※終わりの方ちょっと流血表現有
あなたが恐怖や嫌悪感のこもった目を向けてきたとき、わたしは己の間違いを悟りました。
わたしがまだボロボロのコイキングと呼ばれていた頃。
いつだったか一匹のそれはそれは美しいポケモンを見かけました。荒々しい印象のギャラドスとは違って優美な長い体に、キラキラと輝く美しい鱗、七色にきらめく美しい尾ビレ、薄紅色のたなびく長いヒレ。
名も知らぬポケモンの、その美しい姿、きらめきが、脳裏に焼き付いて、それから幾度となく思い出すことになるのでした。
生まれてこの方、わたしはひとりぼっちでした。
思えば同族は周囲におらず、その代わり一番姿形の似ていたコイキングのなり損ないだとか、病気のコイキングなどと言われていたのです。
鮮やかな赤い鱗を持つコイキングと違って、わたしは気色の悪いやら薄汚いと言われる泥色の鱗でしたし、ヒレはいつだってボロボロで、あまりにもまずそうだから食べられる心配をしなくて羨ましい、などと皮肉を言われる始末でした。
特に姿形の似ていたコイキングたちにとっては一層目障りだったのか、しばしば小突かれては傷を作りました。おかげでわたしはより一層ボロボロでみっともなくて醜いと笑われていたのです。
それでもわたしはひとりでいるのがどうにも耐え難く、誰かと一緒にいなくてはという衝動に駆られ、一番姿の似ているコイキングたちにしばしば近寄っては追い払われる生活を送っていました。
どうにかして気に入ってもらいたくて、あの手この手で機嫌を取ろうとした結果、いつの間にか何も言われずとも、相手がどんな感情を抱いているのか察するのに長けていきました。一目見ただけで相手の機嫌の良し悪しがなんとなくわかるようになりました。
いつも相手の機嫌を伺ってびくびくとして疲れていて、もしもわたしが美しければ、もしもあの日見たポケモンのような姿だったら、もっと簡単に受け入れてもらえたのだろう、と何度も何度も思いました。
そんな日々はある日唐突に終わりました。人間に捕まったのです。
あの美しいポケモンと違って、こんなにも醜くてみっともないわたしですから、どうせすぐに逃がされるだろう、そう思っていたのに、人間は何をどう考えたのか、どうやらわたしは生まれ落ちた場所から遠くへと運ばれたようでした。
もしかしたらわたし以外で見たことがない、コイキングのなり損ないのようなこの醜い姿が人間たちには珍しいものとして映ったのかもしれません。
気がつくとわたしは透明なもので狭く仕切られた水の中にたった一匹でいました。
はじめは窮屈に感じたものですが、広くてたくさんの魚たちがいるのにどうしようもなくひとりぼっちの元の住処と比べ、狭くて最初から他の魚たちと隔てられているこの住処もなかなか悪くないことにやがて気がつきました。
あのがむしゃらに誰かと一緒にいなくてはいけないという衝動もあるにはあるのですが、仲間を求めることにも、他者から邪険にされることにも、随分と疲れていたのだと気づいたのです。仕切りが邪魔をするから誰かに話しかけることもできないのだと言い訳ができて、どこかほっとしている自分がいました。
小さな住処で暇を持て余したわたしは仕切りの外へと目を向けました。しばらく周囲を観察してみると、どうやらいくらか離れたところには集団で泳ぐ他のポケモンの姿があったり、わたしのように一匹だけで泳ぐものがいたりしました。
けれど何度見てもわたしと同じ姿のものはいないようでした。仕切りの外へは行けずとも、気がつくと仲間を探してしまうのです。わたしの同族は、仲間はどこにいるのでしょう。
わたしはすっかり気落ちして、定期的に食べ物が降ってくるのを待つだけの怠惰な暮らしに身を任せました。
魚の他にも人間がいました。人間は透明な仕切りの外を歩き回って、時には近づいてきてわたしたちのいる水の中をのぞき込んできます。時折人間と共に姿を消す魚もいましたから、きっとあれは人間に連れて行かれたのでしょう。
わたしのところへ近づいてくるものは少なく、来たとしても恐らくわたしの醜さのせいかすぐにいなくなってしまうのでした。もしもわたしが美しければ人間はわたしをここから連れ出したのでしょうか。
このままの日々がいつまでも続くのか、はたまた突然見知らぬ場所へ放り出されるのか、そんなことをぼんやりと考えていたある日、あなたはやってきました。
あなたはわたしを見るなり興奮したように声を上げると、わたしの小さな住処へと顔を近づけ、いえ顔をくっつけまでしました。
『ああ■■て■い■■モン!』
何か言葉を発しているようでしたが、いかんせん人間の言葉など知りません。ポケモンと違って人間の感情も正確なことはわからないのですが、それでもあなたがひどく興奮していることだけがわかりました。少なくとも喜んでいる、そんな風に感じました。
なぜわたしなどを見て喜ぶのでしょうか。こんなにも醜いのに?
混乱するわたしをよそに、あなたはわたしを連れ出しました。
気がつくとわたしは水の中でもないのに狭くて居心地のいいものの中にいて、そしていつの間にかまた透明な仕切りで囲われた水の中にいました。水の外の光景が違ったので、違う場所に来たのだと知りました。
前の住処よりは幾分か広いそこがわたしの新しい住処でした。
あなたはいつだってわたしに優しくしてくれました。わたしを目にしても不機嫌になることもありません。それどころかわたしを相手にするときはたいてい上機嫌で何かを話しかけてくれましたし、食べ物だってわたしの好みを反映してか渋い味のものを多く落としてくれました。
しばしばあなたはどこかへいなくなっては落ち込んだ様子で帰ってきましたが、わたしを前にすると元気が出るようなのでした。
わたしはあなたの役に立てているようでとても嬉しかったのです。あなたが幸福そうなのを見るだけで、わたしもまた幸せな気持ちになりました。
『■っ■り■■は■■なあ』
『■い、■■、■■て■■■なんだ! い■なあ■■。■■はや■ぱ■素晴■■■よ!』
『■■、本■に、お■■■て■高の■だ■』
あなたはたくさんわたしに話しかけてくれました。言葉はわからずとも、あなたが楽しそうにしているのが伝わってきて温かな気持ちになりました。
もちろん、人間であるあなたの感情の全てがわかるだなんて思いません。それでもあなたはわたしを大事にしてくれているのだと、そう感じました。
あなたのことが好きでした。大好きでした。
いいえ、今も、そしてこれからも、ずっと。
だからもっとあなたの役に立ちたかった。
あなたは時々わたしの前で縮こまりました。目から水を流しました。わたしにはあなたが苦しんでいるということがわかりました。外の世界で何かつらい出来事が起きて、あなたを苦しめているのでしょう。
あなたが苦しい思いをして帰ってくる。こんなにもつらく苦しいことがあるでしょうか。歯がゆくてなりませんでした。
もしもわたしが美しければ、もしもあの日見たポケモンのような姿だったなら、あなたをもっと癒し、慰めることができたのでしょうか。
こんなにも醜いわたしではきっと力不足です。
美しくなりたい、そう願う日々が続きました。
そんなある日。数日前から体がむずむずしていて落ち着かない思いをしていたとき、唐突に体が伸びて、そして。
気がつくとわたしの体は透明な囲いを越え、水の外へとはみ出していました。見れば尾は七色に光る鱗、体はいつか見たあのポケモンのように淡く美しい色の鱗で覆われ、視界の端には薄紅色のものが見えました。ああ、もしかして、わたしは夢にまで見たあのポケモンと同じ姿になったのでしょうか。ええ、きっとそうに違いありません。
ああ、ああ、なんということでしょう、なんと素晴らしいことでしょう!
これならきっとあなたも喜ぶと、そう思ってあなたを見ました。
あなたは驚愕からか大きく目を見開き、ドサリと崩れ落ちました。
『な■で……』
あなたは何かをつぶやきました。あなたは、あなたは――怯えている?
『そん■目でオ■を見る■!』
あなたは何かを叫びました。
あなたは決して喜んでなどいなかった。美しくなれば、あなたは喜んでくれると、そう思っていたのに。
あなたはまるでおぞましいものを見るような目でわたしを見る。恐ろしい化け物を前にしたかのように後ずさりする。
どうして、どうして、どうして?
美しくなりさえすればきっとあなたも喜んでくれると、そう思っていたのに。
***
鏡を見るのが嫌いだった。見たところでどうしようもない不細工しか映らないから。どうしても鏡を見なきゃいけないときは、髪の毛とか、もしくは顔のパーツだけを見て、顔の全体はなるべく見ないようにしていた。
不細工だから、気持ち悪いから、そんな理由でいじめられた。
太っていたりすれば面白いデブ枠で多少はましになったかもしれないけど、生憎太れるような体質ではなくガリガリでひ弱だったし、勉強は多少できたけどトップクラスまではいかずそこそこレベルでしかなかった。だからもうどうにもならなかった。そんなだから卑屈で陰気になって余計にいじめられた。
容姿なんて関係ない、なんていうやつには実際にオレと同じ生活を味わってほしいものだ。半分くらいは被害妄想かもな。でも、半分くらいは本当だ。人間は無意識のうちに醜いものを避けている。無意識だから、外から指摘されないと気づかないだけだ。
表面を取り繕っても内心は疎まれていることくらい、わかるんだ。
空気扱いされればいい方、そんな人生を送っていた。
それでもどうにか大学を出てどうにか就職して、でも職場にはクソみたいな人間しかいないし理不尽な理由で詰られてばかりでなんで生きてるんだろうって毎日思ってた。そのくせ死ぬ勇気なんてないからただ死なないために生きていた。
そんなある日、そいつを見つけた。
ふらふらと暇つぶしに店をうろついていたとき、ひどく醜い魚が目に入って、目が離せなくなった。
「ああなんて醜いポケモン!」
近寄って、それだけでは来たらず水槽に顔をべたりとくっつけてしまう。
「醜い、醜いなあ、その面(つら)でどうやって生きてきた?」
そいつは今まで見たどんなポケモンよりも醜かった。形だけならコイキングに似ているが、全然違う。ずっとずっと醜い。
まだら模様と相まって病気を疑ってしまう薄汚い土色の体、ボロボロのヒレ、目の周りはまるでクマのような黒い縁取りがあって余計に陰気さを増しているし、おまけに厚ぼったい唇だけがやけに鮮やかなピンク色で一層気味が悪い。
なんてみすぼらしく醜いんだろう。ああ、醜い、醜い、オレよりもずっと醜い!
「ああ気持ち悪い色だ、病気のコイキングか?」
オレの「病気」という言葉に反応したのか、あるいはその魚に興味を示したからか、店員が寄ってきてなにやら説明し始めた。ほとんどは右から左へ聞き流したが、曰くこれは病気ではなく生まれつき、見た目はこんなだが非常に珍しいポケモンだとかなんとか。
病気じゃなく、生まれつき? 生まれつきこんなにも醜いということか! なんて、なんて素晴らしい。
オレはこのオレよりも醜いこの魚がほしくなった。
どうやら珍しいポケモンであるものの、見た目の悪さから売れ残っていたようで元値から随分と割り引かれた値段になっていた。といっても元値がそこそこするからそこまで安くはなかったが。おまけに店員に言われるがまま水槽やら水草やらポンプやらエサやらを買い込んだら結構な金額になった。でもまあもともと給料の使い道がなくて溜め込むばかりだったから問題はなかったけど。
水槽などの配送や所有権の移動手続きなんかを済ませ、ひとまず醜い魚はオレのものになり、準備が整うまではボールの中に入れっぱなしになった。まあボールの中はそれなりに快適だという話だから数日くらいなら平気だろう。
身分証としてしか使ったことのないトレーナー免許が初めて本来の役割を果たした。
数日後、水槽などが届いて、おっかなびっくり店員に聞いたように魚の住処を整えてやった。とはいえ、病気のコイキングみたいな見た目の割にはけっこう丈夫らしいから多少テキトーでも平気そうだけど。ポケセンもあるし。
どうにかおぼつかない手つきで水を入れたりポンプを設置したり水草を入れてやったりして、ようやくあの魚をボールから出した。
ドプン、とそいつは水の中に入るとはじめは戸惑ったように泳ぎ、やがて水草の間に隠れた。
「やっぱりお前は醜いなあ」
魚の醜さにオレはにんまりと笑った。数日ぶりに見ても、水草の間に隠れようとも、どうやっても魚は醜かった。
「醜い、醜い、なんて不細工なんだ! いいなあお前。お前はやっぱり素晴らしいよ!」
オレは上機嫌で魚に話しかける。どうせ人間の言葉なんてわからないんだから、遠慮なんていらないんだ。
「ああ、本当に、お前は醜くて最高の魚だよ」
醜いあいつがなるべく長生きするようにこまめに世話をした。水槽の掃除だって苦にならなかったし、初めはいろんな味のエサを与えていたけど、どうやら渋い味が好きなようだったから渋い味のエサを多めに与えた。
醜くて醜くてしょうがないあいつの世話は案外楽しかった。
せっせと細やかな世話のおかげか、あいつは毛艶……は違うか鱗艶(?)が良くなったような気がした。でも鱗の艶がよくなったところでこいつの醜さは変わらないし、というかこんなに不細工なのに艶がいいだなんて何とも不釣り合いでますますその醜さを引き立てているようでなんだかおかしかった。
今までの生活が灰色だったとするなら醜い魚が来てからの日々はバラ色、まではいかないが色づいていた。
毎日息をするのが楽になった。道で人に避けられても、陰でひそひそ何かうわさされても、上司に八つ当たりされても平気だった。なにせ、家に帰ればオレよりも醜い魚がいるんだから!
容姿を貶される? でもあいつの方が醜い! 気持ち悪いと言われる? でもあの魚の方がずっと気持ち悪い!
だから、だから平気だ。
でもやっぱり、いくらオレより醜い魚がいても、どうしようもなく落ち込む日はある。
「あいつ最近妙に機嫌いいよな、女でもできたか?」
「バーカ、あの顔で女なんかできるわけないだろ」
「ツボとかマルチとかかもよ。でもそれだとこんなに長続きしないか……うーん、キャバ嬢とか?」
「キャバ嬢でもあの顔はごめんじゃね? もっと金持ってるならともかく」
「あっじゃあポケ嬢かもよ」
「ポケキャバの? ポケモンなら人間の顔なんて関係ない、か?」
「いやポケ嬢だって選ぶ権利くらいあるだろ」
ギャハハ、と下品な笑い声が廊下に響く。瞬間的に怒りがこみ上げてくる。ぶっ殺してやりたい。でもそんなことできっこない。
姿を見せる前にわざと音を立てると、一応人に聞かれないようにするくらいの自制心はあるらしく声が途切れた。そうしてそのまま奴らのそばを通り過ぎようとすると、一人が声をかけてきた。
「おつかれさまでーす。あれなんか機嫌悪いっすか?」
タイミングからしてオレが聞いていたかもしれないと思っての発言だろうか。含み笑いが実にむかつくものの無言で歩く。
「無視しないでくださいよー。あ、おすすめのポケ嬢とかいたら教えてくださいよ」
にやにやとしているのがそちらに顔を向けなくてもわかった。
悪意、悪意、悪意。悪意まみれの発言に口を開きかけ、結局は閉じた。何を言ったところで奴らにはこちらをいたぶるきっかけを与えるだけになってしまう。反応すればするほど面白がるのだから無反応を貫くに限る。
「■■■■■■■■」
まだ何か言っているようだったが、意識から閉め出して歩くことに専念した。
こんな日は帰宅すると動くこともできずに水槽の前でうずくまって泣いたりする。泣いたら余計に不細工になって気持ち悪いかもしれないけど、でもたぶんあの醜い魚よりはましだから、だから泣いたっていいんだ。それに魚は何もわからないバカだから、いいんだ。
お前はオレが何をしようが、いつもと変わらず水の中で口をパクパクさせたり泳ぎ回ったりするだけでなんにもできないし、なんにも知らないしわからないはずだ。なのにオレが落ち込んでいると近寄ってくるような気がした。
「慰めてくれるのか?」
水槽に向かって話しかける。いや、どうせエサをもらえると思って近寄ってきているだけだろう、だってこいつにわかるわけがない、バカなんだから。そう思ってから、でも魚に話しかけてるオレもバカか、と少し笑った。
何も知らずのんきにエサを食べて泳ぐ、バカで愚かな魚。
どうか、どうか、いつまでも、そのまま。
何があろうと日々は続いていくし、魚がいる生活にも随分慣れた。
そんなある日。数日前からなんだか魚に落ち着きがなくてポケセンへ行こうかと迷っていたときのことだった。
魚がぶるぶると震え出すと体が光に包まれた。なんだこれ、と思ったがすぐにもしかして進化の光か? と大昔に学んだことを思い出す。
そうして見る間に魚の体が伸びたかと思うと水槽をはみ出し、光が消えるとそこには見たこともない、それはそれは美しいポケモンが――――。
は?
意味がわからなかった。これが、あの醜い魚なのか? 優美な長い体、ぱっと見は淡い黄色のような色で、腹から下の鱗はキラキラとして七色に輝き、髪のような長くピンク色の毛が垂れ下がり、ああ、非の打ち所がない。もはや醜さなどどこにもない、整った、きっと誰もが美しいというだろう姿。
「なんで……」
目が、目がオレを見ている。美しい顔についた美しい瞳がオレを見ている。
「そんな目でオレを見るな! 来るな! バカにしやがって! 見下してるんだろう!? お前をずっとバカにしてたオレを! 寄るな! 来るな! あっち行け! 来るな、来るなよお……」
尻餅ついて後ずさる。来ないでくれ、近寄らないでくれ、そんな目でオレを見るな、そんな綺麗な、美しい顔で、目で、オレを見るな。蔑むな、やめろ、やめてくれ。汚いものを見るように見るな、頼む、やめろ、やめてくれ――
そうやって醜態をさらすオレの前で、何か、赤い、ものが――
***
あなたが恐怖や嫌悪感のこもった目を向けてきたとき、わたしは己の間違いを悟りました。
あなたを慰めたいと思ったのは本心で、でも美しくなりたいと願ったのはあなたとは関係なく、そもそもがわたし自身の願いでした。わたしは美しくなりさえすれば何もかもが解決するのだと思っていました。美しくなればあなたも喜ぶと思い込んでいたのです。
でもそうではなかった。そんなのは間違っていました。わたし自身の願いを、あなたもまた望んでいることだと混同してしまったのです。
いつか見た、あの美しい姿に焦がれていました。あんな風になりたいと願っていました。美しくなれば、誰もわたしをバカにしたりしないし、傷つけたりもしないだろうから。
でも、ここにはわたしとあなたしかいません。わたしを傷つけるものもバカにするものもいません。
本当は知っていました。あなたが向けてくる感情は必ずしも明るいものばかりでなく、いつの日か逃げ込んだ日の差さぬ暗がりのように、あるいは水底の泥のように、暗くてどろりとした重たいものが混じっていることに。けれどそれでもあなたは優しかったし、わたしを傷つけるようなことはしなかった。あなたにだったら、バカにされても嘲笑われても構わなかったけれど。
だってあなたが好きだったから。そして、あなたもまた傷ついてきたのだと、そう感じていたから。
ただあなたがいてくれさえすればそれでよかったのです。わたしの美しくなりたいなんて願いは、あなたと共にあることに比べれば些細でどうだっていいことです。そう、美しくなる必要なんて、とっくになくなっていたのです。
あなたが醜いわたしのどこを気に入っていたのかはわかりません。でもこれだけはわかります。
『そんな目でオレを見るな! 来るな! バカにしやがって! 見下してるんだろう!? お前をずっとバカにしてたオレを! 寄るな! 来るな! あっち行け!』
今のわたしをあなたは恐れ、嫌悪し、拒絶した。
あなたが美を疎み、恐れ、嫌悪し、拒絶するなら、美しさなどいらないのです。あなたに必要とされないものはいらないのです。
美しさなんて、いらなかった。むしろ、邪魔でしかない。
それなら、わたしは――
わたしはためらうことなく己の体に噛みつきました。皮ごと、肉ごと鱗を剥ぎ取るために。体が引き裂かれるような、いいえ実際に引き裂いているのですから、体を引き裂く痛みが走ります。でも、そんなことはどうだっていいのです。傷口から流れ出る血が体を赤く染め上げ、動く度に激痛が走ります。それでもわたしは己の体に噛みつき鱗を引きちぎるのをやめません。幾度も、幾度も噛みついては引きちぎり、皮や肉ごと鱗を剥ぎ取ります。口内は血の味でいっぱいでした。このまま続ければ辺りもまた血で真っ赤に染め上がるのでしょう。でも、そんなこと構わないのです。
『何、を……』
肉を引きちぎるわたしをあなたが見ている。その目はまだわたしを恐れている。ああ、足りないのですね。なら、もっと、もっと剥ぎ取らなくては。尾を、腹を、背中をもっと、もっと噛みちぎって。
もはや体中が痛く、どこが痛むのかもわかりません。噛みつくことのできない顔の辺りくらいしか痛まない場所などないのではないでしょうか。ああそうか、あとで顔もどうにか傷つけなくてはいけません。それでも今はひとまず目についたところへ飽きることなく噛みつきます。
ぶちり、ぶちりと皮や肉が裂ける音が響き、あとはわたしとあなたの荒い呼吸音だけが聞こえていました。
きっとこの体は鱗のみならず肉ごと抉れた跡が残るでしょう。きっと目も当てられないくらい、醜く変わり果てるでしょう。
それはとてもいいことです。だって美しさなんていらないのですから。
もっと、もっとこの身を傷つけて。
ああ、そうして醜く成り果てたなら。
どうか、どうか、
――愛してくれますか?
――――
ぷち解説
・ヒンバスは一カ所に集まって集団で暮らす習性があるという設定があります。
・ミロカロスの下半分の鱗はイラストだと水色とピンクですが、実際は見る角度によって色が違う(七色)らしいです。
https://dic.pixiv.net/a/%E3%83%9F%E3%83%AD%E3%82%AB%E3%83%AD%E3%82%B9
>この鱗は一般的に透き通った水色やピンク色で表現されるが、実際には七色であり、見る角度によって配色が変わるとされる。
じゅぺっとさんが書いた話に触発されてようやく完成しました。ありがとうございます。
https://sonar-s.com/novels/77accca3-88cc-4b3c-b7c7-79312089b61c
(ユーザー登録しないと読めないみたいです
今の時代だとわりときついネタだなとは思ったんですけども何年も温めていてどうしても書きたかったので…。
美しいのがいけない?なら鱗を剥ぎます!バリッ!というのがやりたかった。仕方ない。
このあとどうするんだろうねえ……。
予想以上に長くなって草。ワンチャン9千字超えるのではと思ってたけど、ん?あれ?超えてる…???
この話とはつながりはありませんが、こっちの話(https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=1941768)と一応同一テーマで書いた感じです。
進化に伴う悲喜こもごも、がテーマというかそういうアレ(
悲の方が多い?まあそれはそう…。
あっちもこのくらいの密度?解像度?で書き直したかったんですが、無理だったので微修正&微加筆だけしました。
2013年投稿ってマ?
一応このテーマ?であと1,2個ネタはあるので書けたら書きます…。
あっ大丈夫ですよ、他の話は悲劇度は低いので(
ほんとはあと2個書いて短編集としてお出ししたかったんですが、まあ書けてないですね…。
大きい電気毛布を買ったので暖かお布団&忙しくて疲れ果てて帰ってくるのコンボでぐっすり眠れた結果、ボーナスタイムが訪れて書けました。
去年の春になんか書けてたけどやっぱりそこそこレベルでしかなく、表面なぞるような文しか書けてなかったなあと思ったり。
こういう、こういう重ためでウェットな文章が書きたかった…!
まあわたしが書くといかんせん軽く薄くなってしまうのですが…。
もっとじっとりして重たい文章が書きてえ…!
とか思ってたらボーナスタイム終わりました。悲しい。
またなんも書けなくなった…。