Doppelganger !




 あぁ、どうしましょう。助けて神様。



 珍しくこの部屋の電気がついたようです。押入れの戸の隙間から、久々に目にする光が差し込んできました。ドアのきしむ音、スリッパの音、声。お母さんの声です。どうやら、声の様子からすると誰かと電話をしているようです。なんだ、お母さんか、と僕はほっと安心して、再び眠りにつこうと思いました。
「もしもし、由梨? あんた、いつ帰ってくるんだっけ?」
 僕は飛び上がりました。由梨、ゆり、ゆり……だって? か、帰ってくる? いや、落ち着け僕。彼女は絶対に僕のことなんか、とっくに忘れてるはず。覚えてるはずがないもの。だから、僕は、彼女が帰ってくる前にこそ泥のようにここを出て行けば、いいわけで。
「え? ――? あんたの部屋の押入れなんて、何年も開けてないから、どこにあるかわかんないわよ。……しょうがないわねぇ……うん、捨ててはいないはずよ確か。あんたが出て行った後はお母さん本当知らな――」
 ……。その後の声は聞こえませんでした。まるで、テレビの音が一気にゼロになったみたいに、何の音も聞こえませんでした。



 大変です。非常事態です。さっきから震えが止まりません。体中の、綿が、全て氷になってしまったかのようです。あぁ、どうしましょう。僕は顔を手で覆いました。手……この手が、駄目なのです。いえ、この手が、この体が、全てがもう、駄目です。この、手が……この、黒い手が、僕はもう、堕ちてしまった――!


 
 僕は押入れの中で眠っていました。もう、ずいぶん長い間、僕はこの押入れの中にいます。押入れの中は暗く、狭く、気味が悪かった。じっとしていたら埃が積もってしまうから、時々首を振ったりしながら毎日を過ごしていました。それでも、埃はつもりにつもり、いつしか僕は黒く、黒くなってしまったのです。
 黒くなってしまったのは埃だけが原因でないことは分かっています。僕は、僕を愛してくれたただ一人の彼女を恨んでしまったのです。押入れにしまわれ、彼女がもうこの家にいないと気づいたとき、僕は泣きました。ずっと一緒だったのです。初めてここにやってきたクリスマスの日。笑顔の彼女と対面したときに僕という存在は生まれました。彼女が僕を抱きしめて名前をくれたとき、僕は初めて喜びを知りました。彼女が友達と喧嘩して一人泣いていたあの夜、僕は彼女の涙を拭き悲しみを共有しました。楽しい、悲しい、面白い、びっくり、様々な感情は彼女とのやりとりの中で、一つ、また一つと増えていきました。しあわせだったのです、僕は。
 そしてある日、彼女は僕を置いてどこかへ行ってしまいました。そのとき、僕は気づきました。感情は、表の面もあれば裏の面もある……彼女と離れた後に僕が知った感情は、すべて裏の面のものだったのです。一人残された孤独さゆえに、あんなにも僕を愛してくれた彼女を怨みに、恨み、呪いに呪いました。僕が黒くなってしまったのは、神様からの罰です。僕がジュペッタである限り、恨みを抱いた呪いのぬいぐるみという事実は変えようのない事実なのです。
 なのに、あぁ、どうしましょう。彼女は僕を愛し続けてくれていたのです。僕のことを忘れないでいてくれたのです。僕があんなにも彼女を怨み、呪っている間にも、彼女は僕を愛し続けてくれていたのです。そんな彼女にどうしてこの、こんな姿を見せることが出来るでしょう。

 僕がこのまま出て行けば、自分の好きだったぬいぐるみが消えてしまったことに彼女は悲しみます。けれど、こんな僕の姿を見たって彼女は悲しむに違いありません。僕は彼女を悲しませたくなかった。考えに考えました。彼女が帰ってきてしまうのではないかと、びくびくしながら僕は考えました。そうして、思いついた案はジュペッタになってしまう前の僕のぬいぐるみを用意すること、でした。ずいぶん昔のぬいぐるみですから、見つけられないかもしれません。いえ、見つかったら奇跡、かもしれません。それでも僕は決めました。絶対に見つけてやる、と。



 朝です。マメパトの声で目が覚めました。僕は夢を見ました。僕が貰われてきた朝の夢でした。がさがさという音と共に差し込んできた光、彼女の笑顔。久しぶりに感じた幸せな感覚。でも、夢です。夢は夢です。寝ぼけた頭を覚ますように何度か首を振ります。埃っぽい押入れの空気を思いっきり吸い込み、僕は立ち上がりました。そのとき、ふと気づいたのはふわふわとした感触。おもちゃばこに、こんなふわふわとしたものはなかったはずです。僕は自分が踏んでいるそのふわふわを、おもちゃの山の中から引っ張り出しました。
 それは、それは、紛れもない僕でした。汚れ具合も、くたくたな具合も全く同じ僕。そして……黒くない、白い僕。
「あなたの……夢よ」
 ……。狭い押入れの中に、窮屈そうにそれはいました。いつからいたのか、それとも急に現れたのか分かりませんが、どうやらこのピンクの眠そうなのが僕の願いを叶えてくれたようです。そういえば、聞いたことがありました。ムシャーナというポケモンは、夢を具現化することができる、と。
「私はムシャーナ。あなたが望むもの、それはこれでよかった……?」
 僕の望みをかなえるためにわざわざ来てくれたのでしょうか。いや、そんなことはどうでもいい、そんなことより――。
 僕は、僕を見ました。目の前の僕は、僕でした。鏡に映ったように全てが同じで、――黒くない白い僕。彼女に負の感情を抱く前の真っ白な僕。これならきっと、彼女も悲しまないし、僕の存在が知られることもない。ずっと落ち込んでいた心がすっと楽になって、じわりと喜びが心に染み込んでいくようです。すごく、うれしかった。
「ムシャーナさん……本当にありがとう! これで、ゆりちゃんも悲しまずにすむよ!」
 僕は深くお辞儀をして言いました。ムシャーナさんは眠そうな顔ながらも少しだけ微笑んで、ゆっくりと消えていきました。
「助かったならよかった。でも、本当にあなたはそれでいいのかしら……?」



 それから数日後。彼女は帰ってきました。彼女は部屋に入るなり押入れを勢いよく開けました。前見たときよりもずいぶん背が伸びて、髪の色も明るくきれいな茶色に変わっていました。僕は押入れの隅のダンボール箱の中に隠れ、白い僕はおもちゃ箱のなかにちょこんと座っていました。彼女は白い僕を見ると同時に、あの時と同じように太陽のような眩しい笑顔でぎゅうと強く抱きしめて――


「ただいま! 長い間、さびしかったよー!」


 僕は分かりました。今まで分からなかったのです。なぜ、神様は僕を動けるようにしてくれたのか。でも、今は分かります。目の前に彼女がいる。動けないならあきらめがつくかもしれません。でも、僕は動けます。動けるのに、動けるのに彼女の元へとは行けないのです。前に出かける足も、彼女を求める腕も、抑え難い衝動を抑えなければならないという苦痛。それこそが僕に科せられた罰――。
 
 苦シイ――!

 あぁ、あの頃の僕、鏡の向こうの僕。でも、あれは僕じゃない。気づいて、気づいてよ。でも気づかれたらゆりちゃんを悲しませる。こんな僕を見てもゆりちゃんは悲しむだけだ。
 僕は泣きたくなりました。

 その夜、彼女は鏡の向こう側の僕を抱きしめて寝ていました。あの頃と全く同じように。朝、ゆりちゃんは鏡の向こうの僕におはようの挨拶をしてベッドの縁にきちんと座らせました。お昼。いいにおいのする液体をかけて、干した布団の上に乗っけて、ぽかぽかと日光浴をさせました。夕方、ほつれていた箇所をきれいに縫い直し、首にきれいなリボンを結んで――。

 奴は――鏡の向こうの奴は! 何の感情も見せずただされるがまま。そう、それは確かにそう。だってぬいぐるみだから。ただの、ぬいぐるみだから! でも、あれをされるのは本来僕であるはずなんだ。本来僕であるべきなんだ。僕は奴を怨み、奴を憎みました。喉を掻き毟って中の綿を全部出してやりたい。燃え盛る炎の中に投げ込んでやりたい。奴さえいなければ――と僕は思いました。でも――


 奴の存在を望んだのは、紛れもない僕なのでした。
 



 その夜、僕は押入れを一度も開けませんでした。奴の姿を見るのが嫌で嫌で仕方がなかったのです。いや、怖かったのかもしれません。ムシャーナさんが再び現れたのはそのときでした。
「まんぞく?」
「……」
「彼女を悲しませないためにあの子を望んだのでしょう……? 会いたいっていう自分の気持ちを殺して、あの子を悲しませないための道を選ぶつもりだったのでしょう……?」
 「確かに……そうだけど」僕は小さく頷きました。
「それとも、今の自分の姿を見られるのが単に嫌だったから……?」
「……違う!」
 ……言葉には出来ました。言葉には出来た、けど、その後に言葉を続けることは出来ませんでした。悲しませたくないなんていい奴ぶって言ってるけれど、単に僕は今の姿を見られるのが嫌だから奴を望んだ。それを心の中で完全に否定することはできませんでした。
「残念な子……。彼女を悲しませたくないんならさっさとこの家を出て行ったらどうなの……? あなたのかわりはもういるし、あなたがこのままここにいたってより黒くなるだけでしょう……?」
「うるさい! うるさい! どっかに行け!」
 僕は腕を振り回しました。ムシャーナさんは姿を消し、空振った手が押入れの中のダンボール箱を思いっきりへしゃげさせました。普通のぬいぐるみの力ではへこまないはずのダンボール。もう、僕は普通のぬいぐるみじゃないって分かってるのに、それを見て僕は涙がこぼれました。涙だって普通のぬいぐるみじゃあ、流せるはずも、ないのです。
「どうしてあなたが、ここにいるのか……自分の心に尋ねなさい」
 頭の中に響くように、ムシャーナさんの声だけが押入れの中には残りました。

 

 その翌日も僕は一度も押入れを開けませんでした。その翌日も、その翌々日も。彼女の声も、奴の姿も、何もかも見も聞きもせず、ただ一人押入れにこもって、なぜここにとどまり続けているのか、考えていました。
 奴がいさえすれば僕はここにいる必要はもうないのです。僕がいなくなったとしても、彼女は悲しまず、僕の姿を見なければ、彼女はしあわせなままです。それに、僕は僕で姿を見られたくないのです。では、なぜ僕はここにいるのか。


「ゆりちゃんが、好きだから……」


 彼女の傍らにいたいから。彼女の笑顔が見たいから。

 前のように一緒にはいられないけど、もしかしたら、僕に気づいてくれるんじゃないかとか僕に気づいて今までどおりに愛してくれるんじゃないかとかそんな期待を、そんな希望を心の端に持っていたのです。

 でも、彼女がもう僕を好きになることなんてないって分かってる――。

 好き、好きなら彼女を悲しませるべきではないのです。好きな人を悲しませようという奴がどこにいるでしょうか。いない、はずです。いや、見られたくないっていう言い訳かもしれません。きっと、どっちもあるんだと、僕は自分に言い聞かせます。
 彼女を悲しませないために、彼女に見られないために、僕は――。





 月の美しい夜でした。月は咲き誇る桜を照らし、桜は雪のようにはらはらと散っていました。
 これでいいんだ。一歩、一歩と僕は家から離れていきます。ゆりちゃんと鏡の向こうの僕を残し、一歩一歩と歩いていきます。けれど、一歩一歩と踏み出すたびにゆりちゃんとの思い出が鮮やかにはっきりと蘇ってくるのです。思い出を思い出せば思い出すほど、足は重く、前に進みにくくなっていきます。振り返りたい、すぐに戻りたいという気持ちを殺して、僕は足を前に踏み出します。
「コピーに負けたオリジナル……負け犬……残念ね」
「……」
 ムシャーナさんがいつの間にか隣にいました。彼女は一体どうしてこんなことをしてくれたんでしょう。僕を助けたかったから? それとも、苦しませたかったから? からかいたかったから?
「いや、負けてなんかないわ。あなたは戦ってすらいない……彼女から一言でも嫌いと言われたのかしら……?」
 言われてない。言われてはないけど、嫌いって言われるに決まってる。そんなの分かりきったことじゃん。誰が自分のことを恨みに憎んだ相手を好きになれるっていうんだよ。僕は下を向き、彼女の声を無視するようにただ歩き続けます。
「彼女に嫌われたっていいじゃない……彼女を悲しませたっていいじゃない……。彼女が好きだったのはあなたなのよ……? コピーのあなたなんかじゃなくて、あなたが好きだったのよ……?」
 相変わらず眠そうに、それでも前よりはっきりとした声でムシャーナさんは言いました。桜がざぁっと散って、僕に降りかかってきます。
 もしかしたら――もしかしたら、彼女は今の僕を愛してくれるかもしれない。ずっとかすかに持っていた小さな希望が実現したかしていないかはまだ、わからないままです。だって、僕が確かめていないから。
 何かで聞いた気がします。九十九パーセント上手くいかないだろうなってことも、一パーセントは上手くいくだろうってこと。そもそも百パーセントなんてものは存在していないのだから、同様に百パーセント上手くいかないなんてことも存在しないのだと。
 どうせ家を出るなら、嫌われてから出たって同じことかもしれない。彼女を悲しませたくはないけれど、思いっきり嫌われて、その後は堂々と追い出されたぬいぐるみとして胸をはって生きていってもいいかもしれない。むしろ、そのほうが――。
「今からでも、遅く……」
「遅くなんか、ないわ……!」
 ムシャーナさんの周りに漂っているピンク色の煙が集まって、形を作り出しました。僕の目の前に現れたそれは細長い鏡。鏡に映っている僕は、黒くない白い僕。いや、あれはもう僕じゃないよ――だって、今の僕しか今には存在していないんだから。
 僕はシャドークローを――ジュペッタであるからこそ出せるこの鋭い爪を綿の腕から作り出し、目の前に構えました。大きく息を吸います。手が震えます。ただのぬいぐるみには絶対に出来ないこと。でも、今の僕は、今の僕だからそれが出来ます。この、鏡を壊せばきっと鏡の向こうの奴は消えてしまうんでしょう。壊してしまったあとにはもう取り返しがつかないんでしょう。

 けれど――僕は僕。今の僕は、僕だ。


 思い切り助走をつけ、僕は鏡に殴りかかった。過去の僕を思い切り切り裂くように、腕を振り下げた。鏡に幾筋もの亀裂がはいり、そして――



 大きな音を夜の通りに響かせ、鏡は、割れた――。



 きらきらと煌くガラスの破片を薙ぎ払い、僕は家へ向かって走り出す。走らなければ、足が動かないだろうと思ったから。止まってしまうだろうと思ったから。ゆりちゃんに嫌われるのも、悲しまれるのも、この姿を見られるのも、どれも全部すっごい怖い。でも、僕は笑っていた。ゆりちゃんは僕のことを変わらず愛していてくれたのに、僕は彼女を怨み、呪った。黒くなってしまった今、いくら恨めど時は既に遅く、嘆いた処でもう手遅れ。今の僕を認め、今の僕を受け入れ――今の僕を彼女に見せるんだ。

 嫌われてもいい。捨てられてもいい。ただ――




 全力で君に見せつけよう――。
 これが、今の、僕です――!





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