my princess その日は、俺にとってある特別な意味を持った日だった。 手帳を取り出して、何度も何度もうっかり見過ごすことのないように確認して、それでも敢えて手帳に印はつけない。本当なら赤ペンでぐるぐる日付を囲っておきたいところなのだが。 もう一度、手帳を取り出して確認しておく。大丈夫、今日で合ってる……はず。 そわそわしている俺を不審に思ったのだろう、俺の唯一の手持ちのクチートが怪訝そうな顔をして手元を覗き込んでくる。 「なんでもないよ」 手帳を隠しながらの俺の言葉と印のついていない手帳に首を傾げて、クチートのちぃは疑い深そうな顔のまま頭を戻した。 日射しは柔らかな春の終わり。街路樹はいつの間にか緑色の葉を纏い、最近はすっかり日も長くなった。 そんな、いつもと同じようで少しだけ違う日の昼下がり――事件は、俺がポケモンセンターに戻ったときに起こった。 俺はその30分ほど前、ちぃをセンターに預けたまま一人街へ買い物に出かけていた。ポケモンをポケモンセンターに預けるというのはトレーナーとしては普通のことなのだが、実は俺はほとんど利用したことがない。ちぃが拗ねるのだ。それでも今日に限ってはたまたま外に用があってちぃを預けないといけなかった。 それでも相棒をあまり長く待たせるわけには行かないと急いで用事を済ませ、センターに戻ったつもりだったのだが……。 センターに戻った俺は、中がやけに騒がしいことに気がついた。普段はニコニコと笑顔を振りまいているジョーイさん達とラッキー達があたふたと走り回っているのだ。 「戦闘の得意なハピナスはいないの!?」 「誰か、誰かトレーナーの方は手伝ってください!」 電話を握り叫ぶジョーイさん、たくさんのモンスターボールを抱えて走るラッキー達。阿鼻叫喚。そんな四字熟語が脳裏をよぎる。 一瞬重体のポケモンが運び込まれたのかと思ったのだが、それにしては様子がおかしい。センター内を一瞥しても今日に限ってトレーナーは少ないし、みな何事かと立ち尽くしている人ばかり。とにかく俺もあまり強くはないのだがトレーナーの端くれだとカウンターに駆けつけた。 「トレーナーです、何事ですか!?」 助かったとばかりにくるりと振り向いたジョーイさん達の顔が、同時に引きつった。 俺、なんかしたっけ? モンスターボールをいちいち10個ずつ買ってプレミアボールを数十個買い占めたこととか……いや、あれは合法だ。短い人生だったが、万引きの一つも犯したことはないと胸を張って言えるし……。 我が身をいろいろと省みてみるが、どうも思い当たる節はない。 俺の一番近くにいたジョーイさんは腰にぐっと手をあて、キッと俺を睨んでこう言った。 「あなたのクチートが暴れてるんです! なんとかしてください!」 ……え? 「ちぃ!!」 相棒のクチートの名を叫んでポケモンセンターの奥に駆け込んだ俺の目に映ったのは、信じられない光景だった。 蛍光灯ではない、自然の柔らかな日差しが壁に大きく空いた穴から差し込んでいる。傾いた棚から落ちたモンスターボールが床に散乱していて、足の踏み場もない状態だ。天井に片方だけ固定された蛍光灯が、ゆらゆらと振り子運動を繰り返す。 そしてその部屋の中央で、テーブルの上にすくりと立ったクチート――見紛うことなき「ちぃ」が、後ろの巨大な顎をいっぱいに開いて、今まさに破壊光線を撃たんとしていた。 「ちぃ、待て!! ストップ!!」 ピクリ、とオレンジの小柄な肩が震えた。その目が俺の姿を捕らえて、顎に収束されていたエネルギー体がどんどんと小さくなっていく。後ろで様子を伺っていたジョーイさん達から一斉に安堵のため息が漏れる。 「ちぃ!」 もう一度名前を呼ぶと、ちぃはこちらをくるりと向いて、テーブルからぴょこんと飛び降りるとこちらにテトテトと走り寄ってきた。 「ちぃ、良かった大丈夫か――」 ちぃがくるりとこちらに背を向けたのを見て、ふと言葉を切る。 目の前でこれ以上ないほどに大きく開かれた灰色の顎を見て。 「ちぃ……?」 血飛沫が、綺麗に飛んだ。 「じっとしていてください!」 俺の前に立ちはだかったジョーイさんが、目ホエルオーを立てて怒鳴った。 「クチートに噛まれて、骨が無事だったことだけでも奇跡なんですよ!? 探しに行くなんて無茶言わないでください! ジュンサーさんにはこちらから連絡しておきますから!」 結局ちぃはあろうことか俺を後頭部のその巨大な灰色の顎で噛んで、ポケモンセンターから逃走した。咄嗟に自分を庇うように掲げた俺の右腕をは軽度の……とは言っても俺の人生の中じゃ一番出血が激しかったが、二十針ほどの怪我で終わった。彼女なりに手加減はしてくれたようだ。 確かにクチートのあの顎で本気の「噛み砕く」なんかをくらった日には人間の骨なんぞは木っ端微塵に違いない。俺の「ちぃを探しに行きたい」なんて言葉を聞いたジョーイさんが目ホエルオーを立てるのも当然のことなのだ。 「でもちぃは俺の唯一の相棒ですから」 俺も負けじと無傷の左手で机を叩く。ちぃが暴走したのは、おそらくセンターに置いていかれて怒ったとかその辺りだろうと思っていた。もしそうなら、ちぃの性格も考慮して自分が連れ戻さなくてはいけない。ちぃは俺の相棒なのだから。 俺の目を見て、ジョーイさんが頭を押さえた。 「……クチートをきちんとボールに収められたら、センターに戻ってきてくださいね。その右腕の怪我、応急処置しかできてないんですから」 街の中を、息を切らせて走る。何事かと振り向いた人が、俺の右腕の少し血の滲んだ包帯を見てぎょっとした顔をする。俺はちぃを探しているがしかし、道端には目もくれずひたすら足を動かす。 ちぃはきっと、街はずれの森にいるだろう。そう俺は思っていた。この街は実家に近いので昔からよく来ていたし、ここから近い森は綺麗な湖があってちぃのお気に入りの場所だった。二人――いや、一人と一匹で昔からよくピクニック気分で出掛けたものだ。 ちぃは俺の母親のクチートの子どもで、タマゴの時から知っている。可愛いクチートを想像して、タマゴに最初のひびが入った時は徹夜で見守ったのに、最初に出てきたのは角が変形したというあの大顎で、まだ子どもだった俺はビビって泣いた。 それでも俺にとっては特別な存在で、どこに行くにも一緒だったし、トレーナーとして家を出たときもパートナーとして当たり前のように俺についてきた。 そういえば旅に出たばかりの頃も、こうして喧嘩したことがある。その頃ちぃは人見知りが激しくて、まともにバトルすらできない状態だった。だから俺が博士に頼んでちぃを助けてくれる新しいポケモンをもらおうとしたのだ。 ちぃは怒った。というか拗ねた。自分以外に俺のパートナーは許さないと、モンスターボールから出てきてくれなかったのだ。……次の日の晩、お腹を空かせて自分から出てきたけど。 いた。湖のほとりにクチートが一匹、佇んでいる。 その後ろ姿はとても寂しげで、俺は少しどきりとした。そっと近づいて、1メートルほど距離を置いて立ち止まる。 「ちぃ」 声を掛けると、ちぃはびっくりしたように振り返った。その猫に似た目が、赤い。 「泣いてたのか、ちぃ」 できるだけ優しく声を掛けると、ちぃがまたぼろぼろと泣きながら走ってきた。身構える暇もなく飛びつかれる。今度は小柄なオレンジの身体で。 ああ、タマゴから孵ったばかりの君は、あの頃の俺の両手にさえ乗っかるほど小さかったのに。 「よしよし……って、痛いよ……」 ちぃを支える右腕の包帯に、また少し血が滲んだ。それを見てちぃが慌てて俺から飛び降りると、小さな両手でそっと右手を包み込み、額をコツンと当てた。 「……?」 痛みがみるみる引いていく。そっと包帯をめくったら、傷口が目の前でどんどんふさがって、あっという間にかさぶたになってしまった。 《痛み分け》 唖然とする俺の顔を見て、ちぃが自分の右腕を見せてちょっと得意げに笑った。そこにはさっきまでなかったはずの、小さなかさぶたが円形に並んでいる。 「……そういや母さんのクチート、痛み分け覚えてたよな……」 ジョーイさんに見せたらなんと言われるだろうかと、まったく関係のないことをふと思った。 「そういえばさ、ちぃ」 夜泊まるために借りたポケモンセンターの狭い個室に荷物を置きながら、俺はクチートに向き直る。 「なんで怒ってたんだ?」 「……」 ちぃは膨れっ面をして答えようとしない。 ちぃがこちらを見ていないのを横目で確認して、俺は降ろしたバックの中から小さな箱を取り出した。 「お前をセンターに預けたまま出掛けたから怒ったのか?」 ちぃがこちらを振り返る。それを予想していた俺は、その目の前に小さな指輪を差し出した。 「ごめん、これ買いに行ってたんだ」 人の指には入らないだろう、小さな小さな指輪。ちぃの瞳が、大きく見開かれる。 「今日ちぃの誕生日だろ? 本人の目の前で誕生日プレゼント買うなんて面白くないじゃないか。だからちぃをどこかに預けなきゃいけなかったんだ」 俺はちぃの左手をそっと持ち上げると、包帯の外れたばかりの右手で指輪をはめてやった。ちぃは驚いたまま固まっている。 「……ひょっとして、自分の誕生日覚えてなかった?」 からかうように言うと、ちぃがくるりと俺に背を向けて灰色の顎をぱかりと開けた。 「ちょっと、いや、悪かったって!」 本当はほとんどのポケモンは字が読めないから、自分の誕生日をおおまかな時期でしか掴めなくて当然なのだ。 後ろの顎をこちらに向けたままちぃがしばらく動かないので、どうしたのだろうと様子を伺うと、指にはめた小さな指輪を嬉しそうにずっと眺めていた。 ……なんかいろいろあったけど、とにかくこれでめでたしめでたしだよな。俺は心の中で小さく安堵のため息をついた。 ちなみにその後ジョーイさんに笑顔で巨額のポケモンセンターの修理代を請求されて、ちっともめでたしではなかったのだが、それはまあ後の話である。 (4157文字) 〔作品一覧もどる〕
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