雨街レポート 六月三日。シオンタウンはどしゃ降りの雨だった。 今朝のニュースで見た天気図では、カントー地方全体を分厚い雨雲がすっぽりと覆っていた。 今年の梅雨入りは例年より少し早いようだ。 八年前のあの夜と同じように、大きな雨粒が窓を打つ。 ――私は両手を合わせ、目を閉じた。 名もなき命へ。 セキチクシティは今夜も雨。ジトジトした気持ちの悪い日が、ここ一週間近く続いていた。 しかし私の気持ちは対照的に晴れ渡っていた。日ごとに膨れ上がるワクワクが抑えきれない。 「先輩! 多分今夜ですよね? さすがにこれだけ待ったんですから!」 私はこのところ毎日のように発している台詞を、今日も懲りずに口にした。壁側のソファーに腰掛け、コーヒーを飲んでいた先輩はこちらを振り向きもせず、呆れ返ってただ顎を弛緩させた。 「だから分かんねぇっつーの。お前ちょっとは落ち着いて見守るってことを覚えろ」 セキチクシティはサファリパーク。カントー地方有数の国立自然公園だ。 区域内には野生のポケモン達が何種類も分布しており、中には独自の生態系を遂げている種も多いため、他ではお目にかかれない珍しいポケモンも生息している。その大自然のど真ん中に、「あ、そういえば忘れてた」という感じであとから付け足したように建てられたこの研究棟に、私たちは詰めている。 観光案内所や資料館などの施設はサファリパーク南部の入場口に隣接して建てられているのに、この研究棟はそこから二十キロ近くはあろうかという、区域内では一番立ち寄りずらいところに立地している。まるで小学校の遠足で一緒にレジャーシートを並べる友達がいないイジメられっ子みたいだ。 タマムシ大学の大学院に通っていた私は、当時の研究室の教授に「君、ポケモン好きでしょ?」と訊かれ「ええ、まあ」と答えたらいつの間にかここに配属になっていた。 院生時代の友人からは「タマ大出てあそこ?! 考え直しなさいよあんた!」なんてことを言われたものだ。みんな大手企業の技術職に内定が決まっていく中、自分は二度と文明社会に戻れないんじゃないかと本気で思った時もあった。 「あたし、もう待ちきれないですっ!」 しかしそんな不安はここに勤め始めて三日と経たないうちにどこか遠くへ消え去ってしまった。 多種多様な種族が生息しているこのサファリパークは毎日が新しい発見で溢れていた。今までの常識が日ごとに塗り替えられていくのを肌で感じた。 ほとんどお母さんのおなかの袋から出ることがないと言われているガルーラの子供が、群れの中ではほとんどいつも外に出て、他の子供と取っ組み合って遊んでいる。闘争心が強いと考えられているニドリーノが、相手のニドリーノの身体の大きさや角の長さで敵わないと見た途端、戦わずしてずらかってしまう。 参考書では分からない、ありのままの事実がここでは繰り広げられているのだ。 今思えば大学の研究室なんて井の中のニョロトノどころか、虫籠の中のビードル、鉢の中のディグダだ。 白状する。ポケモンは大好き。こんな神秘的で謎の多い生き物の研究に一日中没頭できるなんて、私はきっと世界一の幸せ者である。 「待ってやれ。急いで生まれても仕方ないこと、こいつは分かってるんだよ」 そう言ってコーヒーを一口啜った先輩の視線の先には、ちょうどラグビーボール大くらいの、薄い黄土色をした球体があった。 「――それにしても、何の卵なんでしょうね?」 一カ月ほど前、サファリパークの北東の水辺にほど近い森の中でツアー客により偶然発見されたポケモンの卵。理解のあるツアー客だったおかげで卵は持ち出されずにここへ運ばれ、今はこの研究室の机を半分以上を陣取っているケージの中で毛布にくるまれている。 「――そうだな、ドードーやオニスズメみたいな鳥類か、もしくはニドラン系が濃厚だがなんともいえん。そもそも野生のポケモンの卵なんてそう簡単に見つからないからデータがない」 ポケモンの卵については不明な点が多い。産卵の時期や場所が特定されているものは数少なく、そもそも種族によって胎生と卵生があるのかどうかなど、ほとんどが謎に包まれている。人工的に産卵・孵化に成功した事例はあるが、野生のポケモンの卵を孵化させたという事例は国内ではゼロ。海外を含めても年に数件あるくらいだ。 当然、このサファリパークの区域内で野生の卵が発見されたのは初めてのことである。 「――ミニリュウっていう可能性はないですかね?」 私はケージの前に据えてある「特等席」に腰掛け、卵のつやつやした表面を見つめながら言った。この質問も今日だけで何度したか分からない。 「ない。まずない」先輩は言い切った。「パーセントで言うか? 〇・〇二パーセントだ」 私は唇を尖らせた。 「でも〇・〇二パーセントあるならまだ可能性あるじゃないですか。大体なんですかその根拠のない数値」 「お前なぁ……」 言い返すのを諦めた先輩をよそに、私は両手で頬杖をつき、ケージの中をぼんやりと眺めた。ヒーターと濡れタオルで温度・湿度が一定に保たれた小さな部屋で、うずまるようにして毛布の上に乗っている卵はなんだかとても気持ちよさそうに見えた。 「ミニリュウだといいなぁ――」 サファリパークに配属になって間もない頃、この区域にミニリュウの目撃情報があると聞いて、それはもう心が躍ったものだ。 きっかけは大したものではない。 小学生の頃大流行したテレビアニメの主人公が、カイリューを巧みに操る少年だった。私は少年の方はそれなりに、パートナーのカイリューの方のカッコよさに一目惚れしたのを覚えている。 いとも簡単に敵の攻撃を交わすスピードと、必殺技の破壊光線に毎週シビれていた。クラスの男子が、その主人公が決めゼリフを言う時の真似を教室でやっているのを見て「そこ! 手のひらの向き違う!」と指摘できるくらいのハマり様だ。 普通の子は大人になるにつれ、たかがテレビアニメに対する憧れなど綺麗に消えてなくなってしまうらしい。 しかし私は逆に、そのときからドラゴンタイプのポケモンにのめり込んでいった。 カントー地方のチャンピオンがカイリューの使い手だと聞き、握手会やバトルイベントに飛び回った高校時代は、あまり趣味の合う友達はいなかった。 大学の論文では「竜属性携帯獣の主な類型と生態」をテーマにした。 しかし、テーマにしたは良いもののドラゴンタイプの生態はポケモンの中でも群を抜いて謎だらけで、調べようにも文献が少なく、どこから手をつけてよいのやら途方に暮れた覚えがある。 結局予想の域を出ない仮説を寄せ集めたような論文になり、教授には叱咤されながらもギリギリで通してもらった。 とにかく、私のドラゴンタイプに馳せる想いは誰にも負けないと自負している。 しかしサファリパーク勤務になって一年が過ぎた今も、実際にミニリュウにお目にかかったことは一度もない。 会ってみたかった。野生のドラゴンポケモンに。 雨は勢いを止めることなく、静かな研究室では大きな雨粒がしきりに窓を叩く音がとても耳触りだった。 この分だと明日のフィールドワークも骨が折れそうだ。今週個体数を調べている沼地は雨が降るとすぐに増水してしまう。雨続きのせいで、今や周りの森林がマングローブのようになってしまっている。 「今年の梅雨入りは例年より少し早いみたいだな」 先輩がぽつりと言った。それから自分のマグカップを覗きこむ。「おい助手、コーヒー」 「――先輩、最近人使いが荒いです」 「お前にしか頼めない大事な仕事なんだ。引き受けてくれるね?」 「なんですかそれ」 私はしぶしぶ立ち上がり、湯沸かし器のある部屋へ向かった。 私より三つ年上の先輩は、私が来る前までこの研究棟を一人で持っていたらしい。昔はもっと研究員がいたらしいが、設備不足と資金不足が主たる原因で皆次々にここを去ってしまったという。 私がこの研究棟に配属された初日、先輩が小さな――エビスビールとお惣菜だけの、本当に小さな――歓迎会を催してくれた。 酔っぱらって先輩が語ってくれたのは、この国に対する「嘆き」と「憂い」だった。 「研究に金をかけないんだよ、この国は。次々に建設されるのは『ジム』とか『バトルタワー』ばかりで、とにかく強いポケモン作り出すのに必死だ。なぜかポケモンの戦闘力がそのまま国力に繋がると勘違いしてる。そのこと自体『ポケモンの軍事力化』という問題に繋がる危険があるし、考え方があろうことか虚栄心で成り立ってるシロモノだ。今の子供たちがなりたいのはトレーナーとかブリーダーとか、強くたくましくポケモンを育てる職業ばかり。当然だよな、大人たちがそういう仕事こそ『かっこいい』って言ってるんだから。洗脳にも近いな。そして研究機関にはこの通り、金もかけないし人も割かない。この前の事業仕分けで『不用』とされた研究所は全国で二十二箇所もある。おかしいと思わないか? 俺たちはまだこんなにポケモンのことを知らないのに国が『知る必要はない』と言ってるんだ。資源の乏しいこの国にとって、英知は貴ぶべき『資源』のはずなのに」 知らない。そう、その通りだ。知らないだけじゃない。知ろうとしない。 大学の論文を書く時、ドラゴンポケモンについてこんなにも知られていないのかと、半ば唖然とした。 今まで誰も知りたいと思わなかったのか? 謎に包まれたままで良しとしたのか? あのカイリューのテレビアニメを見て、「トレーナーになりたい」と思う子供たちは大勢いたとしても、「もっとポケモンを知りたい」と思う子供は少ないのかもしれない。 子供の興味は「主人公」であり「手持ち」ではないということか。 でも、私は知りたい。ポケモンのこと、もっともっと。 好奇心と知識欲だけは誰にも負けないから。 「おい! 起きろ!」 突然後頭部に鈍い衝撃が走った。 驚いて目を開けると、先輩が慌しくビデオカメラをセットしているのが見えた。 どうやら私はケージの前に突っ伏したまま眠ってしまったらしい。身体を起こすと、肩にかかっていたブランケットが床に落ちた。 時計はすでに夜中の二時を回っていた。 「全く、楽しみにしてたのはどこのどいつだ? 卵見てみろ」 私は急いでケージに目をやった。 「あっ……!」 ケージの中央に置かれていたはずの卵は角に寄っていた。そして時々小さく揺れてガラスをコツコツと鳴らしている。 よく見ると、一か所だけわずかにヒビが入っていた。 「産まれ――産まれるんですか?!」 私は興奮し、先輩に向かって大声を出した。 「なんで俺に訊く?! 自分で見てるだろうが!」 先輩は私の頭をむんずと掴み、ケージに顔を向けさせた。 ――産まれるんだ。 「殻が分厚くて検卵もちゃんと出来んかったから少し不安だったが――有精卵だったな。転卵も止めといたし、奇形の心配もないだろ」 先輩がいろいろと分析めいたことを言っていたが、私の耳にはほとんど入っていなかった。全感覚神経を目に集中していたからだ。 私は一挙一動を見逃さないようなつもりで卵を見つめた。 今までピクリともしなかった卵が、目の前で揺れ動いているのが不思議でしょうがなかった。さんざん産まれるのを楽しみにしていたくせに、いざ目にすると現実味が伴なってこない。 生きてるんだ。 堅い殻に守られながら、小さな命はずっとこの時を、この瞬間を夢見ていたんだ。 突然グラリと毛布の上を転がり、卵はまたケージの中央付近に戻った。 ヒビが少し大きくなった。 「――がんばれっ」 私は無意識に応援を呟く。 しかしそこからは動きが少し治まり、大きく転がることもなくなった。 「長期戦になりそうだな。お前、あんまり見入ってるとくたびれるぞ? それに卵も緊張しちまうだろ」 「――はぁ、はい」 卵に没頭した私の耳は何も受け付けなかった。 時間は刻々と刻まれ、一時間が過ぎ、二時間が過ぎたが、私は気付かなかった。 いつの間にか雨脚が弱まり、研究室が静かになったのにも、雲が切れて顔を出した月が綺麗な満月だったのにも、私は気付かなかった。 私は無言で卵を見つめ続けた。 空が白み、このまま何も起こらないんじゃないかと不安になり始めた、その時だった。 くぐもった音とともにヒビが少しだけ開いた。 殻の内側の薄い膜が破れているのが見えた。 毛布に透明な液体がこぼれた。 「あ――」私の口からはなんとも情けない声しか出ない。 「いよいよか」先輩がビデオカメラの録画ボタンを押した。 卵の中で、濡れた身体がくるくるとうごめいているのが見えた。 その透き通った小さな命は、全力で中から殻を押している。ヒビが少しずつ、少しずつ、開いてゆく。 外の世界は、あと少し。もうひとふんばり。 「ピーッ!」という産声が研究室に響いた。小さな身体が中で激しく回転する。ヒビが押し広げられて、パキパキと音がした。 「まさか――」先輩の口は半開き状態だった。 そして―― ――卵は一気に二つに割れ、こぼれ落ちるようにしてそれは産まれた。 それに羽毛は生えていなかった。脚も、角もなかった。 「――ミ、ミニリュウ――ミニリュウだ!」 私は立ち上がり、ケージの上から直接その産まれたばかりの命を見た。 けたたましい鳴き声とともに、産まれたミニリュウの赤ちゃんは毛布の上でのたうちまわっている。 「信じられん――〇・〇二パーセントが当たっちまった」 先輩が大きなため息とともに言った。 そのぬるりとした身体は図鑑で見たミニリュウより色が薄い。頭に付いているとさかも、さなぎから孵ったばかりの蝶みたいで、触ったら破れてしまいそうだ。 そしてなにより、こんなにも頼りない姿をしているのにこの子は確かに生きている――そのことに私は、身体全体が熱くなるのを感じた。 かん高い鳴き声は、確かにこの子の口から聴こえる。 その小さな心臓は、確かに鼓動し、脈を打っている。 その透き通った黒い瞳は――私の目から次々こぼれ落ちる涙をとらえてくれているだろうか。 「忙しいやつだなお前は」 「だ、だってぇ……」 いつの間にか嗚咽を漏らし、泣きじゃくっている私の頭を、先輩はわしゃわしゃと撫でた。 「六月三日、午前五時十三分、孵化っと。とりあえずそっとしとけよ。多分産まれてからしばらくは体内の養分が餌だから。さて、協会付属の研究所に報告しなきゃな――なんたって野生の卵の孵化は国内初だ」 そう言って先輩は伸びをしながら、電話をかけに部屋を出た。 体内の養分――そう言えばこの子の喉の下のあたりが少し膨らんでいる。すごいな、産まれてすぐは餌がないこと、この子は分かってるんだ。 私は涙を袖で拭い、「特等席」に座り直し、さっきまでよりは少し落ち着いてケージを見つめた。 生きてる。そのことだけで涙って出ちゃうものなんだ。 命がひとつ、私の目の前で誕生したんだ。 ――信じられない。 そうだ、名前はどうしよう? せっかくだから素敵な名前をつけてあげたい。 そういえば男の子か女の子かはどうやって見分けるのだろう? これから忙しくなりそうだ。 まだあんまり想像できない。でも、ワクワクする。 ミニリュウに、やっと出会えた。 先輩が研究室に戻ってきて、少しイライラしたような仕草で言った。 「電話が通じないんだ。多分ここんとこの雨のせいでどっかイカれちまったんだと思う――ちょっと車出すわ。留守頼む」 「はい、分かりました」 先輩が外に出て、車のエンジンをかける音が聞こえた。 カーテンを開けると、一気に光が部屋の中に差し込んだ。 昨夜までの大雨が嘘みたいに晴れ上がっていた。そこら中にできた大きな水たまりは鮮やかに青空を映し出している。 窓を開けると近くから早起きな鳥ポケモンの綺麗なさえずりが聞こえた。新たな命の誕生を祝福してくれているように。 私はしばらく風にあたっていた。雨上がりの風の匂いは大好きだった。 窓を閉めると、部屋に静寂が戻った。 静かだった。 何も、聴こえなかった。 何も―― 「えっ?」 私が異変に気付いたのはあまりに遅すぎた。 産声が聴こえない。 急いでケージの中を見た。 産まれたての命が、動いていない。 そこだけ時間がストップしたみたいに、動いていない。 「先輩?! せんぱ――あっ……」 先輩はさっき車を出したばかり。電話は通じないと言っていた。ここから他の施設までは約二十キロ。 こんなこと―― とっさに私はミニリュウの喉のあたりに触れた。 生暖かい体温が指先を通して伝わってきたが、心臓の鼓動は感じない。 あんなに力強く脈を打っていたのに、感じない。 命を、感じない。 なんで? どうして? 何が起こったの? 嘘。 「そんな!」 焦りが津波のように押し寄せて、私の冷静な部分はほとんど全部流されてしまった。 私は震える手でそのぐったりした身体を優しく持ち上げた。 尻尾が手のひらからはみ出て、力なく垂れ下がる。 「ど、どうしたら――そんな、こんなこと……」 どうしようもないよ! ここには大した設備もない! 電話も通じない! 携帯も圏外! どうしようもない―― 待って状況に文句言っても仕方ない! なんとかしなきゃなんだ! なんとか―― どうすれば? どうすれば生き返るの? 嘘だ。こんなの。 生き返らせるなんて無理だ! 蘇生術なんて学んでない! 待って前提が間違ってるまだ死んでない! まだ死んでない――まだ―― 嘘だ。こんなの。夢だ。 「どうしよう?! どうしたら――嘘でしょ! ねぇ、動いて! お願いっ!」 お願い? 誰に? この子に? 無茶言うな! それじゃあ誰に? もしかして神様に? 研究者が神様にお願い? 馬鹿みたい―― 私の手のひらの上でピクリともしないのは、私の大好きだったドラゴンポケモン。 いとも簡単に敵の攻撃を交わすスピードと、必殺技の破壊光線に毎週シビれていた。 カントー地方のチャンピオンがカイリューの使い手だと聞き、握手会やバトルイベントに飛び回った。 大学の論文では「竜属性携帯獣の主な類型と生態」をテーマにした。 私のドラゴンタイプに馳せる想いは誰にも負けない。 私は知りたい。ポケモンのこと、もっともっと。 好奇心と知識欲だけは誰にも負けないから。 私は何も知らなかった。 「いやああああああーっ!」 穏やかな朝の日差しがゆっくりと部屋を暖めてゆく。 対照的に、小さな身体は手のひらで冷たくなってゆく。 涙が一粒、その亡骸にしみ込んだ。 私はゆっくりと目を開け、両手を下ろした。 墓石の前に置いた、菊の入りの花束がもう一度目に入る。 墓に名前は刻まれていない。 どしゃ降りのシオンタウンはノイズだらけで何も語らない。沈黙することがこの街の掟のようだ。 窓の外は灰色の雨雲。無数の斜線。 塔の中はジトジトして蒸し暑かった。斜め前の墓に水をかけている老人は、けだるそうに片手で団扇をはためかせている。お参りに来ている人はぽつりぽつりとしかいなかったが、これは毎年の光景だ。お盆の時期でない限り、この塔が賑わうことはない。 ドラゴンポケモンの多くは子育てを行わない。 成竜となったドラゴンポケモンは交尾後、メスのみが産卵地に赴き、卵を産み落とす。一度に産み落とされる卵は二個から五個ほど。発情期、産卵期はなく、時期によって大量発生が起きることはない。基本的に水辺に産み落とされた卵は、三か月から六カ月の間に孵化。幼竜は身体に蓄えられた養分で二、三日は生存が可能。その後は水辺に集まった昆虫を中心に捕食し、成長する。多くのドラゴンポケモンは成竜になると飛行が可能になるため、特定の分布域を持たない。 ミニリュウ系に限定すると、卵が産み落とされてから孵化までは特別その環境に配慮する必要はない。しかし、孵化直後の環境として渓流や澄んだ湖などの「環境破壊の進んでいない、きれいな水辺」が必要不可欠である。湿度とイオン量、そしてその環境そのものが幼竜の成長に決定的な影響を与える。 ――もしも八年前にこのことが解明されていたとしたら、こんな墓など存在しない。 ミニリュウの死に遭遇する前の私は本当に「幸せ者」だった。 ポケモンが好きで、好奇心の赴くままに研究するだけ。知識欲に従順に、のめり込むだけ。取っ組み合うガルーラの子供を見て、臆病なニドリーノを見て、それで満足。それ止まり。それでいて、本当は何も知らず、何も出来ないことを全く認識していなかった。ただ知りたがりなだけで、知り得たものを持て余し、扱い切れていなかった。 それが、消えかかっている命の火を目の前にうろたえるだけの、無知で無力な私だった。 ――私は何も知らなかった。 あの時以来、そんな自分が大嫌いになった。 どんなにたくさんのことを知っても、どんなに常識を覆すような発見をしても、役に立たないと意味がない。知ったつもりになって、博覧強記の肩書だけもらって、全く人やポケモンに貢献しない――そんな研究などするだけ無駄だ。 そう思いながら私はこの八年間、研究に没頭してきた―― ――そしてその途中経過を、今日、報告しに来たんだ。 名もなき命へ。 あの時、私はあなたのことを何も知らなかった。 今でさえ、知らないことだらけだよ。 そして多分この先も、知れば知るほど知らないことが増えてゆくと思うんだ。 だからね、私はずっと研究者のたまご。一人前にはなれない。 でも、私は知りたい。ポケモンのこと、もっともっと。 好奇心と知識欲だけは誰にも負けないから。 絶対負けないから。 あなたにとっては大した話じゃないかもしれないけど、もしよかったら―― 「私の中間報告、聞いてくれませんか?」 <トネガワ・ナツミ――タマムシ大学大学院を卒業後、セキチク国立自然公園(通称サファリパーク)の研究員として勤務。フィールドワークの傍ら、主に竜属性ポケモンの繁殖、捕食、越冬などの生態を研究。四年間の勤務の後、ポケットモンスター協会付属第十一研究所(竜属性を主な研究対象とする)所長に就任。三年後、竜属性抗体の特異な遺伝子構造を解明し、さらにその二年後、竜属性抗体の医療面への応用に広く貢献した功績によりノーベル携帯獣学賞を受賞。女性初、史上最年少の受賞として脚光を浴びた> (9044文字) 〔作品一覧もどる〕
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