Shall We Dance?




 彼女には、目を覚ますと直ぐ、鏡に向かうと言う習慣があった。

 朝の日差しを寝床の中で、一杯に浴びて起きる常の日も、まだまだ薄暗い内から動き出し、暁の夢を振り払って出て行く特別な日も。
 思いっ切り羽を伸ばし、朝食と昼食が兼用になる休日の昼時も、そんな素朴な幸せを微塵に打ち砕かれた、急な呼び出しの電話の後でも。
 雨だろうと吹雪だろうと欠かさず行っているそれは、彼女のライフスタイルの中に於いて、非常に重要な位置を占めていた。

『力を抜いて。ありのままの自分を見つめて、今何が足りないかを感じ取るんだ――』

 耳の奥に、嘗て親しんだ床しき声が木霊すると共に、彼女の一日が始まる。




 彼女が一介のダンサーとしてこの国にやって来たのは、もう随分前。例年に無く雪深くなった冬を臨む、特別に紅葉の美しかった年の、明るい月夜の事だった。
 後にこの国では特別に、『十三夜』と言う言葉で言い表されている事を知ったその日の夜空は、あくまで煌々と輝いており、船から降り立った彼女は思わず感嘆の声を上げると共に、暫し両足をその場に止め、一心に空を見上げていた。

 背後を流れていく人の波も、それを迎える車両やポケモンの生み出す夾雑音も全く気にならず、先程まで身を置いていた船室の閉鎖された空間とは打って変わったその世界で、彼女は一人しんとする夜気を胸に抱き、肩に掛けた荷物の事も忘れて、無限の夜空を遠く彷徨う。
 突如として目の前に開けた、この広い世界。遮る物が何も見えないその場所で、まだ見ぬものに思いを馳せていた彼女は、自然と体が欲したものに従おうとしたところで、唐突に脇から声を掛けられて、現実に引き戻された。 
 振り返ったその先には、親切そうな風貌をした貨客船の船員が立っており、町中へと運んでくれるシャトルバスの存在を、目と指を用いて彼女に対して示してくれる。言葉はまだろくに伝わらなくとも、しっかりしたゼスチュアを交えたその忠告は、一介の異邦人に過ぎない彼女にも、十分に理会出来るものであった。

 相手の好意に身振り手振りで感謝の意を伝えると、沸き立つ歓びを足に込めようとしていた彼女はすんなりとそれを収め、町の中心へと旅人達を運んでくれる大型バスの乗車口に向けて、荷物をバタつかせつつ小走りに駆ける。
 ――その時はまだ、これから始まる新生活に、さしたる不安は覚えていなかった。


 けれどもやはり異郷でのスタートは、彼女が当初思い描いたほどに、スムーズに行くものではなかった。
 言葉の壁は勿論の事、文化や習慣の差異も覆うべくも無い毎日は、日常生活に支障が出るのみに止まらず、彼女の心理面に於いても、深い影を落としてゆく。
 漸く片言ながらも言葉の通じる相手を見つけ、「ダンスについて学べる場所を教えて欲しい」と質問したところ、連れて行かれた先がナイトクラブだったと言うオチは、今でも苦い思い出として、記憶の中に留められている。

 彼女がこの国にやって来たのは、この地方に息づく豊富な伝承に基づき、今尚大切に保存され続けている数々の伝統舞踊に直に触れて、ダンサーとしての自らの感性に、更なる磨きをかけたいと言う願いがあった為であった。 
 其処で彼女は、折に触れて足を運んでいた語学教室での鍛錬が一定の成果を上げ始めた所で、改めて落ち着く場所を見つける為に、内陸部に向け旅立つ事を決意する。
 漸くその空気にも慣れ始め、国際港でもあるこの町は、彼女の様な異国の人間でも比較的住み易く、言葉や習慣の壁も他の町より希薄である事は分かっていたものの、彼女は結局自らの抱いている思いに、背を向ける事が出来なかったのだ。




 そうして辿り着いたのが、今彼女が身を落ち着けている、このヨスガシティであった。
 シンオウ地方でも有数の大都市であるこの町には、コンテスト会場や触れ合い広場、公認ジムなどの様々なポケモン関連の施設が存在しており、大好きクラブの地方支部まで置かれている。またここヨスガは、全国でも指折りの福祉都市でもあり、その為常に移住希望者が後を絶たず、遠く海外からもそう言った人々が家族や自慢のポケモン達を連れて、毎年のようにこの町の周辺に越して来るのだ。

 そんな様々な人々の社交場の内、ポケモンを用いたバトルと言う形で交流を深めるのが、彼女の所属している、ポケモンジムと言う施設の役割である。
 住居にしている立派な住宅のドアを潜り、鮮やかな紫色のドレスを身に纏った彼女は、己の人生は勿論の事、その職業にとっても必要不可欠な存在である、仲間達が収まっているモンスターボールの感触を確かめながら、空気の澄み切った秋の早朝の空の下を、ゆっくりと目的地に向け歩み始めた。

 それに更に、実は今日の予定は、それだけではなかった。
 彼女は普段からポケモンコンテストにのめり込む余り、常にダンサーとしての正装でもある、日常生活には不向きな丈の長いドレスを着用していたが、今日は正式にその必要があって、その衣装を身に纏っていた。
 彼女の恩人でもある、とある人物から引き継いだ事業。ジムリーダーとしての職務を終えた後に予定されているその活動の為、彼女は今夜本来の職業である、一人のダンサーに立ち返るのだ。 




 その人物に出会ったのは、彼女がこの町に来て間も無い頃――短い北国の夏が過ぎ去り、夜半にかけて急速に冷え込む秋の色彩が深まって、間も無くこの土地での二度目の冬を、迎えようとしていた時の事であった。
 その時彼女は、このヨスガの町に数多ある福祉施設の一つで、大勢の入居者達を前に、得意のステップを披露していた。初めて足を踏み入れたにも拘らず、全く他人に対して頓着しないこの街の雰囲気に魅了されていた彼女は、偶々路上で出会い、身振り手振りを交えて身の上話を打ち明けた其処の職員に懇願されるままに、久し振りに自らの身に付けていた技芸を、他者の前で披露する事になったのである。

 本来ならば奏者無しに踊るような舞踏ではなかったし、久々に踊る事自体への不安もあったが、いざやってみると、そんな戸惑いは跡形も無く消し飛んだ。体が覚えているリズムに合わせて身を翻せば、気持ちは自然と嘗ての様を取り戻し、心の中に流れている唱歌や演奏が、舞踏と一体化している彼女の耳にしっかりと響く。
 夢中になって体を動かしている内、突然そんな彼女の耳に、力強い声援が飛び込んで来た。何処からとも無く浴びせられたその掛け声は、紛れも無く舞踏の様式に心得のある人物が発したものらしく、使われたその言葉のみならず、タイミングも込められた熱意も適切であり、この異国の地に於いて初めてそれに接した彼女の心を、驚きに満ちた喜びと共に、自然な形で燃え上がらせる。
 ますます挙措に気持ちを込め、ペースを上げて行くそんな彼女の動きに合わせるように、掛け声の主は尚も見事な声音と声量で、エールを送る事を止めようとしない。……やがてそれは、周囲の他の観客達をも巻き込んで、踊り続ける彼女を中心に、一つの渦を形成していく。

 フラメンコと言う舞踏には、演奏や歌と並んで重要視されるものに、『ハレオ』と呼ばれる掛け声がある。これは、場の演者達に対して周囲の観客達が自らの気持ちや感動を伝える意思表示の手段であると同時に、彼らと観衆とを繋ぎ一体化させる、非常に優れた架け橋でもあるのだ。
 ダンスと言うものに対し、どちらかと言うと関心の薄いこの国に於いては、こう言った作法や様式を理解している人間は、殆ど存在しない。……しかしそれ故に、こうしてその心得を所持している人間が場に一人でもいれば、そこから生み出される歓喜と熱意は、まさに計り知れないものがあった。
 本来ならば初めての人間には難しい筈の手拍子も、部屋の中一杯に波打つようなリズムに乗ってのそれであれば、全く演目を妨げるような事にはならず。やがて数年ぶりに持てる全てを出し尽くし、心地良い解放感と共に舞踏を終えた彼女は、周囲の観客達からの、熱狂的なまでの歓声に迎えられた。……そこには、この国の人間が普段見せているようなどこか遠慮めいた引き気味の姿勢は微塵も無く、上げられる喝采と賞賛の言葉には、今の彼女が感じているのと同じ、混じりけの無い純粋な歓びの感情が、溢れ返っていた。

 沸き立ち惜しみない拍手をくれる観客達に丁寧に一礼した後、彼女はこの場の空気を一変させ、自分の中で半ば眠りかけていたダンサーとしての魂を揺り起こしてくれた人物を、人垣の内に捜し求める。この国に渡って来てから、初めて自分と言う存在を、芯から理解してくれた人物――その相手に対し、どうしても一度面と向かって、謝礼の言葉を述べて置きたかった。

 その相手は、興奮の余り上気した顔で、一心に手を打ち叩いている数人の入居者達に囲まれて、静かに彼女を見詰めていた。周囲の人々とは違いあくまで優雅に、柔和な笑みを浮かべている白髪の紳士は、控えめな拍手を送りつつ、視線を合わせてきた彼女に向けて、ゆったりとした動作で一礼する。……再び顔を上げた相手の双眸に嵌めこまれた瞳が、この国では余り見られない透き通るようなブルーである事に気が付いたのは、その直後であった。  

 やがて初対面の彼女に向け、丁寧な口調で晩餐への招待の意向を伝えて来た彼は、続いて自分は此処の経営者であり、この町に於いて福祉事業を展開している者だと、自らの身分を簡潔に明かした。

 元々彼女と同じく異国の住人であった彼は、故あって母親と共にこの国に来てからは、様々な苦労をしつつ親子二人して生計を立て、母親が他界した後はその半生の殆ど全てを掛けて、己の事業の発展に邁進して来たのだと言う。

 漸く事業が軌道に乗った時には、既に老境へと差し掛かっていたと話す、目の前の紳士。そんな彼が残りの人生に於いて情熱を注ぐべき対象として選んだのが、ダンスやコンテストに代表される、今やこの町のもう一つの象徴ともなった、各種文化活動であった。

 そんな彼の勧めに従い、この町に身を落ち着けてみる事となった彼女は、やがて二つの言葉を自在に操る彼から、改めて会話の手ほどきを受けると同時に、彼が紳士の嗜みと称して身に付けている『社交ダンス』についても、同時に学ぶ事となる。

 その日の彼女は、彼本人の強い勧めに従い、居候として身を落ち着ける事となった広い住居の一角で、再び日課として取り入れたダンスの稽古を、一人黙々とこなしていた。
 するとその内、何時の間にか部屋に入って来て見物していた青い目の老紳士が、一息つこうと動きを止めた彼女に向け、こう声を掛けて来たのだ。

「貴女は一人で踊っているだけでは、少し勿体無いような気もしますな」

 驚いて振り返った彼女に向け、彼は「失礼」、と一言詫びた後、更にこう続ける。

「ペアー・ダンスも覚えてみてはいかがですか? 貴女のダンスには、見るものを引き込んで行く力があるようにお見受けします。ペアー・ダンスを身に付けておれば、実際に他の方とダンスを共にする事も出来ますから、貴女の持っている魅力を、もっとはっきりとした形で生かす事も出来るでしょう」

「如何です――?」、と彼女の意思を尋ねて来るジェントルマンのその目には、目の前に存在している相手の可能性を引き出させてやりたいと言う親切心が、ありありと窺えた。
 彼は常日頃から彼女に対し、もっと自らに対して自由に振舞う様にと、口癖の様に忠告して来ていた。……彼が言うには、舞踏とは常に心の発露であり、自らの内面の輝きを表現するその行為に於いて、鬱屈した感情や不満を抱えて臨む様な事は、決してあってはならないのだと言う。

「よく目や口元にその人間の心が浮かび上がるとは言いますが、それは何れも適切な表現とは言えません。……心の鏡と言うのは、元々私達の一部分をのみ差すべき言葉では決してなく、正しくは、私達そのものをこそ指すべきものなのです。人は偏にその心の内を映す鏡であり、従って曇った心の持ち主では、結局何を表現しどう振舞おうとも、見ている者の心を共感させ、震わせる事は出来ません」

 それが、彼の主張であった。彼は自らも舞踏を愛する者として、何時も同じダンサーである彼女の事を気遣い、及ばぬ部分を諭してくれていた。

 そんな彼の改まった勧めに対し、彼女は常日頃からの感謝の念や信頼感は勿論の事、本来の好奇心にも後押しされて、深く思い悩む事も無しに、直ぐにその場で承諾の意を示した。結果的に、それは彼の言葉どおり、ダンサーとしての彼女が持っている物に対して大きなプラス材料となったし、また熱心に指導してくれる相手との心の距離は、積み重ねられる数え切れないレッスンによって、急速に縮まって行った。
 その内彼女は、既に父親の様にすら感じられる様になっていたその老紳士から、更にポケモンを使った様々な活動―バトルやコンテストについても、同様に手ほどきを受ける事となる。……やがてその実力は、彼女の持ち前の向上心と、彼女自身ですら予想もしていなかった天性の才に支えられ、教える側であるベテラントレーナーのそれをも遥かに凌駕して、大きく花開く事となった。

 丁度その頃、ヨスガの町のジムリーダーが、ポケモン協会に辞任の届けを提出するという出来事があった。唐突の事態に慌てた協会側と町の代表達は、急遽一般からの公募と実力検定によって、空席となったジムリーダーの座を埋めるに相応しいトレーナーを、選出する事にしたのだった。
 当時既にその実力を広く知られていた彼女も、周囲の勧めにも後押しされて、この審査にエントリーすることに決める。

 そして、いよいよ当日の朝――興奮してろくに眠れなかった彼女は、何時もより早い時間に起き出し、そのまま身支度を終えた所で、既に目を覚まして他出の準備を整えていた、老ジェントルマンに迎えられた。
 予想もしていなかった展開に目を丸くし、相手の傍らに置かれた旅行カバンを見咎める彼女に対し、彼はあくまで柔和な笑みを浮かべたまま、彼女に向けて歩み寄って来た。次いで彼は、ゆっくりと白髭を蓄えたその口を開くと、戸惑う彼女に向けて、事の次第を説明し始める。


 彼は語った。己の過去を。彼は語った。埋めた記憶を。
 時は遡り、町は色褪せて。知己は舞い戻り、空は霞んで。
 遥か彼方に置き捨てた全てを、ただ淡々と嘆くでもなく、彼は彼女に話して聞かせた。

 自分は『ボートピープル』だと、彼はそう口にした。それは祖国を捨てて海原を彷徨った、郷無き民の呼び名であった。

 彼が生まれたのは、この国からずっと南西の方角にある、海に面した国であった。
 母は現地の富農の娘で、父は海外から派遣されて来た、他国の軍隊の一兵卒。……彼の瞳が碧いのは、金髪碧眼の偉丈夫だった、この父親の血を受け継いだ為であった。
 やがて内戦の渦中で父親が戦死した彼の一家は、敵方勢力の追求を逃れる為に、小さな漁船に身を任せて、燃える祖国を脱出した。
 幾日も蒼い砂漠に揺られ、乏しい食料を舐める様に浚っていた彼らは、付近を通りかかった貨物船に漸く拾い上げられて、何とかこの国に上陸する事が出来た。

 しかし漸く辿り着いたこの国も、当初は彼らを受け入れようとはせず、期限付きの滞在を辛うじて承認するばかりで、最早余力も行く当ても無い彼ら避難民に、救いの手を差し伸べようとはしなかった。
 祖国からの亡命を申請しても拒否され、援助や救援を乞うても、芳しく無い答えが返ってくる中、彼らを助けてくれたのは、この国を治める為政者達ではなく、彼らと同じ末端の庶民であった。彼らは個人から始まり小さな共同体へとその輪を広げ、やがてはこの国の姿勢自体を、断固とした力で変えて行く。
 最早国の指導者達にも、大きなうねりとなったその声を無視する事は出来ず、遂に彼らは正式に『難民』としてこの国に受け入れられると共に、公的な機関や組織から、生活の為の援助を受けられるようになったのだ。

 そしてその後は、彼女も知っている通りであった。


「貴女がここまで才気に溢れた方だとは、失礼ながらお会いした当初は、全く夢にも思っていませんでした。この数年の間、私は貴女から多くの事を学ばせて頂きましたし、また沢山のものを頂きました」

 その語り口こそ淡々としていたものの、目の前の相手から伝わってくるものは、一点の曇りも無い善意と、疑うべくも無いほどに確かな、深い情愛の念だった。
 それに触れた瞬間、彼女は自らもまた、今まで共に過ごした記憶の原を、脇目も振らず一心に駆け走って行くような、そんな錯覚を覚えると共に、自分が目の前の人物に対してどんな感情を抱いていたのかを、明確に悟る。

「またそのお陰で、ずっと踏ん切りの付かなかった夢を、もう一度追いかけてみる決心も付きました。最早感謝の言葉もありませんが、残念ながらお礼を致しましょうにも、私に出来る事はそう多くも無いですし、恥ずかしながら礼を逸する事無く気持ちを伝えられる方法も、これといって思いつかないのです……」

「ですから――」と続けた後、彼は彼女に向けて一歩踏み出すと、ゆったりとした優雅な動作で、軽く一礼する。
「Shall We Dance?」と言うその問い掛けに対し、彼女は間を置かず反応すると、自らも精一杯に気品を湛えた笑みで応えて、挨拶と共に片手を差し出し、相手と共に舞台に上がる。

 早朝の光の中、彼らは踊った。
 開いた窓からは爽やかな微風が入り込み、端に寄せられたカーテンの裾を静かに揺らすと同時に、ワルツに興じる両者の頬を、心地良い清涼感と共に擽って行く。お喋りな鳥達の戯れも密やかな葉擦れの音も、今はただ渾然一体となって、互いに息を合わせてステップを踏む両者の為に、即興の舞踏曲を奏で続ける。

 軽やかに動き続ける彼らの挙措に、全く乱れはない。その一体となった流麗な動きは、例え有名なプロの振り付け師が一ヶ月付きっ切りでレッスンしたところで、到底同じレベルまで漕ぎ着ける事は、出来なかったであろう。 
 意識して合わせるのではなく、更に手前の無意識の領域で繋がる、その瞬間――それは、覚えの無い人間には百言を持ってしても伝える事は出来ないし、逆にその何たるかを理解している人間には、説明するのに態々言葉を尽くす必要は無い。

 やがてゆっくりと最後のステップを踏み終わると、取り合っていた手と手を離し、互いに作法に倣って一礼する。
 再び顔を上げ終わった彼女が、心を通じ合わせたダンスパートナーによって伝えられたのは、彼が一度故郷に戻ってみる心算であると言う事と、その間彼女に対して、この地に残っている彼の一切の資産や事業の管理を、代理として引き継いで欲しいという懇願であった。

 そして、やがて彼は海の向こうへと旅立ち、残された彼女は見事に検定試験をトップの成績でパスして、新たなヨスガのジムリーダーとして迎えられる事となる。


 しかし――打って変わった忙しさに振り回されながらも、只管に再会の日を待ち続けていたそんな彼女の手元に届いたのは、故郷に向けて旅立った相手の、突然の他界の知らせであった。
 それによると、彼は無事祖国に戻り、最も恐れてた入国時の拘束も免れて、案じたよりも遥かに容易に、懐かしい故郷へと帰り着いたのであるが――生まれ故郷の村は既に内戦によって荒れ放題になっており、更に其処此処に仕掛けられていた無数の設置式の兵器の存在によって、復興が遅々として進まぬ状態だった。
 彼はそんな現状を打破すべく、村民の先頭に立って様々な活動を行っていた際、埋められていた対人地雷に引っ掛かって、敢え無い最期を遂げてしまったのである。

 彼女の手元に届いた遺言状には、『愛する人へ――』と言う宛名から始まり、所有していた資産や事業の権利や所有権を、全て彼女に引き渡すという故人の意思が、丁寧な筆跡で簡潔に纏められていた――




 部屋に入った彼女を迎えたのは、大勢の入居者達が生み出す、盛大な拍手であった。
 中央を広く空けた椅子の配置は、言うまでも無くこれから始まるイベントに、支障が出ない様にする為の措置。明るい雰囲気に包まれた即席の会場に立った彼女は、手渡されたマイクを口元まで持ち上げると、居並ぶ大勢の観客達に、少しだけ片言の混じる言葉で、はきはきとした挨拶を送る。
 施設のパトロンでもあるその人物の訪問を、居並ぶ老人達は心から喜んでおり、彼らの世話をしている職員達も、用意していたレコーダーのリモコンを構えて、ステージの幕が上がるのを、今か今かと心待ちにしている。

 老紳士が残した資産は、故人が生前行っていたのと同じ様な形態で、ほぼ全額が消費されていた。それらはこの町の施設の拡充やイベントの企画、彼の祖国への戦災復興義捐金などに当てられており、現在彼女の手元に残っているのは、嘗て共に過ごした住居と、直接送られたドレスや装身具が、幾つか残っているだけである。
 ……それで彼女は、別に構わなかった。多すぎる資産は使う当ての無い物であったし、本当に大切なものは、常に自分の中に生きていたから。


 一つ目の演目を終え、続いて場の人間全員が参加した、ペアー・ダンスに移行する中――彼女は一人人込を避け、暗い表情で俯いている老人に向けて、静かに歩み寄って行った。数日前に妻を亡くしたのだと職員に教わっていた彼が、近付いて来た自分に気が付いて顔を上げたところで、彼女はドレスの裾を持ち上げ、相手に向けて優雅に一礼してからダンスに誘う。
 彼女の口から発せられた言葉に戸惑い、尚も躊躇している相手に向けて重ねて誘いかけると、硬い表情で立ち上がる老人の手を取って、フロアの中央に導いて行く。


 嘗て彼女にペアー・ダンスを教えた紳士は、何時も彼女に同じ心得を繰り返していた。即ち、人は心の鏡であり、それを映すものを美しく輝かせるには、その元となる内面の曇りを、取り除かなければならないのだと。
 彼は語った。幸せを感じている者のみが、見ている者や周囲の者の心を、動かす事が出来るのだと。
 その為彼女は随分自らを変えようと努力したし、その結果として陽気な高笑いや踊るような身のこなしなどの、新しい習慣も増えた。恐らく昔の彼女を知る者が今の彼女を目の当たりにしたとしても、直ぐには同じ人物だと、気が付かない人間が多い事だろう。
 しかしそれもまた、些細な事に過ぎなかった。……何故なら今の彼女は、ダンサーとしてもトレーナーとしても、一番大切なその要素を、紛れも無しに身に付けることが、出来ていたのだから。


 共にステップを踏んでいる内に、徐々に相方である老人の表情から、暗い影が薄れて行った。やがて彼は、気が付けば自らの意思で相手をリードし、まだ若々しく軽やかな足捌きが可能な彼女が踊り易い様に、知らず知らずの内に、自らもペースを上げていた事を理解する。
 何時しか彼は、死者を悼む孤独な老人ではなく、一人の踊り手として舞台に立ち、自らの年齢や鬱屈も忘れて、目の前の出来事に、己の全てを注ぎ込んでいた。……その渦中に於いて、彼は自分でも意識しないままに、目の前のダンスパートナーに対し、床しき人の面影を重ねる。
 
 目の前で踊る老人の目に生き生きとした光が燈る様を、心から喜ばしく思いつつ、リードに合わせてステップを踏み、旋律に合わせて空を切る彼女は、より一層自らをして彼の良きパートナーであれるよう、挙措の一つ一つに心を込める。
 相手の幸福と自らとのそれが、完全に一体となる瞬間。その時を共に分かち合う為、踊り手達はその瞬間のみ、この世の全ての存在と自らの境界とを、完全に解放するのである。今この瞬間は、彼女は彼のダンスパートナーであると同時に、どんな知己よりも身近な存在であり、長年連れ添って来て今はもう側にいない筈の、彼の伴侶その人ですらあった。

 相手が自らの中に嘗ての伴侶を見出す事を、彼女は全く苦にはしない。……何故ならそれは、別に本質的には、何も変わらない事だったからだ。
 自意識の中から全ての境界を解放している今、彼の思いを受け止めるのはあくまで彼女自身であり、それが例え何者に向けられたものであろうとも、相手が其処に喜びを見出す事が出来るならば、何ほどの事でもないのだから。


 やがて曲が終わり、目の前の相手が先程まで抱いていた鬱屈した思いの影すら残さぬ晴々とした表情で、丁寧に一礼するのに応えた後。彼女は新たに周囲を見回すと、パートナーが去って手透きになっている別の老人に歩み寄って、気が付いて振り返った相手に向け、小腰を屈めて一礼する。
 礼を返す相手に向けての問い掛けは、勿論此処でも同じであった。



『Shall We Dance?』





(10000文字)