フレアドライブ




 駆け抜けた。走った。
 深い森を掻き分け走った。喉が痛い。吐き捨てた息は白く吸い込んだ風は気管支を痛めつける。足の裏に木の根の感触。冷え切っているのにどうしようもなく熱い。ジグザグ走行。太股がパンパンに張っている。道が合っているのかわからない。あーっつう、地図とか見てる暇がない。ぶん投げる腕で掻き分ける空気が冷たい。枝が痛い。
 衝動が湧き上がる。
「追いつく」
 追いつく。あれには追いつける。
 俺の口から零れ落ちた言葉をすくい、隣を走るゴウカザルが雄たけびを上げた。響き渡って夜明けに染みた。でも俺はそんな染みも超高速で踏み越えてさらに速く。まだ暗い森、併走する猿の明かりだけを頼って。
 胸を圧迫する呼吸のたび掠れる喉の奥が痛い。



 そういやいつも走れば走るほど痛かった気がする。
 馴染みのガキと遊び回れば足を切り傷だらけにし、マラソン大会ではゴールに顔面から飛び込んで顔を半分血まみれにした。ぶっちぎりの一位だった。
 勉強、球技、口喧嘩、何をやらせてもボロクソだったが足だけは速かった。駆け比べなら負け知らずだった。最速の名を欲しいままに、ナントカ大会で貰った盾だの賞状だのが家でいくつも埃を被っている。
 ところが彼女には、どうしたっても敵わなかった。
 ポケモンを貰うって日の朝、研究所まで駆けっこで行こうと言い出したのは俺だった。彼女はただ「好きだね」と言って勝ち目のないレースに乗った。俺は運動会じゃ負けなしのリレー選手、彼女は座り込んで本を読むインテリ。俺はあっというまに彼女を突き放して隣町に飛び込み、そして彼女が追いついてくるまで余裕をかまして待っていた。
 そこへ、彼女は歩いてきた。いつも通りの能面で、けれど口元にほんの少し笑みを湛えて。
「負けちゃった」、と。
 おう、としか言えなかった。いつもそうだ、彼女を相手にしたときは、俺はどうしたって胸のここらへんに小骨のつっかえたような思いをする。そんな心持ち悪さに任せて思いッきり研究所のドアを開いた瞬間に、顔面に飛び込んできたヒコザルの勢いに引っくり返ったのも今はいい思い出。
 ほとんど必然的にそいつをパートナーに選んだ俺へ、何を思ったのか彼女はナエトルを選んでおいて、「勝負しよう」と言ってきた。
 初めてのポケモンバトルは、炎タイプと草タイプ。相性は歴然。
「やれ、ヒコザル!」
 去年のポケモンリーグの中継、防戦一方のドダイトス相手に炎を纏って飛び回り、あっという間に試合に片をつけたゴウカザル。あのビジョンが頭の中に閃いた俺は颯爽とヒコザルをけしかけた。
 ひたすらひっかくを繰り出すヒコザルに、彼女はただナエトルを耐えさせた。あのとき身を屈めた亀の瞳は、そういえばじっとヒコザルを睨んでいたような気もする。
 勝てる。確信が膨れ上がって、俺は実況中継の真似事までやった。さあーヒコザルのモーレツラッシュひっかきだ! ナエトル選手、もはや手も足もでないかー!
 そして俺のヒコザルがトドメとばかりに振りかぶったところへ。
 奴は強烈な体当たりを叩き込んできたのだ。
 あの体当たりは、今や進化した彼女のドダイトスが振りかざすウッドハンマーでさえ掠れてしまうような勢いを持って俺の記憶に傷を残している。ヒコザルはオーバーなまでに吹っ飛んで地面に転がった。
 たった一撃でのされてしまったヒコザルを呆然と見つめる俺に、彼女はとびっきりの笑顔で。
「今度は勝ったよ」、と。
 白い腕を後ろに組んで、少し誇らしげに。
 あのとき何も言えなかった俺が、今もまだ彼女に追いつけない。



 サイクリングロードの草むらをぶっちぎると炭鉱の町の向こうにテンガン山が見えた。
 頭が沸いて目の前が滲んでも構わず、ぽっかり開いた洞穴へ飛び込む。



 そういえば最初にテンガン山まで着くのはどっちだろう、と彼女と賭けたこともあった。
 旅立ちの日取りも決まったある日。
 彼女が、テンガン山に着くまでにバッジをいくつゲットして、山を越える頃にはポケモンをこのぐらい強くしておきたい、などと計画性のあることを言っていたので、俺は突発的な思いつきで「なあ、テンガン山まで、どっちが先に着くか競争しようぜ」と言ってしまったのだ。
 競争なら勝てると思った。
 他の何で敵わないとしても、レースなら負けない。今までも負けたことはなかった。これからも負けるはずがない。
 彼女は一瞬目を見開いたが、すぐに俯いて、うん、いいよ、と笑った。
 その返事だけで、俺はもう満足だったのに。



 一瞬真っ暗になった視界をゴウカザルの炎が切り裂いた。驚いたズバットが酷い羽音を立てて右往左往飛び上がる。
 登れそうな壁は深い水溜りの向こうだった。勢いで走り込むと膝あたりまで水につかって足が止まった。立ち止まると振り切っていた熱が一気に身体に追いついてきて汗が噴き出す。水は凍るように冷たいはずがなんだかミネラルウォーターみたいだ。ゴウカザルは炎を吐きながら壁を走り抜けた。でも手が、手が震えてゴルダックのボールを押せない。しょうがないからジャケットを脱ぎ捨て、俺は黒い水の中へ踊り込んだ。思いっきり水を掻いた。くっそジーパン重てぇ! 思うように前に進まず息継ぎができない。ついプールのノリで足を着こうとしてしまったが水底がない。沈む。がはっ水っ溺れると思った瞬間目の前に差し伸べられた手を無我夢中で握ると、肩から腕だけ外れてどっかいくんじゃねーかって勢いで引っ張り上げられた。ゴウカザルだった。さんきゅー、ずぶぬれの声で言った途端に震えがきた。
 ほとんど持ち上げられるように壁を登って、薄暗い洞窟の中を走り出そうとしたがジーパンが重くてうまいこと足が上がらない。あッ、と思った瞬間には手遅れで、俺は蹴っ躓いて盛大に転んだ。眼前に岩! 額のド真ん中でドータクンが鳴った。痛ッてェアァッと額を押さえようとした手がものすごく重たく、視界が紫に転変し、あー、やべ



 本当にやべえ。心の底からそう思った。
 彼女はとんでもなく早かった。俺がコトブキシティで大勢のトレーナー候補に容赦なくぶちのめされ泣きながら草むらにこもっていた間に、彼女はさっさとクロガネジムを突破していた。当っては砕けるバトルの末、ヒコザルは瞬く間にモウカザルに進化したが、戦績は黒星のほうが多いくらいだった。
 ――どうして上手くいかない!
 夜中、毛布かぶって泣いた。泣いて泣いて、辿りついた結論で一つ大人になった俺は、生まれて初めて回り道をした。トレーナーズスクールに飛び込んで頭を下げポケモンの相性だの特性だの技だのを頭ン中へぶち込ませていただき、手持ちを増やせといわれてモンスターボールに散財した。
 明らかに遅れをとって猛烈に焦った。走っても走っても彼女に追いつかない。どこを走っていても、いつ電話が鳴って「テンガン山着いたよ」と彼女の声が微笑むのかと思えばいてもたってもいられなくなる。しかし走れど走れど彼女の後ろ姿には届かず、俺の行く道にはただ悠々と彼女の歩いた跡だけが続いている。どれだけ走っても追いつけない。だんだんと息切れの頻度が増えた。
 ゼエゼエしながら走り抜けた森の奥はハクタイの町で、俺は彼女と再会した。
 彼女はギャロップにまたがっていた。だんだんとそこらが影に覆われていく中、揺れる赤のたてがみに照らされてボンヤリした彼女の横顔、そこで沈む夕日を返し一瞬だけ光った彼女の目。へびにらみ。からだが しびれて うごけない。
「今度はさ」彼女は言った。「サイクリングロードに行こうと思って」
 俺は彼女を見て、彼女の向こう側、つまり彼女がやってきたほうを見上げた。
 黒く染まったテンガン山があった。
 じわじわと靴の切れ目から水が侵入してくるような感覚だった。足の先から冷たくなる。
「テンガン山に着いたら連絡するって」
 約束じゃなかったっけか、俺が尋ねると、彼女はいつもどおりの顔で目を瞬かせた。
「そうだっけ」
 それからもう一つ、思いついたように。
「ごめんね」
 俺はその時気がついた。このスニーカー、真面目に先っぽがぶっ裂けて浸水していやがったと。



 あんまりにもふらっふらで、どうやって洞穴を抜けたのか覚えていないが、気がついたら足の裏は雪を踏んでいた。
 風が吹いていた。表へ出ると一瞬にして全身にぶるるるるるると振動が走り抜け、正直死ぬかと思った。膝ががくがくしたのは疲れのせいだけじゃない。ジーパンがアホみてぇに重たい。足元は雪、上空は晴れ渡り突き抜けるような空。
 寒い。
 よく考えれば雪山で軽装でずぶ濡れだ。死ぬ気がする。つーか死ぬだろう。
 考えてもしょうがない。
 雪の中へ走り込む。一歩にして足が埋まる。胸の奥はすでにエンジン全開なのに足が進まない。一歩が重い。くそ、進まねぇんだよボケこの野郎!
 ふとゴウカザルに裾を引っ張られた。そっちを見ると、誰かの真新しい足跡が点々、向こうまで続いている。
 足跡の上に立ち上がるとずぶぬれの靴も沈まない。一歩を足跡に重ねながら少しずつ進む。
 いやいやいやダメだ、このままじゃ追いつけない。足跡なんざ追いかけている間にもここを踏んだ人間は前進している。どうしたらいい。もはやあまりの寒さに身体が感覚を失い始めた。走り出したい。指先は燃えるように熱い。どうしたらいい。
 もどかしいまま穴の前まで辿りついた。足跡は奥へと続いている。



 誰かの走った跡を追いかけるのは簡単だ。行く手を阻む雪は踏みしめられ、藪は切り開かれた後だから。
 だが、ただ足跡を追って追いかけるだけでは、決して追いつくことも追い抜かすこともできない。
 分かってるさ。分かってるよ。だからってどうすればいいんだよ。
 写真で見たときはあんなに大きく感じたテンガン山を、あの日、俺は数分で通り過ぎた。
 洞窟を抜けると雨が降っていた。冷たくて冷たくてしょうがなかった。だけども足は止まらなかった。叩きつける雨に視界は真っ白になり、それでも止まらなかった。丘を駆け上がりながら、胸の中から込み上げてくる塊を吐き出そうとしたら嗚咽が出てきた。約束なんか忘れるもんだろ、バカは振り回されてもがいてた俺のほうか! 不意に死に物狂いで挑んできた今までの記憶が追いかけてきて俺を打った。腹の底に溜まったいやな臭いのするドス黒い油を燃やし熱くて堪らないのに雨は全身を貫くように冷たい。限界のギア数で回る足を放り投げた。さもなくば追いつかれる、追いつかれたらお前は最低最悪の負け犬だ!
 どこまでも走った。その日のうちにトバリまで着いてジム戦に挑み、何をどうしたか知らないが奇跡的に勝った。覚えているのはモウカザルが相手のルカリオにかえんぐるまで突撃して火だるまになり、立ち上がったときにゴウカザルに進化していたことだけだ。
 トバリジムの碑には彼女の名が刻まれていた。
 足が止まらず、ジムを見かけては速攻で挑戦状を叩きつけたが、だいたい瞬殺された。もはや競う約束もないってのにあんまり悔しくて何度ボールを投げ損ねたか分からない。負けるたび、振り返る挑戦者の碑に刻まれた彼女の名前が俺を見下してくる。お前はもう周回遅れだと。
 彼女の足跡は俺の目の前に、毅然として、誇り高く、迷い無くただ真っ直ぐ続いていた。それをグチャグチャに蹴散らして、何としてでも追いつこうとしていたはずなのに、しかし彼女の視界に俺は居なかった。当然だ、強者は振り返らない。つんのめりながら追っかけてくる俺なんて全くもって眼中にない。それどころか俺は彼女と比べられるだけの位置にも達していなかった。という事実の切っ先を、ある日喉元に突きつけられた。極寒の町で。
 調子は万全だった。今度こそ一発で勝とうと気合を入れて、ジムに入った途端に爆音で鼓膜が引っくり返った。
 もうもうと上がった白い煙の向こうには彼女とドダイトス、そして氷の色をした小柄な犬。彼女は鋭く指令を飛ばし、亀が四つ足をついて飛び上がる。ジムリーダーが叫ぶ。氷の犬の小さな口に粒子が集まり、青白い光線を吐く。光線はドダイトスの土色の前足を抉り、そのまま背の大樹を凍らせ叩き折った。大地の嘶くような悲鳴がドダイトスの口から轟く。彼女が声を張り上げた。亀は落下し、凍った四本の足で氷の床を叩く。地震。ジムが揺れた。床がばきばきに罅割れ、ドダイトスを震源とした凄まじい衝撃で照明が落ちた。破壊音の末、そこには半分身体を氷に覆われてなお立ち上がるドダイトスと、力なく倒れた、グレイシア。
 俺は思った。
 前に進み続ける人間は、後ろを振り返ったりしない。ただひたすらに高みを目指し、脇目も振らずに昇り続ける。誰が追ってきているなんてことは関係ないのだ。張り合っていたのは俺だけだった。
 結局その日、ジムには挑戦できなかった。



 見上げたテンガン山の頂は朝焼けに輝いていた。やりのはしら、と呼ばれる古い建造物の切っ先がここからでも少しだけ見える。
 覗きこんだ洞窟の奥はさらに入り組んでいた。
 遠い天辺を見上げて、もう間に合わないだろうと思った。そもそも追いつくはずもなかったのだ。彼女にも止められた。それを振り切ってきたのは俺だ。馬鹿だった。
 冷たいを越えて感覚を失った全身が震えた。肺が痛い。もうだめだ。いや、随分前からだめだった。なんとかなると思って走っていた俺が馬鹿だっただけだ。そもそも追いついてどうするつもりだ。彼女が勝てなかった相手を、俺が、どうするってんだ。
 膝が崩れた。唾を吐こうとしたが口がカラカラに渇いていて無理だった。無理だった。無理だ。元から無理だった。こんなところでこんな格好じゃこのまま凍死するだけだろう。ついてない人生だったな。
 ゴウカザルが俺の顔を覗き込んできた。
 すまん、もうだめっぽいわ、と呟くと、ゴウカザルは首を横に振った。いやいやいや。もう無理だって。だってこんなビショビショで立ち上がれもしない身体でこれ以上山登りなんかできないでしょ。しかしゴウカザルは神妙な顔をして、頑なに首を横に振る。なんでだ。なんでだよ。
「じゃあどうしろッてんだよ!」
 予想外にまともな声が出た。ゴウカザルはぎくりとして止まった。
 どうすりゃいいんだ。もう手遅れなのにこんな無様な負け犬へこれ以上何をしろっていうんだよ。無理に決まってるじゃないかこれからやりのはしらまで登りつめるなんざ。もう追いつかない。
 岩肌に手をついているのも辛くなって倒れこむと雪の中は心地良いぐらいだった。あーここが俺の棺桶ですか。さいですか。お母さんごめんなさい俺は本当に親不孝でした。最低な息子でごめんなさい。来世では立派になれるよう頑張ります。
 突然腕を引っ張り上げられて驚いた。痛テテテテ痛い! 関節が捻り上げられて冷えた腕に鈍い痛みが走った。
 ゴウカザルに担ぎ上げられていた。
「おま、ちょ」
 抗議を聞くつもりもないようで、ゴウカザルは俺を抱えたまま斜面を物凄い勢いで駆け登りはじめた。こいつだって疲れているはずだろうに平気な顔で。引っ掛けた岩石が足元で崩れ落ちていく音が聞こえる。怖くてぴくりとも動けなかった。
 猿は吼えた。ただやりのはしらを、山の頂上を見据えて甲高く吼えた。山が震えたような気がした。
 斜面を上りきる直前でバランスを崩し、俺は右足の腿を思いッきり岩に擦った。火のついたような熱に襲われて痛ッ! 雪の大地に放り出されて肋骨に衝撃を受けたのも同時で、一瞬息ができなかった。打った足が猛烈に痺れた。あまりの痛みに歯をくいしばって耐え、雪の上に手をついて起き上がるとジーパンが擦り切れた上から血が滲み出ていた。燃え上がるように熱い! たまらず雪を押し付けたらとんでもなく染みた。
 ゴウカザルはロッククライムの勢いで横転して転がっていた。大丈夫かと声を掛けると頭の炎が揺らぎ、ふらふらと起き上がる。
「もう戻れよ」
 よくあんな無謀な長距離走に付き合ってくれたよ。腰のベルトからゴウカザルのボールを外そうとしたが、手がまともに動かない。ゴウカザルはまた首を横に振った。
「まだやんのか」
 咄嗟に言うと、こいつははじめて頷いた。
 なんつー根性。俺はもう今にも諦める気満々だってのに、お前はまだ俺に走ってほしいのか。
 ああ、そういえば彼女に再会し、約束を木っ端微塵に破り捨てられたあの日。豪雨の中をやったらめったら駆け抜けた俺の隣には、こいつが居た気がする。あの雨の中、炎を食って生きてるようなこいつが。あとでぐしょ濡れになったのを見て驚愕したようなのを思い出した。
 お前はいっつも俺の隣を走ってたよな。走ってくれていたんだよな。もしかして走りたがっているのか。俺と? この負け犬とか?
 なんてこった。
 そうだ、走るしか能のない俺が、走るのを諦めてどうするつもりだったのだろう。ついに何もかも失くすところだった。本当に馬鹿の極みだ。
 込み上げる声にならない笑いで膝の震えが相殺されてしまったようで、気がついたらゴウカザルの肩を借りて立ち上がっていた。
 猿の目は、まだ、燃えている。
 さんきゅー。
 行くか、やりのはしら。



 彼女から電話を受けて、俺は駆け出した。
 走らずにはいられなかった。電話越しの彼女の声があんまり震えていたからだ。
「今どこにいるの」コトブキ。「ソノオに来れる」いいけど。「来れたらでいいから」
 真夜中だった。無口な彼女から電話がかかってきただけでも驚いたというのに、その声のあまりの覇気のなさ、むしろ何かを押し込めているような震えに、嫌な予感がした。少なくとも彼女は寂しくなった程度の用件でこんな時間に電話をかけてくるような人間じゃあない。
 ソノオまでは十分もかからなかった。彼女を探したが、ポケモンセンターにもどこにも見当たらない。呼びつけておいてどこに居るんだよ、と思った矢先、花畑のほうから騒がしい鳥の声がした。
 それは彼女のムクホークが、無残にも地面に叩きつけられる瞬間だった。
 相手はどうってことない普通の男だった。ただポケモンがどうってことありありだっただけだ。
 真夜中より黒い、破れた翼のようなものを広げた巨大なムカデ。白金の色をした冠を抱き、赤黒い腹をうねらすそいつは、深い影の中から現れるとムクホークを思い切り叩き落した。羽と花が散ってバキボキと酷い音がした。不気味なそのポケモンは巨体を震わせながら影に飛び込んで消えた。
 男は二言三言を彼女に呼びかけると、ボールから巨大な気球のポケモンを呼び出して、ふわふわと去っていった。
 駆け寄ると彼女は泣いていた。
 顔を真っ赤に歪めて、手放しに泣いていた。言葉に詰まった。こんなとき何と言っていいのかわからなかった。とりあえず肩を叩いた。止まらない嗚咽に噎せる彼女の背をさすってみた。
 彼女はもう駄目だと言った。しきりに私のせいだ私のせいでと言った。何が私のせいだよ俺なんかお前の数倍あんな負け方してんぞ、と言ったら何を的外れなことをとでも言いたげな目をされた。
 彼女は言った。他のトレーナーに百回負けても、あの一回には勝たなくちゃならなかった。
 どういうことだと問い詰めると、ぽつぽつと言葉を漏らす。あの男は隠された泉を暴いて別の世界? に居るポケモンを呼び出し、さらにそこで手に入れた道具を使って、神に会おうとしているのだと。
 アホ臭い話だ。にわかには信じられない。
 それがどう関係あるのかと聞いて驚いた、旅の途中であの男の陰謀に出くわした彼女は、それを何度も阻止してきたのだという。そしていつの間にかあちこちであれを止めるのは君しか居ないと言われ、何としてでも神の復活? を止めようとしていたらしい。それが失敗した。
 私のせいだ。私のせいで。大変なことになってしまう。
 膝を抱えた彼女はもう顔を上げなかった。ただ自分を抱えて震えていた。あんなに必死に追いかけた背中がここにあった。こんなに小さかった。
 彼女の泣いているのを見るのは初めてだった。
「泣くなよ」
 泣きやむはずがない。
「泣くなよ!」
 さらに止まらなくなってしまった。ひっくとしゃくりあげるたび背中が悲痛ではちきれそうだ。
 正直何だか状況はよくわからなかったが、憤りを感じた。それは彼女が背負い込んじまうべきもんだったのか。そんでこんな震えながら謝らなくちゃならないようなもんなのか。部外者の俺には分からない。しかし一つ分かった、彼女だって決して振り向かなかったわけじゃなかった。俺にはただ真っ直ぐに見えた彼女の足跡も、本当は転んだり、迷ったり、立ち止まったりしていた。時には後ずさりさえしたかもしれない。俺のように。
 ああ、逃げ水相手に競争とは。俺も本当に馬鹿だな。
「なあ、」
 冷たい清水が胸に湧き上がるような感覚で喉が震えた。
「さっきの奴ってどこ行ったんだ」
 彼女はゆっくり腕だけ伸ばして指差した。黒く聳えるテンガン山。そして消え入るような声で、やりのはしら、と言った。
「さっきの奴を止めればいいのか?」
 彼女が顔を上げた。
 咄嗟の思いつきだった。翼の折れたムクホークでは飛べないし、俺も飛行タイプのポケモンは持っていなかったが、あんな紫風船よりは速く走れる自信がある。というか、それぐらいしか胸を張れる部分がないのだ。だからせいぜいこれで格好付けさせてくれ。俺が野郎を追いかける。彼女の代わりに俺が止める。
 彼女は猛反対したが、俺はさっさと伸脚してテンガン山を見据えた。後光が差していた。
「ちょっと行ってくる」
 ゴウカザルのボールを投げながら、彼女の声を振り切って駆け出す。ついさっきのような随分昔のようなスタートダッシュ。



 無理やりすぎるロッククライムでショートカットしたおかげか、次に飛び込んだ横穴をあとは登るだけだった。
 ごつごつと岩に阻まれた洞窟をただ走った。さっきまであんなに凍死を覚悟していたのにもう身体の中央がふつふつと沸いている。同時に右足の盛大な擦り傷も疼いたが、んなこたどーでもいい。もう後は地面を蹴るのみだ。時にゴウカザルの爆炎は邪魔なドータクンを焼き、俺は華麗なステップでゴローンをかわした。
 確かに俺はクソみてぇな負け犬なんだろう。張り合ってるつもりでアウトオブ眼中、頑張ってるつもりで勝率は五分五分、マジモンの馬鹿だ。それでも唯一胸を張れるのがこの足、これしかない。これしかないんだ。追いつける追いつけないなんてことは考えるな。ただ走れ。泥の地面に一歩を刻め、土くれ抉って前に進め!
 なにせ相手は彼女を負かした野郎だ。その上あの半端ねぇ威圧感のムカデ、俺の手持ちじゃ勝てる気がしない。だがあの男自身はどうだ。あのひょろい姿じゃ42.195kmも走れねぇもやしに違いない。比べて俺は、バトルも強くないし頭も悪いかもしれねえが、最速の足を持っている。ポケモンと一緒に傷だらけになって泥まみれになって走ってきた足だ。
 ポケモンバトルで勝てないなら。別のバトルで勝つだけだ。
 彼女の背中を思いだせ。
 俺は吼えた。時間がどろどろに引き延ばされたような感覚の中で頂上は果てしなく遠く、ただゴールの瞬間だけ思い描いて叫んだ。いったい今息を吸ってるんだか吐いてるんだか、呼吸のたび全身くまなく痛いがそれさえ前に進むための鞭に代え、岩を越え損ねて転ぶ、さっさ手をついて跳ね上がる、傾斜のきつい洞穴を駆け上がる。岩陰からゴーリキーが現れた。
「邪魔だァ!」
 ゴウカザルは吼えた。炎を身体に纏い突撃し、松明の頭を白く爆発させた。猿は燃え盛る一撃で筋肉ダルマをふっ飛ばし、いっそう洞穴を明るく照らし出す。
 顔を上げると眩しい出口があった。
 勢いに任せて飛び込み、冷たい空気を身体で受け止める。白く爛れた柱が空に向かって伸びる、やりのはしら。
 男は笛を吹いていた。陰気臭い曲だ。その周りを真っ黒な影が悠々と泳いでいる。陽射しを浴びてもなお濃い影が白い槍の中を漂い、鎌首をもたげると兜のような頭が現れた。やがて天上から野郎に向かって光が差し込み、それを道連れにぱたぱたと紙細工のような階段が降りてきた。夜明けの紫に染まった空のさらに彼方へと続いている。神を呼ぶ、ってこういうことか。陽光で出来た階段はあたりの影という影を吹き飛ばし、遺跡を眩く照らし出す。神々しいが、残念ながらこれはそういう話じゃない。適当に叫ぶと枯れた声が反響した。男は振り向いた。
 あいつだ。
 拳を握り締める。畜生、俺が死ぬ気で追っかけた相手をあんな軽々泣かせやがって一発ぶん殴らねぇことには気が済まねえんだよォ!
 猛火を噴き出した俺と猿は光の中に悠々と立ち竦む神に向かって腕を振り上げた。驚きのあまり笛を取り落とした、ゴールテープは目の前だ。

(10000文字)