一個の同僚へ、祝福を 「ねぇ、私が死ぬのとこの子が生まれるの、どっちが先だと思う?」 その時、彼女は泣いていた。 男と女ではやはり、子供に対して感じ方が違うらしい。 単純に言葉にしてもそうだ。「母性」なんて言葉は、多少鼻に着くが、言わんとすることはわざわざ辞書を引かなくても、なんとなく分かる。ところが、「父性」と聞くとなにか言葉としてイメージしづらいものがあるのはきっと、男よりも女の方が子供に近いからだろう。 俺がそんな事を考えるようになったのは、つい最近からだ。 男の俺には最後の時まで、彼女の苦しみが分からなかった。 女タマゴとしての、苦しみが。 俺が「白いの」から出てきたときの事、そこにはすでに一個、保育器として働いく女タマゴがいた。 「白いの」とは、俺の中にいるガキの母親の事だ。俺にしてみれば、血のつながりも情もない、ただの白い鳥ポケモンだから、母親と呼ぶ気にはとてもなれない。たった一個の同僚である、彼女によれば、ポケモンにはそれぞれ種族名があるらしいから、本当はその名で呼べたら一番いいのだが、知らないので、便宜的に俺はいつも「白いの」と呼んでいる。 俺達が住んでいる、素晴らしきオンボロ巣は、小さな孤島の崖の上にある。初めて「白いの」から出てきた瞬間、その圧巻の景色を見て心底感動したものだ。しかし、良かったのはその一瞬だけだった。小枝と枯草を敷き詰めただけの粗末な巣の中に落とされた時は、体が砕けるかと思った。しかも、海風が冷たすぎて、居心地は最悪。「白いの」が俺の上に乗っかって温めてくれてはいるが、奴の匂いがあんまり臭すぎて、睡眠どころの話じゃない。 きわめつきは、あの女タマゴ。俺は、最初の挨拶から、あの女とは気が合わないと感じていた。 ――赤ちゃんが生まれてくるのが、楽しみね。 曲線に膨らんだ腹をさすりさすり、彼女が言った。 ――アホか。 俺はそれだけ言った。 俺達タマゴは保育器だ。中のガキが外へ出てくるまで、安全確実に守り抜くのは、それがタマゴの仕事だからだ。仕事が終われば、用済みだからタマゴは死ぬ。俺がどんな思いをして守り抜いてきてやったかなんて、これっぽっちも気にしないで、俺の中にいるガキは、いつか俺を殺す。 まったく楽しくない話だ。 それから俺は女タマゴを無視することにした。女タマゴの方は、どうにか俺との仲を良くしたいらしく、しょっちゅうご自慢の知識を披露してきたが、俺は一切彼女と会話をしなかった。 そうそう、女タマゴは、アホだったが、知識は驚くほどあった。 おかげで、俺にもそれなりに、不完全なもの(聞き流すだけだから)が多いが、知識がついた。 例えば、俺達の頭上を飛び越えていく、ポケモン達の名前や、そいつらの特徴。ここが孤島であることも彼女から聞いて知ったし、西の海の向こうには、とても大きな塔が立っていて、そこでは毎日山のように人間達が集まって「ポケモンバトル」って言うものをしているそうだ。逆に、東の海の向こうには、お城のような、とても綺麗な建物があって、同じくらい綺麗に着飾った人間達が、そこで毎日「パーティ」ってものをしているらしい。 それだけいろいろ知りながら、女タマゴには、「白いの」のことについて、ほとんど知識がないってことも分かった。 俺は彼女の話すあらゆる知識より、なぜそれらの事を知っているのかという事が、最も興味をそそった。彼女の知識は、この汚い巣から一歩も出れないタマゴが、知るはずのないことばかりだった。 「お母様が教えてくれたのよ。」 一度だけ、どうしても好奇心を抑えきれなくなり、俺は聞いた。 「教えてくれたぁ? あの、『白いの』がか?」 早速、怪しい展開になってきた。 「そうよ。お母様はいつだって私達にたくさんのお話をしてくださっているの。あなたにはまだその声が聞こえていないみたいだけど……」その声には、たっぷりと憐みがこもっていた。 彼女の声は、俺の中の何かを爆発させた。 何かは分からないが、俺は泣きたいような、怒鳴り散らしたいような、とにかくとても悲しい気持ちになった。 「ふん! あり得ないね! それなら、どうしてお前は、『白いの』自身の事を全然知らないんだよ?」 聞いてすぐ、今の質問は自分でも反吐が出そうな程、嫌らしい質問だと思った。触れてはいけなかった。俺は別に彼女を傷つけたい訳では無いのだ。 「それは……」彼女は口ごもった。 「ほーら! 本当は、話なんかしていないのさ。『白いの』が何をしゃべっていようが、俺達には、ずっと分からないんだよ!!」 すでに俺は自制が効かなくなっていた。嗚咽が出そうになるのを、必死で堪えた。 「そ、そんな事ないわ。あなたが、ちゃんとお母様の言葉に耳を貸さないからいけないのよ」少し怒った風に、彼女が言った。 女タマゴは俺の心配をよそに、とても冷静だった。俺は、自分の中の何かが、急速にしぼんでいくのを感じた。突然すべてが、馬鹿らしくなった。 「…………アホか。」 俺達はタマゴであって、ポケモンではない。「白いの」と俺達は、話せないし、親子でもない。だのに彼女は、あの鳥ポケモンを「お母様」と呼び、慕い、会話まですると言う。俺にしてみれば、そんなこと考えたくもない話だ。たった一個の同僚がこれでは、俺の方までどうにかなってしまいそうだ。 それからは、お互い何も話さない日が少しの間続いた。彼女の方は、もじもじしながら、話かけてくることが何度かあったが、その度俺は徹底的に無視した。 ところが、意外なことに、そんな日々は三日と持たずに終わった。 どうも、女タマゴの様子がおかしい。 表情は固いし、何も話さなくなった。「白いの」に対してまで、よそよそしくなっている気がする。 俺は、少しだけ、心配だった。別にあの女の気分なんか知ったことではないし、四六時中話しかけてこないのむしろはありがたいくらいだったが、たった一個の同僚が沈んでいては、俺まで暗くなってしまう。 「おい、なんかお前、最近やけにブルーじゃないか?」 つとめて明るく、最大サービスの陽気さで話しかけた。 しかし、帰ってきたのは予想外の反応だった。 「はぁ? あんたはいつまでそう、青いのよ!」 一瞬誰かと思ったが、間違いなくあの女タマゴだ。 豹変に驚いた俺は、ただただポカーンと彼女を見ていた。 「まったく、なんなのよ! 話しかけておいてそのバカ面は。用があるならさっさとしてくれない? 私はアンタなんかと顔を合わせるのも嫌なんだから」 おかしい。あの女タマゴとはとても思えない口ぶりだ。 「いやぁ……その……、最近なんだか様子が変だから……どうしたのかなぁ、って、思って……」自分でも情けなくなるような、弱弱しい声がでた。 「何も変わらないわよ! ほっといてちょうだい」 「でも……『白いの』にまで、なんだか……距離っていうか……冷たいっていうか……」 彼女はドキッとした。少なくとも俺にはそのように見えた。いつもなら、大切なお母様の話となれば、嬉々としてベラベラしゃべり出すというのに、おかしい。変だ。少しも嬉しそうな顔をしない。 「もう……いいのよ。……『白いの』の事は」 次にドキッとしたのは、俺の方だった。いや、ドキっとなんてレベルの驚きじゃない。俺に足がついていたら、手がついていたら、今すぐにも彼女の元へ駆け寄って、「どうしたんだ!」と、問い詰めていただろう。 しかし、俺はタマゴ。四肢はもちろん、骨も筋肉も俺にはない。 今ほど自分がタマゴであることを呪ったことは無い。 ――たった一個の同僚。 どれだけ気の合わない奴でも、やっぱり心配だ。俺にはあの女しかいないのだから。 さらに五回、日が昇った。 いや、正しくは、俺がそう推測したのだ。今朝は、太陽が見えなくなるほどの分厚い雲が空を覆っていて、夜と朝の区別があいまいだった。 五日前から彼女は何も話さない。俺の方からどれだけ話しかけても、いっさい無視。以前はしつこいほどペチャクチャ知識自慢を一方的に繰り広げていたあの女が、今ではただの石ころになってしまったかのように、じっと黙っている。 ――降りそうだな。 雨はタマゴの天敵だ。 ただ体が冷えるならまだしも、ぬれるとなるとなかなか温まらない。あんまり長く体を冷やしていると、中のガキに危険が及ぶ。保育器としての、俺の使命が果たせなくなってしまう。 そのうえ、今日は「白いの」が外へ出ていて、俺達タマゴには雨を防ぐ手立てがない。ずぶぬれになりながら、俺は「白いの」が帰ってくるのを待った。 そう、待っているのは俺だけだった。 女タマゴは、相変わらずボヤーンとしたまま、自分の危機的状況にすらまったく無頓着、といった様子だった。 「あー……、ねぇ……?」雨に加えて、彼女の醸し出す、なんとも言えない空気に、俺は我慢しきれず声をかけた。正直今の彼女に、返事を期待してもいないのだが。 ところが、 「……私ね……、もうすぐ死ぬの……」 「わっ、って、え、喋った!」驚いたあまり、素っ頓狂な声を出してしまった。 「ちゃんと聞いてよ!」ヒステリックに彼女が怒鳴った。近くで雷の落ちる音がした。 「ごめん」 「私ね……死ぬのなんて怖くないって思ってた。むしろ早く死にたいと思ってたくらいよ。だってそうでしょ。私が死ぬってことは、この子が生まれるってことなんだから」 俺は突然始まった、彼女の意味深な話にただ茫然としていた。雨が強く降る音がする。 「一週間くらい前よ。私、もうすぐこの子が生まれてくるって分かった。その時は、そりゃもう天にも昇るような、嬉しい気持ちでいっぱいだった」うっとりとして話す。 ますます彼女が、何を言いたのか分からず焦った。木々が風にしなって悲鳴を上げている。 「でもね、今、私怖いの……」 ゴロゴロ、ビシャー。ゴロゴロ、ビシャー。 「死にたくないの……」 ザァザァ、ビチビチ。ザァザァ、ビチビチ。 「この子に生まれてきて欲しくないの……」 ギィギィ、キュウキュウ。ギィギィ、キュウキュウ。 「ねぇ、アンタ、教えてよ」 ――え? 声にならない。あるいはその声は、あらゆる音に飲み込まれているのかもしれない。 「私が生まれるのとこの子が生まれるの、どっちが先だと思う?」 その時、彼女は泣いていた。 「―――」 短い返事。きっと、彼女には聞き取れなかっただろう。 「何ていったの? 聞こえない! もっと大きな――」 バサバサッ。 「白いの」が戻ってきた。あいつは一瞬で俺達をつつみ込んだ。女タマゴの声も、あっという間に消えてしまった。 翌朝、天気は晴れたが、うるさいのは相変わらずだった。 空では「白いの」がひっきりなしに鳴いているし、地上でも、「白いの」に負けないほどの音量で泣き声がしている。 「うるさーい! なくなー!」ついに俺はキレた。朝っぱらからうるさすぎる。 ――完全に無視。 たった一個の同僚は、今朝務めを果たした。だから今は俺だけ。少しだけ、ほんの少しだけだが、さびしい気もする。 「なぁ」俺の横でいつまでもビィビィ泣いている、ポケモンに話しかけてみた。しかしもちろん、まるで聞いちゃいない。 子供の姿はまるっちくて、「白いの」の子供というよりは、女タマゴに手足と顔がついただけのように見える。 「白いの」の子供が巣から出た。グズリながら、親を探しているみたいだ。空から思いっきり鳴き声がしているというのに、孵ってみても、アホな奴だ。 巣の外には、大きな水たまりができていた。ここの唯一の救いである日当たりのおかげで、陽光がキラキラとして、なかなか綺麗だ。 水たまりの前で子供が突然止まった。中を見てじーっと立っている。泣き声もやんだ。 「アホか」ふっと笑い言った。 それはそれは穏やかな笑みだった。 「生きてるじゃん」 空からひときわ大きな鳴き声がした。 母から子へ、俺からたった一個の同僚へ、精一杯の祝福。 水鏡に映った世界。トゲピーが笑った。 女タマゴが孵って数日。俺は退屈していた。だから、男だの女だのって、おかしな事を考えて過ごしてきた。でも、もうすぐそれも終わる。 ――ピキピキ、ピキピキ。 結局何も分からなかった。彼女の苦しみも、これから俺がどうなるかってことも。あの日の朝、あぁは言ったもの、水溜りを見て笑ったのが、子供だったのか、女タマゴだったのかってことも、実は自信がない。今さら情けない話だけど。 なぁ、そこのアンタ。後生だから教えてくれよ。アホな質問だってことは分かってる。でも、できることなら知っておきたい。俺にはもう時間がないんだ。 俺はこれから死ぬのかい? それとも生まれるのかい? (4558文字) 〔作品一覧もどる〕
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