冷たい水の中をきみと歩いていく 目が覚めて、身体を起こす前に、いつもやっている習慣がある。 身体の芯から順番に、腕や脚を、そして手や足を順番に動かしていく。眠りの世界の束縛から解き放たれるのを確かめ、大きく深呼吸してから起き上がる。 よし、異常なし。今日も快調だ、と起き上がってみると、周囲をとりまく環境はいつも通りではないことに気付いた。 ベッドは確かに愛用のもの。だが、ここには壁も無ければ、天井もない。鈍い空色に、ぼんやりと太陽の光が差し込んでくる。 地平線の彼方まで広がる茶色い大地にあるのは、テーブルとキッチンとソファと、それから冷蔵庫ぐらいだった。あと、小物が何点か。家具のある辺りにだけじゅうたんが敷いてあり、ここは壁のない部屋のようだった。 キッチンには、黄色い服を着た女性が立っていた。どうやら料理を作っているらしい。包丁で、何かを切る音がする。味噌汁が入っていると思わしき鍋の火を加熱しながら、フライパンに卵を落とす。ジュウ、と美味しそうな音が広がる。慣れた手つきで、更にもう一品サラダを追加する。まるでダンスを踊るように、彼女の動きには無駄がない。僕はしばらく、その姿に見とれていた。テキパキとした動きの途中、振り向いた彼女と目が合う。予想より早い対面に、思わず息が止まる。 「おはよう」 彼女は言った。おはよう、と返事をしている間に、テーブルにコーヒーが置かれる。「もうちょっとで出来るから、それ飲んどいて」と言われたので、僕は椅子に座り、銀色のカップの中身をすすった。 僕が落ち着かなかった。と言うのも、彼女がまるで家族ように親しげに振舞うせいだ。僕は彼女のことなど知らない。もしかしたら、覚えていないだけで実はどこかで会っているのかもしれない。彼女の後ろ姿を見ながら、色々思考を巡らせてみたが、何も進展はなかった。 彼女は、奇麗な人だった。二重のぱっちりとした目は澄み切って、肩まで伸ばした髪とよく似合う。姿勢がいいせいか、背も高く見えた。動きやすそうな黄色い服も、その美しさを損ねない。魅力的な人だ。 「とりあえず、ごはんにしよっか。いただきます」 並べられた食器を前に、僕らは手を合わせる。僕は何故見知らぬ美人と見知らぬ場所で呑気に朝食を取っているのか。状況が把握できず、頭は混乱していた。とりあえず、目の前のことに集中するしかない。 「おっ」 フライパンに落とされた卵は、目玉焼きかと思っていたが、少し違っていたことに気付く。 「ベーコンエッグじゃんか。好きなんだよ、これ」 彼女はにんまりと笑った。 食べ終わった後、僕は彼女の話を切り出すことにした。 「ねぇ、ここは一体どこなんだい。何で僕はこんなところにいるんだい」 ストレートに、疑問をぶつけてみた。彼女はこんな生活を普段からしているように振舞うので、何か知っているのは間違いない。しかし彼女の反応は、悲しい表情で僕を見つめるだけだった。 「覚えてないの?」 「うん。まあね」 「そう」 彼女はひどく残念そうに言い、そそくさと食器を洗いにシンクへ向かってしまった。やはり、僕が覚えていないだけなのか。会話のない時間が、妙に居心地が悪く感じられた。 ふいに、わん、という声が聞こえる。いつの間にか一匹のグラエナが足元に座って、僕の顔を見上げていた。頭を撫でてやると、尻尾をぶんぶん振り回す。 「テン」 皿洗いを終えたらしい彼女は、グラエナの名前を呼んだ。テンの首元をかいてやると、気持ちよさそうに目を閉じた。 「私、この子の散歩に行くけど。良かったら君も来ない?」 どうせここでじっとしていても暇なだけだし、動くのも悪くない。 「うん、行くよ」 散歩は、周囲に何も無いせいで、心が落ち着かないものとなった。時折振り返ってみると、確かに壁のない部屋から遠ざかっているので進んでいるのは分かる。だが、行き先が何処なのか分からないのは、辛いものがある。 テンは妙に僕に懐いていた。リードを持っていると、ぴったり僕の横を歩く。犬ポケモンって、誰に対してもこうなのだろうか。 急に、テンが吠えた。歩きはじめてから初めての立体物だ。ぼんやり、斜めに落ちている岩のようなものが見える。正直平野には飽きていたので、やっと一息つけると安堵した。 近づくにつれ、その形がはっきりする。岩かと思ったが、どうやら違うらしい。 「車? だよなぁ」 「そうだねぇ」 僕らはそれを見て、呟いた。それは確かに、ワインレッドのワゴン車だった。しかし、地面に前輪を突っ込んで、埋まっている。斜め四十五度に突き刺さって、奇跡的なバランスを保っていた。 「デザインが割と最近のものだな。買ってまだ数年、ってところだろうな」 「でも、なんだかもうぼろぼろって感じだよね」 彼女の言う通り、車はすでに全身土にまみれて、使いものにならないほど朽ちていた。地面に突っ込んだ車体前方は歪み、余計に無残な姿をさらしている。 「持ち主はショックだろうなぁ、買ったばっかりなのに勿体ない」 僕は呟いた。そうだね、と彼女は苦笑する。 テンはリードを引っ張って、車のにおいを調べたがっている。しょうがないので、しばらく付き合ってやることにした。 「中はどうなってるんだろうね」 彼女が車に手を伸ばす。その瞬間、嫌な予感が脳裏をよぎった。 「危ないっ」 思わず彼女の手を掴んで、引き戻す。 「な、何!?」 「ごめん、車が倒れてきたら危ないと思って」 「それもそうだね。ありがとう」 そのとき、掴んだ手に固いものが触れた。指輪だ。彼女は左手の薬指に、指輪をつけている。 「ご主人がいるんだ」 僕は言う。少し残念だが、こんなに奇麗で家事もこなせる女性ならきっと幸せな家庭に違いない。 「まあ、ね」 と、彼女は少し溜めて言い、少し困ったような表情を見せた。聞いてはマズい話題だったのだろうか。 「車、代わりに僕が見るよ」 僕は車の取っ手を掴み、引っ張った。歪んでしまったせいか、鍵がかかっているのか分からないが、びくともしない。 確かに、中の様子は暗くてよく見えない。汚れているのかと思い、少し指で擦ってみたが何も変わらなかった。僕らはあきらめて、車を後にした。 もう少し歩いていくと、目の前に急に花畑が広がった。 足元に広がる、様々なカラーの花が一面に咲いている。思わず、僕らは感嘆の声を上げた。日の光が当たって、花々がきらきらと輝いていた。 白は白、黄色は黄色、紫は紫、というように、色ごとに花は分けられていた。その間を通りながら、彼女は静かに喋り出した。 「ねぇ、知ってる? この花畑、人が植えて作ったんだって」 「そうなの? 自生してるのかと思った」 この平坦な場所に、他に住んでいる人がいるのだろうか。そんな疑問をよそに、彼女は続ける。 「ある夫婦がね、定年退職した後、生きがいを求めて植林のボランティアを始めたの。最初は色んな地域に遠出してたんだけど、二人の家の周りも相当荒れ果ててた。まずは身の回りから始めようって言って、荒地に花を植えたの」 彼女の言葉を聞いていると、急に心がざわついた。花畑での会話。このシーンを、何処かで一度経験している気がする。デジャヴというやつだろうか。 「荒地を耕して、一本一本花を奇麗に並べて。そうやっているうちに、一緒に花を植えたいっていう人が増えてさ。完成するまではあっという間だったみたい。言い伝えでは『ありがとう』って誰かが感謝の気持ちを伝えたとき、一気に花が咲いたってあるんだけれど、本当のところはそうらしいよ。おとぎ話ね」 彼女の透き通るような声が続く。いつの間にかデジャヴは鳴りを潜めて、穏やかな気持ちで彼女の声に耳を傾けられるようになった。 「でも、二人にとってはおとぎ話通りかもね。嬉しい時間、楽しい時間ってあっという間だもの」 彼女は寂しげにそう言った。 壁のない部屋に帰ってくる頃には、辺りは真っ暗だった。彼女は枕元のランプを付け、布団に座ってぼふっと音を立てる。僕ははたと気がつく。 「そう言えば、ベッドが一つしかないけどどうやって寝よう。僕がソファで寝ようか?」 「いいよ、気を使わなくても。一緒に寝ればいいじゃん」 えっ。彼女はいたずらっぽく笑う。心臓の鼓動が一気に大きくなり、身体が一瞬硬直する。顔がひきつる。 「そ、それってどういう……てか、君にはご主人がいるんだろう?」 「あ、やらしいことでも考えた? まさか、そんなんじゃないって」 あはは、と笑われた。じゃあ僕がソファで寝ればいいのではないか、と思ったが、彼女の話には続きがあった。 「手を握って欲しいんだ。君に」 彼女の言葉通り、僕らは一人用のベッドに並んでいた。お互いの手と手が握られた状態で、仰向けになる。僕の心の中に、穏やかさとか安らぎという言葉は無かった。 「そういえば朝の質問にまだ答えてなかったね」 彼女は静かに語りかける。 「ごめん、何だっけ」 「ここがどこなのかってことと、あなたがどうしてここに来たのかってこと」 「ああ」 「それ、正直言うとね、直接答える訳にはいかないんだ」 「そうなの? どうして」 僕は正直な思いを告げた。知りたい。 「私も、ずっとここに住んでる訳じゃなくて、ある日目が覚めたらここにいたの。君と手をつないでね。起きたら、目の前に小さな生き物が浮いていた。頭がピンク色で、顔から下は灰色で、大きな黄色い目をしてて……それは、自分のことを感情の神様だって言った。 そいつが私に言ってきたの。『あるショックで、この人は記憶をこの空間じゅうに散らばらせてしまった。記憶を感情という形で集めてみたけれど、一番大事な記憶だけはボクにも取り戻してあげられなかった。だから、君にお願いしたい。この人の記憶を取り戻してやってくれないか。そうすれば、君たちをここから出してあげられるかもしれない』ってね。私は引き受けたわ」 僕ははっとした。ここに来たいきさつだけじゃない。昔自分がどんな人間だったかもあやふやで、具体的なものが何一つ思い出せない。ましてや、自分の名前さえも。 いや、少しは覚えている。目覚めの習慣や、ベーコンエッグが好きだということは。これらは辛うじて、僕の記憶の中でも感情の神様が取り戻してくれた部分だった、ということだろうか。中途半端に覚えていたせいで、自分の記憶が抜け落ちていることに気付けなかった。 「私があなたのことを直接教えてはいけない。口で言われても実感が湧かなくて、本当の記憶を取り戻せなくなる。私があげられるのはあくまでヒントだけなのよ。あなたやわたしの名前でさえ、教えてあげることはできない」 道理で、彼女は自分のことを詳しく語りたがらないわけだ。僕が自然に記憶を取り戻すために、口では言えないことがある。 「絶対に思い出してね。あなたのことと、私のことを」 そう言って、彼女は僕に微笑んだ。暫くお互い見つめ合っていると、彼女はおやすみ、と言って、仰向けになってすうすうと穏やかな寝息を立て始めた。 僕も仰向けになって、目を閉じる。暫くすると、小さくごうごうと風が吹き荒れるような音が聞こえた。その音を聞くと、何故か全身の熱が奪われるような気がした。それに少しでも逆らいたくて、彼女の手のぬくもりを必死に感じようと、強く握った。 朝、目が覚めて、両手両足の感覚を戻していく。彼女から握られた手の感覚はもうなく、先に起きているのだなと気付いた。 「あ、おはよう」 料理をしている彼女は振り返って言った。僕も、おはようと返して、テーブルの椅子に座る。 「ごめん、今日はコーヒー入れられないや」 「何かあったの?」 「カップが見当たらないんだよ。昨日ちゃんとしまったはずなのに」 「いいよ、無いなら無いで、何とかなるさ」 僕は笑って答える。ごめんね、ともう一度彼女は謝り、お皿に盛りつけられた朝食をテーブルに運んだ。メニューは今日も、ベーコンエッグだった。僕の好物。朝食なら、毎日同じでも構わないと言うのが僕のスタンスだ。 食後の休憩を取っていると、わん! と元気よくテンが顔を覗かせる。 「そろそろ行こうか、散歩」 彼女は言った。僕は暫くテンの待ち切れないような顔を見つめて、ああ、と答えた。 テンの行くまま土の平原を歩き、ワインレッドの車に突き当たり、別の風景に出会う。僕らはそんな日々を繰り返した。彼女は景色に出会う度に、色々なことを語ってくれた。 この日に見た風景は、港の図書館だった。彼女は本が好きらしく、まるで楽園だとはしゃぎまわっていた。 「図書館で本読む為に遠出する、って、時間の無駄だと思う?」 ふいに、彼女はそんなことを聞いてきた。机に腰をかけるなんて行儀が悪いよ、と言うと、どうせ私たちしかいないんだから、と返された。 「無駄……かぁ。旅行とかなら、その場でしか出来ないことがあるのに、もったいないと思うよ。本は逃げないけど、旅行にはタイムリミットがある」 「やっぱりそうだよね」 彼女は適当に本を取り出す。 「この港街は図書館が目玉のスポットなんだよね。割と周辺地域にも宣伝しちゃってさ。最初は普通置いてないような本を置いてかゆいところに手が届く、街の図書館だったんだけどね。旅行者には向かないよねぇ。ま、私たちがこんなこと考えたところでどうしようもないんだけどさ」 彼女は肩をすくめた。図書館経営の在り方については、特に意見を持ち合わせていないので、とりあえず彼女に同意しておいた。 こんな話を彼女は聞かせてくれたけれど、デジャヴのような、何かを思い出しそうなあの感覚は、日に日に少なくなっていく。今日で七日目。ひたすら同じ毎日を繰り返し、一切成果は上がらない。僕の中で苛立ちが徐々に募っていく。 そして今日、とうとう僕は彼女に辛く当たってしまった。 「なあ」 ふとしたはずみで、僕は乱暴な声で彼女に呼びかけてしまう。それが、一向に進まない記憶の奪還に対するいら立ちを怒りという形に変えるトリガーとなり、もう歯止めは効かなかった。 「こんなことしてもさ、意味はあるのかな」 「こんなことって」 「色んな景色を見せてもらってもさ。結局全然何も思い出せない。最初は思い出せそうだったのに、最近はめっきりだ。こんなことして、意味あるのかよ。僕の記憶を取り戻すだって? これが本当に大事なことなのかよ!」 拳を握りしめて、僕は叫ぶ。彼女は目を伏せ、僕らは目を合わせない。 「……そうね」 暫くの後、彼女は口を開く。 「あなたがそこまで言うなら、明日いい所に連れてってあげる」 わざとだろうか、冷たく突き放すような口調で言った。一息置いて、今度は冷たさとは似て非なる調子で、彼女は語りかけてくる。 「今分かったわ。あなたの言う通り、こんなやり方じゃいつまでたっても解決しない。大事なことは、こんな図書館にありはしないもの。でもね、私がこんなことをするのは、自分がここから出るためじゃない。あなたに出て欲しいから、頑張るの。あなたの記憶を取り戻してあげたいの」 彼女は僕を見据えて、力強く言い放った。 その瞳は改めて、澄みきっていることを知らされた。あぁ、彼女には迷いがない。僕の言葉にかっとなって言い返すこともなく、冷静に次の方法を考える。僕の記憶を取り戻したいという思いに、何の疑問も感じていない。自分の記憶ならいざ知らず、他人の記憶を賢明に取り戻そうとしてくれている。それがどれだけ優しいことなのか。 優しい、人。 「うっ」 何だ。頭に一切血が上らないこの感じは。目まいがする。吐き気がする。呼吸が、乱れる。僕は口を手で押さえたが、ほどなくしてその場に崩れる。 「大丈夫!?」 彼女はすぐに僕のそばまで駆けつけ、必死に名前を呼ぶ。名前であることは分かったが、あまりに苦しくて、何と呼んだのかは記憶の外に弾きだされてしまう。 吐けば楽になるのだろうか。僕は元々身体が強い方ではないから、嘔吐は年に一度くらいのペースで経験している。大体、吐けば治るのだ。だが、今回はそれでいいのか。今の僕が吐きだすのは、きっと胃の中のものじゃない。今まで集めて来た記憶だ。感覚で分かる。 初日の夜、記憶を取り戻すと二人で決めた。その言葉を、彼女は信じているじゃないか。 一つの風景が、頭の中に浮かんだ。暗い夜道の、一瞬の出来事。苦しい、苦しい、とても重要な記憶。それからもう一つ、大事な記憶。 気がつけば、僕はベッドの中に寝かされていた。両手両足を動かし、すっかり何ともなくなっていることを確かめる。辺りを見渡せば、ここは壁の無い部屋だと分かった。 隣で、彼女は寝息を立てて眠っている。彼女が僕の手を握っていた事に気付いた。運んできてくれたのか。あんな遠いところから。 「ありがとう」 僕は呟いた。 ふいに、ごうごうと低い音が聞こえた。この音は毎晩やってきて、日に日に強くなっていく。いつか、僕らを飲みこんでしまうのではないかという想像が、脳裏をよぎる。 いや、止めよう。もうこの音を感じ取ることはない。明日、全てを終わらせよう。 「おはよう」 彼女はいつもの調子で言った。僕も同じ言葉を返して、辺りを見渡した。 日が一日過ぎるごとに、壁の無い部屋の家具が一つずつ消えていった。最初はコーヒー用のカップ。日を追うごとにサイズを上げて、今はもうソファやテーブルでさえ無くなってしまった。キッチンとお皿二枚が残っているのは、神様の良心だろうか。 「昨日は、ごめんな。怒って」 僕は言う。彼女は卵を炒めながら振り向かずに、いいんだよ、とだけ答えた。 「昨日、いい所連れてってくれるって言ったけど、行かなくても良くなったから」 「え?」 いつもと同じ形のベーコンエッグを盛り付けて、キッチンで僕らは朝食にする。 「思い出したんだよ。全部」 彼女は少し驚いたような表情を浮かべ、そして暫くの後、穏やかな笑顔を浮かべた。 朝食が終わっても、テンはやってこなかった。辺りを軽く探してみたが、何処にも見当たらない。 それでも、僕らは外に出る。 「じゃあ、行こうか、散歩」 彼女の言葉に、僕は頷いた。 今日は心なしか、照り返しが強い気がする。黙って歩いていると、砂漠を当てもなく彷徨っているような気分になりそうだ。 「本当に、思い出したの?」 彼女は、いつもの口調で聞いた。 「ああ。色々ね。でも、全部言うのはもうちょっと後だ」 そこまで言った瞬間、地面の底が少し抜けたような感触がした。階段を上っているときに、次の段があると思ったらなかった時のような。僕の右足が、地面の中に埋まっていた。それを引き抜こうとしたが、今度は逆に反対側の足が土の中に埋まる。 「どうしたの……きゃっ」 彼女はバランスを崩して、僕にもたれかかる。どうやら、彼女にも同じ現象が起きているらしい。僕は彼女の体をそっと包む。彼女の体が震えているのが分かる。 「僕らの体には、タイムリミットがある」 僕は言った。彼女も薄々は気がついているだろう。 「毎晩寝る前に、音が聞こえるんだ。ごうごう、って、地面の底からうなる様な音が。朝起きたら、部屋のモノがひとつなくなっていただろう? その音は、部屋のモノを飲み込む音なんだと思う。部屋からモノがなくなった時、最後に食われるのは僕たちだ」 彼女は返事をしなかった。だが、後ろに回された手が、ぎゅっと僕を抱き締める。僕は彼女の肩を担ぎ、一歩一歩、前に進んでいく。遠くに、斜めに立つモニュメントが見える。 「だけど、元々僕らはそういう運命だったんだよ。神様が奇跡を起こしてくれたおかげで、それに抵抗するチャンスが増えただけで……ほら、これが出口だ」 僕らは立ち止まった。 それは、あのワインレッドの車だった。斜めに突き刺さった、ワゴン車だ。 「散歩するとき、君が見せようとした景色たちはある地点で突然現れた。でも、この車だけは、遠くからでも見えた。思い出なんて形のないものだらけのこの空間の中で、これだけは本物なんだ」 僕は車に触れた。 「僕たちも、形のないもののひとつ。いわば魂みたいな状態で、漂ってるだけの存在。僕らの本体は、この車のなかにいる」 手の甲で、車のボディを叩く。こん、と音が鳴る。 「ここは湖の中。身体なんて最初から、駄目になっていたんだ」 彼女も僕も俯いて、何も言えなくなった。とっくの昔に、僕らは死んでいたのだ。タイムリミットを迎えようと、自力で記憶を取り戻そうと、僕らに未来はなかった。その現実を受け入れたくなくて、僕は記憶ごと失くしてしまった。 僕は、彼女が連れていってくれた色々な情景を思い出す。 「僕は君と、車で二人きりの旅行をしていたんだ。お金がなくてね。自力でシンオウ地方を半周しようって。テンをポケモンセンターに預けて、出かけたのが数ヶ月前。ソノオタウンの花畑とか、ミオシティの図書館とか。色んなところを回っていたんだ。だけど、夜にシンジ湖沿いの道路を走っていた時、ポケモンが飛び出してきたんだ。僕は驚いて、思わずハンドルを切ってしまった。それも、崖の方にね。ガードレールを突き破って、坂道を転がって、湖の底へまっさかさまだ」 僕は苦笑する。 「馬鹿なことしたよなぁ。君を巻き込んじゃってさ」 彼女も同じような表情を浮かべて、首を振った。でも、どうしてだろうか。心はとても穏やかだ。 ふいに、上から別の声が飛んでくる。 『そう。だから、ボクも見てて忍びなくなったんだよ』 いつの間にか、ワゴン車の最も高い所にポケモンが腰かけていた。ピンク色の頭に、灰色の体の小さな生き物。彼女の説明と合致する。これが、感情の神様か。 『思い出せて良かったね』 太陽を見上げるように、僕らは神様の姿を見上げていた。気さくな話し方が、かえってその気高さを引き立てているように見える。はい、と僕は答えた。 『それじゃあ、最後に聞こうかな。その旅行の名前は?』 神様は尋ねた。僕は、神様に自信を持って答える。 「新婚旅行!」 『正解』 ぱん、と神様が柏手を打った。その瞬間、僕らの脚はすぽんと地面から抜け、そのまま身体が宙に浮かんだ。太陽がさんさんと差し込む空へと、僕らは上っていく。僕は必死に彼女の掴んだ手を離さなかった。 「やっと、思い出してくれたね」 彼女の声は、泣きそうになっていた。僕も同じ気持ちだ。そうだと、彼女はポケットの中から指輪を取り出す。それは、彼女の薬指につけたものと同じ形をしていた。 「思い出してくれた記念。つけてくれるかな」 「もちろん」 僕は答えた。左手を差し出すと、彼女は薬指に指輪をはめた。初めて付けた時のどきどきする感じが、胸の中に甦る。 もっと、彼女と色んなことをしたかった。子供を作ったり、色んな所へ旅行に行ったり、笑ったり怒ったりしたかった。けれど、もういいのだ。彼女と手を繋ぐだけで、もう十分だ。 「これからは二人で、ずっといっしょにいられるね、明」 「僕たちだけじゃないさ、奈央」 僕は、白い空間の一方を指差す。空中を駆けてきたグラエナが、僕らの胸へ思いっきり飛び込んだ。 「おお、上がった! 本当にあったんですねぇ」 部下の有馬が、感嘆の声を上げる。 ワインレッドの車が、湖の中から引き揚げられた。水に長い間浸かってボロボロになった車を、クレーンが引き上げて荷台に乗せた。 「ポケモンセンターから脱走したグラエナを三日三晩追いかけてたら、まさかの水難事故とはな。こんな偶然もあるものだ」 もう、運転者たちは助かっていないだろう。ドアの隙間からこぼれる水が、中に水が一杯まで溜まっていることを示している。 一台の車が、ガードレールを突き破ってシンジ湖に転がり落ちた。しかしその車は、その転がった地点からは考えられないほど遠く、しかも引き上げやすい位置にまで移動していた。おかげで引き上げ作業自体は順調に進んだが、その大移動の原因だけはまだ分からなかった。我々警察の頭を悩ませた。 「何だか、神様の思し召しとしか思えないですよね」 有馬は言う。ふん、と私は一蹴してやった。 「馬鹿言うんじゃねえよ。思考を投げるな」 すみません、と有馬は頭を下げる。はた、と気がついて、私は有馬に尋ねた。 「そういえば、あのグラエナは今はどうしてるんだ」 「この湖で保護しましたが、一度も食事を取らず、今朝とうとう息を引き取りました」 ほんの一瞬の沈黙が流れる。私は、煙草に火をつけ、大きく煙を吐き出した。 「……そうか」 トラックに車が積まれ、シートをかける。運転手が席に着いた。私は踵を返し、煙草をポケット灰皿に押し込む。 「こっちは撤収だ。俺たちも行くか。日が暮れちまう」 私は車に乗り込み、有馬と共にその場を去った。エンジンの音が、湖に僅かな波を立たせた。 (9987文字) 〔作品一覧もどる〕
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