此岸






 道の向こうに、古い屋敷があると聞いた。
 道の左右にはだだっ広い緑の空き地が広がり、舗装されていない茶色の線が一本だけ、延々と続いている。道と言う言葉がこれほどしっくり来る道もそれほどないだろうとわたしは感心した。
 もうすぐ春になるのかもしれないし、ならないのかもしれない。そんなけだるい寒さの中、わたしは黒いデルビルを引き連れて、停滞した灰色の空の下を歩いている。
 女の子だから。そんな単純な理由で長く伸ばすことを義務付けられた真っ黒の髪が、その存在価値を疑うようにべっとりと頭にこべり付く。わたしは、わたしの髪の黒さをほめる人間を例外なくすべて信用しない。
 清潔な白い服、護身用の黒い犬、通信用の赤いポケナビ、そして口を覆う大きなマスク。
 それがわたしのすべてだった。

「お嬢ちゃん。そっちは危ないよ」

 この道の持つ数少ない分かれ道からやってきたらしい山男が、ちょうど道が分かれるところで立ち止まり、後ろからわたしに声をかけた。
 そんな気のいいおじさんを完全に無視して、わたしはそのまま進んだ。
 デルビルだけが申し訳なさそうに相手の方へ顔を向ける。

「お化けが出るらしいぞ」

 彼はもう一度、そう言った。
 知ってる、とわたしは相手の顔を見ないでつぶやく。
 大丈夫。知ってる。ありがとう。でも、わたしはそれに答えることができない。
 デルビルが不安げに鼻を鳴らす。
 わたしは歩を進める。


 ◇


 進化の定義は、遺伝子の世代間変異である。
 集団内においてある対立遺伝子の出現率が次世代と親世代とで異なっていた場合、その時点で進化となる。

「ですから」

 生物学の教師が教卓から身を乗り出す。

「ポケモンの進化は、あれは進化であって、進化ではないんです。だからポケモンは進化をしない。決して誤解しないように」

 教師は初老に差し掛かった恰幅のいい男だった。
 季節は夏だった。小さな扇風機が2台。カタカタと音を立て、教室の左右から生暖かい風を吹いてよこしていた。そんな小さな努力の跡を、セミたちの声がかき消していく。
 半数以上の生徒は机に突っ伏しており、教師の話を聞いていない。
 そんな中、一人の生徒が質問した。
 わたしだ。
 ブーバーに水をぶっ掛けた残りかすのような熱気の中、自分でもいやになるくらい小さな音として、わたしの声は教室中を彷徨った。

「なんで、進化の定義をそんな変なのにしたんですか? ポケモンのあれが進化ってことにすれば、別にいいんじゃないですか?」

 先生はあからさまにいやな顔をした。
 進化の定義が異なるんだと、彼はもう一度繰り返す。

「定義がね、違うんだ」


 ◇


 古い屋敷は、その実言うほど古くはないし、屋敷と呼べるほど大きなものでもなかった。
「古い」という言葉の定義はたぶん十〜二十年前と言う意味だろう。そう思うことにした。屋敷の定義は……めんどうだから、放っておこう。
 要するに、道の突き当たり、中古の薄汚れた一軒家にたどり着いたというわけである。
 周囲には大きな木々が密集している。この雰囲気から「屋敷」と呼ばれるに至ったのかもしれない。
 デルビルは、帰りたそうにわたしの足を鼻で突っつく。わたしは当然無視する。
 この世界には、ルールが必要だ。
 山小屋を指差して屋敷と呼んではならないし、ポケモンは進化をしないし、犬は飼い主に従順でなければならない。

「待て」

 わたしがそう言うと、黒い犬は悲しげに鼻を鳴らして、門の前に伏せた。
 わたしは手を伸ばして門についている小さな鍵をはずす。
 そして、一人で中に入っていく。
 いや、一人ではなかった。


 ◇


 二十三人だったか、二十四人だったか、思い出せない。
 ビリー・ミリガンの数である。
 彼は多重人格者だった。ひとつの体に複数の人間が同居していた。
 でも、わたしの人格は残念ながらひとつしかない。ずっと昔からそうだったのだから、仕方がない。
 彼らたちを頭の隅に追いやって、徒歩3秒の庭の道を歩ききる。ポケットから鍵を取り出す。鉄の扉に差し込む。乾いた音がして、錠が外れる。
 屋敷の中は薄暗く、目がなれるのに少し時間がかかった。土足のまま一本しかない狭い廊下を突き進み、突き当りの木製のドアを開ける。油のささっていない蝶番が不愉快な音を立てる。

 部屋の中は真っ暗だった。
 闇の向こう側に目をやると、何十・何百と言う金色の眼が、わたしを見つめていた。

「もう、ゲームは始まってるの?」

 マスクをはずす。
 真っ赤に裂けた口をあらわにして、わたしはそうたずねた。

「ルールは?」

 そう。言葉には定義が必要だし、ゲームにはルールが必要だ。
 人形たちの笑い声がこだまする。
 No354 ジュペッタ。

 “わたくしゲーム”が始まった。


 ◇


 山の神様の話をしよう。
 ある山に小さな小屋が建っていた。その小屋には30の半ばを過ぎ、当時としては人生の折り返し地点を迎えたと言ってもよい年頃の男が住んでいた。
 その男には妻がいた。しかし、6年前に死んでいた。男はそれを認められなかった。そこで山の神様に祈りを捧げつつ、彼は何年も山小屋に引きこもって人形を作っていたのだ。
 妻とそっくりな、等身大の人形を。
 なるべく山にある材料だけを用いてそれを作ろうとした。表面の生地や、詰め物、目玉に至るまで、山中で調達した材料を加工して作った。そのほうが山の神様に認めてもらいやすくなるだろうと考えたわけである。
 しかし、髪の毛だけは、むかし妻の頭についていたものであった。古くに作られた人形には、しばしばあることだ。
 男はその髪を何よりも好いていた。妻の形見ともいえるその髪を、愛していた。
 言うまでもないだろうが、その髪は、長く、黒い。

 彼の名誉のために、ひとつ付け加えておこう。
 その人形の口は、はじめ裂けてはいなかったし、男の妻は平凡な顔だった。
 男の願いが通じて命の宿ったその人形は、人間と全く同じ姿になったということだ。
 しかし、ジッパーで己の魂を内部に閉じ込めておくには少々小さすぎる口だったと、そういうことであるらしい。
 わたしが生まれた4年後に、ジュペッタがこの体の中に入り込み、わたしをただの操り人形に降格させた。
 それ以来、わたしの口は真っ赤に裂けている。


 ◇


 道の向こうに、古い屋敷があると聞いた。
 道の左右には判で押したような同じ形の住宅が延々と続き、コンクリートで舗装された道がそれらをすり抜けるように続いている。
 もうすぐ春になるのかもしれないし、ならないのかもしれない。そんなけだるい寒さの中、わたしは少し老いてきたデルビルを引き連れて、工場の煙で白く濁った空の下を歩いている。
 女の子だから。そんな単純な理由で長く伸ばすことを義務付けられた真っ黒の髪が、その存在価値を疑うようにべっとりと頭にこべり付く。わたしは、わたしの髪の黒さをほめる人間を例外なくすべて信用しなかったし、それは今でも変わっていない。
 清潔な白い服、護身用の黒い犬、通信用の赤いポケナビ、そして口を覆う大きなマスク。
 それがわたしのすべてだった。

「お嬢さん。そっちには行かないほうがいいよ」

 この道につながる数少ない公園で一服していたらしい会社員が、公園への入り口で立ち止まり、後ろからわたしに声をかけた。
 そんな優しいおじさんを完全に無視して、わたしはそのまま進んだ。
 デルビルだけが申し訳なさそうに相手の方へ頭を向ける。

「お化けが出るらしいぞ」
 
 彼はもう一度、そう言った。

「危険な家があるんだが、なかなかつぶせないみたいだね」

 かれは続ける。
 知ってる、とわたしは相手の顔を見ないでつぶやく。
 知ってる。ありがとう。この生活も、もうすぐ終わりにしてくれるんだよね。
 デルビルが嫌そうに鼻を鳴らす。
 わたしは構わず歩を進める。


 ◇


 七十二番競争、ゲーム・セット。

 かつてはルールがあった。しかし、もはや存在しない。それが今のルールだ。
 ルール無用のバトルの勝者がゲームの勝者となる。
 青白い焔が部屋一面を焼き尽くす。恨み、怨念、そして生き残りへの切望をこめた紫の弾道が黒の拳を粉々に砕いた時点で、また一つゲームが終了した。
 見せかけの焔が、音もなく消えてなくなる。

 審判は、わたしだ。
 物言わぬ、わたし。
 ジッパーの開いた魂の抜け殻が、多くの魂たちの争いを眺めている。
 魂こそが「私」だ。だからわたしは、「私」たちの戦いを眺めていることになる。
「私」たちが、わたしと言う「操り人形」をめぐって争う。だからこのゲームは“わたくしゲーム”と呼ばれている。幼稚な名前だと思う。
 ジュペッタたちの持つ数少ない語彙をして、唯一思いついた名前であったのかもしれない。


 わたしには、教養がある。数式を展開し、言葉の定義を理解し、書類にサインすることができる。
 山の神様のおかげで、わたしは学校へ行き、読み書きを習い、進化の定義を教わった。わたしには、知識を収める器があったのだ。
 そして彼らは、その器を欲した。
 人間の姿をしていても、彼らにだけは、わたしが人形であることが分かったようだ。


 ゲームの勝者であるところの「私」がわたしの目の前に浮かんでいる。
 そして、わたしの口の中に入り、わたしに力を与える。
 わたしから奪い去った生きる力を、もう一度わたしに吹き込むのだ。


 ゲームの勝者はわたしという最高の人形の中に入ることが許される。そして、わたしとして生活する。
 わたしに入った「私」は人間として振舞える。だから家を一軒購入することも、土地開発に反対することも、可能だ。
 彼らの生きる場所を、守ることができる。
 人間と言う生態系の頂点に君臨する生物に抗うための進化の帰結こそがわたしであり、わたくしゲームと言う社会システムなのだ。
 もしこれを、進化と呼ぶならば。


 でも、近いうちにこの生活も終わりを迎えるだろう。
 会社員の姿をした山の神様が、屋敷の外からわたしを見つめているのを感じる。


 ◇


「いいかげん、立ち退いてもらえませんかねぇ」
 十五階建てのビルの九階にあるオフィスの一角。余り似合っていないアルマーニのスーツに身を包んだ若い男が、私に向かってそう言った。「あなたは何か、勘違いしている」。
 わたしの中に居るジュペッタが動揺しているのを感じる。そいつをわきへ押しやって、男との会話を続ける。

「いいですか、お嬢さん。法律ではね、確かにあなたの居住権は、認められていますよ。でもね、これはね、ルールなんです。暗黙のルールってやつです。大きな組織が大きな建物を作ろうとしたならば、小さなあなたは小さな建物を手放さなきゃいけない。そうでしょう? そうすることによって、いまの社会システムの基盤ってやつがね、成り立っているんですよ」

 ジュペッタは、わたしに反論することを指示する。

「なぜ、それが、ルールなのですか」

 わたしは、そう尋ねた。
 男は、明らかに不満そうな顔で、答える。

「あなたね、ルールってものの意味を、ちゃんと理解してますか?」

「理解している」と、わたしは答える。
 ルールとは、反復だ。同じようなことを同じように何度も何度も繰り返すこと。そうすることによって、ルールは既成のものとなる。

「わかってるじゃないですか」

 男は、言う。
 なら、なぜ、我々の提案を受け入れないのか。

「その反復が、崩されることがあるからです」

「崩される? 一体誰に」

 男は額にしわを寄せて、わたしに聞く。
「たとえば、山、とか」 とわたしは答える。
 近頃、山の神様は積極的にわたしに近づいてきている。ジュペッタや土建業者たちからわたしが解放される日も近い、とそう信じていた。
 男は大きな声をあげて、笑った。

「はははっ。山、かぁ。そう来ましたかぁ」

 いやはや、とまだ笑いの抜けきらない顔で続ける。

「じゃあ、お嬢さんが大好きな、山の話をしましょうか」

 近所の山ですよ、とそう言って、わたしが一番よく知っている山の名前を挙げた。

「その山は案外大きくってね。その上作物の耕作に向くような扇状地やらなんやらってものが全然ない。それなのにしょっちゅうがけ崩れを起こして近所の人たちに迷惑をかけてたんですね。それはもう、邪魔で邪魔で仕方が無かった
「で、この度ウチが新たなプロジェクトの発注を受けてね。あの山、どうなると思います? 切り崩して平らにしてニュータウンを作るんですよ。そんでもって、切り崩した山の土砂は埋め立て地を作るのにつかわれる。山は無くなるし、海にも山にも町はできるしで、一石二鳥でしょう。そんな山がどうやってあなたを助けるんでしょうね。もし山の神様がいたとしたら、むしろあなたに助けてくれって頼みに行くんでしょうねぇ」

 男はまくしたてるように、そう言った。
 わたしは茫然として、言葉を失った。
 ジュペッタは依然として、わたしに家を守るようにと叫び続けている。


 ◇


 道の向こうに、古い屋敷があると聞いた。
 道の左右には、奇をてらった妙な形の住宅がポツンポツンと建ち、コンクリートで舗装された道がそれらをわきに従えてまっすぐに続いている。
 夏になる直前の湿った梅雨の空気が辺りに立ち込めていた。そんなけだるい暑さの中、わたしは新しく雇った若いヘルガーを引き連れて、黒くよどんだ空の下を歩いている。
 清潔な白い服、護身用の黒い犬、通信用の赤いポケナビ、そして口を覆う大きなマスク。
 それがわたしのすべてだった。

 業者との折衷案として、保証金だけでなく別の家を手に入れた。これは文字通りの“古い屋敷”だった。面積的にも大変広く、ジュペッタ以外の多くのゴーストポケモンたちもやってきた。

 そして、繰り返しが始まった。

 わたしは、何百何千という回数、屋敷に足を運び、ある時は屋敷の修繕工事を依頼し、またある時はわたくしゲームに立ち会った。

 その間に、山は切り崩されて高台になり、海は埋め立てられて陸となり、土建業者は大きな利益を元手にしてさらなる開発を進めた。
 しかし、それも長くは続かなかった。
 海外の大手証券会社が破たんしたのをきっかけに、地価やマンションの価値が激減し、発注は減少。結局、多大な不良債権を抱えてその会社は倒産した。
 その後、景気循環理論における景気の谷を通り越し、また金の周りがよくなって辺りの風景も一変した。また新たな土建屋ができてきて、大きなビルを建て始めたのだ。

 
 力をくださいと望むのは、もうやめにしてしまった。
 山の神様がわたしを解放してくれることは、有り得ないのだから。
 助けてくれると、信じてた。見守ってくれていると、信じていた。
 けれども、その山でさえ、切り崩されるのを恐れるただの組織に過ぎないことが分かり、実際に消えて無くなった。
 ただ、それだけだった。
 
 その間も、わたしは無限に続く回廊を何度も往復しているかのような既視感を味わいながら、霊たちの言うとおりに屋敷を管理し続けている。


 ◇


「いいかげん、立ち退いてもらえませんかねぇ」
 三十一階建てのビルの十八階にあるオフィスの一角。余り似合っていないグッチのスーツに身を包んだ中年男が、私に向かってそう言った。「あなたは何か、勘違いしている」。
 わたしの中に居るジュペッタが動揺しているのを感じる。そいつをわきへ押しやって、男との会話を続ける。

「いいですか、お嬢さん。昔はね、確かにあなたの家はお洒落だと思われてたんですよ。でもね、これはね、世間の空気なんです。時代の要請ってやつです。新しい組織が新しい建物を作ろうとしたならば、古いあなたは古い建物を手放さなきゃいけない。そうでしょう? そうすることによって、いまの社会システムの基盤ってやつがね、成り立っているんですよ」

 ジュペッタは、わたしに反論することを指示する。

「なぜ、それが、時代の要請なのですか」

 わたしは尋ねる。


 ◇


「なぜ、それが、ルールなのですか」
「なぜ、それが、要請なのですか」
「なぜ、それが、定義なのですか」
「なぜ、それが、空気なのですか」
「なぜ、それが、必要なのですか」
「なぜ、それが、世界なのですか」


 何回、このやりとりを繰り返したのだろうか。
 山の神は、もういないのだ。
 わたしは、誰かに何かを望むことは、できないのだ。
 今回も、わたしは同じように答えるしかない。言葉づかいは違うけれども、結果はいつも同じ。

 その あみだくじ には入口が何個かある。けれどもどこを選んでも結局は一つの出口に行きついてしまい、メビウスの環を踏破した上でまた別のあみだを選ばされるのだ。
 明日が来ることは物理法則で確約され、昨日が続くことは形而上学的法則において決定されている。そして世界の約束に従って人形はその所有者の意のままに動く。
 言葉には定義が必要だし、ゲームにはルールが必要だ。
 人形の定義とはそのルールに従う一つの駒であり、世界と言う名前のゲームに従って、わたしは規則通りに生かされる。
 今日も明日もその次の日も、永遠に。

 ルールがね、違うんだ。
 定義がね、違うんだ。
 わたしの言ってることは、正しいですか。

「あなたは何か、勘違いしている。このゲームのプレイヤーは私達であって、あなたは単に私共に家を提供してもらえればいいだけなのです。それにお嬢ちゃん一人で生活するにはちょっと広すぎるでしょう、あの家は」

 土建業者の中年男がそう言った。

 午後のけだるい空気の中、男はすぐにでもわたしに契約書のサインを書かせて昼寝をしたいのだと言う願望を隠すことなく、横柄な声を出す。
 午後の暖かな日差しがわたしたちに覆いかぶさってきた。
 書類の束を抱えたうら若き女性社員がメタボリックの中間管理職にとびきりの笑顔を振りまき、太って首が見えなくなっている男性社員が相手先の会社に向かって何回も謝罪を続けている。
 動揺して声が小さくなっているジュペッタが、それでも家を守るようにと早口でわめきたて、高台になり下がった山の神がわたしの横で愚痴をこぼす。
 この建物の周りには、同じような高層ビルが幾十も立ち並び、その一つ一つで多かれ少なかれここと同じような社会システムが維持し続けられているのだ。
 今日も明日もその次の日も、永遠に。


「あなたは何か、勘違いしている」


 男がもう一度、そう言った。

 わたしは何をしているのだろう。
 わたしはなぜここに居るのだろう。
 あなたは何か、勘違いしている。
 あなたは何か、勘違いしている。
 わたしは何か、勘違いしている?

 その瞬間だった。
 わたしは男の言葉を完全に理解した。
 男の発言の意味を理解し、言葉の定義を理解した。
 ようやく、すべてを、理解した。
 特別な高揚感と言うものは何もなく、けれども正しいことを知ったのだと言う不思議な充足感がわたしを満たした。
 わたしは何か、勘違いしていた。
 わたしの口から出たものは、いつもとは少し違う言葉だった。


「全面的に断る、と言ったならば、どうしますか」


 中年男の顔が、みるみる赤くなる。
 それを見ていた体格の良い男が後ろから中年男を腕でわきに押しやって、わたしの方へ身を乗り出した。

「いいですよう。その代り、怖い怖いお兄さんがたくさんやってくることになるでしょうねぇ」

 下品な口調で彼はそう言った。
 かまいません。とわたしは言い切る。そして、続ける。

「言葉には定義が必要だし、ゲームにはルールが必要です」

 相手の男の困惑の眼差しも、心の中のジュペッタの当惑も。両方ともどこか遠くの方にある様な、そんな心持でわたしはオフィスを後にする。

「いいんだな。どうなっても知らんぞ」

 体格の良い男が後ろから凄みをきかした声をかける。
 大丈夫。わたしは、知ってる。


 ◇


 社長からの電話を切る。
 道の向こうに、古い屋敷があると聞いた。
 道の左右には、大型ショッピングモールや高層マンションが立ち並び、コンクリートで舗装された道がそれらをわきに従えてまっすぐに続いている。
 季節は初春の頃。眠らない町だ。周囲は昼間のように明るい。宣伝、喧嘩、笑い声。ゲームセンターの明るい音楽にポケモンバトルの喧騒、そんな音たちでごった返した夜を我々は歩いている。
 春一番が吹き荒れている。
 部下に目をやる。
 レベル五十は下らないポケモンを何匹も所有した男たちを周囲に引き連れて、誰も声をかけてこない夜の道を進む。
 家の前に着いたところで、もう一度、本部へ電話をかける。
 多少荒いことでも許されると聞いた。この電話は、その確認だ。
 男は、久々に心の高ぶりを感じている。


 ◇


 百八十六番競争、ゲーム・セット。

 かつてはルールがあった。しかし、もはや存在しない。それが、今のルールだ。
 ルール無用のバトルの勝者がゲームの勝者となる。
 青の焔が部屋一面を焼き尽くす。怒り、憎しみ、そして生き残りへの切望をこめた黒の刃が対戦相手を切り裂いた時点で、また一つゲームが終了する。
 見せかけの焔が、音もなく消えてなくなる。


 ◇


 四十二階建てのビルの最上階にあるオフィスの一角。余り似合っていないドルガバのスーツに身を包んだ老人が、一人電話で指示をする。


 ◇





 ノックの音がした。





 周囲が静まり返る。
 ジュペッタ達も、わたくしゲームを観戦していたヨノワールやゲンガーたちも、一斉にドアの方へ向き直る。
 ゲームの勝者がわたしの体の中に入ろうとしていたその直前だった。彼が慌てているのを肌で感じる。

 わたしは学んだ。
 動揺しているときの魂は、弱い。
 わたしは、ゲームの勝者の残していたエネルギーを吸い取って、彼をそっと床に下ろす。
 物音一つ、しなかった。

 わたしは言う。

「お客さまよ。丁重に、もてなさなくては」

 わたしは力のみなぎった白い腕を高く上げて、指を鳴らす。
 音を立てて大広間のドアが開き、そして玄関が開く。
 霊たちは、一斉にそのドアの向こう側へと目を向ける。


 誰もいないのに突然開いたドアに少し戸惑いつつも、黒服の男たちが、屋敷の中に入ってくる。
 屋敷内部に光はない。男はハイパーボールからブーバーンを出して、明りをとった。それに続いて、何十匹ものポケモンたちが放たれる。
 赤いじゅうたん、埃のかぶったシャンデリア、ひび割れた青い花瓶。それがこの屋敷のすべてだろう。あまりの質素さに、男たちは驚きを隠せないでいた。
 人間が生活している空気が感じられないと、彼らはそう思ったのだろうか。

 先頭の男が、金色に光る何千という目を見つけた。

 男たちが霊への恐怖に叫びだすのと、屋敷内の霊たちが人間と言う最大の敵におののいて叫び声を上げるのとは、ほぼ同時だった。
 恐怖に我を忘れたブーバーンが炎の玉を乱発し、霊たちも青い焔で床を舐める。


「さぁ、ゲームが始まるわ」


 世界と言う名のゲームは、わたしにとっては広すぎる。だからわたしがゲームの駒だと言うのは、言葉の定義上の誤りだ。

 真の駒は、彼たちで、人形の定義は、彼たちだ。
 わたしは自分のことを人形だと思っていたのだが、それがそもそもの間違いだったのだ。
 真の人形は、彼たちだ。
 それを、彼らが教えてくれた。

 わたしは屋敷内すべての窓を全開にする。
 周囲に火が燃え移るようにと。
 ゲームをしている駒たちが、皆一堂に会するようにと。

 その炎は、春一番に乗って、眠らない夜を燃やした。


 ◇


 わたしは今、人間たちが逃げ出した後のショッピングモールに来ている。
 店内の奥からは火の手が上がっている。パニックに陥った人間と手持ちのポケモン達により、そこは廃墟のようになっていた。

 わたしはマネキン人形が納められたショウケースに近づく。クモの巣状にひびが入ったガラスの窓にわたしの像を映しだし、外側からじっと見つめる。

 それは、正真正銘のわたしのようにも思えたし、生まれたばかりの、まったく新しい命のようにも、思えた。

 大きなガラスが、粉々に砕けて、散った。





(9690文字)