Reflection




 気が付くと知らない場所を独りで歩いていた。
 目の前には真っ暗な道が続いている。後ろを振り返ると、やはり真っ暗な道が伸びている。
 道の両脇には黒い壁があり、行く手と視界を塞いでいる。

 どうしてこんなところにいるのか、どうやってここまで来たのかと、思い出そうとしても全く思いだせなかった。

 しばらく歩くと、道が三つに分かれているところに出た。何となく、左の道を進んだ。
 しばらく歩くと、また道が分かれているところに出た。今度は右の道を進んだ。
 しばらく歩くと、また道が分かれているところに出た。今度は真ん中の道を進んだ。

 何度かそれを繰り返したところで、僕は途方に暮れた。
 迷ってしまったと思ったが、そもそもどこに行くという目的もなく、またどこから来たのかもわからないのだから、考えてみれば最初から道に迷っていたのと同じことだった。
 引き返そうにも元来た道を覚えているはずもなく、最初の場所に戻ったからといって何がある訳でもなかった。
 僕は暗闇の中をしばらく歩いては立ち止まり、少し休んではまた歩き始めた。
 歩き続けていなければおかしくなってしまいそうだった。

 いったいどちらへ行けばいいのだろう。自分はどこへ行きたいのだろう。
 何もわからないまま歩き続けた。





 数えきれない曲がり角を通過したところで、視界の右端に何かを捉えた。淡く桃色に発光するそれは得体のしれない物体だったが、黒い道と壁以外のものを久々に見た僕は、すがるような思いで駆け寄った。
 その物体との距離が身の丈ほどに縮まったと思った時、朧げなそれが、しゃべった。

「おや、こんにちは。また会ったね」

 驚いて、僕は思わず訊ね返した。
「あなたとは、どこかでお会いしたことがあったでしょうか」
 言ってしまった後でまずかったと思い、「すみません、何も覚えていないのです」と小声で付け加えた。
「これは失礼。どうやらボクの思い違いだったかな。ボクとキミとは初対面だ」
 そうして、ふふふ、と笑ったようだ。
 
 
「あなたは……」
「ボクの名前かい? 人間は、好き勝手な名前でボクを呼ぶよ。世界の始まり、生命の樹の根源、ただ単に『光』とか――」

 何だろう、『光』という言葉が引っ掛かった。
 脳裏に甦る、照りつける強い日差し。今の季節は……夏?

「ボクのことはいいから、さ。キミのことも教えてよ。キミはいったい誰なんだい?」

 問われて、はたと気がついた。
 僕はいったい、誰だろう。

 暗闇で迷っていた理由だけでなく、そんなことさえも思い出せないとは。
 自分の姿を確認しようと目線を動かしたつもりだったが、すぐに見えるはずの胸から下さえ見ることが出来なかった。
 うまく表現できないのだが、ただ単にあたりが暗くて見えないというよりは、自分の輪郭が不明瞭になり、黒い霧となって散り散りに漂っているのではないか、という気がした。
 事の異常さにおののきつつ、光――彼のことはそう呼ぶことにした――の質問には正直に答えた。

「僕には、わかりません。自分が誰なのか、どうしてここにいるのか」
 光は笑う。
「自分が誰かもわからないなんて、可笑しな人だ」

 僕は、ヒトではありません。

 しばしの逡巡の後、自分についての唯一の確信を口にすると、「それは、見ればわかるよ」と当然の事のように返された。

「あなたには、僕の姿が見えているんですか」
「もちろん。キミがわからないのなら、教えてあげよう。……大丈夫、ボクは全ての生き物を知っているから、きっとすぐに当ててみせるよ」

 そう言うと、光は軽快に歌い始めた。

 ――はてさて、キミはコイルかな。……いいや違うね。目は二つ。
 ――口は一つで耳二つ。それじゃあ、キミはロコンかな。……これも違うね。尾は一つ。
 ――翼が無いから鳥じゃない、ウロコも無いから魚じゃない。四つ足の獣で鋭い歯。これは中々難しい。

 そこまで歌うと言葉を切って、からからと笑う。そうして重大な秘密を打ち明けるような調子で、再び話し始めた。

「大事なことを忘れてた。獣の姿の生き物ならば、毛の色見ればすぐわかる。赤茶の毛並みに、黒い縞。その誇らしげな金のタテガミ。わかった、キミはウインディだ」

 僕はウインディ。そう言われれば、そうだったような気がした。
 そうすると、今まで輪郭もなく漂っていた曖昧な僕の姿は、黒く走る縞と金色のタテガミを持った、赤茶色の獣の形に纏まった。
 相も変わらず不明瞭な輪郭の桃色の光に照らし出された自分の姿を、僕は再び確認した。まるで最初からそうであったと思えるほどに、今度はすとんと納得がいった。
 
 そうだ、僕はウインディだ。


「さて、キミの正体がわかったところで。……ついておいで。ボクにも、キミの行くところがわかった気がするよ」

 元より行くべきところなど無かった僕は、黙ってそれに従った。





 暗黒の迷路を右に曲がり、左に折れ、直進し……時間の経過を示すものの何も無い空間では、数時間にも、数日にも思われた。
 先を行く桃色の光に照らされながら歩を進める内に、この暗闇に来る以前の事が徐々に思い出されてきた。
 一歩、また一歩と進むにつれて、断片的だったそれは一本の線でつながり、やがて自分を形成していた『記憶』という重みをもって輝き始めた。





 僕は、あるトレーナーの手持ちだった。
 彼にとっては人生で三番目に仲間になったポケモンであり、出会った時僕はまだガーディだった。彼はポケモンバトルを好んでいたのだが、今にして思えば、子犬の力などたかが知れていた。精一杯に戦っても、バトルには負けることが多かった。
 全力を尽くしたバトルに負けると悔しかった。悔しくて、悲しくて……。僕だけじゃなく、主人も、相当悔しかったはずだった。
 だが、彼はそれでもいいと言ってくれた。僕をメンバーから外さずに、ずっと連れていてくれた。
 旅路を灯す小さな火だと、言ってくれた。
 とある山に登ったときに彼が見つけた、赤く輝く石の力を浴びて、僕はより逞しく強靭な身体を手に入れた。威力を増した炎の技と軽やかな神速を、彼は立派だと褒めてくれた。
 これでまた、バトルの好きな彼の役に立てると、心から嬉しく思った。


 この不確かな記憶に残る最後の日。
 その日、僕の主人は誰か別のトレーナーからの勝負の申し込みを受けていた。専用の施設で行われるような形式ばったものではなくて、気の赴くままに始められた野良試合だ。
 口約束で最低限のルールを決めると、他人に迷惑のかかりにくい郊外の空き地で、そのバトルは開始された。
 
 僕はモンスターボールの中で自分の出番を待っていた。入れ換えありの三対三形式では、先鋒以外はいつ繰り出されるかわからない。二番手になるか、最後の一体になるかはその時の状況次第だ。
 ポケモンバトルは真剣勝負。今の今まで勝っていても、次の瞬間何が起こるかわからない、目の眩むような綱渡り。あらゆる駒を犠牲にしても、結局は王を取った者の勝ち――なんとかという、盤上のゲームに良く似ていた。

 主人が先鋒に選んだポケモンは、相手の一体目を撃破し、二体目に対しては何も出来ないまま倒された。素早さで負けていたため、相手に先手を取られたのが敗因だった。
 僕は二番手としてボールから繰り出され、雄叫びを上げながらフィールドの向こう側にいる相手を睨みつけた。威嚇によって身がすくみ、相手の攻撃の士気は下がる。炎を纏った突進とそれに続く神速により、僕は二体目を倒した。

 相手のトレーナーが最後に繰り出したのは、虹色のウロコを持つ美しい長魚だった。
 圧倒的に分の悪い相手。炎は効かず、威嚇も通用しない。しかも火傷を負わせれば、その不思議なウロコの効力により、ますますこちらが不利になる。

 しかし、バトル全体を見れば、まだまだこちら側にも勝機があった。
 相手のトレーナーにとって長魚は最後の切り札だが、僕の主人にはもう一体控えのポケモンがいた。しかも都合の良いことに、水に有利な電気タイプのポケモンだった。
 電気タイプは基本的に速攻型だ。素早く打ち込む一撃が強力な半面、耐久には欠ける。交代の隙をつかれ、相手の攻撃を食らうことは何としても避けたいと――そう、僕の主人は判断したようだった。
 晴天に響き渡る大きな声で――彼の手持ちだけに伝わる暗号で――指示が出された。

 自分はここで倒される。捨て駒となって、後続に全てを任せることになる。
 だが、ただ倒されるだけでは済ませない。最後のターンに目に物を見せてやる。

 隠し持っていた香草を迷わず口に含み、すり潰した。舌を刺激する独特の香味が口いっぱいに広がった。素早さでは、元々こちらが勝る。
 夏の日差しを身体全体で集める。一瞬の内に力がみなぎり、奇襲のために取って置いた草タイプの大技――ソーラービームが、一直線に長魚に向けて放たれた。
 甲高い叫び声を上げて、長魚がのたうつ。攻撃は命中。耐久に優れた種族と言えど、弱点を突く大技を食らえば体力は大幅に削られる。
 不利な相手に一矢報いたと思った瞬間、長魚の姿が眩く輝いた――。

 思い出せたのは、そこまでだった。





 暗闇の中、下を向いて歩きながら、思いつくままに口にした。
「……ここは、地獄なんですね」
「どうして、そう思うの?」
「僕は、本当はあの日の戦闘で命を落としていて、魂だけがこの暗闇にやって来た」

 あのね、と光は呆れたように呟いた。
「ここを地獄だと思うからには、キミには何かやましいことでもあるのかい? ここは天国だとか地獄だとか、そんな意味のあるようなものじゃないよ。強いて言うならゴミ捨て場かな」
 ボクはよく通り道として使っているけどね、と彼は続けた。

 天国でも地獄でもなく、ゴミ捨て場。それならなおさら、どうして自分はこんなところにいるのだろう。捨てられるような悪いことを、僕が何かしたのだろうか。
 主人であるトレーナーの顔が頭に浮かんだ。一緒に旅をして、戦って、喜んで、悲しんで……彼が、自分を捨てたのだろうか。
 帰れるものなら、帰りたかった。もう一度、彼に会って、事の真相を確かめなくては。
 ……限りなく、不可能に近いことはわかっていたが。





「着いたよ」
 不意に、光が口を開く。後を追って、急いで角を左に曲がり、僕は『それ』を見つけた。


 黒い縞の走った赤茶の毛並みに、金のタテガミを生やした獣が、暗闇の中何十、何百と折り重なるように倒れていた。
 鏡に映したように自分とそっくりな者達が、一様に時を止めて眠っている。
 
「これは……」

 あまりの光景に、それ以上言葉が続かなかった。
 これは、全部僕じゃないか。どうして、こんな、ところに。


 ぽつり、と独り言のように光が呟く。
「別に、気に病むことでも何でもないのさ。過去に脱ぎ捨ててきた影の事なんか、誰も覚えていやしないんだから」

 続く言葉を聞いた時、僕は自分もまた、この鏡像の墓場で眠る他ないことを悟った。

「……みがわりという技を、キミは知っているだろう?」

 もちろん、僕は知っていた。
 自らの生命力を削って分身を生み出し、囮にする技だ。
 長魚によって跳ね返された攻撃から逃れるために、咄嗟に放った最後の技――。





 光が、まだ何かを言っていた。
 紡がれた言葉を認識する前に、僕の意識は割れて砕けた。




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