鏡の彼 春の、静かな夕暮れのことです。小さな丘の上で、二匹のイーブイが肩を並べていました。ラベンダー色の空が、少しずつ世界を闇に溶かします。 「ねぇ、君は何に進化したい?」 真っ直ぐと空を見つめながら、彼は私に問いました。私は「うーん……」と悩むふりをして、少しの間、彼の横顔に見惚れていました。闇に溶ける世界の中で、彼の瞳がきらきら輝いて見えたのです。 「私はエーフィがいいわ。この空と同じラベンダー色の体が、なんだかとっても綺麗でしょう? じゃあ、あなたは?」 彼は空から目を離し、私をじっと見つめました。 「僕は……ブラッキーがいいな。月の光が好きなんだ」 気がつくと、私たちも闇に溶けていました。輝いているのは街のイルミネーションと、少し欠けた美しい月、そして私を見つめる彼の綺麗な瞳だけでした。 「そろそろ帰ろうか。きっと二人とも僕らのこと探してるよ」 「うん。でも……次はいつ来れる?」 彼は仕方がないなぁという顔をして、また空を見つめました。そして、まだ完全ではない月を見て、こう言いました。 「そうだな……次は、満月の夜に」 その日、家は思いのほか静かでした。いつもなら、私たちのご主人様である双子のアルシスとテイジスが、父親と言い合いを始める時間です。人の集まるリビングや、いつも母親が料理をしているキッチンにも行ってみましたが、そこにも誰もいませんでした。 私と彼は双子の部屋に行くことにしました。この時間、双子が部屋にいることは滅多にありません。でも、これだけ捜してもいないのです、きっと部屋にいるのでしょう。私と彼は、短い足をせっせと動かして階段を上り、双子の部屋へ向かいました。 部屋に入るとすぐに、彼はアルシス、私はテイジスのところに向かいました。ベッドに腰掛けてファッション雑誌を読んでいたアルシスは「おかえりイーブイ!」と言って、彼の頭を少し撫でました。部屋の隅で膝を抱えていたテイジスは、私には反応せず、ひたすら下を向いていました。 私がテイジスの周りをうろうろしていると、アルシスが私に気がつきました。アルシスは彼を抱くと、ポニーテールに結わった髪を揺らしながらテイジスの隣に座りました。 「テイジス、イーブイが戸惑ってるよ」 「うん……ごめんイーブイ、おいで」 私はちょこんとテイジスの膝の上に乗り彼女を心配そうに見つめました。彼女は、耳の下で二つに結わった髪の毛を触りながら、目に涙を溜めています。ぽたり、ぽたり。溢れた涙は私の前足の甲を少しずつ濡らします。私がどんなに心配そうな目で見つめても、膝をぺたぺたつついてみても、彼女の涙は止まりそうにありません。 「そんなに泣いてても、もう決まっちゃったんだし仕方がないでしょう?」 「でも、アルシスがいないなんて考えられないよぉ」 「手紙も、電話もあるじゃない。一年なんてすぐ過ぎるって!」 「でも……」 私と彼は二人が何について話しているのかさっぱりわかりません。 「あのね」 顔を見合わせて目をぱちくりさせている私たちに気がついたのでしょう。アルシスは彼を撫でながら小さい声で言いました。 「離れて暮らすことになったの。あ、でも一年だけよ? お父さんの仕事の関係で、私とお父さんは違うところで暮らすことになったの」 アルシスが私たちにそう言ったあとも、テイジスはひとりで涙を流していました。 出発の日の前夜、あの日はとても綺麗な満月でした。青白い光の中に、淡い桜の花びらが、さらさらと風に流れています。 夜桜舞い散る丘の上で、私たちは何も言わずに寄り添っていました。いつものように当たり前に、言葉も交わさずに……そのときはまだ、離れて暮らすということがどういうことなのか、わかっていなかったのです。一年などすぐにすぎる、あなたの瞳は……あなたの心はいつだって、私を見ていてくれる……と私は信じて疑わなかったのです。 「そろそろ帰ろうか」 「うん、でも次はいつ来れる?」 彼はいつものように仕方がないなぁという顔をして、こう言いました。 「次は、十三回目の満月の夜に……」 あれからひとりで四回の満月を見ました。あと八回、私はひとりで満月を見なければなりません。あの日舞っていた桜の花びらはもうなくて、輝く青葉が重なり合って風と歌っています。去年を繰り返すように、彼を春においてきたまま時間だけが流れていきます。 さみしさは、すぐにやってきてはくれませんでした。それが、さみしさを超えていたからだと気がついたのは、まだもう少し後のことでした。彼との時間をたどるように、私は毎日丘の上で過ごしました。テイジスに帰りが遅いと怒られても、家で留守番をしていろと言われても、私はあの丘の上に行きました。 あなたがいない。それだけで、こんなに時間が長くなる あなたがいない。それだけなのに、私は少し無口になった あなたのいない世界は、こんなにも広くて長かったのね そんなこと、今気がついても意味が無いのに…… 風に流れる青葉の下で、たったひとりで見る月は、私にはとても大きすぎたのです。 ある日、私は双子の部屋の前で、いるはずのないアルシスを見ました。彼女は確かに髪の毛をポニーテールに結わっていました。双子で、顔の瓜二つなアルシスとテイジスは、自分たちの見分けがつくように、髪の毛の結わき方だけは変えていたのです。 彼女は、小走りで部屋から出ると、大きな鏡のある部屋に行きました。私はそこに彼がいるのではないかと、必死で彼女のあとを追いかけました。 部屋に入ろうとした、そのときでした。息を切らせた私の目に飛び込んできたのは、鏡に映る自分に話しかけているアルシスの姿でした。 「ねぇアルシス、元気? 私、やっぱりアルシスがいないとだめなの。今までたくさんのものを半分こしてきたでしょう? 大好きなパンケーキも、一緒に使っていたお部屋も、この体、命でさえ……半分こしてきたでしょう? だから、やっぱり一緒にいないとだめなの……」 鏡の前のアルシスは、ぽろぽろと涙を流していました。そう、彼女は、髪をポニーテールに結わったテイジスだったのです。 その日の夜、私はもう一度鏡の部屋に行きました。そして、鏡に映る自分の姿をまじまじと見つめました。そして、私もテイジスのように鏡に話しかけてみました。 鏡の前のイーブイは私。でも、鏡の中のあなたは誰? あなたを見た瞬間、懐かしい声がよみがえったの 少しだけ忘れていたあなたの声が、こんなに鮮明に、こんなに艶やかに あれ、あなた泣いている? 結局、さみしかったのです。私も、テイジスも、さみしくてさみしくてたまらなかったのです。だから、幻でも偽物でもいいから、想う相手に会いたかったのです。 その日から、私は度々鏡の部屋に行くようになりました。鏡の中の彼に会いに行くためです。もちろん、心の中では「これは本物じゃない」とわかっていました。それでも、鏡に映る自分を、彼だと思い込んでいたかったのです。 一年という月日は、私が思っているよりも遠く、広く、長かったのです。 いつもより長く感じた夏が終わり、秋が来ました。葉の色が変わり、落ちていく中で、私は少しの不安と今にも溢れそうな切なさに胸がいっぱいになっていました。私は彼が遠くに行ってしまっても、彼のことを想い続けてきました。でも、彼はもう私を想ってくれていないかもしれないと、思い始めたのです。 草木の色が変わってく 色褪せいつかは枯れていく 私の気持ちは変わらなくても あなたの気持ちはわからない 落ちてく木の葉は枯れてても 私の気持ちは枯れないの 近くにいたからわからなかった? 隣にいたから気づかなかった? こんなにあなたを愛していたのに こんなにあなたを愛していたのに…… 隣にあなたはもういない 溢れる気持ちは温かいしずくとなってとめどなく瞳から零れ落ちます。 ねぇ、最後にあなたと満月を見たあの日 私がこんな風に泣いてたら もっと違う未来があったのかな……? それは、一人で見る八回目の満月の日でした。外に積もっている雪のように、白くて綺麗な封筒を持ったテイジスが「アルシスから手紙がきた!」と、嬉しそうにしていました。 「アルシスのイーブイは進化したんだって。何に進化したかは書いてなかったけど……」 私は最初、それがどういうことだか理解できませんでした。しばらくして頭の中を整理してみると、それが私にとって非常にまずいということに気がつきました。私は急いで鏡の部屋へ向かいました。鏡の部屋に入ると、そこには息を切らした私が映っていました。 彼は進化しました。きっと彼は美しいブラッキーに進化したのでしょう。月の光が好きだと言っていましたから。でも、これで、鏡の中の彼は彼ではなくなってしまいました。鏡の前に立てば、いつでも彼に会えたのに、もう彼に会えなくなってしまったのです。 鏡に映った自分は、少しだけ清々しい顔をしていました。そのとき私は自分に言い聞かせるように、鏡に語りかけました。 鏡の前のイーブイは私。鏡の中のイーブイも私 あなたはもう、ここにはいない それだけでこんなに不安になるの あなたの瞳も、あなたの心も もう私を見てくれてはいないかもしれない それでもね、私はあなたを愛してた 私はあなたを愛してる だから、ねぇ? 間違った選択をしたかもしれない私を 笑って許してくれるよね……? 今日は、とうとう十三回目の満月の日です。私は家ではなく、いつもの小さな丘にいました。昨日、テイジスが「明日アルシスが帰ってくるのよ!」と言ったときから、私は今日ここでずっと彼を待っていようと決めていたのです。 茜色の空が少しずつ青に溶けて、ラベンダー色に変わっていきます。私は自分の姿を桜の木の影に隠していました。それは、ちょっとした悪戯心でした。進化した私を見れば、彼は驚くに決まっています。ですから、精一杯驚かしてやろうと思っていたのです。 私が空を見つめていると、ラベンダー色に溶けた何かがこちらにやってきました。きっと、彼です。私は木の影の中で少し身構えました。そして、彼が驚いてこちらに駆け寄ってくるのを待っていました。 でも、驚いたのは彼ではなく、私のほうでした。 ラベンダー色に溶けた彼は、ブラッキーではなく、美しいエーフィだったのです。 「どうして……? どうしてエーフィに?」 彼が進化したと知ったあの日、私は鏡の前でブラッキーになろうと決めました。私は自分自身のなりたいものではなく、鏡の中に彼を見ることを選んだのです。そして彼も、私と同じことを考えていたのです。 私たちはお互い見つめあったあと、少しずつ闇に溶ける空を見ました。私はこの一年間で、こんなに変わってしまったのに、舞い散る桜の花びらと、きらきら輝く彼の瞳は、一年前のままでした。 ある満月の晩のことです。ラベンダー色の美しいエーフィと、それより一回り小さなブラッキーが、小さな丘の上で肩を並べていました。 「あのね、こうやってあなたを見ていると、まるで鏡の前で自分を見ているような気がするの。あのとき話した、なりたい自分を――」 (4562文字) 〔作品一覧もどる〕
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