ジェミニ 十歳。 それはポケモンを手にする資格を得られる年齢。旅に出るか、そのまま町で暮らすかを自分で選ぶ年齢でもある。大人ではない、けれど一人前として扱われる年齢だ。 恋心というものを覚えるには少しだけ遅いその時期に私の初恋はやってきた。 読書が好きで読んできた本の中には、当たり前のように恋愛小説もあったけれど、私は愛しいという思いを初めて体感した。文字通り体で感じた。 冬だというのに、彼に触れている部分は、いや全身が陽だまりの中にいるようにぽかぽかと暖かい。微睡という心地よい時間を感じさせてくれるそのぬくもりをもっと感じていたくて、強く抱き寄せる。彼は抵抗もしないで私に身を寄せてくれる。それが答えであるということを私は知っている。私には彼を必要だ。 布団さん、私にはあなたが必要です。 柔らかさと温かさを兼ね備えた最高の人です、本当に。この魅力は十人に聞けば十人がそうだと答えてくれるだろう。そのぐらい最高です。 夢の中でそう考えると、体が揺すぶられるのを感じる。 薄く目を開けるとそこにはよく見知った私の顔がある。 「起きなよ、カエデ。朝だよ」 冬の朝ほど、決断力が試されている時はないというのが持論の私だ。きっとこの声は私の良心が遅刻を未然に防ごうと告げているに違いない。 しかし、寒いと分かっているのに起きる人間がいるだろうか? いやいない。 私は大人しく再び目を瞑り、布団との添い寝を再開した。 「カエデ〜、起きてよ〜、カエデ〜」 何かの童謡らしきリズムに合わせての起きろコールをされるが起きるものか。 体を揺すぶられても、そこは私の良心、天使さん。やさしく揺さぶってるもんだからむしろ眠るのにちょうどいいぐらいだ。 そのまま夢の世界に戻ろうとしたところ。私は冷気に包まれた。 布団を剥がされたのだ。それに気付いて、布団を取り戻そうと体を起こした瞬間、 「やっと起きたわね」 「なひをひてるのよ?」 頬をつねられていた。つねっているのは私に似ている天使――ではなく、妹のキリだった。 キリが着ているのは、私と色違いのパジャマではなく、ジーンズに橙色のコートという服装だ。まだ寝ぼけているのかと頭を振って完全に意識を覚醒させるがやはり変わらない。室内なのに冬用の分厚いコートを着用。 「なんで部屋でコートなんて着てるのよ」 「今から学校に行くからよ」 学校に行くなら仕方ないかなぁ、と思う。思うがしかし、目覚ましが鳴った記憶はないし、お母さんも起こしに来ていない。特にお母さんが起こしに来て、起こすのを諦めるなんて信じられない。 首を傾げながら、近くの勉強机に乗る時計を見ると時間は六時。当然いつもはそんな時間に起きはしない。 胡乱げな目でキリを見上げれば、 「今日が何の日か忘れてる?」 なんだっけ? 朧気な記憶を探るけど、やはり早起きしなければならないような理由は思い出せない。 「今日はポケモントレーナーさんが来る日じゃない」 昨日先生が旅をしてるトレーナーさんに話を聞くと言っていたのは覚えてる。 でもそれって、 「学校に着いたら、順番にお話を聞くって話じゃなかった?」 「甘いわ、カエデ。メープルシロップをかけたホットケーキ並みよ」 「ホットケーキは好きだわ」 キリも好きだ。 「それはおいといて、早めに学校に行けば、トレーナーさんにポケモンを見せてもらえるかもしれないじゃない」 その考えの方こそ、と思わずにはいられなかったけれど、なるほどそうかもしれないと私は頷いた。 ダメならダメで仕方ないし、学校に早く行くのは悪いことじゃない。 私はドヤ顔のキリから服を受けとると冬の冷気に耐えながら着替え始めた。 お母さんに呆れ顔で早起きを誉められた。いつもこれぐらいならなぁ、とお弁当を渡してきたお母さんに愛想笑いをしながら、私とキリは家を出た。 外に出るとやはり寒い。手袋にニット帽、さらにコートのボタンをしっかりと閉めても、冬の冷気は身体を冷やす。 ここまで寒いなら雪でも降ればと思うが、土地柄のせいか降りはしない。 キリと身を寄せ合うようにして道を歩く。 雲が一つもない空は私のコートと同じ水色だ。とても綺麗だけど、暖かみのない色。他の季節とは違い、冬独特の色の抜け落ちた景色にこの色だと寒々しさがいや増してしまう。 学校への短い道でさえ、耐え難い寒さに感じるのはこの色のせいもあるんだろうな。 隣のキリも寒い寒いと言ってる。双子特有のシンクロニシティではなく、一般的な感覚だろうが。 私とキリが身を寄せ会いながら学校に着くと門の前には見知らぬ一人の男の子がいた。 小さい学校だから、知らない子がいるなんてことはないし、何より学校に通うどの男の子よりも背が高いのが遠目にも分かった。 大人ぐらいに大きいのだけど、男の子と言った方がぴったりな気がする。 誰だろうか。 私たちは互いに顔を見合っていると、男の子の方もこちらに気付いたようで、手を挙げながら近づいてきた。 日に焼けた肌と青色の目が特徴的だ。 「あ〜、学校ってここでいいんだよね?」 男の子は罰が悪そうに頭を掻きながら、そう言った。 歯並びの良さがよく分かる距離の笑顔は人懐っこい。やっぱり男の人というよりは男の子というのがしっくりくる。 「そうですよ」 「あ、やっぱり? でもそれにしたって人が誰もいないんだけど」 キリが答えると、今度は別の疑問がもたげてきたようだ。 今度は入れ替わりに私が答えた。 「あと五十分ぐらいはしないと人は来ませんよ」 キリのような考えを持つ子がいれば別ですけど、とは心の中でだけ付け足す。 「えぇっ! ホントに!」 信じられないのか、男の子が驚く。 大げさに仰け反る仕草はやけに様になっていた。 「いやぁ、朝早くに来てくれって言われたんだけど、早すぎたかな?」 「そうですね」 おどけるような調子の男の子に、私とキリはデュオで相槌を打つと三人でくすくすと笑った。 私たちはひとしきり笑い合うと、今更ながらに名前を知らないことに気付いた。 「モリモトカエデです」 「モリモトキリです」 私とキリは同時に頭を下げた。 「アラシヤマクヌギです。クヌギでいいよ」 「私もキリでいいよ」 「キリ! ……私もカエデでいいですよ。クヌギさん」 はいはーい、と元気良く手を挙げるキリに内心恥ずかしさを感じながら、私はこくこくと頷いた。 「呼び捨てでいいんだけどな」 「年上を呼び捨てにすることはできません」 「良いお母さんに育てられたんだね」 へぇーっと感嘆している男の子――クヌギさんの様子に、私とキリは思わず誇らしい気持ちになってしまう。 お母さんが好きということもあるけれど、クヌギさんの褒め方が上手いんだろう。心の底から人を褒めているのが分かるのだ。 「そんな良いお母さんに育てられたなら、俺が何をしてるかも当てられるかな」 「う〜、流石に難しいよ。ヒント頂戴」 「当てずっぽうでも言わなきゃ。最初からヒントはクイズとして面白くないよ」 からかうように笑うクヌギさんに、しかめっ面をするキリ。 私は信じられない程の勢いで打ち解けている二人を見比べながら、答えを言った。 「ポケモントレーナーでしょ?」 「ほら当たったじゃないか。キリちゃん」 「なんでなんで、カエデ?」 ほら、やってみなくちゃね、とキリに向かって笑ってみせるクヌギさんと驚くキリに、オーバーリアクションで背を反らしたときにベルトにモンスターボールがくくりつけられているのが見えたのだ、と私は説明した。 「うーん、このクイズであと五分は引っ張るつもりだったのになぁ」 と笑うクヌギさんに、私とキリは、それは引っ張り過ぎだと笑い合う。それに、そのぐらい引っ張っても皆が来るまであと三十分は優にある。 「そういえば、ここにはなんのために来たんですか? ジムとかもないのに」 「次のジムへの通り道さ。この街を通るって言ったら、お袋の知り合いでここの先生をしてる人がいて、是非来てくれって言われたんだ。急ぐ旅でもないから来ることにしたって訳」 「へぇ、そうなんですか」 「それにしても本当にあと三十分どうしよっかな……」 先生が鍵を開けない限りは学校の中に入れないし、家に戻るには中途半端な時間とも言える。 それになによりクヌギさんはポケモントレーナーなのだ。 となれば、私たちがクヌギさんに言うことは一つしかない。 キリの言う通りにして良かった。 「ポケモンを見せて下さい」 驚きながらも、クヌギさんは言った。 「うん、じゃあ早くきてくれたしね。サービスだ」 クヌギさんの両側を挟むようにして頼む私たちに、彼は苦笑しながらボールを放った。 そこに出てきたのは人間を乗せやすいように鞍をつけた茶色の毛玉に二本の足と頭が生えたようなシルエットを持つポケモン。 なんだっけ、飛べない鳥ポケモンという所までは出掛かってるのだけど、 「ドードーだ!」 今度はキリが答えた。 「そう、ドードーのジェンとミニー。左の頭がジェンで右がミニー」 「二人で一匹なんですね」 頭が二つのポケモン。二人で一人、二人で二人という違いはあってもまるで私たちのようだ。なんとなく親近感。 ドードーが私に頭を擦り寄せてくる。右側のミニーだ。 「嘴の上を撫でると喜ぶんだ」 ジェンの方を言った通りに撫でるクヌギさんのやり方を見ながら、撫でる。つるつるとした感触は初めて触るので不思議な感じだ。 ジェンとミニーは嬉しそうに鳴いている。一人だけ蚊帳の外となっているキリは頬を膨らませていた。 クヌギさんはそれを見ると、ドードーをしゃがませた。 「キリちゃん、乗ってみる?」 「乗ります!」 威勢の良いのキリにクヌギさんは手綱を渡し、キリの身体を抱えて、ドードーに跨がらせた。 「走っている間はずっと前を見ること。それが上手く乗るコツだよ」 前を向いたキリが元気良く返事をすると、クヌギさんは横に移動する。 「こいつらのスタートって傍迷惑なぐらい砂を飛ばすからさ」 私の手を引きながら、クヌギさんは捕捉した。 それじゃあと横に――クヌギさん曰く安全圏に――避難すると、見計らったようにジェンとミニーは一層腰を落とす。 「いつもよりゆっくりな」 その言葉を皮切りにドードーは走り出した。 「早い早い早〜い!」 キリが悲鳴を上げているが、楽しそうだから問題ないだろう。 走る様子は坂道でマッハ自転車を漕いでいるように速かった。 「不思議なぐらいに頭が揺れませんね」 「あれはね、左右の頭を交互に下げることによって、バランスを取ってるからなんだ。本気を出してないっていうのもあるんだけどね」 「もっと速く走れるんですか?」 「街から街への移動だともっと長い直線を走るからね」 その説明に私は思わず目を見開いた。視線は変わらずキリの方でクノギさんは聞いてきた。 「そういえば、キリちゃんは旅に出たがってるの?」 「小説とかを読んでしきりに行きたいって言ってますよ」 本の登場人物のように悪の組織をやっつけたり、ポケモンリーグに出場したいと耳にタコができるぐらいだ。 「じゃあ、カエデちゃんも?」 私は答えることができなかった。 双子だから、と聞こえた気がしたから。 答えあぐねた私にクヌギさんは決まりが悪そうな表情をする。 失敗したなとは思う。しかし、なかったように返すにはその質問は重く、吐露するには個人的過ぎた。 双子だから、とはよく言われることなのに、いつまで経ってもそれは私に鉛を飲ませるような気分になるのだ。 私とキリは似ているとよく言われる。 その言葉は微笑み交じりに言われる褒め言葉ではなく、私たちが双子であるということの確認にしか過ぎない。 そう、妹のキリと私は双子なのだ。双子であるわたしたちを判別できるのは私たちだけだ。両親でさえ判別することはできない。 だから、私たちは判別するために色が割り当てられていた。 私は寒色系で、キリは暖色系。 分かりやすい違いだ。本当に分かりやすい。 ただ、それ以上に私たち姉妹の好きなものは分かりやすいぐらいに違っていた。 キリは外で遊ぶのが好きだ。擦り傷こそ作りはしないが、男友達と野山を駆け回ったり、公園でサッカーや野球をしたりと行ったことが多く、対する私は、図書室で本を読んだり、音楽を聴いたりと部屋で大人しくしているのが好きだった。 ただ、キリだって音楽を聴くことはあるし、私だって外で遊ぶこともあるから、他人にとってはその分かりやすい違いは些細なものであるらしい。好きな遊びや好きな音楽が似ている――私たちはかくれんぼが好きで、冒険小説が好きだ――からでもあるのだろう。 私は姉だ。キリは妹だ。でも、他の人たちにとって、キリは妹であり私は妹でもあるらしい。 私たちを判別するのは簡単ではない。似すぎているからだ。 結局授業が始まり、クヌギさんの話を聞く時になっても、その暗い気分が晴れることはなかった。 ジェンとミニーの上に乗ったことを夜遅くまで興奮気味に話すキリの姿を見るとより一層、気分が沈む。 キリは目が冴えに冴えたらしく、私が夢の世界に落ちる前まで旅について、話していた。もしかしたら、寝た後もしばらく。 目を覚ませば、昨日と同じ時間。 今朝のキリはぐっすりと眠っていた。 いつもなら寝てる時間だ。起きている昨日の方がおかしいのだから、私はキリを起こすことはしなかった。 かといって二度寝をしようとも思えなかった。 重い気分を消化しきれていないのだ。 それでいて、家にいることもできなかった私は昨日と同じように早めに学校に行くことにした。昨日と違うのは独りということだけだ。 クヌギさんは昨日のうちにここを出たということに気付いたのは、学校への道半ば。 昨日のように学校に行っても、意味はないと知っても、戻る気にはならなかった。 学校に行けば、やはり誰もいない。仕方なしに空を見上げていると、足音が聞こえる。 人間のものではない。疑問に思いながら、そちらを見やるとクヌギさんがジェンとミニーに乗って校庭の真ん中に居た。昨日と同じように手を挙げてやってきた。 「昨日のことが気になってたんだ」 「気にしてないです」 「そんなつっけんどんに言われても、はいそうですかとは言えないんだけど……」 「双子なんです。よく似てるんです……そんなの、いまさらなことなんですよ」 鏡合わせのように似た姿に不満はない。周りが見分けられないことに不平は言わない。 私とキリは双子だから、似ているのは当たり前。 キリと同じようにするんでしょというのは、いまさら。 私たちは似たようなものが好きで服だって色違いの同じもの。同じものをよく選ぶのだから、今度もそうでしょ、と聞かれるのは当たり前だ。だから、そのことに対して、怒っているわけじゃない。そもそも何かに対して怒っているわけでもない。 「そうじゃないんです」 そう思われることに納得はできる。 鏡に映った私が、鏡の前に立つ私と同じ動きをするように、キリと私は怒られるのも褒められるのも泣くのも一緒。キリと私は双子の姉妹だからだ。 「それではないんです」 クヌギさんは黙ったまま私の話を聞いている。 「旅に出ないと一人前になれないのかなって思うんです」 キリが旅に出たがっている。旅に出れば広い世界が見える。ここに戻ってくるのはいつだってできるのだから、世界を見てきた後でもいい。たとえ、望んだ結果を得られなくても別のものを得ることができる。それは事実だ。それらは私が旅に出る理由になれるだけの強さがある。 けれど、と溢れだすことがある。 その考えは井の中の蛙なのかもしれない。大海を知らないから言えるからかもしれない。しかし、井戸底の世界しか知らなくても、そこから見える空の高さを私は知っている。 それではいけないのだろうか。 「外の世界を知りたくないわけじゃない。旅に憧れてないわけじゃない。やってみたいと思っています。それでもキリと同じだと結局……」 それ以上に、モリモト姉妹という呼び方ではなく、双子という括りではなく、モリモトカエデという一個人として、旅に出るしかないのだろうか。 それだけならまだしも結局、キリと同じように旅をしても私たちは双子という場所から抜け出せないのではないかと思うのだ。 「カエデちゃんはカエデちゃん。キリちゃんはキリちゃん。姉妹だからってキリちゃんのことを気にしなくていいんだよ」 「気楽に言うんですね」 クヌギさんは私の気持ちをこれっぽっちも知らない。自然と溜息が出てしまった。前屈をするように屈む。オデコは曲げた足にくっつくけれど、気持ちだけは考えだけは深く沈んでいく。 鏡のように似ているからこそ、あらゆるものを共有するからこそ、私は悩むのだ。 キリがする行動は、私がもしもあのときに、と思う時に取っている行動なのかもしない。 そうだったときに上手くいけば、私はどうすればいいのだろうか。 「一人前っていうことは大人になるっていうこと。大人になるには自分で決めることが必要なものだから」 私の苦悩を知ってか知らずか、苦笑交じりに、彼は言ってくれた。 「その時の決断がその時に上手くいかなかったとしても、次に生かせればいいんだよ。一度の失敗が取り戻せないなんてことはあっても、次に生かそうと思えばそれでなんとかなるんだから」 その言葉は彼なりに考えてくれた答えなのだろう。旅に出て、大人になって感じたことなのだろう。それだけの強さを感じさせた。 「そうですか」 クヌギさんの言葉に私はそれ以上の言葉を返せない。 投げやりな言葉に、私は罵倒も感謝もできず、ただ受け入れることしかできなかった。 「望まれなかった道でも、望まれた道でも、決めた道でも、流された道でも、最後には報われるよ」 泣きたがっているようなほっとしているような表情をしながらの言葉は、実感したことがあるから言えるのだろう。 三年という年月を過ごすうちにそんな風に思ってしまう出来事を体験したのだろうなと、思わせるだけの感慨が見て取れた。 「そういうものですか」 クヌギさんの言葉に私はそれだけを返した。 悟ったような言葉が、私には正しいのか間違っているのか、分からなかったから。 クヌギさんは私の返事を聞くと、立ち上がった。彼の中でもこれ以上は言えないのだろう。 私は彼が腰に下げたボールに手を伸ばすのを座りながら見ている。 彼が出したのは、鞍を付けたドードー。ジェンとミニーだ。 名残を惜しむようにミニーが私にすり寄ってくる。くちばしを撫でると最初に触った時と同じエナメルに似た質感を感じる。 ああすれば良かった、こうすれば良かったといつだって思ってしまう。この瞬間にだってもっと相応しい言葉があるはずだと考えてしまう。 どうすればいいのかと、戸惑う私を尻目にクヌギさんがドードーの胴をぽんぽんと叩いた。 主が旅立とうとする気配を察したのだろう、双頭の鳥は乗りやすいようにしゃがむ。 クヌギさんは、大切な旅の足にありがとうと声をかけながら背に乗った。 「所詮は他人の言ったことなんだ。右から左に聞き流すぐらいでちょうどいいと思うよ。大事なのは、さっきも言ったけれど、自分で決めることなんだから」 彼は苦笑交じりにそう締めくくった。 立ち上がったドードーは、こちらに背を向けるようにして次の目的地を見据えていた。 走りだしたら、脇目もふらずに走るのだと言っていたことを思い出す。 だから、スタートを切る前に、声が届くうちに私は言った。 「クヌギさんは他人なんかじゃありません」 私の言葉をカウントダウン代わりに使っているのか、ジェンとミニーは腰を落とす。最初の一歩のために力を溜めている。私はスタートのとばっちりを食らわないように真横に移動した。クヌギさんの目線が私を捉えている。先を促しているのが分かった。 彼らしいなと感じながら、私は胸に手を当てて言う。 「大切な友人です」 私の悩みに真剣に向かい合ってくれた人であり、誤魔化さないできちんと答えてくれた人でもあり、次に会った時にも話したい人であるクヌギさんを他人という冷たいカテゴリーに入れたくなかった。それだけは言いたかった。 クヌギさんが私の言葉に何を感じたのか、私には分からない。分からないけれど、彼はこらえきれないとでも言いたげに笑ってくれた。穏やかに、爽快に笑ってくれた後で、こう付け加えた。 「なら、話半分で聞いてよ」 「そうします」 どんな道でも報われるとは信じられないけれど、 「自分で考えて、すべきことを考えていきたいと思います」 「そっか」 したいことも未来のことも分からないけれど、今すべきことはそれを考えることじゃない。泣きながらではなく笑いながらこの友達と別れることだ。 「すいません。急いでいるのに」 「この程度なら誤差だから」 気にしなくていいとクヌギさんは屈託のない笑みを浮かべる。 よく笑う人だ。それがよく似合っている人だ。 ドードーに乗る彼の顔は私にとって見上げなきゃいけない高さで首が痛くなる。それでいて丁度いい高さだ。瞳が潤むのを感じながら、そう思った。 「そう言ってくれると助かります」 だから、私は笑えた。別れは悲しいけれど、笑って見送えるのだ。引き留めずに、彼が走り出すのを彼が走り出すのに相応しい表情で見送ろう。 この小さな決断が大人になるための糧となることを祈りながら、見送ろう。 「じゃあね、クヌギさん」 「じゃあね、カエデちゃん」 私たちは別れの言葉を送りあう。クヌギさんが前を向くと同時にドードーが走りだす。ポケモンとトレーナーは目標を目指して振り返らない。私はそれを知っている。彼らが教えてくれたからだ。 それでも、私は彼らの姿が道の彼方に消えるまで全力で手を振った。 涙が零れていても、彼には見えないのだから構わないだろう。 (8851文字) 〔作品一覧もどる〕
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