霧の中のおはなし ある静かな海辺に、森にかこまれた小さな町がありました。その町はずれの岬の上に、古い洋館が建っていました。 もともとは、お金持ちが孫のために建てた別荘だということでしたが、ずっと昔に使われなくなり、今では近くの子どもたちのないしょの遊び場になっていたのでした。 ところが、ある日のことでした。その洋館に幽霊が出たというのです。 夏の初めには、このあたりは毎日のように海からの濃い霧に覆われます。その日も、霧に覆われた洋館で、子どもたちはいつものように遊んでいました。 ふと、一人の子どもが、誰かの気配を感じて後ろを振り向くと、ついさっきまで誰もいなかったはずの霧の中に、いつのまにか見たことのない白いドレスの小さな女の子が静かに立っていて、じっとその子を見つめていたというのです。 驚いて声を上げると、その女の子はまるで霧の中に溶け込むように消えてしまい、びっくりしたその子どもはあわてて逃げかえりました。 他にも霧の日に幽霊に会った、という子が何人も出て、噂はあっという間に広がり、霧の日に洋館に近づく者は誰もいなくなったのでした。 その、しばらく後のことです。その洋館に小さな男の子が一人、やってきました。 錆びつき動かない風見鶏に、緑青の吹いた雨樋、ひびの入ったガラス。あたりは霧に覆われてしんと静まり返り、遠くでキャモメの鳴く声だけがかすかに響いています。 男の子は、建物に近づいて行くと、ぼんやり曇った窓ガラスを透かして部屋の中をのぞきこみました。 豪華な家具はほこりにまみれ、きっと昔は色鮮やかだったのだろうカーテンやじゅうたんは、すっかり色があせ、虫に食われてボロボロになっています。 部屋の奥、暖炉の上の壁には、大きな絵が掛けられていました。 昔住んでいた人たちなのでしょうか、きれいな女の人やひげのおじいさん、背の高い男の人、そしてかわいらしいお人形……いいえ、お人形のようにかわいらしい小さな女の子が描かれているようです。 ガラスに顔をくっつけてみましたが、部屋の中は薄暗くてよく見えません。男の子は建物の周りをぐるりと回ってみました。 建物の反対側は、庭に面したベランダになっていました。今は真っ白な霧で見えないけれど、きっと晴れた日には海がきれいに見えるのでしょう。庭は草ぼうぼう、花壇は半分草むらになってしまっていましたが、まだところどころに小さな花が咲いています。 壁からはがれたのか、きれいな飾りタイルのかけらが足もとに落ちていました。それを拾ってひょいと顔を上げた男の子は、驚いて目をパチパチしました。 ついさっきまで誰もいなかったはずのベランダに、いつのまにか白いドレスを着た女の子が立っていて、じっとこちらを見つめていたのです。 寂し気にこちらを見ているその女の子は、暖炉の上の絵にそっくりでした。 かわいらしい赤い靴に、髪にはレースのリボン。お人形のようなひらひらのドレスは真っ白で、ちょっと目を離したら、本当に霧の中に溶けて行ってしまいそうです。 男の子はしばらく首をかしげていましたが、にっ、といたずらっぽく笑って言いました。 「こんにちは!」 女の子は驚いたようでした。 「……話しかけてくれたひとは、初めて」 「こんなところに一人でどうしたの?」 「迷子になったの」 「迷子?」 女の子はこくん、とうなずいて言いました。 「お母さんから、『迷子になった時は、動かないで待っていなさい。必ず迎えに行くから』って言われたの。だからここで、お母さんが迎えに来るのを待ってるの」 「じゃあ、待ってる間いっしょに遊ぼ!」 女の子は驚いたように目を見張り、にっこりしてうなずきました。 「ダールーマーッーカが、ころんだ!」 かくれんぼに駆けっこ、鬼ごっこ、なにをしても女の子はとても上手でした。 まるで地面に足がついていないかのように、少しも足音をたてずにくるりくるりと駆け回るのでした。 そうやって楽しく遊んでいるうちに、だんだんあたりが明るくなってきました。少しづつ霧が晴れていきます。 それに気づいた女の子は、不安そうな顔で足を止めました。 「……霧が、消えちゃう……」 「どうしたの?」 「もう、行かなくちゃ。霧が晴れないうちに……!」 女の子は困った顔で言いました。 「晴れの日は遊べないの?」 男の子はきょとんとして首をかしげました。 女の子は、悲しそうにこっくりとうなずきました。 「霧が消えちゃったら、いっしょに遊べないの」 「わかった! じゃ、また明日、霧がかかるころに遊びにくるね!」 それからというもの、男の子は霧がかかるたびに洋館に来て、仲良く遊んで帰るようになりました。 そんな日がしばらく続いた、ある日のことでした。 「ねえ、たまにはお家のまわりじゃなくって浜辺で遊ぼうよ。面白いものがいっぱい落ちてるんだよ。今日はこんなに濃い霧なんだし、霧が晴れる前に戻れば大丈夫」 男の子は、女の子をさそって浜辺に降りました。 浜辺には本当にいろんなものが落ちていました。 桜色や白の花びらのような薄い貝殻、細かい模様の真珠色の巻き貝、すべすべの小石に大きな鳥の羽、波に磨かれて丸くなった、淡い緑色のガラスのかけら……。次から次へときれいな宝物が見つかります。 二人は夢中になってあちらこちらと宝物を探して歩きました。気がつくと、岬からずいぶん遠くへ来てしまっています。 ふわりと風が吹いてきました。霧が少し薄くなり、あたりが少し明るくなってきたようです。 「そろそろ戻らなくちゃ、……」 二人が戻ろうとしたときです。 「……お母さんの声がする!」 女の子が立ち止まり、耳をすませました。 「え? ボクには何も聞こえないよ」 「ううん、確かにお家の方から聞こえたの。……お母さぁん!」 急いで駆け戻る女の子を、男の子はあわてて追いかけました。 けれども、駆けて行く女の子はまるで宙を飛んでいるように速く、男の子が一生懸命に走っても、走っても、どうしても追いつくことができないのです。 その間にも、霧はどんどん風に流され、あたりはどんどん明るくなっていきます。 そしてついに霧が切れ、陽が差し込んだ瞬間。 男の子は気付きました。 岬からずっと伸びている足跡は、自分のものしか無いことに。 そしてもう1つ。 女の子の影は、人間の姿をしていなかったのです。 男の子が洋館に戻ると、迎えに来たお母さんが、女の子をしっかりと抱きしめていました。 いいえ、もうその姿はドレスの女の子ではありませんでした。 すんなりと伸びた首は白く、背中から伸びた翼は紅い羽毛に覆われた、小さな子どものラティアスだったのです。 小さなラティアスは、しょんぼりしながら言いました。 「ごめんなさい。とってもさみしくって、お友だちがほしかったの。言わなくちゃって思ったんだけど……」 「……ううん、そんなことないよ」 男の子もすまなそうに言って、首をふりました。 そして、くるりと宙返りをすると、ふさふさ尻尾の真っ黒い子狐の姿になったのです。 「ごめんね。ボクも言おうと思ってたんだけど、つい……」 「あなたの方が姿の変え方は上手みたいね。この子はまだ影まで変えられないの」 びっくりしている小さなラティアスを見て、お母さんラティアスがくすくす笑いながら言いました。 「私たち、毎年旅の途中でここを通るの。また来年、この子と遊んでくれる?」 その後、洋館に幽霊は現れなくなったそうです。 でも、もしもその海辺の町で、仲良く遊ぶ男の子と女の子を見かけたら、そっと足跡を確かめてみましょう。 足跡が一人分しかなかったら、もしかするとその二人は、やんちゃなゾロアと寂しがりの小さなラティアスかもしれませんよ。 (2932文字) 〔作品一覧もどる〕
|