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  [No.4134] 決意 投稿者:逆行   投稿日:2019/10/22(Tue) 12:09:25   22clap [■この記事に拍手する] [Tweet]

 はちみつ色の石畳を敷きつめて作られた家の壁は、どことはなくテトリスを連想させる。テトリスにしては同じ形のものばかりで、難易度がいかんせん低すぎるのが歯がゆい。
 家を囲むのは、黒砂糖を煮つめたような色で塗られた排水パイプ。グニャグニャ折れ曲がったり岐路が別れたりしているそれは、掌サイズのポケモンが主役の脱出ゲームステージだ。
 家の周りで自由奔放に生い茂る草花は、無機質な色の壁を鮮やかにデコレーションし、旅人に対しても暖かく町へと誘ってくれる。家と家はまるで恋人同士のように密着し、直線上には同じ様式で同じ茶色い屋根の家がいくつも続いていて、この町のいたる所でそのように並んでいるため、全体で一つの城を形成しているかの如く壮大感があった。家が連なった先には、お酒が飲めて宿泊もできる煌びやかなパブが立っていた。
 他の地方からやってきた友達は、RPGに出てくる田舎町のようだと感嘆していた。お洒落で古ぼけたパノラマがそう印象づけるという。
 ガラル地方の特徴としてよく言われているのが、古くから伝わる伝統や習慣を大切にすることだ。建物の多くは何世代にも渡って住み続けられている。ときおりマナー違反なバトルで建物の一箇所が傷つけられることはあっても、地震などが起きるわけじゃないから、一から建て直すことは少ない。
 

 私は今ポケモン研究所へと足を運んでいるが、今日は旅立ち当日という訳ではない。パートナーとして選べる子を拝みに行くだけだ。
 初心者トレーナーは三匹からパートナーを選べる。サルノリ、ヒバニー、メッソンで、タイプはそれぞれ草、炎、水という風になっていた。
 三匹の姿は、インターネットとか、ニュースとか、個人経営スーパーの折り込みチラシに描かれたイラストとか、リーグ優勝者がバラエティー出演時に晒された過去写真とか、あるいは町中で、あるいは公園で、何回か分からないが、確かに目撃を重ねていた。
 しかし、鮮明な記憶と朧気な記憶が複雑に交錯し合い、あの子達の印象がどうにもぐちゃぐちゃで安定してなかった。だから今一度三匹をゆっくり仰視する経験を経由して、偏った先入観を捨ててフラットな視点から、初めてのポケモンを決定したかった。


 研究所の扉を開けて中を見回すと、階段の中央辺りに一人の男性が座っていた。果たして男性は所謂博士と呼ばれる人ではなかった。
 その人は博士の助手の人らしかった。今朝電話をしたとき、博士は論文発表会に行かされていて不在だと溜息混じりに言われていた。あの人は、最近ずいぶんと忙しいらしい。
「やあ今きたんだ」
 そんなことを思い出している間に、助手の人が目の前までやってきて声を掛けてきた。
「あ、よろしくお願いします」
「もう旅まで後一ヶ月だっけ。早いなあ」
「私も、最近は時の流れが早く感じます」
 少しの間他愛もない話を繰り返した後助手の人は「ちょっと待ってね」と言った。赤と白のボールを三つ取り出す。モンスターボールは見たことも触ったことも何回もあるけれど、中身が空っぽではないものを見るのはなかなかなかった。
 ポケモンが潜んでいることを認識すると、どういう訳かそれは妙に緊張感を放っている風に感じた。ポケモンも生きているけれどボールも呼吸を繰り返しているように思えた。
「ポケモンを出す順番ってどうするのが良いんだろうね?」
 助手の人が薄々困ったような口調で聞いてきた。特に深く考えず「図鑑番号順でお願いします」と答えた。順番はなんでも良い気がしたけれど何か意味があるのかもしれない。
 まずはサルノリから。開閉スイッチを凹まされたボールは粒子を撒き散らし、巨大化していく中の子を外へ押し出す。粒子の消滅に従い尻尾、足、頭とその姿が顕になる。
 眼鏡を掛けた状態で日焼けサロンに行った後のような模様が描かれた子猿ポケモンは、視線が合うと右手を挙げながらニッコリと笑った。体は基本的に緑色で、小さな両手は蜜柑を食べた後みたく黄色で染まっている。尻尾が狭長でくるりとしているのがなんとも可愛らしい。頭にちっぽけな丸太らしきものを挟んでいるが、これを弄んで敵をボコボコに殴るのだろうか、という若干エグい光景が脳裏に浮かんだ。
 サルノリは絶えず笑顔を浮かべながら、尻尾をメトロノームのように一定ビートで振る。突然頭に挟んでいた殴打器具を手に持って、チアリーディング部の如くぐるぐる回転させ始めた。微笑ましい振る舞いは、エグい光景を想像したことに罪悪感を抱かせた。
 その後サルノリはいかにも撫でて欲しそうに頭を向けてきたから私はその通りにした。子猿ポケモンの柔らかい毛並みがまざまざ感じられた。けれどすぐにサルノリは時計をチラッと見て、寂しげな表情をねっとり私に向けてから、実に名残惜しそうに手から体を離した。再び笑顔を振る舞いた後自ら開閉スイッチを押して吸い込まれた。ここまで時間が十分ぴったりなことに気がついた。
「ん? ポケモンって時計分かるんですか?」
「数字は読めないと思うよ、針が一回転してるかは分かるんじゃない?」
 助手の人はサラッと解答しながら、その次はヒバニーという兎ポケモンを順番で出した。光の粒子が消滅しきってないうちに、白い塊が地面を蹴りつけ天井付近まで跳ねた。その勢いで飛び散った粒子がこっちまで来て、別に痛くも熱くもないが反射的に足を避けた。元気のある子だなあと思った。
 ヒバニーの鼻にはガムテープらしきものが貼られていた。単なる模様かもしれない。目は小さくて米粒のようなのに、足はとても大きい。一緒に靴屋に行ってぴったりなサイズの靴を探したくなる。漂白剤を頭からかけられたかのように全身は真っ白。耳も大きくて聴力に優れていそうだ。なぜかヒバニーは全体的に「左右対称」という印象を受ける。他のポケモンもだいたいそうだけど。
 地上に着地した後も小刻みに飛び跳ねていた。ヒバニーは上を向き本当に軽く火を吹いた。線香花火の先端めいた球がヒラヒラ降りる。「炎系は危ないからここではちょっと」。そう窘められて束の間しょんぼりした後、代わりに大足を活かした蹴り技を披露した。足の裏にもガムテープが貼られていた。
 やはり十分経過したら自主的にボールに戻った。
 そして三匹目を待ち構える。お次は水トカゲポケモンのメッソン。光の粒子が完全消滅するまで今度のポケモンはからっきり動かない。
 メッソンは酷く怯えた表情をずっと浮かべていた。私の中のサディズムが少しだけ蠢く。真っ黄色な鶏冠は大きく部分的なダイマックスが発生している。顔はおにぎりに近い形状をしていて眺めていて和むポケモンだ。足がガニ股のような開き方をしていて、そこに関しては吹き出しそうになってしまう。頭部には髪型めいた模様がついていており、まるで7:3分けのようだけれど、この配分は5:5分けだろう。5:5分けという髪型はファッション雑誌に載っていないが。
 絶えずニコニコしていた二匹とは対照的に、目から涙を零しそうな雰囲気をその子は出し続ける。ここまで来るとサディズム心に対して沈黙を促さざるを得なくなる。「いや、この女の子は危険人物じゃないから」、そのように言われても全く表情を変えない。危険人物認定された私は痺れを切らし、「おいで、おいでー」と手招きをしてみた。
 ようやく近づいてきたメッソンは恐る恐る、水タイプの技である泡を軽く吹いてくれた。窓ガラスから溢れる光に反射しキラキラ輝く美しさに見惚れた。メッソンの体にそっと触れてひんやりした気持ちよさを堪能した。だが既に十分を超えていたためか、慌ててメッソンは一礼しボールへ収納される。私は少々もやもやして虚しくなった。
 

 以上で三匹と接触するミッションをクリアした。みんな可愛らしくて活き活きしていて、本当に幸せな時間を過ごせたと思った。
「どうだった?」
「はい、とっても楽しかったです。ありがとうございました」
「まあ、後一ヶ月もあるんだし、じっくり決めると良いよ」
 ポケモン達が律儀に即家まで帰ってしまったため、時間がそれなりに余ってしまった。それもあって助手の人から、初心者用ポケモンが初心者向けたる理由を教えてもらった。
 サルノリ、ヒバニー、メッソンは、当然一匹ずつしか用意されていないという訳ではなく、旅立つ子供の分だけ何匹ずつかいる。研究所ではみんなと仲良く遊ぶのみならず、主人と気難しい関係を築かないためにはどうすべきかなど、多種多様なことを学習していく。
 ポケモンを管理する上で苦戦を強いられるのが、レベルを上げないこと。ポケモン達はレベル5から成長させてはいけない。レベル差があればトレーナーはレベルの高い子を選んでしまい、公平性が崩壊する。
 これが簡単なようで意外と難しく、じゃれ合いもどきの戦闘を目の届かない所でやられると詰む。トレーナーの元に届けるまで、勝手きままな行動は慎ませざるを得ない。
 こうして聞くと、いかにも温室育ち感満載に思える。隔離された空間で清く正しく育てられているような印象すらうっすら抱く。それは確かにその通りだねと言っていた。
 ただ一応、自然環境の厳しさみたいなことも、心の片隅にさりげなく叩き込まれていた。草むらで背後から獰猛なポケモンが忍び寄ってきた場合、勝手にボールから飛び出して戦うよう教えられている。号令がなくても、時にはボールから出て良いこともあると。
 研究所内ですくすく成長を遂げるポケモン達。外をお散歩したりなどは適宜しているにしろ、ここが世界の中心に値することは間違いなかった。
 旅に出れば研究所が世界の中心ではなくなる。今はこの世界の中だけが価値観の全てかもしれない。けれど旅立てば、ここ以外の世界を数多く見渡して他の価値観も蓄えていける。それは私も同じことで、だからこそ出発の日が楽しみなのだ。
 名残惜しいけれどそろそろ帰宅する準備を始める。次にここの空気を吸うのは出発の日だ。
「今日はありがとうございました」
「どうもどうも、っていうか博士いなくてごめんね」
「いえいえ、あの人忙しいし」
「博士、君が旅立つときも不在らしいんだよねえ」
「あらら。それは残念ですね」
 
 
 掌に残っている柔らかい感触が淡くなっていくのを感じつつ、夕日に照らされる町並みに潜り込んでいく私は、次第に日常へと帰還する。後一ヶ月で日常と非日常が反転する事実がどうも実感沸かず、落ち着かない心持ちを抱えるのはもはや自然だと納得した。
 実家の玄関を潜った私を、お母さんのポケモンのジグザグマが迎えてくれた。昔お母さんが一つだけ取れたジムバッジは、素朴かつきらびやかに玄関の靴箱の上に飾られていた。
 駆け寄ってきたジグザグマに対して私はただいまーと日常的に挨拶を交わす。人懐っこい性格としか思えないそのポケモンは、生物上は気性の荒い方と認定されている。ジグザグマはガラルとその他の地方で、アイデンティティがそれぞれ異なる。他地方の子は、体毛も茶色で目の周辺模様は星型ではなく、やんちゃに舌をベロリと出す頻度も少ない。
 私はジグザグマを撫でた後一先ずリビングへ入っていく。仕事から帰ったお母さんがキッチンで立っているいつもの光景があった。
「あらおかえり、今帰ったの?」
「あ、うん、ちょっと遅くなった」
「あのさあ、ちょっと気が早いんだけど」
そのような前置きがあっても、何をいきなり素っ頓狂なことを言うのかと、憤りたくなる発言をした。
「最後の晩餐って、何が良い?」
「さ、最後の晩餐って何?」
「あなたが旅に出る、一番最後の晩ごはんのこと」
 最後の晩餐とはキリスト教の聖書に出てくる、キリストの最後の食事の描いた絵のこと。十字架に架けられる直前の食事で有名だ。しかし私は今後処刑される予定は勿論なかった。
「なんだ。それならそうって言ってよ。何最後の晩餐って。私、死ぬ訳じゃないんだから」
 私はこう解釈した。お母さんは私と逸れるのが悲しくて訳の分からぬ冗談を口走ったのだと。最後の晩餐というのはいささかブラックジョークとしてもバランスを欠いているし、お母さんらしくない息の詰まる発言。
「ごめんごめん。んで、何が食べたい?」
「私は何でも大丈夫だよ。お母さんが作りやすいもので良い」
「えー、本当になんでも良いの?」
「うん、私あんまり好き嫌いとかないしお母さんが作ってくれる物ならだいたい好きだから」
 お母さんの発言を薄暗い方向に曲解した私には、食べたい物をリクエストする傲慢っぷりは残っていない。離れ離れになるのは私も辛いが、お母さんは更に辛いと圧倒的に判明していた。私は旅に出る高揚感で寂しさを幾分揉み消せるが、見送る側はそれが不可能だ。
 自分の部屋に入って風通しを良くするために窓を開ける。高揚感と寂しさを齎す月の光が部屋に入った。私は今後の命運を静かに祈りつつ、その光を吸収することをイメージして、最大限まで手を広げ体全体で光を浴びた。神秘的な月光が体内に流れ混んで、血の巡りに淀みをなくして健全にしてくれる。そんな少々自己泥酔に浸っている私は、ガラル地方のとある田舎町で暮らしているいたって平凡な一人の女の子である。


 私の人生の第二部がスタートするまで残り二週間と迫っていた。淡々と準備を進めていた状況の中一人の友人から連絡が届いた。私が町を離れる前に少し時間取ってだべりたいらしい。友人はアイラという名前だった。
「それにしても今日、なんだか蒸し暑いよね」
 アイラの部屋に上がって座った後の第一声。気まずさを隠している声質なのが一直接に伝わる。そして今日はそれほど暑くない。
「なんか飲み物冷蔵庫から取ってこようかって言おうとしけれど、家の冷蔵庫お酒と紅茶しか飲み物ないわ。近所のスーパーで飲み物買ってくるね」
「あ、それなら私も行くよ」
「え、なんで、お客様なんだから座ってて。それが普通じゃない?」
「いやでも、なんか悪いよそれでも。っていうかワザワザそんな飲み物買いに行かなくて良いよ」
「気にしないで。これから一日に何キロも歩く生活が始まるんだよ。今から歩いていたら寿命がくるよ」
「いや、別に寿命は減らないんじゃない?」
「減るよ。という訳で、自分が買ってくるね」
「……分かったじゃあ、お願いしていい?」
「んで、飲み物何が良い?」
「私は、なんでも良いな。とりあえず冷たければ」
「本当になんでも良いの?」
「うん、得体の知れない飲み物じゃなければなんでも良い」
「分かった、じゃあ買ってくるね」
 数分後彼女はサイダーを二本購入して帰ってきた。
「はい、これ」
「ありがとう」
 キャップを開け気まずくて乾いた喉を私達は一気に潤す。ようやく本筋的な話が可能になった。
「いやあ、しかしもうすぐお別れですかあ」
アイラとはおよそ六年の付き合いになる。彼女は元々ガラルではない他地方で暮らしていた。引っ越しの理由は親の仕事の都合など、いたって平凡なものだった記憶があった。
「もうあれだね、六年の付き合いだもんね」
「うん」
「そういえばさあ、あの子に今年はもう会いに行った?」
「それがね、ちょうど来週行く予定なんだよ」
「あ、そうなんだ。半年前はどうだった?」
「半年前は……まあ、うん、元気そうだったよ」
 アイラには以前、パートナーとなるポケモンがいた。いつも傍らにいたというそのポケモンは、今や尋常でなく離れた場所に身を置いていた。他界したという表現ではなく、元の地方で野生として日々を生きている。なぜガラルに連れてこなかったか。理由は、愛や友情とは何ら因果関係はなかった。
 ガラルにはポケモンが好きな人からすれば、割と酷なルールが存在した。それは、他地方を中心に生息するポケモンの内の一部は、ガラルの空気を吸わせていけないというもの。
 指定された外来種のポケモンを持っていて、なおかつガラルに引っ越す決断をするなら、航空や船場でお別れの挨拶を交わす必要がある。野生に帰すか知人に預けるかは選択できるが。彼女ひいてはその家族は、前者を選んだ。一言、二言くらいしか喋りかけられた経験のない見ず知らずの人の傍らで日々を送るより、不安定ながらも野生で仲間に囲まれて生きた方が良いという判断。当事者であるポケモンもそっちを望んだゆえに、その選択に全く悔いはないらしい。
 アイラは今でも年に二度ぐらいは父親からポケモンを借りて、野生で元気にやっているかどうか草むらまで確認しにいっているという。帰国費用に頭を悩ませながらもそれを継続するのは、その子に対し後ろめたい感情が未だねっとり続いているからだった。そして、定期的に顔を見せなければ、いつか自分のことを忘れてしまうのでは、という私利に凭れた危機感もあると本人は言う。
 そもそも、なぜ連れてこられない子がいるのか。往々にしてガラルのポケモンは在来種、他地方のポケモンは外来種と呼ばれている。ガラルに入場した外来種が人との絆を破り、草むらや洞窟に逃げ出してしまえば、生態系というデリケートな存在を著しく狂わせる。環境に適応し繁殖し続けないとそうならないが、可能性は決して低くはないし、幾つかの酷い前例が漆黒に輝いていたため、ガラルへの入場を制限せざるを得なかった。人々の生活にまで被害を齎す例もあり、仕方ないといえば仕方ないと言えた。
 とはいえ、そのルールの影響で苦汁を飲まされる人やポケモンがいるのもまた事実で、一方を守れば一方が悲しむという運命は、塩っ辛い涙としてガラルの風に溶け込んでいる。
「やっぱり、納得いかないよね。自分が大切に育てたポケモンと別れるってなったら、私だったら怒るよ」
「うーん、でもしょうがないよ。外来種持ち込み放題になったらガラルの秩序が乱れるよ」
「秩序? カロス地方のこと?」
「まあねえ、でもやっぱりガラルに連れてきたかったなあっていうのはあるかもね。なんだかんだね」
「そうなんだ……」
 切ない表情を浮かべる彼女を目に通したとき、胸の奥がチクリと痛むのが確かに分かってしまった。ガラルに来てからずっと独りぼっちであり、公園のブランコに座って佇んでいたアイラの姿が、唐突に思い起こされる。パートナーと別れた傷が癒えてなかった頃の彼女は、目を背けたくなるほど辛そうだった。
 アイラを孤独へ逆戻りさせるのはいささか罪悪感が伴う訳で、そのことは自分の中でなるだけ伏せておきたかった。アイラはもう幼くないし心配は無用かもしれないが。
「ねえ、アイラ」
「何?」
「旅に出てからも、ときどき電話とかするからね」
「え、あ、うん。ありがとう」 


「在来種と外来種ねえ、また面倒くさいこと聞きにきたなあ」
 次に研究所に来るのは出発の日だ、という格好つけた宣言を撤回することには微塵も躊躇がなかった。今日この日研究所の扉を潜った私は、いの一番に助手の人に在来種、外来種のことを聞き出したのだった。
 少しでもアイラの心を癒やす建設的な意見が欲しかった。あわよくば、パートナーをどうにかガラルに連れてくる方法を発見したかった。
「え、そんなに面倒なんでしょうか、この話」
「面倒というか、大々的に話すと色々な方面から突っ込まれる可能性があるというか。つまるところあまり大きい声では話せないんだ」
 そう前置きしつつ話を始めてくれるこの人は優しい。ときおり不安げな表情をありありと浮かべていたけれど。
「在来種か外来種かの基準って、いかんせん曖昧過ぎるんだよ。区分が整理整頓されていない」
 助手の人からすれば衝撃的発言をしたつもりなのだろうが、自分の脳みそでは一度耳に入れただけで内容を把握することはできず、口元に手を当てて驚きを表現するのが無理だった。
「整理整頓されていないってどういうことですか?」
 そこがからっきり呑み込めない。在来種は昔からガラルに生息しているポケモン。外来種は昔姿を現すことがなかったポケモン。明確に定義づけられているとしか思えない。
「在来種は昔からいる生物のことだって普通思うじゃん」
「はい」
「まあその通りなんだけど、その『昔から』っていうのがどこのラインなのか、定義がぐっちゃぐちゃになってしまっているんだよ」
「どこのライン?」
「例えば、17世紀までイッシュ地方で暮らしていて、18世紀にガラル地方に移動した生物がいるとする。この場合ガラルの在来種だって言えると思う?」
「うーんどうなんでしょう?」
「18世紀以後を基準にして考えたら外来種だけれどそれ以前を基準にしたら在来種になる」
 ようやく話の本筋が見えてきたが、まだ納得はしていない。
「え? そういうのって偉い人の中で決められてないんですか? 何世紀を基準にして分類しようみたいな」
「決まってないんだよなあこれが。具体的にどれくらい過去まで遡って外来種として扱うのか、定義がバラバラなんだよ。ちゃんと基準を決めましょうという動きは一応あるけどね」
 私は、つい思ったことを口走ってしまった。
「駄目じゃないですか」
「う、うん。ずいぶんはっきりと言ったね」
 若干の気まずい雰囲気が研究所に流れ込む。
「確かに駄目だけど、でも今更基準を決めようにも収集が中々つかないんだよね」
「あの、言いにくいこと言っていいですか?」
「言っていいよ。さっきの『駄目じゃないですか』発言よりも、言いにくいことないと思うから」
「特に明確な基準がない中で外来種かどうか決めたら、批難の声が殺到すると思うんです」
「うん、実際めちゃくちゃ殺到してるよ。たぶん、君が想像している以上に殺到してる」
「具体的に、どういう批難の声があるんですか?」
「例えば、希少性の高いポケモンっているじゃん」
「はい」
「そのポケモンを在来種って認定すると『希少性高いから在来種ってことにしたんだろ!』って言われたりとか」
「ああ」
「後は、あれだね。人間に対して危害を加えやすいポケモンを外来種にすると、逆にそのポケモンを擁護する意味合いの批判が来る」
「どっちにしても、色々言われるんですね」
「そりゃあ言われるよね。だって、自分のポケモンと別れるかどうかが懸かっているんだから」
「なんだか、何が正しいのか分からなくなってきました」
「正直、私も分からなくなってきたよ」
 助手の人の話を全て呑み込むと、アイラのパートナーだったあの子は、外来種ではない可能性すら抱えていることになってしまう。
 明確な定義に沿っている訳ではないのに、ガラルへ入場を許すべきか決定されてしまう。それにより悲しみに浸るポケモンや人がいるのは、どうしても受け入れにくかった。
 一方で、在来種か外来種か決定を下す人にも、同情の目を向けざるを得なかった。人々の悲壮をどこに放り投げるべきか考える仕事。大人数で徹底的に討論しないといけないし、時間もそれなりに有するのだろう。
 しかしどんなに熱を帯びて考え、全くスキの無いように決定していったとしても、救われる人がいて、悲しむ人がいるのは、避けようのないこと。救いと悲しみはシーソーだから。シーソーとはそういうものだから。 


 あれよあれよという間に時間は出発の前日まで直進する。お母さんの言葉を借りるなら、今日この日最後の晩餐の儀式を行っていた。あのときは衝撃的だったが、しかし今思えば最後の晩餐は「最期」ではなく「最後」な訳で、あながち表現として間違いはないかもしれない。お母さんが腕に寄りをかけて料理を作ってくれたのだから、今更些細な表現なんて別にどうでもよくなっていた。
 最後の晩餐を食べているとき、側でジグザグマが一緒に食べていた。きちんと自分の皿に盛られた分を食べて私の物は横取りしないこの子は、やはりどう見ても温和な性格にしか思えず、しかるべく育成した母親の努力が見えてくる。お母さんはジグザグマしかポケモンを持っていないし、ジムバッジも生涯で一個しか得られなかったが、立派なトレーナーには違いなかった。
 ガラルのジグザグマは本来好戦的な性質で、人やポケモンに対しても突進したりして挑発することが多い。一方外来種のジグザグマは基本温厚な性格で、野生同士での争いも比較的少ないのが一般的。性格の変貌を遂げた背景には、ガラルより食べ物や気候に恵まれたからというのがあった。温厚な性格が人々に好かれたからなのか、いつしかガラルではない方のジグザグマが原種みたいなイメージで語り継がれている。ジグザグマがガラルからやってきた外来種であると思っている人はほとんどいないのだ。まさしくこの間助手の人が言っていた通り、在来種か外来種であるかのなんて人の好みで容易く移ろうその典型的な例と言えた。
「ねえ、お母さん」
「どうしたの、急に?」
「救いと悲しみって、シーソーだと思う?」
 一緒に晩ごはんを共にする最後の時間に、こんな抽象的かつシリアスなことを、私はミートパイを口に入れながら尋ねたのだった。唐突に意味不明なことを言う癖は、私と母親は似ている所なのかもしれないと思った。
「え、どういうこと?」
「誰かを救うためには、誰かを犠牲にしないといけないって思う? そう思いながら選別するのって、間違っていると思う?」
 お母さんは旅立ち前で情緒不安定な娘の気持ちを汲み取ってくれたのか、特に訝しい顔もせずスラスラと話を進めてくれた。
「そうね、なんかフレア団のこと思い出すわね」
「フレア団? ああ、あの事件のこと?」
「私が生きていた中でも大事件だったからあれは。あの日の恐怖は今でも胸に焼きついているわ」
 アイラもちょろっと話題に挙げていたけれど、カロス地方ではかつて、カロスの秩序というものを乱そうとしていた集団がいた。まだ幼い頃のことなので記憶が朧気だが、彼らは限り有る資源を平等に分配するべく、生物の数を減少させようとしたのだとか。俗に言う大量虐殺。幼い頃の私の視点から見てもそれは明らかに狂っていて、そんな行為を道理にかなっているかの如く世間に知らしめたのだから恐ろしい。
 私の身の回りでは、大洪水が起こりもしないのにノアの方舟に乗せる者を選別している、と嘲笑う人が多かった。仮に大洪水の到来を予言していたとしても、独り善がりに救済する人を選び取ってしまうのは、神に対する反逆というべき軽薄な悪行でしかなく、誰一人彼らの価値観に共感を示す人はいなかった。それは、当たり前のことだった。
 けれど少し穿った見方をすると、外来種をガラルに入場させないことも同じなのでは。生物を主観的にこれは良いあれは駄目と選別し、生態系の保守を目指すことはある種、フレア団とやっていることが近いとも言えた。
 しかし一方的に殺戮を行う訳じゃないし、彼らのように行き過ぎてる行為はしていない。ガラルへの入場を制限しているだけで、この世界から生物を消滅させている訳じゃない。やむを得ず駆除してしまう事態を避けるためにもちゃんとしたルールを作り出している訳で、むしろ正反対なのかもしれない。
「フレア団って、赤い服着ている集団だよね。なんかあまりにも酷い思想だよね。フレア団の人に全然共感できないというか。いくらなんでも、大量虐殺はやりすぎじゃない?」
「フレア団のボスは最初から大量虐殺しよう企んでいた訳じゃなくて、最初は純粋に平和を願っていたんだよね。でもいつも間にやら、考えが成長し過ぎちゃったみたいで。争いのない美しい世界のためには、人間の数を減らして、争いの道具にされることのあるポケモン達を消し去らないといけないって、極端な発想になっちゃったみたいなの」
「……」
「彼らの根本的な思想はそこまでおかしくはなかったと思う。誰かを救うためには、誰かが犠牲にならないといけない。そうなんだけれど、」
「行き過ぎちゃったんだね……」
「でもね、フレア団は企みの途中誰かに食い止められ、最終的には大量虐殺をしなかったのよ」
「ああ、確かにそうだったね。旅してる子供達に食い止められたっていう」
「なんで食い止められたのか、そこまでは覚えている?」
「覚えてない」
「普通そんなありえないじゃない。悪の集団の企みを、子供達が食い止めてしまうなんて」
「うん」
「これはお母さんの憶測も入るけど、なんだかんだフレア団のボスは、大量虐殺を躊躇っていたと思うの。大勢の命を奪うなんて、迷いもなくすんなりできる筈がない。だからね、自分を追いかけてきた子供達が自分を止めるスキを、あえて作っていたと思うの」
「え、じゃあ、わざと止めさせたってこと?」
「そう言うと、ちょっと違うような気もするけど、でももしかしたら、そうなのかも。心の中ではずっと、暴走する自分を止めてくれる人を探していたのかもね」
「そうなのかなあ」
「他人を選別するって、本来神様のやるべきことだもの。それを人間が肩代わりするのは、本来は荷が重すぎるのよ」
 お母さんが言ったことを咀嚼しながらすっかり冷めてしまったフィッシュアンドチップスを食べた。思想を巡らしている内に頭がパンクすると危惧し一先ず考えるのを中断する。
「それにしても、フレア団を食い止めた子供達ってすごいよね。カロスの未来を掛けて戦ったんだよね」
「ああ、それは、そうよね」
「子供達だけにそんな責任背負わせなくても良かったのに……。相当しんどかったと思うよ。自分達が失敗すればみんな死んじゃうって思ったら、私だったら一歩も動けない」
 フレア団もボスが懊悩したのも分かるけど、子供達の方だって相当葛藤したと思う。
「確かにその子達は辛かっただろうね。まあでも、メンタルが強かったのよきっと。それにね、重さはそれぞれ違うけれど、旅するトレーナーはみんな何らかのしんどいものと戦っているわ」
「……」
「私だって、そうだったし。みんな色々あるのよ」
 
 
 そして出発の日の朝、私はアイラと最後の話を交わした。
「……あの子どうだった? 元気だった?」
「うん、元気だったよ」
 アイラはあの後予定通り、かつてのパートナーと何度目かの再開を果たした。
「元気だったけれど……もう今後は会いにいかないつもり」
「えっ、どうして?」
「あの子もう野生にすっかり溶け込んじゃって、誰がどう見ても幸せで満ち足りた状態なんだよね。むしろ私がいくことによって幸福に淀みが生まれるんじゃないかと思った」
「……」
「私があの子達の住居にお邪魔すると、当然他のポケモン達は警戒する訳じゃん。それで毎回あの子が、『この人間は危険じゃないよ!』って周りに訴えてくれるんだけども。ようするに邪魔なんだよね、私って」
 言葉面だけ見るといかにも悲願的だが、決して彼女は暗い表情を浮かべていなかった。二度と会わないという決断に後悔は見当たらない。
「あの子はもう、私とは別の世界で、楽しく生きている」
「別の世界……」
「だから、何も問題ないって思う。会いに行かなくても大丈夫。後お金も結構かかるしね」
「アイラは寂しくないの? もう会えなくても」
「ん? 別に寂しくはないよ。もう忘れることにするから。忘れるのが一番良いんだよ」
 アイラがそのように考えているのを聞いて、私の考えていたことが陳腐化されていることに気がついた。外来種がどうとか、選別がどうとか、そういう問題にはとっくにけりをつけて、受け入れて前へ進んでいるのだ。
「そうか、アイラがそんな風に考えているなら、きっと大丈夫だね」
「それじゃ、そろそろお別れの時間だね」
「うん、そろそろ行かなきゃ」
「じゃあ気をつけてね」
「うん! ありがとう!」

 
 明るい感情とまでは言えないが心に淀みがなくなった状態で、私は旅立つことができた。
 錆びついた金属の匂いがやんわり鼻まで届く研究所の扉を、私はいささか緊張した面持ちで開けた。研究所の中は閑散としている。無数の窓から零れた日差しで温められた研究所を、本棚に詰められた息苦しくなるほど分厚い本が真摯に冷やしながら空気を整える。
 研究所の扉を潜った私は助手の人とご対面し、これからの決意をちょっとだけ語る。
 研究所の長机の上にはあの三匹の姿があったのだった。窓ガラスから零れた光に反射され、三匹の体がキラキラ輝きを放っているようで、それが私に悲壮のない緊迫感を与えてくる。そんな状況下、私はこのように言われたのだった。
 さあ、好きなポケモンを選んで欲しい、と。
 選ぶ……?
 たった今自分が置かれている状況を完璧に理解してしまった。
 自分は現在選別する側の立場であるということ。サルノリ、ヒバニー、メッソンの中から、私はパートナーを選び取らなくてはいけない。ポケモン達の運命を根本から変えようとしている。在来種かどうかを思案する人達同様、ポケモンを選別しようとしているのだ。
 私はこの数週間ずっと『選別』についてグルグル思いを巡らせ、色んな人を哀れんだり、哲学の尻尾みたいなのを掴もうとしたり、ひどくやるせない結論に頭を抱えたり、それもまた綺麗な川の流れだと開き直ったり、とにかく懊悩に懊悩を上書きし続け考えた。しかしここへきて私は選ぶ側へと覆ってしまった。
 選ばれた者は喜び、選ばれなかった者は悲しみに明け暮れる。ポケモン達の感情を私が大きく転覆させてしまう。
 研究所に住まうポケモンは初心者トレーナーに選んでもらうことを目標に歩んできた。そんな彼らを残酷にも蹴落としてしまう。
 もちろん私がどうした所で世界がどよめく訳ではないし、ここにいるポケモン達以外のポケモンや人に何ら影響は及ぼさない。スケールは著しく小さいのはその通りだ。
 けれどこの子達にとっては、トレーナーに選ばれるかどうかが『世界』の全てなのだ。だから……。
 
 
 本来希望に満ち溢れた未来を暗示する筈のピカピカに磨き抜かれたボールに、鬱屈した感情に支配された自分の指紋をつけたくないから、私は鞄の中にしれっと隠しておいた。
 ガラルの空気がここまで美味しくなく、ほんのりと舌に苦味を感じるのはいつ以来か。ヤスリのついた乱気流みたいなものに心臓が掻き込まれる。ズキズキと痛む頭から出された指令が眼球に行き渡り、お洒落で古ぼけた景色が悲壮感漂う灰色で染まる。体内に蓄積された負の感情は確かに体を重くしていて、まるで私は地面に押し付けられている感覚を覚え、靴の裏からコンクリートの硬さと冷たさがありあり迫ってくるのだ。
 極めて安直な言い回しを採用するなら、私は傷つけたくないのだ。誰一人として。けれど、私は生来八方美人という訳ではないし、恥晒しの如く媚びを売っていたつもりもない。
 私はただ他人に関わる選択を避けたいだけだ。それは、他人に責任を押し付けたいための身勝手な発想か。利己的な人間が考えることか。
 しかし、そのように行動した方が、周囲から謙虚で思いやりのある人間だと思われるのだ。仮にそう思われるのが上っ面だけだとしても、特に嫌われたりすることなんてないし、何も問題は起きなかった。周りの人はみんな良い人だし。
 少し言い訳じみた感じになりそうだけど、決して今まで私は別に間違っていた訳じゃなかった。それは胸を張ってちゃんと主張できる。
 けれどトレーナーになるなら否が応でも、ポケモンの運命を大きく狂わせる必要がある。
 私の選択次第で、誰かが喜び、悲しむことになる。
 少しばかり自己嫌悪するのに酔い過ぎているかもしれない。そんなに深刻に懊悩することではないと、嘲笑う人も多々いるだろう。誰かが喜び、悲しむなんて当然の摂理だ。自分は、自分が良いと思う人、見える範囲の人を、全力で喜ばしていけば良いのだ。
 けれど選ばれなかった者は「全員は救えない」と悟った口調で嘆かれたとき、本当に心の真髄から、納得感を得られるだろうか。心の表面部分では「これは仕方のないことだ」と、大人びた風の態度で拳をそっとおろしていく。しかし、そう落ち着かせつつも、やはりどこかでは恨みの感情を抱いていたり、納得いかない部分があるのかもしれない。「正論だけど、だからってずっと無視し続けて良いものじゃないよね」なんて言われたら、もはや私は悪役扱いされる他ない。そうだ、私は悪役扱いされたくないのだ。
 救われない者に対し厳しく突っぱねることを積極的に肯定することが可能なら、どんなに楽になれるのか。選ばれる側の辛さも痛いほど感じ取れるのは、紛れもない害悪だ。
 トレーナーは神様ではないのに、なぜポケモンを選ぶ権利が与えられているのだろう。
 権利があると明確に証明できるなら、本当に私は楽になれる。高貴な神様になった気分で容易に杖を振り回すことが可能になる。
 けれど、証明なんてできやしない。
 私の瞼に現在浮かび上がってくるのは、研究所であるポケモンに人差し指を向けたとき、他のポケモンが悲しい感情を一瞬だけ浮かべた後、すぐに笑顔に戻して拍手までしてくれた、あの瞬間。ああ、ポケモンはいつだって純粋で慈悲に溢れて、それでいて、自分の汚さをくっきり浮き彫りにしてくる存在だ。
 研究所からトボトボ出ていくときも、私の姿が見えなくなるまでずっと手を振ってくれた。指の先が光に反射してとても眩しく見えた。辛い感情をどこまでも押し殺して、楽しく旅を始められるように尽くしてくれた。彼らを思い出しては罪悪感で満たされる。
 みんな選ばれたいから最初に出会ったとき、活き活きした様子を私に発表したのだ。 
 今更、そこに気がついてしまった。アピールタイムは一匹十分までと彼らの間で約束を交わし、三匹で公平に競い合っていたのだ。
 今すぐ彼らのいるところに戻って、「別にあなたたちのことは嫌いじゃないんだよ」って全力で慰めたい。そうすることで私が慰められたい。
 どうして私は研究所であんな真面目な顔をしていたのか。馬鹿なのじゃないかと思う。もっとおちゃらけた雰囲気を醸し出すべきだった。その方が少しでも私の人差し指の重みを減らすことができたかもしれない。あんなに真剣な表情で選んでしまったらポケモン達は、「この人間に選ばれるのが正しいんだ!」と絶対に駄目な誤解をする可能性がある。「私に選ばれなくても傷つく必要はないよ」と全身で訴える努力をすべきだった。


 こんな所でこの表現を使うと少し滑稽になるのが億劫だけれど、私は必死の形相で鞄からスマートフォンを取り出したのだった。その際赤と白の光り輝く物がダイレクトに視界に入り、慌てて目を背ける。鞄のチャックは締めず、電話を一刻も早くかけることを優先。電話する先は無論決まっていた。
 電話するとは確かに言っていたけど流石に早すぎるでしょまだ一時間半しか経過してないよ、という彼女の第一声がスマホから聞こえた。私はここまで激化につぐ激化を繰り返した辛辣な思いをつらつら吐露した。ときおりアイラは「うん?」という訝しげな声を挙げ、私は危うく背筋を凍りつかせかけた。彼女がどこまで共感及び反発した感情を育ませているか推測することができなかった。
 一通り自分が感じていることを話した後、アイラが「そうかあ」と言いつつゆっくり話し始める。
「すごく悩んで辛い思いをしてるっていうのは分かるよ」
「うん」
「でもそこまで頭を抱える必要性は分からない」
「……」
「あ、うんごめん。いやだって別にあれじゃん。選ばなかったポケモンだっていずれ、他の初心者トレーナーの元に届くんでしょ」
「確かにそうだけど。でも初心者トレーナーとポケモンの数がぴったり合う訳じゃないから、誰からも選ばれない子は出てきてしまう」
「……そっか」
「このポケモン在来種か外来種か。選別する人と私同じことをやろうとしていたんだよね。今更それに気がついてしまって、だいぶ精神がぐちゃぐちゃになっちゃって」
「外来種の件はしょうがないよ。選別しないと、ガラル地方がめちゃくちゃになってしまう。そして、トレーナーがポケモンを選別するのだって同じようにしょうがないこと。だって全てのポケモンをゲットすることなんて、ポケモンマスターでも不可能なんだから」
「うん、しょうがないことだって言うのは分かる。でも、そう分かっていても、どうしても罪悪感がすうっと消えていかないんだよね」
 少しだけ沈黙が続いてその後にアイラが再び話した。
「誰からも選ばれなかったポケモンがいたとして、そのポケモンは確かにその瞬間は悲しむと思う。どうして自分がなんだろうって、泣きながら床を叩くかもしれない。私のパートナーだって、そうだった」
「……」
「でも、選ばれなかったポケモンがその後幸せにならないとは、限らないと思う。ガラルに入れないポケモンも、一緒に旅をすることがないポケモンも、きっと私達からは見えない別の世界では幸せに生きている。少なくとも、私はそう信じていたい」
 私は、さっき彼女が言っていたことの意味をここで初めてしっかり理解した。
「そっか。そうだよね、確かに。選ばれなかったポケモンは不幸になるって勝手に決めつけた」
「別にさ、存在が抹消される訳じゃないんだから」
「うん、ありがとう。アイラに相談して私ちょっと元気出た」
「まあでも、そんな深刻に考える必要はないと思う。だってまだ旅立った初日でしょ。というか一時間半くらいしか経過してないでしょ。これから色んな町を見ながらじっくり考えて行けば良いよ」
 アイラのその一言で通話は締めくくられた。


 一先ず私は研究所から離れた場所へ移動した。足の裏からは未だコンクリートの硬さ冷たさが伝わる。ベンチを見つけた私はそこに座った。
 私はアイラのアドバイスが胸に響き幾分か気持ちが楽になっていた。アイラには本当に感謝している。けれど、本音を言うと、禍々しい罪悪感は未だ心臓にねっとりとこびりついていた。豪雨ではなくなった程度で雨は振り続けている。
 選ばれなかったポケモンがその後不幸になるとは限らないけれど、私が一瞬であっても心に傷を与えた事実は何一つ変わりない。そういう意味でやはりトレーナーは、ポケモンにとって残酷な存在なのかもしれない。畏怖の対象、とでも言えば良いだろうか。
 私はどうにかして罪悪感を完全消滅させる方法を模索していた。
 そんな状況下で突如幾多の光の粒子が網膜に飛び込んできた。心なしかその粒子は仄かに暖かみが感じられた。何事かと思い横を振り向くと、粒子の出どころがチャックを開きっぱなしにしていた鞄なことに気がつく。そして先程から目を背け続けていたボールの中から、あるポケモンが飛び出していた。
 初心者用ポケモンは主人の身に危機が訪れると、命令されずともボールから飛び出すという話を思い返していた。私は今、草むらを彷徨いている訳でもあるまいし、特に危険な目には合っていない筈なのだけれど。
 どうして、勝手に行動したのだろう? 
 精神的な面において危機的な状況に陥っているから?
 それならアイラに電話する前の段階で飛び出せば良いのに、と思ったけれどどうするか迷っていたから、たぶん今このタイミングだ。
 悲願的過ぎることを言うと、私は自分が選んだこのポケモンにすら酷く後ろめたかった。私に選ばれたことでこの子は、他のポケモンに対し「申し訳ない」という感情が育まれてしまった。そんな勝手な妄想までも阿呆みたいに私を責め立てる。
 なんだか、また雨が強くなってきたけれど、そんな私に対して、そのポケモンは、そっと寄り添ってくれた。私の膝らへんを優しくポンポンと叩いてくれた。そして私の腕を一生懸命よじ登って、私の頭を撫でてくれたりもした。腕が結構痛かったが、痛みすら優しさに溶け込んでいった。
 言葉は勿論交わせないが、「げんきのかけら」を私に対して使おうとしていることが明らかだった。
 その行為にかつてない程の優しさ、圧倒的慈悲を感じた私は思わずポロポロと涙まで零してしまう。零れた涙はそのポケモンの皮膚を無遠慮に濡らしているが、ポケモンは一切表情を変えず一ミリも屈託のない笑みを浮かべ続ける。私の悩みなんてどうでも良かったのかもしれない、なんて、「ここまでの話は一体なんだったんだ」と怒りたくなるような感情すら沸々と湧き上がってくるものだから、ポケモンの包容力というのは本当にすごかった。
 けれど同時に、この優しさに依存し続けたままで良いのか、とも考えてしまっていた。
 依存と表現するのが正しいのか。
 絆と表現するのが正しいのか。
 もはや何も分からない。どうやら明確な「定義」というものはここにも存在していないらしかった。だからこそ悩ましく、私自信が決断を下さないといけなくなる。
 どうして、「これはあっちだ」「これはむこうだ」と、私達を導いてくれる1つの正しさというのものが、この世には存在しないのだろう。
 いずれにしろ、この優しさはどうしようもなく危険だった。ありとあらゆる辻褄すら容易く踏み倒して飛び込んでくるのだ。
 容赦のなき自分の選別に対し、「これで良いんだよ」って完全肯定してくれる存在がいて、それで完璧に心に光を宿してしまったら、何でも許される支配者か神様にでもなったと、錯覚を起こしてしまう恐れがある。
 自己肯定感という言葉があるけれど、それを高めて良いのは周囲に影響を及ぼさない場合だ。自分の判断が絶対に正しいと思い、切り捨てた者もいるのに開き直ってしまう。それには、良くない匂いが仄かに漂っていた。
 フレア団のボスは、なぜ大量虐殺をせずに済んだのか。それは「これで良いのだろうか」と己の判断を疑って生きていたから。だから、彼は他人に食い止められるスキを、自らの手で、作り出すことができた。
 選別行為は、時として極端な領域に到達してしまう可能性がある。だから、誰かを指差すときに罪悪感を抱くのは、決して間違っていない。私の感情は、間違っていなかったのだ。
 けれど、今だけは。
 ほんの少しだけ、私のパートナーの優しさに、依存しても良いかもしれないと思った。甘ったるい愛情に包まれても問題ないと思った。
 罪悪感を抱かないのも駄目だけれど、罪悪感に支配されて全く動けなくなるのもまずい。バランス感覚が大事、なんて達観したことを言うつもりはないが、一応、とりあえず、今だけは、私は涙を流しても良いし、その涙を吹いてしまっても大丈夫だと思った。
 私はまだまだ、極端な領域には到達しない。
 私はまだ旅立って初日なのだ。というよりか、まだ二時間も経過していない状況だった。私はこんな所で傷心している場合ではない。いつまでも「定義」に執着している自分を、ときに嘲笑しながら前に進まないといけない。
 アイラの言葉とパートナーの優しさがどうにか私を立ち直らせた。涙を拭き終えた私は、慰めてくれた私が選んだその子を、これが絆を結んだ瞬間だと満足感を得ながら、全力で抱きしめた。


罪悪の意識が容赦なく体内に雪崩込み、五臓六腑をしっちゃかめっちゃか掻き乱した後、屁泥の如く心底にズッシリ沈み込み、懊悩を起こす確かな火種となって蓄積するから、過去の自分の行為を思い返す度に、寄せては返す後悔の波に何度も呑み込まれ、呼吸が塞がる私は目の前が真っ暗になっていく。

 決意。

 果たして私はその後トレーナーを続けていた。ジムリーダーに勝った数は一回で、ポケモンは結構な数ゲットができていた。
 
 あるとき私は森の木陰を這っているキャタピーを見つけた。キャタピーは若干スローモーションで木の上に登ろうとしていて、疲れているような雰囲気を醸し出していた。私の存在に気がつく様子は微塵も見せなかった。これなら弱らせなくてもいけるだろう。赤と白のお馴染みのボールを静かに取り出した。

 決意。

 あるとき私は薄暗くて幾重にも経路が別れた洞窟内を彷徨い歩いていた。地図を眺めつつどうしようかと溜息をついていると、曲がり角でワンリキーという力自慢のポケモンと遭遇。即座に一歩距離を取った後に、私はポケモンの入ったボールを投げた。ひんしまで追い詰めないよう気に掛けて弱らせる。

 決意。

 あるとき私はポケモンセンターで唐突に他のトレーナーから声を掛けられた。なんでも自分のクチートを君に与えるから、君のそのポケモンを譲って欲しいとのこと。俗に言うポケモン交換がやりたいという要望。私は二日間考えた後にその人と再び合流。そして自分が今まで愛情を込めて育てたポケモンを、その人の掌に乗せた。その人も私の掌にポケモンの入ったボールを乗せる。

 決意。

 選別の罪悪感は、未だ執拗に心を締め付けてくる。こう表現するのは間違っていると思って、けれどあえて言うと、自分はまだまだトレーナーという生き方に慣れていない。
 けれど、それで問題はないと私は思う。後ろめたい感情に心が淀めいてさえすれば、遠慮がどんどんなくなってしまうこともない。
 選別に遠慮がなくなったトレーナーが、アンダーグラウンドな道に進んでしまったのは聞いたことがある。
 何かを選択する度に自己嫌悪に陥り、出口の見えない懊悩を繰り返すことは辛く抵抗がある。けれど、その気持ちを失ってしまったら、自分が絶対に正しいと盲信するのだろう。


 次の町へ向かうべく歩いていると、幼い一人の女の子がよそ見をしつつこっちへ走ってきた。避けようとしたが間に合わず、私とその子は弱めにだけど衝突してしまった。
「あ、ごめん。ぶつかっちゃった」
「ごめんなさい、よそ見してた」
「ちゃんと前向いて歩いたほうが良いよ。この辺なんかやたらと人多いから」
「うん、分かった! 気をつける!」
 そう言って女の子は過ぎ去ろうとしたが、その瞬間、私の腰に付けている物体に注目した。
「あ! お姉ちゃんポケモントレーナーなんだ!」
「うん、そうだよ」
「私も大きくなったら、お姉ちゃんみたいな立派なポケモントレーナーになるんだー!」
「そうなんだ。なれるといいね! でも私は立派なトレーナーじゃないよ。まだ新人だから」
「お姉ちゃん新人なの?」
「うんそうだよ。まだ旅立って三週間くらいかな」
「じゃあお姉ちゃんって、ちょっと前、博士から初心者用ポケモンって貰ったの?」
「うん」
「やっぱりそうなんだ! 私もね、博士からポケモン貰う予定なんだ! どのポケモンを選ぼうか、今すっごくワクワクしながら考えてるの! どの子もみんな可愛いよね!」
「……」
「ねーねー。お姉ちゃんって何のポケモン選んだの?」
 一切の淀みがない表情をこっちへ向けながら、女の子は明るく問いただしてきた。私は、少しだけ気怠げな顔をしてしまった。この子に淀みを与えてしまわないか迷った。誰にするか既に決めているにしても、決めていないにしても。
「知りたい?」
「うん、知りたい!」
「どうしても知りたい?」
「うん!」
 けれどその子の純粋な気持ちにとうとう心が折れた。
「そう、分かった。じゃあ出ておいで、ヒバニー」
 私は淀みを与えないことを諦めた。艶がだんだんなくなってきた、腰につけたボールを空高く投げた。光の粒子が全て消滅したとき、少女の綺麗な瞳に、その姿が映し出される。


 決意。