SCIENTIST 風邪。 医者は冷淡な口調でそう告げてきたが、僕にはそれが信じられなくて、3度も訊き返した。 お陰で薬を渡してくれた看護師まで変な目で僕を見たが、構わない。 寧ろ、皆僕を変な目で見てくれたら、と思う。 だってその方が知名度上がるだろ。 研究所に戻ると、ドアを引き開けるなり、バサバサと大きな音を立てて紙束やら本やらが覆い被さってきた。 「うぁああ、係長!」悲鳴も一緒に耳に飛び込んできたが、止める術は最早無く、僕は書類の波にぱっくりとのまれた。 まあいつものことだ。 ぶつぶつと文句を言いうのが上から聞こえる。 それと共に、本で埋められた視界が開けていく。 「ぷはぁ」 思い切り息を吸い込む。 埃っぽい空気が口から身体に雪崩れ込んできたが、まあいつもよりは綺麗な方だと思った。 どうやら、僕が病院に出掛けている間に片付けていたらしい。 助手の青年が本を退ける手を止め、すらりと立ち上がって、座り込んでいる僕を見下ろしてきた。 彼はとても背が高い上にひょろりと痩せ、ルックスもまあまあなので、そこそこの人気がある。 つい、彼の長い睫に見とれていると、呆れた声が降ってきた。 「で、係長。そのマスクは何ですか」 「ん、ああこれ……いやさ、風邪って言われちゃって」 「今日が何の日か知ってて言ってますか、貴方!」 むむ、目上に『貴方』は無いと思うがね、キミ。 まあそれは置いておくとして、勿論、この研究所の取締役、監視係兼係長の僕が今日の仕事内容を忘れている訳は無い。 とりあえず立ち上がって埃をパンパンと払い、側にある脚立に登ると、やっと彼を見下ろす高さになったので、僕は口を開いた。 「あのねえ、キミ。僕は係長だよ? 今日が何の日か、知らん訳は無いじゃないか。しかも、仕事内容をキミに伝えたのも僕だし」 意識し胸を張って言ったので、反り過ぎてバランスを崩し、脚立から落ちかけた。 何とか腕を振り回して姿勢を保ち、危機は免れる。 焦った為が息が乱れたので、それを見て彼は更に呆れた顔をする。 「……病人は寝ていて下さい、と言いたいところですが、確実なスケッチは係長にしかできませんからね」 「おお、やっと僕を認めたか」 「代わりに、無理してまで働いて下さい」 「キミ! ちょっと違うんじゃないかね……」 言い掛けたが、既に彼は書類を山積みにする作業に入っており、僕に背を向けていた。 全く、現代の若いモンはマイペースで困る。 まあ腕は確かだから仕方ないが。 よいしょっと声を上げて脚立から降り、僕は自分のデスクに向かった。 狭い部屋の一番隅っこに僕のデスクはある。 まるで追いやられたみたいで嫌だが、実のところ、本棚や収納ケースでスペースがぐんと埋まっていて、ここにしかデスクが収まらないのである。 彼のデスクは実にシンプルな、使い勝手のみを追求されたスリムかつスマートな印象を受ける鼠色――いや、グレーのデスクである。 デスクの上にはペン立てとボールペンが2本、黄色の蛍光ペンが1本しか見当たらない。 他はたくさんある引出の中に仕舞われているのだろう……なんとも殺風景だ。 それに比べると、僕のデスクはかなり賑やかだった。 無造作に並べられた幾つもの書類と、栞の代わりに30センチ定規が挿まれた開きっぱなしの本。ペン類も散りばめられたかのようにあちこちに倒れている。 デスク自体も木造で、実に柔らかい、温かい印象。 使い主である僕にぴったりの――そこで視線を感じて振り向くと、彼の『仕事しろ』とでも言いたそうな鋭い眼差しが突き刺さってきた。 クレヨン24色セットと分厚い画用紙を小脇に挟み、いそいそと外に出るとき、僕はいつも少しばかり恥ずかしくなる。 だって、今時子供でもクレヨンでお絵かきしないもの。 僕が子供のときはねえ……。 ……いや、止めておこう。 話が長くなるし、何より、彼の拳が飛んでくる。 全く、暴力とは、情けも知らない奴である。 それにしても、今日は一段と冷える日だ。 冬空が広がり、空気も緊張したようにピーンと張っている。 あー寒い寒い。 掌に息を吹き掛け、ふと、ゴォンゴォンという機械音が耳に入ってきて振り向いた。 小さな影が遠くに見える。 しかしすぐに影は大きくなり、すぐそこの橋に渡りかかるまでに数秒も掛からなかった。 焦げ茶色のポニーテールを、本当のゼブライカの尾のように元気よく振りながら、やってきたのはトウコちゃんである。 彼女には最近良くお世話になっていて、今日も、研究の手伝いの為に会う約束をしていた。 冬だというのに自転車を猛スピードでこいで来たトウコちゃんは、急ブレーキで止まり、てへへとはにかんだ。 「こんにちは。寒いですねえ……あ、風邪ですか? マスク」 気に掛けられるとつい嬉しくなってしまう。 僕はにこやかに笑いながら、頭を掻いて見せた。 「こんにちは。実はね、そうなんだよ。一晩の内に急に冷え込んだせいか……。弱った弱った」 「早く治してくださいね。じゃないと、彼にもうつっちゃいます」 おおぅ、そのままの笑顔で言われるとかなり傷つくなぁハハハハ。 勿論、彼、とは助手の青年のことである。 まさかトウコちゃんまで彼のこと気に入ってただなんて。 「ま、まあね。頑張るよ。ところで、本題……」 「はい! どうぞ。さっき仲間にしたばっかりです」 トウコちゃんはショルダーバッグに手を突っ込んで、収縮された形のモンスターボールを取り出し、僕に渡した。 「じゃ、遠慮なく」と呟いて、真ん中のスイッチをゆっくりと押す。 すると、ボールの口が弾けるように開き、青白い光が神々しく飛び出した。 ひとつ瞬きをする間に光は成形し終わっており、凍えた草の上には、小豆色の体毛をしたシキジカがこちらを見つめていた。 「おお! 確かに、冬の姿! ありがとう、早速スケッチさせて頂くよ」 「勿論です」 最早僕の視界にトウコちゃんはいなかった。 僕はざっとクレヨンを見分け、シキジカをもう一目見ると、頭の中で絵のかたちを整えて、クレヨンを手に取った。 あとはもう描くだけである。 画用紙にクレヨンの先端を当てる――その際の力加減に良く注意しながらも、シキジカから目を離さない。 「へえ、キミ、冬らしい静かな香りがするんだねえ」 呟きながら、クレヨンを滑らせる。 シキジカは季節の象徴だ。 一緒にいるだけで、いや、近くにいるだけで、季節を感じ、手に取ることができる。 体毛の硬さはどうなっているのだろう、と、ふと目を上げて手を伸ばすと、シキジカはぶるんと身を震わせてこちらを警戒の目で見た。 おおっと、軽率だったかな。 僕は慌てて微笑んで見せた。 それから描き掛けの画用紙を傾けて、シキジカに見えるようにする。 「今、キミを描いているんだ。だから、少し触らせてね……もっと美しい仕上がりになるように」 すると、シキジカは興味深げに画用紙を覗き込み、そのまま僕の指が首に触れても気にしない様子だった。 大人しい性格なのかもしれない。 成程、体毛は冬の寒さに耐えるべく、ふかふかと柔らかい綿のような質になっていた。 それを見ても伝わるように、出来るだけクレヨンを淡いタッチで使って、柔らかさを表現する。 僕の指先から溢れる線――忙しなくクレヨンを動かしながら、僕はいつの間にか夢中になって絵に入り込んでいた。 「――う……係長!」 はっとして顔を上げると、彼が難しい顔をして腕を組んでいた。 辺りは薄暗かった。 何てこと、もう夕方! 僕は急いで立ち上がり、頭を思い切り柵の木にぶつけた。 それを見てシキジカが笑う。 しかし、彼は勿論トウコちゃんも顔を強張らせただけのリアクションである。 痛さを堪え、僕は出来るだけ優しく笑って、シキジカをモンスターボールに戻し、トウコちゃんに渡す。 それから、幾つもあるポケットからひとつの苔むした石を取り出した。 「えと、これリーフの石。各季節のシキジカを見せてもらったお礼なんだけど」 そこまで言うと、トウコちゃんは顔をぱっと輝かせて、両手をずいと出した。 「はい! 待ってました!」 え、待ってました? まあ良い。 喜んでくれたようなので、僕はちょっぴり誇らしい気分でリーフの石をトウコちゃんの白い透き通った指に渡した。 「ありがとうございます! じゃーお元気で!」 笑顔で言ってから、トウコちゃんは自転車に飛び乗り――瞬間、彼に首だけで振り向いてウインクして、猛スピードで去って行った。 驚いて彼の方を見ると、珍しく、青年の頬は赤くなっていた。 うわーこーゆーのを青春と呼ぶべきなのかな。 僕の視線に気が付いたのか、彼ははっと振り向き、そのまま更に顔を赤くした。 「かっ係長! 何見てるんですか!」 「いやぁ……若いっていいなと思ってね」 「さ! 早く片付けちゃいますか!」 急に方向転換されて、僕は不満だったが、まああんなに慌てた素振りの彼を見たことだけでも結構なものだと考えた。 研究室に戻っていく彼の背中をちらりと見てから、芝生に投げ出された画用紙とクレヨンを拾う。 良く見てみると、今回のクレヨンの減りは半端じゃなかった。 画用紙をファイルに仕舞い、冬のシキジカの特徴をパソコンに打ち終わったのは、既に日も深く落ちてからだった。 彼も付き合って作業してくれたのだが、どうやって帰るのだろうか。 まあとにかく、外に出て、鍵を閉めた。 「おつかれ。手伝ってくれて助かったよ」 「いや、これも助手の仕事なんで」 少しは素直に喜んだらどうなんだ。 苦笑して、鍵をポケットに入れたとき、ふと、足元の芝生が目に入った。 昼にスケッチした場所だ。 僕が余程変な顔をしたらしい、彼も気になったらしく一緒になって覗き込んできた。 腰が痛いのでしゃがみ込み、僕は芝の一部分を指差す。 「ほら、ここ。シキジカの足跡がついてる」 何しろ真っ暗なので、良く見えないが、確かに、浮き上がった霜に踏み降ろされた細い足跡が残っている。 彼も確認したようだ。 「足跡も記録しておいたら……そうだ、もしかして、足の裏の毛まで生え変わっているのだろうか……そうだとすると、足跡まで違うことに……ふふ……」 「係長。ひとりでにやけるのは止めて下さい」 う。 にやけていたつもりは無いんだが。 「でも言ってることはわかるだろ。今すぐスケッチしなくては!」 「え、ちょ、ちょっと待って下さい。今は駄目ですよ。真っ暗ですし。器具部屋の中ですし」 「しかし! 今じゃないと消えてしまう!」 彼はまた呆れた声を出した。 「それなら、わたしがまたトウコさんに頼んで来てもらいますから!」 数秒の沈黙の間、僕はずっと彼の顔を見ていた。 彼は暗がりでも良くわかるくらい頬を赤くしたが、それでも引き下がりはせず、僕も確かにそのほうが良いと判断したので、結局、諦めることになった。 「……ところで」 切り出す。 思い出すことがあったのだ。 「僕の友人に『足跡博士』っているんだけどね」 学校時代、同じクラスだった彼は、足跡が大好きだった。 今はシンオウにいるとか言っていたが、元気にやっているだろうか。 「彼はいつも言っていた。「足跡は愛すらも教えてくれる」と。まあ結局のところ、僕にはそれがわからなかったが、今ならわかる気がするんだ」 「どうしたんですか、急に」 「気が向いたのさ。こんなときにでも喋っておかないと、もう喋らないだろうしね。君が将来素晴らしい研究員になることを仮定しておけば、これは耳にしておいたほうが良い情報かもしれないし」 青年は怪しげな眼でこちらを見ていたが、聞きたくないようでは無かった。 なので、僕はゆっくりと話し始めた。 「本格的な研究の世界に入ってから、思ったんだけどね。例えば、夏の始まりに、道路に残った桜の花びらを見ると、「ああ足跡だ」と思うんだ」 それは、まるで自分がいたことを思い出して貰う為のように。 だからそんなときは、僕はそれを拾って、テッシュに包み、分厚い辞典に挟むことにしているのだが。 じょ、情だよ。 「足跡って、何にでもあると思うんだよね。それは時に、自己主張であり、軌跡であり、生きがいなんだけど。全部違うんだけど」 彼の視線が徐々に和らいでいく。 冬の風がひゅるる、と僕達の間を吹き去って行った。 「だから、逆に、足跡を調べれば、その持ち主の性格や、業績や、趣味がわかる。これって凄くない? 足跡って、全ての基本なんだよね。猟師とかだったら、残された足跡からだけで、色々な情報を得るだろ。詳しいことはわかんないけど。あっ、だとすれば、愛っていうのもその内なのかな……」 ふむ、呟く僕を見て、彼は突然くすくすと笑いだした。 何事かと顔を上げると、彼はすっと僕を見下ろして、面白そうに顔を歪める。 「係長。それって基本の基本じゃないですか。今時の学生は、足跡は貴重な資料だと教わっていますよ。学校でね」 「ええっそんなぁ」 「……だけど」 彼の瞳が月光を浴びて煌めく。 ああ整った顔立ちをしているなぁと思い、自分自身で恥ずかしくなってしまった。 「まあ参考にしときます。係長がそうやって教えてくれることも珍しいんで」 「なっ! キミ、そんな態度で言われても嬉しくないんだが!」 「わたしは係長の気分を良くする為にこの研究所に派遣された訳ではありません」 「なっ! キミは本当に可愛げない……」 うっすらと凍った草むらを踏みしめると、サクサクと心地良い音が響く。 そのまま口論しながら、僕達は駅のホームまで一緒に歩くハメになってしまった。 しかも、遅い時間になってしまった為、なかなか電車が来ない。 議論の内容が大幅に逸れながらも言い合いを寒空の下続けた。 全く、彼がこの研究所にいる間、仲良くやれる自信がない。 次の日。 ――僕が風邪を拗らせたのは言うまでもない。 (5663文字) 〔作品一覧もどる〕
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