サニーゴの死骸




 遠くでカモネギの鳴き声が聞こえる。眼前には大海原。地平線に向けて突きだした崖は、まるで滑走路みたいだ。思わず飛びたい衝動に駆られる。それは自然な欲求だ。人間はいつだって飛びたいと思っている。遠くへ、遠くへ。出発した場所が見えなくなるくらい、遠くへ。
 腰を落とした。砂を掴んだ。人差し指を伸ばして地面に弧を描く。弧に沿って零れた砂が、風に舞う。ぼくはその瞬間、走り出す。カモネギの鳴き声が聞こえた。くぅ、くぅ。そんなふうに鳴く。鳴き声が足音に重なる。足音が鳴き声を追い越して、ぼくは加速する。海が揺れて、空が揺れて、そしてぼくは、飛び出した。
 一瞬の浮遊感。ぼくたちは翼を持っている。時間の上を飛んでいく翼だ。そいつは、たった数メートルだって飛んでいくことはできないけれど、時間を飛んで、いつかずっと遠くに行くことができる。今も、ぼくは飛んでいる。
 あっ、と思った。耳が浜風を捉えると、空気の集まる音がどんどん大きくなって、カモネギの鳴き声はやがて聞こえなくなった。視界は青に波打つ白で染まり、研ぎ澄まされていく。薄ぼんやりとした視界の端は揺れていた。青が迫る。ぼくは落ちている。思いっきり目を瞑り、顔の前で腕を交差する。その時、海が大きな鳴き声をあげてぼくを呑み込んだ。終わらない浮遊感。刺すような冷たさ。痺れる全身。躊躇いもせずに目を見開いた。命の空気を犠牲にして、青の世界に浸る。
 青の世界は、時間の上を飛んでいることを実感させてくれる。ぼくの命を奪おうとして、肺を締め上げてしまうから、時間はちゃんと動いていて、ぼくも飛んでいるのだということに気づく。
 しかし、所詮、そんなものは甘美な幻想でしかない。
 飛んでいる? 馬鹿な。
 ぼくはただ、墜ちているだけだ。



 その遊びはグライガーごっこと呼ばれていた。ただグライガーのように滑空して飛んでいく、名付け親のパートナーがグライガー、それだけで付けられた名前だ。名付けたのはヒロコだった。彼女はグライガーごっこを一番楽しそうに遊ぶ子であり、一番最初にやめていった子だった。みんな成長するにつれて、グライガーごっこを忘れていく。飛ぶ感覚を忘れて、地面を歩くことの安心を覚える。そんな変化は、どうしようもなく正しいことだけれど、ぼくには飛ぶことを忘れるなんてできなかった。ヒロコが抜けて、マイカが抜けて、リュウが抜けて、最後にぼくだけが残る。
 グライガーごっこはとても単純な遊びだ。滑走路のように突き出た崖の端から、適当な距離を取って線を引く。参加者は飛行ポケモンを出して、線に沿って横一列になり、合図と同時に走り出す。崖を飛ぶ瞬間、頭上を飛んでいた飛行ポケモンが背中を掴んで、滑空。その距離を競うのだ。一番遠くへ行った者が勝者だ。だからスタートは同時にする必要はないし、空を飛べなくても、グライガーのように滑空ができるポケモンなら使ってもいい。ただし、鳥ポケモンが羽ばたいていいのはトレーナーを掴んだその瞬間だけで、以降はただひたすら滑空に頼らなければいけない。
 あの頃は、そんな遊びに夢中だった。今、かつての仲間たちは遊びをやめて、ホウエン地方に行くことを夢見ている。トクサネシティにある研究所を目指して、ひたすら勉強している。
 飛び方が変わってしまったのだ。みんな、グライガーごっこでは遠くに飛んでいくことができないと分かってしまった。勉強だったら遠くに飛んでいけるのだと気づいてしまった。もちろん、ぼくだって知っている。知っているけれど、ぼくは自分に才能がないということも、知っている。
 


「ヒズミ、ちょっと付き合えよ」
 シャワーを浴びて二階の部屋に上がると、開けていた窓からそんな声が聞こえた。覗き込むと、リュウがいる。
「いいよ」返事をして外に出て行く。
 リュウはグレーのカーディガンを羽織っていて、片手には歴史学の参考書を持っていた。ぼくの片手にあるものは欠落感だけだ。
「行こうぜ」
 ポケットに手を突っ込んで先を歩く。波の音に向かって歩いて行く。ぼくもそれに続く。
「そろそろ受験だよな」
 言ってみると、抱えていた欠落感が大きくなった気がした。遠くへ飛ぶために、リュウもヒロコもマイカも、必死で勉強をしている。ぼくはそれについていくことができなかったから、三人との絆がどんどん小さくなっていって、いつからかそこには代わりの大きな穴が空いてしまっているのだ。
「もう、受験だよ。正直、受からないかもしれねぇ」
 先回りしてリュウは言った。波の音が聞こえてくる。
「お前が受からなかったら、誰が受かるんだよ」
「そんなもん」
 靴の下が砂浜に変わる。
「ヒロコに決まってんだろ」
 白砂を足でならして、リュウはそこに座った。少し間を空けて隣にぼくも座る。
「でも、リュウなら行けると思うけど」
 リュウが近くに落ちていた小さな貝殻を拾って海に投げる。音もなく波の隙間に消えていくのを見届けて、リュウは口を開いた。
「さんきゅ。でもやっぱ、そんな甘いもんじゃねぇよ。現実って」
 当事者が言うのだから、きっとそうなのだろう。必死で勉強することができないぼくにとっては、よく分からないことだ。
 波の音が途切れずに聞こえてしばらく、背中に何か物が当たって振り向く。同じようにリュウも振り向いた。そこにはメガネをかけたマイカの姿がある。当たった物は白い貝殻だった。
「久しぶり、ヒズミ」
 いきなりだったから、おう、と言うことしかできなかった。隣にマイカが座る。
「ついでだから呼んでおいたんだ」
「もしかしてヒロコも来るの?」
「まさか。あいつが来るわけないだろ。努力の天才が一番大切にしているのは時間だからな」
「私は本当の天才だけどね」
 マイカを見ると昔と変わらない笑顔だった。にっ、と口を広げて優しそうな目をするのだ。見た目は大して変わらないのに、中見ばかりが変わっていく。
「そうだった。ここにも天才がいたな」
 昔からマイカは大した努力もしないくせに、どんなことだってすぐに要領をつかんでこなしてきた。勉強だってそうだ。リュウの方が時間をかけているはずなのに、マイカは遊びの延長であるかのように、その努力をさらりと追い越してみせる。
 しかし。
「天才でも、ヒロコには敵わないもんな」
 皮肉混じりに言ってやると、マイカはむっとして頬を膨らませた。
「努力のできる天才には敵わないの。ヒズミなんてただの馬鹿なくせにー!」
 否定することができないから二の句がつげなくなる。気まずい空気が流れ始めたところで、リュウが口を開いた。
「そういえばさ」
 白い貝殻を拾って海に投げる。
「さっき、グライガーごっこしてただろ?」
「なんだ、見てたのか」
「おう。懐かしかったから、ヒズミがシャワー終わるまで待ち伏せしてたんだよ。今の時季って、寒くないの?」
 正直なところ、今の海はかなり寒い。浜風ですら冷たいのだから、海水が温かいはずがない。季節は秋も終わる頃。飛び込んで遊ぶにはあまりにも危険すぎる時季だ。
「寒いよ。でもほら、たまに飛びたくなるだろ」
「私、わかるかも、それ。無性に走りたくなるのと一緒だよね」
「そうそう、それ」
「いや、俺には分からないな」
 もう一つ、白い貝殻を海へ投げる。やはり音もなく青に呑まれていく。
「でもさ、グライガーごっこって懐かしいよな。あ、さっきは何でポケモン使わなかったんだ? あれじゃ、ただの飛び込みじゃないか」
 その理由は単純だ。競う相手がいなかったから。でもそんなことは口に出さない。
「ぼくたち、もう大人だろ。だから鳥ポケモンに掴んでもらうには重すぎる」
「本気でそんなこと言ってるのか?」
 リュウはポケットに手を突っ込んで、モンスターボールを取り出した。傍に放ると光を放つ。光は徐々に形を整えてヨルノズクになった。首をくるりと回すと光の粒子が散った。
「大人になったのは俺たちだけじゃないだろ。ほら、出してみ」
 私も。と言ってマイカもボールを放る。仕方ない。ぼくも続いてボールを転がした。
 マイカの方はオニドリル。ぼくはピジョットだ。三人とも手持ちの鳥ポケモンはしっかり進化していた。
「ほらみろ! やっぱり進化してるじゃないか。しっかし、昔はピジョンだったのになー」
「懐かしいよね。学校が分かれてからは全然会ってなかったし」
 四人のうち三人がエリートコースを進む中、ぼくだけはどうしても平凡な道にしか進めなかった。それでもたまには会ってくれるし、こうして語り合ったりもする。けれど、三人とも忙しくて、長い時間はとれず、ポケモンを出し合うのは本当に久しぶりのことだった。
「あの時は、四人で飛んでさ。俺が一番飛べて、ヒズミが一番飛べなかったんだ」
「ねぇ、捏造しないでよ。リュウもヒズミも二人揃って大したことなかったじゃん」
 男子二人が揃いも揃って女子二人に勝てなかったのは苦い思い出だ。
 リュウが、うえー、と口元を歪めてごまかしている。
「しかも、勝てないからってさ、いつも海に落ちた後は潜って珊瑚の死骸拾って、負けたこと誤魔化してたじゃん」
「あぁ、そんなこともあったな。あれって、勝手に珊瑚の死骸とか呼んでたけど、実際のところどうなんだろうな。やっぱりサニーゴの死骸かな」
 マイカが黙って目を細めた。ぼくも呆れてため息が出る。あの白い棒きれがどれほど多く海に沈んでいると思っているのだ。海に沈む夥しい量の白い珊瑚を想像して、それが本当に死骸だったらと思って気持ち悪くなる。波の音が聞こえて、カモネギの鳴き声も聞こえた。リュウは気まずそうに笑ってごまかす。全然おもしろい冗談じゃない。
「まぁ、分かんないけど。そ、そうだ。せっかくだから、飛ぼうぜ! グライガーごっこしよう!」
 えー、と不満を洩らしたのはぼくだ。だって、さっきやったのだし。もう一度シャワーを浴びるのは面倒だ。
「今日はやめておこうよ。どうせやるなら、ヒロコが居るときにしない?」
「そっか。どうせ来ないと思うけど、誘ってみるか」
 よっし。勢いをつけてリュウは立ち上がった。
「今日はありがとな。また気分転換したいときは連絡するから」
「なにそれ、自分の都合じゃん! ま、たまにはいいけど」
 ぼくも立ち上がって、ズボンについた砂を払う。
「ぼくはどうせ暇だし、いつでも誘ってよ」
 橙色が溶けた海は、時間が経つにつれて街に迫ってきているように見えた。
 アサギシティ。ここには大きな燈台と、翼を持ったぼくたちがいる。



「お待たせ。じゃ、やろっか」
 まさか、本当に来るとは。
 ヒロコが来るから。リュウからそんなことを言われて、燈台の前で待つこと数分。絶対に来るはずないと思っていた彼女がやってきた。もう受験直前と言っていいくらいの時期だ。マイカはともかく、リュウには余裕なんてないはずだけれど、気分転換に付き合ってくれと言われたら付き合わない理由はない。でもまさか、そこにヒロコが加わるなんて、誘ったリュウ本人ですら思ってなかったはずだ。
 ヒロコの傍らにはグライオンがいた。やはり進化しているのだ。ぼくたちはちゃんと時の上を飛んでいる。そして今から、飛んでいるのだと錯覚する遊戯を始めるのだ。あぁ、懐かしい。ぼくたちは、遊んでいるその間だけ、過去に流れていた時間の上を飛ぶことが出来る。郷愁や追憶の想いは、飛んだことのある時間の上を、再び飛ぶときに感じる想いなのだ。リュウが「おう」と返事をして線を引く。ほら、景色が変わり始めた。ぼくたちはまた、あの頃に戻ってきて、成長したカタチで遊ぶのだ。四人が線に沿って並び、四匹が飛ぶ準備をする。リュウが走り出した。ヨルノズクが後を追う。それから、マイカ。
「ほら、飛ばないの?」
 昔はいつもぼくが最後に飛んでいた。一番最後に走り出すほうが、どうしてだか安心できる。たぶんみんなが飛べるんだから、ぼくも。そんなふうに思ってしまうのだろう。
「まだ飛ばないよ。だって、ヒロコが飛んでないんだからね」
 ヒロコは笑って「そうだね」と言う。
「じゃあ、お先に!」
 走り出して、崖を飛ぶと、グライオンが掴んで滑空を始めた。
 ぼくも続いて走り出す。ピジョットが一鳴きして追ってくる。飛ぶ直前、背中に風を感じた。
 そして、飛び立つ。

 瞬間、ぼくは過去に戻った。
 
 いつだって地平線は変わらない。跳ぶ高さも距離も大した違いはない。ホーホーが小さな身体を精一杯広げて、幼き日のリュウに翼を貸す。その後ろで硬質の翼を広げるのはオニスズメ。不意に夕焼けが地平線の彼方に現れた。茜色に染まるオニスズメの身体は、小さいながらもマイカの背をしっかりと掴んでいる。二人を勢いよく追い越していったのは、グライガーだ。大の字になった少女のヒロコと一緒に滑空していく。どんどん遠くへ行って、ついに誰も届かないところに到達して着水した。マイカが二番目の位置に落ちて、ぼくがリュウを追い越して三番目。いつも、だいたいこんな順番だった。ぼくにとってのグライガーごっこは、飛んでいる錯覚を覚えるための遊戯だったけれど、何よりも、三人にぼくを加えた四人みんなで飛んでいるのだと実感するための遊戯でもあった。だから一番最後に飛び立つぼくは、地面を歩くことよりも飛んでいることに安心を覚えるのだ。ちゃんと三人とも、飛んでいるのだ、と。
 水面に触れると同時に、ピジョットは背中を放した。冬の海は身体を裂くような冷たさで、一瞬にして全身の感覚を奪い去っていく。それでもぼくは躊躇わない。目を見開いて潜る。そんなに深い場所ではないから水底はすぐだ。澄んだ海水を通した先に広がるのは夥しい量の白い珊瑚。そこに今は亡き街を垣間見る。白の珊瑚が廃退してしまった建造物の瓦礫を思わせるのだ。ぼくは小さい頃にそうしたように、手を伸ばして珊瑚の一つを手に取る。ぼくにとっての珊瑚の死骸は、文字通り何かの死骸で、廃退の象徴だった。生きる術を見いだせなかった白い欠片たちが転がる。まるで、誰か。飛び込んだ先の青の世界には、いつだって廃退の象徴があった。だからその世界は、所詮、甘美な幻想。
 思いっきり水面から顔を突き出して、大きく息を吸った。直後に後ろから叫び声が聞こえる。
「あー、また負けちまったよ!」
 振り向くと髪を濡らしたリュウが、悔しそうに水面から顔を出して浮いている。
「いっつもそうだ! 昔からいっつも! 俺がどんなに頑張ったって、ヒロコやマイカには届かない! いいよなぁ、神様に愛された天才たちはさ!」
 きっと疲れていたのだ。受験が近づいていて、それなのに勉強が捗らなくて。リュウの語尾は震えていた。それは寒さのせいばかりではないのだろう。
「それが本当に、努力してきた人の言う言葉?」
 さざ波に混じってヒロコの小さな声が聞こえる。近くで待機していたニョロトノがヒロコを乗せて、岸の方に泳いでいく。それから浜に上がって濡れた服を叩いて、リュウの方に向き直った。
「天才なんていう安っぽい一言で、私がしてきた努力を片付けないでよ!」
 ヒロコは海に背を向けた。歩くと黒い足跡が砂浜に残った。後ろ姿は寂しげで、儚く消えてしまいそうだった。波の音がした。渚を黒く染め上げてから退いていく。ヒロコの最初の足跡が消え、彼女の姿は街の中に消えた。
 何も言えないままリュウは海面に浮かぶ。小さな波音と供に、マイカがやって来て呟いた。
「どうしよう。ここまでみんな必死なのに、私、ちっとも悔しくないんだ」
 マイカの語尾もまた、震えていた。
 珊瑚の死骸が虚しく手の中に残った。



 来週なんだよ。マイカはそう言った。
 飛び出した崖の端に腰を下ろして、海の方に足を投げ出している。リュウもヒロコもいない。マイカと二人。
「来週、全部が終わっちゃうんだ」
 長かった受験勉強のことだ。不安そうな表情をしている。
「調子はどうなの? いけそう?」
 マイカは両手を後ろについて地平線を眺めている。ぼくもそれに倣った。
「私はね。だって、天才なんだ。私、天才なんだよ」
 まるで自分に言い聞かせるかのように繰り返した。
「でもね、天才なのに、グライガーごっこではヒロコに負けちゃった。勉強も負けてる。それなのに、全然悔しくない。なんで? 本当は、あの時リュウが叫んだ言葉は、私が言うはずだったんだ。私が言わなきゃいけなかったんだ。ヒロコは神様に愛されている……」
 それは違うよ。ぼくは遮る。
「ヒロコは神様に愛されてなんかいない。ただ、できる限りの努力をしてきただけだ。そう言ってたじゃないか」
 きっとマイカも不安なんだ。あと一週間でずっと続けてきたことの決着がつく。その結果によっては遠くへ飛ぶこともできるのだから、ぼくでも理解できるような単純な判断が、分からなくなるくらい不安にもなる。
「そうだよね……。これも同じか。神様なんていう安っぽい言葉で、ヒロコの努力を片付けちゃいけないんだね。でも、なんでかな。ちっとも悔しくない」
 その時、浜風が吹いた。思わずその寒さに身震いする。波の音が大きくなって、なおさら寒くなったような気がした。
「いや」
 落ち着いた日々を過ごすぼくだからこそ、三人にかけてあげられる言葉があるのかもしれない。だとしたら、ありのままを教えてあげればいいのだ。
「マイカはちゃんと悔しがってるよ。ちっとも悔しくないなんて、らしくない強がりを言うくらいには」
 目をまん丸くしたマイカがこっちを向いた。それから昔と変わらない微笑みをこぼす。
「気づかせてくれてありがとう。私、がんばるね」



 一週間はすぐに過ぎた。寒すぎる朝のせいで布団から出られない。ピジョットが嘴を使って、器用に布団をはがそうとするのが鬱陶しかった。挙句には耳元で鳴く。顔を歪めながら起き上がると、ピジョットは真剣な表情で見つめてきた。時計を見るとまだ早朝だ。
 嫌な予感がした。
 布団をどかしてベッドから出る。コートを羽織って部屋を出た。階段を足早に駆け下りてリビングへ。誰も居ない。いつもより少しだけ寒いリビングに違和感を覚えて、風の通って来る方向へ歩くと玄関があった。ドアは開いていて、その先に母親がいる。心配そうに見つめる先には、ポケモンセンターがある。周辺の家でも、同じように人が出てきている。
 靴下も履かないでスニーカーに足を突っ込んだ。母親の横を過ぎて走り出す。冷たい風が背中を押した。ポケモンセンターに入り、人間用の診療窓口に向かう。声をかけようとしたら奥から声が聞こえた。
 なんでだよ!
 それは聞き慣れた声だった。ぼくは診療窓口を無視して奥へ走る。すれ違ったジョーイさんに何事か言われたけれど、返事をする余裕すらなかった。突き当たりで周囲を見渡すと右の廊下に二人の姿があった。リュウとマイカ。
 なんでなんだよ!
 リュウが悔しそうな様子で壁に手をついている。ぼくは息を整えながらゆっくりと近づいていく。いつも以上に心臓が跳ねている。
 何をする部屋なのかは分からないが、設置された椅子の横にある扉は、静かに閉ざされていた。
「何があったの?」
 ぼくが聞いてみるとリュウは俯いたまま言った。
「ヒロコが飛んだんだ。この寒い中、独りで……くそっ。そんなんで運ばれてきたんだよ! 今日は受験当日だってのに!」
 治まりかけていた心臓の動きがまた激しくなった。この扉の先にはヒロコがいる。今日で全てが終わるのに、ヒロコはこの部屋に閉じ込められたまま、何もできないまま、全てを終わらされてしまう。飛ぶこともできぬまま。
「こんなんで勝っても、嬉しくないんだよ……」
「リュウ」マイカが小さく呼んだ。
「そろそろ行かなきゃ。間に合わないよ」
 リュウは声にならない音を息と一緒に吐き出して、扉から離れた。
「ヒズミ。ヒロコをお願い。私たち、ヒロコのためにも絶対合格してくるから」
 廊下には、ぼくと静けさだけが残った。
 
 
   
 正午くらいになって日が出てきた頃、ようやく病室でヒロコに会うことができた。上半身だけを起こして、足を布団に入れている。窓の外を眺めるヒロコは、ひどく儚げだった。
「おはよう、ヒズミ」
 何事もなかったかのように話しかけてくる。だから、ぼくも「おはよう」と返すしかなかった。ベッドの近くにあった背もたれのない丸い椅子を引いて座る。
「今頃、リュウとマイカは頑張ってるのかな」
「まるで他人事だね。本当ならヒロコだって頑張ってるはずの時間だったのに」
 ふふっ、ヒロコはおかしそうに笑った。
「私、もう受かってるんだ」
「え?」
「推薦で受かっちゃった。そうでもなきゃ、あの日グライガーごっこに付き合ったりしないよ」
 なぜだか一気に疲れた。深いため息と供に気が抜けていく。このままどっかに倒れ込んでしまいたいくらいだった。こっちは心配してご飯もろくに食べてないし、睡眠時間だって短かったのだから。
「なんでこんな危ないことしたの?」
「海に飛び込んだこと? ちゃんとニョロトノ待機させてたし、危なくはなかったんだよ」
「そうじゃなくてさ」
「わかってる。なんで飛び込んだのかってことでしょ?」
 そう。ぼくが頷くとヒロコは窓の外を眺めた。
「わからないの?」
「うん」再び頷く。
「ヒズミ、よく言ってたよね。人間はいつでも飛びたくて、いつでも飛べる翼を持っているって。今でもそう思ってるの?」
 心の中を見透かされた気がして、少しだけ言葉に詰まった。みんな、飛ぶことを忘れてなんかいなかったんだ。黙っているとそれを肯定と思ったのか、ヒロコは話を続ける。
「気づいてないのかな。四人の中で飛んでないのは、ヒズミだけなんだよ」
 あぁ。そうだ。本当は気づいている。ぼくは堕落するばかりで、いつまでたっても飛んでいけない。ぼくには才能なんてないし、努力をしようと思えるほどのものすら見えていない。
「そろそろ飛んでほしかったんだ。どうせ、昔を引きずってどんどん墜ちているだけなんでしょ」
「すごいね、そのとおりだよ……」
 ぼくは力なく返事をする。
「やっぱりね」ヒロコは笑った。
「そんな君にプレゼントがあります」
 そう言って布団の中に手を突っ込み、満面の笑みを浮かべてぼくに両手を突き出す。それは、白い欠片だった。
「もしかして、これを取るために海に飛び込んだの?」
「それもあったよ。でも私がちょっと無理するだけで、リュウとマイカは頑張ってくれるだろうし、君に話すことも説得力が出るかなって。そういうわけで、はい、君への贈り物」
 贈り物と言っても海へ行けばいくらでもあるものだ。とりあえず「ありがとう」とだけ返事をして受け取ると、ヒロコは満足そうに語り出した。
「これ、昔リュウが散々サニーゴの死骸だって言ってたよね。実は、それってあながち間違いでもないんだ。サニーゴの背だか頭だかに生えてるサンゴってさ、生え替わるんだよね。骨格を形作る石灰質が落ちて、それで出来た物があの白い珊瑚」
 だからね、と言って続ける。
「この白い珊瑚は成長の証なんだ。人間で言えば乳歯みたいなものだよ。私もね、こういうことは勉強して分かったんだ。私もちゃんと成長してる。でも、ヒズミはまだまだ成長してないよね」
 だからさ。

 そろそろ、飛ぼうよ。

 そのたった一言はとても重い。それなのに、ぼくを過去に繋ぎ止めていた何かをすっかり払って、ぼくの翼は軽くなった気がした。
「ヒロコ、ありがとう」
 笑うつもりだったのに、どうしてだか頬を涙が伝っていった。右手に持ったサニーゴの死骸が、欠落感を埋めていく。ぼくを気遣ってくれる人がいる。昔みたいに。
「ほら、いってらっしゃい」
 その言葉に後押しされて、ぼくは再び駈け出す。病院内は走っちゃいけないのだろうけれど、そんなことも無視して外へ出る。カモネギの鳴き声を背中に聞いた。前方からはさざ波の音。燈台が見えてきた。家の前を通るときに一声叫ぶと、ピジョットが頭上を飛ぶ。行くよ。その一言でピジョットは燈台の外壁を這うように高度を上げていった。ぼくは燈台に入って階段を駆け上がる。響く甲高い音。高鳴る心臓。光を浴びた。頂上に続く扉を開け放ち、外に出る。ピジョットが精一杯の鳴き声を上げた。ぼくは躊躇いもせずに飛び上がって、手すりを蹴った。ピジョットが背中を掴んで引き上げる。
 海、空、太陽、地平線。
 飛び出したぼくの目には、ずっと遠くの景色が映った。ぼくの翼は時の上で羽ばたき、ひたすら遠くを目指して飛んで行く。翼を降り上げ、風を叩くかのように振り下ろすと、高度は上がる。力の限り繰り返して、加速。
 そして顔を上げ、未だ見えない目的地を見据える。その途中には、成長した三人の後ろ姿があるのだ。

 ぼくが飛び立つのは、いつだって一番最後だ。





(9982文字)