何度目かの森




 秋雨前線が列島を離れ、数えるほどしか雲のない穏やかな青空だ。
「暖かく……ない。暑いな、こりゃ。」
 彼がそう言うと、彼女は小さく笑いながら頷いた。
 真夏の猛暑には及ばないが、しかし夏を想起させるような暑さだった。小春日和と呼べるような生易しい日差しではない。俺たちは上着を脱ぎ、やがてシャツさえも木の枝にかけて、Tシャツ一枚という姿になった。濡れた背中の生地は、単に芝生に寝転んだからというだけではなかった。
「おかげでテントが乾くけどな。」
 地方最大の森には各地からポケモントレーナーが集まってくる。その入り口にはテントサイトが整備され、地域住民の厚生を兼ねて緑地公園が設けられた。いまは昨夜の寝床を取り払い、公園エリアで一時の休息を満喫しているという訳だ。
 風はなく、雲はずっと同じ場所にあった。会話はなく、俺たちはずっと同じ場所で寝転んでいた。
 おもむろに彼は立ち上がり、湿ったジーンズの尻を叩いた。
「うう……、湿気って気持ちわりい。ちょっと小便してくらあ。」
 彼は何度も尻を気にしながら、森の反対側へと歩いていった。少し先にコンビニエンスストアと公衆便所があるのだ。その緊張感のない背中を見ながら、彼女はプリンの収まったモンスターボールを撫でた。口には出さなかったが、(おまえに叩かせようか)と思っているに違いない。
「あれが彼の辞書だから仕方ないさ。“上品”のページが破れちゃったんだ。」
 俺は寝転んだまま、視界の中央やや左寄りの雲にそう言った。
「もう慣れました。」
 彼女はモンスターボールをサックに仕舞った。
「ワタナベさんは逆に“下品”がないのに……。いいえ、だからずっとコンビなのですね。」
 俺は、そうでもないと言いながら、体を起こした。背中に張り付いた芝が気持ち悪い。
「毎晩、君を犯したいと思ってるよ。」
「知っています。」
 彼女は顔をこちらへ向けた。
「男がエロくなければ、人類はとうに滅亡していた。ワタナベさんの口癖です。」
「理屈のことを言ってるんじゃないさ。俺は君に興味がある。」
 彼女はあきらかに困っていた。けれども努力によって嬉しそうな笑顔を作った。
 しばらくの沈黙のあと、俺はまた寝転んだ。彼女は彼の向かった先に視線を向けた。俺も転がったまま、顔だけを傾けた。さっきまで視界の中央にあった雲が、少しだけ下に流れている。首の筋肉が痛くなるころ、彼は戻ってきた。
 ポッポがいた、と彼は言った。
「コンビニの前の電線にさ、ポッポが三羽も留まってたんだ。すんげえたわんでて、電線切れねえかドキドキしたぜ。そんで小便ちびりそうになった。」
 彼は豪快に笑い、俺もつられて笑った。彼女はクスッと笑うと、慌てて平静を装おうとしたが、逆に無理がたたって笑いが止まらなくなった。俺たちは同じ場所で、ずっと笑っていた。

 間もなく紅葉した葉を落とす奇妙に温かい雨が降り、冬がやってくる。そうするとこの森は春まで閉鎖される。

 もうすぐ立ち入り禁止になってしまう森の奥、僕は祖父と一緒に散策に来ていた。落ち葉が積もった柔らかい土の僅かな露出に、足跡があった。
「じいちゃん、この足跡知っとるか?」
「おお、ポッポだな。餌が少なくなったんで、こんな奧にまで来よったのか。」
 幼い僕は祖父の洞察力に感心する余裕など持ち合わせておらず、ただ理不尽に腹を立てた。
「なんだよじいちゃん。せっかく俺がポッポの足跡教えてやろうと思ったのに。」
 祖父は、おおと申し訳なさそうに唸った。やはり僕はそんな祖父のことなど気にも留めず、新しい足跡を探そうと落ち葉をかき分けながら歩いた。
 古い森の深部には大樹が文字通り林立し、ときどき落ち葉に隠れた根に躓いた。何度目かの転倒のあと、目の前に小さな足跡を見つけた。
「じいちゃん……、この足跡知っとるか?」
「いやあ、知らんなあ。」
 祖父は惚けた口調で言った。
「そうじゃないんよ! 見たことない足跡だよ!」
 僕がまくし立てると、祖父は足跡に顔を近付けた。顎に手をやり、何度も首を捻った。

 冒険の足音が聞こえた。




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