? そう疑問に思いつつもその視線にドキリとする。
「諦めやすいのは、悪い癖だぞ」
不思議と、その人に責められると悲しい気持ちになった。悲しさがはちきれそうになった。
今までどこかにたまっていた感情があふれ出す。
「諦めて何が悪い、私は貴方みたいにはなれない!!」
黒く、黒く、憧れが眩しすぎるほど強く出た影があふれ出していく。
「しんどくて辛いことを投げ出して、逃げだして何が悪い!! でも貴方は諦めないことを強要するのか! そうでもしないといけないほど私は邪魔か……私は貴方の隣にいてはいけないのか、認めてはくれないのか!!!」
その人は、笑いました。今までで、一番の笑顔で、こういいました。
「つまりは、君が何もかも諦めたままで、私の隣に居たくないんだろう? だったら頑張るしかないんじゃあないの? 応援してくれるあの子と一緒にさ」
それまで灰色だった世界に光る天気雨が降り注ぎます。
それは悲しみの雨でもあり、
黒い影を流してくれる雨でもあり、
そして、私の大切なパートナーが降らしてくれている雨でもありました。
「あ、ああ……あああ……!」
いつも隣にいてくれた、あのにょろっとした、半円の瞳の可愛い、私のパートナー。
雨に降られた太陽に目一杯両手を伸ばし、私はその舞い降りてくるパートナーの名前を叫んだ。
「―――――〜〜〜〜!!!!」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
目覚めると、私は泥だらけで横たわっていました。隣にはにょろっとした私の可愛いパートナー、ミニリュウが『あまごい』で雨を降らし、私の身体に着いた胞子を洗い流し、ひとりで必死にマシェードたちと戦ってくれていました。
「ありがとうございます、ミニリュウ」
――私はそれまで、雨というものが嫌いでした。虹はもっと嫌いでした。
なぜなら雨にはあんまりいいイメージをもてなくて、虹には名前負けをしていると思っていたからです。
でもあの光の雨をみた瞬間、雨がようやく好きになれました。ミニリュウのおかげです。
それから、マーシャドーのおかげです。
「ミニリュウ、『なみのり』でマシェードたちを流してやってくださいな!!」
ミニリュウはその身体を光り輝かせながら激しい水流の波でマシェードたちを押し流す。
観念したマシェードたちは森の奥へとその光を消していきました。
ミニリュウを覆っていた強い光が消えていきます。
「お疲れ様です。本当に、ありがとうございます……ハクリュー」
にょろっとからすらっとなった長い体に頭に前よりもかわいらしい眼と羽を持つ姿に、ハクリューに私のパートナーは進化していました。
その美しい姿は頼もしい限りです。
「しかし、泥だらけですね。ハクリュー、マーシャドー」
突然声をかけたのにもかかわらず、マーシャドーは私の影から出てきてくれました。
気まぐれかもしれませんが、それが何より嬉しかった。
嬉しかったからこそ私は、マーシャドーにお願いをした。
「マーシャドー! 私たちとバトルしてくれませんか! そして――」
そのお願いに、マーシャドーは無言で構えます。構えてくれます。
……私にとってのスバル博士は貴方にとってのホウオウだと思うのです。
案外、私たち似ているところがあるのかもしれません。
だから、私は、貴方に……いえ、貴方と
「私の名前はレイン! レイン・ボウ! マーシャドー、友達になってください。よろしくお願いします! いきますよ!!」
マーシャドーは掠れた甲高い声を上げて、とんでもないスピードで、私達に襲いかかってきました。間一髪の攻防を繰り返し、泥まみれになって、じゃれあって遊ぶかのごとく、いつまでも、いつまでも私とハクリューとマーシャドーは、バトルを続けました。
◎ ◎
「もう無理……目の前が真っ暗です……」
ハクリューと私は完膚なきまでに体力を消耗しきっていました。降り続いていた雨も上がり、夜どころか翌日の昼前になっていました。
このままくたばるのは嫌だなあ、と思っていたら、顔面に水が滴るきのみが落ちてきました。
雨にずぶ濡れのオボンの実でした。衛生面的に大丈夫かとか考える前に私はハクリューと共にきのみにかぶりついていました。
「あははおいしい。ありがとうございます、マーシャドー」
光指す世界で、マーシャドーの姿をとらえます。マーシャドーはもう私の影からは出ていました。歩くマーシャドーの背中を追っていくと、草原に出ました。
空には大きな虹がかかり、その虹の根元には雨をいっぱい受けたオボンの実がたくさんなった木がありました。
輝きの実がひとつ落ちます。マーシャドーは器用にその実をキャッチし、無表情だけど美味しそうに食べました。
私とハクリューもオボンの実をたらふく食べて、それからマーシャドーとはそこでお別れをしました。
別れの挨拶は出来ませんでした。マーシャドーは新たなホウオウへの挑戦者でも捜しに行ったのでしょう。
もう山を登る意味はなくなってしまいましたが、私にも意地がありました。
登り切ってやろうじゃありませんか、トバリ山。
ただし、
「山小屋まで行って風邪治してからでいいですよね、ハクリュー?」
ハクリューもちいさくくしゃみをして、同意してくれました。
◇ ◇ ◇
聞いてもらいたいこと、聞いてもらいたいこと、聞いてほしいこといっぱい抱えながら私たちは歩みを速めながら研究所に帰ります。
スバル博士は笑顔で私たちの頭を撫でてくれました。
「おかえり、よく頑張ったレイン君、ハクリュー」
「ただいま戻りました。スバル博士」
私にとっての光は、強く眩しく暖かく私たちを出迎えてくれました。
ハクリューのこと、マーシャドーのこと、トバリ山のことをスバル博士に話していると、このような時間がいつまでも続けばいいのに。そう願わずには居られませんでした。
スバル博士との別離は、それからまだもう少し先のお話しです。
あとがき
浮線綾さんのイラストを見てずっと描きたかったお話しです。
スバルポケモン研究センターの現所長のレイン所長の過去話でした。